池波志乃語る終活「遺された写真は負担…自分で1万枚捨てました」
だった。ようやく退院した直後、末期がんの闘病中だった母が亡くなってしまう。
「そして、私の入院の半年後には夫が急性肺炎で倒れ、ICUに運び込まれました。一時は“死亡会見”の場所を探さねばならないと考えるほど、重篤な状態でした」
なんとか中尾さんは一命を取り留めた。一連の経験が、志乃さんに、変化をもたらしたという。
死んだ後に迷惑をかけちゃいけない。きちんと片付けないといけないという気持ちになったんです。特に私たち夫婦は子どもを持たないという選択をしましたから」
そして’13年ごろ、志乃さんの提案で遺言状を作った。
「公証人の方にお願いして、法的に有効なものにしてもらいました。でも、すぐそれだけでは不十分だと思うようになったんです」
当時、東京の自宅のほかに、沖縄のマンションと、中尾さんが絵を描くときに使う千葉のアトリエ、さらに美術品や服飾品、家具、写真など、夫婦はさまざまなものを所有していた。だが、これらを遺しても、きょうだいや甥、姪などの親族の負担になるのではないか、と考えるようになったのだ。夫婦は財産の処分を始める。志乃さんはまだ50代だった。
「今思えば、早く始めてよかったと思います。