今年で東日本大震災から13年が経ち、3月11日当日には各地で追悼の行事が。東京都・港区にあるサントリーホールでもチャリティコンサートが行われたのだが――。そこに姿を現したのは林芳正官房長官(63)。実は今回、出演者として同コンサートに参加した林官房長官。客席から小泉純一郎元総理(82)や鳩山由紀夫元総理(77)らが見守り、五木ひろし(75)や坂本冬美(56)、さだまさし(71)といった錚々たるミュージシャンが出演するなか、林官房長官はピアノの弾き語りでThe Beatlesの名曲「Let It Be」を披露した。「林官房長官は楽器演奏が得意で、外務大臣時代の’21年12月にはG7外相会合でJohn Lennonの『Imagine』をピアノで演奏しました。自民党の浜田靖一国対委員長(68)らとともに『Gi!nz(ギインズ)』というバンドも結成しています」(全国紙記者)チャリティコンサートの翌日に行われた会見で、林官房長官は「昨日の演奏にあたりましては、東日本大震災により犠牲になられた皆様への哀悼、また被害に遭われた方々へのお見舞い、そして被災者の力になりたい、そうした思いを込めて精一杯演奏させていただきました」とコメント。さらに「音楽には人と人を繋ぐ力や、人を元気にしたり寄り添ったりする力があると感じております」と言い、「音楽は私が子供の頃から続けております。私の人生の大切な一部でありまして、Gi!nzの活動を含めて、公務や議員活動と両立しながら続けていきたいという風に考えております」と述べた。「被災地の力になりたい」という思いを込めて弾き語りを披露した林官房長官だが、X上では、林氏の選曲に対し批判の声が相次ぐことに……。《演奏するのは良いと思うけど、被災地に向けて“Let It Be”はどうなのさ…。仮にも官房長官が、被災者に「Let it be(あるがままに/なんとかなる)」は…》《林官房長官、被災地に向けて “Let it be”はないだろう。歌詞の意味分かってる?》いったいなぜか?その原因は、披露した楽曲である「Let It Be」の歌詞にあるようだ。「Let It Be」というフレーズが繰り返される同曲。しかし「Let It Be」とはそもそも「そのままでよい」といった意味である。「本作は、ビートルズの中で分裂が起こっているときにつくられた曲として有名です。作詞・作曲をしたポール・マッカートニーは、バンドのごたごたで自暴自棄になっているときに亡くなった母が夢に出てきて、『きっとうまくいくわ、あるがままに(Let It Be)』と語りかけたことが作曲のきっかけになったと明かしています。曲の意味としては、困難があってもどうにかなるよ、と励ますようなもので、ポール自身もチャリティコンサートで歌うことがありました」(音楽誌ライター)物議を醸しているのは、この歌を歌ったのが“復興を進めていく”当事者である政治家だという点。「東日本大震災の復興は確実に進んできているものの、いまだに帰宅困難区域があったり人口が戻らなかったりなど課題もあります。また、能登半島地震による被災地の復興がすすんでないことを想起した人も多いよう。そのため、復興を率いていく立場である政治家が”あるがままで大丈夫”と歌ったことに無責任さを感じたようです」(前出・全国紙記者)被災地のために歌以外でも尽力してほしい!
2024年03月14日掃除は大変でした」きみ子さんは、ときに仕事とはまったく無関係な長電話に付き合うこともあるという。「関東に住む、30代と思しき女性からでした。幼いときから関係が悪く交流の途絶えていたお母さんが、急逝したと連絡が来て、彼女は直葬で済ませたんだそうです。でも『ずっと引っかかってる』と言ってました。『戒名もつけてあげなかった』『ちゃんとしたお葬式を出してあげられなかった』と」いしはら葬斎のホームページを見て、自分の胸の内を聞いてほしくて電話をかけてきたという。涙ながらに語る女性に、きみ子さんは優しく、こう諭したという。「いいんじゃない、別に戒名はつけなくても。それで困って戻ってきたって人、私は見たことないもの。それよりも、ずっとわだかまりがあったお母さんを、あなたはきちんと送ってあげた。そっちのほうがずっと大事。偉かったわね」電話の向こう側では女性の啜り泣きが長い時間、続いたという。連日のように、人の死と向き合う石原さんたち。「正直言うと、それぞれの詳細はあまり覚えていないの」ときみ子さん。「引きずらないことが、この仕事を続けるコツなのかも」とも。だが昨年末、引きずらないはずのきみ子さんの胸を、いまなお締めつける、そんな仕事があった。「遠方から車でこっちに来て、自殺してしまった男性がいて。彼のことを迎えにきたご両親と会ったんですけど……。親御さんたちの姿を見ていたら、もう……」朗らかに、インタビューに応じてきた彼女の目から、不意に大粒の涙がこぼれ落ちた。「いつもどおり出て行った息子が、変わり果てた姿で見つかったわけだから。ご両親、警察から引き取った車をそれは丹念に調べたそうです。そうしたら、ドライブレコーダーに、彼の足取りや最期のようすが鮮明に映っていたと……」人生最後の日、彼は大好きな祖母とよく訪れた店にランチに立ち寄るなど、思い出の場所を巡っていた。やがて、いわき市に入った車は、遺体が発見された駐車場へ。目元を拭い、きみ子さんは続けた。「彼は車内で練炭をたいて命を絶ってしまったんですが。ドライブレコーダーには、彼が車窓に淡々と目張りをする様子まで残っていたそうです。それを見たというお母さん、誰に向けてでもなく、絞り出すように言ったんです。『このとき、あの子はどんな気持ちだったの?』って。それ聞いて私、一緒に泣くことしかできなくて……」それまでも、一人さみしく自死した人を、何人も送ってきた。「自ら死を選ぼうとする人に向かって『頑張れ』と言うのは、酷なこととはわかってますけど……」こう前置きしながら、きみ子さんは言葉を継いだ。「自分で選んで、そして逝くことができたってことは、神様の許しが出たってことかもしれないですよね。でもね、あのときのお母さんの、打ちひしがれた姿を見たら、息子さんに『そんな勇気があるのなら』って言ってやりたくなった。『どうしてなの?』って、どうしても思ってしまうんです……」自身も3人の子の母であるきみ子さん。潤んだ目で語るその表情は、すっかり母の顔になっていた。■「震災のご遺体はお顔だけが驚くほどきれいでした」創業から1年ほどたった2011年3月11日に発生したのは、多くの人にとって忘れ難い出来事となった東日本大震災。それは、石原さん夫妻にとっても、同じだ。いわき市を襲った地震は震度6弱を観測したものの、石原さんたちのいた好間地区の被害は比較的軽かったという。石原さんたちは、震災翌日からドライアイスを遺体安置所となった総合体育館に運び込むなど仕事を再開。そして、いしはら葬斎では震災の犠牲となった4人を弔うことになった。そこには、孤独死の遺体を見送るときとはまた違った二人の気持ちが込められていた。それは「なんとしても家族のもとに返してあげたい」という、祈りにも似た思いだ。発災から間もない3月下旬から4月上旬にかけて、犠牲となった女性3人の火葬を任された。「思い出すと、いまも涙が出てくる」と充さんは目頭を押さえ語り始めた。「瓦礫の下から発見されたご遺体でした。しかも、亡くなってから、日数も経過していた。それなのに、うちがお預かりしたとき、体は傷だらけで、髪は砂まみれでも、お顔だけは驚くほどきれいだった。3人が3人とも、そうなんです」充さんは、彼女たちの一念が起こした奇跡のように感じていた。「きっと、離れ離れになってしまった家族に向けた『早く見つけて、私はここよ』という強い願いが、お顔だけは状態のいいままで見つけさせたんだな、そう思いました。私が常々『生きてる人と同じ』と考え、ご遺体と接しているのも、そういう経験があるからなんです」翌年にも犠牲者を一人、送った。きみ子さんが振り返る。「震災から1年ほどたって、やっと少し落ち着いてきたころ。警察からの連絡で、市の沖合で見つかったご遺体を預かったんです」海中を1年間も漂っていた遺体。さすがに身元はすぐには判明しそうになかった。充さんが続ける。「そのご遺体に手足はなく、顔の形もすっかり崩れていた。警察はDNAを鑑定し、被災各地の不明者情報と照合する作業をしていましたが、うちに来たときはまだ、どなただかわからない状況でした」身元がわからないまま、この犠牲者を火葬した。それから、およそ半月後。市役所から連絡が入った。きみ子さんは、12年も前のことを振り返りながら、まるで昨日のことのように顔をほころばせた。「ご遺体の身元が判明したんですよ。宮城の南三陸で津波に遭い流されてきた人だと。それを聞いて、私と夫はもちろん、いっしょに収骨してくれた火葬場の職員さんたちもみな、感激して泣きましたよ。『よかった、これでご家族のもとに帰れるね』って。姿形はすっかり変わってしまっても、帰るべき場所に帰ることができて、故人様はきっと、幸せだったと思います」■「私たちには“お墓”はいらない。」「みながみな、直葬や家族葬にする必要もないとは思います。でも、子どもの数も減り、コロナ禍も経て、家族の形もどんどん多様化した現代に、私たち世代や上の世代のいう『一般的な葬儀』とか、『ちゃんとしたお葬式』という考え方にとらわれるのは、もうあまり意味がないと思いますよ」きみ子さんはこう話す。石原さん夫妻が過去に立ち会ったなか、もっとも理想的と思えた葬儀。それは伝統やしきたりに縛られない故人の送り方だった。「奥様を亡くされた70代のご主人が喪主を務めたのですが、考え方がとても現代的で。『戒名も読経も墓も不要、家族でにぎやかに送れれば、それでいい』と。その葬儀は、本当に印象的でした。参列したご家族、みなさんがゆったりと時間を過ごしながら、笑顔で故人様をしのぶ、温かな家族葬でした」取材の最後、石原さん夫妻の思い描く「自分たちの最期」を聞いた。語られたのは案の定、一般的でもなければ、伝統やしきたりも度外視した最期だった。「私たち、献体するって、結婚当初に決めたんです」きみ子さんは愉快そうに笑った。「私も夫も、子どもはいますがどっちも当てにはならないし、当てにもしたくない。二人で『お墓なんていらないもんね』と話をして。それで。献体を申し込んだんです。お骨はみなさんと一緒の永代供養墓に納められることになってます」インタビュー中も、事務所の電話はひっきりなしに鳴った。夫婦二人だけの小さな葬儀社は、今日も、開いている。どんな最期を迎えた人でも、受け入れるために。「はい、いしはら葬斎です」(取材・文:仲本剛)
2024年03月11日東日本大震災が起きたあの日。夫は帰宅難民になり、生後6カ月の息子と2人きりでどうすることもできず途方に暮れていました。そんな私の心を救ったのは、まだあまり親しくなかった隣に住むママ友からのメールでした。東日本大震災が起きたときのこと。当時の私は、埼玉県にある小さなアパートにまだ生後6カ月の息子と夫の3人で住んでおり、専業主婦として慣れない育児に没頭する毎日でした。 夫の仕事は24時間営業の飲食店のマネージャー。普段から仕事が忙しく、休みも出勤時間も不定期なので、私はほぼ毎日ワンオペ状態でした。大地震が起きた日も、夫は仕事に行っており、私と息子は2人で家にいたのです。 大地震発生! 慌てて外に出てみると東日本大震災が起きた瞬間、私は息子をおんぶしながら、夜ごはんの支度をしているところでした。いつもとは様子が違う、大きな地震が起きて怖くなった私は、息子をおぶったまま外に出ることに。すると隣に住むママも、子どもを連れて外に出ていたのでした。このママは2カ月前に引っ越してきたばかり。 子ども同士の月齢は近かったものの、初めて会ったときに連絡先の交換をしたぐらいで、まだそこまで親しい仲ではありませんでした。「とっても怖かったね」などと話しながら、私たちは地震がおさまるまで外で様子を見ることにしました。 お互い夫と連絡がつかず、不安が増していくばかり。30分ほど経って地震がようやく落ち着いてきたかな? と判断した私たちは、ひとまず家に戻ることにしました。 夫は帰宅難民に。途方に暮れる私家に戻ってテレビをつけてみると、世間ですさまじく大変なことが起きているというのがわかりました。それからしばらく経って、やっと夫と電話がつながり話すことができたのです。しかし都内にいた夫は帰宅難民になってしまい、いつ帰れるかわからないとのこと。 とりあえず夫の無事は確認できて安心したものの、東北には私の友だちや親戚がおり、とにかく不安で仕方ありませんでした。さらに地震のせいで本棚の中の本が床に落ちていたり、食器棚から食器が落ちて割れてしまっていたりと、部屋はぐちゃぐちゃ。私は散らかった部屋の中で、ただただ呆然とすることしかできませんでした。 ママ友からのメールそんなとき、隣に住むママ友からメールが。「今、夫が帰ってきたんだけど、よかったらうちに来ない? 子どもと2人きりじゃきっと心細いよね」という内容でした。まさしくその通りだった私。このママ友からのメールに、私は心が救われたような気持ちになりました。お言葉に甘えてママ友の家へ。 ママ友の旦那さんも、快く受け入れてくれました。夕飯時だったため1時間ほどで帰ったのですが、少しの間だけでも誰かと話ができるというだけで、こんなにも安心できるのだなと実感した出来事でした。それから私たちはすっかり仲良くなり、子どもを連れて公園で遊んだり、近所の子育て支援センターに行ったりと一緒に出かけることが多くなりました。 そのあと、私は何度か引っ越しを重ねてきましたが、そのたびに近所のママたちとの付き合いを大事にするようにしていきました。災害が起きて自分自身も大変な状況にあるとき、周りに声をかけるのはとても勇気のいることだと思います。ですが私もこのママ友を見習って、災害時には積極的に周りに声をかけ、隣近所で助け合っていけたらいいなと思っています。 監修/助産師 松田玲子著者:ほりたえりな男女4人の母。ステップファミリー。元コンビニ店員だが、第4子出産を機に退職し、現在はフリーライターとして活動中。自身の子育て体験談や商品レビューなどを執筆中。
2024年03月11日東京工芸大学芸術学部(学長:吉野 弘章、所在地:東京都中野区、以下 本学)は、東日本大震災時に宮城県石巻市大川小学校で起きた津波事故を題材にした映像作品を公開します。この作品は地震発生から津波襲来までの51分間の出来事と事故後の行政対応を多角的に探る作品で、本学中野キャンパス6号館地下1階ギャラリーで3月17日(日)まで展示しています。51分と13年本作品は、東日本大震災時に宮城県石巻市の大川小学校で起こった津波事故を題材としたアートプロジェクトであり、本学芸術学部インタラクティブメディア学科の野口靖教授と、映像作家の三行英登氏の共同研究の成果です。彼らは、地震発生から津波襲来までの51分間に、大川小学校で何が起こったと考えられているのか、また事故後の行政対応について、報道記事や書籍など事故後十数年のあいだに蓄積された様々な資料を丹念に調べるとともに、関係者への取材を重ねてきました。これらの調査を通して得られた「事実」をベースとしながら、独自の解釈を含む映像作品が完成しました。本作品では、大川小学校事故に内在する問題について多角的な視点を提示します。この取り組みは、工学部と芸術学部を有する本学の特色ある教育研究活動の発展に寄与し、「工芸融合研究(成果公開型)」事業の一環として制作されています。本作品は、2024年3月2日(土)から3月17日(日)まで本学中野キャンパス6号館地下1階ギャラリーで公開されます。複数の映像を並置する映像インスタレーション手法を用い、場所や空間全体を通じて体験ができます。これにより、大川小学校の事故に関する多角的な視点からの社会的認識と理解を深めることが期待されます。詳細は以下のとおりです。■「51分と13年」会場 : 東京工芸大学 中野キャンパス6号館 地下1階ギャラリー(6B01)展示期間: 2024年3月2日(土)~3月17日(日)休館日 : 月曜日開館時間: 12:00~18:00入場料 : 無料作品形態: 映像インスタレーション展示施工: 株式会社 O.D.A【展示詳細URL】 ※本展示作品には津波事故に関する事故現場の風景や語りによる具体的な描写が含まれます。ご了承の上ご覧ください。6号館アクセスMAP■東京工芸大学東京工芸大学は1923(大正12)年に創立された「財団法人小西寫眞(写真)専門学校」を前身とし、創設当初からテクノロジーとアートを融合した無限の可能性を追究し続けてきた。2023年に創立100周年を迎えた。【URL】 ■野口靖東京工芸大学芸術学部インタラクティブメディア学科教授過去にも、福島第一原発事故から10年経った際に風評被害防止を目指し、放射性物質の食品影響を時間経過と共に示す地図をウェブサイトに公開。【研究室URL】 ■三行英登映像作家、グラフィックデザイナー。舞台・映像・美術など様々な場で美術家や音楽家、詩人、ダンサー、研究者との共同創作を数多く行う。2003年から2008年まで高山明主宰のPort Bに参加し、舞台映像や宣伝美術を担当する。2015年より河崎純主宰の音楽詩劇研究所に参加し、ロシア、アルメニア、トルコ、ウクライナ、カザフスタンなど国内外の公演を共同でプロデュース。ドキュメンタリー、舞台作品の映像のほか、近年はビデオインスタレーションなど美術作品の制作も行っている。【URL】 詳細はこちら プレスリリース提供元:@Press
2024年03月04日有機質肥料メーカーの大成農材株式会社(代表:杉浦 朗、本社:広島県広島市)は、自社商品の肥料の出荷量が東日本大震災による被災前と比較して177.8%となったことをお知らせいたします。工場に流れ込むトラック2011年3月11日、東日本大震災の津波により、石巻市にあった当社の工場が被災。春の出荷最盛期を前にストックしていた在庫は倉庫ごと流失。社内でも復興は難しいとの声もあり、肥料事業からの撤退を一度は考えたものの、数少ない国産の魚を原料とした有機肥料メーカーとして、長年愛用している全国の農家への供給と工場従業員の雇用を守る為、約1年かけて工場を復興し製造を再開しました。しかしながら、操業停止中に離れたユーザーも多く、再開後の主要品目の出荷数量は震災前に比べて59%となり、その後もしばらく業績は低迷しておりました。しかし、震災から13年が過ぎようとしている現在、2023年の肥料の出荷量は震災前と比較し177.8%となりました。全壊した原料タンク復興後の工場【35年前から国内原料のみで製造する有機肥料 問い合わせや注文が急増】大成農材では35年前から、国内で水揚げされた魚を利用した魚エキスと、国産米ぬかを使った有機質肥料の製造を石巻市で続けてきました。魚の体液に含まれる水溶性アミノ酸が特徴の「栄養価が高い」肥料は、作物の味が変わる・強く育つなど、全国の農家から好評を得ています。みどりの食料システム戦略や国内肥料資源活用総合支援事業に影響もあり、ここ数年、農家から「有機栽培をこれから始めたい」、「化学肥料から有機質肥料に切り替えたい」といった問い合わせや、新規の取引先から「有機質肥料の取り扱いを始めたい」といった問い合わせや注文が増加しています。【みどりの食料システム戦略や国内肥料資源活用総合支援事業で有機肥料へ注目が集まる】世界的には欧米をはじめとする世界各国において、環境配慮型の農業(脱化学肥料)への移行が進んでいます。日本においても、2021年5月に「みどりの食料システム戦略」が策定され、2022年7月には「みどりの食料システム法」が施行されました。肥料は作物生産において必要不可欠な農業資材の一つであるにもかかわらず、国内で使用されている肥料のほとんどは、原料を輸入に頼る化学肥料です。新型コロナやウクライナ問題、大幅な円安等の社会情勢の影響を受け、2022年に化学肥料の価格が高騰しました。肥料を生産現場に安定的に供給していくためには、こうした影響を受けにくい生産体制づくりを早急に進めることが必要という観点から、国内肥料資源の利用を拡大し、国内資源を活用した肥料への転換を進める取組等を支援すべく、2023年より国内肥料資源活用総合支援事業が開始され、現在、有機質肥料への注目がより一層高まっています。【今後の展開】創業以来、ひたむきに有機肥料の製造に取り組み、品質の高い肥料を販売してきましたが、かねてより、日本全国の生産者様より高い評価を頂いている自社の有機質肥料の特性を生かした農作物の栽培方法を確立すべく、青果物の試験栽培を行っていました。2020年には、自社農園で栽培したミニトマト「ひりょうやさんのトマト」の自社ECサイトでの販売を開始し、現在に至るまで大変ご好評いただいております。広島発の美味しいミニトマトとして広島での認知をより一層ひろげるべく、栽培ハウスの増設を計画しており、2024年の8月には今の4倍の面積となる予定です。その後は全国へ展開を広げ、さらには広島から世界へと美味しいミニトマトをひろげていきたいと考えています。ひりょうやさんのトマトひりょうやさんのトマト商品画像【商品詳細】■バイオノ有機s形状 :ペレット商品規格:20kg袋原料 :フィッシュソリュブル(魚肉エキス)、米糠油粕(脱脂米ぬか)保証成分:N-P-K 7.2-4.0-2.5特徴 :有機質100%肥料で有機JASにも使えます。作物のおいしさ、色つや、鮮度の持続性が向上します。有効微生物が増え元気な土づくりができます。肥効が早く、じっくり効きます。代表商品「バイオノ有機s」■エキタン有機特選エース形状 :液体商品規格:20kgバロンボックス(R)、5kgボトル原料 :フィッシュソリュブル(魚肉エキス)保証成分:N-P-K 6-0-0特徴 :有機質100%肥料で有機JASにも使えます。魚肉タンパクの濃縮エキスを酵素分解した液肥です。葉面散布でも潅水施肥でも効果がすぐに期待できます。野菜や果実のおいしさが増します。なり疲れを解消し作物の生育が旺盛になります。代表商品「エキタン有機特選エース」【会社概要】名称 : 大成農材株式会社所在地: 〒730-0017 広島県広島市中区鉄砲町7-8URL : 詳細はこちら プレスリリース提供元:@Press
2024年03月04日JR東日本新潟支社とJR東日本スポーツ株式会社の連携企画として、「新幹線サウナハットプレゼントキャンペーン」を2024年2月14日(水)から実施します。期間中、「旅せよ平日!JR東日本たびキュン早割パス(通称:「キュンパス」)」または「新幹線eチケット」を利用して上越新幹線(下り 東京駅・上野駅・大宮駅から新潟駅)に2回乗車し、かつジェクサー新潟のスパビジターを2回利用した先着150名のお客さまに、新幹線をデザインしたオリジナルサウナハット(非売品)をプレゼントします。この機会にぜひ「キュンパス」または「新幹線eチケット」を利用して新潟にお越しいただき、「ジェクサー新潟」のサウナでととのってお帰りください。1. キャンペーン期間2024年2月14日(水)~3月31日(日)※「新幹線サウナハット」がなくなり次第終了します。(終了となる場合は、JR東日本新潟支社公式Facebook・Instagram、ジェクサー新潟のホームページおよび店頭等でお知らせします。)2. 参加条件キャンペーン期間中、以下の(1)~(3)の条件を満たした先着150名のお客さまに、「新幹線サウナハット」をプレゼントします。(1) 「旅せよ平日!JR東日本たびキュン早割パス(通称:「キュンパス」)」または「新幹線eチケット」(対象区間:東京駅・上野駅・大宮駅から新潟駅 ※下りのみ)を利用して上越新幹線にご乗車(2) 新幹線ご乗車同日にジェクサー新潟のスパビジターをご利用(3) (1)と(2)の条件を2回満たしてジェクサー新潟でアンケートにご回答新幹線イメージサウナ写真サウナハットイメージ※「新幹線サウナハット」は本キャンペーン1回ご参加につき1つ差し上げます。※上越新幹線及びスパビジターを同日に2回利用した場合は対象外となります。複数日にかけて2回利用してください。※「JRE POINT特典チケット(新幹線eチケットサービス)」「JRE POINT特典チケット(どこかにビューーン!)」「新幹線eチケットサービス(株主優待割引)」は対象外です。3. 利用方法・スパビジターご利用時に、「キュンパス」の本券または「新幹線eチケット」の予約履歴画面をジェクサー新潟のスタッフに提示してください。スタッフがレシートにスタンプを押印してお渡しします。・スパビジター2回目ご利用時には、2回目の「キュンパス」の本券または「新幹線eチケット」の予約履歴画面と共に、初回ご利用時のスタンプ押印済みレシートをスタッフに提示してください。4. 賞品「新幹線サウナハット」(先着150名様)『東北・北海道新幹線E5系』、『秋田新幹線E6系』、『上越・北陸新幹線E7系』の車両をモチーフにデザインしたオリジナルのサウナハット【非売品】です。※3種類の中からお好きなデザインをお選びいただけます。(各種50個配布予定)『東北・北海道新幹線E5系』サウナハットE5系『秋田新幹線E6系』サウナハットE6系『上越・北陸新幹線E7系』サウナハットE7系■「旅せよ平日!JR東日本たびキュン早割パス(通称:「キュンパス」)」についてJR東日本エリアの鉄道が10,000円(税込)で平日1日乗り放題!!えきねっと限定発売のおトクなきっぷです。 キュンパスロゴ■「新幹線eチケット」についてきっぷを受取ることなく、「新幹線eチケット」に紐づけた交通系ICカードなどを自動改札機にタッチするだけでご乗車いただけるサービスです。さらに「新幹線eチケット」限定の割引商品も多数ご用意!! 新幹線eチケット■JR東日本スポーツ株式会社「ジェクサー」について全店が駅ちか。通いやすく継続しやすいフィットネスクラブです。最新マシンからスパやエステまで各地に適したラインナップを備えた総合型の施設です。ジェクサーロゴ■ジェクサー新潟 スパビジターについて2月14日(水)からサービスを開始します。ご出張、ご旅行で新潟にお越しの際は、新潟駅最寄りの「ジェクサー・フィットネス&スパ24新潟(ジェクサー新潟)」にお立ち寄りいただき、ととのってください。スパビジター料金:1回1,320円(税込)※フェイス+バスタオル付・店舗場所:新潟駅南口「LEXN2」9階(新潟駅から徒歩1分)・受付時間:平日10:00~21:00(7:00~23:00) ※()は店舗営業時間土曜10:00~19:00(8:00~23:00)日祝10:00~19:00(8:00~21:00)・毎週金曜休館 ※詳細はジェクサー新潟のホームページをご覧ください。ジェクサー×サウナスパ※写真・イラストは全てイメージです。※キャンペーン及びサービス内容は全て予定です。予告なく変更・中止となる場合があります。※記載の内容は、2024年2月8日現在の情報です。 詳細はこちら プレスリリース提供元:@Press
2024年02月08日冬になると、全国各地で積雪が観測されます。雪で遊べて嬉しい一方、公共交通機関には運行の乱れや運休などの影響があるため、気が重い人もいるでしょう。特に、通勤で利用している電車が止まってしまうと、帰宅困難者が大量に発生します。そもそも、なぜ雪が降ると、電車は運行の乱れや運転の見合わせが発生するのでしょうか。積雪で起こる、電車の輸送障害東日本旅客鉄道株式会社(通称:JR東日本)は、自社のウェブサイトにある『JR東日本なるほどQ&A Guide』で、雪による影響について詳しく説明しています。ガイドによると、雪が降ると架線の凍結、進路変更の措置『ポイント』が動かなくなる、倒竹や倒木、列車が雪を抱え込み停車するなど、さまざまな輸送障害が起きるとのこと。状況を見ながら対策を講じているとして、次のように説明しています。多くの降雪が見込まれる場合は、運転本数を減らしたり、ポイントを固定する等、影響が最小限となるよう努めています。特に豪雪地帯では、可能な限り列車の運行を継続できるようさまざまな対策を講じています。JR東日本ーより引用首都圏での降雪では、すぐ溶ける程度なら通常運転。雪が地面にうっすらと積もる程度であれば、警戒しつつの通常運転か、本数を減らしての運行となるそうです。地面にしっかり雪が積もる場合は、列車本数の削減か、運転を見合わせるとのこと。また、ポイントが動かなくなる『不転換』を防ぐため、熱や空気圧で雪を除去する『融雪装置』を整備するほか、除雪機械を配備するなどの対策もしているといいます。※写真はイメージ予定通りに電車が運行していないと、駅員に怒りを向ける人もいるもの。しかし、電車の運行の乱れや、運転の見合わせは、安全を確保するためです。雪が降った日は、自然を相手に奮闘する鉄道会社のことを想い、落ち着いた行動を心掛けたいですね。[文・構成/grape編集部]
2024年02月05日イギリス出身の歌手、俳優であり、エルメスの“バーキン”でおなじみのジェーン・バーキンさん(7月16日逝去、享年76歳)。映画『ガラスの墓標』(1970年)のPRでの来日を機に、日本に興味をもち、日本でのコンサートも行っていた。そして2011年、東日本大震災の報道を受けたジェーンさんは自費で緊急来日し、4月に渋谷クラブクアトロで無料チャリティコンサートを開催。『女性自身』2011年4月26日号では、当時の公演を「会場は足の踏み場もないほどで、ジェーンの歌声に酔いしれた一夜となった」と紹介している。公演内でジェーンさんは、「とにかく日本の皆さんが心配で、いてもたってもいられなかった。幸いにも、私には飛行機のチケットを買うお金があったので、『愛してる』と伝えに来ることができました」「原発事故のことがあるので、友達や家族から来日について反対もありました。“それでも行くなら、マスクや靴下を常に装備して、寿司は絶対に食べるな”と……正直、パリを出るときは、危険な場所に向かうという雰囲気でしたが、東京に来てみたらどうでしょう、私も皆さんと一緒です。靴下もマスクもつけていません」「今、フクシマでは命がけで戦っている人たちがいます。自分の犠牲を顧みずに昼夜立ち向かっている彼らは真のヒーローだと思います。原発の問題は私の国フランスでもたくさんの議論がなされています」ジェーンさんはその後も、復興支援を目的としたワールドツアーや、東北への慰問、クラウドファンディングで支援金を募るなど精力的に“日本応援活動”をしてきた。「ガンバッテ。世界の人々が皆さんを称賛しています。あなたの勇気をたたえ、あなたから学んでいます。アリガトウ」「あなたの勇気をたたえ、あなたから学んでいます」「アリガトウ」ーーこの言葉をそのまま彼女に送りたい。
2023年12月22日某サイトで趣味を通じて出会った友だちがたくさんできた私。ですが、一部の心ない人たちから個人情報などをさらされてしまいました。そんな私のSNSトラブル体験談です。心ないひと言に傷ついて自分の趣味を通じて出会った大半は、男性が中心。そのためか、「男好き」「男性にチヤホヤされるため」「彼氏やセフレを作るため」など、一部の人たちから心ないことばかり言われてしまいました。プライベートをさらされてしまい…しまいには、一部のアンチに私の裏サイトのようなものを勝手に作られて、私の隠し撮りやプライベートもさらされてしまったのです。その裏サイトはパスワード制・承認制のため私は見られず、近しい人からその事実を聞いてショックを受けました。主犯者は私に対してなぜそういうことをしたのかわからないし、私自身も心当たりがないので、いまだに受け入れられません。何より、友だちが裏サイトの情報を信じていたことにもショックでした。まとめ見知らぬ人から個人情報などを裏サイトで拡散されて、正直腹が立ちます。「所詮はSNS」と割り切ることも大事かもしれませんが、そのときは本当に地獄でした。(30代/女性)※記事の内容は公開当時の情報であり、現在と異なる場合があります。記事の内容は個人の感想です。イラスト/きょこ著者/ウーマンカレンダー編集室40歳を過ぎて心と体の変化に戸惑い、悩むオトナ女子を応援するメディア「ウーマンカレンダー」の編集室です。オトナ女子がおこなっているコスパ良し!時短!ズボラでもできる!リアルなアンチエイジング情報をお届け。医師解説の記事も満載!
2023年12月17日一般社団法人 日本損害保険協会では、関東大震災100年を契機に、地震への備えについて今一度見直すためのコンテンツとして、地震発生時の住まいの推定被害状況を確認できる新デジタルコンテンツ「地震被害チェッカー」を2023年8月30日(水)より特設サイトで公開します。■画面上の住まいに「地震」を疑似演出。震度別の被害状況を可視化!「地震被害チェッカー」は、地震が起こった場合に、自分や家族の暮らしを支える「住まい」がどの程度被害を受ける可能性があるのかを可視化するデジタルコンテンツです。「地震被害チェッカー」では、建物の構造や耐震性をもとに区分した4つのパターンから建物を選択した後、スマートフォンの加速度センサーを活用して実際にスマートフォンを揺らすことで、推定被害がチェックできます。加速度センサーによってスマートフォンの揺れを感知し、画面上に表示された建物が壊れ、「震度5弱~5強」「震度6弱~6強」「震度7」の3段階で、選択した建物の屋外/屋内双方の具体的な被害内容が提示されるため、震災後の住まいの状況をリアルに感じ取ることができます。関東大震災100年を契機として防災意識が高まるなか、より具体的に地震の被害想定をイメージできるようにすることで、地震への備えについてさらなる意識向上を図るとともに、地震保険の必要性を呼びかけるコンテンツとなっています。「地震被害チェッカー」(マイナビウーマン編集部)
2023年09月07日平成23年3月11日、誰もがかつて経験したことのない大地震が起こりました。主人公は、まるで日本が終焉を迎えたかのような景色を目の当たりにすることに。日々の食糧や日用品が手に入らないだけでなく、ライフラインも当然停止。主人公は、当たり前だと思っていた日常のありがたさを実感します。そして東日本大震災から2カ月が経過。復興に向けて国は動き出しますが……。大震災から学んだこと 震災後10年を経て子どもを出産した主人公は、里帰り中にまたもや大きな地震を経験します。 ところが、ふいに東日本大震災の記憶は蘇るものの、恐怖からすぐに正しく判断することができませんでした。 結局外へ出たところですぐに揺れはおさまりますが、以前の教訓が活かされていないことを主人公は実感。 その後、大切な子どもを守るためにも避難所の場所の確認や食糧と日用品のストックなどを行い、今度こそ冷静に行動することを誓ったのでした。 いざというときに、恐怖で足がすくんで動けなかったという経験をしたことがある方も少なくないのでは?今回の地震は、東日本大震災から10年しか経っていない中での出来事でしたが、恐怖感からとっさの判断ができなかった主人公。 それだけ、自然災害は恐ろしいものなのかもしれません。大切なのは、いつ何が起こるかわからないのが自然災害であることを常日頃から忘れないこと。 災害に向けて食糧のストックや家族との話し合いなど、できる備えをしておくことが、命を守ることにつながります。 東日本大震災で貴重な命を落としてしまったたくさんの方々のためにも、当時の経験や教訓をいつまでも忘れずに心に留めておきたいものですね。著者:マンガ家・イラストレーター コメダ
2023年09月04日平成23年3月11日、誰もがかつて経験したことのない大地震が起こりました。主人公は、まるで日本が終焉を迎えたかのような景色を目の当たりにすることに。次第にスーパーやガソリンスタンドは人でごった返し、人間関係は荒んでいきます。そんな中、普段は口数も少ない隣に住むおじさんが煮物を分けてくれ「大変だけど…頑張ろう」と声をかけてくれたのでした。全員が大変な場面で非情に振る舞う人もいれば、隣のおじさんのように気にかけてくれる人もいることを知った主人公。非常時では、人の本質も垣間見えます。そして、震災から9日後… インフラや都市機能が回復する目途も立たず、精神的に不安な日々を過ごす主人公。 さらに電力供給を安定させるための計画停電も始まりました。いつ電気が止まるかわからない状態なので、入浴や食事も一苦労……。 これまで当たり前だと思っていた生活が一転し、主人公は改めてライフラインの重要性に気付くのでした。 ライフラインが復旧しない中で食糧や日用品などの生活必需品が手に入らない生活は、とてつもない恐怖だったのではないでしょうか。 「いつまでこんな生活が続くのか……」「次に余震が来たら……」など、不安や心配事は絶えなかったはずです。 主人公が感じたように、当たり前の日常は本来貴重でかけがえのないもの。 スイッチを押せば電気が点く、蛇口をひねれば水が出るという技術が進歩した生活の中では、失ってからでないとそのありがたさに気付けないことも多いでしょう。こういった災害には日頃から備えておくとともに、改めて身の回りの環境やいつも自分を支えてくれている人などに感謝しながら日々生活を送っていきたいですね。著者:マンガ家・イラストレーター コメダ
2023年09月03日平成23年3月11日、誰もがかつて経験したことのない大地震が起こりました。主人公は、まるで日本が終焉を迎えたかのような景色を目の当たりにすることになるのです。 なんとか家族の無事を確認した主人公ですが、被害の深刻さを痛感します。翌日、外に出た主人公は街のあちこちに地震被害を見つけます……。良くも悪くも人の本質が見えた気がする 地震の被害で家の外壁が崩れていたり、昨日まで通れていた道が通行止めになっていたり……。余震も続いていましたが、主人公は通常勤務のため出勤します。勤務先の病院で、1年以上来院していない患者が未受診で薬を出すように要求している場面に主人公は遭遇。患者は地震に備えて、薬をすぐにもらおうとしているようです。 勤務後、主人公はスーパーに寄りますが、すでに買い占めで商品棚は空っぽ。車にガソリンを足そうとしますが、ガソリンスタンドには長蛇の列。イライラした人の怒鳴り声や車のクラクションが止みません。そんな光景に、未曾有の大震災が人の心から余裕を奪っていると主人公は感じます。そんなとき、普段あまり話さない隣のおじさんが「大変だけど頑張ろう」と作った煮物をお裾分けしてくれ、主人公は温かい気持ちになるのでした。 大地震により、街が壊れ、誰しも心の余裕が失われていく状況。災害時に家族や自分の身を守るための行動は必要ですが、被害のあまりの大きさに、冷静になれない人も多くいたのではないでしょうか。主人公もそんな街の状況に疲れてしまっている様子……。主人公は口数が少ない隣のおじさんのお裾分けをもらったことで、人の気持ちの温かさを思い出すことができました。おじさんも、自宅の外壁がボロボロに崩れており、大変な状況のはず……。おじさんのやさしさで、主人公の疲れた気持ちが少しでも晴れてほしいと願うばかりです。 著者:マンガ家・イラストレーター コメダ
2023年09月02日平成23年3月11日、誰もがかつて経験したことのない大地震が起こりました。主人公は、まるで日本が終焉を迎えたかのような景色を目の当たりにすることになるのです。地震が起こったその日。主人公は病院で看護師として勤めており、いつも通り職場で仕事をしていました……。こんなことが本当に日本で起こったの? いつものように仕事をしていた主人公。そこへ突然大きな揺れがやってきます!立っていることもままならない状況の中、なんとか仕事を終え主人公は外へ出ました。駐車場に避難していた同僚の話で、先ほどの地震が震度6強だったことを知ります。早めに帰宅することになり、主人公は後輩を自宅に送り届けることに。その後、いつもの道を通って帰宅を目指しますが、道は見たこともない大渋滞……。信号はすべて消え、街灯も店灯もなく、まるで日本が終わってしまったかのような光景。そして、橋の上で車が動くのを待つ主人公を再び大きな揺れが襲います。車を捨て、橋から陸地に避難するかどうか主人公が必死に考えていると、揺れはおさまりました。時間をかけてなんとか帰宅した主人公は家族の無事を確認します。そして停電がなおったタイミングでテレビのニュースを見て、津波が起きたことを知ったのです。 日本で起きた過去最大級の地震・東日本大震災。最初の大きな揺れはもちろんのこと、その後続いた余震も強い揺れだったようです。大渋滞の中、橋の上で余震を受けた主人公や周りの人たちも生きた心地がしなかったのではなないでしょうか。地震の被害は各地に深刻な被害をもたらしており、帰宅した後も主人公の不安は続きます。余震もおさまらない中ですが、家族の無事を全員確認できたことで、主人公の胸のざわつきが少しでも落ち着くといいですね。著者:マンガ家・イラストレーター コメダ
2023年09月01日無料アプリをダウンロードして参加しよう!JR東日本水戸支社は、2023年5月から、サイクリングイベント『駅からサイクリング』を開始します。同イベントは無料アプリ「SpotTour(スポットツアー)」をダウンロードすることで、参加できます。アプリに表示されたコースの中から好きなコースを選んで、茨城県と福島県浜通りの魅力を体感できる観光スポットを自転車で巡っていきます。好みや気分に合わせて選べる8コース『駅からサイクリング』では、水戸駅を起点に徳川光圀公やアートなスポットなどを巡る「水戸からサイクリング~まちなか周遊編~(水戸市) 」など、8コースを用意しています。「高戸小浜海岸などの景勝地を巡る爽快なサイクリングコース(高萩市)」は高萩駅をスタートし、高戸小浜海岸を眺めながらサイクリングを楽しみます。同コースの開催期間は5月1日から6月30日まで(毎週月曜日と火曜日は除く)、走行距離は9kmです。やや傾斜がありますが、初心者でも楽しめるコースです。開催期間は各コースによって異なります。「水戸からサイクリング~まちなか周遊編~(水戸市) 」や、「小町の里と霞ヶ浦の風コース(茨城県土浦市)」などは、駅近くのレンタサイクル・シェアサイクルを利用することも可能です。(画像はプレスリリースより)【参考】※東日本旅客鉄道株式会社 プレスリリース
2023年05月03日モレスキン(Moleskine)から、JR東日本鉄道開業150周年を記念した「限定版Suicaのペンギンノートブック」が登場。2023年4月18日(火)より順次、モレスキン取り扱い店舗にて発売される。モレスキン×JR東日本、Suicaのペンギンの限定ノート歴史の中で生み出されてきた様々な紀行文や物語の多くは、鉄道の発展がもたらした自由な移動の機会の中で生み出されきてたものだ。今回のコラボレーションでは、人々の移動を支えてきた東日本旅客鉄道の150周年を記念して、これからの旅人たちの物語や思い出や記録する、カスタムエディションのノートブックが制作された。鉄道員に扮したSuicaのペンギン方眼と無地の2種類で展開されるハードカバーのノートブックに描かれているのは、JR東日本を象徴する人気キャラクター・Suicaのペンギン。モレスキンの定番として愛されるクラシックノートブックをベースに、鉄道員に扮したSuicaのペンギンが表紙・裏表紙・見返しページにデザインされている。商品情報「限定版Suicaのペンギンノートブック」発売日:2023年4月18日(火)価格:・ノートブック / 方眼 / ハードカバー / ラージサイズ 4,290円・ノートブック / 無地 / ハードカバー / ラージサイズ 4,290円取扱店舗:モレスキン取り扱い店舗ⒸChiharu Sakazaki/JR東日本/DENTSU
2023年04月20日東日本大震災から12年を迎えた今年。復興庁が4月に公表した資料によれば、震災関連死を含む死者は1万9765人、行方不明者は2553名。そして現在もなお、3万1000人が避難生活を続けている。震災のあった3月11日は全国各地で犠牲者に哀悼の意が捧げられ、日本中が鎮魂の祈りに包まれた。そんななか、SNSに投稿された“ある不適切動画”が物議を醸したのだった。少年が笑いを堪えながら、「東日本大震災のこれを観て生きている方、とても嬉しいです。また死んでしまった人はお墓で聞こえないと思うがwwほんとに悔しいです」とカメラに向けて語る。動画には「3.11」のテキストが添えられ、少年は合掌のポーズで締めくくった。もとはInstagramのストーリーズに投稿された動画だが、11日深夜にTwitterでインフルエンサーが取り上げると瞬く間に拡散。“被災者や犠牲者を侮辱している”といった批判の声が、ネット上で相次ぐ事態となった。すると翌12日、この少年が通う埼玉栄高校は「本校生徒による不適切動画掲載に関するお詫び」と題する謝罪文を公式サイトに掲出。そこには、お詫びの文章が次のように綴られていた。《このようなことが二度とおこらないように、当該生徒も含め、全校生徒に対してよりきめ細かな心の教育による道徳心の向上を図ると共に、ネット社会、特にSNSに対するリテラシー教育を更に充実させていく所存です》当時、本誌の取材に応じた埼玉栄高校の教頭は、謝罪文を出した経緯をこう説明していた。「本来であれば、生徒のSNS上のトラブルについて学校側がコメントすることはほとんどありません。ですが、今回は内容が社会的な問題であり、3月11日付近にこうした不適切動画を投稿してしまいました。生徒を預かっている学校として、ちゃんとした教育を施せていなかったことに対して大変申し訳なかったとの意味合いで、お詫びを掲載させていただきました」また、不適切動画に関わった生徒の処分について問うと、「現在、学内で聞き取りの調査をしたり、色々と会議を持ったりして検討している最中で、まだ具体的には決まっていません」とのことだった。あれから1カ月。世間では新学期が始まったが、件の生徒はどうなったのか――。改めて4月7日に教頭に問い合わせると、「処分については部外秘ということで、外には申し上げる予定はございません」と回答。生徒の様子については、「十分に反省していると思います。ここ最近は直接その生徒と会っているわけではないので、状況は正確には掴んでおりませんが」との返答があった。一方で、現在までに学校でどのような指導を実施したのかと問うと、「これからになりますが、今月にSNS教育の授業を行う予定です。先だって3月には、東日本大震災で被災した人のお話などをビデオで視聴したりする教育も行いました」と教えてくれた。ただ、東日本大震災を伝えるビデオ授業において、不適切動画に関わった生徒は自宅待機中だったため欠席していたという。まだ先の長い人生。今回の失敗を教訓に、少年の行動が変わることを願うばかりだ。
2023年04月07日「東日本大震災のこれを観て生きている方、とても嬉しいです。また死んでしまった人はお墓で聞こえないと思うがwwほんとに悔しいです」少年が笑いを堪えながら、カメラに向かってこう語りかける。最後は合掌のポーズをとり、動画には「3.11」のテキストが添えられている。東日本大地震が発生して今年で12年。震災のあった3月11日は日本中が鎮魂の祈りに包まれたが、SNSでは冒頭の動画が物議を醸していた。もとはInstagramのストーリーに投稿された動画だが、11日深夜にTwitterでインフルエンサーが取り上げると瞬く間に拡散。震災の犠牲者を侮辱する不適切動画だとして批判が殺到し、少年のInstagramアカウントや学校、部活動などを特定する動きが広まった。炎上騒動を受けて、少年が通う埼玉栄高等学校は12日に公式サイトで「本校生徒による不適切動画掲載に関するお詫び」と題するコメントを発表。謝罪の言葉とともに、《まだまだ心の教育が生徒個々に行き渡っていなかったことを深く反省しますと共に、このような事態を防げなかったことに対し、大変悔しい思いをしております》と記している。本誌が13日に高校へ取材を申し込むと、教頭が応じた(以下、カッコ内は教頭)。学校側が生徒の不適切動画を把握したのは、12日の早朝。生徒が所属する部活動の顧問から炎上していると校長の方に連絡があり、その後、学校側で対応したという。「本来であれば、生徒のSNS上のトラブルについて学校側がコメントすることはほとんどありません。ですが、今回は内容が社会的な問題であり、3月11日付近にこうした不適切動画を投稿してしまいました。生徒を預かっている学校として、ちゃんとした教育を施せていなかったことに対して大変申し訳なかったとの意味合いで、お詫びを掲載させていただきました」現在、学校にどのような声が届いているか問うと、「学校に寄せられた全てのご意見を確認できているわけではありませんが、生徒の発言内容に非常に憤りを覚えられている方からの苦情や、『学校は悪くないから謝る必要はない』とおっしゃられる方など様々なお声をいただいております」とのこと。一方で、学校内部の保護者からは特にお叱りの声などは寄せられていないという。不適切動画を投稿した生徒たちの様子を聞くと、「こんなにも大事になるとは本人たちも思っていなかったようで、ショックを受けており、非常に落ち込んでおります。『大変なことをしてしまった』ということで、深く反省をしております」とのこと。また、生徒の処分については、「現在、学内で聞き取りの調査をしたり、色々と会議を持ったりして検討している最中で、まだ具体的には決まっていません」という。今後、学校としてどのような指導をしていくのかと質問すると、次のような回答があった。「ネットリテラシーの教育をより細かく指導することはもちろんですが、今回の件はネットリテラシー以前の問題です。人の気持ちに寄り添う思いやりの心など、道徳面でまだ足りない部分がございました。道徳心の向上を中心に、担任が細かく子供たちと向き合いながら話を進めていけるような生徒指導を今後も続けていきたいと思います」SNSで拡散され続ける不適切動画は、もはや“悪ふざけ”だけでは済まなくなってきている。
2023年03月13日2011年3月11日に発生した、東日本大震災。大きな地震や津波で多くの人の命が奪われた大災害は、今もなお、人々の記憶に深く刻み込まれています。東日本大震災から、12年が経過した、2023年3月11日。地震が発生した14時46分には、各地で黙祷が捧げられました。戦後最大といわれるほどの自然災害の傷跡は深く、産経ニュースによると、同日現在、全国で約3万1千人が避難生活を送っているとのことです。『東北魂義援金』がトイレットペーパーを気仙沼市に寄贈お笑いコンビ『サンドウィッチマン』の伊達みきおさん、富澤たけしさんが開設したことで知られる『東北魂義援金』。2人は宮城県仙台市出身で知られ、東日本大震災から5日後の2011年3月16日、東日本大震災の被災者支援を目的に『東北魂義援金』を開設しました。『サンドウィッチマン』が所属する芸能プロダクション『GRAPE COMPANY』のウェブサイトによると、2022年には、気仙沼市役所の提案で、移動設置型トイレ『トイレトレーラー』を寄贈。2023年3月9日には、トイレトレーラーでの使用を中心とした、トイレットぺーパーを7200個を気仙沼市に寄贈することを発表しました。このたび本格稼働に合わせて、JPホームサプライ株式会社(東京都中央区)より一般社団法人東北魂を通じて「トイレトレーラー」での使用を中心としてトイレットぺーパーを7,200個を気仙沼市に寄贈させていただくことになりました。こちらはトイレトレーラーでの使用のほか、気仙沼市の防災物資集積配送基地に保管し、災害備蓄などに使用していただく予定です。GRAPE COMPANYーより引用加えて『東北魂防災備蓄ゼリー6個セット』が、気仙沼市に500セット、宮城県に600セット寄贈されるそうです。一連のニュースに、ネット上では「『サンドウィッチマン』の2人は本当にすごい」「ありがとう」など感謝の言葉が上がっていました。避難生活を送る人たちが1日でも早く、もとの生活に戻れることを願うばかりです。[文・構成/grape編集部]
2023年03月11日意外と知らない社会的な問題について、ジャーナリストの堀潤さんが解説する「堀潤の社会のじかん」。今回のテーマは「大川小学校の教訓」です。東日本大震災から12年が経ちます。宮城県石巻市立大川小学校では、74人の児童と10人の教職員が津波の被害に遭い亡くなりました。12年前の3月11日に地震が起き、津波が来るからと授業は中断され、児童は校庭に集められました。子供たちは、いつも遊んでいる裏山に逃げようと先生に提案しましたが、指示が遅れておよそ50分間校庭にとどまり、あろうことか川のある方向に逃げてしまったために多くの児童が犠牲になってしまいました。なぜ指示が遅れたのか。裏山に逃げなかったのか。現場に行きご遺族のお話を伺い、実際に登らせていただいたのですが、学校のすぐ裏にあり、危険な場所でもないので、全速力で走ればすぐに逃げられたはずと思うと無念でなりません。学校ではその理由に関して回答しませんでした。犠牲になった児童のうち23人の保護者は、責任の所在や原因を明らかにし、二度と子供たちの命が失われることがないよう対策を取ってもらうために、市と県に対して2014年に訴訟を起こしました。裁判は長く続き、’19年10月に、市と県に約14億3600万円の支払いを命じる仙台高裁の控訴審判決が確定しました。学校を運営する行政の、防災に対する事前の不備を指摘し、原告の訴えが全面的に認められた形です。学校の教員には、住民よりもはるかに高いレベルの防災知識や経験が求められるということです。公開中のドキュメンタリー映画『「生きる」大川小学校 津波裁判を闘った人たち』では、真相を究明しようとした遺族の姿が見られます。小学校の近くには川が流れており、津波が川を遡ってきます。そして堤防が決壊して、被害が広がりました。のちに文科省の調査で、津波の浸水が予測されていた地域に位置する約4割の学校が、津波に対する避難訓練を実施していなかったことがわかりました。東日本大震災を機に、災害時に子供たちをどのようにして保護者に引き渡すかの防災マニュアルが作られました。大川小学校の亡くなった児童の親御さんや生き残った子供たちは、自らが語り部となり、事故の教訓を伝えようという取り組みが続けられています。この悲劇を忘れてはならないと思います。ほり・じゅんジャーナリスト。元NHKアナウンサー。市民ニュースサイト「8bitNews」代表。「GARDEN」CEO。Z世代と語る、報道・情報番組『堀潤モーニングFLAG』(TOKYO MX月~金曜7:00~)が放送中。※『anan』2023年3月15日号より。写真・小笠原真紀イラスト・五月女ケイ子文・黒瀬朋子(by anan編集部)
2023年03月11日2023年3月11日、東日本大震災から12年が経ちました。同日、宮城県出身であり、被災地を支援し続けている、お笑いコンビ『サンドウィッチマン』の伊達みきおさんが自身のブログを更新。伊達さんは、東日本大震災発生日に、13年連続で同県の気仙沼を訪れたことを報告。伊達さんは「なんというか、10年以降は、何年とかじゃなくて『3月11日ですね』っていう感覚でしょうか」とつづり、心境を明かしています。前にも書いた気がしますが、特に被災県の方は、時期を表す時に必ず「震災前」「震災後」と言う。震災前だから、12年以上前かぁ…とか。3月11日、この日を境に、この1年どうだったとか…この先の1年はとか…ある意味、また新しい年になる感覚もある。今日も、とても暖かい1日でした。12年前は、雪が降って凄く寒かった。同じ日なのに、こんなに違うんだよなぁ。違う日みたい。サンドウィッチマン伊達のもういいゼ!ーより引用また、宮城県気仙沼市にある『リアスアーク美術館』のスタッフから、明治時代や昭和初期などにも、東日本大震災クラスの津波が起こっていたと教えてもらった伊達さん。いずれまた来る震災や津波で被害を出さないために、伝承することの大切さを改めて訴えました。ちゃんと、後世に伝承してないからあんな大きな被害が出てしまったんだと。そして、いずれまた必ずくる震災・津波に備えられるかが大事な事。東日本大震災を経験した人がそれを伝えていかないと、また同じ被害が繰り返される。宮城県の海沿いは、7メートルの防潮堤で囲まれている。震災後に生まれた子供達は、それが当たり前になる。何故、こんな高いコンクリートの壁が海沿いにあるの?って事も思わないだろうな。。だから、しっかりと伝承していかなければならない。何でもない日常が続くって、有り難い事なんだと。この日は、そんな事を考える1日になれば良いと思います。サンドウィッチマン伊達のもういいゼ!ーより引用ブログの最後を「平和で、笑い合える1日がいつまでも続きますように」と締めくくった、伊達さん。伊達さんの言葉に、改めて震災や津波の被害を伝承する大切さについて、多くの人が考えさせられたようです。・伊達さんをはじめとする、さまざまな人が3月11日にはこうして東日本大震災の話をしてくれることに感謝。忘れてはいけない。・これから先、大きな地震や津波がこないことを願いたい。でも、くるかもしれないから、ちゃんと伝えないといけないですね。・あの日被災して、電気がない中「明日からどうなるんだろう」と思ったのをはっきり覚えてるのに、悲しい記憶は忘れたいのか、ぼんやりしてきました。でも、未来の人たちにはきちんと伝えていきたい。当たり前のことですが、年数が経つごとに、当時のことを知らない世代が増えていきます。これから先、東日本大震災レベルの震災や、津波が発生した時、多くの被害を生まないために、当時を知る世代が語り継いでいかなければなりませんね。[文・構成/grape編集部]
2023年03月11日2022年12月から始まった、JR東日本によるサービス『どこかにビューーン!』をご存知でしょうか。JREポイントを6000ポイント利用して、おすすめの4つの駅のうち、どこか1駅へお得に旅行できるというサービスです。JREポイントはJR東日本が提供するポイントサービスで、鉄道利用やSuica決済、駅ビルでの買い物などでポイントが貯まります。1ポイントが1円相当のため、このサービスを利用すると、6千円相当で新幹線指定席を往復利用できるとのこと。気になった筆者は、早速このサービスを利用して1泊2日の旅行をしてみました!『どこかにビューーン!』の利用方法JR東日本のウェブサイトにアクセスすると、『どこかにビューーン!』の申し込みができます。まず、発着駅と人数、行きと帰りの新幹線の乗車日、時間帯を設定。発着駅として選択できるのは、東京駅、上野駅、大宮駅の3駅。設定すると、ランダムで選ばれた4駅が行き先として表示されます。「すでに行ったことがある駅ばかりだった…」など、選ばれた4駅がしっくりこなければ、再検索をして駅を選び直すことも可能です。筆者も何度か再検索を繰り返した後、白石蔵王駅、赤湯駅、新潟駅、新青森駅の4駅で申込みをしました。この4駅のうち、どこか1駅が今回の旅の目的地になります。『どこかにビューーン!』で、ドキドキの旅行先が決定!申し込みの2日後に、行き先決定のメールが届きました。ドキドキの旅行先は…新潟駅!行き先決定ページでは、その地域の観光情報も確認できました。今回は親子2人で初めての雪国。観光するよりも、ホテルでゆっくりする旅行にしたいと思っていました。悩んだ結果、4つ手前の駅である越後湯沢駅のホテルを利用することに。『どこかにビューーン!』の乗車券は、途中乗車と下車もできるので、とても助かりました。旅行に行った感想は…万全の準備をして旅行当日を迎えましたが、当日は10年に一度といわれる大寒波の日。新幹線が遅延するトラブルもあって、定刻より40分遅れで越後湯沢駅に到着しました。この日は風が強く、気軽に外を歩けるような天気ではなかったため、『CoCoLo湯沢』という駅直結の商業施設内で、ホテルの送迎バスが来るまでの時間を楽しむことに。まずは、羽釜で炊いた南魚沼しおざわ産コシヒカリを贅沢に1合使用した『爆弾おにぎり』で有名な『雪ん洞』に直行!筆者は写真の塩おにぎりを購入しました。お米はつやつや!塩がお米の甘みを引き立てていて、とてもおいしかったです。続いては、『清酒八海山』を作る酒造の甘酒をたっぷり使ったアイスクリームやドリンクメニューが人気の『糀らって』で『糀ソフトクリーム』を食べました。ほんのりと糀を感じられる濃厚なソフトクリームで、濃厚だけど優しい甘さにスプーンが止まりませんでした。その後、送迎バスに乗りホテルに到着すると、そこには一面の雪景色が!この写真を撮影したのは3階の部屋でしたが、まるで1階の部屋にいるかのように思えるほど、雪が高く積もっています。翌日は天気もよく、子供と雪遊びをして冬の新潟を十分に満喫!新潟県に行ったことがなかった筆者でしたが『どこかにビューーン!』の旅を通じて新潟県を知り、おいしい食事や見たことのない景色を経験することができて、とても充実した旅程を過ごすことができました。気になるお得感を検証!『どこかにビューーン!』で利用できる座席は新幹線の指定席です。今回は東京駅を出発駅として、料金を計算してみました。当初の行き先である新潟駅までは往復2万1520円、越後湯沢駅までは往復1万3580円です。今回は6千円相当で目的地まで行けたので、半額以上もお得に旅行ができました。交通費を節約できたぶんは観光や買い物、宿泊先のランクアップに回してもいいですね。今回は1泊2日で利用しましたが、『どこかにビューーン!』チケットの旅行期間は乗車日含めて7日間のため、日帰り利用や最長6泊7日の旅行を計画することも可能!気になった人は、ポイントを貯めて利用してみてはいかがでしょうか。[文/AnyMama(エニママ)・構成/grape編集部]
2023年03月10日ベビーカレンダーでも人気のマンガ家の和田さんは当時茨城県で、小さいお子さん2人を子育て中でした。これは、和田さん一家が体験した震災の記録です。2011年に起きた東日本大震災から、早くも12年が経とうとしています。あの震災で亡くなられた方々のご冥福を、心よりお祈りいたします。また、被害にあわれた皆様に、謹んでお見舞い申し上げます。 震災当時、私は茨城県に住んでいました。家がなくなったわけでも、家族を失ったわけでもありません。被害の程度は軽いものだと言えます。これは、そんなわが家から見た東日本大震災の記録です。何が起きた…!? 夫は?子どもたちは…? 自宅にいた夫と再会し、保育園に子どもたちを迎えに行きました。当時、長女は4歳、次女は1歳5カ月。保育園の園庭に避難している子どもたちを見たときは、本当にホッとしました。このとき、携帯電話は通話できず、メールやネットもつながったりつながらなかったり。かろうじて「岩手・宮城・茨城で次々に地震が起きたこと」「余震が多いので建物の中では寝ないほうがいい(という意見)」をネットで見ることができました。離れて暮らす親兄弟や友だちとは連絡が取れず、安否の確認はできませんでした。私たち夫婦の携帯電話も電池が切れ、電気も水道も復旧しないまま。私たちは自宅の倒壊を恐れて、車で眠ることにしました。そして、最初の夜がやってきました。 震災発生当初の感覚をまだ覚えています。それまでにも、突然の不幸などで日常が急に崩れてしまったように感じた経験はありました。でも、周囲の人たちも皆同じように「非日常」に入り込んでしまうというのは初めての経験でした。誰もが不安な顔をしていたし、何かしら困っていたと思います。それでも私は心のどこかで、こんなことは長く続かないだろう、きっとなんとかなるだろう、と思っていました。このときはまだ、この非日常が何日も続くとは思っていなかったのです。 ※本記事は2011年に「本当にあった笑える話」(ぶんか社)掲載された漫画を、再編集・加筆したものになります。 著者:マンガ家・イラストレーター 和田フミ江姉妹の母。趣味はゲームと旅行と美味しいものを食べること。
2023年03月01日■前回のあらすじ息子のよいたんが保育園に入園した年。職場復帰早々私はよいたんの病気で会社を早退したり、休んだり…。しかし、先輩ママのアドバイスもあり、いろんなサポートを受けながらなんとか1年を乗り越えるのでした。■息子が発熱すると…■自分らしく働けていた時期よいたんが1~2歳のときは、子どもが熱を出せば基本的には私が休む(または時差出勤という方法で夜中に仕事したり)方法で仕事をしていました。私は(当時)「仕事も育児も頑張りたい!」と言う気概があったので(今はない)、「この仕事は這ってでも捕まえたいぞ」というときは、看病を代わってもらえる手を探して頼んでおりました。そのおかげで、子どもがいても自分らしい働き方ができていたかな、と思います。その一方で、自分の働き方が、次に出産を迎える他のスタッフを苦しめたら嫌だなという葛藤もありました。次回に続く「働く私と病気の子どもたち」(全6話)は12時更新!
2023年02月23日東日本大震災追悼~祈りの花火in竹岡~実行委員会は、2023年3月11日(土)に東日本大震災犠牲者の慰霊と復興への思いを込めて「東日本大震災追悼~祈りの花火in竹岡~」を開催します。追悼行事として黙祷、追悼の音楽、花火打ち上げを行います。あれから12年、今年も富津市にて追悼を捧げます。ポスター【開催概要】日時 :2023年3月11日(土)18:00~19:15 (花火打ち揚げは19:00~)主催者挨拶・黙祷・追悼の音楽・花火打ち揚げ会場 :・主催者挨拶・黙祷竹岡コミュニティセンター(千葉県富津市竹岡473-1)・追悼の音楽(NPO法人ひこうき雲)・花火打ち上げ(約100発 約5分間)竹岡漁港※竹岡漁港は竹岡コミュニティセンターから徒歩2分程※追悼の音楽は2部構成((1)18:10~18:25 (2)18:40~18:55)駐車場:なし JR竹岡駅をご利用ください。荒天時:3月12日(日)に順延東日本大震災から12年を迎える2023年3月11日(土)、富津市竹岡地区にて「東日本大震災追悼~祈りの花火in竹岡~実行委員会」主催の追悼行事を開催いたします。私たちは震災によって亡くなられた人々と、その遺族に対して深く哀悼の意を表します。また、被災された全ての人々に、心からお見舞い申し上げます。大きな災害はいつでもどこでも、誰にでも、起こりうることを知るとともに、家族や友人たちと災害に対する備えと災害が起こった時にどうするべきかを考えていく事は必要だと思います。東日本大震災の記憶を風化させることなく、震災を体験していない世代やこれから生まれてくる子どもたちにもあの日の悲しみと教訓を伝承していく事は必要ではないでしょうか。今後も大災害の発生が想定されており、改めて、東日本大震災の経験と教訓を活用することが重要だと思います。これからも東日本大震災の記憶を決して忘れることなく、甚大な被害を受けた被災地の人達を忘れずに思い続けていく事が大切だと思います。過去の花火主催:東日本大震災追悼~祈りの花火in竹岡~実行委員会(実行委員長 千倉 淳子) 詳細はこちら プレスリリース提供元:@Press
2023年02月20日私は20代、30代のそれぞれで結婚と離婚を経験しました。当時は「結婚なんてもう二度としたくない! 」と思っていたのですが、なんと40代にして3回目の結婚をすることになりました! 紆余曲折ありましたが「三度目の正直」でようやく幸せをつかんだ私の恋愛遍歴を紹介します。★関連記事:「1日1回応じるべし」46歳で妊娠・結婚、1年半で離婚!結婚生活のあり合えなかったルール同窓会でクラスメイトと再会し大学時代の平々凡々な毎日大学時代はよく学び、よく遊び、充実した毎日を過ごしていました。卒業後、特にやりたい仕事も見つからなかったので、就職はせずにアルバイトで生活する日々。そんなとき、大学時代の仲良しグループメンバーの1人だった男の子から「ずっと好きだった」と告白されたのです。その子のことを特別「好き」というわけではありませんでしたが、一緒にいて気をつかわずラクだったのでなんとなく付き合うことにしました。交際期間中も彼のことを「大好き」になることはありませんでした。でも一緒にいると心地よかったし、何より彼から愛され、大切にされている実感があったので、「こんな良い人を裏切ってはいけないな」と思って交際はそのまま継続。そして、交際から1年で彼からプロポーズされたのです。「愛していない人と結婚してもいいのかな」と一瞬躊躇(ちゅうちょ)しましたが、周りから「愛するよりも愛される結婚生活のほうが幸せだよ」と言われたので、そんなもんかと結婚を決意。今思うと、すべて受け身だったのが失敗の原因だったのかもしれません。誠実な彼との結婚生活は特に問題はありませんでしたが、毎日家事をするだけの専業主婦生活になんとなく「このままでいいのかな」「もしかしたらもっと他に好きな人ができるかも」と思い始めたのです。そうするとだんだん彼と一緒にいることが苦痛になり、結婚からわずか1年で私から離婚を切り出すことになりました。彼は泣いて引き止めましたが、私の意志は揺るぐことはありませんでした。離婚した当時、私は25歳でした。やんちゃな年下夫と波乱万丈の日々離婚後は、ひとり暮らしをしながら建設会社の事務職をして生活していました。 働き始めてから5年、30歳のときに現場の職人として働いていた5歳年下の男性から告白され、交際をスタートしました。私が今まで付き合ってきた男性は、どちらかというと私のわがままを聞いてくれるやさしいタイプの人でしたが、彼は真反対の「俺についてこい! 」というタイプ。その男らしさに惹かれ、どんどん彼のことが好きになっていきました。そして交際から半年後、彼からプロポーズされ、結婚。ラブラブな毎日に「これぞ私が求めていた結婚生活だ」と満足でした。しかし、その幸せもわずか3年で破綻したのです。とにかく遊ぶことが大好きな彼は、毎晩のように飲みに出かけるようになったのです。月3万円のお小遣いも「足りない」とすぐに追加をせびるようになる始末。また、血の気が多い彼は、飲みに行くと喧嘩っ早くなり、警察のお世話になったことも一度や二度ではありませんでした。 お酒でトラブルが起こるたびに「別れよう」とは思うのですが、酔いがさめると「ごめんね」と謝ってくる彼がかわいくて、私もつい許してしまっていました。しかし、トラブルはお酒だけではありませんでした。キャバクラに行っては女の子を口説いていた彼は、何度も浮気を繰り返していたのです。私にばれるたびに、「もうしません」と土下座するので、ついつい「今回だけは」と許していましたが、ついには浮気相手を妊娠させる騒動まで起こしてしまったのです!そのことでさすがの私も目が覚め、結婚から3年、34歳のときに離婚を決意しました。できちゃった婚だけど…2回目の離婚を機に実家に戻った後は、なかなか就職先が見つからず、アルバイトをしながら親のすねをかじって暮らす毎日を過ごしていました。2回の結婚と離婚を経た私に、両親も「誰か良い人いないのか」などと聞くことはありませんでした。それに私自身も「もう結婚はこりごり」「このままひとり身を満喫する人生も悪くないだろう」なんて思っていたのです。そうして年月が過ぎ、40歳になったとき「節目の年齢だし集まろう」と中学の同窓会の案内が届きました。正直バツ2のうわさも回っているだろうし、実家暮らしの身で何か聞かれたら嫌だな……と思ったので私は出席するつもりはありませんでした。しかし、友人から「行ってみよう」と何度も誘われたので、そこまで言うならと参加することにしたのです。そこで再会したのがバツイチ独身の元クラスメイト。2人で話をしてみると、思った以上に盛り上がったので、私たちは連絡先を交換しました。するとすぐに彼から「飲みに行こう」とメッセージが来たのです。その後何度か飲みに行くにつれ、お互いに好意を持ち、付き合うことにしました。彼が私に好意を持ってくれていることはわかっていたのですが、私は「もう結婚はこりごりだから」と事前に彼に伝えていたので、彼も私にプロポーズすることはありませんでした。そんな日々を送っていたある日。生理の遅れが気になり婦人科を受診すると、なんと妊娠していたことが判明! すぐさま彼に伝えると泣いて喜んでくれ、「結婚しよう」と言われました。私も子どもができたなら話は別……とプロポーズを快諾。こうして41歳で3度目の結婚に踏み切りました。まとめ彼はすでに両親が亡くなっていたこと、私も高齢になった両親を置いて家を出るのが心配だったこともあり、結婚後は私の実家で両親とともに暮らすことにしました。同居の提案を快く受け入れてくれた彼に感謝です。そうして44歳になった今、私たち夫婦と3歳の娘、そして私の両親で幸せに暮らしています。これまでの恋愛遍歴を考えると、それなりに紆余曲折があったなとしみじみ感じます。しかし、失敗を何度繰り返しても、結果的に報われることもあるんだなと学んだ経験でした。※記事の内容は公開当時の情報であり、現在と異なる場合があります。記事の内容は個人の感想です。取材・文/もりはなこマンガ/へそ著者/もりはなこ(46歳)高齢出産した娘の育児に毎日奮闘しつつ、迫りくる更年期の陰に怯えるアラフィフです。
2023年02月18日私は東日本大震災を機に好きな旅行関係の仕事から転職することになりました。しかも、今まで患者として通うことすら苦手ともいえる歯科医院に勤めることになったのです。そのときの私は41歳でした。私の仕事の変遷、働き方についてお話しします。★関連記事:「もう会社に行けない」夫が転職して半年でうつ病に。約2年の療養期間を経て再スタート【体験談 】東日本大震災により退職を余儀なくされた結婚を機に、東京へ引っ越した後からずっと憧れの旅行会社勤務でした。出産を機に仕事を辞めなければいけなくなったのは残念でしたが、娘が小学校へ入学してからは、旅行会社のコールセンターで約7年働きました。しかし、東日本大震災後は長期休暇を余儀なくされました。いろいろと検討した結果、旅行会社は退職することになったのです。私にとっては、こんなに大きな人生の転機はありません。東日本大震災は本当に怖かったですし、しばらくは旅行どころではない雰囲気でしたが、旅行業界から離れることが、本当に悲しかったのです。そんなとき、たまたま近所に歯科医院が開院しました。自宅から近いという点に惹かれた私は、履歴書を手に歯科医院へ面接に行きました。自宅から近い点がよかったのは、愛犬が東日本大震災での経験をきっかけに臆病になったため、働くなら自宅からの近い職場が良いと思っていました。職場が近ければ昼休みにも様子を見に帰れますし、終わるとすぐに帰れるのも安心だと思ったからです。歯科医院での仕事は、今まで経験のない初めての医療業務でしたが、その場で採用となりました。苦手ながらも学んだ歯医者での勤務経験患者として通うのも嫌だった歯医者ですが、歯科助手として勤めながら勉強していくうちに、歯医者が苦手ではなくなりました。歯医者の独特な「キーン」という音や、独特な薬品のにおい、麻酔しているのに痛いのか?など、働きながらその理由や仕組みを学んだためです。しかし、歯科助手の仕事は本当に大変な仕事でした。医師のアシストに付いたときは、少しも気が抜けません。治療している場所を集中して見ているため、目も疲れます。また、立ち仕事なので、足もパンパンです。 朝から医師と二人だけの勤務で、受付から先生のアシスト、洗浄、消毒、最後の診療室の掃除機など、すべてひとりでおこなっていたために、ついに体調を崩してしまいました。精神的にも不調が続き、メンタルクリニックにも通い始めるようになりました私が体調を崩してからは、午後から出勤にさせてもらっていましたが、それでも仕事が終わるのが、夜の9時や10時です。診療時間は夜7時までだったのですが、治療が終わってから2時間は洗浄、消毒に時間がかかりました。ついに体も心も疲れ果てて歯科衛生士は、歯医者では必要不可欠な人材です。同じ過ちをしたとしても、同僚の歯科衛生士は許してもらえても、歯科助手の私はやり直しをさせられました。歯科衛生士は時間が来ると帰ってしまいますが、私は仕事が終わるまで仕事をします。歯科衛生士との待遇の差もありますが、コロナ禍でさらに消毒の手間も増え、疲れ切ってしまいました。休憩もままならないのですが、受付の方が休憩しているコーヒーのにおいを嗅いで、休憩した気分に浸るのが精一杯です。こんな生活に、本当に体と心が悲鳴を上げていたのです。さらに追い打ちをかけるかのように、施設に入っていた祖母が入院したという知らせが入りました。状態も良くないとの連絡です。私はお休みをもらい、帰省しますが、コロナ禍で入院している病院に入れてもらえません。それでも祖母の容態が気になり、すぐに東京へは戻ることができませんでした。祖母に会えないのなら、すぐに仕事へ戻れば良いのでは?と思われるかもしれませんが、私は幼いころから、祖父母に育てられたと言っても過言ではありませんから、会えなくてもそばにいたかったのです。退職し、新たな生活に挑戦中!祖母のこともあり、私は51歳で歯科医院の退職を決意しました。大切な人とお別れもできない職場にいることも、悲しくなってきたのです。結局は祖母に会えないままでしたが、1週間は病院に毎日通い続けることができました。退職後、祖母との別れを悲しむのを避けるために、すぐにWebライティング実務士の資格を取得し、持病を持っているわが家の老犬もいるので、在宅で仕事をすることにしました。さらに、歯科助手経験を小冊子にして出しました。私自身が勉強になったことや、意外と歯医者選びに困っている患者さんも多かったので、役に立てればと思ったのです。1年間修行した歯医者の先生が受付に置いてくれています。心は相変わらずで引き続きメンタルクリニックに通っています。いつもキャパを超えないようにと先生に言われてしまいます。まとめ私にとっては、東日本大震災が大きな人生の転機となりました。ずっと続けてきた大好きな旅行業界から、まさか患者として苦手意識を持っていた歯科医院に勤務するとは思っていませんでした。でも今となっては、良い勉強と良い経験になったと思っています。歯科医院では薬について扱うことも多かったため、薬にも興味を持ち、「登録販売者」の勉強もしています。気付けば、東日本大震災から12年たとうとしています。やはり昔ほど頑張りも利かず、心と体は悲鳴を上げていました。これからは、無理をしない範囲で仕事をしようと考えています。※記事の内容は公開当時の情報であり、現在と異なる場合があります。記事の内容は個人の感想です。著者/takaramomo(52歳)2021年に歯科助手を退職し、現在はWebライターとして活動中。夫と生まれる前から反抗期の25歳の娘、宝物わんこの桃太郎くんが唯一の癒やし。好奇心旺盛なアラフィフゆえ寺・国内地理・城郭・日本茶・救急救命指導員・アマチュア無線など多数の資格を保持。
2023年02月16日2023年2月6日、トルコ南東部を震源としたマグニチュード7.8の大地震が発生しました。同月12日時点で、亡くなった人の数は2万8千人以上。建物も多数倒壊し、甚大な被害が出ているのです。トルコでの地震を受けて、登山家の野口健さんはTwitterを通じ、寝袋の寄付を呼び掛けるなど、多くの人々に支援を求めています。極寒のトルコ・シリア被災地野口健が寝袋の寄付を呼びかけ「日本にとってトルコは恩人」野口健が東日本大震災でタバコを寄付した理由トルコ地震での支援活動を行っていると、野口さんの心の中では「支援者側も、当事者意識を持つことが大切だ」という想いが芽生えてきたといいます。想像力を働かせることで、今どんな支援が必要なのかが分かり、それが日頃の防災に対する意識を高めるそうです。トルコ地震の災害支援活動を行いながら感じるのは、支援している僕らも当事者意識を持つこと。「明日は我が身」だとリアルに想像する事が大切なのだろうと。リアルにイメージをする事で、今、何を求められどのような支援をすべきか想像がつきますし、また、自分が被災者になる前提で備えにも力が入る。— 野口健 (@kennoguchi0821) February 11, 2023 野口さんの投稿に対し、2011年に起きた東日本大震災の被災者から、こんな感謝の声が届きました。被災地にタバコを届けた野口さんの話を知った時は、「この人はきれいごとでは済まない物事の道理を理解している」と思いました。大きな災害が起きると、各地から食料品が届けられます。もちろん、生きていくうえで食べ物は必要不可欠。しかし同時に、野口さんは被災者のメンタルケアも大切だと考え、タバコを寄付したと振り返りました。あの時は「津波で助かった人を肺ガンで殺すのか!」などの抗議電話が多数、事務所に寄せられましたが、現場に訪れる中で本当に必要とている物が何か、見えてくるもの。救援物資の中に嗜好品は含まれるべきだと今でも思っています。お届け先では大歓迎されましたが、外部からはかなり叩かれました。同じ事が熊本地震で運営したテント村でも。「避難所は禁酒」だと被災自治体から告げられ「テント村も禁酒にすること」と。しかし、雨風を防ぐ事だけが避難所の役割ではなく、被災者のメンタルケアも重要なポイント。テントですからいわゆる個室ですし。ルールを破りテント村はアルコールOKにしました。@kennoguchi0821ーより引用(原文ママ)東日本大震災や2016年に起きた熊本地震の時、それまでの日常が突然奪われ、激しいストレスに苦しんだ被災者もいたことでしょう。タバコを日常の支えにしていた人ならば、吸えないことでなおさらストレスを抱えていたはず。野口さんはそう考え、被災地にタバコを届けたようです。タバコを寄付した野口さんのエピソードに、多くの人から反響が上がりました。・災害で避難した時、水や食料はもちろん必要だけど、何かしら日常を感じられるものも大切なんだと思います。・普段必要なくても、もし自分が被災したらタバコとコーヒーが欲しい。飲み込んだ重たい空気を、溜息と一緒に吐き出したいかも。・被災地に、嗜好品の1つであるタバコを届けるという発想がすごいです。震災時、避難所として開放された体育館の端に喫煙スペースが設置され、分煙はされていたとのこと。タバコを届けたことに対する、被災者からのクレームは1件もなかったとも野口さんは明かしています。避難所の中で喫煙できる避難所は僕の知る限り存在していません。喫煙者は体育館の外のしかも端っこに喫煙ブースがあり、そこでタバコを吸っていました。テント村もJTさんが喫煙ブースを端っこに設置してくれました。タバコを届けた事に対し被災者の方からのクレームはたったの一件もなかったです。@kennoguchi0821ーより引用災害が起きた時、自分には何が必要で、準備をしておくべきかを、考えることが大切ですね。[文・構成/grape編集部]
2023年02月12日「岩倉めぐみに扮する永作さんが今作の演技でもっとも悩んだパートが、2週にわたって描かれた“夫を失っためぐみがどう新社長として会社を立ち直せるか”だったそうです」(制作関係者)現在放送中のNHK連続テレビ小説『舞いあがれ!』に出演中の永作博美(52)。めぐみは「IWAKURA」社長で夫の浩太(高橋克典)が急死し、悩み抜いた末、新社長に就任。現在は娘・舞役の主演・福原遥(24)とともに物語の主軸を担っている。「リーマン・ショックの直撃を受け、倒産寸前の会社を引き継いだめぐみは、慎重にして大胆なリストラの断行や、取引先に赴いて、先方の社長相手に一歩も引かない金銭交渉をしてみせるなど、工場を徐々に再興していきます。4年後、会社は危機を乗り越えパイロットの内定を辞退した舞は営業部のエースに成長。めぐみと共に亡き父の“飛行機の部品となるネジ作り”という夢を追っていきます」(テレビ誌ライター)家業のピンチを乗り切る永作の“キャラ変”新社長役の評判は上々のようだ。「ネット上でも《有能なやり手社長爆誕》《スカッとさせてくれてありがとう!!》など、多くの共感の声が上がっています」(前出・テレビ誌ライター)前出の制作関係者は言う。「永作さんが、めぐみを説得力あるキャラクターへと昇華できたのは、実は彼女自身も家業のピンチを救っていたことが影響しているのだと思います」■東日本大震災から半年、行方市をPRする「なめがた大使」に永作は4世帯が同居する茨城県内のイチゴ栽培農家に生まれた。「祖父母の代で農園を広げ、地元では有数の規模だと聞いています。幼少期から家の手伝いをして家業の大変さは身に染みるほど知っているはずです。彼女は専門学校に通うため上京し、19歳のときにアイドルとしてデビューしました。テレビ番組で両親の家業を聞かれると『イチゴ農園』とは言わずに『ストロベリーファーム』と呼ぶなど家業へのこだわりがあったといいます」そんな実家を襲った悲劇――。それが、’11年3月の東日本大震災だった。本誌も当時、永作の実家のピンチを報じている。「被災地に近いというだけで農作物が放射性物質に汚染されているという風評被害に遭ったんです。その影響で売り上げは激減。イチゴ狩りも中止になりました。永作さんの実家は70メートルの巨大ハウスが並ぶような広大農園ですから、当時の被害額は莫大なものでした」(地元紙記者)実家および地元の窮地を受け、実は永作は立ち上がっていた。東日本大震災から半年、出身地である行方市をPRする「なめがた大使」に選ばれ、多忙な女優業の傍ら、地元の広報活動に注力していったのだ。「永作さんは“実家のために自分に何ができるだろう”と大いに悩んだそうです。大使になった永作さんは直後に広報紙に登場して行方市の市長と対談したのです」(前出・地元紙記者)地元の広報紙で、永作は風評被害に苦しむ地域住民に対して、こうメッセージを送っていた。《災害に関しては起きてしまったことなので、心が折れないように踏ん張っていくしかないのかなと思っています。ことが大きすぎてわたしがなにか言うのもおこがましい気がするのですが、ほんとうに自分を強く持って頑張ってほしいと思います》(『市報なめがた』’11年10月号)もちろん、実家への強い思いも込められていたはずだ。永作は’14年にも広報紙に登場して、《茨城県産(の食材)をいっぱい食べています。スーパーに行って産地名を確認するようになりました。茨城産や行方産は結構多いですよ》(『市報なめがた』’14年10月号)と、地元への愛情を熱く訴えていた。■撮影現場にも実家のイチゴを差し入れして……さらに’15年10月には同市内に農と食の大型複合施設「なめがたファーマーズヴィレッジ」がオープンした。同所の広報担当者は本誌の取材にこう語る。「なめがたファーマーズヴィレッジはそうした風評被害を払拭するためにも、地元の方々と一緒に作っているヴィレッジです。竣工式には永作さんに来ていただきました。永作さんは当施設のマスコットキャラクターである『焼き右衛門』の声を担当してくださっています」そんな永作の地道な“草の根活動”は、撮影現場でもたびたび見られたという。「当時のドラマや映画の撮影現場では、永作さんが差し入れとしてよくご実家のイチゴを持ってきてくださいました。出演者からもスタッフからも大好評でしたね。永作さんはご実家から送られてくる新鮮なイチゴを自ら煮詰めてジャムにしているそうです。あの若々しさもそういった健康的な生活のおかげなのかもしれません。調理師免許を持っていることもあり、イチゴをサラダにトッピングするなど、仲のよいスタッフの方々と“こういうの作ったよ”と写真を見せて盛り上がってる姿を見たことがあります。“地元の農作物がいかにみずみずしくておいしいか”を共演者の方々やスタッフの皆さんに笑顔で話されていた記憶がありますね。永作さんの後方支援もあり、ご実家の売り上げも回復したそうです」(前出・制作関係者)家業を続ける厳しさをよく熟知しているからこそ、彼女なりの“営業活動”を行っていたのだろう。その経験はめぐみを演じるうえで大いに役立ったはずだ。「高橋克典さん演じる夫が病院で亡くなるシーンの撮影は、朝から主演の福原さんの涙がずっと止まらなくて大変だったんです。撮影終了後も号泣する福原さんを永作さんはハグしてずっと介抱していました。その姿に、スタッフたちも涙が止まらなかったんです」(前出・制作関係者)主演の福原も絶大な信頼を寄せる“強い母”“折れない社長”を体現する永作こそ、“リアルめぐみ”だった――。
2023年02月03日ベビーカレンダーでも人気のマンガ家の和田さんは当時茨城県で、小さいお子さん2人を子育て中でした。これは、和田さん一家が体験した震災の記録です。2011年に起きた東日本大震災から、早くも12年が経とうとしています。あの震災で亡くなられた方々のご冥福を、心よりお祈りいたします。また、被害にあわれた皆様に、謹んでお見舞い申し上げます。 震災当時、私は茨城県に住んでいました。家がなくなったわけでも、家族を失ったわけでもありません。被害の程度は軽いものだと言えます。これは、そんなわが家から見た東日本大震災の記録です。何が起きた…!? 夫は?子どもたちは…? 自宅にいた夫と再会し、保育園に子どもたちを迎えに行きました。当時、長女は4歳、次女は1歳5カ月。保育園の園庭に避難している子どもたちを見たときは、本当にホッとしました。このとき、携帯電話は通話できず、メールやネットもつながったりつながらなかったり。かろうじて「岩手・宮城・茨城で次々に地震が起きたこと」「余震が多いので建物の中では寝ないほうがいい(という意見)」をネットで見ることができました。離れて暮らす親兄弟や友だちとは連絡が取れず、安否の確認はできませんでした。私たち夫婦の携帯電話も電池が切れ、電気も水道も復旧しないまま。私たちは自宅の倒壊を恐れて、車で眠ることにしました。そして、最初の夜がやってきました。 震災発生当初の感覚をまだ覚えています。それまでにも、突然の不幸などで日常が急に崩れてしまったように感じた経験はありました。でも、周囲の人たちも皆同じように「非日常」に入り込んでしまうというのは初めての経験でした。誰もが不安な顔をしていたし、何かしら困っていたと思います。それでも私は心のどこかで、こんなことは長く続かないだろう、きっとなんとかなるだろう、と思っていました。このときはまだ、この非日常が何日も続くとは思っていなかったのです。 ※本記事は2011年に「本当にあった笑える話」(ぶんか社)掲載された漫画を、再編集・加筆したものになります。 著者:マンガ家・イラストレーター 和田フミ江姉妹の母。趣味はゲームと旅行と美味しいものを食べること。
2023年02月01日