人生の先輩的女性をお招きし、お話を伺う「乙女談義」。歌手の瀬川瑛子さんの第4回目は、意外な“自分へのご褒美”について、そして上沼恵美子さんとの心温まるエピソードをお届けします。生クリームで自分を甘やかすことも大切です。長い人生、頑張ることも大事ですが、一方で一度きりしかないわけですから、たまには気を抜いたり、また自分で自分にご褒美をあげて、人生を楽しむことも大事だと思っています。ちなみに私のご褒美は、キラキラした素敵な時計なんかも好きなんですが、一番は生クリームたっぷりお菓子(笑)。小さい頃は不二家のパフェが大好きで、今は、お気に入りのカフェで食べるマカロン付きのボリュームたっぷりのパフェ、それからコンビニのスイーツが最大のご褒美。生クリームたっぷりの餡ホイップとか、餡バターとか、もう大好きで仕方ない。あんな絶妙なおいしさ、世界中どこを探したってないですよ。体と相談しながら許される範囲で買いまくっています。それから麻雀!若い頃から大好きで、実は私、プロになりたかった。でも年齢制限で夢は叶わず…。40歳未満までしかプロになれないことを知らなかったんです。それに関しては、今でもちょっと悔しいですね(笑)。上沼恵美子さんに弟子入りを志願した過去が…。昔から私は、言うことがちょっと突拍子もなかったり、誰かが私にツッコミを入れてくれても、それに気が付かずぼーっとして、「あなたに言ったのよ?」と言われあたふた、みたいなことがよくありました。そんな私を見た方からバラエティ番組の出演オファーをいただき、たまにお邪魔するようになりました。でも最初の頃は、「面白いことを言わなきゃ…」と思うのに何もできなくて、とても辛かったんです。上沼恵美子さんとご一緒したときに、あまりに上沼さんが面白いので、「弟子にしてもらえませんか?」とお願いしたんです(笑)。でも上沼さんは、「瀬川さんはそのままでいい。当意即妙な瀬川さんなんて、瀬川さんじゃない」とおっしゃってくださって、そこで少し気が楽になりました。これからも、みなさんが喜んでくださることを誠心誠意やりながら、楽しくいきたいです。75歳の私もがんばりますから、若いみなさんも楽しく幸せな人生を歩んでくださいね。せがわ・えいこ1947年生まれ、東京都出身。’87年に『命くれない』がオリコン年間チャート1位を獲得。シングル『愛恋川』(日本クラウン)が発売中。バラエティ番組などにも多数出演。※『anan』2023年1月11日号より。写真・内山めぐみスタイリスト・白石有梨奈ヘア&メイク・設楽樹加(by anan編集部)
2023年01月07日人生の先輩的女性をお招きし、お話を伺う「乙女談義」。12月のゲストである歌手・瀬川瑛子さんは、75歳になってもスタイル抜群。ちょっと変わった方法で体型のチェックをするそうです。また、ご自身の経験から健康の大切さを語ってくれました。第3回目をお届けします。体型チェックに、お気に入りのドレスは欠かせません。昔からファッションは好きで、取材のときは派手めな洋服を着ることが多いです。今回の企画、正直ananさんがなんで私に取材…?!とびっくりしたんですが(笑)、75歳の私が、まだまだ輝きたい、頑張りたいと思っている気持ちが届いたらいいな、と思ってヒョウ柄のジャケットを選びました。ちなみにステージに上がるときは、自分でデザインしたドレスを着ます。何着か、最も理想的な体型だったときに着ていたドレスというのがありまして、太ったかなと思ったときはそのドレスを着て、体型をチェック。お腹が出たとか、胸が下がったと思ったり、スタッフに「ファスナー上がりませんよ!」と言われたら、体に意識を払います(笑)。体重計や鏡ではなく、ドレスが私のバロメーターなんです。たぶん皆さんも、お気に入りや、それを着ているときの自分が好き、という服がありますよね?その洋服を基準にしてみると、体への意識が変わるかもしれません。大切なのは感謝の心と健康な体です。デビュー以来大きな病気もなくやってきたのですが、数年前に初めて入院と手術を経験しました。1か月くらい入院をしたのですが、自分にとって歌がどれだけ大事な存在であったか、また応援してくださる方々がいるからこそ私は元気で歌ってこられたということを、心の底から実感しました。おかげさまで元気になりましたが、この先あとどのくらい歌えるかはわからない。歌うときには感謝を持って歌いたい、と心の底から思っています。若い皆さんにお伝えしたいのは、友だちや恋人、仕事で関わる方々への感謝を忘れないでほしいということ。それから、体への気遣い。きっと年に1回職場などで健康診断があると思いますから、必ずそれは受けてほしい。健康って、本当に大事。これからの日本を担う皆さんだからこそ、体には気を使ってほしい。どこかで私の顔や名前を見たら、「瀬川瑛子が健康診断受けてって言ってたな」と思い出してくれたら嬉しいです(笑)。せがわ・えいこ1947年生まれ、東京都出身。’87年に『命くれない』がオリコン年間チャート1位を獲得。シングル『愛恋川』(日本クラウン)が発売中。バラエティ番組などにも多数出演。※『anan』2022年12月28日‐2023年1月4日合併号より。写真・内山めぐみスタイリスト・白石有梨奈ヘア&メイク・設楽樹加(by anan編集部)
2022年12月27日人生の先輩的女性をお招きし、お話を伺う「乙女談義」。12月のゲストは歌手の瀬川瑛子さん。実は売れない時期が長くあったようで…。第2回目は、苦労時代に感じていたこと、そしてヒットを飛ばしてからのユニークなお話です。長く続いた〈潜水艦歌手〉時代を乗り越えられたのは…。どんな職業でも、順風満帆に行ける人って、そんなにたくさんはいないと思います。私は’70年のヒットの後、17年間まったく売れず。いつも下の方にいてなかなか浮上しないので、〈潜水艦歌手〉なんて呼ばれていました(笑)。私たちのような音楽をやっている歌手は、新曲をリリースすると、各地のレコード屋さんにご挨拶に回る、いわゆる〈キャンペーン〉をします。私が売れずに苦しんでいる時代も、毎年1枚は新曲を出させてもらっていたので、各地にお邪魔をすると、五木ひろしさんや八代亜紀さんなど、大スターが売れる前に書いたサインが飾ってあるのが目に入る。それを見て、「みんな頑張ってきた、辛いのは自分だけじゃない」と勇気をもらっていました。辛いとき、大変なときは、それを内側に抱え込まないことって大事です。誰かに話せないときは、散歩をしたり、深呼吸をしたりして、心をリセットする。その上で自分を信じて頑張る。これが私の乗り越え方です。モノマネをされるようになってこそ、一流です。父は昔から、「将来もし瑛子が歌手になりヒットをしたとき、誰かがモノマネをしてくれたら“一流になった”と思っていいんだよ」と言っていました。当時はよくわからなかったんですが、’87年に『命くれない』という曲が大ヒットした後に、その意味を理解することに。コロッケさんや栗田貫一さんらが私の歌や喋り方のモノマネをするようになり、以後私がステージで「瀬川瑛子でございます」と挨拶をすると、それだけでお客様が沸くんです。極端に言えば、出ていくだけで笑いが起こる(笑)。最初は戸惑いましたが、その一瞬があることで、客席と私の距離が一気になくなり、会場がとてもいい雰囲気になる。そういえば新潟駅で小さい子供に、「瀬川瑛子?“モ~”って牛のモノマネして?」と言われたことがあって、私が「モ~」と言ったら、「本当に瀬川瑛子だ!!」と言われたことがありました(笑)。今はこれも一つの幸せなんじゃないのかな、と思っています。せがわ・えいこ1947年生まれ、東京都出身。’87年に『命くれない』がオリコン年間チャート1位を獲得。シングル『愛恋川』(日本クラウン)が発売中。バラエティ番組などにも多数出演。※『anan』2022年12月21日号より。写真・内山めぐみスタイリスト・白石有梨奈ヘア&メイク・設楽樹加(by anan編集部)
2022年12月17日人生の先輩的女性をお招きし、お話を伺う「乙女談義」。12月は今年歌手生活55周年を迎えた瀬川瑛子さんがゲストです!第1回目は歌手になる前、そしてなりたての頃について語ります。歌手になったきっかけは、父の思いでした。私の父・瀬川伸は紅白歌合戦にも出場経験がある流行歌手でした。3人の子供のうち誰かを歌手にしたかったようで、私は物心ついたときからピアノの前で歌の練習をさせられました。昭和の時代って、家庭の中では父親というのは絶対的な存在でしたし、しかも姉が早々にレッスンから逃げ出したため(笑)、ここで私もいなくなったら父はがっかりするだろうな…などと思ってしまい、結果的に私が、父が敷いた歌手へのレールに乗ることに。5歳くらいで、菊池章子さんの「星の流れに」という歌をレッスンしていたときのこと。歌詞が“生きるためには身を売るしかない、こんな女に誰がした”的な内容なのもよくわからないし、そのうえ父は「歌詞を見て歌えばいいってもんじゃない、感情を乗せて!」とか言うものだから、頭の中は「??」状態(笑)。随分叱られましたけれど、無事に19歳でデビューできたときには、父も喜んでくれ、恩返しができたかな、と思いました。長崎のご当地ソングがヒットしたのですが…。1967年にデビューはできたものの、なかなか売れず。3年目の’70年に、『長崎の夜はむらさき』という曲をいただき、50万枚のヒットになりました。キャンペーンで長崎に行くと、駅を歩けば曲が流れ、バスガイドさんもバスの中で歌ってくれ、またタクシーに乗ればラジオから曲が聞こえてくる。嬉しさを感じるとともに、自分の歌をこんなにたくさんの方が聴いてくださっていることを実感し、歌ってすごい、ヒットするってこういうことなんだ…と、感動したのを覚えています。このとき実は、レコード会社の方が、「地元出身だと応援してもらえるから」と、私を“長崎出身”と売り込んだんです。でも私、東京の渋谷出身なんですよ…。それを言い出せず、申し訳ないと思う気持ちをずーっと抱いたまま活動してきて、’16年に明石家さんまさんの番組で初めて、「実は…」と告白し、長崎の皆さんにお詫びをしました。でも応援は本当に嬉しかった。今でも感謝しています。せがわ・えいこ1947年生まれ、東京都出身。’87年に『命くれない』がオリコン年間チャート1位を獲得。シングル『愛恋川』(日本クラウン)が発売中。バラエティ番組などにも多数出演。※『anan』2022年12月14日号より。写真・内山めぐみスタイリスト・白石有梨香ヘア&メイク・設楽樹加(by anan編集部)
2022年12月09日音楽家の古澤巖と俳優の山本耕史がタッグを組み、音楽と言葉でステージを彩るコンサート「Dandyism Banquet」が9月から全国で開催される。本公演は音楽と言葉を融合させて、これまでにないエンターテインメントを描く試みで、8月には本コンサートのメンバーで収録されたミニアルバム「Dandyism Banquet」も発売される。当日は古澤、山本のほか、塩谷哲、小沼ようすけ、大儀見元、井上陽介が出演。Bunkamuraオーチャードホール公演はすでにチケットが発売中で、愛知と大阪公演は今月11日(土)からチケットが発売になる。古澤巖×山本耕史コンサート「Dandyism Banquet」9月4日(日)東京Bunkamuraオーチャードホール9月11日(日)愛知愛知県芸術劇場コンサートホール9月17日(土)大阪NHK大阪ホール10月3日(月)静岡アクトシティ浜松 大ホール11月5日(土)東京かつしかシンフォニーヒルズ モーツァルトホール12月20日(火)静岡静岡県コンベンションアーツセンター グランシップ中ホール大地12月21日(水)横浜関内ホール2023年1月28日(土)宮崎野口遵記念館(延岡市)【出演】古澤巖(ヴァイオリン)、山本耕史(語り・歌)、塩谷哲(ピアノ・音楽監督)、小沼ようすけ(ギター)、大儀見元(パーカッション)、井上陽介(ベース)■チケット情報
2022年06月10日ミドルエイジの先輩たちが「自分らしい生き方」に至るまでーー古澤瑛子さん特別支援学校卒業後、飲食店やレンタルビデオチェーンでの勤務を経て、現在はアパレル企業で勤務する古澤瑛子さん(以下、アコさん)。約1年前に実家を離れ、発達障害や知的障害のある人たちが共に暮らす「グループホーム」で生活しています。先天性の遺伝子疾患・ウィリアムズ症候群とADHDのあるアコさんの良き理解者であり、子どもの療育やグループホーム運営を長年続けている「一般社団法人発達障がいのためのハッピーライフ研究会」の高見澤千佐先生と共に、幼少期から現在に至るまでをお話しいただきました。Upload By 鈴木悠平生まれつき心臓が弱く両親は心配していた。先生と出会い、療育でたくさんの経験を――お二人とも、今日はよろしくお願いします。はじめに、アコさんの幼少期のころのお話や、先生との出会いについてお聞かせください。古澤瑛子さん(以下、アコ):活発で、外で遊ぶのが好きな子でした。親からは「すぐどこかへ行っちゃう」って心配されていたみたいです。高見澤先生のところには、4歳から療育に通っています。会ったときからすぐ仲良くなって(笑)、そこからずっと、お世話になっています。Upload By 鈴木悠平高見澤千佐先生(以下、高見澤):ウィリアムズ症候群の特徴で、アコさんは生まれつき心臓が弱いのもあって、お母さんはものすごく緊張感を持って彼女を育てておられたんです。転んで怪我して入院するんじゃないか、なにかあったら死んじゃうんじゃないかって、どこかに連れていくのもすごく慎重で。わたしはいろんな子を見てきたプロなんで、まぁお母さんそんなに緊張しないで、と(笑)。アコさん本人も、わたしと相性が合ったらしく最初っからすごくなついてくれたし、自分で学んで覚えていく力はすごくある子だなと思ったので、どこにでも連れて行って、とにかくいろんなことを体験してもらいました。アコ:はい、いっぱい体験しました!先生のところでは合宿もあって、しょっちゅうお泊まりにも行ってましたね。高見澤:うちの療育にはだいたいいつも50人ぐらいが来ていて、半分が知的障害、半分が発達障害のある子どもたちです。基本的には幼児のときから通ってもらって、二十歳以降の自立を見据えて、一人ひとり課題に取り組んでもらっています。勉強だけでなく、言語療法や運動療法まで、その子がそのとき必要なことを、という感じですね。彼女は、手先の不器用さがあったり、気がものすごく散りやすかったりして、小さいときは集中して取り組むのがなかなか大変だったんですけど、うまくいかなくて泣くことはあっても、次の日にはいつもニコニコで現れて「先生、会いたかったー!」って(笑)。いつも明るいよねー。アコ:今でも先生にベッタリですね(笑)。みんな一緒に過ごしていたはずなのに、「障害がある」というだけで扱いが変わるーー保育園や学校などでの、集団生活はいかがでしたか?アコ:保育園のときは、遊具にうまく登れなくて、運動会の競技に参加できないと言われて…高見澤:運動会で、はしごを登って鐘をカーンって叩く種目があるんですが、参加を遠慮してほしいって園から親御さんに言われたことがあったんですよ。Upload By 鈴木悠平ーーそんなことが…高見澤:でも、わたしが園に行ってコツを教えたら10分でできるようになったんだよね!アコ:はい!先生にコツを教わったらすぐできました。高見澤:運動会当日もバッチリできて、みんなに大拍手をもらったよね。やっぱり当時はまだまだ、「障害があるとみんなと同じことはできないんじゃないか」というような偏見が強くて、本人も「それはおかしいんじゃないか」っていうのはすごく感じ取っていました。アコ:小学校に入ってからも、途中までは楽しく過ごせていたんですが、6年生のときにクラスメイトに思いっきり蹴り飛ばされて、それがすごく辛くて、不登校になっちゃったんです。高見澤:心臓が悪いっていうことは、本人は普段からいろんな人に言ってたんです。それなのに胸を蹴られたっていうのがものすごいショックだったみたいで。アコ:はい、ほんと怖かったし、友達に蹴られたっていうのがショックでした。知らなかったんならともかく、知ってるのにどうしてこんなひどいことするのって。高見澤:障害のある子が疎外感を経験しやすいのがこの時期で、やっぱり難しいですね。だいたい4年生ぐらいまでは、みんなフランクに、障害がある子もない子も一緒に遊んでたりするんですけど、思春期に入りかけると違いを気にするようになって、仲良しグループがつくられるときに障害のある子が仲間はずれにされやすいんですよ。今までは「一緒においで」って言われたのが、急に「え、なんでお前来んの」って言われたりして、そこで本人も違いを自覚して、寂しい思いをすることになる。うちの療育でも、不登校を経験したことのある人は多いです。アコ:そのまま、中学校は3年間ずっと不登校で、先生のところに毎日通ってお世話になっていました。Upload By 鈴木悠平高見澤:フリースクールとして、うちへの出席を学校の出席扱いにしてもらって、そのまま卒業ですね。―中学卒業後は、特別支援学校の高等部に通われたとお聞きしました。通常の高校か特別支援学校か、進学先はどのようにして決めましたか?アコ:やっぱりいじめられたときの印象がずっと残っていて、学校行くこと自体がすごく怖くなってしまっていたんです。でも母親は、やっぱり高校は出てほしいと言うので、先生に相談に乗ってもらいました。高見澤:うちのフリースクールに通ったあと、高校進学せずにそのまま就職できている人もいっぱいいるんですけど、彼女の場合は、お母さんがものすごく思いつめられていてね。「中学校を不登校にさせてしまったから、せめて高校だけでも」って。ただ、アコさんは漢字や英語を書くのがどうしても難しくて、その状態で入れる高校の選択肢が当時はほとんどなかったんです。だったら、就職に向けた訓練もできるし、特別支援学校の高等部が良いだろうと。本人はそういった特別支援学級・特別支援学校的なところをそれまで経験していなかったので、入学当初はかなりびっくりしていましたね。――3年ぶりの学校で、はじめての特別支援学校というと、不安や緊張も大きかったと思います。アコ:もうほんと、毎日泣いてましたね。怖い!行きたくない!って。高見澤:うちの療育にも来ていた彼女の親友が1学年上にいたのが救いで、ほぼ彼女に会うために学校に行ってたようなもんだよね。その分、その子が卒業するときは大変で(笑)。アコ:あまりにショックで「わたしも姉さんと一緒に卒業する!置いてかないで!」って大泣きしてましたね(笑)。高見澤:卒業式、本人よりこの子の方が泣いてたっていうね。働いてお金を稼ぐ。親元を離れて暮らす。自分がどう生きるかを「選べる」ことがとても幸せ――それでは、特別支援学校卒業後の就労についてお聞かせください。アコ:卒業して最初に働いたのは喫茶店です。お客さんの注文を取ったり、飲み物や料理を運んだり、それから清掃とか。高見澤:最初は福祉的就労でしばらく働いたんです。わたしも見に行ったんですが、アコさんはお客さんに合わせて話すのが得意で、「雨ひどかったですねー」とか「今日何になさいますか?」とか、常連さんともすぐ仲良くなって、楽しくやっていましたね。参考: LITALICO仕事ナビ 福祉的就労とはどんな働き方なの?一般就労との違いなどについても説明しますアコ:そのあとに、障害者雇用での就職先をいくつか見に行って、次に就職したのがレンタルビデオチェーンの店舗の仕事です。何年か経ってから、そこが一度障害者雇用を終了するということで辞めなくちゃいけなくなったんですが、就労支援センターに通っている間に今の会社の人が見学に来て、それで就職が決まりました。そこから7年間、今の会社で働いてます。――今のお仕事が一番長いんですね。若い世代に人気のアパレルブランドの、渋谷の店舗で働かれているとお聞きしました。具体的にはどんな業務を担当されているんですか。アコ:わたしの担当は主に倉庫の業務ですね。スペインから送られてきた洋服を出して、輸送用のハンガーから店舗用のハンガーに入れ替えて…という感じで、お店に出る前の商品を整える仕事です。――へええ、なるほど。普段なかなか見られない、バックヤードでのお仕事、興味深いです。仕事の中で、やりがいや楽しさを感じる場面はありますか?アコ:仕事のやりがいは、ええと、そうですね…やっぱり働いてお給料をもらえるのが。Upload By 鈴木悠平高見澤:仕事の内容というか、お金だよねぇあなたは(笑)。アコ:はい、まさにお金ですね(笑)!――シンプルな答え(笑)。働いて稼いだお金は何に使うんですか?アコ:お金を貯めて自分のほしいものをひとつずつ買っています!こないだはiPhoneも買ったし、次はApple Watchとか、Bluetoothのイヤホンを買いたいなって。高見澤:あとは食だよね。グループホームではお昼ごはんの提供はないので、ご実家からお弁当を持って行くことが多かったんですけど、せっかく毎日渋谷に通勤してるんだしということで、「ランチを自分のお金で食べる」という念願を叶えて、いろいろ好きなもの食べて楽しそうですよ。毎日、わたしが仕事で忙しい中、お昼になると「先生、今日はポークチョップです!」「今日は中華♡」とかって写真が送られてきて(笑)。アコ:ふふふ(笑)。高見澤:なかなか攻撃力のある「飯テロ」をしてくるんですよ(笑)。アコ:でも今はApple Watchを買うために節約モードに入ってて…今日もカップ麺でした。高見澤:耐え忍んでますね(笑)。でもほんとに、お金は楽しいみたいだね。アコ:楽しいですね。なんか、初めてなんですよ。ケータイを自分で選んで変えられるとか。――自分でお金を稼いで、自分で使いみちを選べる。アコ:そうそう、それは本当に感動しましたね。高見澤:やっぱりお家にいる間は、全部親御さんがやってくださっていたんでね。このグループホームの個室の家具やカーテン、彼女は全部自分で決めたんですよ。いろんなお店を回って、毎回店員さんに詳しく説明してもらって、すっごく悩んで決めてって、もう大変で(笑)。「わたし、カーテン選んでいいんですか!?」ってすごく感動しててね。Upload By 鈴木悠平アコ:実家にいるときは、そんなことをやらせてもらえなかったんですよ。高見澤:毎月、給料が入ってきたら「これがあなたのお給料です。どう使おうか」って、テーブルの上に出すんですよ。グループホームに生活費として入れる額をよけて、残りの中で「この中からあなたは今月いくら貯金したい?」「お昼にいくら使いたい?」「何かほしいものありますか?」って、毎回やるんだよね。アコ:はい、そうです。先生と一緒にやってます。高見澤:彼女、すごい悩んで吟味するので、いつも2時間から3時間かかりますよ(笑)。でも、自分でお金の使い方を決めるっていうのはほんとに楽しいみたいですね。やっぱりどうしても親御さんがいると心配しちゃって「あなたのお小遣いはこれね」「だけどそれは買っちゃダメ」とか「ほしいんだったらお母さん買ってくるから」ってなっちゃってたので。アコ:そうですね。お金以外でも、「どこどこ行ってくるよー」って外出するときも「1人で行かないで」って親が心配してついてくるというパターンがほとんどで。――ご両親も心配ゆえなのでしょうけど、アコさんにとって「自分で決める」機会を持てたのは、大きな変化だったんですね。グループホームでの日々の暮らしについても教えていただけますか。高見澤:ここは男性2人女性2人の、彼女を含めて4人で暮らしています。朝晩は食事の提供があって、昼はそれぞれ。この人はごはんが何より楽しみで、「今日の夕飯なんですかー!」って仕事からもルンルンで帰ってくるよね(笑)。アコ:はい!もう、ごはん大好きで!高見澤:共有スペースの掃除や片付けは、4人で分担決めてやってます。で、各自の部屋は、自分で掃除なんだよね。アコ:はい、やってます。掃除も洗濯もやっぱり、実家で親がいると頼りっぱなしというか…自分も甘えが出ちゃうので、それもなくしたかったんですよ。自分の部屋を持って一人暮らししつつ、みんなと一緒に家事をして、気持ちや思い出を分かち合えるっていうのが、すごく嬉しいですね。――なるほど、食事付きのシェアハウスみたいな感じですね。楽しそうです。高見澤:区が募集をかけるようなグループホームだと、知らない人同士で入居して、あんまり交流がなくて、というかたちになることも少なくないんです。わたしが運営しているグループホームは、それまで療育に来ている人たちが入るので、だいたいが顔見知りですね。月に1回ぐらいは、みんなで焼肉屋に行ったりとかしてますよ。――いいですねえ。高見澤:もちろん中には、グループホームの共同生活で、まわりにどう接していいかわからなくて困っちゃう人もいるんですが、彼女はそういうときにすごく自然に声をかけてくれてね。最初は黙ってた子が、気づいたら「あ、おはようアキコ」「今日また夜、会おうね」って言って会社に行くようになってたりね。お互い影響し合っていい感じに変化していくんですよ。アッコムードの力だなって(笑)。アコ:ふふふ(笑)。高見澤:彼女のこのキャラクターが、家では「お節介」って言われがちだったんですよ。「あんたそんな他人のことはいいから、自分のことやんなさい」っていっつも言われてたんだけど。ここではそのお節介が、すごくうまく作用してるんだなって思います。わたしはずっと、自分が大好き高見澤:ご両親との関係や、お互いが願うことのギャップの話もいろいろしてきましたが、彼女のずっと変わらない、素敵だな、美しいなって思うところが、すごく自分のことを愛していることなんですね。ウィリアムズ症候群は先天性の疾患で、本人も割と早くからそのことを理解していたんです。どうしても、障害のある子を産んだ親御さんは思いつめやすくなる面はあって、彼女のお母さんも「ウィリアムズに産んじゃってごめんね」って思っていた時期があったんです。わたしも彼女本人がどう思っているか少し心配していたので、療育に通ってしばらくしてから「ウィリアムズ嫌だ?」って聞いたことがあったんですけど、「いや、わたしは自分のこと大好きだから、ウィリアムズに生まれてよかった」って、あっさりでした。それ、今でも言うよね?アコ:はい、言いますね、ずっと言ってます(笑)。自分のことは、好きですね、ふふ。お母さんに「産んでごめんね」って直接言われたときにも、「いや、わたしはウィリアムズに生まれて嬉しいなって思ってるよ」って。Upload By 鈴木悠平――自分を大好きでい続けられるって、素敵です。きっとお母さんもアコさんにそう言われて楽になったと思います。高見澤:ほんと、ずっと言ってるよね。ウィリアムズ症候群の親の会があるんですけど、「わたしもそこに入って、後輩と会いたい」って言うぐらいで。親の会は親じゃないと入れないって言ったら悔しがってましたね(笑)。アコ:なんで本人は入れないの、行きたいじゃん、みたいな(笑)。――最後に、進学や就職、将来の生活について、不安や悩みのある若い読者に向けてメッセージをお願いします。アコ:そうですね…やっぱり、楽しく暮らしてほしいなっていうのが一番ですね。落ち込んだり、学校行けなくなったりとか、そういうこともあるけど、将来もあるし、前向きに生きていってほしいなっていうか。発達障害でも知的障害でも、ウィリアムズでも、好きなことをやったり、恋人をつくったり、いろんな幸せを感じて生きていけばいいじゃないかって、わたしは思っているんです。――アコさんにとっての、高見澤先生や、特別支援学校が一緒だった先輩、ここで一緒に過ごす友達みたいな、一緒に幸せを分かち合える存在をつくっていけるといいですよね。アコ:そうですね。ほんとに大事な存在です。嬉しいです。高見澤:ずっと朝から晩まで、けらっけら笑って生きてるよね。アコ:もうけらっけらけらっけら、ずっと笑ってます(笑)。――アコさんのように、いじめや不登校を経験している子もいると思います。そうした時期を経験して大人になったアコさんから、なにか伝えたいことがあれば。アコ:いじめられたときはとにかく、1人で抱え込まないでほしいなって思いますね。わたしもつらかったですけど、相談できる人が1人でも2人でも増えるといいなって。高見澤:あんたそんなこと言うようになったの、すごいね。はっはっは(笑)。アコ:わたしも抱え込んでたときがあったんですよ(笑)!高見澤:抱え込んでたって、毎日のようにわたしとワーワーワーワー言ってたじゃん(笑)。アコ:だから!抱え込んじゃってたからそうやって先生に相談したんじゃないですか(笑)。Upload By 鈴木悠平先天性の遺伝子疾患を抱え、両親に心配されたり、学校でのいじめや不登校を経験しながらも、ずっと「自分が大好き」だと語り、周りとも明るく活発にかかわりながら生きているアコさん。インタビュアーの私も、アコさんのお話を聞いているだけで明るい気持ちにしてもらいました。アコさん自身の明るい性格もさることながら、高見澤先生やグループホームの同居人をはじめ、日常を分かち合える大切な人たちの存在が、きっとものすごく大きなエネルギーになっているのだろうな、とも感じました。実家暮らしでも一人暮らしでもない、「グループホーム」という選択肢も、ぜひ読者のみなさんに参考にしていただければ幸いです。取材・文:鈴木悠平編集:佐藤はるか撮影:鈴木江実子LITALICO発達ナビ無料会員は発達障害コラムが読み放題!
2021年02月28日衣装デザイナー・石岡瑛子の企画上映が、東京・渋谷のBunkamura ル・シネマで開催決定。2020年11月27日(金)より、『ドラキュラ』と『白雪姫と鏡の女王』の2本が上映される。石岡瑛子の代表作&遺作がBunkamura ル・シネマで上映初の大回顧展「石岡瑛子 血が、汗が、涙がデザインできるか」が現在東京都現代美術館で開催され、その才能に改めて大きな注目が集まっている石岡瑛子。“総合芸術”とされる映画において、特に視覚的な世界観を構築する上で欠かせない要素の一つである衣装デザインの分野で、多大な功績を残した世界的衣装デザイナーだ。今回はその仕事を映画で振り返るべく、『ドラキュラ』と『白雪姫と鏡の女王』2本の上映が急遽決定した。『ドラキュラ』彼女の代表作として挙げられることの多い『ドラキュラ』(1992)は、巨匠フランシス・フォード・コッポラ監督がドラキュラ伝説を描いた壮大なゴシック・ロマン。『地獄の黙示録』(1979年)の日本版ポスターを気に入ったコッポラ監督が、当時のハリウッドの部外者ともいえる石岡を大抜擢。「衣装がセットで、セットがライティング」というコッポラの大胆なコンセプトを見事に表現した石岡は、本作で見事アカデミー賞衣装デザイン賞に輝いている。『白雪姫と鏡の女王』一方、グリム童話の『白雪姫』を題材とした『白雪姫と鏡の女王』(2012)は、ターセム・シン監督との4作目のコラボレーションであり、石岡の遺作となった作品。白雪姫を演じたリリー・コリンズが一番気に入っているという大きなオレンジ色のリボンが付いた⻘いドレスと、継母役のジュリア・ロバーツが着用した花びらを重ねたような白いウェディングドレスは、石岡瑛子展の最終室を飾っている。開催概要石岡瑛子の映画衣装特集『ドラキュラ』『白雪姫と鏡の女王』上映期間:2020年11月27日(金)〜12月10日(木)※『白雪姫と鏡の女王』は12月3日(木)までの上映。会場:Bunkamura ル・シネマ(東京都渋谷区道玄坂 2-24-1 Bunkamura 6FTEL:03-3477-9264料金:1,300円(税込)均一 ※特別興行のため、その他各種割引は適用外。<上映作品>■『ドラキュラ』上映日時:・2020年11月27(金)〜12月3日(木) 連日...13:35〜(終)16:00・2020年12月4日(金)〜12月10日(木)]連日...19:10~(終)21:301992年/127分/ブルーレイ上映/アメリカ監督:フランシス・フォード・コッポラ衣装:石岡瑛子出演:ゲイリー・オールドマン、ウィノナ・ライダー、アンソニー・ホプキンス、キアヌ・リーブス配給:ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント©1992 COLUMBIA PICTURES INDUSTRIES, INC. ALL RIGHTS RESERVED.■『白雪姫と鏡の女王』上映日時:11月27日(金)〜12月3日(木)]連日...16:00〜(終)18:00※12月4日(金)以降の上映有無は未定。監督:ターセム・シン衣装:石岡瑛子出演:ジュリア・ロバーツ、リリー・コリンズ『Mank/マンク』、アーミー・ハマー『君の名前で僕を呼んで』©2011 Relativity Media, LLC. All Rights Reserved.
2020年11月29日アートディレクター、デザイナーとして世界を舞台に活躍した石岡瑛子の足跡を辿る展覧会『石岡瑛子 血が、汗が、涙がデザインできるか』が2021年2月14日(日)まで東京都現代美術館で開催されている。彼女についての世界で初めてとなる大規模回顧展だ。石岡瑛子(1938〜2012)は、東京藝術大学美術学部を卒業後、資生堂に入社。当時、女性としては非常に珍しかったアートディレクターとして、広告キャンペーンのデザインやディレクションに携わっっていった。なかでも、1966年に前田美波里を起用した夏のキャンペーン広告は、それまでの「やまとなでしこ」的な女性が好まれていた化粧品広告にはなかった健康的な女性と力強いデザインが評判となり、社会現象にまでなったほどだ。展示風景より。前田美波里をキャンペーンガールとして起用した資生堂のポスターなど本展は彼女の活動を時系列で追い、「Timeless:時代をデザインする」、「Fearless:出会いをデザインする」、「Borderless:未知をデザインする」の3章で構成されている。展覧会タイトルの「血が、汗が、涙がデザインできるか」は、2003年に行われた世界グラフィックデザイン会議での講演で彼女が語った言葉に由来したものだ。展示風景より「Timeless:時代をデザインする」の章「Timeless:時代をデザインする」の章では、資生堂での活躍後、1970年に独立した彼女の活躍を紹介する。パルコの広告キャンペーンのほか、本の装丁やパッケージデザインなどさまざまな分野を手がけ、時代の空気そのものを作りだしていたことがわかる。展示風景より パルコの校正紙石岡の赤字を入れた校正紙から、僅かな陰影や文字間にまでクオリティを追求する市井が伺える。味の素AGF インスタントコーヒー「マキシム」(1989年)ちなみに、インスタントコーヒー「マキシム」のパッケージデザインも彼女の仕事。ボトルのデザインは、これまた世界的なデザイナー、倉俣史朗によるものだ。順風満帆にキャリアを積んだ石岡は、1980年に日本を離れ、ニューヨークに拠点を移す。第2章の「Fearless:出会いをデザインする」では、この時期の彼女の活動を紹介する。石岡は、アメリカで活動を開始するにあたり、日本でのキャリアをまとめ、『石岡瑛子風姿花伝 EIKO by EIKO』として日米で書籍化した。この本がきっかけとなり、アメリカでも次々と大きな仕事を任され始める。彼女は自分自身の人生や出会いも自らのクリエイティブを武器に切り開いていったのだ。『M.バタフライ』(1988年)石岡瑛子は初めてのブロードウェイの仕事であったにもかかわらず、『M.バタフライ』で舞台美術とコスチュームの2部門でトニー賞にノミネートされる。フランシス・フォード・コッポラ『ドラキュラ』の衣装(1992年)さらに、『地獄の黙示録』日本版ポスターを手がけた縁で、映画監督のフランシス・フォード・コッポラとの縁も深かった石岡は、コッポラの依頼で映画『ドラキュラ』の衣装をデザイン。1993年の第65回アカデミー賞で、衣裳デザイン賞を受賞するに至るなど、アメリカでも華々しいキャリアを築いていく。映画『ドラキュラ』の衣装のためのスケッチ(1992年)そして最終章「Borderless:未知をデザインする」では、晩年の15年間に手がけた仕事を中心に展示される。この頃の石岡は映画の衣装デザインだけでなく、冒頭のシルク・ド・ソレイユのようなサーカス、ビョークやグレイス・ジョーンズなどのミュージシャンの舞台美術やミュージックビデオ、コンセプトメイキング、そしてオリンピックにおけるウェアや開会式のコスチュームを手がけるなど、あらゆる分野のクリエイティブを手がけていった。ターセム・シン監督『落下の王国』(2006年)の衣装と映像ソルトレイク・オリンピック ウェア(2002年)そして、展覧会の最後では彼女のクリエイティブの原点ともいえる作品で締めくくられる。それがどのようなものかは、会場で確かめてほしい。常にクリエイティブの最先端を走り続け、その勢いを止めることのなかった石岡瑛子。彼女の尽きることのない創造性にふれることができる貴重な展覧会だ。取材・文:浦島茂世【開催情報】『石岡瑛子 血が、汗が、涙がデザインできるか』11月14日(土)~2021年2月14日(日)、東京都現代美術館にて開催※予約優先チケットの販売あり。詳細は公式HPを参照のこと
2020年11月26日アートディレクター、デザイナーとして多岐にわたる分野で新しい時代を切り開きつつ世界を股にかけ活躍した石岡瑛子。彼女の世界初となる大規模回顧展『石岡瑛子 血が、汗が、涙がデザインできるか』が開催される。1992年公開のハリウッド映画『ドラキュラ』の衣装を手がけアカデミー賞を受賞。また2008年の北京五輪では開会式の衣装を担当。マイルス・デイビスやビョークら、世界の一流アーティストたちから愛された彼女の仕事と人生を総覧する内容だ。彼女の才能は、資生堂に入社し1年目ですぐに開花する。社会現象となったサマー・キャンペーンポスターをはじめ、独立後もパルコや角川書店などの数々の歴史的な広告で快進撃を続けた。拠点をNYに移した’80年代以降は映画やオペラ、サーカス、演劇、PVなど様々な分野でその才能を遺憾なく発揮し続けた。その活躍を支えたのはデザインを生み出すまでの徹底した調査や、たった1ミリという細部にまでこだわる姿勢。完璧主義を貫く彼女の制作現場は常に緊張の糸が張りつめ、刃物のような立ち振る舞いだと彼女を揶揄する者もいた。そんな声を意に介さず「デザインはタイムレスでなければ。何十年後かに見た時、古くてはならない」「時代を生き残ってゆくために必要なのは自分の内から湧き上がるオリジナリティ」「創造のゴールは国を超え、人種を超え、性別を超えたところに存在する」と哲学を持ち、生涯仕事に邁進した。本展では、「Timeless:時代をデザインする」「Fearless:出会いをデザインする」「Borderless:未知をデザインする」の3部で会場を構成。’60~’70年代の広告の仕事や、石岡のデザインプロセスを示す膨大な資料、ハリウッドをはじめとする世界各国のアーカイブから集められた映画&舞台衣装を展示する。「表現者にとって一番大切なのは鍛錬」とバイタリティの塊のような生涯を送った彼女。その人生と言葉には、人を前に向かせる力がみなぎっている。石岡瑛子とは…「すごい日本人」と、世界が称賛した人物。1938年、東京都生まれ。東京藝術大学美術学部卒。アートディレクターとして資生堂、パルコ、角川書店などの広告でセンセーションを起こす。1980年代からはNYを拠点に幅広いプロジェクトを手がけアカデミー賞、グラミー賞、ニューヨーク映画批評家協会賞、カンヌ国際映画祭芸術貢献賞を受賞。紫綬褒章受章。2012年、すい臓がんで永眠。石岡瑛子1983年 Photo by Robert Mapplethorpe ©Robert Mapplethorpe Foundation. Used by permission.’79年に制作されたPARCOのポスター「西洋は東洋を着こなせるか」は、無国籍で鮮烈なイメージ。高度成長期の日本において世界に目を向けたメッセージ性が注目を集めた。石岡瑛子ポスター『西洋は東洋を着こなせるか』(パルコ、1979年)アートディレクションシルク・ドゥ・ソレイユ『VAREKAI』の衣装。危険極まりなく見えても、絶対安全を確保できる魔法のコスチュームをデザインした。石岡瑛子コンテンポラリー・サーカス『ヴァレカイ』(シルク・ドゥ・ソレイユ、2002年)衣装デザイン Director:Dominic Champagne/Director of creation:Andrew Watson/Set designer:Stephane Roy/Courtesy of Cirque du Soleil『石岡瑛子 血が、汗が、涙がデザインできるか』東京都現代美術館 企画展示室1F/B2東京都江東区三好4‐1‐1開催中~2021年2月14日(日)10時~18時(入場は閉館の30分前まで)月曜(11/23、1/11日は開館)、11/24、12/28~1/1、1/12休一般1800円ほかTEL:03・5777・8600(ハローダイヤル)※『anan』2020年11月25日号より。文・山田貴美子(by anan編集部)
2020年11月24日「東京都現代美術館」では、アート・ディレクター、デザイナーとして多岐に渡る分野で新しい時代を切り開きつつ、世界を舞台に活躍した石岡瑛子の回顧展「石岡瑛子 血が、汗が、涙がデザインできるか」を開催する。石岡さんは、パルコ、角川書店などの数々の歴史的な広告を手掛け、ニューヨークに拠点を移した後、映画、オペラ、MVなど多岐にわたる分野で活躍。映画『ドラキュラ』の衣装でアカデミー賞衣装デザイン賞受賞、2008年の北京オリンピック開会式では衣装デザインを担当したことでも知られる。今回の回顧展では、時代を画した初期の広告キャンペーンから、映画、オペラ、演劇、オリンピックのプロジェクトなど、その唯一無比の個性と情熱が刻印された仕事を総覧する。本展示は、「Timeless:時代をデザインする」「Fearless:出会いをデザインする」「Borderless:未知をデザインする」という3つのカテゴリーで構成。マイルス・デイヴィス、レニ・リーフェンシュタールら名だたる表現者たちとのコラボレーションの連続で生み出されてきた石岡さんの仕事。展示では、集団制作の中で個のクリエイティビティをいかに発揮するかに賭けた「石岡瑛子の方法」を、デザインのプロセスを示す膨大な資料とともに紹介し、その秘密に迫る。さらに、『ドラキュラ』、『落下の王国』、『白雪姫と鏡の女王』など、ハリウッド・アカデミーをはじめ世界各国のアーカイブから集められた映画・舞台衣装の展示も必見だ。「石岡瑛子 血が、汗が、涙がデザインできるか」は11月14日(土)~2021年2月14日(日)東京都現代美術館にて開催(休館日あり)。(cinemacafe.net)
2020年06月14日シンガーソングライターの古澤剛が、3月1日(日)横浜中華街Fusion Dining TRESより、初の全国カフェライブツアーを開催する事が決定した。カフェライブは、古澤が昨年9月より横浜中華街Fusion Dining TRESで毎月行なっている公演。同公演が、立ち見が出るほどの盛り上がりを見せていることもあり、「横浜だけでは無く全国へこのライブを伝えたい」という本人の強い願いからツアーの開催が決まった。ツアーは古澤の生まれ故郷である大分でのライブを含め、9公演が行なわれる。また、同ツアーは全公演完全弾き語りスタイルで行なわれるが、4月4日(土)東京・下北沢440-four forty-でのファイナル公演はスペシャルバージョンとして、サポートミュージシャンの参加を予定している。古澤剛は1983年、大分県出身。高校卒業後、福岡で5年間音楽活動したのち、2010年に拠点を東京に移す。現在は都内のライブハウスを中心に活動している。なお、チケットの一般発売に先がけて、チケットぴあでは先行先着プリセールを実施。受付は1月30日(金)午前10時から2月6日(金)午後6時まで。■『古澤剛 Cafe Live Tour 2015 "春の声"』3月1日(日)横浜中華街Fusion Dining TRES(神奈川県)3月7日(土)大分CANTALOOP2(大分県)3月8日(日)福岡DREAM BOAT(福岡県)3月19日(木)大阪digmeout ART&DINER(大阪府)3月21日(土)名古屋I・Cメイツ(愛知県)3月27日(金)秋田LOCALOOP(秋田県)3月28日(土)盛岡Breandi(岩手県)3月29日(日)仙台HEAVEN(宮城県)4月4日(土)下北沢440-four forty-(東京都)FINAL SPECIAL!
2015年01月28日2月25(月)、ついに授賞式を迎えた世界最大の映画の祭典「第85回アカデミー賞」。様々なセレブたちが詰めかけた、この華やかな戦い。デザイナーの故石岡瑛子遺作となった『白雪姫と鏡の女王』で、今年唯一のノミネートとなった日本人として注目を集めていた「衣装デザイン賞」だったが、惜しくも受賞ならず。受賞を果たしたのは、キーラ・ナイトレイ主演で贈る『アンナ・カレーニナ』のジャクリーン・デュランが初の栄冠に輝いた。文学史上、最も美しく、最も哀しい愛の物語と言われるロシアの文豪レフ・トルストイの最高傑作「アンナ・カレーニナ」を映画化。物語は、19世紀末のロシアを舞台に満ちあふれる美貌を持ち、政府高官のカレーニンの妻であるアンナ・カレーニナ(キーラ)の破滅的な愛に溺れていく姿を描いたものだ。特集:アカデミー賞のBEST(text:cinemacafe.net)■関連作品:第85回アカデミー賞 [アワード] 2013年2月24日(現地時間)、ハリウッド・コダックシアターにて授賞式が開催アンナ・カレーニナ 2013年3月29日よりTOHOシネマズ 日劇ほか全国にて公開(C) 2012 Focus Features LLC. All rights reserved. photography by Eugenio Recuenco,Laurie Sparham
2013年02月25日