世界遺産・富岡製糸場をめぐる旅。未来へ継承するべき理由に迫る【前編】
富岡では、シルクそばやシルクうどんの店もありますよ」と教えてくれた。しかし平日だというのに人出が多い。世界遺産に登録される前と比べると、多い日で3倍以上の入場者数になっているとか。
製糸場の条件に適した町、そして設計者の故郷に似ていたとも!?
そもそも製糸場がどうして富岡市に建てられたのか?工場造ることに決めた明治政府は、まずは建設のための指導者としてフランス人の技術者ポール・ブリュナを雇い入れる。ブリュナは「養蚕が盛んで原料の繭が確保しやすいこと、工場用の広い敷地や製糸に必要な水が確保できること、外国人指導の工場建設への住民賛同が得られること、燃料の石炭が近くで獲れること」を条件に、いくつかの候補地を調査する。その条件すべてに当てはまっていた富岡が選ばれたのだが、さらに「製糸場から見える光景が、プリュナ氏の故郷のブール・ド・ペアージュの景色を思わせたことも決め手になったと言われています。私も実際に訪れたのですが、山並みや川の流れがよく似ていましてね」と長谷川さん。今も変わらない稲含山や曲線を描いて流れる鏑川、そんな富岡ならではの自然景観も工場誘致に貢献したのかもしれない。
フランスの智恵と日本の職人技の融合した製糸場
明治3年に建設計画がはじまり、2年後には現在見学コースになっている東繭倉庫や西繭倉庫(外観見学のみ)