1995年1月17日に発生した、兵庫県淡路島北部を震源とする、『阪神・淡路大震災』。最大震度7の大きな揺れにより、街のいたるところで建物の倒壊や火災などが発生し、人々の生活に大きな影響をおよぼしました。多くの尊い命が失われた災害は、2023年現在になっても語り継がれています。震災から28年が経過した2023年1月17日、タレントの榊原郁恵さんがInstagramにつづったのは、夫で俳優の渡辺徹さんが震災時に体験した出来事。震災発生当時、渡辺さんは仕事のため、兵庫県神戸市のホテルに滞在していたといいます。早朝、渡辺さんから1本の電話が自宅にかかってきました。「今、大きな地震があってさ…」「え?気が付かなかった…!」「窓から外見えるんだけど、あちらこちら煙が見える、もしかして火事かも…」「え!大丈夫?」「うん、又電話する」数分後「いやー…これ…大変なことになったのかも…」「えー⁈」それから連絡が取れず、5〜6日して足に血まめ、ボロボロになって東京に帰って来た。sakakibara.ikueーより引用目の前で起きた災害の惨状を榊原さんに語った渡辺さん。当時、通信などにも大きな影響が出たことで、連絡がつながりづらくなったのでしょう。連絡が途絶えて6日程度が経過した頃、動いている電車の駅まで歩き続けていたという渡辺さんは、命からがら戻ってきたそうです。そんな大変な思いをしたあの日から28年後。家族が、愛犬であるコーンちゃんを長年大切に世話をし続けたことが、愛犬家の模範として表彰されたことを榊原さんは明かしました。※写真は複数枚あります。左右にスライドしてご覧ください。 この投稿をInstagramで見る 榊原郁恵(@sakakibara.ikue)がシェアした投稿 渡辺さんは2022年12月、病気のため逝去。生前、大震災に見舞われた渡辺さんの出来事に、多くのファンが想いを寄せています。・「なんとかして家族のもとに戻りたい」という一心があったのだろうと思うと、泣けてきますね。・慣れない場所で被災をして、帰るのに渡辺さんは大変だったろうと思います。・渡辺さんは疲労困ぱいで、榊原さんも心配でたまらなかったのではないでしょうか…。『阪神・淡路大震災』以降も、『東日本大震災』など各地で大きな地震が起きています。災害が起きても、家族や自分の身を守れるようにしたいですね。[文・構成/grape編集部]
2023年01月18日人より初潮が遅かった私。中学生になると周りの友だちのほとんどに生理がきていたようで、生理の話をするのは日常茶飯事といった状況になり、私は次第に焦っていきました。そんな中、自分が取ったある行動を、今でも後悔していて……。 初潮が遅いことに焦り始める小学校高学年あたりから私がずっと気に病んでいたのが、なかなか初潮がこなかったことです。 ちょうど友だちに初潮がきたという子がちらほら現れ始めたころ。「私は早生まれだからきっと遅いほうだろうな」と最初は余裕で構えていました。しかし中学校に入学しても初潮は訪れず……。 周りの友だちが生理の話題で盛り上がったりナプキンの貸し借りをしたりしている様子を見ると、「初潮がきていないのって私だけ?」と悩むようになっていきました。 「生理がきた」と友だちに嘘をつくように中学生のころは生理初心者ということもあって周りの様子を知りたいからか、友人たちの中では「何日目が一番量が多い?」「初めて生理がきたときってどうだった?」などと生理の話題がよく上がっていました。そんな中、初潮を迎えていないことが恥ずかしくなり、いつしか自分も生理がきていると嘘をつくようになった私。 友人から聞いた話をもとに「2日目が一番多いかな」「はじめは血が茶色くてびっくりしたよ」と無難な回答を考えていました。そのときの気まずさや「嘘だとバレていないかな」とドキドキした後ろめたさを、今でもよく覚えています。 見栄を張って嘘をつかなければよかったその後、私は14歳で初潮を迎えました。初潮を迎えたとき、真っ先に思ったのが「ああ、もう友だちに嘘をつかなくていいんだ」ということ。 生理に関する思い出を振り返ると、初潮を迎えてうれしかった気持ちよりも、友だちに必死で自分を取り繕った気まずさのほうが色濃く思い出されます。「見栄を張って嘘をつかなければよかった」ということを今でも後悔しているのです。 今振り返ればたった数カ月や数年、初潮が人より遅かったことなんて何も恥ずかしくないことだとわかります。しかし当時は「生理がくる=大人の女性になる」という認識から、自分だけが幼い子どものままでいるように感じられてとても恥ずかしかったのです。 自分の娘には、自分の成長ペースを自然に受け入れられるように、「成長にはそれぞれペースがあるんだよ」「お母さんはこんなふうに悩んでいたんだよ」と話しておきたいなと思っています。 著者/榎本まいこ作画/ちゃこ監修/助産師 松田玲子 ムーンカレンダー編集室では、女性の体を知って、毎月をもっとラクに快適に、女性の一生をサポートする記事を配信しています。すべての女性の毎日がもっとラクに楽しくなりますように! イラスト制作者:マンガ家・イラストレーター ちゃこ漫画のお仕事をしています。インスタグラムでグルメ備忘録を更新中。
2023年01月17日■前回のあらすじ数年前から「嫌いな人、苦手な人を作らない」と考えるようになった私。どうしても嫌いな人ができてしまうことはあるけど、それより「好きな人を作って、好きな人のことを考える」ようになったら心が楽になったのです。■支援センターにデビュー!■“支援センターあるある”に打ちのめされ…なんで新しいコミュニティに行くと、自分以外は慣れてて楽しそうに見えるんでしょうね。私も最初はこんな感じでした。ちなみに公園も人が少ない時間に行ってたし、なるべく人少なくあれ…! って思っていました。それでも妊娠中にひとりで子どもを見るのがつらすぎた結果、コミュ力が上がったという話です。とりあえずこれを読んでいる先生方は最後のページで「そんなふうに思わせてしまってたなんて…」という謎の反省をしないでくださいね!次回に続く「ママ友って?」(全5話)は12時更新!
2022年12月27日『すずめの戸締まり』が公開中のアニメーション監督・新海誠が、12月12日(月)に放送する「クローズアップ現代」に出演する。11月に劇場公開された『すずめの戸締まり』で原作・脚本も務めた新海監督。17歳の少女・鈴芽が日本各地で発生する「災い」を鎮めていく冒険物語で、興行収入は公開24日で75.9億円を突破した(※12月9日現在)。エンターテインメント性が高く多くの支持を受けているが、実は東日本大震災を真正面に描いた意欲作であると話題を呼んでいる。番組では、なぜ監督が東日本大震災に向き合い続けるのかを探るべく、東北での舞台挨拶の裏側にも密着。映画製作の不安を告白しながら被災した当事者たちと交流する姿を追った。「いま、“物語”に何ができるのか?」日本を代表するアニメーション監督の思いの真相に迫る。新海誠監督新海監督は出演に寄せて、「映画を一本作って公開すると、様々な声が届きます。それらの言葉にずっと励まされたり教えられたりしてきました。しかし、監督である自分に向かっては決して語られないような言葉、僕からは見えてこないような声をずっと聞きたかったのです」とコメント。「番組の取材と桑子(真帆アナウンサー)さんとの対話は、その声の一端を聞かせてくださいました。心から感謝しています」と明かしている。「クローズアップ現代」は12月12日(月)19時30分~NHK総合にて放送。※再放送は13日(火)17時30分~NHK BS1にて。12月19日(月)までNHKプラスにて見逃し配信(text:cinemacafe.net)■関連作品:すずめの戸締まり 2022年11月11日より全国東宝系にて公開Ⓒ2022 「すずめの戸締まり」製作委員会
2022年12月12日2011年3月。シングルマザーの私には交際中の彼がいました。しかし、娘があまり彼に懐いていないこともあり、彼とこのまま交際を続けて結婚してもいいのか悩んでいました。そんなとき、宮城県の田舎町で暮らしていた私たちに東日本大震災が襲いかかったのです。震災直後からスマホやライフラインはすべて停止。私と娘、2人きりでの在宅避難生活が始まったのですが……。 突然の東日本大震災私は、宮城県内陸部にある田舎のスーパーで働いていました。2011年3月11日の午後、最大震度7のこれまでに経験したことのない激しい揺れにスーパーの店内は壊滅状態。店から帰宅を許され、車を走らせたはいいものの……停電で信号機は全停止、大きな交差点に差し掛かったときは多くの車が事故になりそうになっている光景を見て、パニックになりました。 それでも何とか娘の小学校に迎えに行くと……娘は校庭で大泣きしながらも、お友だちに励まされ私の迎えを待っていました。私たちはお互いの無事を喜び、抱き合って大泣きし帰宅しました。 母子2人の在宅避難生活震災以降は、在宅避難生活が始まりました。しかし、ライフラインはすべて停止しスマホは電波がなくて繋がらず、ラジオも持っていません。外部からの情報や連絡が遮断され、世界は私と娘の2人きりになったようでした。 外の様子はというと、スーパーも商店もガソリンスタンドも閉店しており、街にはひと気がありません。ついには、自宅の近くに1本しかない生活道路に亀裂が見つかって車両通行止めに。車や徒歩での外出も難しくなりました。 自宅の損壊は無事免れたため自宅で避難していましたが、東北の3月はまだまだ寒く雪が降る日もあるほど。石油反射式ストーブで暖をとりつつ、停電で使えなくなった冷蔵庫の食材を取り出しては煮炊きして食べ、飲み水は近くの川から水を汲んで煮沸して使用。寒さの中で娘と2人で体を寄せ合い暖をとって、夜はろうそくの灯りで過ごしました。 突然の彼の訪問当時、小学生の一人娘を持つシングルマザーだった私には交際中の彼氏がいましたが、娘が彼にあまり馴染めていないこともあり、別れたほうがいいのかな……?と悩んでいました。 そんなときに起きた大震災。「必要なものを届けてもらえないか」と交際中の彼へ連絡をしても、電波がなくて繋がらず諦めていました。しかし、東日本大震災の初日から3日が過ぎ、3月14日になった日のことです。 大小の2枚のビニール袋を持って、彼が突然わが家へやってきたのです! どうやら、試車両通行止めになった道をはるばる歩いてきてくれたとのこと。お互いに無事だとわかって、私たちは心の底から安心しました。 彼に訪問理由を尋ねると、小さいビニール袋を私に手渡しながら「今日はホワイトデーだから。スーパーも商店もほとんど閉まっていて、何軒も駆け回ってやっと1軒だけ小さなお店を見つけたんだよ。そこで、ほんの少しだけどお菓子があったから。少ないけど、娘ちゃんと2人で分けて食べてね」と言うのです。 「ホワイトデーだから」との口実でしたが、彼は私たちが不安になっているだろうと思って、安心させに来てくれたに違いありません。大きいほうのビニール袋にはいろいろな食材も入っており、彼は言葉通り何軒ものお店を回ってきてくれたようです。私も娘も、彼が来てくれたことで不安や恐怖が解消され、心の底から安心できました。 人生の中で、あんなにうれしく安心したホワイトデーは、過去にもこれからもないのではないかと思います。娘もとてもうれしかった様子で、それ以来、彼に懐くようになりました。それから2年後、この出来事が後押しとなって彼と結婚することができました。人生は本当に何が起こるかわからないと思いましたし、私の人生の中でもとても印象に残った出来事です。 著者/桜井いずみ作画/しお 著者・イラスト制作者:マンガ家・イラストレーター しお5歳年下の夫&猫と暮らしているアラサー女子!ゆるゆるな日々のエッセイなどを描いている。
2022年10月04日私が小学6年生のころ。両親はほぼ別居状態であり、母はたまに帰ってきてくれる程度で、わが家はほぼ父子家庭状態。私は思春期で父親に嫌悪感を抱いていたころでもありました。そんな中、初潮を迎えた私は……。 その後も、また父との生活になったのですが、私は生理がきたことを父にはどうしても話すことができず……。使用済みナプキンなどは黒い袋に入れて、ゴミの日にこっそり捨て続けました。3カ月くらい経ったころ、父が気づいたのか「生理がきたのか?」と言われ……。 当時はとにかく父に対しての嫌悪感がすごく、私は軽く「うん」と返事をしただけ。「なんで黙ってたの? おめでたいことなのに」と言われましたが、「逆になんで教えなきゃいけないの!?」とイラッとしてしまった記憶があります。 家庭環境が複雑だったがゆえに、初潮の思い出はほろ苦いものとなってしまいました。自分の娘にはあんな思いをさせたくないので、そのときがくる前に、生理用品を揃えたり娘と話し合ったり、女性の先輩として教えてあげられることはしっかりと教えてあげたいです。 原案/今市愛沙さん作画/まっふ監修/助産師 REIKO ムーンカレンダー編集室では、女性の体を知って、毎月をもっとラクに快適に、女性の一生をサポートする記事を配信しています。すべての女性の毎日がもっとラクに楽しくなりますように! 著者・イラスト制作者:マンガ家・イラストレーター 漫画家 まっふ令和元年5月1日生まれの男の子を子育て中の漫画家。多嚢胞性卵巣症候群からの妊娠を備忘録としてブログにのんびり4コマで更新中。ベビーカレンダーでは妊娠中のお話「妊婦レベル1 まっふの冒険記」を連載中。息子とのお昼寝と一日の終わりにするゲームがなによりの至福。
2022年09月20日私の子育て人生の始まりは2011年でした。この年は東日本大震災など、世間的にもたくさんのことがありましたが、私のどん底は長男を出産した2日後にやってきたのです……。マッサージを受けて授乳の準備はバッチリ帝王切開での出産。その翌日まで点滴を受けていたので、授乳がスタートしたのは産後2日目からでした。 それまでは助産師さんたちが作ってくださった育児用ミルクを、言われるままに飲ませていました。病院のスケージュールのなかで、おっぱいがよく出るようにおっぱいマッサージをしてもらい、たくさん出ていたので授乳の準備は完璧のつもりでいたのです。 幸せな授乳タイムの始まり…?いよいよおっぱいでの授乳がスタートしました。私が出産した病院では、ママと赤ちゃんが授乳室に集合しておっぱいを飲ませていました。赤ちゃんの体重を測って、おっぱいをくわえさせて飲ませて、また体重を測って。 みんながどんどん授乳を終わらせていくなか、私はなかなかうまく飲ませることができず、じょうずに飲ませられない不安と孤独でいっぱいでした。 孤独と不安で毎日涙…個室に戻っては、「帝王切開で産んだからちゃんと飲んでもらえないのかな」「おっぱいが大きすぎるから飲みにくいのかもしれない」「ミルクのほうがおいしいのかも……」と自分を責め、ひとりで大泣きしては寝られない夜を過ごしていました。 赤ちゃんは母乳で育てるのがいいからと周りに言われ、誰にも相談できずにいました。そして朝が来るとまた恐怖の授乳教室が始まり、挫折して個室に帰り、泣きながら搾乳する。そんな入院生活でした。 あんなに涙にくれながらおっぱいをくわえさせて頑張っていましたが、その後は搾乳して哺乳びんで飲ませたり、夜中は育児用ミルクにしたりと、負担の少ない授乳に移行していきました。生後3カ月ごろからは完全ミルク生活にしたことで、苦しみから解放されて、楽しく子育てができるようになりました。 ※本記事の内容は、必ずしもすべての状況にあてはまるとは限りません。必要に応じて医師や専門家に相談するなど、ご自身の責任と判断によって適切なご対応をお願いいたします。 監修/助産師REIKO 著者:ライター 舟橋海央4歳差の男子2人の母。同じ男の子でも性格の違う2人からいろいろ学びながら子育てを満喫中。自身の子育て体験をもとに記事を執筆している。
2022年07月23日まだ私が恋愛経験が乏しかったころに告白され、お付き合いを始めた彼。最初はイケメンでやさしくて、なんて最高の恋人なんだろう! と舞い上がっていました。しかし、だんだんと彼の性格が明らかになってきて……。 若かりしころの、松岡充似のスーパーイケメン彼と出会ったのは、大学のテニスサークルでした。高校時代にはほとんど恋愛経験がなかった私。大学生になってサークルに入り、楽しい学生生活を送れたらいいなと期待に満ち溢れているときに、当時4年生だった彼にアプローチされました。 彼はお世辞抜きにサークル1のイケメンで、どこにいても必ず人目を必ず引く存在。そんな彼に突然アプローチされたことが信じられず、私は最初、かなり動揺してしまいました。 行動もイケメン…あっという間に骨抜きに最初は彼が私を「かわいい」と言っているという噂を聞き、冗談だろうと思っていました。しかし、サークルに入って初めての夏合宿の飲み会の席で一緒になった際、「本気でかわいいと思っている」と口説かれたのです。さらに、翌日の肝試しではたまたま同じグループになり、もはや距離が縮まる以外にはない展開に。 合宿中に当然のように連絡先を交換し、その後のデートでも終始リードしてくれる彼にすっかり骨抜きになった私。観覧車の頂上というセオリー通りのロマンチックな場所で告白され、即OKしたのでした。 だんだん見えてくる彼の性格…ひょっとして合わない?そうして彼との交際がスタートしたのですが、付き合い始めてわかったのは、彼は外でデートするのが本当はあまり好きではないということ。私は外でもデートをしたかったのですが、外出を疎む彼とのデートは家ばかり。家でも特に何をするわけでもなく、彼の趣味に一方的に付き合うばかりだったので、正直、最初の盛り上がりは何だったのかと思いました。 さらに辟易したのは、彼がとてもナルシストだということ。一度外に出れば、ショーウィンドウに映った自分の姿を必ずチェック。ごくたまにあった外でのデートの待ち合わせでは、普段まったくしないのに、おまたせと言いながら顔を近づけたり、頭をなでたり、いわゆる女性が喜びそうなことをして、周りの反応を楽しむのです。 ちなみに、実際、女性の視線をかなり感じられたり、その場でお喋りしていた女子高生の集団が、私の肩を抱く彼の姿を見て全員見とれてしまったことがありました。 そんな一面があっても、私にとっては初めての彼氏だったこともあり、頑張って彼に尽くそうとしました。しかし半年が過ぎたころ、彼の気持ちが少しずつ離れているのを感じてしまい、私からお別れを告げました。 関係が終わりかけのころ、私は彼から全然大事にされていませんでしたが、それでもまだ好きな気持ちは残っていました。そんななか、自分から別れを告げるのはとてもつらかったですが、あのとき別れてよかったと今では確信しています。 しばらく経って完全に気持ちが吹っ切れた私は、彼のことを自己中心的で釣った魚に餌をやらない、顔だけの男だったと思うようになりました。しかし、自分と相手は鏡のようなもの。私が彼の顔を好きだったように、きっと彼も私の顔だけが好きだったのでしょう。きっとはじめから、私たちの性格は合っていなかったのです。 彼との恋愛で、性格の相性も大事なのだと学んだ私。その後は、顔が好きというだけでお付き合いをすることはなく、価値観や性格がとても合う男性とお付き合いを始め、そのまま結婚し、幸せに暮らしています。 著者/滝沢夏海作画/村澤綾香 ムーンカレンダー編集室では、女性の体を知って、毎月をもっとラクに快適に、女性の一生をサポートする記事を配信しています。すべての女性の毎日がもっとラクに楽しくなりますように! イラスト制作者:マンガ家・イラストレーター 村澤綾香<p>明治学院大学文学部芸術学科、桑沢デザイン研究所卒業。2009年よりフリーランスのイラストレーターとして主に女性誌、webなどで活動中。Oggi.jpにて土日月公開の4コマ「なでし娘ちゃん」連載中。</p>
2022年06月22日「これまでのどんな作品より、私の素に近い声で演じました。東日本大震災を描くドキュメンタリーのような作品ですから、軽い気持ちではできません。いろいろ考えて、等身大の私のまま、主人公『吉野由紀』とともに悩みながら迷いながら演じたつもりです。キャラクターが確立しているほかの作品より、とても難しかったですね」『進撃の巨人』のミカサ・アッカーマン、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』のヴァイオレット・エヴァーガーデンなど、数々のキャラクターを演じてきた石川由依さん(32歳)が主人公を演じるのは、『とんがり頭のごん太-2つの名前を生きた福島被災犬の物語-』だ。福島県浪江町で食堂を営む富田家と愛犬ごん太を、あの日、東日本大震災が襲った。福島原発からわずか9キロの地で、富田一家は泣く泣くごん太を置いて避難。当時はペットを連れていける避難所などなかったのだ。いっぽう、大学生の吉野由紀は、ペットを救済するボランティア活動に参加。そこでごん太を保護し、「ピース」と名付けて世話を始める。だがピースは悪性腫瘍に侵され、余命1カ月と診断される。由紀はなんとかしてピースを元の飼い主に会わせたいと奔走するが……。石川さんは、「吉野由紀」と同じく関西出身。由紀がボランティアを始めるきっかけは阪神淡路大震災の思い出にある。「阪神淡路大震災のころ、私は大阪のマンションの11階に住んでいて、地震を経験しました。私は幼稚園児だったので、揺れに気づかず寝ていたらしいのですが、母が私の上に、父がその上に覆いかぶさり、母の悲鳴で目が覚めたことを覚えています。11階だったからか、いろんなものが落ちて壊れて、地震の怖さを初めて知る体験でした」由紀とは同世代でもある。「東日本大震災のとき、私も大学生でした。でも私は『何かできないか』と思いながらも、行動できなかった。一歩踏み出した由紀はすごいと思います」とはいえ、由紀も不安が大きかったのでは。「そうですね。不安を抱えつつ踏み出した小さな一歩から、ボランティア仲間や支援してくださる方、それにごん太たち被災犬との出会いなどがあって、少しずつ成長できたのではないかと思います」石川さんは震災当時、ペットを救済するボランティア活動を知らなかったという。本作との出会いで石川さん自身に変化はあったのだろうか。「本作では被災犬の救済が描かれていますが、ふと、猫はどうしていたんだろう。ほかのペットは?と、思いをはせました。ペットレスキューの活動をまったく知らなかったときは何も想像できませんでしたが、一を知るとそこから派生して想像が広がるんだなと。だから、本作でひとつの事実を知っていただき、それをきっかけに、東日本大震災やいまもなお自宅に帰れない福島の方々のことなど、さまざまに考えていただけたらと思います」震災からもう11年が過ぎたが、まだ避難生活が続く人もいる。「みなさん、震災のときに感じたことがたくさんあったと思います。でも、忘れかけていることも多いのではないでしょうか。それに、震災を知らない世代も増えています。いま、あらためて震災を振り返ること、そして忘れずに考え続けることが未来を作るのだと思います。本作はあの震災で本当に起きた事実をもとに描いています。ご覧になる方によって感じるものはいろいろだと思いますが、これからの人生に生かせるものがあると思います。多くの方に観ていただきたい映画です」『とんがり頭のごん太-2つの名前を生きた福島被災犬の物語-』は5月28日からフォーラム福島で先行上映が始まり、6月3日~9日ヒューマントラスト渋谷などで劇場公開が予定されている。原案本『福島余命1カ月の被災地犬 とんがりあたまのごん太』(光文社)が発売中。(取材・文:森本光由希)
2022年05月23日私には小学校1年生の息子と年少の娘がいますが、息子と娘の育児で差をつけてしまうことがありました。あるとき私は、それが幼い頃に私が両親にされて傷ついたことであることに気が付きました。私は自分がされて悲しかったことを、同性だからか娘にだけしていたのです。「私はなんてひどい母親なんだろう」と思い情けなくなりました……。 息子と娘それぞれの好きなキャラクター私には小学校1年生の息子と年少の娘がいます。2人ともそれぞれに好きなアニメのキャラクターがあり、いつも夢中になってテレビを見ています。息子が好きなキャラクターはかっこいいものが多く、娘が好きなキャラクターは女の子らしい変身ものです。 ある日、私がひとりで子ども服を買いに行くと息子が好きなキャラクターのTシャツを発見。私は即座に購入しました。息子がかっこいいと言って喜んでくれるかな、と想像しながらワクワクして帰宅し、息子に見せました。 息子はかっこよくて娘はダサい?想像通り息子は大喜びし、すぐに着たいと大騒ぎ。そんな息子を見て娘が「私も○○の洋服が欲しい」と泣き出しました。実は私はかわいらしい物が苦手なところがあり、娘の好きな変身キャラクターがあまり好きではありませんでした。 息子の好きなキャラクターは私が幼いころから知っていたので親しみがあり、私自身も息子と一緒にハマっていました。私は自分の価値観で子どもの好きなキャラクターに優劣をつけ、息子の好きなキャラクターグッズはかっこいいから良し、娘の好きなキャラクターグッズはダサい、と判別していたのです。 自分の価値観を押し付けていた私…しかし、それ以上に私が娘のキャラクターグッズを敬遠するのには理由があることに、あるとき気が付きました。私も幼いころは好きなキャラクターがもちろんありました。しかし両親は「キャラクターグッズは高いから」と言い、買ってもらった経験がほとんどなかったのです。きっとその経験が悲しく、傷として心に残っていて娘にも同じようにしていたのかもしれない、と気付いたのです。自身の幼いころのつらい経験を同性である娘にもさせてしまおうと無意識に考えていたなんて……。 それに気付いたとき、「私はなんてひどい母親なんだろう」と自分が情けなくなりました。娘からみると、「お兄ちゃんは買ってもらえるのに、なぜ自分は買ってもらえないのか」と理不尽だと感じたことでしょう。私は娘に「ごめんね」と伝え、今度一緒に洋服を買いに行く約束をしました。いざ買い物へ。娘の反応は…ある日、家族でショッピングセンターへ遊びに行ったときのこと。娘は子ども服売り場で好きなキャラクターの服を発見しました。案の定、買ってほしいとおねだり。私は今までと違い、すんなりとOKを出しました。 すると娘は何度も「いいの?」と私に確認し、大好きなキャラクターの服をギュッと抱きしめ、満面の笑みでレジに向かって行ったのです。そんな娘の姿が微笑ましく、思わず夫と目を見合わせて笑ってしまいました。 娘は好きなキャラクターの洋服を買ったことをお友だちに嬉しそうに話しており、そんな様子を見て「買ってあげてよかった」としみじみ思います。親が子どもの趣味とは違う服を選ぶこともありますが、私は今回のことで、子どもの価値観や好きな物を否定せず、なるべく尊重しようと考えが変わりました。今は子どもが好きな物を身につけ、のびのびと過ごせたらそれが一番だと思っています。そして自分が過去にされて嫌だったことを無意識におこなってしまわないよう、今後は気を付けたいと思います。ベビーカレンダーでは、赤ちゃん時代を卒業して自己主張を始めた2~6歳までの子どもの力を伸ばし、親子の生活がもっと楽しくなる【キッズライフ記事】を強化配信中。今よりもっと笑顔が増えてハッピーな毎日なりますように! 監修/助産師REIKO著者:樋山ゆり菜6歳男児、4歳女児の母。夫は不規則な勤務体制のためワンオペ育児多め。食べることが大好きで、地元・栃木県の食をメインとしたブログを運営しながら、飲食店にて接客のパートをしている。
2022年05月05日こんにちは! あん子です。突然ですが、毎年春先に学校でよく見る光景…そう…これはPTAの役員決め。まるで罰ゲーム決めの雰囲気…!今回は、そんな私が本部役員になった話です。■PTAの役員になって、まず驚いたことさかのぼること8年前…「長女の通う小学校のPTAの本部役員をあなたが推薦されました」と、突然自宅に電話がかかってきたことがことの始まりです。その後、教頭先生からも直接電話がかかって説得され続け…、渋々会計を引き受けることにしました。本部役員に入ってすぐのこと。同じ会計の女性が私とふたりきりのときに、突然泣きだしました。驚いた私が「どうしたんですか?」と聞くと…私が仕事で来られなかった日のこと。初めて役員をやることになった彼女が引き継ぎのために、前年度会計をしていた女性のひとりに会計のことで質問したそうです。すると…「そんなことも知らないの?」「あんたバカなの?」みんなの前で、大人のやることじゃない発言を連発され、ボロカス言われたとのこと。そんな理不尽な…。よく役員が楽しかったかどうかは人間関係で決まると言いますよね。ですが、その発言した女性はなんと今年本部役員で副会長!(この学校は女性の副会長が全ての運営の司令塔となります)うそでしょ~! とがくぜんとしました。そしてさらにがくぜんとしたことが…前年度、予算配分を間違えてしまったので経費が通常より少ないことが発覚!それも、前年度買っておかなければいけないものを買っておらず、今年大量に買わなければならない状況に。もう驚きしかありませんでした。おまけに副会長は「私は関係ない、もうひとりの会計がすべてやったこと」という始末。あなたも会計だったでしょ~! と言いたくなるセリフをグッとおさえ…終わったことを責めても仕方ない。誰にだって失敗はある。これからどう助け合っていくかが重要。節約しなければ…! と頭を切り替えました。■無理をしない組織にしたくて発言するも…ピンチがチャンスというように、このとき気づいたことがありました。淡々と前年やった業務をただやり過ごしていたなら気づかなったこと。会計資料を片っ端から読み漁り、総会資料やその他の全生徒に配るための毎回の膨大な紙、インク、人員が毎年必要だということに改めて気づいたのです。これは本当に必要なのかと疑問に思い、早速本部役員に「ペーパーレス化にしてメールで資料を添付する形にすれば役員が無駄に学校に来る作業もなくなり、効率化をはかれるだけでなく会費も安くできるのでは?」と提案しました。しかし返ってきた言葉は…。「会費を一度安くしてしまうと、あとからやっぱり値上げします~なんて難しいのよ」「先生にも学校に来て作業しないと、私たちがどれだけ頑張っているかという姿を見せられないじゃない?」と却下。結局、先生方、地域の方、他の保護者の方に「前回の本部役員より頑張っているな」「あなたがいて助かる」と思ってもらいたい、認めてほしいという思いが強いのかな…と、この当時の役員の方を見て感じました。「会計処理もパソコンでの電子帳簿にすれば仕訳の検索も楽になるし、年単位でどの経費がどのように使われ予算配分やいつ何が必要なのか初めて役員になった人でもわかりやすいのでは?」と言っても…「みんながみんなパソコンができる人、簿記ができる人というわけではないのよ。却下」。たしかにボランティア活動であるからこそ誰にでもできる活動じゃないとな…、それは一理あるかもしれないとこれ以上強くは言えず。他の役員の方も、自分が役員のときに改革をして批判を受けるくらいなら、今まで通りで任期満了したいとのこと。確かにその考えはわからなくもないけど…。仕事や家庭にしわ寄せがいかないような組織作りを! と思って発言してもなかなかうまくいかないものでした。それは本部役員だけではなく、委員会の役員の方も…一児童につき最低一回は役員をするべきだ! と逃げ得は許さない発言する人もいました。実際に役員を体験したことで、時間を割いて無理をしてPTA活動をしている人がたくさんいることもよく分かりました。この無理が無理を重ねて負のスパイラルになっている…。そして、これこそがPTAが敬遠される理由ではないかと思うのです。私はPTAを廃止とまでは思いませんが、仮にPTAが廃止されたとしても何らかの形で残るものなのではないかと思います。子供が安全に登下校できるよう見守ったり、健やかに成長するように、子どものサポートのためには、やはり保護者の力が必要だと思うからです。この話は8年前の出来事なので、現在はずいぶん変わってきていると思います。コロナ禍を経験し、作業の効率化、スマート化を容認する学校もあると思うので。変化を恐れる気持ちは誰にでもあると思います。保守化もいるなか改革を推し進めることは困難な部分もある一方、それでも今の時代に合ったPTAに進化していくことも必要なのではないかと思います。誰もが無理のない範囲でやれることをやる。そんな時代が来ればいいなと思います。
2022年04月20日こんにちは! あん子です。今回は子どものダイエットについて、私の実体験をもとに話をしたいと思います。■ダイエットにのめり込んでいった学生時代学生時代の私は、身長156センチに対して体重が31キロでした。そのことを長女に話すと「そうそう!食後に青のりついてないかしら~ なんてつい使っちゃうやつ~…って、私ヒューマンっ!!」と反射的にノリツッコミしてしまいました。すみません。話を戻します…。今思えば、多分、私は拒食症だったんだと思います。ダイエットを意識するようになったのは小学校の高学年になったころから。何がきっかけか? と聞かれたらよく覚えていないのですが次第にハマっていったんだと思います。当時、私は体重が40キロをこえてしまうと、ものすごく太っていることだと思っていました。この考え自体、おかしいんですけど、当時はそんなこと全く思わなかったんです。から揚げ、ハンバーガーにトンカツなど、「おいしい~!」と思う食事なのに…、すぐに口内炎ができ、その当時お肉の臭みが苦手で食べたいとも思いませんでした。食事の量は、家族の中で一番少なかったと思います。学生時代、両親や友だちは、単純に「好き嫌いが多い子」「少食な子」だと思っていたと思います。毎日夜走ったり腹筋をしたり、運動もたくさんしていました。さらに父親の家系が痩せ型の家系だったので「父親に似たのだろう」というのもあり、両親は体型のことで何も言わなかったのだと思います。■ランチへ行ったときに気づいた危険社会人になりひとり暮らしを始めてからは、一日にチョコレートをひとかけら食べるだけ…そんな生活になっていました。ある日、会社の同僚とランチにカレーを食べに行ったときのこと。カレーを見たら、気持ちが悪い…。ご飯をほとんど食べない日々が続いていたせいか、自分の体が食事を拒否しているようでした。ふと、このまま食べ物を受けつけなければ、どうなってしまうんだろう…と思いました。そういえば、なんだかここ最近ボーっとするし、フラフラ宙に浮いた感覚もする。寝ているときも骨が当たって痛い。そんな状態なのにお腹は全く空かない。このときはじめて、死の恐怖を感じました。そしてもうひとつ。高校時代の友人に久しぶりに会ったとき、彼女が想像を絶するくらい痩せてしまっていて、その姿を客観的に見たことで、自分も同じように危険な状態なのではないのかと気がついたのです。それからお粥などから食べ始め、少しずつ食事をとるようにしていきました。友だちも実家に帰ったことで以前の体重に戻ることができたみたいです。そこまでを娘に話し、こう伝えました。「成長期の子ども時代に無理にダイエットしたら、身長も伸びなくなるし、便通はおきないし月経が止まったりするリスクがあるんだ。行き過ぎたダイエットは命に関わるケースもあるんだよ。お母さんの学生時代の話を反面教師として考えてほしいな。人生の最期に、あぁ…たくさん美味しいものを食べた人生だったなと思いたいと、今のお母さんは思うよ」。そう伝えると娘は一瞬フリーズしていましたが、「身長伸ばしたいから、過度なダイエットはしないよ」と言ってくれたことに安心しました。拒食症は誰がなってもおかしくない病気だと思うとともに、本人に痩せているという感覚がなく、他人から指摘されてもなかなか受け入れにくい難しい病気でもあると思います。ダイエットをする前に、まずはそんな病気があるんだと知ることも大切なのではないかと思います。最後まで読んでいただきありがとうございました!※本記事はあくまで筆者の体験談であり、症状を説明したり、医学的・科学的な根拠を保証したりするものではありません。気になる症状がある場合は医師にご相談ください。
2022年03月16日2011年3月11日に起きた『東日本大震災』。多くの尊い命が奪われ、各地に甚大な被害をもたらしました。震災から11年が経った、2022年3月11日に、有働由美子アナウンサーがInstagramを更新。有働アナウンサーといえば、Instagramで『うどばあちゃん』という独自のキャラクターを使い、さまざまな情報を発信しています。緊急事態宣言の一部解除に有働由美子アナ「違いが出る時には…」続く言葉に、絶賛の声有働アナウンサーは、岩手県の鵜住居(うのすまい)町にある民宿を訪れたことを明かしました。震災時の津波で娘さんを亡くした、前川さんという被災者が営む民宿で、おいしい魚をたくさん食べてきたという有働さん。そこで、被災者と交わした会話を振り返りました。 この投稿をInstagramで見る 有働由美子(@udoyumiko)がシェアした投稿 その鵜住居で、今日青色と黄色の風船があがる。「ウクライナの人たちを励ましてぇ」という想いだ。前川さんがいうんだ。おらたちは人間の手でどうにもなんねぇ津波で亡くしちまったのに。11年経ってもさ、こんなに悔しくてつれぇのに、ウクライナの人たちの気持ち考えっと、かわいそうでなんねえ。すごく心が痛む、って。できることはなんでもしてあげてぇって。udoyumikoーより引用有働アナウンサーが訪れた鵜住居町では、3月11日に青色と黄色の風船が上がったのだそうです。黄色と青色といえば、ウクライナの国旗。同月12日現在、ロシアから侵攻を受けているウクライナの情勢が、連日のように報道されています。有働アナウンサーは、訪れた被災地で、多くの犠牲者のことを想って心を痛める被災者の姿を目の当たりにしたのです。動画とともに、有働アナウンサーは「傷みを知っている人たちが、誰より一番、今痛んでいる人たちを想っている。それを感じた11年目の現地でした」と、つづっています。【ネットの声】・うどばあちゃんの声を聞いたら、涙が止まらなくなった。・被災地の人が、ウクライナを想う気持ちに感動した。想いが届いてほしい。・有働さん、ありがとうございます。1日でも早く世界に平和が戻りますように。・震災から11年が経っても、まだ痛みは消えません。今はニュースを見るたびに、心が締め付けられます。災害や戦争は、私たちの日常や大切なものを奪い去ります。痛ましい現状から目を背けず、「自分たちに今できることは何か」を考えさせられますね。[文・構成/grape編集部]
2022年03月12日東日本大震災から11年が経ちました。東日本大震災をきっかけに、季節の変わり目である3月、6月、9月、12月の1日は、“防災品点検の日”とされています。非常食などの点検は行っていても、“生理用品の防災点検”は、意識していない人がいるかもしれません。しかし、月経中に災害が起きてしまったら、生理用品が無いと困ってしまいますよね。そこで今回は整理収納アドバイザーの筆者が、災害に備えて用意しておくべき生理用品&便利アイテムをご紹介します。1.生理用品も1か月分多く用意しよう!災害が起こると、不安やストレスなども影響し、月経がきてしまうこともあります。突然、月経が来ても安心なように、日常使い分に加え少なくとも1か月分は生理用品をストックしておくといいでしょう。ストックする場所は、普段、生理用品を収納しているスペースでOK。生理用品メーカーが定める消費期限は、未開封で3年程度であることが多いですが、非常用バッグに入れっぱなしにすると、テープの劣化や変色、ニオイの付着など、いつのまにか品質が悪化しているケースもあるため、普段から使う収納スペースの方がベター。普段使いと非常用ストックを分けず、一緒に管理しておくことで、常に新しい生理用品が準備できます。わざわざ「防災用に揃えなくては」と思わなくても自然に備えられる点もいいでしょう。筆者の場合は、中学生の娘がいるので、常に2人分の量をストックしています。1か月分の目安は、昼用22枚×1.5袋(33枚)+多い日用16枚+夜用11枚=60枚分。3種類をそれぞれ1袋ずつ、必ず置いています。女性1人の場合は、半分の約30枚が最低限の数と考えて、普段使用しているサイズ別にそれぞれ揃えておくと安心です。2.生理用品のニオイが気にならない捨て方は?災害発生後、避難所でしばらく過ごす場合、生理用品の捨て方も悩んでしまいますよね。筆者宅では、使用済みナプキンが溜まったら袋ごと処分できる、使い捨てのサニタリーチャック袋を使用しています。真っ白で目立ちにくく、中身がまったく見えません。しっかりチャックが閉まるので、ニオイも気にならないですよ。避難所で使用済みナプキンが捨てにくい場合も、サニタリーチャック袋に入れれば、周りの目を気にせずに捨てやすくなるはず。おむつ用防臭袋も、同じように活用できます。白だけでなく、黒や柄付きなどバリエーションも豊富。口元を数回ねじってしっかり結べばニオイが気にならず、とてもコンパクトに捨てられます。また、防臭袋は、生ごみを捨てる際にも大活躍!災害時、生ごみをしばらく家に置いておかなくてはならないときなど、防臭袋に入れておけば嫌なニオイとともに、コバエの発生も抑えてくれます。一箱持っていると、とても便利なのでおすすめです。3.非常用に予備の下着も用意しておこう災害時には、下着の交換が思うようにできないかもしれないので、予備の下着も必ず用意しておきましょう。筆者も、家族分の下着を上下1セットずつ、非常用バッグに入れています。避難所で洗濯して干すことを考えると、レースが付いていないスポーツタイプのようなシンプルなデザインのショーツがおすすめです。生理で下着が汚れても目立たないよう、黒や紺色など濃い色を選ぶとよいでしょう。水道が止まって、ショーツをこまめに洗濯できない場合に備え、おりもの専用シートであるパンティライナーも用意しておくと安心です。肌にやさしいコットンタイプを選べば、通気性がよく下着と同じように使用できるはず。下着の汚れを少なくしてくれる上にニオイも抑えてくれるなど、不快感を軽減できますよ。4.月経が辛いときに活躍するグッズも月経中のツラさを和らげられるよう、月経痛の薬やお腹周りを温めるグッズもあると安心ですよね。鎮痛剤やホッカイロ、腹巻を用意しておくといいかもしれません。災害時に入浴できなくなる場合には、デリケートゾーン用ウェットシートを使って、デリケートな部分を清潔に保つのも手です。デリケートゾーン用と赤ちゃん用のウェットシートについて、メーカーによってはほとんど似たような成分を使っているので、赤ちゃん用でも代用できそうです。デリケートゾーン用は、かわいらしいデザインやフローラル系の香り付きのものがあります。携帯しやすいサイズで、使用後はトイレに流せて普段使いしやすく便利。どちらもデリケートな肌にやさしいウェットシートなので、お好みに合わせて用意しておくといいですね。防災用品の備えは、日ごろから使っているものと一緒に約1か月分のストックを意識しましょう。ローリングストックを心掛ければ、思ったよりも難しいことではありません。災害時に急に月経がきても安心して対応できるよう、生理用品のストックだけでなく、ショーツや防臭袋、薬やホッカイロなども備えられると安心です。いつも使い慣れているものを使用することで、災害で不安なときでも、ストレスを軽減し快適に過ごせるかもしれません。ぜひ、参考にしてみてくださいね。みやがわのぞみシンプル志向の整理収納アドバイザー・ライター。「暮らしもこころもかろやかに」をテーマに、ものとじぶんとゆっくり向き合える、続けやすい暮らしのちいさな仕組みを提案しています。Instagram@non.karoyakani文/みやがわのぞみ
2022年03月11日東日本大震災からもうすぐ11年が経ちます。公益社団法人Civic Force(東京都渋谷区、根木佳織代表理事)は、本日3月4日、東北の被災地で復興支援活動に尽力する有志団体と連携し、被災地で実施される11年目の追悼行事を支えるクラウドファンディングを開始しました。▼東日本大震災応援企画|次の10年につなぐ、11年目の「追悼の祈り」目標金額 1,000,000円 東日本大震災応援企画|次の10年につなぐ、11年目の「追悼の祈り」 - クラウドファンディング READYFOR : 追悼行事の継続を支えるクラウドファンディングについて3月11日14時46分。今年も3月11日の地震が発生した時刻に、東北沿岸の各地で追悼の祈りが捧げられます。犠牲者を悼む追悼式典の多くは、国や被災自治体によって運営されてきましたが、10年の節目を機に政府主催の追悼式は終了し、新型コロナウイルス感染症の影響も相まって開催を取りやめる自治体も出てきています。新型コロナウイルス感染症の影響で東北の地域経済が低迷する中、なんとか今年の追悼行事を存続させて来年につなげていくために、Civic Forceは東北の有志団体が実施する追悼の祈りの行事を支えるために、READYFORにてクラウドファンディングを開始しました。ご寄付は、コロナ禍での感染対策にかかる経費やオンライン配信のための運営費など、11年目の「追悼の祈り」を存続させ、次の10年につなげるために活用させていただきます。拡散のご協力をお願いします。<概要>・タイトル「東日本大震災応援企画|次の10年につなぐ、11年目の「追悼の祈り」」・URL: ・目標金額:100万円・募集期間:2022年3月4日(金)~3月31日(木)・資金使途:東北各地で実施される追悼イベントの会場費や通信費、コロナ禍での開催にかかる経費や運営費などもサポートします。・形式:通常型 / All-in形式 ※目標金額の達成の有無に関わらず、集まった支援金を受け取ることができる形式クラウドファンディング立ち上げの背景について2011年3月に緊急支援活動を開始して以降、東北での被災地支援活動を続けてきたCivic Forceは、現在、独自の復興支援プログラム「NPOパートナー協働事業」を通じて、地域の復興の動きを後押ししています。2021年からは、新型コロナウイルス感染症の影響で、存続が危ぶまれていた団体の追悼行事の開催をサポートしてきました。Civic Forceが支援する有志団体主催の追悼行事は、これまで地元企業からの寄付や外からのボランティアのサポートによって成り立っていましたが、2020年以降コロナ禍で地域経済が低迷し、また感染拡大を防ぐために、地元企業や県外のボランティアに頼りづらい状況が生まれています。また震災から10年が過ぎ、国や行政、企業などからの助成金がなくなり、追悼行事を続けていくための資金調達や人手不足が大きな課題となっています。他方、これからは誰かに頼るばかりでなく、地域の人が自分たちで祈りの形を考え、次世代へとバトンをつないでいこうという機運が生まれています。当日打ち上げる花火や風船、灯すあかりには、犠牲者への思いや防災の大切さ、そして真の復興に向けたメッセージなどが書かれます。2022年3月、地域の有志によって続く「追悼」の時間を守るために、以下の2団体ほか東北被災地で追悼行事を実施する団体をサポートします。11年目の「追悼」の時間は、犠牲者を悼むだけでなく、あの日の記憶を振り返り教訓を後世に伝えていくための「伝承」の取り組みでもあります。2021 3.11 祈りの花火白菊 希望未来大切な人を想う日に : 閖上の記憶 : 【公益社団法人Civic Forceについて】国内外の大規模災害時に企業、NPO、行政などが対等なパートナーシップのもとに協働し、迅速で効果的な支援を行うための連携組織です。発災直後から復旧・復興まで、個々の強みを最大限に生かすことで、被災地のニーズに即した支援を目指している。被災地と被災地をつないで教訓を共有することで、災害に強い地域づくりのサポートも続けている。2019年からは空飛ぶ捜索医療団ARROWSに参画し、捜索救助や救急医療、空からの支援体制の強化をはかっています。<緊急支援実績>・2011年3月:東日本大震災支援・2012年7月:九州北部豪雨支援・2014年8月:広島土砂災害支援・2015年9月:関東大雨災害支援・2016年4月:熊本地震支援・2017年7月:九州北部豪雨支援・2018年7月:西日本豪雨支援、9月:北海道胆振東部地震支援・2019年10月:台風19号支援(継続中)・2020年7月:九州豪雨支援(継続中)・2021年1月:新型コロナウイルス緊急支援(継続中)、7-8月:熱海・佐賀豪雨支援(継続中)【問い合わせ先】公益社団法人 Civic Force代表理事 根木佳織本部事務所〒151-0063東京都渋谷区富ヶ谷2-41-12富ヶ谷小川ビル2階TEL:03-5790-9366FAX: 03-5790-9368佐賀事務所〒840-0831佐賀県佐賀市松原1-3-5 まるなかビル6階TEL:0952-20-2900FAX:0952-20-1608URL: 詳細はこちら プレスリリース提供元:NEWSCAST
2022年03月04日東日本大震災からもうすぐ11年が経ちます。公益社団法人Civic Force(東京都渋谷区、根木佳織代表理事)は、本日3月4日、東北の被災地で復興支援活動に尽力する有志団体と連携し、被災地で実際される11年目の追悼行事を支えるクラウドファンディングを開始しました。▼東日本大震災応援企画|次の10年につなぐ、11年目の「追悼の祈り」目標金額 1,000,000円 東日本大震災応援企画|次の10年につなぐ、11年目の「追悼の祈り」 - クラウドファンディング READYFOR : 追悼行事の継続を支えるクラウドファンディングについて3月11日14時46分。今年も3月11日の地震が発生した時刻に、東北沿岸の各地で追悼の祈りが捧げられます。犠牲者を悼む追悼式典の多くは、国や被災自治体によって運営されてきましたが、10年の節目を機に政府主催の追悼式は終了し、新型コロナウイルス感染症の影響も相まって開催を取りやめる自治体も出てきています。新型コロナウイルス感染症の影響で東北の地域経済が低迷する中、なんとか今年の追悼行事を存続させて来年につなげていくために、Civic Forceは東北の有志団体が実施する追悼の祈りの行事を支えるために、READYFORにてクラウドファンディングを開始しました。ご寄付は、コロナ禍での感染対策にかかる経費やオンライン配信のための運営費など、11年目の「追悼の祈り」を存続させ、次の10年につなげるために活用させていただきます。拡散のご協力をお願いします。<概要>・タイトル「東日本大震災応援企画|次の10年につなぐ、11年目の「追悼の祈り」」・URL: ・目標金額:100万円・募集期間:2022年3月4日(金)~3月31日(木)・資金使途:東北各地で実施される追悼イベントの会場費や通信費、コロナ禍での開催にかかる経費や運営費などもサポートします。・形式:通常型 / All-in形式 ※目標金額の達成の有無に関わらず、集まった支援金を受け取ることができる形式クラウドファンディング立ち上げの背景について2011年3月に緊急支援活動を開始して以降、東北での被災地支援活動を続けてきたCivic Forceは、現在、独自の復興支援プログラム「NPOパートナー協働事業」を通じて、地域の復興の動きを後押ししています。2021年からは、新型コロナウイルス感染症の影響で、存続が危ぶまれていた団体の追悼行事の開催をサポートしてきました。Civic Forceが支援する有志団体主催の追悼行事は、これまで地元企業からの寄付や外からのボランティアのサポートによって成り立っていましたが、2020年以降コロナ禍で地域経済が低迷し、また感染拡大を防ぐために、地元企業や県外のボランティアに頼りづらい状況が生まれています。また震災から10年が過ぎ、国や行政、企業などからの助成金がなくなり、追悼行事を続けていくための資金調達や人手不足が大きな課題となっています。他方、これからは誰かに頼るばかりでなく、地域の人が自分たちで祈りの形を考え、次世代へとバトンをつないでいこうという機運が生まれています。当日打ち上げる花火や風船、灯すあかりには、犠牲者への思いや防災の大切さ、そして真の復興に向けたメッセージなどが書かれます。2022年3月、地域の有志によって続く「追悼」の時間を守るために、以下の2団体ほか東北被災地で追悼行事を実施する団体をサポートします。11年目の「追悼」の時間は、犠牲者を悼むだけでなく、あの日の記憶を振り返り教訓を後世に伝えていくための「伝承」の取り組みでもあります。2021 3.11 祈りの花火白菊 希望未来大切な人を想う日に : 閖上の記憶 : 【公益社団法人Civic Forceについて】国内外の大規模災害時に企業、NPO、行政などが対等なパートナーシップのもとに協働し、迅速で効果的な支援を行うための連携組織です。発災直後から復旧・復興まで、個々の強みを最大限に生かすことで、被災地のニーズに即した支援を目指している。被災地と被災地をつないで教訓を共有することで、災害に強い地域づくりのサポートも続けている。2019年からは空飛ぶ捜索医療団ARROWSに参画し、捜索救助や救急医療、空からの支援体制の強化をはかっています。<緊急支援実績>・2011年3月:東日本大震災支援・2012年7月:九州北部豪雨支援・2014年8月:広島土砂災害支援・2015年9月:関東大雨災害支援・2016年4月:熊本地震支援・2017年7月:九州北部豪雨支援・2018年7月:西日本豪雨支援、9月:北海道胆振東部地震支援・2019年10月:台風19号支援(継続中)・2020年7月:九州豪雨支援(継続中)・2021年1月:新型コロナウイルス緊急支援(継続中)、7-8月:熱海・佐賀豪雨支援(継続中)【問い合わせ先】公益社団法人 Civic Force代表理事 根木佳織本部事務所〒151-0063東京都渋谷区富ヶ谷2-41-12富ヶ谷小川ビル2階TEL:03-5790-9366FAX: 03-5790-9368佐賀事務所〒840-0831佐賀県佐賀市松原1-3-5 まるなかビル6階TEL:0952-20-2900FAX:0952-20-1608URL: 詳細はこちら プレスリリース提供元:NEWSCAST
2022年03月04日ベビーカレンダーでも人気のマンガ家の和田さんは当時茨城県で、小さいお子さん2人を子育て中でした。これは、和田さん一家が体験した震災の記録です。2011年に起きた東日本大震災から、早くも12年が経とうとしています。あの震災で亡くなられた方々のご冥福を、心よりお祈りいたします。また、被害にあわれた皆様に、謹んでお見舞い申し上げます。 震災当時、私は茨城県に住んでいました。家がなくなったわけでも、家族を失ったわけでもありません。被害の程度は軽いものだと言えます。これは、そんなわが家から見た東日本大震災の記録です。何が起きた…!? 夫は?子どもたちは…? 自宅にいた夫と再会し、保育園に子どもたちを迎えに行きました。当時、長女は4歳、次女は1歳5カ月。保育園の園庭に避難している子どもたちを見たときは、本当にホッとしました。このとき、携帯電話は通話できず、メールやネットもつながったりつながらなかったり。かろうじて「岩手・宮城・茨城で次々に地震が起きたこと」「余震が多いので建物の中では寝ないほうがいい(という意見)」をネットで見ることができました。離れて暮らす親兄弟や友だちとは連絡が取れず、安否の確認はできませんでした。私たち夫婦の携帯電話も電池が切れ、電気も水道も復旧しないまま。私たちは自宅の倒壊を恐れて、車で眠ることにしました。そして、最初の夜がやってきました。 震災発生当初の感覚をまだ覚えています。それまでにも、突然の不幸などで日常が急に崩れてしまったように感じた経験はありました。でも、周囲の人たちも皆同じように「非日常」に入り込んでしまうというのは初めての経験でした。誰もが不安な顔をしていたし、何かしら困っていたと思います。それでも私は心のどこかで、こんなことは長く続かないだろう、きっとなんとかなるだろう、と思っていました。このときはまだ、この非日常が何日も続くとは思っていなかったのです。 ※本記事は2011年に「本当にあった笑える話」(ぶんか社)掲載された漫画を、再編集・加筆したものになります。 著者:マンガ家・イラストレーター 和田フミ江姉妹の母。趣味はゲームと旅行と美味しいものを食べること。
2022年03月04日福島県において教育復興事業に携わってきた一般社団法人リテラシー・ラボ(東京都、代表:千葉 偉才也)は、日本財団の助成を受け、東日本大震災と原子力災害によって避難先での教育活動に取組んだ教員たちへのインタビュー記録集「起き上がる学校―3.11から10年、福島県双葉郡の先生へのインタビュー(仮称)」を刊行します。刊行される記録集は、福島県内の学校へ配布される他、教員養成課程を設置する大学や全国の公共図書館や大学図書館などに配布を計画しています。災害時における教員の経験や想い、避難先での教育活動の取組みや仮設校舎での生徒との思い出など、これまで語られることが限られていた教育の側面を、15人の教員へのインタビューを通してアーカイブしました。教員へのインタビュー教員へのインタビュー■「起き上がる学校―3.11から10年、福島県双葉郡の先生へのインタビュー(仮称)」とは福島第一原子力発電所が立地する福島県双葉郡は、2011年3月に起きた東日本大震災とそれに伴う原子力災害によって、双葉郡8町村すべての自治体が避難を余儀なくされた地域です。それらの地域に存在した公立学校はすべて休校となり、各避難先で自治体ごとに教育活動の再開を試みました。避難先地域の学校に就学を促す方針を打ち出した自治体、避難先に仮校舎を設置し教育活動を再開する自治体、段階的に仮設校舎を設置する自治体など、双葉郡内8町村は8通りの学びの保障に取組みました。今回、教員たちへのインタビュー記録集を制作する背景は、こうした自治体ごとに異なる取組みや、複雑化した地域における教育活動に従事した当事者である教員たちの記録を残すことの必要性からでした。新型コロナウィルス感染症拡大防止のための休校措置や、自然災害による地域環境の激変など、学校は常に多様な課題に向き合っている中で、3.11以降に双葉郡の教員たちが経験した記録を残すことは、これからの教育の知見として蓄積すべきことであると考えました。インタビューの計画を立て始めた当初は、10年間の様々な体験や経験を記録することを計画していましたが、事前調査を進めるにあたり、10年間をいくつかに区切り、同一期間に絞って教員たちのインタビューを進めることにしました。初の試みとなった今年度は、主に震災と原発事故が起きた、2011年3月から2013年3月までの2年間を中心に、その期間に双葉郡8町村で教員として従事した15人に協力を得て実施しました。今後もインタビューは継続し、多様な教員の経験や想いを記録し、教育の意義や可能性について、社会で考えていく機会の創出のため、発信活動をしていきたいと考えています。■一般社団法人リテラシー・ラボHP : <事業内容>・公教育における総合学習構築支援・社会教育プロジェクトの企画運営・各種ワークショップ企画運営・福島県における教育復興支援・研究業務 詳細はこちら プレスリリース提供元:@Press
2022年03月01日手仕事やフェアトレードを通じスマトラ島沖地震のタイや東日本大震災の東北地方の津波被災者などの支援活動をしている被災者支援団体ツナミクラフト(所在地:兵庫県西宮市 代表:東山高志)は、2010年より「1.17」と題し、NPO法人Co.to.hana(大阪市)、NPO法人さをりひろば(大阪市)らとともに、HDCハウジングデザインセンター神戸、株式会社SAORIの協力のもと、阪神淡路大震災の経験やアートや手仕事やデザインを通じて震災を伝えていくイベント『1.17』を実施してきました。コロナ禍ではありますが、SAORI 神戸にて、2022年1月8日(土)~18日(月)に、1.17 『ツナミクラフト・繋ぐ展』を実施する運びとなりました。織つなぎワークショップ実施場所【概要】■タイトル:1.17 『ツナミクラフト・繋ぐ展』■主催 :ツナミクラフト SAORI 神戸■日時 :2022年1月8日(土)~18日(月) 10:00-18:00※最終日のみ 16:00まで※1月12日水曜日は休館日でお休みです。■場所 :SAORI 神戸 ギャラリー神戸市中央区東川崎町1-2-2 HDCハウジングデザインセンター神戸 5FTEL:078-360-5881■内容 :展示「被災地をつなぐさをり織り」「シンサイミライノハナ」映像「1.17ダイジェスト」「被災地をつなぐさをり織り」など展示販売 スマトラ島沖地震、東日本大震災の被災者たちは災害に遭った方の作品の展示販売。■資料生産者●作品についてこの布の制作は、災害から時間が経つと忘れられるという問題に対し、共同作業をすることで被災地との新しい関係性をつくることを目的に、東日本大震災1000日目の2013年12月4日に、岩手県、宮城県、福島県にて同時に開始しました。織物は「たて糸」と「よこ糸」とで構成されていますが。「たて糸」を災害があった地域の人が糸選びや織り機へのセットアップを行いました。「よこ糸」は、タイ、アメリカ、ネパールの国外を含めた各地(19都道府県)のイベント会場などへ持って行き、来場者にリレー形式で織ってもらい布をつくりました。布には関わった人の写真やメッセージなどが取り付けられています。誰でも簡単に織り始められる「さをり織り」を活用して、子どもからお年寄りまで、はじめて織る人からベテランまで、障がいのある人やない人、人種、国籍、宗教、性別を超えて制作に関わっていただきました。タイでは、ミャンマーから出稼ぎで来ている労働者の子どもたちや、児童養護施設の子どもたちも織りました。また障がいを持つ方が「さをり織り」の指導をして約200人が織っています。・製作期間:2013年12月4日(東日本大震災1000日目)~岩手、宮城、福島で同時に開始19都道府県国外3か国述べ3,000人が関わっています。2015年1月17日の阪神淡路大震災20年目の日に神戸にて311mを突破しました。2021年12月24日~26日に、20都道府県目として、「稲むらの火」で知られる濱ロ梧陵の生誕の地、和歌山県広川町に2007年に梧陵の偉業と精神、教訓を学び受け継いでゆくため、2007年(平成19年)4月、濱ロ梧陵記念館と津波防災教育センターからなる施設「稲むらの火の館」で、ワークショップを実施し、述べ470mに達する予定。展示はスペースの都合でごく一部となります。311m達成時の写真●展示販売品について生産者紹介 iisara saori ※自立して自由なさをり織りの意タイ南部のパンガー県の2004年インド洋大津波に被災した女性たちのグループが、織りから縫製までを行って作っています。プロジェクトの始まりは2004年までさかのぼります。2004年12月26日インドネシアのスマトラ島沖を震源としたM9.3の地震が起き大津波が発生しました。大津波はインド洋の海を伝って、遠くはインドやアフリカ大陸まで、合計22万人以上の犠牲者が出ました。タイ王国には地震発生から2時間後にアンダマン海岸に大津波が到達しました。タイ王国パンガー県は、最大18mの津波が押し寄せ4,400人の犠牲者が出ました。パンガー県タクアパ郡バンムアンの自治体の役所の敷地に3,000人が暮らす巨大な避難キャンプができました。救援物資がタイ国内だけでなく世界中から集まり、高さ10mにもなる衣服の山がいくつも出来ました。しかし、避難者は避難所でじっとして支援をうけているより「仕事がほしい」といいました。それを聞いた、東北出身のタイ仏教寺院の日本人住職が、偶然、青少年の育成のためにお寺にあったJICAプロジェクトによってタイに届けられた日本発祥の「さをり織り」の織り機があったのでバンムアンの避難キャンプに届けました。さをり織りは、誰でも簡単に始められることから、織り機が届いたその日から織はじめ、ミシンや荷物運びなど働いた人に給金を払いました。2005年3月、日本人のさをり織りの指導者が「神戸のひまわりの種」を持ってバンムアンの避難キャンプを訪れました。1995年に起きた阪神淡路大震災のあと、建物が全壊し更地になったところに、ひまわりの花が咲いたという事があり。そのひまわりから出来た種を育てて、そこから採取したひまわりの種が神戸の復興の象徴となっています。それを受け取ったタイ人たちは、私たちも津波で流され何もなくなった土地に花を咲かせたいという想いを込め。ひまわりをプロジェクトのトレードマークにしています。現在では「さをり織り」が、パンガー県の津波からの復興の象徴になっています。展示販売作品●さをり織りについて1968年に当時57歳の大阪の女性「城みさを」が考案した現代手織り。自由で奔放な作風で、誰もが簡単に始める事が出来るのが特徴。阪神淡路大震災を機に神戸に拠点をつくり心の癒しとしてのさをり織りの活用が始まりました。2004年スマトラ島沖地震のタイの津波被災地において、岩手県出身のタイ仏教寺院住職(当時)カベサコ師の発案によって心の癒しのための被災者たちのさをり織りが始まり、フェアトレード品として輸出され被災者の収入にもなりました。2011年東日本大震災において心の癒しとしてのさをり織りの普及活動が行われ約20拠点の住民によるグループが出来ました。岩手県においては「タイで岩手県出身方がやったのだから、こちらでも出来る」と広がりだし、野田、岩泉、宮古、山田、大槌、釜石にて10以上の拠点で活動をしています。【団体概要】商号 : ツナミクラフト代表者 : 代表 東山高志所在地 : 兵庫県西宮市浜甲子園3-1-3活動開始: 2005年URL : 詳細はこちら プレスリリース提供元:@Press
2021年12月14日Songs from Singapore to Tohoku 実行委員会は、東日本大震災復興支援コンサート「Songs from Singapore to Tohoku 2021」を、宮城県名取市閖上の会場に向けてオンライン配信にて2021年10月16日(土)に開催することを発表いたします。本公演は、シンガポール在住日本人シンガーソングライター「Sachiyo」とシンガポールのトップミュージシャンが、音楽を通して東北とシンガポールとの絆を繋ぐという趣旨で、2011年の東日本大震災発生直後から被災地で開催している東北復興支援コンサートです。今年で11年目の公演になり、未だ様々な問題を抱える被災者の方々の心の復興の一助になりますよう、昨年に続き、本年もオンライン配信にて公演を開催いたします。無料配信にてどなたでも視聴することが可能です。また、Sachiyoは同趣旨で、12/4(土)岩手県陸前高田市にて開催される東京2020オリンピックパラリンピックホストタウン事業「シンガポールフェア in 陸前高田」にもリモート出演する予定です。Songs from Singapore to Tohoku 2021 フライヤー【日程】2021年10月16日(土) 日本時間14:00開演【配信リンク】 (Facebookライブにて視聴無料)【出演】Sachiyo(Vocal)/Mei Sheum(Keyboard)2020年の復興支援コンサートの動画: 2019年の復興支援コンサートの動画: 2018年の復興支援コンサートの動画: 2017年の復興支援コンサートの動画: 2016年の復興支援コンサートの動画: 2015年の復興支援コンサートの動画: 2014年の復興支援コンサートの動画: 2013年の復興支援コンサートの動画: 2012年の復興支援コンサートの動画: 2011年の復興支援コンサートの動画: Sachiyo オリジナル復興支援ソング“A Song of Life”動画: 【コンサート概要】<主催>Songs from Singapore to Tohoku 実行委員会<協賛>三菱電機アジア、明治屋シンガポール有限公司<後援>在シンガポール日本国大使館ジャパン・クリエイティブ・センター、シンガポール政府観光局、日本政府観光局(JNTO)、在京シンガポール共和国大使館、シンガポール日本人会、一般社団法人 東北観光推進機構、一般社団法人 日本シンガポール協会、GAMBATTE! JAPAN from SINGAPORE<Sachiyo 公式サイト> 【Sachiyo プロフィール】1972年シンガポール移住、シンガポールで最も活躍する日本人シンガーソングライター。多民族の国で培われたグローバルな感性を持ち、英・日・中・マレーの4カ国語でジャズ・ボサノバ・ポップス・エスニックなどの広いジャンルの音楽を歌い上げ、人種や年齢を問わず幅広い層の人々に支持されています。日本とシンガポールの音楽親善大使としての活動を積極的に行っています。 詳細はこちら プレスリリース提供元:@Press
2021年10月08日『ゼライスのキセキ』書影株式会社みらいパブリッシング(所在地:東京都杉並区高円寺、代表取締役:松崎義行)は、新刊『ゼライスのキセキ〜未来に引き継ぐ117年の軌跡と東日本大震災からの復興の奇跡』(著者:稲井謙一、『ゼライスのキセキ』製作委員会) を2021年10月15日に発売いたします。詳細 URL: 内容紹介東日本大震災からの復活劇!「運」「縁」「恩」を味方に、被害を跳ね返したゼライスの真実⎯⎯⎯⎯⎯⎯117年の軌跡を持つ老舗ゼラチンメーカー「ゼライス」。家庭用ゼラチンパウダーのパイオニアが、ずっとやってきたこと、これからもやっていくこと⎯⎯⎯⎯⎯⎯さまざまな年代から愛される、ゼラチンパウダーの「ゼライス」。「ゼライス」のことは知っていても、ゼライスを製造する「ゼライス社」のことは、よく知らないという方もいらっしゃるかもしれません。ゼライス社は、117年の軌跡を持つ老舗ゼラチンメーカー。宮城県に本社を置き、東日本大震災で甚大な被害を受け大幅減収したものの、7年後には奇跡の「レ」字型回復で創業以来最高の経常利益を達成しています。地域の小学校へ理科の実験授業を出前したり、地元自治体や企業と連携して宮城県ならではの商品をつくり出したりするなど、愛する宮城の地を中心に社会貢献活動を続け、「すべての人々の幸せづくりに貢献する」ことを誇りにしている会社なのです。本書は、そんなゼライス社の、ゼラチンを愛しゼラチンと共に歩んできた「軌跡」と、東日本大震災の被害から大幅回復を果たした「奇跡」にスポットを当てています。さらに、ゼラチン、コラーゲンの基礎知識や、意外な使われ方などについても解説。・ゼラチンあれこれQ&A・ゼライスパウダーマル秘活用術・「ゼライスでつくろう! 」レシピなど日常に役に立つ情報も収録し、ゼラチンのすべてを網羅しています。江戸時代から続く「モノ作りのこだわり」を礎に躍進し続けるゼラチンメーカーの、揺るぎない覚悟と見据える未来を、知ることができる一冊です。【目次】・こんなところにゼライス・「ゼライス」でつくろう! あんなレシピ、こんなレシピ・地元・宮城の皆様と生きる 地域貢献活動プロローグ第1章 社会貢献活動とゼライス第2章 21世紀と人の体をつくるゼライス第3章 宮城の海と土地の恵みに育まれたゼライスその1 創業から太平洋戦争までその2 戦後の成長と発展の軌跡第4章 人に支えられてゼライスの「今」がある第5章 ゼライスが見据える、健康、医療、環境の未来エピローグおわりに・ゼラチンあれこれQ&A・ゼライスパウダー マル秘活用術出版社よりゼラチンパウダーの「ゼライス」。特にお菓子作りをしたことがある方には馴染みがある名前ではないでしょうか。本書は、「ゼライス」を製造する老舗ゼラチンメーカー・ゼライス社の歴史と、ゼラチンのすべてがぎっしりつまった一冊。本書を読めば、きっとゼラチンとゼライス社が好きになるでしょう!著者プロフィール稲井謙一(いない・けんいち)ゼライス株式会社取締役社長1964年宮城県仙台市生まれ。慶応大学法学部卒業後、東京ガス(株)入社。1991年に同社を退職した後は、塩釜ケーブルテレビ(現宮城ケーブルテレビ(株))立ち上げに携わったのを皮切りに、稲井善八商店(現株式会社稲井)社長、宮城化学工業株式会社(現ゼライス株式会社)社長、塩釜ガス株式会社社長、宮城ケーブルテレビ株式会社社長に就任。持ち前の決断力と積極性、東北人ならではの忍耐力を発揮して、東日本大震災後の大幅減収から、2018年には奇跡の「レ」字型回復を果たし、創業以来最高の経常利益を達成した。趣味は読書、ゴルフなど。『ゼライスのキセキ』製作委員会ゼライス株式会社従業員、OBを中心として構成される本書籍制作チーム。本来業務の傍らフォトコンテスト実行委員会の立ち上げや、OBへのインタビュー、記録写真の撮影、デザートレシピの考案・調理、撮影の立ち合いなどを担当。Zoomを駆使して八面六臂の活躍を果たした。また、原稿のファクトチェックや校正、イラストチェックなど書籍づくりに必要な工程にひと通り携わり、心も体もひとまわり大きくなった強者集団。書籍概要書籍名 :ゼライスのキセキ〜未来に引き継ぐ117年の軌跡と東日本大震災からの復興の奇跡著者 :稲井謙一、『ゼライスのキセキ』製作委員会定価 :本体1650円(税込)体裁 :四六判/248ページ/ソフトカバー/8ページカラーISBN:978-4-434-29432-7URL : 会社概要商号 : 株式会社みらいパブリッシング代表者 : 代表取締役松崎義行所在地 : 〒166-0003東京都杉並区高円寺南4-26-12 福丸ビル6階設立 : 2014年5月事業内容 : 図書出版全般URL : 本件に関する報道関係のお問い合わせ先株式会社みらいパブリッシング担当:安達電話番号:03-5913-8611 Email: adachi@publishers.jp 関連書籍音楽は名医 : 周りの9割が味方に変わる話し方 : 居酒屋プレゼンしたら夢が叶った件 : 詳細はこちら プレスリリース提供元:NEWSCAST
2021年10月07日私の子育て人生の始まりは2011年でした。この年は東日本大震災など、世間的にもたくさんのことがありましたが、私のどん底は長男を出産した2日後にやってきたのです……。 マッサージを受けて授乳の準備はバッチリ帝王切開での出産。その翌日まで点滴を受けていたので、授乳がスタートしたのは産後2日目からでした。 それまでは助産師さんたちが作ってくださった育児用ミルクを、言われるままに飲ませていました。病院のスケージュールのなかで、おっぱいがよく出るようにおっぱいマッサージをしてもらい、たくさん出ていたので授乳の準備は完璧のつもりでいたのです。 幸せな授乳タイムの始まり…?いよいよおっぱいでの授乳がスタートしました。私が出産した病院では、ママと赤ちゃんが授乳室に集合しておっぱいを飲ませていました。赤ちゃんの体重を測って、おっぱいをくわえさせて飲ませて、また体重を測って。 みんながどんどん授乳を終わらせていくなか、私はなかなかうまく飲ませることができず、じょうずに飲ませられない不安と孤独でいっぱいでした。 孤独と不安で毎日涙…個室に戻っては、「帝王切開で産んだからちゃんと飲んでもらえないのかな」「おっぱいが大きすぎるから飲みにくいのかもしれない」「ミルクのほうがおいしいのかも……」と自分を責め、ひとりで大泣きしては寝られない夜を過ごしていました。 赤ちゃんは母乳で育てるのがいいからと周りに言われ、誰にも相談できずにいました。そして朝が来るとまた恐怖の授乳教室が始まり、挫折して個室に帰り、泣きながら搾乳する。そんな入院生活でした。 あんなに涙にくれながらおっぱいをくわえさせて頑張っていましたが、その後は搾乳して哺乳びんで飲ませたり、夜中は育児用ミルクにしたりと、負担の少ない授乳に移行していきました。生後3カ月ごろからは完全ミルク生活にしたことで、苦しみから解放されて、楽しく子育てができるようになりました。 ※本記事の内容は、必ずしもすべての状況にあてはまるとは限りません。必要に応じて医師や専門家に相談するなど、ご自身の責任と判断によって適切なご対応をお願いいたします。 監修/助産師REIKO 著者:ライター 舟橋海央4歳差の男子2人の母。同じ男の子でも性格の違う2人からいろいろ学びながら子育てを満喫中。自身の子育て体験をもとに記事を執筆している。
2021年07月12日野球場に足を運んだ、まな(@ron_lily0126)さん。宮城県に住むまなさんは、『東北楽天ゴールデンイーグルス』のファンだといいます。2021年6月8~10日には、『中日ドラゴンズ』との交流戦がありました。そこで、思わず涙するようなファン同士の温かい交流があったようです。試合の7回表の前に、球団の応援歌が流れます。そこでは、自分の応援している選手の名前入りタオルなどを掲げてげきを飛ばすのですが、この日は違いました。こちらの動画をご覧ください。3日間ありがとうございます!!中日ドラゴンズファンに感謝10年前に配布したボードだから、ありがたみが違いますね #がんばろう東北 pic.twitter.com/Ox1MNxvZGb — まな@6/18.19.25.26.29.30.7/10楽パ (@ron_lily0126) June 10, 2021 なんと、中日ドラゴンズのファンたちは10年前に配布された『がんばろう東北』と書かれたボードを長年保存。宮城県仙台市を拠点にする、東北楽天ゴールデンイーグルスに向けてメッセージを送ったのです。動画では、「復興祈願がんばれ東北」と書かれたメッセージボードも確認できます。中日ドラゴンズのファンは、毎回交流戦のたびにボードを掲示してくれるのだとか。まなさんは、「久しぶりの交流戦でも掲げてくれた中日ドラゴンズファンには感謝しかありません。応援している選手のタオルよりも、『がんばろう東北』を優先してくれた姿は涙が出ました」とコメントしています。【ネットの声】・プロ野球のファンとして嬉しいです。・素晴らしい!じーんときた!・感動した。素敵な交流ですね。東日本大震災から10年が経つも、いまだ復興が進んでいない場所もあります。復興を祈願し、風化させないという中日ドラゴンズファンのメッセージはプロ野球ファン以外の人の心にも響いたことでしょう。東北楽天ゴールデンイーグルスのTwitterでも、感謝の言葉がつづられていました。7回表の前に「 #がんばろう東北 」のボードを掲げてくださった中日ドラゴンズファンのみなさま、ありがとうございました✨震災から10年。楽天生命パーク宮城の試合ではいつも掲げていただき、とても嬉しく思います。スタジアムをたくさん楽しんでいってくださいね! #dragons #RakutenEagles pic.twitter.com/wIKMFG4KUT — 東北楽天ゴールデンイーグルス (@Rakuten__Eagles) June 8, 2021 10年経ってもなお、相手チームのことを想ってボードを掲げる素敵な交流に心が温まりますね。[文・構成/grape編集部]
2021年06月12日東日本大震災から10年を迎える今年、AIG ジャパンは、「これまで以上に子どもたちに寄り添い、応援していきたい」という思いから特別スポンサーを務める「MLB カップ」関連2021年プロジェクトの第一弾ウェブセミナーを開催。トレーニングの専門家2名と、元MLBプレーヤーを招いた『親子で学ぶ!今日からできるケガの予防と対策』を取材しました。運動能力を上げる重要なポイントとエクササイズボストン・レッドソックスで、ストレングス&コンディションニングコーチを務める百瀬喜与志さんからは、運動の基礎づくりとして大切にしたい2つのポイントとエクササイズが紹介されました。一つ目はコアコントロールの重要性について。いわゆる体幹のことで、しっかりしたコアを持っている選手は軸がぶれず、きれいなピッチングやバッティングができるといいます。年齢問わず大切で、蔑ろにできない部分だとか。二つ目は股関節周りの可動性の重要性について。こちらもピッチング、バッティング、どちらにも重要な体のしなりや柔らかさ、腰の使い方につながり、可動性が高い選手は体を安定させられるといいます。現代人は椅子に座る時間が長くなっていて、股関節周りが固くなっている人が多いそう。特にスマホやゲームで長時間座りっぱなしは運動には良くない姿勢なんだとか。これには股関節の内旋・外旋のエクササイズを行うと良いそうです。ケガ予防の投球制限と肩&肘のチェックポイントロサンゼルス・ドジャース所属、筒香嘉智選手のパーソナルトレーナーである渡邊誉さんからは、ケガを未然に防ぐために重要な投球制限が紹介されました。メジャーリーグのピッチャーでも1イニング30〜35球を投げると、スリーアウトをとることなく交代する可能性があるとか。それほど投球制限はケガ予防に重要なので指導者の方にはデータを活用してもらいたいと訴えました。子どもの頃に自然と行っていたケガに対するリスクマネージメント元MLBプレーヤーの斎藤隆さんは、体幹や股関節と同じく重要なのが球体の関節だといいます。自由度が高く柔らかいので1つの動きをずっとするとケガリスクが高まるそう。野球だけではなく様々なスポーツで様々な動きをすることで、脳からの命令形も発達し、自分の体を思うように動かすことができるようになるというメリットもあるそうです。子どもたちは基本的なトレーニングや生活習慣など基礎を大切にすること、また指導者や保護者は子どもたちの些細な変化を見逃さないことがケガ予防への近道だそう。野球キッズだけではなく、広くスポーツを行う子どもと保護者たちに有益なセミナーでした。今後開かれる予定の第二弾にも要注目です。【参考】※第二弾ウェブセミナー 『親子で学ぶ!子どもの成長に大切な食育』
2021年06月03日東日本大震災が起こったのは、私が都内の保育園に就職し1年が経とうとしていたとき。保育園で泊まりがけで子どもたちのお世話をし、帰宅困難になった保護者を待っていた時間は、子どもを持った今の私には大きな糧となっています。地震発生から無事に子どもたちを保護者に引き渡すまでの体験と、私の今の生活に生かされている教訓を紹介します。 普段より少し大きい地震…のはずが地震が起こったとき、保育園で勤務していた私は、お昼寝明けの子どもたちの保育中。いつもと変わらずおやつの準備を始めようと思っていたとき、感じるか感じないかくらいの揺れがあり、先輩保育士の指示で保育室内の窓を開けました。 しかしその後揺れがどんどん大きくなり、寝ていた子どもたちを急いで起こし、皆で一か所に集まりました。普段より少し大きい地震がきたな……くらいにしか思っていなかった私は、その後夜通しの保育になるとは想像もしていなかったのです。 不安のなかでの保育揺れが大きく余震も長く続くので、ただ事ではないと、保育士一同テレビで情報を確認しました。すると衝撃の被害状況が明らかになり、胸がざわついたことを覚えています。 子どもがいる職員は帰宅し、私も遠方に住む両親に連絡をしたのですが通信が混み合っていて繋がらず、不安が続くなかでの保育となりました。交通も止まり、保護者のなかには帰宅困難となる人もいて、同様に帰宅困難になった職員で保育を継続し、ついに夜通しとなりました。 大事な子どもと再会できた喜び夜になると次第に通信が安定してきて家族の安否を確認でき、やっと安心して保育に身が入ったというのが正直なところ。私たち保育士は子どもたちと一緒に夕飯を食べ、眠くなった子から寝かしつけをして保護者の帰宅を待ちました。 帰宅困難になった保護者が続々と子どもを迎えにきたのは22時ごろ。10km以上も離れた職場から歩いてきた人もおり、やっと迎えにくることができた安堵感がにじみ出ていました。最後に迎えにきた保護者は翌朝の8時ころ。疲れ果てた表情でわが子を抱きしめていた姿が印象的でした。 災害時保育から生かしたこと当時私には子どもがいませんでしたが、家族と連絡が取れない状況はとても不安でした。子どもを必死の思いで迎えにきた保護者も同じような気持ちだったことと思います。今は娘を育てている身として、日ごろから災害時の安否確認方法を確保しておくべきだと感じました。 そこで、NTTの災害伝言ダイヤルや携帯キャリアの災害時伝言板の使い方を確認し家族にメッセージをテスト送信するなど、いざというときにすぐに使えるようにしています。また、大事な子どもを守るために、自分も子どもも安全に避難できるような準備もしっかりと。家の中の安全な場所の確認、地域の避難場所の確認、出口付近に避難用具の設置をし、定期的に見直しをしています。 東日本大震災当時、都内では交通機関が停止し大勢の人が歩いて帰宅したようですが、今は二次災害の防止のために災害発生直後の移動は控えるように言われていることと思います。そのため、なおさら家族との連絡手段の確保をしっかりおこない、災害時に離れていたとしても、お互い安心安全に避難できるようにしたいと思っています。 監修/助産師REIKO著者:斎藤ますみ1児の母。保育士として働く傍ら、自身の出産・子育て経験をもとに、妊娠・出産・育児に関する記事を中心に執筆している。
2021年03月30日東日本大震災からまもなく10年。イラストレーターのアベナオミさんは、当時、夫と1歳7カ月の息子さんの3人で宮城県仙台市近郊の利府町で暮らしていました。被災したアベさんは震災翌日に生理に。ライフラインがストップするなかの生理で、何に困り、これからどう備えたらいいのか……。体験を綴ります。イラストレーターのアベナオミさんは、2011年3月11日、宮城県仙台市近郊の利府町で東日本大震災を経験。当時、長男の豆キチくんは1歳7カ月でした(現在は、二男アンチョビくん、長女モナカちゃんが生まれ、3児の母)。 アベさんは、震災翌日に生理に。電気・ガス・水道といったライフラインがストップしているなか、生理ではどんなことに困り、これからどう備えたらいいのか……。あまり語られることのない「震災と生理」についてリアルな状況と、経験者だからこそ、皆さんに知っておいてほしいこと、備えておいてほしいことについて教えてくれました。 ※「知ってほしい生理×震災のリアル」これまでのお話はこちらナプキンが…ない!家にもお店にも…震災翌日、絶対に失敗できない夜…当時、私が住んでいたエリアでは、断水が完全に復旧するのに約1カ月ほどかかりました(沿岸部はさらに長期間、断水が続きました)。そこで、生活用水を求めていった場所は……。 多くの人が生活用水を求めて、川へ。川の堤防は、津波が遡上したために変色していました。津波の爪痕を目の当たりにしながら、小さなバケツで、1日に何度も、自宅と川を行ったり来たり。そして、その役割をほとんどを担っていたのは、休校中の子どもたちでした。 ※遡上(そじょう)…流れをさかのぼって行くこと この時点では、わが家は汲んできた川の水でトイレを流していました。しかし、後にトイレの汚水が沿岸部であふれるという被害が! 今では流さなくても済む非常用トイレをしっかりと備えています。 生理中なのに、おふろもウォシュレットもシャワーも使えない日々。ムレるし、ニオイも気になるし、ずっとムズムズしてとても不快でした。 おしりふきのおかげで、デリケートゾーンをかろうじてきれいに保つことができました。しかし、完全にスッキリすることはなかったので、水については、飲料水だけでなく、生活用水の備えがあれば、座浴くらいできたのになぁと後悔。文字通り、「温水(おんすい)を湯水(ゆみず)のように使えるありがたさ」を痛感した経験です。 生理のときはいつも以上にデリケートゾーンを清潔に保ちたいけれど、ライフラインが止まり、物資がない中では最低限の衛生を保つことで精一杯でした。震災後まもない時期に生理を経験して思ったのは、生理で必要な備えは、 ●昼用夜用それぞれ1パック以上の未開封ストック●おしりふき、またはウエットティッシュ●使用済みの生理用品やウエットティッシュを入れる防臭袋や消臭袋 です。災害時はゴミの収集が数週間ストップします。ゴミを家庭で保管しなければならないので、ニオイ対策も必要です。また、生理時以外では、下着がなかなか交換できないときに、パンティライナーやおりものシートを使うと便利です。 家族とはいえ、1日に1〜2回しか流せないトイレに用を足すのはとてもストレスでした。また、生理時は経血でトイレが真っ赤になってしまい、私も夫もストレスでした。だからこそ、一回ごとに処分できる非常用トイレは必須の備えです! 皆さんも、生理の備え、トイレの備えを見直してみてくださいね! アベナオミさんが体験した、震災での生理体験のお話でした。このようなリアルな内容はなかなか聞くことができないものだと思います。ぜひ備えの参考にしていただければと思います。 アベナオミさんは、震災後、小さな子どもを連れた被災後の生活の様子や防災を伝えるコミックエッセイなどを執筆し、「防災士」の資格を取得。被災体験をもとに、本当に必要な防災、続けられる防災「1日1防災」に取り組みつつ、防災講座などの活動もおこなっていらっしゃいます。 なお、アベナオミさんの防災に関する書籍は「日めくり 被災ママが教える後悔しないための1日1防災」(PHP研究所)、「被災ママに学ぶちいさな防災のアイディア40」(学研プラス)、「全災害対応! 子連れ防災BOOK 1223人の被災ママパパと作りました」(祥伝社)など。どれも、知っておきたい防災の情報がぎっしり詰まっています。こちらもぜひ読んでみてくださいね。 監修/助産師REIKO ムーンカレンダー編集室では、女性の体を知って、毎月をもっとラクに快適に、女性の一生をサポートする記事を配信しています。すべての女性の毎日がもっとラクに楽しくなりますように!著者:イラストレーター アベナオミ
2021年03月27日2011年3月11日。私たち家族は、夫の当時の赴任地であったイギリスにいました。イギリスと日本の時差は9時間。私たちは朝起きて初めて震災のことを知ったのです。国外にいて知る日本の惨状は、それだけで大変な衝撃と葛藤を生みました。 ニュースで繰り返し流される日本の映像震災発生以来、現地のテレビでは日本の様子が連日報道されることに。上空から撮影された押し寄せる津波、がれきの前でたたずむ人々、煙をあげる原子力発電所、一日中流れるこれらの映像に言葉も出ないほどの衝撃を受けました。 そしてそれが自分の国で今まさに起きている現実なのだとはにわかには受け入れられず、当時2歳の娘を抱きながら夫と無言のまま、ただ呆然とニュースを眺める日々が続きました。 寄り添ってくれた近所の人たち震災のニュースに心を痛めていたのは、日本の人だけではありませんでした。職場や学校などで、私たちが日本からきていることを知っている人たちみんなが心配し、お悔やみの言葉をかけてくれたのです。ある日近所の市場に出かけると、たまたま居合わせたおじいさんに「日本の方ですか?」と声をかけられました。 その人は「ニュースで見ました。ひどい。本当にひどいことです」と穏やかに言って、そしてやさしく娘の頭をなでてくれました。見ず知らずの人さえも私たちの悲しみに寄り添ってくれたような気がして、10年経った今でもよく覚えています。 遠くても、遠いから、できること日本が大変なときに日本にいられないという状況は、当時国外にいた日本人の多くが歯がゆさを感じていたように思います。また、震災によって命の危険にさらされたわけでも、生活の不自由さを経験したわけでもありません。こうした思いは、ある種の後ろめたさにもつながりました。 しかし、そんななか多くの人が震災関連のサポート活動に立ち上がっていったのです。私の周りでも、地元の小学校のケーキセールや手作りの折り鶴を加工したストラップなどを販売して、売上金を支援団体に寄付する活動がありました。 震災時に日本にいなかった私たち家族は、当時の国内の雰囲気を共有していません。そのことに後ろめたさを感じるときもあります。しかし国外にいたからこそ、日本人以外の人が同じように心を痛めてくれていたこと、手を差し伸べてくれていたことなどを感じることができたのも事実です。あの日、寄り添ってくれた人がいたことを子どもたちにも伝えていきたいと思っています。 監修/助産師REIKO著者:川木みさ7歳差の1男1女を子育て中。英検1級、児童英語指導者TEYL取得。海外サイトの翻訳や子育て体験談の執筆活動中。
2021年03月26日東日本大震災からまもなく10年。イラストレーターのアベナオミさんは、当時、夫と1歳7カ月の息子さんの3人で宮城県仙台市近郊の利府町で暮らしていました。被災したアベさんは震災翌日に生理に。ライフラインがストップするなかの生理で、何に困り、これからどう備えたらいいのか……。体験を綴ります。イラストレーターのアベナオミさんは、2011年3月11日、宮城県仙台市近郊の利府町で東日本大震災を経験。当時、長男の豆キチくんは1歳7カ月でした(現在は、二男アンチョビくん、長女モナカちゃんが生まれ、3児の母)。 アベさんは、震災翌日に生理に。電気・ガス・水道といったライフラインがストップしているなか、生理ではどんなことに困り、これからどう備えたらいいのか……。あまり語られることのない「震災と生理」についてリアルな状況と、経験者だからこそ、皆さんに知っておいてほしいこと、備えておいてほしいことについて教えてくれました。 ※前回のお話はこちらナプキンが…ない!家にもお店にも…【知ってほしい生理×震災のリアル】電気が供給されない状態では、夜になると真っ暗で何もできません。乾電池も手に入らないので、日没とともに眠り、夜明けとともに起きる、そんな生活に……。 私の生理用ナプキンのストックは買い忘れていましたが、幸い、子どもの紙おむつだけは、たくさん買い置きがありました。震災直前に紙おむつをまとめ買いしていた私、グッジョブ! 夜用ナプキンがないというピンチを、子どもの紙おむつでしのいだ夜。しかし、経血漏れの失敗が許されない状況で、ちゃんと紙おむつを固定できていない不安、そして先行きの不安で、この夜は眠れませんでした。 アベナオミさんが体験した、震災での生理体験のお話はまだまだ続きます。なかなか聞くことのできないお話です。ぜひ次回も読んでいただき、備えの参考にしていただければと思います。 アベナオミさんは、震災後、小さな子どもを連れた被災後の生活の様子や防災を伝えるコミックエッセイなどを執筆し、「防災士」の資格を取得。被災体験をもとに、本当に必要な防災、続けられる防災「1日1防災」に取り組みつつ、防災講座などの活動もおこなっていらっしゃいます。 なお、アベナオミさんの防災に関する書籍は「日めくり 被災ママが教える後悔しないための1日1防災」(PHP研究所)、「被災ママに学ぶちいさな防災のアイディア40」(学研プラス)、「全災害対応! 子連れ防災BOOK 1223人の被災ママパパと作りました」(祥伝社)など。どれも、知っておきたい防災の情報がぎっしり詰まっています。こちらもぜひ読んでみてくださいね。 監修/助産師REIKO ムーンカレンダー編集室では、女性の体を知って、毎月をもっとラクに快適に、女性の一生をサポートする記事を配信しています。すべての女性の毎日がもっとラクに楽しくなりますように!著者:イラストレーター アベナオミ
2021年03月24日東日本大震災からまもなく10年。イラストレーターのアベナオミさんは、当時、夫と1歳7カ月の息子さんの3人で宮城県仙台市近郊の利府町で暮らしていました。被災したアベさんは震災翌日に生理に。ライフラインがストップするなかの生理で、何に困ったのか、そしてこれからどどう備えるべきなのか……。体験を綴ります。イラストレーターのアベナオミさんは、2011年3月11日、宮城県仙台市近郊の利府町で東日本大震災を経験。当時、長男の豆キチくんは1歳7カ月でした(現在は、二男アンチョビくん、長女モナカちゃんが生まれ、3児の母)。 アベさんは、震災翌日に生理に。電気・ガス・水道といったライフラインがストップしているなか、生理ではどんなことに困ったのか、そしてこれから、どんなことに備えるべきなのか……。あまり語られることのない「震災と生理」についてリアルな状況と、経験者だからこそ、皆さんに知っておいてほしいこと、備えておいてほしいことについて教えてくれました。 地震が起きようが、断水しようが、大震災が起きたって、生理は待ってくれません。 まさかのまさか!! 私の場合、経血のピークが1日目の夜~2日目の朝だったので、もう絶体絶命! わが家は夫婦それぞれ車を持っていましたが、夫の車は会社の近くで津波に流されてしまい、車と車の間に挟まったまま……。私の車はガス欠寸前。実はガソリンを入れに行こうと出発したときに地震が発生したのです。 そしてこのとき、道路は停電で信号が止まり、渋滞が発生していました。車のガス欠を防ぐため、私たちは歩いて買い物に行くことに……。 震災翌日は、在庫のある限り、まだ商品を販売しているお店がたくさんありました。しかし、在庫がなくなったら閉店。そして、その状態は、物流が戻るまで、しばらくの間続いたのでした。 いろいろと探し回りましたが、トイレットペーパー、紙おむつ、生理用ナプキンはどこのお店にもなく……。しょんぼりしながら、帰りました。 帰り道の空に立ちのぼる黒い煙は、津波で発生した火災の煙です。きっと沿岸部はもっと大変なことになっている……そう思うと、ナプキンがないくらいでメソメソできない……と思い、ナプキンがないつらさは声に出しづらかったです。 アベナオミさんが体験した、震災での生理体験のお話はまだまだ続きます。なかなか聞くことのできないお話です。ぜひ次回も読んでいただき、備えの参考にしていただければと思います。 アベナオミさんは、震災後、小さな子どもを連れた被災後の生活の様子や防災を伝えるコミックエッセイなどを執筆し、「防災士」の資格を取得。被災体験をもとに、本当に必要な防災、続けられる防災「1日1防災」に取り組みつつ、防災講座などの活動もおこなっていらっしゃいます。 なお、アベナオミさんの防災に関する書籍は「日めくり 被災ママが教える後悔しないための1日1防災」(PHP研究所)、「被災ママに学ぶちいさな防災のアイディア40」(学研プラス)、「全災害対応! 子連れ防災BOOK 1223人の被災ママパパと作りました」(祥伝社)など。どれも、知っておきたい防災の情報がぎっしり詰まっています。こちらもぜひ読んでみてくださいね。 監修/助産師REIKO 著者:イラストレーター アベナオミ
2021年03月23日【今週の悩めるマダム】10年前の東日本大震災で家族を亡くしたものです。先日、また大きな地震が東北を襲いました。今回の地震では、食器などが割れてしまったものの、幸いけがなどの被害はありませんでした。しかし嫌な記憶がよみがえってきて、また眠れなくなってしまいました。やっと乗り越えられてきた矢先に、心が潰されそうです。(宮城県在住・50代主婦)あれから10年の月日が流れましたが、つらい記憶にいまだ多くの方が苦しんでいらっしゃると思います。しかし、このような自然災害は、残念ながら地球が続く限り、繰り返し起こるものです。人間の力ではどうすることもできないこのような不条理なことが、皮肉にも人生にはたくさんふりかかってきます。その都度、人間は立ち止まり、吹き飛ばされないように、心を必死で保たないとならないのです。そうしたことも含めて“生きていく”ということなのでしょう。もちろん自然災害だけではありません。交通事故もあれば、癌などの重たい病気もありますし、まさにコロナのような感染症のパンデミックもあります。私たちに悲しい記憶を思い起こさせるような出来事は、今後も形をかえ、次々と私たちに襲い掛かってくることでしょう。さて、僕はあるときから、心の片隅に“ある種の覚悟”というものを常に用意するようになりました。これを皆さんに真似してください、というつもりはないのですが、とりあえずちょっと読んでみてください。僕は61年生きてきましたが、結局のところ、人生とか運命というものは、実はどんなに拝んでもどんなに頑張っても、もうどうすることもできないものだと悟ったのです。なぜならば、人間は遅かれ早かれ、いつかは死ぬことになるのです。ご存知のとおり、この運命から脱出できた人間はいまだかつて一人もおりません。地震も起こるでしょうし、交通事故に不意に遭遇することもあるかもしれない。コロナにかかって、死にそうになるかもしれない。あるいは、死ぬかもしれない。人間が自分でどうすることもできないことを“不条理”というのですが、実際のところ人生のほぼすべてが不条理だと考えていた方がいいでしょう。免れない死を覚悟してみると、不安はほんの少しマシになります。いつか終わりがくることを怯えて生きることも、苦しい過去を背負い続けて生きることも、人間にはできます。でも、「いつかは自分もこの世を去らないとならない」と覚悟する境地が、逆に僕を楽にしてくれることがあるのです。諦めではありません。境地です。人間がどんなに考えても、死の先にあるものは見えません。見た者もいません。しかし、終わりのある人生の本質と向き合い、そして理解することはできます。死を悟り、今を一生懸命生きることで、僕はつらい過去と和解してきました。そして、いつも月を見上げながら、「いつか、そちらに帰ります。それまであと少し、精一杯生きさせてください」と祈るのです。天に召されるという言葉がありますが、その免れない最期に、「素晴らしい人生だった」と思えることが天国なのだと信じたいですね。つらいこともありますが、今生を共に生きてまいりましょう。【JINSEIの格言】免れない死を覚悟してみると、不安はほんの少しマシになります。「いつかは自分もこの世を去らないとならない」と覚悟する境地が、逆に僕を楽にしてくれることがあるのです。この連載では辻さんが恋愛から家事・育児、夫への愚痴まで、みなさんの日ごろの悩みにお答えします!お悩みは、メール(jinseinospice@gmail.com)、Twitter(女性自身連載「JINSEIのスパイス!」お悩み募集係【公式】(@jinseinospice)、またはお便り(〒112-0811 東京都文京区音羽1-16-6「女性自身」編集部宛)にて絶賛募集中。※性別と年齢を明記のうえ、お送りください。以前の連載「ムスコ飯」はこちらで写真付きレシピ公開中!
2021年03月16日