俳優の桐谷美玲が4日、自身の公式SNSを更新し、梅雨を前に美容室で髪をケアしたことを報告した。桐谷は「手触りも、この自然なストレート感も、完璧」とヘアケアの出来栄えに満足げで「1年前にやったっきりだけどなんとかここまで保ってたし痛みもほぼゼロほんとすごい」と喜んだ。ストレートヘアになった桐谷は、カメラを見つめる自撮りショットも投稿。ファンからは「ギャンかわ」「たまらん。大好き」「引き込まれそうなくらい可愛い」「可愛いすぎて見とれる」などの声が寄せられている。
2022年05月04日コラムニストの桐谷ヨウさんによる連載「なーに考えてるの?」。ヨウさんがA to Z形式で日頃考えていることや気づいたこと、感じたことを読者とシェアして一緒に考えていきます。第36回目のテーマは「J=Jiu-jitsu(柔術)」です。ブラジリアン柔術って知ってる?今回から2回にわたって「老若男女だれにでもオススメできる格闘技2つ」を紹介していきます。ひとつ目は「ブラジリアン柔術(Jiu-jitsu)」です。これを読んでいる人の多くは「うわー、まったく興味を持てない!」と思うことでしょう。俺も数ヶ月までまったく同じ感想でした。ですが、ブラジリアン柔術は派手なムーブメントこそないですが、着実に、密やかに、老若男女だれでもできる格闘技系スポーツとして、認知と実践者をどんどん増やしているのです。それはなぜでしょうか?理由は「相手を締め上げれば勝ち」という一見シンプルに見えるゴールに到達するために、腕力ではない技術の向上と、駆け引きの応酬がなされていて、そのすべてが奥深くて、面白いからです。その性質から「ヒューマン・チェス」という別称が生まれているほどです。そもそも柔術というのは寝技だと思ってください。殴ったり蹴ったりするのではなく、相手を地面に投げ飛ばすのでもなく、お互いあるいはどちらかが床に寝転がってるところから技の応酬をするとイメージしてみてください(厳密にはちょっとちがうのですが)簡単に言うと、相手の首を絞めるか、腕(肘)を極めれば、問答無用の「一本」です。ただし、相手だってシロウトじゃないので、簡単にはかけさせてくれません。そして有利な身体のポジションの奪い合いをしていかなくては、簡単に逃げられてしまいます。自分に有利な姿勢をつくり、相手の動きを封じ、最終的に狙っていた技をかけられる体勢を少しずつつくっていく。それが出来たら体格差を吹っ飛ばして相手をギブアップさせられる。そういうゲームです。ちょっと面白そうじゃないですか? よくマウントポジションという言葉を聞いたことがあると思いますが、ただの馬乗りじゃなくてあれも技術なんです。自分よりも20kgほど体重が軽い女性の先生に上を取られたことがありますが、まったく動くことができませんでした。習熟すれば、そんなことだって可能になるんですよ。ブラジリアン柔術の魅力ここからは僕が考える「ブラジリアン柔術」の良さを伝えていきます。なんというか和やかなんです、参加者全体を取り巻く雰囲気が。これはキックボクシングのクラスと対比すると一目瞭然で分かります。打撃系のスポーツはさわられること=破壊されることに直結します。しかし、寝技系のスポーツはふれあうことが前提にあります。そう、ふれあってからがすべての始まりなので、ピリピリしていないんですよ。これは経験者ならみんな言うと思います。この「ふれあうこと」の威力は大きいことだと思います。いまは他人とのコンタクトを積極的に取りたい時期ではないですが、マスクをつけていればそれほど神経質になることはないでしょう。こんなにも他人と物理的に接触しまくるスポーツは少ないのではないでしょうか。僕の場合は大抵オッサン同士でふれあうわけですが、それでもなんともいえない充実感に包まれてクラスを終えます。そして先ほどふれた技術の修練という側面です。打撃というのは、やはり身体が大きいほうが有利です。そもそもの骨格がデカい人は力が強いし、リーチだって長いわけじゃないですか。どうしたって努力よりも生まれもった体格差で決まってしまう側面が大きいのです。しかし、柔術は体格に劣る存在が、圧倒的な体格の相手に勝てる可能性があるものなんですよね。というのも、寝技は「やったことがある人は回避方法がわかるが、ど素人はまったく手に負えない」というシロモノなんですね。なので、寝技を使えるシチュエーションに持ち込めたら…という条件付きですが、女性や子供が、圧倒的な体格差の男性を圧倒することができる可能性があるんです。一瞬で。その証拠に、総合格闘技の黎明期はグレイシー柔術というブラジリアン柔術の一派が、圧倒的な強さで勝ちまくりました。先にボコれば勝ちだという異種格闘技をしに来ている連中を横目に、誰も対応できないグラウンド技術(ざっくりと身体がマットに倒れてから、倒してからの格闘技術と思ってください)の圧倒的戦闘力格差で、無双状態を誇ったわけですね。こういうロマンが柔術にはあるような気がします。最後に、ファミリー全員で楽しめる可能性があるということです。実際に僕が通っているジムには、そういうファミリーがいるんですよね。お父さんと、お母さんと、お子さんが同じクラスで、道着を着て、楽しみながら一緒にやっている。そして三頭身くらいのキッズが道着を着ている姿は、たいして小さい子供が好きではない俺から見たって、信じられないくらいに可愛い! なかなかこんなスポーツも珍しいんじゃないでしょうか。老若男女だれにでもオススメできる格闘技、ひとつめは「ブラジリアン柔術(Jiu-jitsu)」です。なにかで見かけた際には、思い出してみてもらえると嬉しいです。
2022年03月31日女優の桐谷美玲さん(32)は、かねてよりお付き合いしていた俳優の三浦翔平さん(33)と2018年に結婚。2人は2016年放送の月9ドラマ『好きな人がいること』での共演をきっかけに交際へと発展。そのまま自然な流れで結婚へと進んだそう。美男美女で人気俳優のお2人。ビッグカップルの結婚発表には世間からも多くの反響を呼びました。その後2020年に男の子が誕生し3人家族になった三浦ファミリー。先日は、美玲さんがお子さんにいたずらされた写真を投稿し注目を集めているようです。早速チェックしてみましょう。顔中シールだらけに! この投稿をInstagramで見る 桐谷美玲(@mirei_kiritani_)がシェアした投稿 「最近目がとっても痒くて、まぁまぁくしゃみが出るけど、鼻水はそんなに出ないから、まだ花粉症じゃないってことでいいよね?」と、顔面アップの写真を投稿した美玲さん。お子さんにいたずらされたと思われるシールが顔中に貼られていておちゃめな姿に。普段見ることのできない美玲さんのママとしての姿を見られたということもあり、コメント欄には「子供ってどこにでもシール貼りますよね」「子供ちゃんに貼られたんですね(笑)可愛すぎます♡」「最高のメイク」とおうち時間でのオフショット写真に多くの注目が集まっておりました。4月から独立することを発表した美玲さん。今後はモデル業を中心に子育てや家庭との両立をしながらゆっくりと進んでいくようです。今後どのような活躍を見せてくれるのか楽しみですね。あわせて読みたい🌈上野樹里さん&和田唱さん夫妻の会話に「やり取りか~わいい」「すごく良い」と反響
2022年03月30日コラムニストの桐谷ヨウさんによる連載「なーに考えてるの?」。ヨウさんがA to Z形式で日頃考えていることや気づいたこと、感じたことを読者とシェアして一緒に考えていきます。第35回目のテーマは「I=Investment(投資)」です。もっとも利回りの良い投資は…こんな俗説を聞いたことがあるでしょうか?「もっとも利回りの良い投資は、自己投資である」おいおい、あやしい自己啓発界隈のうさんくさいセールストークなんじゃねーか?と思ってしまうのだけど、あながちまちがっているとはいえない話なんですね。いわゆる投資のための金融商品を見てみると、5%のリターンで上出来というイメージです。あっ、たいしてくわしくない私の感覚なので流してもらえると幸いです。10%を超えてくるとそれなりにリスクがともなってくる商品だなという印象で、ましてや倍にしようとするとそれこそ丁半博打(ばくち)のような世界をくぐり抜けなくてはいけなくなる。それは投資ではなく、ただのギャンブルである。そういう意味でいうと、仕事においてなんらかの経験を自分への投資として血肉化するとする。場合によっては、自腹を切ってスクールに通う必要もあるかもしれない。お金を使わなくても、遊びたい時間を費やさなくてはいけないかもしれない。それが自己投資というものである。そうやって手に入れたいくつかの「たくさんの人が持っているわけではない経験値」を掛け合わせて、それをほしがっている企業がいたとしたら、オファー金額はけっこうなものになるだろう。そういう意味では、数十%のリターンというのは、たやすくあり得る。かなり有名な考え方ですが、藤原和博さんが唱える「3つのキャリアを掛け算して100万分の1の人材」というのは分かりやすい話です。1つのキャリアで突き抜けるのはかなり厳しいですが、1万人にひとりを3つ掛け合わせると、100万分の1の存在になれる……という話です。たしかに自分も直近の転職では、人材のレアさ(すごさではない)が評価された気がしています。システムのことがそれなりにくわしく分かるコンサルタントであること、特定の領域を深掘りした経験があること、大手とベンチャーの両方を経験していること、職種をまたがった役割を担って部下を持って計数管理をしていたこと。狙ったわけではないですが、気づくとそれなりに面白い人材になっていたようです。おすすめの自己投資とは?さて、実のところ俺はキャリア論に興味がないので、自己投資というテーマで語りたいのは、「どんな自己投資がおすすめか?」です。これは本当にむずかしい。興味があることをやってみるしかないというのが俺の回答なんだけど、多くの人は無駄な時間を費やしたくないから、「ハズレ」にならない自己投資をしたいと思うんだろうな。一時期、よく引用されたスティーブ・ジョブスの”Connecting the dos”も、最初から意味とか価値がある点をつくろうとして、点と点をつくる(そしてつなげる)という話ではないんですよね。そのときはよく分からないけどハマっていたこと、夢中になったことが、あとになって振り返ると思わぬところで結果的につながっていったというだけで。そう、本当に自分の興味や関心、それが自覚できないのであれば心がワクワクすることをとにかくやってみればいいのである。どういうふうにそれがつながっていくかは分からない。だからとにかく、始めてみれば良いんだと思う。それでもヒントを挙げるとすれば、「身につけると有用なスキルか、そうでもないか」「習得に時間がかかるか、短期間で可能か」というマトリックスで考えると良いかもしれない。この記事を参考にしてみてほしい。そりゃ、「習得にそんなに時間がかからなくて、身につけると有用なスキル」を獲得するのが良いに決まっています。もし迷っているのであれば、対象をこの尺度で捉えなおしてみると良いのではないでしょうか。その際には「時間がかかる」をどれくらいの時間感覚で捉えるかによって変わってきます。例えば友人もコロナ禍で習い事に取り組んでいるらしく(個人的にコロナ禍は習い事がベストな時間の使い方と思っている!)、その内容はフランス語と運転免許証の講習でした。めっちゃ良いっすよね。これらは身につけるとまちがいなく有用なスキルです。ですが、数年は平気でかかる語学ほどではないにしても、運転免許証もすぐには取得できるものではないでしょう。少なくとも数カ月から半年は要します。何かを習得するにあたってはこれくらいのスパンを最低でも見込んだほうがいいかな?と思います。週1回に1時間、1年間続けてみる俺の感覚では、未知のものに対して50時間くらい真面目に時間を費やせば、他人から「うまいね!」と言われるレベルには達します。週1回に1時間だけ練習して、1年間で到達する練習時間の蓄積です。自分にセンスがなかったとしても、100時間を投入すれば、まぁ素人をけむに巻くくらいのレベルにはなれてると思います。いまは絶好のチャンスです。こんなにも習い事をするのに適しているタイミングはないでしょう。俺は格闘技とボイトレを始めました。まったく有用とはいえないスキルで、習得に時間がかかります。キックボクシングとブラジリアン柔術は来年の10月でそれぞれ50時間、ボイトレは再来年の12月で50時間、その頃にどうなっているのか楽しみで仕方がないです。みなさんも何かを仕込む期間にしてみてはいかがでしょうか。数年後に大化けするかもしれませんよ。
2022年03月24日コラムニストの桐谷ヨウさんによる連載「なーに考えてるの?」。ヨウさんがA to Z形式で日頃考えていることや気づいたこと、感じたことを読者とシェアして一緒に考えていきます。第34回目のテーマは「H=Honesty(誠実さ)」です。「他人に誠実であるか?」の差が出てくるお年頃突然だが30代で痛感するのは、人は「他人に対しては、誠実であれ」「自分に対しては、素直であれ」ということである。これらを大事にしていくと、生きやすさが広がるような気がしている。どういうことか?他人に誠実であること。これは奇麗事のように見えて、けっこう面白い差が生まれてきているのが30代である。というのも、他者と小器用に関われるスキルを持った人って、身近にいなかっただろうか?感じ良く、ほどよいラインを崩さずに、うまみだけを吸うようなコミュニケーションがうまかった人。そういう人は良いとこどりができているように見えていたけど、ある程度の年齢になるとそういう人はけっこう寂しさを抱えていたりする。当たり前だ。人間関係は良いとこどりができない。他者を交換可能な見方をしている人は、自分も交換可能な存在として扱われるからだ。気がつくと自分が心を許せる特定の仲間やパートナーに恵まれていなかったりする。反面、不器用でも誠実にしてきた人というのは、その蓄積が生きてくる年齢になってくる。周囲には誠実をギブアンドテイクする人しか残っていないから、安心感しかない。まぁ、自分が誠実でいようとしても、一方的にかすめとろうとしてくる人はたまに出没するけれど、深く関わらなければいつのまにか消えていってくれる。人間関係とは自分から迎えにいくものではない。偶然の流れなのか、それが幸いな場合には運命と呼ぶのだろうか、時期が来たら出会うのである。迎えにいくのではなく、やって来る。あるいは同じ場所に一緒にいることになる。それは通り過ぎては流れていったり、手元に残っていく川べりの石のようなもので、自分がどういう向き合い方をするのかによって、近くに残っていく存在が決まっていくのだろう。結局のところは、他人に対して誠実に接している人が、勝ってるなぁと思うことが増えてきたのである。それでは自分に素直であることとは?自分に素直になって悪いことってない自分の経験を振り返ると、本当に楽しいときも、けっこう苦しいときも、それぞれにおいて何が重要な要素だったかを思い出すと、素直な気持ちで向き合っていたか?ということである。たとえば嬉しいハプニングが起きたとする。そんなときに素直に「嬉しい!楽しい!」と思えればいいけど、斜(はす)に構えてしまったら嬉しさというのは半減してしまう。自分の心の波に素直に乗れないと、テンションなんか上がりっこないのである。イメージとしては「調子に乗ってると思われたくない」とか「まわりの目があって恥ずかしい」みたいなものかなぁ。これは素直にしていれば乗れたであろうポジティブな波を、乗り過ごしてしまった例になるだろう。逆に、しんどいときも素直さを阻害しているケースがけっこうあるんじゃないかと思う。いまの仕事を辞めたいと思っているのに、「自分で決めたんだから数年はガマンして頑張らないと」とか「感情としてはムカつくけれど、理屈は上司の方が正しいから」とか「これだけお金をもらっているのだから、肉体的にも精神的にも負荷がかかる仕事なのは仕方がない」みたいな。こういうのは続けていくと面白いことにハンを押したように一年くらいで限界を迎える。自分の経験を鑑みても、周りを見渡しても、自分の気持ちに素直になれたら即ギブアップするつまらない出来事をガマンして続けていると、マジで一年くらいでバーストしてしまうものなのである。そう、自分に対して素直になって悪いことなんか一切ありえない。それでも引っかかるのは、小さい頃に「ガマンが必要」とか「努力をしないとヒトカドの人になれない」みたいに言われしまった呪いが、けっこう効いてるんじゃないかと思う。好きなこと、やりたいことをやるのにガマンなんてありえないし、努力を努力と思わずに夢中にやりつづけてそれなりの人になれてしまうだろう。素直に興味があることをやっていれば。あるいは他人に対して誠実になれないのはなぜなのか。誰かに裏切られたことがあるのか、そういう態度をバカにされたことがあるのか。その反動で自分が誠実になるのをバカバカしいと思ってしまっているのかもしれない。そういうのを取っ払えたらいいんだけどね。素直さ、誠実さは、俺の言葉におきかえると「自分の気持ちをまっすぐにぶつけること」である。そして、いつも自分の気持ちをまっすぐにぶつけるのをジャマするのは、自分の羞恥心であったり、余計な気遣いであったり、こざかしい損得勘定です。それは幸福感には決してつながらない。どれだけ自分の気持ちの純度を高めて、好きな人に対してぶつけられているか。好きな物事にぶつけられているか。これだけを考えてみてほしいのです。
2022年03月17日コラムニストの桐谷ヨウさんによる連載「なーに考えてるの?」。ヨウさんがA to Z形式で日頃考えていることや気づいたこと、感じたことを読者とシェアして一緒に考えていきます。第33回目のテーマは「G=Gym(ジム)」です。ジムに通い始めてわかったこと皆さま、ご機嫌よう!ウートピ読者の皆さまは、ジムに通っておりますでしょうか?俺の身のまわりでは半々ってところでしょうか。行っている人の場合、男性はマシンを使った筋トレ。女性はホットヨガ系をやってる人が多いかなぁ、という印象です。めっちゃ独断と偏見です。ジムといえば去年からオンライン・トレーニングも一般化しましたよね。自宅からZoomでつなげて、筋トレをしたり、ヨガをしたり。レッスンをそれなりにリモートでできるようになったのは、かなり革命的だった気がします。が、やっぱり自宅だとサボってしまうみたいですね。結局はジムに行くのが気分も変わるし良い、でも準備や移動や事後のシャワーはダルいね、と。人というのはどんな便利になったとしても、やらない理由が出てきてしまうもんなんでしょう。ジムといえば三日坊主で会費を払い続けている人が経営を支えている場所……そんなふうに冷ややかな目線で見ていたことが俺にもありました。一方で、本気で継続できている人は体つきから違っていて、なんとなく気にはなっている……そんな位置付けの場所でした。そんな自分は2021年の10月にジムに入会しました。高校生ですでに帰宅部だったので、本格的に運動をするのは20年ぶりくらいです。おまけに格闘技を始めました。これヤバいでしょ。もともと体力はあるほうなのですが、最初は筋肉痛がバキバキでマジでつらかったです。コロナ禍でリモートワーク生活を続けるなかで、自宅健康維持派として頑張っていたんですよ。じんわりとストレッチをしたり、散歩で7000歩分は動くようにしたり。あとはバーピージャンプって筋トレでHIIT(高強度インターバルトレーニング)をやったりね。それでも体がモヤッとしてくるし、気をつけないと睡眠が浅くなってしまう。コツコツとやっていたんだけど、なんとなくスッキリしなくて。こんな人はけっこういるんじゃないかな?それであまり深く考えないで、ジムに行ってみたんだよね。そこのジムがけっこう当たりな場所でして、レッスンは大きく3つに分けられているんですね。・ひとつめは、いま一番はやっているHIITが朝イチのタイミングや夕方にあって、仕事前や仕事がダレてきたタイミングでできるということで大人気。・ふたつめは、ボクシング・キックボクシング・ブラジリアン柔術などの格闘技メニューがマジ半分、コンディショニング半分のちょうどいいガチ感で学べるので初心者も上級者も両方在籍している。・みっつめは、ヨガ・ピラティスや、それらを活かしたストレッチや体のリカバリーを中心としたメニューで、特に主婦の奥様方に大人気。これだけでもうたくさんやりたいメニューがあるのに、筋トレ用のマシンも整備されているんですね。俺は使い方がわからないし、人生でまともな筋トレをしたことがないのでマシンは未だ一回も使ったことないですけど。習い事を長く続けるコツは…でね、結局は習いごとになると飽きないなーと思わされたんですよ。自分が知らなかった未知のことが、手に負えるサイズ感で渡されることは、ほどよい刺激と張り合いになるわけです。これが大事だったんだな、飽きない、ボケない、ダラけない秘訣だったんだなぁ、と。これは自分が未経験の格闘技をやっているから特にそう感じるのかもしれません。たとえばジムに行くと小さな課題が見つかるんですね。一例を挙げるとミドルキックって誰でもできるように見えるけど、要素を分解してひとつひとつを身につけないとダメなんですよ。そして、それを繰り返して繰り返して、やっと身につく(頭で考えずに体が勝手に動く状態になる)わけです。前足を前方にステップしながら、後ろの手を振り上げて、上半身のねじれをつくると下半身がそれについてきて、足を蹴り込むと同時に振り上げた手を一気に下ろして上半身をツイストすることでバランスを取りながら、インパクトする。こういう複雑な動きをささっとできるようになる必要があるわけですね。で、自主練をして次のレッスンに行くと、今度は微妙にちがうところで他に気をまわさなければいけないことが出てくるわけです。たとえば足を振り上げるよりも先に手を振り上げないといけないのに、それができていなかったりするわけです。変なクセがついてたりね。1回目から完璧に習得できるものなんかもう全然なくて、コツコツやっていくもんなんですよね。反面、自宅のストレッチや散歩って課題が見つからないんですよ。手を出しやすいし、確実に身体にも良いことなんだけど、地味で淡々としすぎていて、つまらない。つまらないことなので、精神的にもスッキリしない。そういうことなのかなぁ、と思いました。これは性格とかもあるのかもしれないですが。自分の身のまわりのセンスがいい人は、面白いほど「習いごと」を始めているのを感じる。健康・美容への投資はもはや当たり前で、その先としての習いごと。それはリモートワークで時間の都合がつきやすくなったことが理想なのは間違いないんだけど、そういう実務的な意味合いだけではなく、この未知のものにふれる機会をつくることの精神的・肉体的な効用を潜在的に感じているんじゃないだろうか。今回のテーマはジムにしたものの、ジム自体にあまりこだわりはなくて、自分にとって大きいのはジムを舞台にした「習いごと」を始めたことである。この機会にいろんなことをかじり倒してみようかなと思っている次第である。それはそうと、ジムにおける人間関係っていうのもほど良いよね。そのクラスでしか会わない。ちょっと鬱陶(うっとう)しくなれば、その場から自分が(にこやかな顔をしながら)離れればいい。サンドバッグをたたいたり、マシンを使っていれば、話しかけられることもない。それでいてなんとなく顔なじみができていく。ゆるいつながりの代表のような場所だなーと。そして普段、何をやっているのかまったく想像がつかないのが良いんだよね。職場でも、自宅でもない、いわゆるサードプレイス的な空間の面白さってことだよね。
2022年03月03日コラムニストの桐谷ヨウさんによる連載「なーに考えてるの?」。ヨウさんがA to Z形式で日頃考えていることや気づいたこと、感じたことを読者とシェアして一緒に考えていきます。第32回目のテーマは「F=Finesse(フィネス)」です。「フィネス」って知ってる?ワインの世界にフィネスという表現がある。「このワインは卓越したフィネスを持ち合わせている」というふうに使われる言葉である。厳密な意味合いは難しいんだけど、「優雅」で「繊細」で「上質」で「匠の技」で「気品がある」みたいな言葉をブレンド(ワイン界ではアッサンブラージュと言います)した感じが、一番ニュアンスが近いのかな、と。まぁ、とにかくかなりイケてるワインへの褒め言葉です。ワインという飲み物はかなり面白くて、幅が広く、奥が深い。まぁとにかくうんちく好きにはたまらない要素があるらしい。やはりオタク気質の人、アカデミックなことが好きな人がハマる傾向にある。自分はうんちくも嫌いじゃないけど、本格的に学び始めると(例…ワイン・エキスパート=ソムリエと同じような資格の取得を目指すなど)、受験勉強の暗記なみにしんどいので、ほどほどのところで止まっている。ワイン自体には、10年くらい前から興味を持っていたんだけど、本格的に飲み始めたのはここ数年である。テイスティング会に行ったり、知り合いのワイン会に呼んでもらうことで、自分ではなかなか買うことができない金額のワインを飲む機会がめちゃくちゃ増えた。それで思うことは、本当に良いワインは、おいしいのである。安くてもおいしいワインはたしかにある。だけど、一定のレベルを超えたワインを飲むには、一定以上の金額を出さなくてはいけないことにも気づかされた。それはやはり、ワインを作るのにアドバンテージを持った限られた土地(テロワール)で、匠の技を持った醸造家が丹精を込めてつくるから、それなりの金額になってしまうのである。さらにワインの場合は、その希少性が投機的な側面を持ってしまうので、一部の伝統のある銘柄やカルトワインと呼ばれる銘柄は、バカみたいに高くなるのである。と、ここまでワインの話を進めてきたが、今回の本題はワインではない。(ワインはWINEかVINOの回でやらせてください)人に対して、どういうときにフィネスを感じるか?というのが今回のテーマである。人間関係の“フィネス”緊急事態宣言が解除されてから、会いたい人にはそれなりに会うことができるようになって、「この人はたまらないなぁ」とあらためて感じさせてくれる人が何人もいた。一方、なんなら会っても会わなくてもどっちでもいい人との会にお呼ばれしたりして(段々とそうなりませんか?)、「んー、微妙だなぁ(向こうも思ってんだろうけど)」と感じる会った後の満足(不満)感、自分の言葉で言うと、「対人の読後感」にギャップがあったのである。俺なりに現状分析をすると、みんなコミュニケーションの機会が減っているので、コミュニケーション能力が誰しも下がっているのである。そうなると血肉化したその人のむき出しのコミュニケーション・スキルが露出してくる。そこに快・不快を感じるのであろう。そして、こういうときに快を感じさせてくれる人、少なくとも不快感を感じさせない人は、自分にとって本当にフィットする人ということなんだろう。さてフィネスを感じさせるという側面で、「優雅」で「繊細」で「上質」で「匠の技」で「気品がある」人って、やっぱりなかなか、いない(笑)。ただ、ここ最近の酒席で感じたのは、「余裕がある人は素晴らしいな」ということである。男でも、女でも、年がいってても、若くても、余裕を感じさせる態度を取っている人は、他人に快を与えられるんだな、ということである。コミュニケーションにおける「余裕」をひとことで言うのは難しいけど、自分のエゴを制御できるということだろう。これをとにかく喋りたい。自分が主役になりたい。そういうものは一切なく、他人のコミュニケーションをうまく受け止めて、巧みに打ち返せる人というか。そういう人ははた目にも優雅に見えるし、繊細なバランス感覚を持っていると感じるし、他人をむげにしない意味で上質な付き合い方を知っていると思えるというか。俺の観測がうがっているのかもしれないけど、コロナ禍の影響なのか「俺(私)論」をぶちまけたい人がちょっと増えたように思える。自分の思いを、考えを、どこかにぶつける機会が激減しちゃったからだろうか。アウトプットの便秘がもたらす弊害のように思える。荒々しく他人に対してぶつけている人が散見されたように感じているのだ。自分なんかはちょっと面白いなぁと思いながらそういうのを聞いていたのだけど、人によっては人付き合いのうっとうしさをひさしぶりに思い出しているのではないだろうか。2022年はどんな年になっていくだろうか。このままコロナが本当におさまっていくのか、人々の共通見解がもう必要以上に気にするのはやめようとなるのか、まだもう少しだけ終わりない尋常でない日常を過ごすことになるのか。そのなかでリアルで対面したときの他人のコミュニケーション・スタイルがどのように変わっていくのか、楽しみである。しばらくは「余裕」という切り口で、他人の言動を見つめて、自分自身の振る舞いを戒めていきたいな、と感じている。
2022年02月24日コラムニストの桐谷ヨウさんによる連載「なーに考えてるの?」。ヨウさんがA to Z形式で日頃考えていることや気づいたこと、感じたことを読者とシェアして一緒に考えていきます。第31回目のテーマは「E= Eel(うなぎ)」です。うなぎ、大好き!鰻が好きで好きで、たまらない。小さい頃から大好物で、当時は焼肉よりも好きだったかもしれない。2015年からは毎年、夏になると川越まで鰻を食べに行くプチ遠征をしている。東は川越、西は柳川という感じで、城下町だったため川魚がおいしく、江戸時代から鰻が有名だったのである。このお気に入りの店には、延べ10人くらいの友人を連れて行き、全員が「本当においしかった」と舌鼓を打っている店なのである。僕の身近な人は鰻が好きな人が多いけれど、人によっては見た目がグロテスクに感じるとかで、いまいち好きになれない人もいるらしい。個人的にはちょっと残念というか、好きになってほしいなぁと思うのだけれども……。せっかくなので鰻のウンチクを語ってみよう。蒲焼は「串打ち三年、裂き八年、焼き一生」と言われるようです。すべての調理は火入れが大きな役割を担っています。この時点で、関東と関西では大きな差があります。まず僕の出身の関西では、焼きオンリーです。したがって表面はこんがりパリッと仕上がっていて、中身はジュワッとしているんですね。関東では、ご存知のように蒸します。したがって表面がふわふわ、中身もトロッとしているんですね。だから、関西出身の友人で「関東の鰻を好きになれない」と言っている人もいました。それくらいに食べたときの印象がちがいます。また、商人文化が根強い関西では「腹を割る」ことは良いことなので、鰻を腹開きにします。しかし、武家社会の関東では「切腹」を連想させるため、背開きにされています。さばく工程でもそのような文化的背景による差異*があるのです。*諸説あります。浜松では関東風、関西風両方食べられる!それでは東西文化のボーダーライン、国境線は一体どこにあるか?それが浜松なんですね。有名ですよね、静岡の鰻。どうやら市内には100軒くらいの鰻屋がひしめいているらしく、面白いことに関東風と関西風が同じエリアで食べられます。ちなみに浜松といえばうなぎパイ。これは「うなぎパイV.S.O.P.」が圧倒的にうまいですよね。西は西でも、福岡まで行くと鰻丼のスタイルが変わります。柳川の特徴はせいろ蒸しスタイル。タレを表面だけでなく全面的にからめたお米×蒲焼の鰻×錦糸卵のコラボレーションを蒸したヘビー級の一品です。僕は時間の都合上、2時間差でちがう鰻屋で食したのですが、さすがに胃がヤられそうになりました。。うなぎの旬は冬!そして「土用、丑の日」は大々的に鰻のプロモーションが行われるタイミングですよね。なんとなく鰻がいちばんうまい時期だと思っている人は多いでしょう。あれ、違いますからね!鰻の本当の旬は冬(!)なんですが、江戸時代、夏場に売り上げがたたずに困った鰻屋からの相談を受けた鬼才・平賀源内がプロモーションとして土用の丑の日に「う」のつくうなぎを食べようと宣伝した──と言われています。現代においてコンビニまで大々的に押し出すようになるとは、平賀源内も思っていなかったことでしょう。といいつつ、俺も冬になると出不精になってしまって、本当の旬のタイミングで川越まで行けてないんですけどね……。最近まで「鰻を食べる」といえば「鰻重をオーダーする」という意味だった。そこに疑問を持ったことはなかった。俺的鰻重至上主義。ご馳走というか、高級感があるように思われているし、立派なお重に入っているけど、それでいてブツ自体はちょっと下品なジャンクフードに見える佇まいもあるっていうかさ。ヒタヒタにタレが掛かっちゃってさ。そういうところが良いんだよね。で、最近では「白焼き」をトッピングするようにもなってきたよね。鰻丼が来るまでの前菜的な扱いで、白焼きを醤油とかわさびで、日本酒と一緒につまむわけです。これ大人になったなーという気持ちと一緒に味わえますから。あんまお酒飲めない俺でもそう思うわけですから。米がないときでも失われない鰻の魅力、タレがなくても輝く鰻の味、そういったものを分かるようになってきたようです。おすすめの鰻屋さんは…最後に、俺が食べておいしかった鰻屋さんを紹介します。記載順とおいしさは、あえて順不同にいたします。・川越古くからの名店、小川菊(おがきく)。良くも悪くもクラシックスタイルの妙という印象です。2階の和室は畳の上にテーブルが置かれていて、個人的には好き。ハコの雰囲気が抜群に素晴らしいのは、東屋。古い家屋をそのまま生かしているんだけど、この空間で飲み食いをするだけで幸せな気持ちになれます。比較的新しくできたのは、米屋を改築したらしい林屋。唯一無二の二度蒸し二度焼きスタイルが絶品です。名前はふざけているが、味はたしかなぽんぽこ亭。僕の親友は川越でここがいちばん好きならしい。焼いているところをカウンターから見られるのも楽しい。・福岡意外にも市内でおいしかったのは、吉塚うなぎ屋。せいろ蒸しではなく、通常スタイルですが、うまいです。観光者(出張者)にとっては郊外に出なくても食せるというのがポイントが高いです。・柳川柳川のせいろ蒸しスタイルで名高いのは、元祖本吉屋と若松屋。正直なところこのスタイルを食べ慣れていないので評価が難しいんだけど、市内で食べた2軒のせいろ蒸しスタイルとは圧倒的にちがうおいしさでした。柳川へ観光する機会があるときにはぜひ。・浜松出張の際に、現地の仕事仲間に「地元の人がおいしいと使っている店を教えてください」と聞いて、連れて行ってくれたのが「かんたろう」。いまは「あおいや」って店名に変わってるらしい。関西風を食せるので、関東スタイルしか食べたことがない人は、ぜひ食してみてください。そういえば英語のeelには、「鰻」という意味だけでなく、そこから転じて「つかみどころのないやつ」という意味があるらしい。つかみどころのないやつって、魅力的ですよね。
2022年02月17日俳優の桐谷健太が、16日に3年3カ月ぶりの新曲「遣らずの雨と、光」をリリースすることがわかった。同曲は、沖縄・コザを舞台にした主演映画『ミラクルシティコザ』(4日公開)で、桐谷演じるロックスター・ハルが、恋人に向けてギターの弾き語りで歌う「マーミーの歌」を原曲にしたインスパイアソング。劇中では1番だけだったものをフルサイズで新たにレコーディングし、サウンドプロデュースには元THE BOOMの宮沢和史を迎え、ドラマティックなサウンドに再構築した。映画の映像を使用した「遣らずの雨と、光」~映画『ミラクルシティコザ』Ver.が、YouTubeで公開中だ。コメントは以下の通り。■桐谷健太遣らずの雨(やらずのあめ=帰ろうとする人をひきとめるかのように降ってくる雨)は、愛する人との空間にいつも透き通った装いで降っている。映画の劇中でハルという男が歌った唄であり、新たな自分に触れたように感じた唄でもあります。誰かの夜に染み入るよう祈っています。■宮沢和史人は心の底から伝えたいことがあるとき叫ぼうとしますそれができないとき沈黙か泣くことを選びます。この歌の中に桐谷さんの中に棲む役者でも歌手でもない、ひとりの人間の心の声が記録できた気がしました。それは叫びでも、沈黙でも、涙でもない、静かな静かな独白でした。
2022年02月04日コラムニストの桐谷ヨウさんによる連載「なーに考えてるの?」。ヨウさんがA to Z形式で日頃考えていることや気づいたこと、感じたことを読者とシェアして一緒に考えていきます。第30回目のテーマは「D= Development(伸ばしたこと)」です。2020年4月に緊急事態宣言が発足して以降、俺の身近な人は「健康」か「美容」のどちらかに目覚めている人が多い。大体はどちらかである。類は友を呼んでいるだけなのか、人のジャンルに関係なく全国的世界的にそうなっているのかはよく分からない。ただ、Betの回で書いた「時間」「お金」「気持ち」の向け先が少なくなって宙吊りになった結果、自分に向けるようになって、そのふたつを選ぶ人が多いということなんでしょう。というわけで、俺が取り組んでよかった「自己開発・自己成長」を紹介していきます。お箸の持ち方の矯正ふと思い立って始めたのが、お箸の持ち方の矯正です。もともと極端に汚い持ち方ではなかったのですが、箸がクロスしてしまっていたので、見る人がみたら「うわぁ……」と思われていたかもしれません。これまで2〜3回、大人になってから矯正した経験がある人たちに「直せるから直してみたら?」と言われて「いつか」と思っていたんですよね。外食する機会がない今こそ直す絶好のチャンスだと思い、ふと思い立って矯正箸を購入したり、矯正するための動画を何回も観たりして、特訓をしました。二ヶ月くらい経過したいまはおおよそ使えるようになりましたが、重いものを掴んだり、かたいものを挟み切ったり、麺をつかむのがまだできない……。やはり30年近く培った指先の運動神経とは強固らしく、修正には時間を要しております。個人的にはお箸の持ち方をウダウダ言う奴はウザいし、お箸の持ち方で躾や育ちが決まるとはまったく思わないのですが、ちょっと調べていくともっと詳しくなりたいと思うようになりました。寄せ箸とか迷い箸とか有名なマナー違反だけでなく、「あっ、これダメだったんだ?」って発見があったり、箸は横じゃなく縦で使うのが美しい……みたいなことを言っている人もいたりで。日本で生まれ育った者として、日本に興味を持った外国の人にちゃんと伝えられるようになりたいな、と思っております。永久脱毛自粛期間に関係があるかはともかく、永久脱毛もオススメです。担当の美容師さん(少し下の世代の女性)も、このタイミングでさらなる領域へと脱毛を始めたようです(VIO)。本当に永久脱毛になるのは、医療レーザー脱毛だけになるわけですが、期間を空けて何回も打たないと完成しないんですよね。ちまちまと打ちに行かないといけない。いまチラッと思ったんだけど自粛期間ってちまちましたことと相性が良いんだよな。いままでやろうとしていても、後回しにしていたこまごましたこと全般……。なお、俺はヒゲ、妻はワキを永久脱毛できれば良かったので、家庭用で唯一レーザー脱毛ができる「トリア・パーソナルレーザー脱毛器プレシジョン」を購入しました。クリニックを予約してちまちまレーザーを打ちに行くほど大掛かりな箇所ではないので大正解でした。すね毛や腕毛を完全に処理したいような人は向かないと思うけど、部分的な脱毛には十分だし、女性でもよくある膝頭にぴょこっと生えてるやつを抹殺するのにも使えますよ!(笑)こちらはこれからも気長にレーザーを打っていこうと思いますが、マジモノのレーザーだけあり、痛い……。アイスノンで冷やしながら打っても、ヒゲは涙が出そうになる……。ワキは大したことないようなのでご安心ください。YouTubeで見たところ麻酔クリームを利用しているツワモノもいましたね……。購入した脱毛器。大きさ比較のために隣に目薬を置きました。ホームホワイトニング歯を真っ白にしました。15年以上、タバコとコーヒーでいじめまくっていた歯が、黄色かったんですよね……。というか、30歳を過ぎた人は、ホワイトニングの検討をしてみる価値があると思います。犬歯に関しては、気になる人もけっこう多いんじゃないかな?検索してみるとホワイトニングの違いは、こんな感じで書かれていることでしょう。オフィス……歯医者でやってもらえるから労力がかからない。短時間で一気に白くすることができる。そのかわり色戻りが大きく、早い傾向がある。ホーム……時間がかかる(日に2時間を最低2週間、完了まで数ヶ月かかる)。ただし、色戻りが少なく、遅い。デュアル……両方やることで、相乗効果が発生。おたがいのデメリットを補完できる。どちらかだけやるよりも白さの限界値が上がる。オフィスホワイトニングだけで真っ白になった知人もけっこういますが、俺は色戻りが大きかったんですよね。なんか真っ白になるような気がしなかった。それでちまちましてめんどくさいけど、自宅で自分でできるホームホワイトニングをためしてみたという流れ。結果、大成功!あとは審美的な観点はもちろん、健康上でもメタルフリーにするために、けっこう多い銀歯をセラミックに置き換えていっています、これまたちまちまと……。人それぞれ、ちまちまと取り組む「自己開発・自己成長」はちがうことでしょう。ですが、今日挙げた3つは誰にとっても取り組んで損はないものかなー?と。どれか興味を持ったものを試してみてください。
2021年12月17日コラムニストの桐谷ヨウさんによる連載「なーに考えてるの?」。ヨウさんがA to Z形式で日頃考えていることや気づいたこと、感じたことを読者とシェアして一緒に考えていきます。第29回目のテーマは「C= Colorlesscalendar(カラーレスカレンダー)」です。ほぼ緊急事態宣言中だった東京今年の東京はずっと緊急事態宣言だった。この記事が出る頃は解除されているはずだけど、この原稿を書いている9月末時点までは、何も発令されていなかった期間は3週間ほどしかなかったらしい。ワクチン接種が国民の過半数を超えたとはいえ、変異株に関するレポートを見ていると、まだまだワクチンパスポートを免罪符にできる状態にはならなさそうだなぁと感じる。んー、それよりみんな思っていることだと思うけど、「いい加減にしてほしい」と「しばらくは我慢せざるを得ない」という感じである。この1年半ほど付き合ってきて思うことは、やっぱりコロナ禍の世界はぜんぜん楽しいものではないということだ。どんな前向きに捉えて、自分磨きをしていても、やっぱりそうだよ。つまんねぇ。なんというか、カレンダーから色がなくなったような気分なのである。カラーレス・カレンダー。おお、ちゃんと両方ともCになっている。のっぺりとした灰色のカレンダーを、淡々と毎日めくっているかのような気分である。日々それなりに楽しさを見つけてはいるのだけど、それでもいろどり豊かにはならない。ただ、それ以上に不思議なのは、なぜここまで季節を感じづらくなるんだろう?ということである。春になれば、例年どおり桜はちゃんと咲く。それなのに春って感じのぽわぽわウキウキした感じがまったくしない。お花見は行かない年のほうが多かったくらいなので、自粛が関係しているとは思えないのだけれど……。今年の夏も暑かった。だけど、終わってみると夏があったのかなかったのか曖昧な気分になってしまう。花火大会も帰省も確かになかったけれど、それだけが理由ではない気がしている。とにかく不思議である。自粛することでイベントがなくなっているのは確かに影響している。だけど、毎年のようにやっていたわけでは(俺に関しては)ないし、なぜここまで季節感がなくなってしまったんだろう、と。何によって俺たちは季節を感じていたんだろう?と混乱しているのが、正直なところ。花の名前を覚えたいさて、少し話を変えてみましょう。みなさんは「花札」というものを知っているでしょうか?日本に昔からあるカードゲームなんですが、古い映画とかでオイチョカブというギャンブルをやるときに使っているものです。これがですね、俺はすごく好きなんです。オイチョカブじゃないですよ、花札の表現の仕方です。花札にはそれぞれのカードに数字がいっさい書かれていなくて、ただ花の絵が書かれているんですね。その花が旧暦上の「月」に対応していて、それがそのままカードゲームにおける「数字」として使われているわけです。列挙すると、こうです。1月……松2月……梅3月……桜4月……藤5月……杜若(かきつばた)6月……牡丹(ぼたん)7月……萩8月……芒(すすき)9月……菊10月……紅葉(もみじ)11月……柳12月……桐(きり)歴史的なことをまったく調べずに書いているので間違った感想かもしれないんですけど、これがとても「粋」だなーと感じるわけです。その月に咲く花で、どの月かを連想させてしまう。その隠喩的な表現が、すごくカッコいいなーと思っちゃうわけです。逆にいえば、この花が咲くのは何月である、という共通認識がかつては存在していたということです。いつからか花札のために覚える、というふうに変わっていったんでしょうけど。そういえば花つながりで言えば、ここ数年なんとなく花の名前を覚えていきたいなーと思っているところだった。ろくに興味を持っていなかったので、道端や公園で花を見かけても、どんな花なのか分からないのである。もっと花の名前を知っていれば「この花が咲く時期になったのか」とか「こんなところに咲いている」とか「いつでもどこでも咲けるこの花の生命力はすごいなぁ」みたいなことを思えるようになると、もっと世界を見るのが面白くなりそうだから。暦に躍動感を持たせるのは、自分の工夫ではなかなか難しいところがあるけれど、毎日のいろどりを鮮やかにしていくことは少しだけできる。そこに目を向けていきたいなぁと今日も思っています。
2021年12月10日コラムニストの桐谷ヨウさんによる連載「なーに考えてるの?」。ヨウさんがA to Z形式で日頃考えていることや気づいたこと、感じたことを読者とシェアして一緒に考えていきます。第28回目のテーマは「B= Bet(賭ける)」です。ギャンブルはしないけど…ギャンブルにおいて、すべてをかけた勝負のことをFull Betと言うようです。日本語でいうと「全振り(ゼンフリ)」みたいなニュアンスなんだろう。俺個人はギャンブルをまったくしないのだけど、ギャンブルに使われるゲーム自体は、すごく興味があるほうです。ポーカーはもちろん、麻雀、競馬、競輪から競艇まで。ゲームとしてハマる要素がすごくあるんだろうなぁ、と薄い興味を持ち続けています。あっ、麻雀はお金を賭けるとイリーガルなんだっけ。*ギャンブルがそこはかとなく匂わせる「人生訓チックなもの」はなんなんだろうか。それこそ阿佐田哲也さんの教訓をこのコラムでも紹介しましたが……。とある尊敬する人は、かつてギャンブルが好きだったようで、特に大穴に賭けるのが大好きだったようです。しかも身を滅ぼすような金額をブチ込むのが好きだったようで、仕事のお金まで突っ込んでいたらしいので負けていたらいまの自分はなかった……みたいなことを書いていました。その人は、ギャンブルの極意として「勝負の数を絞り、なるべく賭けない」という考えに至ったようです。たしかに確率論としても、勝負の母数を増やせば増やすほど、結果が単純な期待値に収斂されていくので少数の勝ち組になることは不可能になるのでしょう。また、他の人は、勝負は勝ちどころで厚く賭けて、負けるときにいかに薄く賭けるかのゲーム、と言っていたりもしますまぁ、「ギャンブルはやらないに越したことがない」という当たり前の結論なんでしょうね(笑)*賭け麻雀は違法行為です。私たちが賭けている「大事なもの」さて、俺たちもいつだって自分の「大事なもの」を賭けていると言えます。それを注ぎ込む対象は、人のこともあるでしょうし、夢中になっている物事かもしれない。その大事なものとは、「時間」「お金」「気持ち」の3つしかないと考えています。時間は、すごく大事にしている人もいれば、無頓着に浪費していくタイプの人もいます。それでも誰かが自分のために時間を使ってくれるということは非常に有難いことですし、だいたいのコンテンツというのは誰かの時間をいかに奪っていくかに心血を注がれたものです。お金は、いちばん大事なものではないけれど、ほとんどの人は自分にとって大事ではない人にお金を使いたくないでしょう。あるいは、好きでもないものにお金を払わないでしょう。ある程度までは、愛情なり愛着なりとの相関関係があるように思います。最後に気持ちです。よりイメージをしやすい言い方をするとアテンション(注意、注目)でしょうか。人は誰しもがアテンションを向けられたいと思って生きている。そんななか自分を無視しないで注意を注いでくれる人を、人は好きになります。あるいはクールに見える人というのは、自分がアテンションを注ぐ相手を絞りに絞っているだけ、とも言えます。「時間」「お金」「気持ち」。どれも個人にとって有限なリソースです。人によってキャパシティのデカさに違いはありますが、上限は絶対に存在しています。自分が、それらをどのように割り振って使っているか?個人的にはあまりロジカルに考えすぎると息が詰まってくる領域のように思えます。だけど、自分のライフスタイルに応じて、ときどき見直すべきなんだと思います。家族をなによりも大事にしたいと考えているのに、仕事に時間を使いすぎたり、趣味にお金を使いすぎたり、パートナーの前で上の空で仕事のことを考えていたら、それは優先順位をまちがえた生き方をしていると言えます。あるいは、限られた期間であれば何かひとつのことにこれらをフルベットして注ぎ込むことで、普通ではできないような結果を出すことが可能になるでしょう。短期間で仕事で成果を出したり、趣味の資格を取得したり、誰かを徹底的に愛するなんてことも含まれるでしょう。人は、往々にして自分の気持ちと行動が一致しないことがあります。そんなとき自分の「時間」「お金」「気持ち」をどこにどれくらい使っているのか、そういったことを冷静に見つめてみる。そして、ときどき見直していく。それだけで客観的に状況を把握できたり、冷静になれたりするのかなぁと思います。ためしてみてください。
2021年11月26日コラムニストの桐谷ヨウさんによる連載「なーに考えてるの?」。ヨウさんがA to Z形式で日頃考えていることや気づいたこと、感じたことを読者とシェアして一緒に考えていきます。第27回目のテーマは「A=Adjust(調整)」です。調整は「突破する力」がない人の処世術?かつての自分は、調整という言葉に、いくぶんネガティブな響きを持っていた記憶がある。たとえば、ベストアンサーにたどり着くことができないから、調整(妥協)をかけて何とかする。大きな仕事ができない人間だから、細かい調整役(些事係)を担当する。乱暴に言ってしまえば「調整」とは、「ぶっ飛んだ力」や「突破する力」がない人の処世術である──というニュアンスを感じてしまっていた、というか。特に若い頃はそんなふうに考えていた気がする。いま思えば、なんて勘違いをしていたんだ!って話なんだが。社会人を長くやっていると、仕事とは調整ごとの連続であることに気づく。利害関係がちがうなかで、なんとか着地点を合意しようとする。あるいは金額と品質と期間の折り合いを、うまくつける。案件に道筋が決まっていなくてグチャグチャしてしまっているから、まずは交通整理をかけていく。社外、社内を問わずに人間関係のもつれた綾を、うまくほぐしていく。業界や職種はちがえど、そういったシチュエーションに誰しもが出会うことだろう。そして、これらはその手腕によって、案件の成否が左右されるほど重要なものである。よく聞く地味であるあるな厄介ごとほど、根が深くてタチが悪いものなのである。実は自分が社会人としてバリューを発揮しているのはこういった部分も大きくて、なかなかシステマティックに解き解せない状況で、感覚的になんとなくうまく調整できてしまうのが大きな武器となっている。顧客をなだめたりすかしたり、あるいはこれしかないという方法に割り切って攻めていくことで、わりと良い感じに終わらせることができる(そして、ここがミソなのだが、きっと本当の意味でベストなやり方ではない!)のが、ウリになっているのである。最初の頃は、ロジカルシンキングを頑張ってやってみるけど、なんか合意形成が得られない……みたいなことが多かった記憶がある。恋愛を中心としたいろんな人との交流のなかで、「他者が満足しなくても、納得するのはどういうラインであるか」だったり「期待値が高いときにそれなりのものを持っていっても喜ばれないが、期待値が低ければそこそこのものでも喜んでもらえる、という期待値コントロールを頑張る」ということの重要性を、仕事に転用できるようになってからうまく行きだしたような気がする。こういった「調整スキルが上がった99のきっかけ」みたいな本を出すと、売れるかもしれない。ワンチャン、マーフィーの法則を越えるかもしれない。大人になる=調整力を身につけること?それにしてもビジネスにおいて「この件、調整しといて」「自分が調整しときます」「ここは調整ですね」って感じで、何でもかんでもチョーセイと言われる。そもそもチョーセイって何なんだ。とりあえずめんどくさいことを片付けといて、くらいのニュアンスで言ってる感じもするよな(笑)。そしてadjustという言葉で連想することはもうひとつ、特定の状況における身のこなし方についてである。身のまわりの人たちを見ていると、20代の頃はそれなりに尖っていた人たちも、30代になるとそれなりに状況に対応できるようになっていった人が多い印象を持つ。もちろん自分だってそうで、昔は理由なくムカついて噛み付いていたようなことがどうでも良くなって、その場がスッと通りすぎるなら、スルーしたり、適当に合わせることができるシーンがかつてよりも多くなった気がしている。ある意味では成長であり、ある意味では感情とプライドの劣化と言えるだろう。先日、オンライン同窓会で飲みながら喋った同期たちは、アジャストできるようになってきた自分に対する自信と、よくいる大人になってしまった自分に対するちょっとした残念さと、まだまだ機会があればはみ出したいと思っている野心がブレンドされてるように見えた。30代中盤もまだまだ面白い年代だなぁ、と同期を見て思わされた。それにしても、adjustじゃない仕事ってなんだろう。クリエイティビティを要求される仕事ということだろうか。状況にadjustしない自分とはなんだろう。どんなときもブレない自分を持つということであろうか。どちらも微妙にちがっているような気がする。おそらくほとんど幻想のような「理想の仕事像」や「理想の自分像」に囚われているために感じる疑問ということなんだろう。最近では仕事に関する相談を受ける機会がどんどん増えてきたけれど、いくつになってもつきまとう疑問のようである。「はたらく」において仕事のadjustと、自分のadjust。何を得られれば自分は本当に満足なのか、あるいは全てが満足できる働き方って果たしてあるのだろうか?いろいろな人が抱えている葛藤につながる、奥が深いテーマが眠っているんじゃないだろうか。
2021年11月19日コラムニストの桐谷ヨウさんによる連載「なーに考えてるの?」がスタートしました。ヨウさんがA to Z形式で日頃考えていることや気づいたこと、感じたことを読者とシェアして一緒に考えていきます。第24回目のテーマは「Z=Zzz(睡眠)」です。ショートスリーパーに憧れた時期もあったけど…睡眠が大好きです。睡眠ほど人を幸せにするものは、それほど多くないのではないでしょうか?それくらいに愛しています。そして、人が睡眠について語るとき、大体はこのふたつに大別されるなーと思っています。「睡眠は活動の質を担保するのにもっとも重要。先に時間を確保するべきで、絶対に睡眠不足になるべきではない」「睡眠は活動できる時間が減ってしまうので、無駄である。とにかく短いにこしたことはない」前者は睡眠ファーストの生活を送り、後者は短眠法を身につけ──あるいは無理やりに身体に馴染ませ──て、いかに起きている時間を延ばせるかを考えて、生活をしているようである。睡眠を重要視している人は、どちらかのスタイルを取るようになるし、特に意識していない人はその日の活動によって睡眠時間が変わる日和見スタイルになっているのであろう(フツーに柔軟なスタイルといえば良かった)。俺も過去には短眠法に憧れたことがあります。たとえば1日の睡眠時間が4時間半で済むとしたら、どれだけ1日の充実度が上がるだろうか。夜遅くまで人と会って(コロちゃん前の話ね……)、帰宅後は気になっている本や漫画を読んで、明日のために4時間半だけ眠り、もちろん遅刻をせずに会社へ意気揚々と行く。こんなライフスタイルに憧れたんですよね。いや、まぁこれが見事に無理なんですよ。体質のせいなのか、根性のせいなのか、もう若い頃から睡眠が6時間を切るともうムリ。次の日に使い物にならない。何度かチャレンジしてみようと思ったことがあったんだけど、結局のところ身につかなかったので、もう短眠スタイルはきっぱり諦めて10年以上が経ちました。それにしても睡眠ってめちゃくちゃ面白いんですよ。人間の活動のなかでも、かなり独特な存在です。まず睡眠は人間に欠かせないもので、数日間寝かせないと死に至るという話を聞いたことがあるのではないでしょうか?それだけ重要な活動でありながら、その正体やメカニズムは解明されきっていないのです。肉体の疲労を回復させる、脳内をリフレッシュさせる、短期記憶を長期記憶に定着させる、さまざまな働きを持っていることは言われています。だけど、そもそもなぜ眠くなるのか、どうして入眠時間は狂ってしまうのか、なぜ同じ時間の睡眠を取ってもスッキリしないのか、スッキリしたと思っていても実はたいして回復していなかったり、奥がめちゃくちゃ深い活動なのです。このあたりは中途半端に俺が説明しても、まったく面白くないのではしょりますが、興味があったら書籍やYouTubeで専門家がしゃべっている内容にふれてみてください。これだけ身近な存在でありながら、まったく正体を分かっていないことに愕然(がくぜん)とします。そして、もっと興味を持ってしまうことでしょう。良質な睡眠を追求しようさて、睡眠を愛する皆さんにはゲームに参加してもらいたいと考えています。それは「深い睡眠をいかに取れるかゲーム」でございます。これがなかなかに難しい。俺の尊敬している年上の方たち、かつては寝る間を惜しんでハードワークをしていたようだけど、みんな揃って睡眠時間をきちっと確保して、いかに良質な睡眠を取れるか自分なりに追求してらっしゃるんですよね。その気持ちは若輩者でありながら、非常に分かります。まずは日中のハッピー感と、アクティブさがまるで変わる。睡眠時間を削って時間を捻出することが足し算だとしたら、良質な睡眠を確保することは日中の活動に対する掛け算のような効果を生むからである。そして何より、良質な睡眠の追求というゲームは、それ自体が面白く、一朝一夕では結果が出ないものなんです。長く寝れば良いってもんじゃない。10時間寝た次の日に頭と身体がボンヤリしていて、結局その日はずっとシャッキリせずにグダグダで終わってしまったなんてことも、あるあるではないでしょうか?いろいろ言われます。日中に運動をきっちりせよ。数時間前にはご飯を食べ終わっておけ。お風呂に入ってから冷めてきたタイミングが入眠にちょうど良い。寝具は柔らかすぎてはいけない。腰痛を持っている人は、実は硬い床のほうが調整にはいい。肌あたりのよいファブリックを使うことが、実は大事である……などなど。俺のオススメはスマートウォッチである。こいつがスコア化してくれる数字が、びっくりするくらいに寝起きの体感と一致しているのである。具体的には80点以上の睡眠スコアの時には目覚めが快感すぎて、その日は朝から最高の気分なのである。スマートフォンでもSleepCycleのような睡眠計測アプリがあって、なかなか精度が良かったので10年近く使ってきたけど、スマートウォッチは物理的に腕にセンサーを仕込んでいるのと同じことなので、かなり精度が高い。また、日中の活動量との関係性もかなり正確に測ることができるようになる(スマートフォンの万歩計は手元にないときはカウントされない!)。高いスマートウォッチを買う必要はないです。5,000円〜20,000円のレンジのものを使っていれば十分で、俺はファーウェイのGT2、妻はBand4を使っています。なかなか良いですよ。パフォーマンスが高い仕事がしたい人、健康になりたい人、普通に楽しくやっていきたい人。どんな人であっても、睡眠を大事にして損はないでしょう。睡眠をゲーム化して、いかに良質な睡眠を取ることができるようになるか、チャレンジしてみてください。日中の習慣づくりとはまったくちがう面白さが待っていますよ。
2021年11月12日主演に桐谷健太を迎え、日本復帰前の70年代と現代の沖縄を描いたタイムスリップ・ロックンロール・エンターテインメント『ミラクルシティコザ』より、メインビジュアルと60秒の予告編が解禁された。第3回未完成映画予告編大賞グランプリならびに堤幸彦賞を受賞し、桐谷健太を主演に迎えて映画化された本作は、沖縄・コザを舞台に70年代と現代が交錯するタイムスリップ・ロックンロール・エンターテインメント。1970年日本復帰前の沖縄にて結成された伝説のロックバンド「紫」のメンバーがストーリーに共感し、代表曲を提供しており、1970年当時の「紫」が体験した破天荒なエピソードも脚本に盛り込まれている。この度解禁された予告編は、桐谷さん演じる翔太の魂が1970年の沖縄コザへとタイムスリップし、行く先々で波乱を巻き起こすコミカルなシーンが続く。しかし後半では一転、抗えない歴史や仲間との衝突に心を傷めた翔太が「未来の俺が頑張れないと、今の俺が頑張れない」と一念発起する感動的な場面がおさめられている。また、本作の主題歌が沖縄県出身のバンド「ORANGE RANGE」の「エバーグリーン」に決定。結成20周年を迎えた彼らの楽曲が、沖縄返還50年目に公開される『ミラクルシティコザ』のエンディングをエモーショナルに盛り上げる。「エバーグリーン」の一部音源は、本予告編がweb初解禁となる。『ミラクルシティコザ』は2022年1月21日(金)よりシネマQ・シネマライカムほか沖縄の一部劇場にて先行公開。2月4日(金)より新宿武蔵野館ほか全国にて公開。(text:cinemacafe.net)■関連作品:ミラクルシティコザ 2022年2⽉4⽇より新宿武蔵野館ほか全国にて順次公開©2021 Office Crescendo
2021年11月10日コラムニストの桐谷ヨウさんによる連載「なーに考えてるの?」がスタートしました。ヨウさんがA to Z形式で日頃考えていることや気づいたこと、感じたことを読者とシェアして一緒に考えていきます。第24回目のテーマは「Y=Young(若い)」です。「今日が人生でいちばん若い日です」が沁みるワケ「今日が人生でいちばん若い日です」この1年でいちばん多くの動画を視聴して、たくさんの勉強をさせてもらったYouTuberが必ず言うキラーフレーズであります。これですね、若い頃に聞いていたら「はいはい、よくあるポジティブ・シンキングのセリフですね」と思ってたと思うんだけど、この歳になると……沁みます(笑)。思えば、年齢に対して実際の自分が追いついていないような感覚はずっと昔からあったように感じる。たとえば25歳のときは、もっといろんなことができるようになると思っていたし、30代はもっともっと大人になっていると思っていたら、案外そうでもなかった。毎年、誕生日のたびに感じるというか。この感覚は俺だけじゃなく、周囲でも同じようなことを言っている人は、多い。あくまでも身近な人では、ですが。最近、あらためて見直している言葉がある。それは「拙速」というものである。厳密な意味合いとはちがうのかもしれないけど、俺のいまの受け取り方は「ウダウダ考えずに、とりあえずさっさとやっちゃったほうがベター」って感じです。どんなに考え尽くしても、どうせパーフェクトに巧くやることはできない。それならば、拙(つたな)くてもスピーディーにやったほうが結果的に良いことが多いんじゃないか、と。それはいまの世の中が読みづらい変化の激しい世界観だからってこともあるし、そもそもなんでもやるなら早いに越したことはなかったりするからです。そう、やり始めるのが遅くて損することはあれど、やり始めるのが早くて損することはそうそうない。今までの自分の経験を振り返っても、案外そうじゃないだろうか?自分がいつ死ぬのか分からないし、寿命がどれくらい残されているのかは考えたくもないけど、まちがいなく今日というのは残された日々の初日であって、今日から始めない理由は存在しないと言えるわけです。ホワイトニング、お箸、永久脱毛…この歳になって始めたこととはいえ、そんなに大げさなことを始める必要はないと思っていて、本当に小さくて個人的な「なんとなくずっと気になっていたこと」を解消していくのが良いと思っています。たとえば俺の場合、いちばん大きなものは歯ですね。数年前から虫歯を増やさないように意識は上がっていたのですが、審美的な目線で突き進めて行くようになりました。長年のタバコとコーヒーで染まりきった歯をクリーニング&ホワイトニングして白くしていくことだったり、銀歯がめちゃくちゃ多いのでセラミックに置き換えていく施術をしています(めっちゃ金かかる!)。あとはお箸の持ち方ですね。30数年、ちょっとクロスしちゃう持ち方&使い方をしてしまっていたのですが、なんとなく直してみようと思い立って練習を始めて数週間です。なかなか慣れ親しんだ運動パターンを変えるのは苦労していますが、この歳になってできなかったことができるようになっていくプロセスというのは、楽しいものです。なにより、箸の持ち方を変えると、箸の動かし方、箸使いに気持ちがいくようになって、新しい感覚を得ていることが、面白い。これから始めるのは永久脱毛ですね。全身の毛は薄い方なので困ったことはないのですが、ヒゲですね。毎日のようにヒゲを剃るのはバカバカしかったし、生やしてみても似合ったためしがないのです。これはもう毛根を抹殺してしまおうという考えに至りました。トゥルットゥルになるのが楽しみです。非日常が日常になってしまって、好きに外出できないヒマすぎる今こそ、こういう手付かずのネタを解消して行くのにうってつけだと思うんだよね。どの年代になっても“若輩者”最後に書きたいのは、どの年齢になっても若輩者ということである。たとえば仕事とかが分かりやすいんだけど、二十代のときは問答無用で青二才扱いである。そこから数年すると担当者レベルとしては一人前になるけど、難しいことの判断はまだまだ自分ではできなかったりする。良い感じに中堅になってきても、マネージャーから見るとまだまだ視野が足りていなかったりする。その中間管理職だって、部長・部門長の世界観からすると、ツッコミを入れたくなる感じだったりする。ようは三十代は三十代の、四十代は四十代の、五十代は五十代の「その世代と立ち位置ごとの若輩者感」がある、ということである。健全に前に進んでいれば、積み重ねた年齢のなかでは新人で、まだまだ学べることはたくさんある。老化とは、変化することを止めたときに訪れる。どのタイミングでも若輩者であることを意識しながらひとつひとつ吸収していくことが大事なんだと俺は思っている。逆に、年長者として場の中でいちばん年上になることもあるだろう。そんなときはOssanの回で書いたように、とにかく聞き役にまわろう。話を振られても乗ってはいけない。年上の話は相手からするととにかくおもんないと心がけよ。いまの最新の価値観を教えてもらい、自分のズレをアップデートする機会を与えてもらおう。できることは経験で培ったコミュニケーション能力で場をうまく回すことと、年長者の流儀としての金払いの良さくらいである。悲しいが、これは胸に刻んでいきたい事実である。「今日が人生でいちばん若い日」、ともにアップデートし続けていきましょう。
2021年11月05日コラムニストの桐谷ヨウさんによる連載「なーに考えてるの?」がスタートしました。ヨウさんがA to Z形式で日頃考えていることや気づいたこと、感じたことを読者とシェアして一緒に考えていきます。第23回目のテーマは「X=X線」です。今まで見えてなかったものが見えるようになったときの衝撃唐突ですが、昔からレントゲン写真が大好きです。一時期、頻繁に整形外科に通っていたのですが、わざわざデータをCD-Rに焼いて渡してもらったりしていたくらいです。俺の写真クラウド環境には歯医者でもらった頭蓋骨やら、腱鞘炎の疑いで撮影した手指やら、CTも含めれば腰椎のデータも保管されております。なんで? と言われるとむずかしいんだけど、普段は見えないレベルの人体の組織・骨格を実際に見ることが出来るのが、なんとなくワクワクするんだと思います。さて、レントゲンの歴史を調べたことはないけど、発見&発表されたときのエポックメイキングっぷりはハンパじゃなかったのではないだろうか?なんといっても肉眼で見えなかったものが、可視化されてしまったのだ。目で見る世界とはちがうものを、写真に残すことができる。これはものすごい衝撃があったにちがいない。人体の構造といえばジャンルを超越した奇才・レオナルド・ダ・ヴィンチが死体を解剖して、骨や筋肉に関する克明なスケッチを残していたことが有名である。だけど、その人の実態については知る術はなかった。たとえば生きている人間に対して、骨折しているかを確認するためにいちいち解剖でもされようもんなら、たまったもんじゃないわけで。こういった内容は人体だけの話ではないと考えている。実態としてたしかに存在しているのに、可視光線下では見えないものが存在しているという事実は、とても面白いと思っている。紫外線や赤外線なんかがそうである。実際に存在しているのに、我々が見ることも、感知することもできない存在、光である。ちなみに他の動物は鳥やハエは紫外線が見えるようだし、ヘビは熱を感知してサーモグラフィーのように見えているようである。こういった話は「環世界」というキーワードで研究がされているようだ。それぞれの種ごとに固有の知覚世界を持って生きており、その世界観で生きている。おそらく自分にとってレントゲン写真がもたらすときめきとは、別の環世界にまぎれこむことができたかのような目眩が発生するということなんだろう。「感性のちがいが面白い」という現象も、本質的には似ている気がしている。自分と同じ世界を生きながら、目の前のこの人は自分とは少しちがう解釈で世界を生きている。その差異が知的好奇心をくすぐり、別のアングルで世界を見るきっかけになっているからなんだと思う。見えるものが変われば、判断や決断も変わる健康や幸せに関しても、同様である。目に見えないものが可視化されることで、なにか別の手を打てるようになるというのは福音である。たとえば誰かがハッピー感を感じていないとする。その理由が、神経伝達物質における特定の物質の欠乏なのだとしたら、そこが充足するためのアプローチを取れば、ただのサプリですらそれを解決することができる可能性がある。「適度な運動と充分な睡眠」みたいなざっくりしたアドバイスよりも、よっぽどピンポイントで刺さる内容になるはずである。あるいは特定の病気になっていなくても不定愁訴を感じていたとする。なんとなく気分がすぐれない、なんとなく体調がパッとしない、あくまでなんとなく。そういう場合、いまの医学では原因を特定することが難しいケースが多い。経験豊富で勘の鋭い医師が、「あるある」をもとに原因を連想してアドバイスをくれたときは原因を解決できる可能性があるけど、それはとてもラッキーケースで、大体の場合は曖昧に濁されて終わってしまう。これがいまは可視化されていない物質の増減によりもたらされているとしたら、対処は変わってくるだろう。「見えないものを可視化することができれば、アプローチの仕方が根本的に変わってくる」という事実はとてつもないことなのだ。尊敬している人が五年くらい前に言っていたことが印象に残っている。「これは人間の幸せがデザインできる時代がやってきたってことなんだよ」現在はまだ保険診療になっていないため詳細は伏せるが、近い将来に医療のスタンダードになっていくことがまちがいない先端医療の検査があり、これらが身近なのものになれば、個々人の健康へのアプローチの仕方は劇的に変わる。そういったものがどんどん出現してきている。可視化は大きなキーワードである。医学的な話だけでなく、たとえば社会のメカニズムを認識することであったり、金融リテラシーを身につけることであったり、対人関係の洞察力を磨くことであったり、そういった知識や能力を身につけることは、自分の世界をガラッと変えうるものである。見えるものが変われば、判断や決断は変わる。「人生、何歳になっても勉強が必要」これは正しいと思うのだけど、なんとなくモチベーションが湧かないフレーズである。そんなとき俺は「新しい(他者があまり持っていない)可視化ツールを手に入れられる」と考えるようにしている。他者との競争ではないにしろ、いままで見えなかったものが見えるようになることは、人生におけるさまざまなアプローチを劇的に変えうる。何よりも実態をきちんと知り、未来に進むことができるようになる。本当に素晴らしいことだと思う。
2021年10月29日コラムニストの桐谷ヨウさんによる新連載「なーに考えてるの?」がスタートしました。ヨウさんがA to Z形式で日頃考えていることや気づいたこと、感じたことを読者とシェアして一緒に考えていきます。第22回目のテーマは「W=water(水)」です。水分をとれって言われるけれど…やっと暑さが落ち着いてきましたね。「人体の60%は水分で構成されている」と言われている。そして1日に摂取するべき水分は、諸説はあるんだけど1.5リットル〜2リットルらしい。自分は喜んで水分をとれるタイプの人間なんだけど、周りを見ているとたくさん摂取するのが苦手な人がなにげに多い。いや、コーヒー・清涼飲料水・アルコールを合計すれば、1日のトータルで2リットル近く水分をとっているらしいんだけど、ちゃんとした真水でそれだけの量をとっている人は、あまり多くない。さて、「ただの水」を何リットルも飲むのはキツいんじゃないか?と言われそうである。俺の場合は昔から水分をよく取るタイプではあったけど、コーヒーやジュースを大量にとっていた期間が長かった。そこから健康を気にして徐々にお茶へ移行していき、さらに味がなくても平気になっていき、最高にヘルシーな水メインの生活に落ち着くようになった(かつては飲み物だけで1日500〜1000円くらい使っていたはずである)。このあたりは「健康意識」と直結してくる気がしている。つまり味のついた飲み物は、余計なものが入っているという感覚を持っているかどうかである。お茶ですらカフェインが入っているし、俺の場合は風味づけになればよいので、お茶を水で割っているくらいである。お茶の水割りである。なんちゅー飲み物だ。ちなみにほうじ茶が一番好きです。今のアラフォー世代ではコントレックスがはやった記憶があるのだけど、個人的な意見では、硬水はやめておいたほうがよいと思っております。日本人はお腹に合わない人が多いんじゃないのかなぁ。豆知識なのですが、東京の水道水*は世界的に見て、ハンパじゃなくレベルが高いようです。昔がひどかったため、けっこうお金をかけて手を入れたらしい。また、水道水は塩素が入っているから良くないというイメージがありますが、安全性は厳しくチェックされていて、その基準は市販のミネラルウォーターよりも高い**のです。意外ですよね。というわけで、自分は水道水をブリタの濾過器を通して、飲んでいます。リモートワークの人には、オススメ。ちなみにそもそもの水が良い北海道では、水道水すらマジでおいしいという話を聞いたことがあるのですが、本当なんでしょうか。北海道出身の人、教えてください。*実はいろいろ種類がある炭酸水ところで暑い時期に飲みたくなるのは水は水でも、炭酸水でしょう。みんな大好きな泡です。スパークリングの魔力はすごい。自分は5年ほど前からほとんどお酒を飲まなくなったのですが、そうなると飲食店で炭酸水を注文することが増えたんですね。下戸の人でよくいませんでした?延々とコーラやジンジャーエールを飲んでるような感じの人。あれ、実際はキツくなってくるので、俺はプレーンな炭酸水を頼むようになって、そこから炭酸水が好きになってしまったんです。炭酸水もなかなか面白いですよ。大きく3つの種類があります。それは天然炭酸水、天然水炭酸水、人工炭酸水です。天然炭酸水は、もともと炭酸ガスを含んでいる天然水なんですよ。そんなことある?って感じなのですが、元からシュワシュワしてるわけです。代表格はペリエ、サンペレグリノ。天然水炭酸水は、天然水に対して、人工的に炭酸ガスをぶちこんだ炭酸水です。強烈にシュワシュワしているのは大体これか、人工炭酸水。日本で有名なのは南アルプス・スパークリング。人工炭酸水は、天然水ではない水に炭酸ガスをぶち込んだものです。天然水じゃないから質が低いというわけではなく、逆に水質にクセがなかったりします。代表格はウィルキンソン。刺激は最高峰に強烈ですね。まぁ、いろいろと飲み比べてみたのですが、妻と一致したのは「サンペレが(我々には)いちばん飽きない」ということでした。食事のジャマをしないマイルドな炭酸の喉ごしで、なんとなく泡の粒立ちもお上品なんですよね。スパークリングワインとシャンパーニュのちがいみたいに。泡が強ければそれでいい!というタイプの人以外は一度注目して飲んでみてください。さて、水分と同じくらいに重要なのは、塩分である。適切な塩分を加えた水分こそが、人間にとって価値がある水であります。スポーツ飲料水(私はアクエリアス派!)はきちんと電解質が含まれているが、常飲するには、糖質が多すぎる。経口補水液(オーエスワン)は素晴らしいと思うけど、ちょっと気軽に飲むことができる金額ではない。そんなわけで俺の個人的なオススメは、沖縄の塩「ぬちまーす」であります。通常の塩よりも、ミネラルが豊富に含まれているんですよね。また、味自体がまろやかです。これをひとつまみ入れる(しょっぱいと感じずにおいしいのであれば、そのときの身体にとっては適量です)ことで、ナトリウムもミネラルも補給できます。特に朝イチは汗をかいてしまっているので、起き抜けの白湯(さゆ)に混ぜるのがオススメですね。ためしてみてください。
2021年09月09日コラムニストの桐谷ヨウさんによる新連載「なーに考えてるの?」がスタートしました。ヨウさんがA to Z形式で日頃考えていることや気づいたこと、感じたことを読者とシェアして一緒に考えていきます。第21回目のテーマは「V=Vacances(バカンス)」です。バカンスに行きたい俺の身近な人が、昨今の情勢のなかで感じているらしい二大ストレスは「飲みに行けない」と「旅行に行けない」のようである。そして、俺も気持ちは一緒だ。厳密には「行けない」わけではないのだけど、大っぴらには行けないし、何かと制限があったりする。なかなか微妙な空気感だなーと感じる。とにかくいまは余白がないような気がしている。仕事とプライベートが同じ空間でないまぜになっていたり、ガス抜きのための遊びの時間を作りにくかったり、あるいは正論が行き交っていて、自分たちで自分たちを息苦しくしているように俺には見える。さて、自分自身が余白を楽しめるようになったのはいつからだろうか?20代の頃は、誰かと飲みに行っても「実のある話をしたい」と思っていたような気がする。生産性がない会話はしたくない、というほど割り切ったタイプではない。それでも、同じような話題を頻繁に語りあう職場の飲み会、アホみたいに飲んで最後は呂律がまわらずに同じことを繰り返してグダグダになっている仲間の飲み会、とくに目的がない集まり。そういったものが嫌い……ではなかったけど、決して得意ではなかった。バカンスとはフランス人の長期休暇を指す言葉らしい。語源は貴族、ブルジョワなど金持ちが何もしないでいる時間のことのようだ。どことなくバカンスというと優雅でおちょくったような響きがあるのはそのせいなのか。ブルボンのお菓子のような……。俺は少し前まではアクティブな旅行が大好物だった。まずは王道が大事ということで名所に行ったり、距離的に同じ日ではムリがある場所へ移動したり、現地の人と仲良くなって誘われるままに過ごしたり。それが近頃では、バカンスというには小っ恥ずかしいが、何もしない滞在を楽しめるようになった。これまではいわゆるリゾート地にのんびりしに行く、という感覚が理解できなかったのだけど、最近は「ああ、こういう楽しみ方なんだなぁ」と腹落ちできるようになったというか。直近で沖縄に行ったときも、一昨年の夏は台風の影響で離島に渡れずにホテルに軟禁となり、去年の春前はコロナ禍直前だったので、あまりウロつかずにホテルとその周辺で過ごした。これがなかなか悪くなかった。屋上にプールが付いていたり、海に面したホテルという飽きない場所だったことも大きかったかもしれない。何もしないこと自体を、楽しむ。空白を埋めようとするのではなく、そのままにしておく。思えば自分の人生観のようなものは、無理に頑張らない、ということである。ムリクリに予定を詰めても楽しくなくなるし、疲れてしまう。ムリクリに意味を持たせようとしても、それは本質的な腹落ちにはつながらない。その延長線上として、非日常としての旅行においても、無理をする必要はないということなのかもしれない。そういえば大金持ちが旅に求めるものは、一人きりの時間らしい。これってなかなか面白いなーと思った。そういう人たちは有名な観光地にはすでに行き尽くしているだろうし、そういう場所は人がごった返して煩わしい。仕事においてもキーパーソンになっているから絶え間なく、人に会いたがられたり、連絡がひっきりなしにやってくる。すべてがノイジーということなんだろう。だからこそ、空白を買う。誰も見る必要がなく、誰にも見られることがない。誰にも邪魔されることがなく、自分だけの時間を使える空間を。モルディブの超絶VIPの水上ヴィラは、そういうことなんでしょう。ないものを味わえる人になりたいんー、これに関してはそのレベルに自分がいってないから、感覚的にわからないのが正直なところ。いつかそういう過ごし方ができる人間になれると良いな。こじつけのようだけど、「ないものを味わう」という意味でいうと、何かを買って喜んでいるうちは生き方の素人ということなんだろう。それがいかにブランド力があるものでも、極上の素材のものであったりしても、消費は消費であり、「(他人が創った結果として)あるものを味わっている」からである。やはり「ないものを味わえる人」の上級者は、創作ができる人なんじゃないだろか。ないことを味わえるからこそ、それを前提に自分が創りたいものが出てくる。誰かが「消費欲求は、創作欲求の変形である」ということを言っていたのだけど、自分の手を動かして、自分のためのものを創り出すというのは、この時代だからこそ非常に大事な行為のように思える。それは料理でも、裁縫でも、日記を書くことでもなんでもいいと思う。そして売り物になるレベルでなくてもいいのだと思う。その人が、その人なりの空白をどのように味わったか、ということに価値があるからである。これを読んだ人も、ちょうどこの期間に、なにか自分なりに創ることを始めてみてほしいな。
2021年08月26日コラムニストの桐谷ヨウさんによる新連載「なーに考えてるの?」がスタートしました。ヨウさんがA to Z形式で日頃考えていることや気づいたこと、感じたことを読者とシェアして一緒に考えていきます。第20回目のテーマは「U=Utility(使い勝手がいいもの)」です。スペシャルな逸品って憧れる。何かの目的のためだけに存在し、最高のパフォーマンスを発揮するもの。そういったものは、例外なく、存在しているだけで美しい。と思うのだけど、実際のところ自分は、万能なものに惹かれてしまうのである。めちゃくちゃこだわりのサバイバルナイフよりも、十徳ナイフのほうが便利じゃない?みたいな。まぁ一人でキャンプに行ったりしないし、ナイフは持っていないのですが、そんなタイプであります。仕事をする上でも、飽きっぽいし、物事を突き詰めきれないので、スペシャリストにはなれないタイプということを自覚しておりまして、なんというかユーティリティ・プレイヤー(いろんなポジションをやれる人)になっていこうと思っているタイプです。こんなことを思っている人は、器用貧乏なタイプには多いのではないでしょうか。はい、というわけで本日は「実用的」「万能」「使い勝手がいい」というキーワードで、「家にあったらQOLが上がる!でも庶民的なアイテム」を選んでみました。ナプラ「フォーレリア メディカルフェイシャルゲル」かなり汎用性が高い、保湿用のオールインワンです。クリームというよりは、ゲルに近いテクスチュアでしょうか。ぶっちゃけ保湿力はそれほど高くないし、つけ心地も軽いです。何が良いかというと、金額的に高すぎないので、顔だけでなく、身体に使っても罪悪感がないことでしょう。俺は乾燥肌、アトピー肌なので、乾燥がつらいところに塗ったりしています。また、個人的におすすめの使い方がシェービングクリームの代用品としてです。剃るためだけにクリームを買うのがバカバカしくて嫌いだったのですが、フォーレリアで代用してみると、これが結構いけるのです。すぐに揮発してしまう(もしくは浸透してる?)のでさっと塗って、さっと剃る必要がありますが、よき万能感です。N.ポリッシュオイル SC同じくナプラですが、これは段違いのオシャレ感ではやりましたよね。基本的には濡れ感を出すスタイリングで使われるヘアオイルのようですが、髪をなんとなくまとめるときに重宝します。要は完全に髪の毛をキメないんだけど、近所をうろついたり、気合を入れないでお出かけをするときに、少量を髪になでつけると、なんとなくサマになる。もちろんマジメにスタイリングするためのベースとしても使えます。同じN+シリーズのワックスもオススメです。アミノ酸系石鹸こちらは乾燥肌、あるいはアトピー肌の人限定の話です。こういう人たちは、通常の石鹸は油分を奪われすぎて、肌にダメージを与えます。化粧水つけるとピリピリしてつらいですよね。ひとことでいうとアルカリ性の石鹸を避けて、弱アミノ酸系の石鹸を使うことが大事になります。そこで弱アミノ酸系の石鹸を買っておきましょう。これは顔だけでなく全身に使えてオススメです。と言うのも、石鹸には顔用とか身体用のような区別がそもそも存在しないからです。フレンチプレス皆さま、本日のご機嫌はいかがでしょうか。コーヒー派ですか?紅茶派ですか?ワタクシは圧倒的にコーヒー派なのですが、友人にフレンチプレスをプレゼントされてから、両方を嗜(たしな)むようになりました。というのもコーヒー用の器具は基本的にコーヒーのためだけにしか使えなかったのですよね。ところがフレンチプレスは紅茶だけでなく、コーヒーにも使えるんですよね。というか、粉物とか葉っぱとか全般がオッケーなので、日本茶でもイケます。ちなみにそもそもフレンチプレスは紅茶専用というわけでもないのですが、日本ではなぜか紅茶用としてはやったらしく、そのイメージが他国よりも異常に強くなったのだとか。面白いですよね。個人的にはコーヒーはペーパードリップのほうが味は好きです。ですが、フレンチプレスで入れたほうが「セットしてしまえば4分間は放置して、勝手にでき上がっている」というラクさが大きいです。また、身体に良い成分が含まれているコーヒーオイルをそのままいただけるという利点があります。メガネクリーナーふきふき今回、ご紹介したいのは少しアルコールで濡らしたメガネ拭きです。個包装されたシートになっているのですが、これがメガネの油脂を取るだけでなく、スマートフォンとかパソコンのディスプレイの指紋を拭き取るのに効果があるのです。ただ、液晶画面に使うと変色してしまう可能性もあるのでメーカーとしては液晶画面には使わないように注意喚起しています。*スマホ専用の「スマートフォンふきふき」もあるので、気になる方は試してみるのがいいかもです。ドライにいくのはよく見かけるメガネ拭き、ウェットに攻めたいときは個包装のメガネ拭きと使い分けてみてください。いろいろなものに使えて便利です。*汗拭きシート似たようなものとしては、汗拭きシートもなかなか使えます。個人的にはキーボードを拭くために使っています。そもそも汗拭きシートが皮脂とか油脂を取るためのものなので、キーボードによって付着してしまった汚れをすごく落としやすいんですよね。一度試してみてください。マルチツールナイトアイズというアウトドア用品、とくにカラビナでめちゃくちゃ有名なメーカーがあるのですが、そこが出しているマルチツールです。鍵を模したルックスになっていて、実際にキーケースにおさまるサイズ感になっています。搭載されている機能は、糸や梱包を切り裂ける小さいブレード、マイナスドライバー、栓抜きです。基本的に日常生活で使う機会はないのですが、旅行やアウトドアに行ったときに結構重宝します。ちょっとした糸を切ったり、栓抜きが必要になるシーンで「詰んだ」ということがなくなるので。自分はこのキーに抱き合わせる形で超ミニサイズ(だけど高輝度!)のLEDライトも付けています。ワセリン最後はワセリンです。自分は肌が弱いタイプなので、ときにはステロイド剤を使ったりもするのですが、ワセリンって人体に対するリスクが少ないんですよね。例えば重度のやけどを負った際でも安心して唯一使えるのがワセリンと言われています*。また、肌断食を薦める人たちが唯一オッケーとしているのがワセリンだったりします。なお、ワセリンにはランクが存在します。黄色ワセリン、白色ワセリン、プロペト、サンホワイトという種類があり、後ろになるほど純度が高いです。個人的には薬局でお手頃な価格で買える白色ワセリン(300円くらい)を試しに買ってみるのがオススメです。自分は乾燥が進んでめくれてしまったところ、妻は寝る前にリップがわりに使っていますね。なかなか万能な塗り薬なので、見直してみてください。*宇津木龍一著「『肌』の悩みがすべて消えるたった1つの方法」
2021年08月20日コラムニストの桐谷ヨウさんによる新連載「なーに考えてるの?」がスタートしました。ヨウさんがA to Z形式で日頃考えていることや気づいたこと、感じたことを読者とシェアして一緒に考えていきます。第19回目のテーマは「T=teeth(歯)」です。人生100年時代…無視できない歯のこと人生において数少ない後悔をしていることは、歯を大事にしなかったことです。28本中、8本に銀歯が入っているし、下の第7歯は左右ともこの歳でインプラントになっています(あるあるだが、オヤシラズにやられた)。上の第4歯は根本は残っているけど、ジルコニアのクラウンを使っていて自前の歯じゃないんすよねー。大人になってから歯科医師につぎ込んだお金は、それだけで70万円を超えてます。さて、言うまでもなく歯を削ってしまうともう元に戻らないし、どんなにきれいに詰めても、また虫歯になる可能性が残る(二次カリエス)*。実は虫歯よりも怖いのは歯周病で、歯茎の奥、骨をやられてしまうと、もう手の打ちようがないわけです。「8020」というキーワードは、80歳で20本の自前の歯を残そうぜ!という運動なのですが、これは本当に大事なことだと思います。歯は飲食の充実感に関わるだけでなく、全身の健康にも影響を与えるとも言われています。というか事実でしょう。**人生100年時代のなかでどれだけ自前の歯を大事にできるかは、人生の質に直結するのであります!*口腔の健康状態と全身的な健康状態の関連(厚生労働省)フロスは習慣化できなかったけど…小さい頃から「歯を磨きなさい」と口をうるさく言われてきたけれど、いま思えば大人もちゃんとした歯磨きをわかってなかったな、と感じる。そもそも論として、歯ブラシだけを使った歯磨きは、不完全なんです。というのも、歯ブラシだけで除去できるプラーク(ネバネバした細菌の塊のようなもの)は6割程度なのです。参考までに歯科の世界で超有名な研究では、歯ブラシとデンタルフロスを組み合わせて、プラーク除去率が86%。歯ブラシと歯間ブラシを組み合わせて、除去率が95%になるみたいです。ちなみに虫歯の予防には、「プラークの機械的な除去」がかなり重要だと言われております。*歯科医や歯科助手の知り合いがいる人は聞いてみてください。全員が例外なく「フロスは使うべき」と、わりと熱量高めで口をそろえて語ってくれます。臨床の経験から思うところがあるんでしょう。といいつつ、個人的にはフロスは習慣にすることができなかったんですよね。歯間に糸を通すのがむずかしく、やっと通ったと思ったら歯茎にアタックして超痛かったり、何よりもめんどくさい!そこで取り入れたのがウォーターピック。強烈な水流を歯間に流し込んで、清掃する器具です。俺はドルツの「ジェットウォッシャー」を使っています。これはやり始めた人にとってはクセになってしまう独特の爽快感があるんですよね。口の中、歯の隙間を、ぜーんぶ水洗いした爽快感。たまらないです。とはいえ、歯間のプラーク除去のエビデンスは弱くて、デンタルフロスや歯間ブラシを使う方がベターだと言われています。個人的には、かかりつけの歯科医師に「やってなかった頃よりはマシになってる。」という言葉をいただいています。まぁ、それまでが「根本と歯間の磨きがひどすぎる」ようだったのですが。で、最近は歯間ブラシを習慣にすることができています。超極細のサイズ感で、ゴムタイプを見つけたのですが、なかなか使い勝手がよろしい。歯間で引っかかるサイズ感は不快感が強いし、それが金属製だと傷つけてるような感じがして、なかなか好きになれなかったのですが、これならゴッシゴシ歯間を磨くことができます。ドラッグストアで手軽に買えるのもポイントが高い。*歯のお掃除のアウトソーシング化と、ここまでセルフケアを書いたんだけど、どうしても習慣にできない人はいることでしょう。そういう人は歯科医院を頼りましょう。毎日の歯磨きで除去できなかったプラークがいろいろな悪さをしますし、溜まっていった歯石がこれまた悪さをします。こまかいことは覚えなくて良いです。どれだけセルフケアをしようと完全には悪い物質を除去しきれないので、歯科医院で除去してもらう必要があります。その量がとんでもなく多いか、少なくて済むかの差です(乱暴に言っていますが、ケアが不要とは言っていません)。つまり、3ヶ月に1回を目安に、歯医者に通ってクリーニングしてもらうことをルーティンにしましょう。どんなに頑張っても歯石は歯科医院に行かないと取ることができないのですから。要は「歯のお掃除のアウトソーシング化」です。めんどくさいとか言わないでください。当たり前のこととして生活に組み込んでください。これだけで歯のトラブルが発生するリスクは著しく減少するのですから。保険の適用範囲になるかは曖昧なところで、歯周病の「治療」目的だけのようです。たとえば「予防」とか「着色落とし(審美目的)」については、保険の適用外=自費になります。だいたい3ヶ月周期くらいならば、保険でイケるっぽいですけどね。ただ、もっと頻繁にクリーニングをしたい、もっと審美的にキレイにしたい。そういう場合はPMTC(Professional Mechanical Tooth Cleaning)、あるいはエアフロー(歯面清掃を行う機械の一種。細かなパウダー粒子をジェット噴射で歯に吹き付けて歯にこびりついた汚れを落とす)を自費で受けるのが良いでしょう。特に俺はエアフローが効果が絶大で大好きです。おおよそ5,000円〜10,000円の値段がついていますが、探せば数千円で施術をしてくれる歯科医院も見つかります。コーヒーやタバコだけでなく、カレーやワインはびっくりするくらいに歯を黄色くしています。数ヶ月に一回、エアフローを施術してもらうだけで、口元の印象が大きく変わるはずです。歯の健康と、審美性。口元が汚いと、老けて見える。数年前に自身で痛感してから、少しずつととのえている今日この頃です。
2021年08月12日コラムニストの桐谷ヨウさんによる新連載「なーに考えてるの?」がスタートしました。ヨウさんがA to Z形式で日頃考えていることや気づいたこと、感じたことを読者とシェアして一緒に考えていきます。第18回目のテーマは「S=smoking(喫煙)」です。タバコ、やめました。唐突ですが、タバコをやめました!健康オタクのくせにスモーカーだったのですが、もうこれで俺に死角はない!いやー、それにしてもここ最近、スモーカーへの風当たりが強すぎませんか?ちょっとあいつらに人権いらないっしょ、くらいの風潮を感じません?よくないですよ、そういうの。禁煙のきっかけなんですが、街中の喫煙所はどんどん減っていくし、やっぱり去年の4月から飲食店が屋内原則禁煙になったのは大きいっすねー。もう吸うところがないやんっていう。厳密には去年から外食する機会は激減したのでダメージを食らったわけじゃないですが、飲んでるときにスパスパ吸えないのであれば、もう楽しいスモーキングタイムは望めませんからね。未練はない!という感じでございます。さて、俺はけっこうなヘビースモーカーでした。1日に一箱半くらいかな。1時間に2〜3本は確実に吸ってるイメージです。それでね、このレベルになってくると、外出しても喫煙所をもう真っ先に探してしまうし、なんか用事の前に吸って、用事を済ませたらまた吸って、煙草を吸う合間に生きてる感じになってしまってたんですよ。実は煙草自体はいまでも嫌いではなくて、ニコチン中毒に負けずに、吸うタイミングを自分でコントロールできたらいまでも吸ってたかなぁ。そのコントロールができないから、自由を獲得するためにはもうスパッとやめるしかなかったくらいで。われながらまったくカッコ良くねーな。ふっと蘇る“吸っていた頃の記憶”さて、今回、煙草をやめるにあたって禁煙補助薬を使ってみました。これがめっぽうすごい!タバコって本当に麻薬なんですよね。ニチコンが脳の受容体に結合して、ドーパミンを分泌させる。この快楽が中毒につながっていくわけです。そこで禁煙補助薬は、脳の受容体の結合を横取りしちゃうんですよ。そして微量のドーパミンを分泌し続ける。そうすることでタバコを吸ったときにニコチンによる満足感を感じないし、なんならまずくすら感じる。そして通常、禁煙では体内のニコチンが抜けていくにあたって離脱症状が出ます。麻薬ですから。アルコール中毒のアルコール禁止、コーヒー中毒の朝コーヒー禁止と同じです。多くの人は、小麦や砂糖を数日やめることを想像すると、そのつらさが理解できるはずです。あれらも合法なだけで、実際は麻薬のようなものですから。その離脱症状が出るときは脂汗が出そうになるくらいキツくて、身体もダウナーになるのですが(10年近く前に根性禁煙で1年くらいやめていた過去があります。これ言うとまた吸うんじゃねーか?と思われそうである)、それが一切ないのが素晴らしい!だいたい禁煙に成功した人は「3日目は仕事で使いものにならないレベル」と言うのですが、そういう身体的につらいピークが一切なく、なんとなくやめられてしまうのであります。まるで魔法です。まぁ、禁煙には「肉体的な依存」と「精神的な依存」があると言われてまして、前者のニチコンは3日くらいで抜けます。そして禁煙補助薬でイージーに乗り切れます。ただし、後者は何年経っても消えないくらいにしぶといんですよ。コーヒーを飲んでるときに、吸っていた記憶が蘇る。食後の一服を思い出す。飲んでいる時に吸いたくなる。こういった何かをトリガーに思い出して、吸いたくなってしまう、いわゆるフラッシュバックですね。これはまだまだ俺も戦っていかなくてはいけません。ちなみに友人に場末のヤンキーみたいなルックスで、超絶ファンタジックな絵を描く漫画家(三輪亮介。『多動力』のコミカライズを担当した)がいます。彼もけっこうなヘビースモーカーだったのですが、こないだオンライン飲みをしてたら禁煙しておりまして。「俺は、あれだな。良い景色を見たときに吸いたくなっちゃうな。海、とかさ」とロマンチックなことを言うので、爆笑しました。さて、タバコは嫌われて当然の存在である。煙がくさいし、うざい。俺自身、友人には遠慮をしなかったけど、子供と妊婦さんの前では徹底して吸わないように気をつけていた。そこは路上喫煙と同じく、これ以上スモーカーが嫌われないための、最低限のマナーというか、そういうのが大事だと思っていたんだよね。ちなみに数十年スパンでは、飲酒という文化も、喫煙のように時代遅れの習慣となっていくんでしょうね。海外ではすでにその兆しがあるようですし、とある企業の有価証券報告書のリスク事項にすら書かれてますからね。健康意識の向上にともない、飲酒習慣が減っていく可能性があり、いまから対策をとっていかなくてはいけない、という感じでね。世の中にはいろいろな中毒があふれているさて、世の中にはいろいろな中毒が溢(あふ)れている。一億総ジャンキーである。煙草、酒、砂糖、小麦、SNS、人間関係。どれも最高なものであり、有害きわまりない存在である。どれを自分がやって、どれをやらないかは個人の自由である。同じくらい、他人が何をやっていて、何をやらないかについても自由である。少なくとも他人のそれに口をはさむべきではないし、個人の好き嫌いをそこに持ち込んではいけないと思う。多様性とは、いろんなものがある、ということではない。いろんなものが当たり前のように存在して、ときには混在して、ある程度のカテゴライズがありながらも分断せずに、共存していることだと俺は捉えている。自分が禁煙をしたからと言って、喫煙者に何かを言うのは、その流儀に反していると俺は思っている。やめたいって人には、やめて良かったって話をめっちゃして、こっちのグループに来るように誘うだろうけど。というわけで、ノンスモーカー生活34日目の今日です。
2021年07月29日コラムニストの桐谷ヨウさんによる新連載「なーに考えてるの?」がスタートしました。ヨウさんがA to Z形式で日頃考えていることや気づいたこと、感じたことを読者とシェアして一緒に考えていきます。第17回目のテーマは「R=Radio(ラジオ)」です。ラジオは良質な雑談ラジオは独特の文化だなぁと感じる。正直、時代から取り残されたメディアだと思うし、動画に比べて情報量だって少ない。それなのに一定数のファンが確実にいて、なくなったら惜しまれるメディアの筆頭であろう。また、リスナーが持つ親近感はテレビと比べものにならないくらい高いと言われている。ハガキ職人って存在も面白いですよね。俺の場合は、ラジオが好きなのか、苦手なのか、微妙なところである。たまにラジオを聞いてみると、平和に話しかけてくれる安堵(あんど)感が気持ちいいとは感じる。だけど、自分のペースで楽しめないのですぐにかったるくなる。だから生活にラジオがなじんでいるわけではない。ただ、それなのにインターネットで文章を書く際に、ラジオをお手本としている自分がいる。確か6、7年前くらいからインターネットで見かける文章に飽きてしまって、辟易(へきえき)とすることがとても増えた。そして、当時は自分もバズ狙いの文章を書いていた頃で、演説のような気持ちで書いていることが多く、それにも飽きていたのだ。読み手としても、書き手としても、Wで飽きている。地獄である。なんかお手本になるものはないかなー、と考える期間がけっこう長かった。最終的に出た結論としては、「ラジオのように心地いいおしゃべりを聞かせてくれる文章」と「飲み屋で知り合った面白いオッチャンに聞かせてもらう話のようなおもしろうっとおしい文章」が、自分の今の気分ということだった。そう、インターネットでスカスカのまとめサイトが増えたり、何かを過剰に煽(あお)ったり、怒ったりする語気の強い文章が蔓延(まんえん)するようになってから、「良質な雑談」がインターネットにもっとあってほしいと思うようになったのである。そのお手本がラジオであり、書き手とはパーソナリティのようであるべきなんじゃないかなぁ、というのが俺の考えなのである。ちなみにドラマになってしまいますが、『大豆田とわ子と三人の元夫』はそんな感じで最高でした。ラジオ的を具体的に語れるほど、ラジオのことを知っているわけじゃありません。だけど、なんかあるテーマについて、たまたま聞いているリスナーに対しても、連帯感を持ってくれている固定ファンリスナーに対しても、ふんわりと、それでいてパーソナリティの個性を発揮しながら、同じ時間を共有して、なんとなく楽しい気持ちで解散する。そういうイメージなのです。なんとなく楽しい気持ち、というのはポジティブであれば、それだけで良い。どこにでもある話のようで、なんか自分なりの気づきがあった!とか、知ってるだけで得することができそう!とか、もうその人の声(文章)に触れているだけであったかい気持ちになれる……みたいなことです。そういうラジオのような文章、もっともっと増えていってほしいんですよね。YouTubeはラジオ感覚で流しておくさて、ラジオとテクノロジーについても雑感を残しておきたいと思う。やっぱりRadikoはありがたいですよね。リアルタイムじゃなくても、ラジオ番組を聞くことができる。年に数回しかラジオを聞かない自分でも、たまに聞くことができるのはこのサービスのおかげ。いまの流行りはVoicyだろうか。いろいろなインフルエンサーが収録型のミニラジオとして利用をしていて、チャプターごとに細切れで聞ける感覚がなかなか楽しい。もっといろんな人がやってくれたら良いのになぁと思う。あとはPodcast。流行りそうで流行らない代表格ですが、長く続いている番組はやっぱりプロとアマチュアの境目が良い意味でないことを教えてくれて、聞き応えがあってすごく面白い。そしてYouTube。ここ数年で俺もYouTubeを使うことが増えたのですが、動画を見るというよりは、ラジオ感覚で使っています。実は広告を解除して、バックグラウンド再生ができるようにプレミアム会員になっているくらいです。ずっと動画で見る気にはなれないのですが、音声情報として聞いている分には、なんかラクなんですよね。視覚、聴覚…自分が得意な感覚は?最後に、音声と情報収集の関係について。人間は優位性を持った感覚器に個人差があるようである。VAK=視覚(Visual) ・聴覚(Auditory)・ 触覚(Kinesthetic)のどれが強いかは、人それぞれらしい。同様に、何で学習するのが頭に入りやすいか?というのも個人差があるようだ。そういう意味で言うと、自分は「聞き学」が下手くそである。情報が脳みそを通過せずに、素通りしていく。学生時代から授業で聞いたことはすぐに忘れてしまうし、社会人になってからオーディオブックで勉強しようと思っても右から左にすり抜けていくし、妻と同じテレビを見ていても「えっ?そんなこと言ってた?」と思うことがしばしばである。要は、聴覚優位の体感覚ではないのだ。これがラジオにハマりきらない要因なのだろう。自分がどの体感覚に優位性を持っているかは、ぜひ意識して、見つけてみてほしい。別に学習という視点でなくても良い。自分が敏感な体感覚は、良質のものに触れると身体が喜ぶ。倍音が魅力的な声、癒やされるビジュアル、モッフモフのクッション。なにが身体を喜ばせるものなのかは、あなたにしか分からない。そういった自分の体が喜ぶものを生活に取り入れてみてほしい。きっともっと人生が楽しくなり、ずっと安らげるはずである。
2021年07月15日コラムニストの桐谷ヨウさんによる新連載「なーに考えてるの?」がスタートしました。ヨウさんがA to Z形式で日頃考えていることや気づいたこと、感じたことを読者とシェアして一緒に考えていきます。第16回目のテーマは「Q=query(クエリ)」です。「ググる」はもう古い?今回のキーワード、「クエリ」はなじみのない言葉かもしれない。クエリとは照会という意味を持つ英単語で、IT業界ではデータベースへの命令文、処理リクエストという文脈で使われることが多い。このデータをこの条件で、取ってきてください。そういうニュアンスですね。いまの世の中、老若男女がスマホで検索をかけている。ググるのは当たり前どころか古くて、インスタでタグるのは当たり前だし、YouTubeで検索している人も多いだろう。どんどんと得られる情報量と解像度は上がり、費やしている時間が爆発的に増えていると感じる。これってすごいことですよね。10年前を思い出すと、何かを調べるときはパソコンじゃないとできなかったんですよ。ガラケーのインターネットってめっちゃ貧弱でしたよね?で、情報収集が趣味だったり、インターネットが好きな人は、夜の自宅でパソコンを開いてましたけど、だいたいの人は家に帰ってまでパソコンを使いたくないって感じだったんですよ。必然的にちょっと気になったことを検索にかけるなんてことはしない人が多かった。それがスマホが手元にある今では24時間インターネットに接続されてますからね。少し気になったときにノータイムでスマホで検索かけるじゃないですか。もはやノータイム・グーグル。ノー・グーグル、ノー・ライフ!人々の習慣の違いに隔世の感があります。どんなふうに検索をかけるか=どんな問いを立てるか?さて、これだけ人々が検索をかけることが当たり前になった中で、大事になってくるのは「どんなふうに検索をかけるか?」である。おそらく無自覚に使っていると、何かをきっかけに条件反射的に検索をかけてしまうと思う。テレビで放送されたはやりものを検索かけてみたり、あるいは視聴者のリアクションが見たくて番組が用意したタグで検索をかけたり。気になった出演者の名前を調べてしまうことでしょう。いや、俺も頻繁にあるのですが……。「イケメンタル」と「女子メンタル」を見ていたら、出演者を好きになってしまって、延々と調べてしまいました……。人々の消費欲求は広告(不足をあおられること)で作られてる、的な話がよくありますけど、「どんなふうに検索をかけるか?」というのも相当気をつけないとコントロールされてしまうと感じる。受動的に受け取った情報が検索のきっかけになっていた場合、それは本当に自分の好奇心や知的好奇心によるものと言えるのか?って話なわけです。テレビで見かけた内容、ニュースアプリからプッシュ通知で来た内容。本来ならどうでもいいことを検索してしまってる時間は多大にあると感じています。そう、「どんなふうに検索をかけるか?」とは、「どんな問いを立てるか?」ということに同義なんでしょう。昔インターネットに「服を買いに行く服がない」というギャグがあったけど、良質な情報を得るためには、良質な検索キーワードが必要なわけです。その良質な検索キーワードとは、本当に自分にとって必要だと主体的に感じているものを見つけるためのもので、かつ、知りたい世界が曖昧ながらも明確にあるということなんでしょう。ちょっとごちゃごちゃしますけど。いずれにせよ、そうそう良質な問いなんて見つからないわけです。じゃあ、どうするか?俺の個人的な体験では、やはり生身の人との出会いしかないと思うんですよね。よくわからない面白い人、それは生き方がぶっ飛んでるというよりは、マニアックに何かを好きだったりする人です。そういう話を聞く中で、例えばですが、「発酵は面白い」と思わされるじゃないですか。その人が「この世の中には発酵か、腐敗しかない」みたいな名言っぽいことを言ってくるわけです。そうなると気になってくるわけです。ちゃんと発酵するときの違いと、ただ腐るときの違いはなんだ?あれ、納豆もお酒も発酵だけど、なにが違うんだっけ?てか、なんで日本はこんなに発酵が発展したんだっけ?こういう問いを見つけたあとの検索は、いまはやってる発酵食品を調べたり、漠然とWikipedia巡りをしているときとは違う世界に浸れるはずなんですよね。検索エンジンを変えると見える世界が変わるもうひとつ、まったく違う目線でいうと検索エンジンを変えちゃうってのもアリだよね。つまりGoogle検索をやめてみる。これは現状のインターネットで仕方がないことなんだけど、大半の人がGoogle検索を使っているからSEOが過剰に意味を持つようになっちゃって、サイト自体もそれに最適化されて、いろいろと工夫はされてるんだけど、代わり映えのない情報が検索上位にきちゃうんですよね。例えばEcosiaとかDuckDuckGoみたいな検索エンジンを使ってみてほしい。利用者のプライバシーを担保したり(ひらたくいうと検索したものが広告で表示されない!)、検索をかけるたびに寄付がされたり、いろいろと面白い趣旨で運営がされている。これらはスマホ(iPhone)の検索エンジンとしてプリセットされているので、設定を変えるだけで使えるようになる。検索エンジンを変えてみると、見える世界観がまるで変わります。同じキーワードを調べたとき、これだけ情報が作為的に優先順位づけされていたのか!とびっくりするはずです。いや、繰り返し言いますが、それ自体は悪いことじゃないですけどね。ただ多様性がなくてつまらなく感じるだけで。俺らは好奇心に突き動かされて、人生を充実させていく動物です。だから、検索という行為をもう少し大事にして、より面白い人生を過ごしていく一助にしてほしいと思うのであります。
2021年07月08日コラムニストの桐谷ヨウさんによる新連載「なーに考えてるの?」がスタートしました。ヨウさんがA to Z形式で日頃考えていることや気づいたこと、感じたことを読者とシェアして一緒に考えていきます。第15回目のテーマは「P=Past(過去)」です。1周回って発見したオンライン飲み会の魅力最近、オンライン飲み会という言葉をあまり聞かなくなった。単純にみんな飽きたんだろう。あるいはひっそりと定番化しているんだろうか?当時の感覚を思い出すと、「リアルじゃなくても、意外にイケる」。しかし、「なんとなく味気ない」という感じだろうか。俺はビールを飲まないけれど、発泡酒とか第三のビールはこんな気分なんだろう。緊急事態宣言が解除されている間に何回かはリアルで飲食をしたけれど、やっぱりリアルが最高である。同じ空間にいるという事実が大きいのだろうか、その人の雰囲気を感じられることが大事なのか、微表情を察することができたり、食い気味に会話をかぶせることができるスピード感が気持ちいいのか。とにかく、やはり、違うのである。さて、そんな俺はいまオンライン飲み会を見直している。楽しさを再発見している。そう、プチ同窓会をゲリラ的に開催していくことに少しハマっているのである。きっかけは大学時代を長く過ごした友人とLINEのやり取り。積み上がったお互いのキャリアの話をしていたら盛り上がって、急きょオンライン飲み会をすることになったのである。その中で「あいつ何やってるんだ?」と同期の話になり、そいつらに声をかけて同窓会を開催したというよくある話である。ここで終わらないのが気になったら止まらなくなる俺である。いろんなレイヤーの友人と同窓会を開催してみたくなった。一時期は親友と言えるくらいに一緒に過ごした人。仲が良いのかそうでもないのか、とにかく同期だから一緒にいた、それが結果的にかけがえのない関係性のベースになっているような人。好きでも嫌いでもないけど、近い存在の仲が良い人だったから絡んだりした人。当時はわりと仲が悪かったけど、社会人になってから意気投合したような人。ぶっちゃけ1対1だったら、どうでもいい人。いろいろな人間関係があった。そして、それをゆるやかにつなぎ止めていたのが、大学生活におけるサークル活動であり、当時はちょっと鬱陶(うっとう)しくもあり、なんだかんだで人と人のつながりをつくってくれたのがサークルだったのだ。物理的な溜まり場があってさ。あんな空間は、大人になるとあり得ない。いま思えば学生時代、特に大学時代というのは面白い人間関係をつくれる時期だったなーと思う。小中高ほど固定されている感じはなく、社会人ほど共通感覚を持てることがレアというわけでもなく。よく「学生時代の友人は一生ものだよ」という言葉を聞く。それは友情に利害関係が入り込む余地がなく、社会人になったらそういう関係性をつくることは極めてレアになってしまうという話である。これについては半分同意、半分は「そうか?」って感じ。まぁ人にもよるけれど、社会人になってから知り合う人に対して、打算だけで付き合う人ばっかりではないだろう。俺の周りにはそういう人が多いかなぁ。ただ、自分が未熟だった時期を知っている人というのは、かけがえのない存在になり得るということなんだろう。自分や相手にとってのそれをはからずも受け入れているわけで、強がりやカッコつけが入り込む余地がない。相対的に、裸の心に近い感覚なんだろう。どんな状態でも受け入れることができ、受け入れてもらえる……みたいな感じがあるっていうか。オンライン同窓会で発見したことさて、オンライン同窓会のことである。これまでの話をひっくり返す感じだけど、俺は人間関係はいつ切れても良いと考えているタイプである。というのも、基本的に人生のステージが変わっていけば、価値観は変わる。大事にしているものも変わっていく。そうすれば人間関係はおのずと変わっていく。そんなふうに考えているからである。ある時期にとても面白いと思っていた人がつまらなく感じるようになってしまうのはよくあることだし、自分がそう思われることだってざらにあることだ。そのことを前提に、あえていろんな関係性の人たちとオンライン同窓会をやってみるといろいろと気付かされることがある。久しぶりに会う友人たちは、成長しているようで、さらに話を聞いていくと、考え方からしゃべりのクセまでびっくりするくらい相変わらずなのである。逆に、基本的な性格はまったく変わっていないようで、着実に大人になっているのである。年を食っているから、当たり前なんだけど。それらがまるっと愛おしい。なんというか地層のようである。会っていないうちに自分は経験しないような人生をその人たちは経験していく。あんな感じだった人が、そういう経験をすると、こんな感じになるのか。そんなことに思いをはせられるのである。物理的に会っていない時期のその人にあらためて出会うことは、過去を愛でることよりも、愛おしいことなのである。その「過程」を知ることで、その人に対して、いままでになかった愛着を持つことができるかもしれない。あるいは自由に身動きが取れるようになった世界では、頻繁に会うような関係になるかもしれない。そういったことが楽しくて、同窓会のようなものをゲリラ的に開催していたんだと思う。そういえばある作家の人が「過去は変えられない、未来だけが変えられる……というが、それは違う。未来を変えることで、過去の解釈を変えることができるようになる」という言説をしていたのを見たことがある。自分はトラウマ論みたいなものはまったく共感できないんだけど、これが救いになる人もたくさんいそうな気がする。今日の話でいえば、久しぶりに会ってみることで、過去の旧友の顔はあくまでもそいつの途上だっただけで、いまのそいつの顔を知ることで、とんでもなく大事な存在になり得ることだってあるんじゃないかってことだよね。当時、いけすかなく感じていたとしても、その解釈自体が変わって愛おしくなることもあり得るわけで。そういった変遷を愛でることが、生きていくことの醍醐味(だいごみ)だなーと思うのです。
2021年07月01日コラムニストの桐谷ヨウさんによる新連載「なーに考えてるの?」がスタートしました。ヨウさんがA to Z形式で日頃考えていることや気づいたこと、感じたことを読者とシェアして一緒に考えていきます。第14回目のテーマは「O=Ossan(オッサン)」です。※画像はイメージです。憧れていた人がいつの間にか「ウザいオッサン」になっていた「オッサン」は世間で嫌われる存在である。いや、正確に言うと「ウザいオッサン」が嫌われているようだ。反面、少数の「ナイスなオッサン」は、若者にはない知性と色気を武器に、独特の魅力をちらつかせているように見える。近頃のコンプライアンス的なノリで「オッサン」という言葉を使うのはぶっちゃけ憚(はばか)られる。しかし、このいとしさと憎らしさを同時に表現するには、「中年以上の男性」と呼ぶのは、ちょっと違う。「オジサマ」と言葉尻だけをキレイにしても、気持ちわるい。やはりここは、「オッサン」という愛称を使わせていただきたい。俺も36歳になった。自分のことを「立派なオッサンになったなー」と思っている。そう、せっかくオッサンになるのだから、できるかぎり「ナイスなオッサン」でありたいと考えている。そんな動機があって、自分ごととして、ここ数年身近なオッサンたちをしっかり観察するようになった。そうすると面白いことに気づくようになった。オッサンとして完成されている年齢、イメージでは50代とかですかね。そのあたりはジェネレーション・ギャップがあって、おまけに良くも悪くもオッサンとして完成されているので、なぜそうなったのか過程がイマイチ分からない。なのだけど、5歳上くらいの友人を見ていると、徐々に見かけるようになってきたんだ……。リアルタイムでウザいオッサン化している人たちが……。これに気づいたときは、寒気がした。というのも少し前まで「カッコいい兄ちゃん」と思っていた人たちが、いつのまにか「ダサい」「ウザい」「キモい」と言われる(そこまでか?w)オッサンの発言をするようになり、行動を取るようになっていくのを見かけるようになってきたのです。この怖さが伝わりますか?俺はどこかで「若い頃からウザい人間が、ウザいオッサンになっていく」と勝手に思っていたんです。そうじゃない。俺が俺の目で見てナイスな兄ちゃんだと思っていた人(そして周りからも憧れられていた!)が、俺が苦手なウザいオッサンにトランスフォーム(変容)している姿を見かけるようになってきたのです。怖いだけでなく、寂しかった。ちなみにもともとウザいタイプの人間は、やはりウザいままである。ウザくないオッサンの人口って少なすぎやしないか。。(今回の記事は主観が入りまくりなので、そこはご容赦ください。。)ウザいオッサンの特徴ここからは俺が気づいたウザいオッサンポイントを列挙していきたい。同時に、なぜそうなってしまうのかを考察していきたい。女性に関してはそれを見て優しくスルーしていただけたら幸いである。男性に関しては、一緒に気をつけていこう。1. 独演会をおこなう(人の話を聞けない)一緒にいてしんどいなと思うオッサン、ひとりの例外もなく独演会をかますのです。これ自体はまぁ良いわけです。まっとうな上下関係を分かっている人なら、もちろん目上は立てるわけで、なるべく相手に気持ちよく話してもらうおうと思うわけです。が、話がとにかく長い。そのうえ話が絶望的につまらない。いや、同世代ならばそれなりに楽しめるトークかもしれないけど、世代を超えた話題じゃないのに、そこに対する考慮がないだけに、こちらは相づちマシーンにならざるを得ない。これ特に上司の相手をしている女性は頷(うなず)きまくってくれてると思うんですけど。特に厄介なのは「知識と経験を押し出してくる」パターンで、例えば食通なオッサンは「君たちは本当にうまい肉と酒を知らないよ」というトーンで、わりとベタなものをドヤ顔で語ることが往々にしてある。そもそも人の食ったうまいもの自慢ほど全人類が興味ないものはないのに、横から見ているとやっぱり知識と経験のマウントとしてやってしまうっぽいんだ。(そもそも都内の飲食店のだいたいは不動産代が入っていることを考慮していない時点で、価値を分かっていない証拠である)そしてもっときついのが、年下が話を持ちかけたときに最後まで聞けない人。俺からすると面白いネタを提供しているのに、「そんなのつまらないよ」とばかりに一蹴して、自分の話に戻してしまう。これは社会的にそれなりに成功しているオッサンに多い。というのも、それなりに成功(サラリーマンならば出世)している人は、自分がデキるという自負があるうえに、つまらない話でも良い反応で聞いてもらえる環境に甘んじてしまっているのだ。すなわちトーク力が欠如している(ビジネス以外の)。そして、若者に対する敬意が足りない。未熟でも今の世の中の感覚を誰よりも感じ取っていて、5年後に社会のメインストリームがどういうふうに動いていくかを肌感覚で持っている世代(特に20代)をナメているんだと思う。2. 他人と比較した幸せに価値を置いてしまう例えば美食、高級時計、高級車、マイホーム。それらを所有することだけが素晴らしいと考えているのは、前時代の価値観というのは常識になってきていると思う。純粋にそれらが好きな人が求めるのはかまわないけれど、それは趣味の領域であり、もはやみんなが欲しがるものではないよね、という。それがダサいオッサンになってきてる人たち、自分が買えるようになってくると、なんか買うんだわ……。そしてSNSにアップするんだわ……。結局は欲しかったんだなぁって。世の中的にはあまり露骨に自慢できなくなってきたけど、それでもいまの40前後の人たちってそう言うのに憧れてきた世代なのかもしれない。いや、もちろんそれ自体は全然良いんです。他人がケチをつけるようなことじゃありません。なんだけど、興味がない(そこに価値観を持っていない)人たちにも、遠まわしにそれを話題として出してくるんですよね。要は褒めてもらったり、羨ましがられたい。もうストレートに言ってくれたら良いのに!(笑)ただこれに関しては別の考え方もできて、いまの40前半の人たちって就職氷河期で大変な思いをした人たちが多くて、その中で成功できた人たちって自分に自負を持って当然だと思うし、もう少し上のバブル世代とのギャップを感じやすい世代なのかなぁって思ったりもする。このあたりは今の30半ばとは少し、感覚が違うのかもしれない。3. 価値観のアップデートがないそしていちばんの問題は、価値観のアップデートがないことである。言ってしまえば、1も2もここに端を発した問題と言える。例えば「カッコいい」「ダサい」「言っていい」「もう言っちゃダメ」このあたりの感覚というのは、時代とともに変わっていくものである。そしてこれを更新することは、意外に難しい。なぜならその感覚を持っている中心の世代は年齢が離れすぎていて、肌感覚として捉えることができない。立場の違いがあってフラットに話を聞く機会を得ることが難しい。あるいは前述のように、話をそもそも聞こうとしない人も多い。あるいは30歳を超えると同世代の集まりと言うのもかなり細分化されてきて、限られた人間関係しか持たない人が増えてくる。接している人の数というよりは、違う価値観を持った人との交流を持つことが、難しくなりがちなのだ。そうなってくると古い価値観がそのまま更新されずに温存されている人が出てくる。というか、気をつけないとそうなってしまうってことなんだろう。俺にとっても、これを読んでくれている人にとっても、まったく他人事ではない話である。どうしたら若さに憧れないオッサン/オバサンになれるんだろう?さて、30代後半になると世間的に男性はオッサン、女性はオバサンと呼ばれる存在になっていく。でも、年齢なんてただの数字だ。心身ともに美しく年を取っているオッサン(オバサン)は本当に素晴らしい。俺はそうなりたい。自分の仲がいい人がそんな人でいてくれたらもっと好きになってしまうと思う。そして、年齢とともに知性とユーモアの年齢を豊かにしていくことができたら、若さに憧れを持つことなんてないだろう。どうすれば美しく老い、楽しく老いていくことができるか、老新人として興味が尽きないのである。120歳まで生きたいという最近の願望、健康オタクっぷりも、これを追求していく時間が欲しいからなのだ。そう、結局は「愛される存在」になれるか、という問題なのかもしれない。チャーミングなオッサン、チャーミングなオバサンは誰の目から見ても魅力的じゃないですか。今日書いたオッサンのウザさとかダサさの特徴についても、オッサンだからウザいって話じゃなくて、誰がやってもウザいノリなわけで、それが悪目立ちする年齢とか立場になっちゃってることに気づけないことが問題って話だと思う。俺が出会うことができた魅力的なオッサン(オバサン)は、いつも機嫌が良さそうにニコニコしていて、立場や年齢に関係なく気さくに接してくれて、それでいてこちらが無遠慮でいることに恐縮してしまう雰囲気を放っていた。外見は無理をしない若さを保ちながら、それでいて貫禄を持ち合わせていて。会話についてはこちらの話にいったんは耳をひたすら傾け、価値がある話はいくらでも聞き続け、自分のほうが知っている場合にはそれとなく嫌みなく、含蓄のある話を聞かせてくれていた。いま、何人かを思い浮かべながら書いてるんだけど。そういう人になっていきたいし、そういう人に会ってもらえる自分でありたいと思います。
2021年06月17日コラムニストの桐谷ヨウさんによる新連載「なーに考えてるの?」がスタートしました。ヨウさんがA to Z形式で日頃考えていることや気づいたこと、感じたことを読者とシェアして一緒に考えていきます。第13回目のテーマは「N=Narrow(狭い)」です。コミュニケーションがうまい人の源泉あいつは視野が狭い、という貶し(けなし)文句がある。一般的に、視野は広いに越したことがない。また、人間関係においても視野が広い人のほうが「デキる」と見なされることが多い。俺はコミュニケーション能力やトーク力の源泉に「視野角の自由度」があると考えている。コミュニケーションが巧みな人間は、特定の人間に対してだけではなく、場全体のふわっとした空気感をしっかりと捉えていて、話題の中心にいない人物まで視野に捉えていることが多い。これは視野が狭い人──目立つ人しか見ていない人、自分のことしか気にしない人──にはできない芸当である。あるいはトーク力が高い人というのは、拾い上手なことが多い。その場にいる人がふいに取った行動を起点に話題を展開したり、周りが見過ごしそうな変なこと・面白さのタネを見過ごさずに浮かび上がらせる。それでは、視野が広い人が素晴らしいのか?と言うとそういうわけでもない。結局のところは、「視野角」を上手に広げたり、狭めたりできる人が強いんだろう。集団におけるコミュニケーションと1対1のコミュニケーションはまったく違っていて、後者では視野角を狭めてとにかくその人に集中することが肝となったりする。視野角のバイオリズムよくブレイン・ストーミングや議論の場では、Spread and Concentration(発散と集約)が大切と言われる。まずはアイデアを拡散するように出しまくる。その際には批評的な目線は使わない。ひとしきり出し切ったあとは、大事なエッセンスに対して集中的に議論を深めていく、というふうに。一般的には、視野角を広めたものは深掘りができなくなる。狭めた場合には深められるが、その対象が限定される。これが大前提となる。さて、ここからが本題である。私たちの「生活」「遊び」「興味関心」、いろいろな呼び方があると思うのだけど、アクティビティに対しても視野角の広さや狭さは存在しているなーと感じるのだ。何か新しいものをどんどん知りたい。もっと違う面白いことがやりたい。食べたことがないおいしいものを食べたい。会ったことがないような変わった人に会いたい。こういう時期もあれば、いまは新しいものよりも、なじんだものと触れ合いたい。ルーティンのような生活がしていたい。誰とも会わずに一人でいたい。こんなふうに感じる時期だってある。気分のバイオリズムに浮き沈みがあるように、視野角にも広げたくなる時期と狭めたくなる時期がある。このことに自覚的になれば、もう少し生きやすくなる人が多いんじゃないだろうか。視野角という言葉が曖昧ならば、「広く・狭く」「浅く・深く」「未知へ・既知を」「能動的に・受動的に」「アッパーな気分・ダウナーな気分」、こんな対立軸のはざまを周期的に行き来していると思えば、もうちょっと分かりやすくなるかもしれない。とんでもなくアクティブで社交的だった人が、違うタイミングではいまいちノリが悪いということは往々にしてある話である。これも周期の問題なんだろう。俺自身がそうなのである。そしてこの周期は数カ月単位で往復する人もいれば、数年単位の人もいるし、もしかすると10年単位の人だっているかもしれない。こればっかりはその人が生まれ持ったリズム感としか言いようがない。九勝六敗くらいがちょうどいい?さて、最近思うことは「自分から狭い世界に閉じこもるときは楽しいけれど、それを強要されると息苦しくなる」ということだ。いや、そもそも狭い世界は大嫌いだ!どんどん世界を広げたい!という人もいるんでしょう。ただ、俺は前述のとおり周期の中でほとんどの人が狭い世界に閉じこもりたくなる時期があると考えている。自分から望んで閉じこもるときは、安心感や開放感がある。だけど、外界からそれを強制されると、途端に窮屈さを感じてしまうものだ。「STAY HOME」だってそうでしょう。この時期に外出しまくりたいとは(少なくとも俺は)思わないけれど、「外出できるけど、外出しない」と「外出できないから、外出しない」では、まったく意味合いが違う。できるけどしないのと、できないからしないの間には、大きな隔たりがあるのだ。食事だってそうで、ある人が「食えないと、食わないが生死を分かつ」と語っていた。能動的に食べないのであればそれは断食で、自分の意思の賜物(たまもの)であり、デトックスの観点でも最高になり得る。逆に、受動的に食べられないと感じているとき、人はそれを飢えだと認識する。自分の気持ち次第という意味合い、外部から強制されるという意味合い、両面がある言葉なんだと思う。そう、先に挙げた「広く・狭く」「浅く・深く」「未知へ・既知を」「能動的に・受動的に」「アッパーな気分・ダウナーな気分」という生き方の態度。自分の現状のモードが自発的な意思にもとづいているものなのか、あるいは外界から強制されたものなのか。そのことに思いを巡らせてみると、苦しいときに自分をもう少し楽にする手掛かりが得られる気がしている。「最近、新しいものを見ていなかったから意識的に取り入れてみよう」とか「最近、広く情報を集めすぎていて疲れているから、ミニマムに絞りこんでいこう」というふうに。そういえば「Narrow」は「ギリギリで」みたいなニュアンスもある言葉である。narrow escapeで間一髪かわす、みたいな意味です。何ごともギリギリとか余裕がない状態は避けたいものですが、俺が好きなエッセイに「九勝六敗を狙え」というものがあります。麻雀放浪記で一世を風靡(ふうび)した阿佐田哲也さん(本名で直木賞も受賞している)が『うらおもて人生録』で書いたものです。要は大勝ちできればそれは素晴らしいことだけど、どうしたって無理とかゆがみが出てくる。九勝六敗くらいが理想的じゃないか、という内容です。なんなら八勝七敗(勝ち越し)で上々と言っています。雀聖と呼ばれた博打(ばくち)打ちが至った境地ならば、辛勝に対する見方が変わるなーと思ったことを覚えています。勝負を極めた人は、勝ち方と同じくらい、絶対にある負けるタイミングでの負け方が大事だとよく語ります。それなりに長い人生で勝ち続けることはできない。いっときの負けを狭い視野で安易に大ごとだと捉えないようにしたいものです。別のところで阿佐田哲也は、多くの人って人生の最後で結局はプラマイゼロでトントンで終わるんじゃないか?とも言っています。これもまた、なかなか味わい深い言葉ではないでしょうか。
2021年06月10日コラムニストの桐谷ヨウさんによる新連載「なーに考えてるの?」がスタートしました。ヨウさんがA to Z形式で日頃考えていることや気づいたこと、感じたことを読者とシェアして一緒に考えていきます。第12回目のテーマは「M=Money(お金)」です。浪費家の自分がやっておいてよかったこと今日はお金の話をしようと思う。お金ってパスポートだ。お金で幸せになれるかはその人次第だけど、少なくとも不幸になることを避けることはたやすくなる。いちばんの効用は「選択肢が増える」ことだろう。食べたいものを食べるときに予算を気にしないで済む。どこかに行くときにより快適な手段を選べる。お金を持っていないと代替案を選べないけれど、持っていれば選ぶ権利が生じる。そう、自由を獲得するためのひとつの方法として、お金があるんだろう。最近では「FIRE(Financial Independence, Retire Early=早期リタイヤ」という言葉がはやっている。少し前に老後2,000万円問題が取り沙汰されたが、お金の悩みは尽きないもんなんだろう。ちなみに俺は浪費家である。20代はずーっと貯められない男であった。金銭感覚がバグっていると何人から言われたか分からない。そんな自分が「これは知っておいて、やって良かった!」という庶民の知恵をシェアしていきたいと思う。収入を天引きまずは収入を天引き。ちょっと、聞き飽きてますよね。ここで離脱しないでくださいよ。『漫画 バビロン大富豪の教え 「お金」と「幸せ」を生み出す五つの黄金法則』にある通り、古代バビロニア時代から言われてきたことが「収入の1割を貯金」なのである。というのもサラリーマンの生涯年収は中央値で2億円*らしいので、1割を貯金するだけで老後2000万円問題が解決してしまうのである!そう、あればあるだけ使ってしまうのは古来より変わっていない人間の性質のようだ。バビロン大富豪の教えでは「欲望にはかぎりがない」と書かれている。要は手取りが20万円のときは20万円で買える欲望を、50万円のときは50万円で買える欲望に手を出してしまうのが人間ということなんでしょう。実感ありまくります。『私の財産告白 本多静六叢書』の日本が誇る財テクの元祖・本多静六は収入の1/4を貯金せよ。雪だるまのもと(資本の元手)ができたら投資にまわせ。こんなふうに言っていますね。例えば、勝間和代さんは2割を天引きして、投資信託にブチ込め(ドルコスト平均法をもちいてノーロードのインデックス銘柄を対象)と言っています。人間はリミットいっぱいまで使い切るように習性が出来ているので、「いつかやる」は永遠に来ない。20代の自分自身に教えたい真理です。銀行口座を複数持つ&統合管理サービスを使用する今度はテクニカルな観点です。一緒くたに管理しているものは、用途が見えなくなって、管理が破綻してしまいます。仕事のファイルをなんでもかんでも同じフォルダにぶち込んでいると、わけが分からなくなるのと同じです。そこで銀行口座を複数持ってください。考えられるのはこのあたりでしょうか。・給与振込先・生活用の口座(給与が振り込まれたら、必要分を残して即座に別口座に移すのが基本)・生活防衛資金口座(何かあった際に引き落としてOKな口座。数カ月〜半年分の生活費が目安)・ガチ貯金用の口座(生活防衛資金を貯め終わった後に、どんどん貯めていく貯金口座)・クレジットカード引き落とし用口座・金融商品引き落とし用口座もちろん人によっては貯金用口座はひとつでOKかもしれませんし、生活用口座とクレカ引き落とし口座は兼用してもよいでしょう。また、金融商品はクレジットカードで購入できる証券会社もあります。とにかく物理的に「お金の居場所」を分けることで、たやすく引き落とせないように障壁をつくってほしいのです。そして、貯金用口座の残高が増えれば増えるほど、そこに手をつける気がびっくりするほど失せる自分に気づくはずです。そして、それらを家計管理アプリでバーチャルに統合して、可視化します。俺はマネーフォワードMEを使っています。これで自分が所持している「お金たち」が、スマホ・パソコンから簡単にリアルタイムで確認できるようになります。口座を分けることのデメリット(視認性)は解決できます。おそらく多くの人は使っていない口座がいくつかあるはずなので、すぐに始められると思います。ちなみに俺は昔からネット銀行が好きなので、新生銀行・住信SBIネット銀行・楽天銀行あたりを使っていますが、なんでも良いと思いますよ。メインになる口座だけは、振込手数料が複数回無料のステージになるようにしておいたほうがいいですけどね。投資を始めるお金自身にお金を増やしてもらうために、自ら働いてもらう。そのためには投資(投機ではなく、あくまで投資)が不可欠です。投資は少なからずリスクを伴うため強烈に推奨することはできません。ただ、俺はお金を勉強し直した結果として、始めることにしました。元手が少ないから投資ができない?いえいえ、そのために国がiDeCoやらNISAやら優遇措置をつくってくれてるじゃないですか。雀の涙ほどの金利で銀行にお金を預けるのは、時間というお金を増やすための資源を無駄遣いしているに等しいです。かのアインシュタインはこう言ったようです。「複利は人類最大の発明。 知っている人は複利で稼ぎ、知らない人は利息を払う」これくらい投資における複利を活用できるメリットはとてつもなくデカいのです。借金が雪だるま式で増えるように、元手を雪だるま式で増やすことができるのもまた、複利なのです。例えばつみたてNISAの年間上限額40万円を、利率5%で25年間まわしたとき、1,900万円に達します。元本は1,000万円なのに。これが複利の力です。実際には5%はそれなりにリスクを取っていますし、信託報酬や税金があります。ですが、貯金と比較した際に絶大な効果があるのは分かっていただけるのではないでしょうか。オススメの書籍は『図解・最新難しいことはわかりませんが、お金の増やし方を教えてください!』と『お金は銀行に預けるな 金融リテラシーの基本と実践』の2冊。基本戦略としては共通しています。手数料が無料のインデックス投資信託を、なるべく安い信託報酬の投資信託会社から購入する。アクティブ投資はインデックス投資に勝てない。短期間でやめると負ける可能性があるが、長期間(10〜15年以上単位)持ち続けていれば、これまでの前例でいえば、株式市場は結果的に右肩上がりに上昇し続けている。こういった考えになります。何を買えばいいか分からない人は、こういった情報を見ていくのも良いでしょう。「投信ブロガーが選ぶ! Fund of the Year 2020」いずれにせよ、「絶対に勝てる投資」は存在しません。投資の世界における「リスク=価格の振れ幅」であり、高いリターンが得られる可能性があるものは、高い損失を生む可能性があります。また、素人目にみても今の株式市場は間違いなく高騰しすぎているので、どこかで下落するはずです。実際に手を出すのはそこからでも良いかもしれないですね。ポイ活最後は庶民的なポイント活動です。ポイ活の良いところはノーリスクで数パーセントのリターンを得られることでしょう。投資に比べて天国です。気をつけることは2つかな。・ポイントを貯めるために、余計な買い物をしない・貯まったポイントを消費するために、余計な買い物をしない当たり前のことなんだけど、うっかりやらかしそうになります(笑)手を出しやすいところは、クレジットカード。公共料金とか税金とかも全部クレジットカード支払いにして、日常生活の支払いもすべて1枚のカードに集約させて、そのポイント(マイルとか)を徹底的に貯める。あるいは楽天ポイント・dポイント・Tポイント・コンビニ各社のポイントを貯めていくとかでも良いでしょう。「経済圏」と呼ばれるように、換金・交換する際の自由度が高いポイントサービスを選べのがコツです。その意味で俺はマイルはあまり使い勝手がよくないので苦手です。自分は通販で楽天をほぼ使いませんが、それでもクレジットカード・モバイル・インターネット回線・電気ガス・証券口座を利用することで、一時期は10倍までポイント還元率が上がっていました。また、入会ポイントもがっぽりいただきました。最近では改悪ラッシュで下がっていますが、それでも7倍です。ウマ味はだいぶ減ったと言われていますが(おそらく楽天モバイルの費用捻出のため……**)、現時点ではまだまだ利用する価値があるポイント・サービスだと思いますよ。ポイ活のために「今までになかった労力が増える」のであれば、それは避けたほうが良いですが、既存の生活スタイルを特に変えないのであれば、切り替え手続きだけで済むので、ぜひトライしてください。ノーリスクです。俺がフリーランス時代に得た大きな学びは「お金のことは、まずは知ることが大事。そして実際にやってみるだけで得することが多い」ということです。最近ではサラリーマンもふるさと納税を活用する人が増えていますが、ああいった「やらない理由がないこと」にはどんどん手を出していってほしいなーと思ったりします。金脈は身近なところにゴロゴロころがっています。取りこぼさないようにしてください!*
2021年06月03日コラムニストの桐谷ヨウさんによる新連載「なーに考えてるの?」がスタートしました。ヨウさんがA to Z形式で日頃考えていることや気づいたこと、感じたことを読者とシェアして一緒に考えていきます。第11回目のテーマは「L=Let(やろう)」です。“Let”がつく音楽が気になる昔からタイトルに”Let”がつく音楽が気になることが多い。小さい頃は、ビートルズの”Let it be”。ポール・マッカートニーの夢をもとに創作された「なすがままに」というメッセージが打ち出された曲である。10代は、アブリル・ラヴィーンの”Let Go”。スケーター・ファッションでボーイッシュな同世代の女の子がメガヒットを飛ばしたアルバムタイトルが「解放しろ!」だった。20代の終わりは、ディズニー映画「アナと雪の女王」のテーマ・ソングの”Let it go”が世間的には流行った。「ありのままで」という邦訳がつけられていたけど、なんとなく「ほっとけよ」「きにするな」というニュアンスで使われているような気がする。いずれにせよ、”Let”というワーディングには「大いなる流れを持ったなにかの存在」と「自分を縛っているものからの解放」という意味合いを帯びているように、俺には感じられる。だから、ちょっと気になるのだ。さて、俺なりに世代を振り返って、どんな年代だったかを思うがままに書いてみようと思う。俺自身の体感と、まわりを見て感じたことである。10代は言うまでもなく「無敵(無力)」の時代である。大人になってから感じることだけど、中高生の無敵感はハンパじゃねぇ。電車、街中、すれ違う至るところでその気配を感じる。それは勘違いと世間知らずがもたらすものだし、自分ひとりで何かをできる人はそうそういないのだけど、えげつないほどのエネルギーを持ち合わせている。そういうのを見たときに、俺は「いつまでもなくさないでほしい」という思いと、「いつかはなくなるから、精一杯味わっておいてほしいな」という思いがないまぜになる。20代は「無鉄砲(無謀)」の時代である。本人は自立した大人になったつもりだけど、まだまだかわいい存在で世間に折られ、それに立ち向かうなかで戦い方やかわし方を学んでいく。そして、頭でいろいろと考えながら、結局は勢いで物事を乗り越えていく。そんな微笑ましさがあったような気がする。30代は「変容と再生」の時代じゃないだろうか?これまでの自分の在り方・やり方を自省をしながら、あらためて自分を解放していく。そして、無謀を有望に変えていき、実現していく時期なんじゃないだろうか。「自分さがし」という言葉は若者を揶揄ぎみに語るときに使われる言葉だけど、まわりを見ていると30代の女性と40代の男性の多くは、こっそりと「自分さがし」をしている人が多いように俺には見える。それは、再構築したくなる時期と重なっているんじゃないだろうか。これが上手くいかないときに訪れるのが、いわゆる中年クライシスなんだと思う。「自分とは何か?」「自分らしさとはどんなことなのか?」考えていくとドツボにハマりそうな奥が深い話である。でも、これを誤魔化して生きていくのは、けっこうしんどい感じがするので、30代以降の仲間たちには一緒に乗り切っていきませんか?と考えている。ここからは、個人的にオススメの「自分を知る」ための方法を書いていきます。自分が持ってる強みって?『ストレングス・ファインダー』1冊目は、『さあ、才能(じぶん)に目覚めよう 新版 ストレングス・ファインダー2.0』(日本経済新聞出版)です。こちらはギャラップ社が運営する「才能診断」サービス。同書を購入するか、公式サイトで支払いをすることで診断できます。人が持つ先天的な才能=強み(この本では13歳までに習得したと定義されている)は変わらないという思想のもと、34に分類された個性のなかで、上位トップ5を診断してくれます。たとえば俺が持っている資質は・活発性(とにかく動きたくてしょうがない性質)・戦略性(乱雑な状態のなかから目的への最善の道を見つける)・最上思考(ダメなものを平均にするのではなく、自他の良いものを活かす)あたりです。数年前、10年越しに診断してみましたが、この3つは変わらず入っていました。環境の変化や価値観の変化に伴い、少しの入れ替わりや、順位の変動が生じるようですね。ストレングス・ファインダーの思想は「苦手なことに労力を費やすな。自分の強みを活かせ」に集約されます。それこそ最上思考の発想です。そして「自分の強み」とは、えてして自分で気づいていないものです。当たり前のようにやっていて、他の人もそうであると思い込んでいる。このギャップに気づけたとき、人は自分の才能に気づけるのです。そして他人にやさしくなれるということなんでしょう。人は体の動き方のクセを持っている『体癖』整体という言葉は、野口晴哉(はるちか)という治療家がつくった言葉である。彼は身体を壊すあらゆる人を見ていく過程で、人はそれぞれ固有の体の動き方のクセを持っていることを洞察するようになる。身体とは筋肉と骨で出来ているが、筋肉が偏った運動(動き方)をするため、疲労が臨界点に達したときに体を壊すという理を見つけるのだ。そして、その偏った動き方(偏り運動)のクセを大まかに10種に分類した。それが『体癖』(筑摩書房)である。頭のなかで物事が完結する上下型、好き嫌いが軸の左右型、合理的で損得勘定に聡い前後型、負けず嫌いのねじれ型、愛憎が基準の開閉型……という具合である。心と体がつながっているとはよく言われるが、特定の筋肉の動き方をする人は、特定の心の動き方をさせるようになる。逆に、頻繁に訪れる特定の心の動き方が、特定の筋肉の動き方を習慣化していく。これ自体に人間観察の妙や、占いのような面白さがあるのだけど、もっとも大事な観点として、体癖ごとに「感受性が異なる」という事実がある。同じことを言っても刺さる人と、刺さらない人がいる。ある人は素直に受け取ったのに、ちがう人にはどうもおかしな伝わり方をした。そういったことはすべて感受性のちがい=受け取り方のちがいに起因している。そう、自分自身の体癖を知ることは、自分自身の感受性を知ることに等しい。自分自身が外界から刺激を受け取ったときに、それをどのように感じるのか。いや、感じさせられてしまうのか。無意識に、反射的に、どんな風に受け止めてしまうのか。これを知ることと、自分を知ることは不可分なのだ。前田裕二さんの自己分析1000問『メモの魔力』最後はライトな感じでいこう。国民的女優と付き合っていることで有名になった前田裕二さんの『メモの魔力』(幻冬舎)。彼は超絶ストイックで有名だけど、学生時代から本当にすごくて、就職活動時代に徹底的に自己分析を掘り下げていったらしい。本を読むとわかるけど、とにかく物凄い。そんな彼が書籍の付録としてつけてくれているのが「自己分析1000問」である。いろんなテーマ──「夢」「性格」「知人・友人」「趣味・嗜好」について、幼少期・小学校・中学校・高校・大学・社会人という風に、同質問を何度も何度も、ひたすら答えていく。これに答えていくのは本当に骨が折れる作業なのだけど(俺のように記憶力が低い人は、昔のことなんか忘れてるので…)、答えていくなかで自分の核になる部分が見えてくるのだ。そう、自分が何を大事にしてきたのか、どういったことを軸に生きてきたのか。それが質問に答えていくうちに見えてくるのだ。公式にpdfが無料公開されているので、これだけでも見てみるといいかもしれない。(右開きの書籍をそのままpdfにしているので、ページ順序がおかしくなっていますが…)やり方はなんだっていいと思う。自分自身を何度も何度も、いろんなやり方で、徹底的に見つめていくことで、「大いなる流れを持ったなにかの存在」に身を任せることも、「自分を縛っているものからの解放」も少しだけ容易になるんじゃないだろうか。
2021年05月27日俳優の桐谷健太とタレントの小島瑠璃子が25日、都内で行われた新「のどごし〈生〉」磨き抜かれたうまさ完成披露会に出席。桐谷は、小島のフォローに感激した様子を見せた。ビール界のソムリエ資格「ジャパンビアソムリエ」を取得したという桐谷。複数のビールの注ぎ方を解説し、缶からジョッキへビールを注ぐも、ジョッキから泡があふれそうに。「ちょっと多かったですか……?」と苦笑いする桐谷を尻目に、小島は桐谷より綺麗に注いで見せた。また、『のどごし〈生〉』のキャッチコピー「ゴクゴクうまい」にちなんで、59.59秒にわたってうまさを演説でアピール。結果、目標より5秒長くなってしまうも、小島が「ほぼ……59秒59でした! 熱い思いが伝わってきて、すごい飲みたくなりました」とフォロー。桐谷は「むちゃくちゃいい子やね……」と感激した。イベント中、合計3回ビールを注いだ桐谷について小島は「3回注がれて……どんどん上手になりました」とニッコリ。それを聞いて桐谷は「泡が元気だったぁ! 爽快なのど越しなので、僕が思っている以上に、泡も皆さんの前でテンション上がっていた」と弁解した。小島のほうが上手に注いでいたのでは、と報道陣から指摘されて桐谷は大笑い。小島が「隣のお兄さんが、確実に泡多すぎたので、『私は失敗できない』と思ってそこは緊張しました」とほほ笑むと、桐谷は「すばらしい!」と場の空気を読んだ小島を褒め称えた。
2021年05月25日