2020年9がつ27日に急逝し、多くの人から悲しむ声や驚く声が上がった、俳優として活躍していた竹内結子さんの訃報。仕事や家庭が順調に見えた竹内さんが40歳という若さで亡くなり、芸能界でも戸惑う人が絶えません。『サッポロ一番』が竹内結子さんの追悼動画を公開竹内さんは2015年からおよそ6年にわたり、サンヨー食品の『サッポロ一番』でブランドのCMキャラクターを務めていました。サンヨー食品は竹内さんの訃報を受け、同月28日にウェブサイトで追悼コメントを公開しています。『サッポロ一番』が竹内結子さんを追悼ネット上で「ありがとう」「これからも食べます」の声続出同月30日、サンヨー食品はYouTubeに『竹内結子さん、ありがとう。』というタイトルの動画を公開。竹内さんが『サッポロ一番』のCMに出演した姿をまとめ、改めて感謝の気持ちを送りました。笑顔で料理をしたり、食事をしたりと、見ているだけでこちらも自然と頬がゆるむ竹内さんの姿。「たくさんのアイラブユーをありがとう」というメッセージがあるように、きっと竹内さんはこれらのCMを通して、全国の人にたくさんの笑顔を届けたことでしょう。竹内さんの素敵な温かい笑顔は、今後も数々の映像作品の中で生き続け、幸せを届けてくれるはずです。[文・構成/grape編集部]
2020年10月04日阿部寛(56)が9月28日、竹内結子さん(享年40)への追悼コメントを発表した。各メディアによると阿部は「信じられません」といい、「常に明るい笑顔で輪を大切にする彼女の姿を何度も見てきました」「ご冥福をお祈りいたします」とつづったという。03年4月期のドラマ「笑顔の法則」で初共演となった2人。以降、08年2月の映画「チーム・バチスタの栄光」や09年3月の「ジェネラル・ルージュの凱旋」、14年10月の「ふしぎな岬の物語」といった作品で共演を重ねてきた。「阿部さんは撮影現場で、竹内さんの存在に助けられることもあったといいます。特に『チーム・バチスタの栄光』で監督の指示に悩んでいたとき、竹内さんも同様に苦悩。そんな姿が同志のようで嬉しかったそうです。また2人は、現場以外でも息ぴったり。冗談を言い合うなど、取材時も和気あいあいとしていました」(映画関係者)また、竹内さんも阿部のことを慕っていた。「撮影中にどんな演技をしても阿部さんは臨機応変に対応してくれるため、竹内さんは安心していました。彼女によると、阿部さんは役柄によって撮影時以外でも雰囲気が変わるそうです。映画『ふしぎな岬の物語』では『子供の頃から可愛がってくれているお兄さんのようだった』といい、自然と話す機会が増えていったそうです」(前出・映画関係者)何度もタッグを組んできた阿部と竹内さん。その思い出は、永遠に輝き続けることだろう――。
2020年09月30日映画監督の中田秀夫氏が27日、ツイッターを通じ、同日に亡くなった女優・竹内結子さん(享年40)を追悼した。中田氏は、「竹内結子さんの訃報を知りました」の書き出しから、「『リング』の冒頭女子高生役オーディションでお会いした途端、彼女で決めようと思いました」と、自身の監督作『リング』(98)で起用したきっかけを回顧。「煌めいていました」と在りし日の姿を思い出し、「その後、再びお仕事することが叶いませんでした。とても残念です。心よりお悔やみ申し上げます」とつづった。この日、所属事務所は公式サイトで、「本日9月27日、弊社所属の竹内結子(享年40)が、自宅で亡くなりました」と報告。「詳しい状況は現在確認中」とし、「マスコミの皆様におかれましては、ご家族、ご親族の深い悲しみにご配慮いただきますよう、切にお願い申し上げます」と呼び掛けている。悩んでいる方の相談窓口があります。下記の公式サイトをご覧ください。・電話:よりそいホットライン・SNS:生きづらびっと・いのちと暮らしの相談ナビ(相談窓口検索サイト)
2020年09月27日神木隆之介(27)が8月12日、三浦春馬さん(享年30)を追悼するコメントをTwitterに公開した。「なかなか皆様にお伝えできなかった事があります」と切り出し、「個人的にも祖母が同時期にこの世を去ってしまったこともあって、気持ちの整理が出来ないまま、悩んでました」と明かした。続けて、「まだうまく言葉には出来る自信はありませんが、春馬くんの事です。今もただただ悲しいですし、悔しいなどの言葉には表現できない気持ちです」と偲んだ。その上で「これからもこの想いと、そして彼と共に過ごしていきます」とし、「彼を大好きな僕らの、みんなの気持ちは彼に届いていると思ってます」と記している。7月18日に三浦さんが亡くなった後、7月23日に配信予定だった『リュウチューブ #6』を休止した神木。そのため、《無理しないで》など神木を慮る声が上がっていた。神木は、三浦さん初主演ドラマ『ブラッディ・マンディSeason2』(TBS系)で共演。15年の「Act Against AIDS」では、「生きる」をテーマにした『あなたに泣いてほしくて』を吉高由里子(32)含めた3人で朗読した。同じ事務所の先輩・後輩という間柄であり、共に子役から俳優業を歩んできた。「三浦さんと佐藤健さん(31)が親しかったこともあり、神木さんも親交を深めたといいます。神木さんは敬語を使わないほど、2人を慕っています。神木さんと三浦さんは、“礼儀正しく、人好きがする”という人柄も共通。互いに、子役時代から培われた長所なのでしょう。神木さんは19年、『キレイ〜神様と待ち合わせした女〜』で舞台に初挑戦。三浦さん始め、事務所の先輩たちは地球ゴージャスの舞台を経験しています。舞台の楽しさを教えてくれたことが、『出演する後押しになった』と明かしていました」(芸能関係者)三浦さんの死から約1カ月ーー。思いを打ち明けた神木を励ます声が上がっている。《言葉にするのも辛いことと思います 前に進むためにとあえて伝えてくれてありがとうございます》《ゆっくり仲間と共に上を向いて、彼の分まで歩んで下さい》《神木くん、同時期におばあさまも亡くされてたんだね。大切な事務所の仲間、おばあさま、身近にいる人が亡くなって、本当に辛いと思う。神木くんの思いが春馬くんに届きますように》
2020年08月13日子役としてデビューして以来、多くのドラマや映画、舞台など幅広く活躍していた、俳優の三浦春馬さん。俳優や歌手として絶好調のように見えた三浦さんですが、2020年7月18日に急逝したことが報じられました。自ら命を絶ったとして警察が調査を行いましたが、死因は正式に発表されていません。三浦春馬の『追悼ウェブサイト』が公開へ優しい人柄の伝わるトークや高い演技力、歌唱力で、三浦さんは多くの人の心をつかんでいました。三浦さんの突然すぎる訃報は世間に大きなショックを与え、「信じられない」「ウソだといってほしい」といった声が上がっています。30歳という若さでこの世を旅立った三浦さんに対し、きっとたくさんの人が複雑な想いを抱いていることでしょう。そういったファンの心境を察し、三浦さんの情報を発信しているスタッフのTwitterアカウントは、同月31日に追悼サイトのオープンを告知しました。いつも三浦春馬を応援してくださりありがとうございます。皆様にお知らせです。本日より三浦春馬の追悼サイトを立ち上げました。この追悼サイトは応援してくださる皆様からの言葉や想いをいつでも届けていただける場所です。是非この場にて皆様の想いをお伝えください。 — 三浦春馬 & STAFF INFO (@miuraharuma_jp) July 31, 2020 ウェブサイトの名前は『Forever in Our Hearts, Haruma Miura』。8月2日現在、ファンから三浦さんへのメッセージを募集中です。また、ウェブサイトではスタッフからファンに向けたメッセージがつづられています。いつも三浦春馬を応援してくださりありがとうございます。私たちが初めて出会った頃の彼は、話していても目すら見ることができないくらいシャイで、透き通った端正な顔立ちに綺麗な目が印象的な少年でした。その少年は関わる作品にとにかく真摯に、そして全力で取り組み、日本のエンターテインメント業界を代表する立派なアーティストの一人となり、応援してくださる皆様、そして我々スタッフにも大きな感動や希望を与えてくれました。彼の輝かしい軌跡と屈託のない笑顔は、これから先も永遠に記憶に刻まれ、残り続けると信じています。この追悼サイトは、応援してくださる皆様からの言葉や想いをいつでも届けていただける場所です。是非この場にて皆様の想いをお伝えください。お送りいただいたメッセージは予定しておりますお別れの会が執り行われるまでの間、大切にお預かりさせていただきます。Forever in Our Hearts, Haruma Miuraーより引用スタッフはファンや関係者に向けた『お別れ会』の開催も検討しているとのこと。きっと流行している新型コロナウイルス感染症の影響で、今すぐにはできないのでしょう。それまで、こうしてウェブサイトで三浦さんへのメッセージを募集し、少しでもファンの行き場のない思いを受け止めたいと思ったのかもしれません。ウェブサイト公開後、Twitterでは「スタッフのみなさんもつらいだろうに、ありがとう」「このような機会を作ってくれて救われました」といった声や、31万件の『いいね』が寄せられました。きっと集まったメッセージは雲の上にいる三浦さんに伝わることでしょう。[文・構成/grape編集部]
2020年08月02日18日に亡くなった俳優・三浦春馬さん(享年30)の所属事務所・アミューズは31日、三浦さんへのファンからのメッセージを預かる追悼サイトを開設した。トップページには、三浦さんのさまざまな写真を掲載。「FOREVER IN OUR HEARTS, HARUMA MIURA」(三浦春馬さん、私たちの心の中に永遠に)」というメッセージが刻まれている。スタッフからのメッセージも掲載され、「三浦春馬を応援してくださるファンの皆様へ」と題し、「いつも三浦春馬を応援してくださりありがとうございます」とファンに感謝。「私たちが初めて出会った頃の彼は、話していても目すら見ることができないくらいシャイで、透き通った端正な顔立ちに綺麗な目が印象的な少年でした。その少年は関わる作品にとにかく真摯に、そして全力で取り組み、日本のエンターテインメント業界を代表する立派なアーティストの一人となり、応援してくださる皆様、そして我々スタッフにも大きな感動や希望を与えてくれました。彼の輝かしい軌跡と屈託のない笑顔は、これから先も永遠に記憶に刻まれ、残り続けると信じています」とつづった。そして、「この追悼サイトは、応援してくださる皆様からの言葉や想いをいつでも届けていただける場所です。是非この場にて皆様の想いをお伝えください。お送りいただいたメッセージは予定しておりますお別れの会が執り行われるまでの間、大切にお預かりさせていただきます」と呼びかけている。
2020年07月31日俳優の三浦翔平が25日、自身のインスタグラムを更新し、18日に亡くなった三浦春馬さん(享年30)を追悼した。2008年に放送された日本テレビ系ドラマ『ごくせん』で共演して以来、プライベートでも交流のあった2人。春馬さんがサーフィンボードの上で笑顔を見せている写真を添え、「最後の顔を見てから、寝てるだけなんじゃないか。またすぐ会えるんじゃないか。あの笑顔をまた見せてくれるんじゃないか。何度も現実逃避してるよ」と打ち明け、「君の死を受け入れるのは、まだまだ時間がかかる」とつづった。そして、「君を想う全員が深い悲しみの中にいて、きっと誰かと話して、誰かと支え合いながら、また泣いて、胸が苦しくて、何かをしてなきゃ頭がおかしくなりそうだと思う。でも、いつまでも泣いてたら安心して眠れないよな? だから少しずつ、一歩ずつ、受け入れる様に頑張るから」と春馬さんにメッセージ。「俺達は一生懸命に生きて、お前の意志を受け継いで、お前が見たかった景色を絶対見せるから。だから見守っててね。君と過ごした大切な思い出を、これから先もずっと胸に」と誓い、「春馬。大好きだよ。どうか安らかに」と悼んだ。
2020年07月25日2020年7月18日に俳優の三浦春馬さんが30歳という若さでこの世を旅立ち、悲しみの声が相次ぎました。動機は明らかになっていませんが、警察によると自ら命を絶ったとみられています。同月24日には、ドラマ『わたしを離さないで』(TBS系)などで共演した俳優の水川あさみさんが追悼のコメントをInstagramに投稿。愛にあふれた言葉に反響が上がっています。水川あさみ「ハートフルな場所でゆっくりと安らかに」多くの人と同じように、まだ三浦さんの訃報を受け止めきれていない水川さん。苦しい心をなんとか整理し、次のような言葉をつづりました。いつもわたしの話を楽しそうに聞いてくれて思い出すのは笑顔ばかりで記憶は新しく鮮明で受け入れるにはまだ苦しくて寂しいな寂しいよそれでも毎日やってくる日常は待ってくれないから彼を想い、頼れる人と支え合い、心を育みまた今日から、明日も明後日もこれからを生きようと思いますmizukawa_asamiーより引用水川さんは、喪失感を抱えながらも前に進んでいくことを心に誓いました。続けて、三浦さんに向けて温かな言葉を贈っています。どうかどうかあたたかな大きな愛に包まれてハートフルな場所でゆっくりと安らかに深呼吸しながら春馬らしく心から笑っててみんなあなたを想ってる、忘れないよmizukawa_asamiーより引用また、水川さんはコメントの投稿とともに、輪廻転生の死生観が根付くタイで、三浦さんが撮影した写真を公開。写真には遠くを見つめる水川さんの姿が写っています。きっと三浦さんの目には、水川さんの姿がこのように映っていたのでしょう。 View this post on Instagram A post shared by 水川あさみ (@mizukawa_asami) on Jul 23, 2020 at 8:27am PDT水川さんの愛のある言葉に、共感する人が続出。「苦しい中の投稿、ありがとうございます」「いちファンである私でさえこんなに悲しいので、共演したことのある方々はどれだけショックだったことか…」「みなさんの愛が、三浦さんに届きますように。切なる願いです」などのコメントが寄せられています。水川さんの投稿が自分の心情と重なり、悲しみを整理できた人もいる様子。悲しみを1人で抱え込まず、共有することが癒しにつながることもあるのでしょう。三浦さんへの人々の想いが届くことを祈ります。[文・構成/grape編集部]
2020年07月24日俳優・三浦春馬さんが18日に亡くなったことを受け、三浦さんと同事務所・アミューズに所属する女優・上野樹里が22日、Twitterに追悼メッセージをつづった。2人は映画『奈緒子』(08年)などで共演。また、三浦さんは2018年7月、上野にとって2年半ぶりの連ドラ出演作『グッド・ドクター』(フジテレビ系)を観て、Twitterに「別に先輩だからではない…でも上野樹里ちゃんの演技に自然と引き込まれる。ブラウン管を飛び越えてくる芝居。また共演させて欲しい。。」と投稿していた。三浦さんの訃報から4日。上野は約1カ月半ぶりにTwitterを更新し、「春馬くん、2年前に『一緒にまた共演したい』って言ってくれたの、嬉しかったよ」と感謝する一方、「もっとお話ししたかったな」と悔やんだ。そして、「悲しい顔をする代わりに、私はお芝居がんばるよ」と前向きに捉えようとしながら、「良かったら、いろんな人達の心を救える方法、分かるように導いて」と願い、「春馬くん、ご冥福をお祈りします」と結んでいる。別に先輩だからではない…でも #上野樹里 ちゃんの演技に自然と引き込まれる。ブラウン管を飛び越えてくる芝居。また共演させて欲しい。。#グッドドクター ????????— 三浦春馬 & STAFF INFO (@miuraharuma_jp) July 26, 2018
2020年07月23日イタリア現地時間7月6日に91歳で亡くなった映画音楽の巨匠エンニオ・モリコーネを偲び、「BS10スターチャンネル」にて追悼放送が決定した。『ニュー・シネマ・パラダイス』(1988)や『アンタッチャブル』(1987)、『夕陽のガンマン』(1965)など数々の名作映画の音楽を手掛け、2006年にはアカデミー賞名誉賞、2015年にはクエンティン・タランティーノ監督作『ヘイトフル・エイト』でついに作曲賞を受賞したモリコーネ氏。今回放送される『アンタッチャブル』は、ブライアン・デ・パルマ監督がケヴィン・コスナーやショーン・コネリー、アンディ・ガルシアら豪華キャストを迎えて、伝説のギャングであるアル・カポネ(演ロバート・デ・ニーロ)逮捕に挑んだ男たちを描くサスペンス。俳優陣の好演とデ・パルマ監督の演出、モリコーネ氏の壮大な音楽が一体となり、一級のサスペンスとダンディズムに彩られたエンターテイメント作品。また、『サッドヒルを掘り返せ』(2017)はクリント・イーストウッド主演、セルジオ・レオーネ監督の名作西部劇『続・夕陽のガンマン/地獄の決斗』のラストシーンが撮影されたスペインのサッドヒル墓地を復元しようとする、熱狂的映画ファンたちの姿を追ったドキュメンタリー。モリコーネ氏も出演し、自身の思い出を語っている。(text:cinemacafe.net)
2020年07月08日2020年5月23日、女子プロレスラーの木村花さんが亡くなったことを所属事務所が発表。死因は調査中とのことですが、木村さんは出演していたリアリティー番組『テラスハウス』(フジテレビ系)での言動について、SNSで誹謗中傷を受けていました。【訃報】女子プロレスの木村花さん22歳が逝去インスタで「さようなら」と投稿山里亮太がコメント番組のスタジオメンバーとして出演していたお笑いタレントの山里亮太さんは、5月24日に自身のTwitterを更新。木村さんを追悼する投稿をしています。この度は木村花さんの訃報に接し、謹んでお悔やみ申し上げます。突然のことに、どう言葉を発してよいか分からず、時間が過ぎてしまいました。それは木村さんのことを考えると、直ぐに言葉の整理ができませんでした。そのような不安定な状態で、自身の発した言葉がどのように解釈されるのかが分からず、しばらく言葉を発することに躊躇をしてしまいました。今、現実を受け止めて、なぜ画面の中で力強く立ち振る舞っているその姿の裏にある苦悩に気づけなかったのか、何かできることはなかったのかと強く感じています。ご冥福を心よりお祈り申し上げます。山里亮太@YAMA414ーより引用この度は木村花さんの訃報に接し、謹んでお悔やみ申し上げます。 突然のことに、どう言葉を発してよいか分からず、時間が過ぎてしまいました。それは木村さんのことを考えると、直ぐに言葉の整理ができませんでした。そのような不安定な状態で、自身の発した言葉がどのように解釈されるのかが分から— 山里 亮太 (@YAMA414) 2020年5月24日 番組で山里さんは『テラスハウス』の中で繰り広げられる恋愛模様をユーモアを交えてコメントする役割を担っていました。「木村さんの苦悩に気付き、できることはなかったのか」と苦しい胸の内を語っています。投稿に対しネット上では「どうか自分を責めないで」「山ちゃんに心ない言葉が届きませんように」「言葉にならないですよね…計り知れないつらさだと思います」などの声が寄せられていました。番組を盛り上げるため、時に出演者に対して辛口のコメントをする場合もあり、難しい立場であった山里さん。木村さんの訃報に多くの人が心を痛め、同時に『言葉』が人を傷付ける凶器にもなり得ることを改めて実感させられています。[文・構成/grape編集部]
2020年05月25日東京都東村山市は2020年5月20日にTwitterを更新。同市出身で、同年3月29日に新型コロナウイルス感染症による肺炎で亡くなった、お笑いタレントの志村けんさんに全国から寄せられた追悼メッセージを兄・志村知之さんに手渡したことを報告しました。【新着】志村けんさんへのお気持ちをご遺族に届けました:4月6日(月曜)から5月16日(土曜)までお受けいたしました志村けんさんへのお気持ちにつきまして、5月20日(水曜)に渡部尚市長より、ご遺族にお届けさせていただきました。 — 東京都東村山市 (@saitai_hm_tokyo) 2020年5月20日 市では、同年4月6日~5月16日の期間にウェブサイト上で追悼メッセージを募集したところ、合計で2万2336件も届いたといいます。この間、22,336件という大変多くのお気持ちを頂戴いたしました。東村山の地名を全国区に押し上げていただいた志村けんさんへ敬意を表するとともに、改めて心よりご冥福をお祈り申し上げます。市には、名誉市民や銅像の設置など多くのご意見を頂戴しておりますが、これらのご意見につきましては、ご遺族や所属事務所様とご相談の上、検討を進め、実施が決まりました折には、改めてお知らせいたします。東村山市ーより引用また、一部で報道されている『志村けん記念館構想』『銅像設置』などについて市は「現段階でこのようなことが決まった事実はございません」と否定しました。長年、日本中に笑顔をもたらしてくれた志村さんの功績を、多くの人が忘れないでしょう。天国にも、メッセージを送った人々の声が届くといいですね。[文・構成/grape編集部]
2020年05月21日タレントの布川敏和が24日、自身のブログを更新。23日に新型コロナウイルスによる肺炎のため亡くなった女優の岡江久美子さんを追悼した。布川は「岡江久美子さん が、コロナで 亡くなってしまった・・・っという ニュースを知り、信じられない思いで御座います」と胸中をつづり、「17年間という長年間『はなまるマーケット』で、ダブル司会をやっていた、元・相方の薬丸クン の気持は 計り知れない悲しみだと思います」と、17年半にわたってTBS系『はなまるマーケット』で岡江さんとともに司会を務めた薬丸裕英を思いやった。そして、「僕が、ゲストで“はなまるカフェ”で出演させて頂いた時も、ヤックンと僕の間に入って頂ただき、和気あいあいな 和やかなムードにして下さったのは 岡江久美子サン がいて下さったからです。あぁ、何だかかなぁ・・・岡江久美子サン、心より御冥福を申し上げます」と悼み、「しかし, 何だかなぁ! コロナ!ふざけんじゃねぇぞォ~!!!」と新型コロナへの怒りをにじませた。岡江さんは今月3日に発熱し、4~5日様子を見るよう言われていたが6日朝に急変し、都内の病院に緊急入院。すぐにICU(集中治療室)にて人工呼吸器を装着し、その後、PCR検査で陽性と判明した。懸命な治療を続けるも完治には至らず、息を引き取った。
2020年04月24日2020年4月12日、がんにより55歳で亡くなった、声優の藤原啓治さん。野原ひろし役などの声優・藤原啓治さん逝去「早すぎる」「もうあの声が聴けないなんて」出演した数多くの作品の中でも、特にアニメ『クレヨンしんちゃん』(テレビ朝日系)に登場する野原ひろし役として、たくさんの人に親しまれてきました。ファンが悲しみにくれる中、同月16日、『クレヨンしんちゃん』の公式サイトが追悼メッセージを公開し、話題になっています。その全文が、こちらです。【訃報】藤原啓治さんご逝去1992年の放送当初から2016年8月までの24年間、野原ひろしの声優を務めていただいた、藤原啓治さんが逝去されました。いつも優しく、ここぞという時に男らしい野原一家の大黒柱・ひろしを演じてくださった藤原啓治さんのご冥福を心からお祈りいたします。クレヨンしんちゃんーより引用24年という長い期間、野原ひろし役をつとめた、藤原さんへの想いが詰まったメッセージ。藤原さんが持つ唯一無二の声だからこそ、「いつも優しく、ここぞという時に男らしいキャラクター」を一貫できたのかもしれません。公式のコメントを見たファンからは、悲しみの声が上がっています。・コメントがまさにその通りで、本当に悲しい。・長年慣れ親しんだ声がもう聞けないなんて、さびしいです…。・『野原ひろし』に命を吹き込んでくれたこと、感謝してもしきれません。・クレヨンしんちゃんを見て育ちました。たくさんの笑いと感動を、ありがとうございました。今後も藤原さんは、『クレヨンしんちゃん』を始めとするたくさんの作品の中で生き続け、深みのある声で、人々を魅了するのでしょう。[文・構成/grape編集部]
2020年04月17日10日夜、他界された大林宣彦監督へ哀悼の気持ちをこめ、公私ともに親交があった方々の追悼文を掲載させていただきます。大林監督のご冥福を心よりお祈りいたします。(ぴあ編集部)塚本 晋也(映画監督・俳優)大学生のころ、「『HOUSE/ハウス』という面白い映画があるぞ!」と自主映画仲間と映画談義に花を咲かせました。その後、大好きな『転校生』、『時をかける少女』(ラスト、倒れていた原田知世さんが立ち上がって歌い出す瞬間の驚きとときめき)など好きな映画はたくさんありますが、大林監督とお話するようになったのは、実は2015年に発表した『野火』以降になります。ですから大林監督を慕って行動を共にされていた監督さんたちとも違い、僕には雲の上の人のようにずっと遠くに感じられていました。学生のころうらやましく見ていた自主制作からプロデビューする監督さんたちの、さらにその先をいく存在だったのです。『野火』の上映で、全国のミニシアターからミニシアターへ行脚していたおり、大林監督の故郷にある映画館シネマ尾道で、僕の『野火』と大林監督の『野のなななのか』を上映し、対談をさせていただく大きな機会を得ました。大林監督は、そのすべての映画に戦争というテーマを隠し味としてこめていたと仰いましたが、3.11以降、『この空の花ー長岡花火物語』からははっきりと戦争がモチーフになっていき、その後『野のなななのか』、『花筐』へと続いてゆきます。対談の前に大きなスクリーンで観た『野のなななのか』は、戦争で亡くなった人たちと今この世で生きている自分たちが地続きに感じられる優しい目線で描かれている作品でした。全編が繰り返し歌われる詩のようで、感情が揺さぶられ続けました。そしてこの連作で、年齢や病をものともせず、作品はますますパワフルに溢れ出したのです。対談ではたくさんの大切なことをお話しくださいましたが、衝撃だったのは、大林監督は「僕(大林監督)は戦後の監督で、塚本君は戦前の監督」という視点。また、正義という概念は時代によって変わるので、必要なのは自分を俯瞰してみる正気の目線だ-。という教え。残念ながら自分たち人間は、状況によっては悪魔に変身することができる生き物だと知ってしまったので、そういう状況を作り出さないようひとりひとりが正気の目を持ち続けることが最も大切という思いに至りました。また『斬、』という新作の上映と舞台挨拶でやはりシネマ尾道にうかがったとき、大林監督が新作を撮影されているということを知り陣中見舞いにうかがったこともあります。撮影中にお邪魔するのもいかがなものかとはばかられたのですが、そうっと覗かせてもらうことにしました。そのとき監督はだいぶ小さくなられていましたが、静かに、着実に撮影を進めていらっしゃいました。撮影現場にいることが一番の薬だったのでしょう。そして自分がひょっこり現れたことをたいへんに喜んでくださいました。その後高崎映画祭の授賞式でもご一緒できる機会があったのですが、セレモニーの間どこにいらっしゃるか分からなく、自分の登壇の直前、舞台袖に待機すると車椅子の方が目に入り、その瞬間も大林監督だとはすぐには思わず、通り過ぎて壇上に出てようやく監督だとわかったのです。舞台袖ですべての進行をご覧になっていたのです。しかし目にしても気づかないほど小さくなられていたのでした。僕もゲストを大勢連れていったものですからそのあと直接お話しする機会を逸してしまい、ずっと気になっていました。あのときシネマ尾道さんの計らいで撮影現場にうかがっておいて本当によかったです。しかし高崎映画祭の壇上に出た大林監督は、本当に病気なのかと思うほどしっかりとして、たくさんの貴重なお話をみなさんにしてくださいました。実は新作の『海辺の映画館―キネマの玉手箱』は、試写やDVDでなく、町の映画館で一観客として観させていただくのを楽しみにしていたので、初日を今かと今かと待っていたのですが、まさに公開予定日に旅立たれてしまいました。映画はお客さんに届いて完成するものと思っていらしたはずですので、そこまではがんばろうとされていたのではないでしょうか。コロナの終息が見えない中亡くなられてしまったと思うと、映画の感想をお届けできなかったことが悔やまれてなりません。亡くなられる数日前に、自分の名前も上げてくださり、「君たちが映画をつないで平和な世の中に・・・」と途切れ途切れお話しをしたという奥様の恭子さんのコメントを読みました。高崎でお話しできなくごめんなさい。やっぱりどんな形ででも新作を観てしまうべきだったといろいろ悔やみましたが、今となってはいかんともしようがありません。大林さんはずっと平和のことを考え、その思いを映画に込め、語っていらっしゃいました。『海辺の映画館―キネマの玉手箱』はとてつもなくパワフルな映画と各所から耳に入ってきます。もう少ししたら、最高の場所、映画館で堪能させていただきますからね、大林監督。ほんとうにありがとうございました。大林監督の遺作となった『海辺の映画館-キネマの玉手箱』から (C)2020「海辺の映画館-キネマの玉手箱」製作委員会/PSC塚本 晋也(つかもと・しんや)1960年東京生まれ。映画監督/俳優。日本大学芸術学部卒業後、『電柱小僧の冒険』(1987)でPFFグランプリを受賞。『鉄男』(1989)でローマ国際ファンタスティック映画祭グランプリを受賞するなど、国際的な映画祭での評価も高く、ヴェネツィア国際映画祭では審査員も務めた。自作の『野火』(2015)、『斬、』(2018)や、マーティン・スコセッシ監督の映画『沈黙 -サイレンス-』(2016)などに、俳優としても出演している。
2020年04月16日10日夜、他界された大林宣彦監督へ哀悼の気持ちをこめ、公私ともに親交があった方々の追悼文を掲載させていただきます。大林監督のご冥福を心よりお祈りいたします。(ぴあ編集部)川本 三郎(映画評論家/文芸評論家)大林宣彦さんは、大仰ではなく、ほとんど「奇跡」のような存在だったと思う。八十歳を過ぎ、癌と闘いながら最後まで映画を作り続け、遺作となった『海辺の映画館-キネマの玉手箱』を作り上げたことも「奇跡」だし、なによりも映画人生の大半を「自由人」として映画を作り続けたことが「奇跡」だった。大林さんの世代の映画監督の大半は、映画会社に所属している。当時としては、それが当たり前だった。ところが大林さんは、まったく別のところから現われた。子供の頃から八ミリで映画を作り、映画少年がそのまま大きくなり、テレビのコマーシャルを多数作り、そして、映画を作るようになった。それまでの映画監督、あるいは同世代の映画監督が「撮影所育ち」だったのに対し、大林さんはあくまでも「自立」した「自前」の映画監督として映画を作り続けた。その意味で、映画史のなかの、いい意味での「突然変異」と言っていい。映画会社に属さないということは、経済的には大変だったと思うが、逆に、映画会社の枠にとらわれない自由な映画を作ることが出来た。「映像の魔術師」と呼ばれるほど、従来の映画文法にとらわれない想像力豊かな映画を作り続けることが出来たのは、大林さんが映画会社に所属しなかったことが大きいと思う。大林さんは、映画監督であると同時に「自由人」であり続けた。そこに敬服する。そして、あの優しい風貌に、この言葉は似合わないかもしれないが、偉大なる「一匹狼」だった。それを、奥さんの大林恭子さんや、娘さんの千茱萸(ちぐみ)さんが支え続けたのも素晴しい。矛盾した言い方になるかもしれないが、「家族に支えられた一匹狼」と言えばいいだろうか。「自由人」にふさわしく、大林さんの映画は、テーマよりもメッセージよりも、最初は何よりも、自由奔放なイメージの連続から作られた「奇妙なもの」として立ち現れた。従来の日本映画のこぢんまりした花鳥風月の世界とはまったく違う。アメリカン・アートのポップな感覚、テレビのコマーシャルのカラフルな喧騒には正直、最初はついていけなかった。2016年11月に、『キネマ旬報』の仕事で『花筐/HANAGATAMI』製作中の大林さんにインタビューをした時、「君は、最初の頃、僕の映画を批判していたよね」と言われて、思わず冷や汗をかいたものだった。大林さんの作品で最初に感動したのは、遅れていて、1984年の『廃市』だった。それまでの、にぎやかな世界と違って、福岡県の「柳河」という掘割の町、水の町を舞台にした静かな映画で、大林さんはこんな映画も作るのかと魅了された。福永武彦の原作も好きだったし、何よりも北原白秋が好きだったので、『廃市』を観たあと、すぐに「柳河」に旅した。のち、2012年に、北原白秋論『白秋望景』(新書館)を書いたのも、きっかけは大林さんの『廃市』だった。大林さんは声もよかった。あるところで『廃市』はナレーションの声がいいと書いた。あとで、その声は監督の大林さん自身の声だったと知って、恥かしくもあり、同時にうれしくもあった。かつて木下恵介監督は「作品のなかで必ず映画的実験をする」と言って、作品ごとにそれを試みたが、大林さんも新作ごとに「映画的実験」に挑んだ。ひとつ例を挙げれば2004年の『理由』だろうか。あの宮部みゆきの傑作を映画化する。普通の映画監督ならリアリズムの手法で事件を追っていただろう。ところが大林さんはそうはしなかった。テレビのワイドショーの手法を使った。それまでは映画では使ってはならないとされていた、俳優がまっすぐカメラを見るという禁じ手を逆手にとって、俳優たちがワイドショーのレポーターのように正面からカメラを見て事件を語る。この型破りの手法には驚いた。「自由人」だから出来る冒険だったろう。大林さんの「映画的実験」は近年の『花筐/HANAGATAMI』や『海辺の映画館-キネマの玉手箱』で如何なく発揮されている。どちらの作品も反戦のメッセージが強く打ち出されているが、決してありきたりのリアリズムの枠にはおさまっていない。具象画の世界に突然、抽象画が現われたような新鮮な驚きがある。故郷である尾道を舞台にした尾道三部作をはじめ、小樽、長岡、臼杵、唐津など地方を舞台にした作品を作り続けたことも、東京一極集中の時代にあって意味が大きい。中心に対して、周縁からの抵抗の思いもあっただろう。大林さんの反骨精神を感じる。『廃市〈HDニューマスター版〉』発売・販売:キングレコードKIXF-4286/¥2,500+税 KIBF-4533/¥1,900+税川本 三郎(かわもと・さぶろう)1944年東京生まれ。映画評論家/文芸評論家。「週刊朝日」「朝日ジャーナル」の記者として活躍後、文芸・映画の評論、翻訳、エッセイなどの執筆活動を続けている。91年『大正幻影』でサントリー学芸賞、2012年『白秋望景』で伊藤整文学賞などを文芸著作で各賞受賞。1970年前後の実体験を描いた著書『マイ・バック・ページ』は、2011年に妻夫木聡と松山ケンイチ主演で映画化もされた。
2020年04月15日10日夜、他界された大林宣彦監督へ哀悼の気持ちをこめ、公私ともに親交があった方々の追悼文を掲載させていただきます。大林監督のご冥福を心よりお祈りいたします。(ぴあ編集部)植草 信和(元キネマ旬報編集長)大林さんと最後にお会いしたのは2018年の春だった。クランクイン直前に下された〈余命三ヵ月宣告〉を撥ね返して完成させた『花筐/HANAGATAMI』公開が前年の2017年12月だから、『海辺の映画館―キネマの玉手箱』準備中だった。ぴあアプリ「私のクリエイター人生」の取材で、3回に亘って6時間ほどインタビューさせていただいた。場所はご自身のプロダクション〈PSC〉の仕事場兼応接間。恭子夫人に伴われて現れた監督は病魔との戦いに疲れた様子だったが、インタビューを始めるとそれまでの痛々しさを微塵も感じさせないほど饒舌になり、尾道時代の幼年期からの「映画人生」を語ってくれた。個々の作品評価は紙幅の都合で別の機会に譲るとして、大林さんが我々に遺してくれた最大の遺産は何だったのだろうか、と真剣に思う。それを一言で表せば、「後進への映画の道を切り拓いた」ということに尽きる。映画監督への道はそれまで、撮影所の門をくぐった者しか開かれていなかった。だが彼は、CMディレクターであり自主映画の監督に過ぎなかったにも関わらず、『HOUSE /ハウス』で東宝という大メジャーから監督デビューを果たした。しかも興行的にも大成功を収め、一躍時の人、人気監督になった。大林さんの出現は、日本映画史に「大林以前・大林以後」と特筆大書してもいいほど燦然と輝く新たな一ページを加えた。日本映画界が低迷していた中でのその鮮烈な監督デビューは、大森一樹や原田眞人、是枝裕和、岩井俊二という現在の日本映画を牽引する監督たちを登場させる端緒になったといっていい。その他、犬童一心、塚本晋也、手塚眞、今関あきよしなどの大林チルドレンと言われる監督たちも生まれ、その幹から育った監督たちも多くいる。3.11東日本大震災からは「反戦」を刻印する映画を4本作った大林監督、文字通り遺書になった著書『最後の講義/映画とは“フィロソフィー”』の終章は、「映画では、平和を引き寄せられます。本当にそれができるんだから。頼むよ、みんな」という一文で結ばれている。その一文から、手塚治虫が「漫画と少年」の懸け橋になったように、大林さんは「映画と青年」の懸け橋になったのだ、と思える。大島渚、かわなかのぶひろ、ほしのあきら、松田政男、松本俊夫ら審査員各氏がそろったPFF審査中の貴重なショット。手前左端サングラスが大林監督。写真提供:PFF植草 信和(うえくさ・のぶかず)1949年、千葉県市川市生まれ。フリー編集者。キネマ旬報社に入社し、1991年に同誌編集長。退社後2006年、映画製作・配給会社「太秦株式会社」設立。現在は非常勤顧問。ぴあアプリ「私のクリエイター人生」で、大林宣彦監督のインタビュー&構成を担当。
2020年04月12日10日夜、他界された大林宣彦監督へ哀悼の気持ちをこめ、公私ともに親交があった方々の追悼文を掲載させていただきます。大林監督のご冥福を心よりお祈りいたします。(ぴあ編集部)中川 右介(作家)最初に大林宣彦監督にお会いしたのは、スマートフォンの記録を見ると、2013年10月29日。当時の私は「関西ウォーカー」誌に、後に『角川映画 1976-1986』(角川文庫)となる記事を連載しており、角川春樹時代の角川映画で最も多く撮った大林監督に、時間をとっていただき、『時をかける少女』などの角川映画時代を語っていただいた。実はその時点まで、どういう本にするか明確な設計図ができていなかったのだが、このインタビューで、「角川春樹と大林宣彦の距離感のある盟友関係」を隠れた主題にするアイデアを思いついた。そのインタビューの際、同行していたカメラマンが「写真のチェックをしますか」ときくと、「それはあなたの仕事でしょう。僕の映画なら、もちろんチェックするけれど、あなたの写真なのだから、あなたが最もいいと思う写真を使いなさい」との答えで、かっこいいなあと思った。そこに、プロとしての矜持を感じた。監督の好きな言葉で言えば、「フィロソフィー」を。その矜持の本質をもっと知りたくなり、『大林宣彦の体験的仕事術』(PHP新書)という本を企画し、私がインタビューをして構成することになった。原稿に大林監督が手を加え、さらに私が手を入れと、何度も原稿のやりとりがあった。組版してからも大変だった。この本を手にしてていただければ分かるが、一行も余白がない。たとえば、校正刷りで、あるページに2行余白が生じると、大林監督は2行足して埋めていく。映画には余白はない。始まったら最後まで1秒も空白がない。その感覚で、作られた本だった。カメラマンが撮った写真はその人の作品だから口出ししないが、本での自分の発言は自分の作品だから、一字一句までこだわる。そのすさまじさ。一緒に映画を作ることはなかったけれど、この本を作ったことで、プロとしての大林宣彦の仕事の流儀、作法に接することができた。生涯の思い出だ。インタビューの後は、いつも成城学園前駅近くで食事をした。ある晩、店から出てくると、駅周辺にいる人たちが夜空を見上げていた。「なんだろう」と私たちも見上げたが、とくに変わったものは見えない。私はぼんやりと見上げていただけだったが、大林監督は、見上げている人たちのそばへ行き、「何が見えるんですか」ときいた。すごい好奇心だ。「月食です、いま見えなくなったところ」との答えに、「見えないわけだ。見そこなったのは、ツキがなかった」と大笑い。「大林宣彦のダジャレ」のひとつだ。新宿で食事をしたときも、「西武新宿線で帰ります」と言うと、すかさず「ほう、西武線か。セイブ戦線異状なしだといいね」と返された。ダジャレの天才だった。これからも、大林映画は何度でも見ることができるけど、あのダジャレはもうきけない。映画『HOUSE/ハウス』のチラシ中川 右介(なかがわ・ゆうすけ)1960年東京生まれ。出版社アルファベータを創立。クラシック、映画、文学者の評伝を出版。現在は文筆業。『大林宣彦の体験的仕事術』(PHP新書)など、映画、歌舞伎、ポップスに関する著書多数。近著に『手塚治虫とトキワ荘』(集英社)など。
2020年04月12日10日夜、他界された大林宣彦監督へ哀悼の気持ちをこめ、公私ともに親交があった方々の追悼文を掲載させていただきます。大林監督のご冥福を心よりお祈りいたします。(ぴあ編集部)樋口 尚文(映画評論家、映画監督)1977年、東宝のスクリーンに『HOUSE/ハウス』という作品が「乱入」してきた時のインパクトは、当時の若い観客にとってとんでもないものだった。その頃はビデオなどないから、封切りの後は、私のように名画座で何度も観まくる中毒患者が多発した。この作品は言わば邦画らしからぬモダンなタッチで描かれた美少女ホラーだったのだが、中毒まで行った観客はそんな設定やストーリーのうわべに痺れていたのではない。ぼくらを虜にしたのは、特異な画と音で埋め尽くされた映画の行間にたちのぼるフィルムの手ざわり、フィルムの生理のようなものであり、そこに弾けては消える(少女の思春のときの儚さのような)抒情、リリシズムを感じて甘美な疼痛を覚えていた。自然主義的な文学性で語ってきた日本映画の歴史のなかで、フィルムを愛玩しつくした先に降るフィルムそのものの抒情を領分とする作品などあり得なかった。正確に言えば、邦画五社の商業映画でなければ、それは存在した。『HOUSE』のひと昔まえに大林が発表した16mm作品『EMOTION=伝説の午後・いつか見たドラキュラ』を筆頭とする個人映画の諸作である。『いつか見たドラキュラ』は全国の大学祭で上映しないところはないくらいの人気を博したが、それはまさにフィルムの生理で語った画期的な大林調が若者たちを揺さぶった結果であった。『HOUSE』の凄さは、これらの個人映画が発散していた濃厚なフィルムの抒情が、手かげんなく東宝の夏休みアイドル映画に越境していた、ということだ。この「越境」の原点は、それを遡ること二十年前、大林青年が8mmカメラで映画を撮り出した頃にすでに明らかだ。すなわち大林は戦時中の子ども時代から熱狂的な映画ファンであったものの、8mmで作り出したのはフィルムの手ざわり、生理をもって自分ならではの「詩」をうたう習作だった。以来、大林はテレビコマーシャルの売れっ子演出家である時も、16mmのアンダーグラウンド映画の作家である時も、35mmの商業映画の監督をまかせられた時も、全く変わらずに大林の専売特許であるフィルム的抒情をもって作品づくりに傾注した。だから、厳密に言うと『いつか見たドラキュラ』時代の作風が『HOUSE』に越境したというよりも、大林は常に変わらず「私人=詩人」として自分だけのフィルムの「詩」をうたってきた、ということだろう。それは近年のデジタル長篇時代になっても変わらないどころか、より旗幟鮮明に(身体は病み疲れても)情熱的なフィルム語りにのめっていった。そして作家はつねに「私性」に生き、自分だけの「詩」をうたうべし、という大林の実践的な教えは、大林も審査員をつとめていたPFF(ぴあフィルムフェスティバル)出身者をはじめとする「大林チルドレン」の監督たちに継承されていった。だが、あの『時をかける少女』などをはじめとする口あたりのよいジュブナイルの紙背にひそむ、フィルムそのものの匿名の抒情の戦慄は、なまなかな追随を許さぬ「導師」ならではの境地であろう。畏怖とともに、合掌。新文芸坐で開催された「大林宣彦映画祭2017」のチラシ樋口 尚文(ひぐち・なおふみ)1962年生まれ。映画評論家、映画監督。著書に『大島渚のすべて』『黒澤明の映画術』『実相寺昭雄 才気の伽藍『映画のキャッチコピー学』ほか。監督作に『インターミッション』。新作『葬式の名人』がDVD・配信リリース。2017年、新文芸坐での「大林宣彦映画祭」を企画。2019年、大林監督の研究本『フィルムメーカーズ20 大林宣彦』(宮帯出版社)を責任編集。
2020年04月12日「粋な差し入れですね」「センス抜群」新型コロナウイルス感染症による肺炎で亡くなった志村けんさんを追悼する特別番組の舞台裏が明かされ、そんな声が上がっています。研ナオコの差し入れは、やっぱり…2020年4月1日に放送された、特別番組『志村けんさん追悼特別番組46年間笑いをありがとう』(フジテレビ系)。番組には、『ザ・ドリフターズ』の加藤茶さん、仲本工事さん、高木ブーさんをはじめ、親交の深かった研ナオコさんらが出演し、志村さんを偲びました。話題となっているのは、同番組の収録に参加した出演者からの差し入れの内容。研さんの夫である野口典夫さんが、自身のブログで差し入れを公開しています。バラエティ番組『志村けんのバカ殿様』(フジテレビ系)のファンならば、研さんと生たまごの組み合わせにピンときたはず。『志村けんのバカ殿様』にナオコ姫として出演していた研さんが、ねっとりとした口調で「生たまご~」というシーンは、番組内での鉄板ネタの1つでした。きっと出演者は研さんの差し入れを見て、笑みをこぼしたことでしょう。【ネットの声】・これは、志村さんに向けての差し入れですよね?・赤まむしドリンクも欲しくなりますね!・あえてこれを差し入れに選ぶところが、さすがです。差し入れに生たまごを選ぶ研さんのセンスはもちろん、こうして思い出話だけでも多くの人に笑いを届ける志村さんもまた、「さすが」のひと言。志村さんも空の上で、研さんの差し入れに笑っていることでしょう。[文・構成/grape編集部]
2020年04月07日新型コロナウイルスによる肺炎のため3月29日に死去した、タレントの志村けんさん(享年70)。その追悼特番として4月1日に放送された「志村けんさん追悼特別番組46年間笑いをありがとう」(フジテレビ系)の世帯視聴率が関東地区で21.9%(ビデオリサーチ調べ)を記録したと、各スポーツ紙が報じた。番組では「ザ・ドリフターズ」によるコントや、「志村けんのバカ殿様」「志村けんのだいじょうぶだぁ」から名作コントを放送。ドリフのメンバーやゆかりあるタレントらが生出演した。各紙によると世帯平均視聴率は全国8地区のうち7地区で20%を超え、さらに先月30日からスタートした個人視聴率は関東地区平均で14.8%を記録。番組を1分以上視聴した「到達人数」(推計)は、全国で4,000万人以上に達したという。「若者を中心にテレビ離れが進んでいるなか、4,000万人の視聴は驚異的な数字です。地元・東村山市の駅前に置かれた献花台には老若男女がひっきりなしに訪れ、いかに多くの国民から愛されているかがうかがえます」(ワイドショー関係者)他局でも追悼番組を期待する声があがるなか、NHKは4日から6日に3日連続で放送することを発表した。4日は16年9月放送された「となりのシムラ#5」(NHK総合、午後5時15分)、5日は18年1月放送の志村さんが警視庁を退職し、探偵事務所を立ち上げる男を演じた「スペシャルコント 志村けん in 探偵佐平60歳」(NHK BSプレミアム、午後2時半)を放送。そして6日には10年3、4月に放送された番組を再構成して「鶴瓶の家族に乾杯~志村けんさんありがとう~2010年福島県小野町の旅」(NHK総合、午後7時半)として放送する。「新型コロナウイルスの影響で、特に4日と5日は在宅している人が多いはず。また志村さんの笑いで心が癒やされる人も多いはず。局内でも『どこまで数字が伸びるのか』と注目されているそうです」(テレビ局関係者)
2020年04月03日タレントの志村けんさん(享年70)を追悼する番組「志村けんさん追悼特別番組~46年間笑いをありがとう~」(フジテレビ系)が4月1日に放送された。ザ・ドリフターズを筆頭にゆかりのある面々が出演し、その死を悼む姿が反響を呼んでいる。新型コロナウイルスによる肺炎のため亡くなった志村さん。その訃報の衝撃は大きく、いまだ急逝を惜しむ声がやまない。そんななか「バカ殿」の公式Twitterアカウントが同番組を告知したところ19.1万ものリツイートと63万もの“いいね”を記録。大きな話題となり期待が高まっていた。番組では時代劇のコントを見ていた加藤茶(77)が爆笑し「ものすごい面白いですね。こんなに笑っていいんですかね」とコメント。仲本工事(78)も「面白いね。すごいね。リズムが速いし、一つ一つに全部アクションがついている」と讃えていた。また研ナオコ(66)は志村さんが収録中、映ってないところで変な顔をしてきたと明かし「笑かしちゃう雰囲気に。アレにのっちゃう」と回想した。追悼番組でありながらも和気藹々とした雰囲気だった「46年間笑いをありがとう」。各メディアによると関東地区の視聴率は21.9%、そして瞬間最高視聴率は27.3%を記録したという。また《あんな和やかな追悼番組も良いもんですね(涙)。やっぱり志村さんのコントは面白かったし、懐かしかった。そして、何より、世代の違う子供たちも大笑いしていましたよ》《あっという間の2時間だった。気づいたら番組終了5分前。もっと見たかったー!》といった感想が上がる。さらにコロナ影響下にあるため、こんな感謝の声も上がった。《心配性なので、コロナ疲れしてきたところなのですが、志村さん追悼番組で久しぶりに笑えたしその反動で泣いて涙活もしたので少し心が軽くなったような気がします》《本当に番組見ていた時はコロナも忘れたし、不安な仕事の現況を忘れたよ》《追悼番組でゲラゲラ笑って、コロナ疲れから救われたかも 志村さんありがとう》《志村さんの追悼番組、沢山のコントが流れてて、近年のコロナ疲れが吹き飛んでます!最後の最後まで、本当にありがとう!!》放送終了後、研はTwitterで志村さんの遺影の前で微笑む自身の写真をアップした。そして、こうつづった。《生放送のスタジオの中は、笑いでいっぱいでした。けんちゃんも喜んでいるかなぁ。皆さん、ご覧いただきありがとうございました》
2020年04月02日2020年3月29日、新型コロナウイルス感染症と診断されたお笑いタレントの志村けんさんが肺炎で亡くなりました。日本のお笑い界を長年支えてきた志村さんの訃報は国全体に衝撃を与え、悲しむ声が相次いでいます。ショックを受けたのはファンだけではありません。志村さんと親しかったタレントも深い悲しみに暮れているようです。研ナオコ、志村けん追悼番組に出演後…バラエティ番組『志村けんのバカ殿様』(フジテレビ系)などで共演していた、タレントの研ナオコさんもショックを受けた1人。志村さんの逝去が報じられると、Twitterに「けんちゃんと、もう会えなくなっちゃう。悲しすぎてありすぎる想いが整理できません」と投稿しました。研ナオコ、志村けんの訃報に涙…「またバカ殿一緒にやりましょうね」とコメントしていた研さんは、同年4月1日に放送された追悼番組『志村けんさん追悼特別番組46年間笑いをありがとう』(フジテレビ系)に出演。番組では『ザ・ドリフターズ』のメンバーなどが集まり、志村さんの傑作コントが放送されました。放送後、研さんはTwitterを更新。志村さんの写真をバックに写真を撮り、このように思いを述べました。生放送のスタジオの中は、笑いでいっぱいでした。けんちゃんも喜んでいるかなぁ。皆さん、ご覧いただきありがとうございました。 pic.twitter.com/xcuLt68utS — 研ナオコ (@naokoken77) April 1, 2020 同番組はこれまでのコント振り返るという、お笑いタレントならではの笑いにあふれた追悼番組でした。しんみりとするだけでなく、多くの人に笑ってもらうことができて、志村さんも喜んでいるのではないでしょうか。「けんちゃんも喜んでいるかなあ」と思う研さんの頭には、笑顔の志村さんが浮かんでいたのかもしれませんね。きっと今後も、映像として残っている志村さんのコントは多くの人を笑顔にしてくれることでしょう。[文・構成/grape編集部]
2020年04月02日ザ・ドリフターズの加藤茶、仲本工事、高木ブーが30日、志村けんさんが新型コロナウイルスによる肺炎のため29日に死去したことを受け、所属事務所の公式サイトで追悼コメントを発表した。加藤茶は「ドリフの宝、日本の宝を奪ったコロナが憎いです。皆さんも身近に感じて、気を付けてくださるようお願い致します」と胸中をつづり、仲本工事は「ドリフも順番に逝く歳になったとは思ったけど、一番若い志村が長さんの次になるとは、、、。非常に悔しいです」と吐露。高木ブーは「志村早すぎるよ、俺より先に逝くなんて。3年前に、久しぶりにドリフでコントやった時、『高木さんも80歳過ぎて、頑張ってるんだから、自分も頑張らなきゃなぁ』って言ってたよね。また一緒にコントやりたかったのに。心よりご冥福をお祈り申し上げます」と悼んだ。なお、所属事務所は「弊社所属タレント 志村けん(本名=志村康徳) が、令和2年3月29日 午後11時10分、 新型コロナウイルス肺炎のため、満70歳で逝去いたしました。ここに生前のご厚誼を深く感謝すると ともに、謹んでお知らせ申し上げます」と発表。「ご遺族の意向により、通夜及び葬儀は、近親者のみにて執り行われます。誠に勝手ながら、ご香典・ご供花・ご供物の儀も、固くご辞退申し上げます。なお、『お別れの会』等の実施につきましては、ご遺族と相談の上、決定次第、ご連絡申し上げます」としている。
2020年03月30日タレント・志村けんさんが新型コロナウイルスによる肺炎のため70歳で亡くなったことを受け、歌手の和田アキ子(69)が30日、所属事務所を通じて追悼コメントを発表した。和田は、「とにかく残念です。本当に回復を願ってました。回復すると信じていたので、、、」と突然の訃報に悲痛な思いをつづり、「志村(昔からそう呼んでいたので、あえてそのまま呼ばせてください)とは、志村がまだ全員集合の時にボーヤをやっていた頃からの付き合いです」と思い出をさかのぼった。「当時、志村はコーヒーを楽屋で売っていて、毎回それを買ってあげると物凄く喜んでくれました。それからの活躍はそれはそれはすごくて。音楽も詳しくて、お笑いの才能はズバ抜けていて、凄いなぁと尊敬していました。飲み屋で一緒になる事が多くて、何度かばったり会って飲みました。とにかく静か~に寡黙に飲むんですよ。『楽しいの? 私といるからつまらないの?』って聞いたら、『楽しいですよ。いつもこんな感じです』って、これまた小さい声で笑って答えていました」そして、「最後に会ったのは、正月の『格付けチェック』の番組です」と明かす和田。「『お互い歳だから、仕事に感謝して頑張って行こうな』って話していたんですよね、、また1人、才能あふれる人が亡くなってしまいました、、本当に残念でならないです」と悼み、「心からご冥福をお祈り申し上げます」と結んでいる。
2020年03月30日月曜日、1月26日にヘリコプター事故で亡くなったコービー・ブライアントと娘のジアーナさんの追悼式が開かれた。「E!News」などが報じた。コービーが長期に渡って活躍したレイカーズの本拠地・ステイプルズ・センターで、レイカーズのチームカラーである黄色のスーツを着用したビヨンセのパフォーマンスからスタート。ビヨンセは、「XO」を歌い始めるとすぐに「私がここに来たのは、コービーのことが大好きで、この曲が彼のお気に入りだったから」と観客に伝えた。アリシア・キーズは、コービー&ヴァネッサ夫妻が好きなベートーヴェンの「月光ソナタ」をピアノで演奏し、クリスティーナ・アギレラは「アヴェ・マリア」を熱唱した。司会を務めたジミー・キンメルやシャキール・オニール、マイケル・ジョーダン、ヴァネッサは、スピーチでコービーらを偲んだ。ヴァネッサは「私たちは本当に素敵なラブストーリーの中にいました。お互いが全身全霊で愛し合っていました。完全に不完全な2人の人間が美しい家族を築き、かわいく、素晴らしい子どもたちを育てていたのです」と涙ながらにコービーとの愛について語った。「ベイブ(コービー)、私たちのジジ(ジアーナ)をよろしく。私たちはいまも最高のチーム。また会う日まで安らかに眠り、天国で楽しく過ごして」と2人に呼び掛け、出席者の涙も誘った。(Hiromi Kaku)
2020年02月25日『映画 少年たち』(3月29日公開)のジャニー喜多川さん追悼上映が行われることが30日、明らかになった。8月16日から東京・丸の内ピカデリーほかで上映される。同作はジャニーズの舞台”少年たち”シリーズを映画化。1965年から上演されていた舞台を2010年に大阪松竹座と日生劇場で復活させ、これまでにKis-My-Ft2、A.B.C-Z、ジャニーズWESTなど若手ジャニーズが出演している。映画版では2012年の少年刑務所を舞台に、対立する赤房のSixTONES、青房のSnow Man、そして彼らを傍観する黒房のなにわ男子・関西ジャニーズJr.を中心とした物語を展開する。製作総指揮を務めたジャニーズ事務所社長・ジャニー喜多川さんが9日にくも膜下出血のため亡くなったため、全国のファンから松竹に対し「ジャニーさんの思いの詰まった映画をもう一度観たい」「ジャニーさんの最後のメッセージをもう一度感じたい」など、再上映を望む声が数多く寄せられた。3月29日に初日を迎え、全国158館で上映。約50万人を動員し、「北京国際映画祭」のパノラマ部門に選出され特別上映を果たした同作。またサプライズ好きのジャニーさんらしく、映画上映と共に当日誰が出演するかシークレットのライブパフォーマンス(実演)を組み合わせた「映画と実演」という取り組みを実施。これは映画製作当初よりジャニーさんが思い描いていたプランだったという。8月16日からの追悼上映は、4月15日に丸の内ピカデリーで開催された「『映画 少年たち』 映画と実演アンコール上映」時の実演映像付きとなる。全国155館の映画館でライブビューイングされ、SixTONES、Snow Man、宮近海斗(Travis Japan)、なにわ男子、HiHi Jets、美 少年、7 MEN 侍、少年忍者、室龍太ら東西の人気ジャニーズJr.たち、総勢53名が登場した。また今後は、なにわ男子・関西ジャニーズJr.による舞台『少年たち青春の光に・・・』が8月に大阪松竹座、SixTONES・Snow Manによる舞台『少年たち To be!』が9月に日生劇場で上演される。
2019年07月30日元SMAPの稲垣吾郎、草なぎ剛、香取慎吾が19日、くも膜下出血のため9日に亡くなったジャニーズ事務所の代表取締役社長・ジャニー喜多川さんを追悼するコメントを連名で発表した。3人は「先週、ジャニーさんの家族葬が執り行われたと伺っております。僕らは、僕らのそれぞれの想いを込めて、今、自分達のいる場所からお別れをさせていただきました」と伝え、「どんな時でも背中を押してくれたジャニーさん、ありがとうございました。心からご冥福をお祈りいたします」と悼んだ。1991年にCDデビューし、数々の名曲を世に送り出したSMAPは、2016年末に解散。その後、稲垣、草なぎ、香取は2017年9月にジャニーズ事務所を退所し、「新しい地図」を立ち上げ活動している。
2019年07月19日歌舞伎俳優の市川海老蔵が、自身のブログを更新し、9日にくも膜下出血のため亡くなったジャニーズ事務所の代表取締役社長・ジャニー喜多川さんを追悼した。海老蔵は9日夜、「ショックです。」と題してブログを更新。「ジャニーさん、心よりご冥福をお祈りします。とてもショックです」と心情をつづった。また、10日朝の投稿で、「歌舞伎は400年の時を経て伝統芸能となりました。ジャニーズの皆さんは歌って踊れて…ファンの皆さんの笑顔や熱気…まさに歌舞伎のルーツだと思います」とし、「ジャニーさんのエンターテイメントへの愛は育てられた皆さんに受け継がれ、ジャニーさんは出雲のお国のような歴史上の人物になられるでしょう」(原文ママ)と追悼。さらに「ジャニーさんが親で所属の皆さんが子どもたちという関係性…素晴らしいです。ジャニーさんに直接お会いできなかったことが本当に残念です」とつづり、「歌舞伎もエンターテイメントです。ジャニーさんが育てた子どもたちとエンターテイメント界の灯火を絶やさないように私も舞台人としてこれからも頑張っていきたいと思います」と決意を記した。
2019年07月10日昨年7月に亡くなった劇団四季の創立者で演出家・浅利慶太氏の追悼公演として、劇団四季『ジーザス・クライスト=スーパースター』(エルサレム・バージョン)の名古屋公演が6月12日(水)に開幕を迎えた。公演に先駆け11日には、公開舞台稽古が行われた。本作は1976年に初演となった、“浅利演出”を代表する作品の一つ。イエス・キリストが十字架にかけられるまでの最後の七日間を描いた物語。劇場のロビーには、過去の公演で指導する浅利氏の写真パネルが飾られていた。客席に入ると、土ぼこり舞うイスラエルの荒野を表現した、急傾斜の舞台が待ち構える。人々から「神の子」「救い主」と崇められたキリストの孤独、彼を深く愛するマグダラのマリア、そして仲間による裏切り…。それぞれの心の叫びを鮮烈なロックミュージックで綴る105分ノンストップの舞台は、まさに圧巻の一言。急傾斜の舞台を用いた迫力ある演出や、十字架にかけられるシーンの芸術性の高さにも必見だ。“浅利演出”が息づくエネルギーあふれる舞台を、ぜひ劇場で。■劇団四季『ジーザス・クライスト=スーパースター』エルサレム・バージョン 名古屋公演日時:7月7日(日) まで上演中会場:名古屋四季劇場 (愛知県)チケット料金:S1席-10800円/S2席-10800円/A1席-8640円/A2席-8640円/B席-6480円/C席-3240円※公演当日3歳以上はチケット必要(膝上観劇不可)。2歳以下は入場不可。
2019年06月13日