今季限りでの現役引退を表明した澤穂希のプレーが、まだ見られる。12月19日に行われた『第37回 皇后杯全日本女子サッカー選手権大会』準々決勝、澤が所属するINAC神戸レオネッサはASエルフェン埼玉に2-0で勝利し、12月23日(水・祝)・等々力陸上競技場での準決勝に進出したのだ。第37回皇后 杯全日本女子サッカー選手権大会 チケット情報スタメン入りした澤はフル出場を果たし、ゴールこそ奪えなかったが、中盤の位置から積極的に攻撃参加し2本のシュートを放った。澤が起点となり、前半9分に先制点を挙げたDF・近賀ゆかりが試合後に「澤さん、また澤さん。澤さんって何人いるんだろうと思った」とコメントしたように、ピンチの場面には必ず顔を出し、体を張って敵の攻撃の芽を摘み、守備にも貢献した。90分間、誰よりもピッチを縦横無尽に走り回った。また、I神戸には澤以外にも、GK・海堀あゆみ、DF・近賀、MF・鮫島彩・田中明日菜・中島依美、FW・川澄奈穂美・大野忍・高瀬愛実・京川舞・増矢理花と、なでしこジャパンに名を連ねる顔ぶれが揃う。「最後にこのメンバーで『皇后杯』で優勝して笑顔で終わりたい」という澤の願いは、メンバー全員の願いでもある。準々決勝で2点目を決めた高瀬が「今シーズン積み重ねたものを、試合でしっかり出せれば優勝できる」と語った通り、一丸となり持てる力を余すことなく発揮すれば、澤の現役引退の花道を飾れるはずだ。準決勝では、浦和レッズレディースをPK戦の末に撃破したベガルタ仙台レディースと対峙する。今季のベガルタは攻守両面で主力を失いながらも、『なでしこリーグ・エキサイティングシリーズ』を2位で終えた。今シーズン得点ランク3位タイの9得点を挙げたMF・川村優理を筆頭に、DF・坂井優紀、FW・有町紗央里ら日本代表メンバーがチームを牽引している。今季『レギュラーシリーズ』ではホーム・アウェイともにI神戸に敗北を喫しているが、10月24日に行われた『エキサイティングシリーズ』では4-2で勝利を収めた。両軍ともに、相手にとって不足はない。女子サッカー界のレジェンドの有終Vまであと2つ。『第37回 皇后杯全日本女子サッカー選手権大会』準決勝は、12月23日(水・祝)・等々力陸上競技場にて第一試合・ベガルタ仙台レディース×INAC神戸レオネッサのほか、第二試合・日テレ・ベレーザ×アルビレックス新潟レディースの試合が行われる。決勝は12月27日(日)・等々力陸上競技場にてキックオフ。チケット発売中。
2015年12月22日先日、結婚を発表したばかりの女子サッカーの澤穂希(INAC神戸レオネッサ)が8月23日(日)に映画『わたしに会うまでの1600キロ』の試写会に来場。映画への共感や主人公と重なる部分などについて語った。『ダラス・バイヤーズ・クラブ』のジャン=マルク・ヴァレ監督がアカデミー賞女優のリース・ウィザースプーンを主演に迎えて実話を基に作り上げた本作。3か月間、たった一人で1600キロを歩くことで自らの人生を見つめ直し、成長していく女性の姿を描く。大きな拍手に迎えられた澤さんだが「サッカー以外が得意分野ではないので…試合のときより緊張しています」と映画の試写会という“アウェー”の場でやや硬い表情。それでも聞き手を務める「AERA」の浜田敬子編集長より、まず結婚について「おめでとうございます」と声を掛けられると「ありがとうございます」と笑顔を見せた。映画については「自分と重ね合わせながら見ていたりもしました」と語り「人生でここまで来るのにいろんな困難があったけど、目標や夢を持ったら最後までやり抜くところは共感しました」と明かした。主人公は歩き始めてから何度も「やめたい」と思いつつ、それでも歩みを進めていく。澤さん自身、子どもの頃からサッカー漬けの日々を送り、15歳で日本代表入りし、その後、アメリカにも渡ったが、やめたいと思ったことはなかったのか?と問われると「『やめよう』とは思わなかったけど、いろんな困難がありました。最近では1年ほど代表に呼ばれず、ワールドカップのメンバーに選ばれるのか?と不安もありましたし、諦めてはいなくても心が折れそうになることはあった」とふり返る。ただ、そんなときでも投げ出すことはなかった。「やるべきことはコンディションを上げることや、練習に取り組む姿勢。いまの主人にもいろいろ聞いてもらってアドバイスをもらったり、いろんな人に支えてもらって今があります。急に上には行けないので一歩ずつですね」と頷く。人生の転機については20歳前後でのアメリカ行きを挙げる。「英語も全く話せず、荷物ひとつで行った感じ」と述懐。当時、そもそもいまのように海外リーグに挑戦する女性選手はほとんどおらず「何もない状態で飛び込んだ。いまのようにネットもなくて、家族への手紙も届くのに1週間かかって、返事もまた1週間かけて届く」と苦労を明かす。それでも「とにかくうまくなりたかった。日本で通用しても世界で戦うには体の大きさもメンタルもまだ勝てなかった」と貪欲に足りないものを補うためにサッカーに打ち込んだ。「少しでも道は作れたかな?」と日本の選手たちが次々と海外へと飛び立っていくようになった現状に先駆者として喜びを口にした。サッカー選手としての今後については「あと5年も10年も現役でやっているということはないと思うので、『やりきった』と思えるように全力で1日1日を頑張りたい」と目標を口にした。これまでも支えとなってくれたという夫とは現在、澤さんが神戸のチームに所属していることもあり「別々に暮らしている」とのことだが「お互いの信頼関係がしっかりしていれば。私も相手を尊敬しているので。毎日コミュニケーションはとってます」とニッコリ。「役所関係で名字が変わったくらいでまだそこまで(変化を)感じてないです」とも。また「結婚したから引退するとかではなく、そういう(=結婚や出産を経ても現役を続行する)選手が増えたら嬉しいです」と語っていた。『わたしに会うまでの1600キロ』は8月28日(金)よりTOHOシネマズ シャンテほか全国にて公開。(text:cinemacafe.net)■関連作品:わたしと会うまでの1600キロ 2015年8月28日よりTOHOシネマズ シャンテほか全国にて公開(C) 2014 Twentieth Century Fox. All Rights Reserved.
2015年08月23日LINEは22日、同社COOの出澤剛氏(いでざわ たけし)が新社長に内定したと発表した。22日開催の取締役会で新社長の内定を決議した。現社長の森川亮氏は顧問に就任する予定。なお、一連の人事は、2015年3月下旬に開催する定時株主総会、取締役会を経て正式に決定する。出澤剛氏は1973年生まれの41歳。1996年に早稲田大学卒業後、朝日生命保険会社に入社。2001年にはライブドアの前身となるオン・ザ・エッジに入社し、2003年に同社の執行役員副社長に就任。2007年にはライブドア代表となり、経営再建を果たす。以後2012年に、傘下であったNHN Japanグループ3社の経営統合にともない、NHN Japanの取締役に就任。翌年2013年には、同社の商号がLINEに変更されたことに伴い、LINEの取締役となった。2014年1月には、同社のCOOとなり、同年4月に現職のCOOに就任した。(記事提供: AndroWire編集部)
2014年12月22日セゾン投信の金融庁への認可申請作業は粛々と続けられていました。新たな投信会社の運営に足るスタッフ集めも始めて、人づての紹介などを通じて徐々に人員体制も整って来ました。そんな折、突如自分の人事発令がありました。セゾン投信の準備を推進するインベストメント事業部長から本部付部長という何だかよくわからない肩書きへの異動、つまり推進のラインから外されてしまったのです。新しい役職はラインもなくチームもなく、完全な閑職にしか見えません。ここまでセゾン投信の立ち上げを進めてきて、再び認可直前の処で、またも転んでしまいました。さすがに凹みました。自分が陣頭指揮をとらなくとも、それまで一緒に汗をかいてきたスタッフたちが粛々と準備作業は続けてくれています。そして「自分たちでしっかり作業は進めるから」と私を力強く励ましてくれます仲間のありがたさを実感しました。それでも当局からの認可申請書提出を受諾される、いわゆる仮認可となった時、このままだとまた申請取り下げにもなりかねません。しかし、ひとたびラインから外れてしまうと、もう表だって自分が動くことは出来ません。だらだらと毎日が過ぎでいきます。焦りました。今度もやっぱり支えてくれたのは澤上さんでした。夜こっそりと何度も居酒屋で作戦会議を重ねました。「いいか、これは戦いだ! 絶対に負けるわけにはいかん。」と彼は必死に一緒になって思案してくださいました。そして「反対している取締役とランチのアポを入れてくれ!」と言われました。ひとりひとり、疑念を持つ役員さんたちに対して、セゾン投信が創ろうとしている価値がどれだけ世の中への社会的意義のあることか、さらにはさわかみファンドの伸長を裏付けとして、どれだけ世の中に長期投資のニーズが大きいか、ゆえにビジネスとしても必ず成功するはずであると、懸命に説得してくださったのです。澤上さんは意気消沈している私に、「いいか、俺はセゾンと仕事をするんじゃない、お前と仕事をするんだ!」と激励してくれました。人間と人間の繋がりで自分は支えられている。心から嬉しい、忘れられない言葉です。最後は林野社長に直接話をしに行ってくださり、私をセゾン投信のチームに戻すよう必死で頼んでもくださったのです。最終的には、否定的だったクレディセゾン取締役会で林野社長の強い意思表明があって、セゾン投信を蘇生させてくれました。「セゾン投信がやろうとしていることは、世の中にあって正しいアプローチである。しかし日本の金融業界は全く違う状況だ。だからいずれ必ず我が国の個人のお金の流れは正しい方向に変わってくるはずだ。但しそれが5年後なのか10年後なのかは自分にもわからない。それでも10年後に正しいお金の流れに変わった時、セゾンは10年前から正しいことをやっていたんだ! と世の中に言わせようじゃないか。だから今始めよう!」この言葉で、取締役会は改めてセゾン投信への出資を認めてくれたのです。2007年1月、セゾン投信は正式に金融庁から投資信託委託業の認可を受けました。そこからは大慌てで商品組成の準備に入りました。バンガード社とも最高品質の資産形成型ファンドを世に出そう! と議論を重ね、「セゾンバンガードグローバルバランスファンド」が設計されました。同時に運用会社としての自己主張として、アクティブ運用の「セゾン資産形成の達人ファンド」の2本立てで商品申請を行い、3月15日に長距離列車「セゾン号」は2つのファンドを設定、無事運用を開始出来たのでした。振り返れば、私が澤上さんから「お前もセゾンで長期投資の直販投信を作れ!」と背中を押されてから7年掛かりでの長期投資の旅への出発でした。【拡大画像を含む完全版はこちら】
2012年11月06日何はともあれ、セゾン投信という会社が発足しました。しかし、この段階では会社とはカタチばかり、投資信託委託業の認可申請にも至らず、金融庁に日参する一方で、新たなビジネスを営むに足るスタッフもクレディセゾンのインベストメント事業部で同社の設立に携わってくれた数人を除き、これから人探しです。当時、投資信託会社は認可事業として金融庁の厳しい審査基準をクリアする体裁を整えなければなりませんでした。その条件はどんなに小規模なブティックの会社であっても基本的な機能、つまり運用部門から投信計理部門、コンプライアンス部門に至るまで投信業務はすべて自前で賄うことが求められていました。おまけにセゾン投信の事業モデルは直接販売方式、すなわち通常の投信会社であれば、証券会社、銀行に担ってもらう最終顧客たる個人投資家への販売業務も自ら行う必要があるため、販売機能へのシステム投資と人材投入等で更に大きな経済的負担がかかります。これらをすべて賄い継続的に営業可能とするためには普通の会社を創業するよりもはるかに大きな資本が求められます。加えて投資信託委託業務を行うには常時、最低5千万円の純財産額を維持しておかなければならず、そのバッファーも資本として必要です。つまりこの先、セゾン投信が当局の認可を得て実際に営業を開始するためには、数億円から十数億円の規模の資本金が必要であり、クレディセゾンの本格的な出資なくして経営は成り立たないわけでした。バンガードの加藤社長も何度もクレディセゾンに足を運んでくださり、セゾン投信と見据える新しい投資信託の意義と可能性を関係の首脳陣に訴えて下さいましたが、一向にコンセンサスが得られず、しばらく膠着状態が続きました。こうなれば先に実績を作ってしまおうとセゾンカード会員向けに「資産形成セミナー」を開催していくことにしました。澤上さんに講師をお願いしたら、喜んでボランティアとして協力してくださり、会員宛カード利用明細書の中にセミナーのご案内を入れて発信したところ、あっという間に千人以上の応募がありました。これをカード会員向けのサービスという位置づけにして、東京を手始めに名古屋・大阪と回を積み重ね、澤上さんが訴えて下さる、長期で財産づくりをしていく必要性が、セゾンカード会員という必ずしも金融商品・資産運用という観点で結ばれているわけではない顧客マーケットにも十分共感を得られるという貴重なマーケティングになりました。そして澤上さんの講演の後、主催者からの後援という名目でセゾン投信という長期投資の投信会社を準備中であることをお客様に告げ、公にすることで、少しずつアリバイ作りのようなことをしていきました。もちろん、全く無名の私がいくら熱っぽく語ったところでどれだけ浸透するわけでもないのですが(笑)。ただセゾンカード会員向けセミナーを開催するたび、この事業への強い手応えを感じ、今度こそ何があろうと絶対に負けられないぞ!との勇気が湧きあがってきたのです。インベストメント事業部には少数ですが、私の想いに信頼して付いてきてくれる仲間もできたのだから尚更です。【拡大画像を含む完全版はこちら】
2012年10月19日バンガードという会社は今もって創業者ジョン・ボーグル氏の運用哲学を徹底して貫く、頑固な独立系運用会社です。米国の投資信託業界は、バンガードのみならずアメリカンファンズのキャピタルやフィデリティ、他にもフランクリン・テンプルトンやT.ロウ・プライス、債券運用で有名なピムコなどなど、キラ星の如く創業者の運用理念を踏襲する独立系がしっかりと根付いていて、彼らが提供し数十年にわたって元気に資金が入り続ける長期投資ファンドが残高上位にズラリと君臨しています。片や日本の投資信託業界はというと、それとは全く違う構造とヒエラルキーで成り立っており、個人投資家の資産運用という観点では実に彼我の差が歴然です。日本の投資信託にも既に50年以上の歴史があるのですが、米国との大きな違いは、まず投資信託業界自体の成り立ちにさかのぼるべきでしょう。我が国に証券投資信託法が、施行されたのは1951年、そして最初に投資信託会社として発足したのが野村、日興、山一、大和の各証券会社だったのです。この4社、なつかしいですね。戦前からバブル崩壊まで長きにわたって証券業界に君臨してきた証券4社でそろって、投資信託業務を開始したのでした。つまり厳格な大蔵省行政管理下で、投資信託業を許されたのは証券会社のみで、その後、準大手クラスの証券会社が続々と投信業界に参入してきます。そして1959年の投信法改正によって、投信業務は証券会社から分離され、子会社として投資信託会社が設立されました。すなわち日本の投資信託業務の草分けは証券会社、結果的に投信会社は証券業界主導で拡大していくという成り立ちだったわけで、その流れがしばらく続いたのでした。証券会社にとって投資信託とは彼らが店頭で顧客に販売する商品メニューの一つです。そして、いわば商品を製造するメーカーたる投資信託会社はすべからく証券会社の子会社だとすれば、投信会社の経営は株主たる親(おや)証券会社に支配されることになります。おのずと投信会社の役割は親(おや)証券の販売戦略に則った商品を製造すること、つまり製品発注元の親証券の意向に従う受注生産をする下請的存在として確立していきます。これが、系列といわれる日本独特の投信業界におけるヒエラルキーとなったわけです。いずれの投信会社も社長以下経営陣は親(おや)証券出身の人たちで占められ、その経営ベクトルは親(おや)証券の要求に沿った商品組成、そしてファンドは証券会社の営業マンが売りやすい、すなわち販売手数料を効率よく稼ぐことができる売れ筋ファンドを次々と粗製乱造していく構造になってしまったのです。そしてこの系列構造によって、日本の投信業界は証券会社の下に存在する、社会的地位の低い産業に位置付けられてしまったのでした。こうした成り立ちのまま、投資信託会社は永らく大蔵省所管の免許制で、証券会社系列以外には免許は与えられず、その門戸は閉じられたままでした。1990年代に入り、金融規制緩和で外資系金融機関系列に免許が与えられるようになり、その後日本の銀行、保険会社などの金融機関系列の投信会社も認められるようになりました。それでも免許を取得できるのは金融機関の資本による運用会社のみ。私が初めて投信会社設立を思い立ったころは、非金融機関資本での免許は不可能と言われていた時代だったのです。そして銀行系も外資系も脈々と築かれてきた販売会社主導の投信業界のヒエラルキーを変えるには至らず、銀行系は系列銀行の窓販主体に、外資系は販売会社たる証券、銀行におもねって商品を扱っていただく、という「下から目線」の業界慣習は今でも続いているのです。ちなみに系列至上の構造に風穴があいたといえるのは、投信業が免許制から許可制に緩和されて間もなく認可を得たさわかみ投信で、やはり澤上さんのブレークスルーなくして、セゾン投信はじめ独立系投信会社が存在することはなかったといえるでしょう。こうした日本独特の投信業界の慣習と秩序に、米国の独立系運用会社も、軒並み従うカタチで日本に参入しています。米国では直販で成長してきた彼らも日本進出にあたっては販売会社に商品を卸して売っていただく方式を選択したのです。唯一バンガードだけがそれをよしとせず、日本で投信ライセンスを取得することなく今に至っているのです。【拡大画像を含む完全版はこちら】
2012年09月04日クレディセゾン本社の事業開発部という部門では、約1年半カード事業というリテールビジネスの世界を初めて体験し、大企業組織での仕事のやり方を知り、金融と全く異なる業界の方々ともたくさん出会う機会があって、それまで16年あまり続けて来た資産運用一辺倒の自分自身を振り返る貴重な時間となりました。ひとたび運用の世界から離れてみて、資産運用という仕事を冷静に客観視出来る空間に身を置けたわけです。「長期投資」という概念のとらえ方にも大きな変化を自覚していました。それはあくまでも自分のための長期投資だったものが、世の中のための長期投資へと視点が変わったことです。以前こだわっていた長期投資とは、運用者としての自分が実現したい運用手法としてのものだったのですが、長期投資の社会的存在意義をど真ん中に据えるようになったのです。クレディセゾンという大企業の中で企画される様々な案件は、すべてのコンセプトがひとつのサービスコンテンツとして実行されていく過程で、顧客ニーズを掘り起こしてそこに応えて具現化していくという思考プロセスに基づいていたのです。そして組織全体にこの思考回路が当然のように根付いて仕事が積み上げられていく。こうしたビジネスと顧客の関係を客観的に捉える感覚が自分に欠如していたことに気付き始めました。長期投資が正しい運用だ、それを指向するのは運用者として当たり前のこと、という独善的な発想から、社会的価値や顧客ニーズに鑑みた長期投資の存在意義を感じられるようになったのです。それは自分と言う個人がやりたい仕事としてあった運用者の立場からの長期投資から、社会との適合性に即した長期投資へ、つまり事業家として長期投資を捉えることができるようになったということでしょう。澤上さんがいつも私に説いてくれた「良い世の中を創ろうぜ!」の意味が本当に腹に落ちたのも、実はこの時期だった気がします。振り返れば、自分本位の長期投資から世の中のため・生活者のための長期投資へ、事業の存在意義と蓋然性に基づいたビジネスモデルのブラッシュアップができた時期でした。先述の『敗者のゲーム』から得心したパッシブポートフォリオ。つまり市場平均の運用で負けない投資を実現する考え方は、資産運用の世界とは無縁の一般生活者にとって、最も納得性のある長期投資だと、大きな事業モデルの整理ができました。運用から離れたこの時期があったお陰で、結果として長期投資のビジネスモデルがソフィスティケートされることができたのでしょう。そしてチャンスは確かに到来しました。2005年3月、クレディセゾンの新組織で新たにインベストメント事業部という部署が新設され、私はそのライン部長に任命されたのです。もちろんカード事業を生業(ナリワイ)とするクレディセゾンで私はほとんど実績を挙げられていません。それでもずっと長期投資の投資信託ビジネスに執着し続けて、それを言い続けて来た姿を見ていてくれたのでしょう。本当に嬉しかったです。その部署は新たな金融サービス事業を企画立案する部門でした。早速クレディセゾンの金融サービス鳥瞰図を作り、当然の如くその構図のど真ん中には投資信託事業を据えました。再び投資信託会社創りに向けての前進が始まりました。すぐに澤上さんへ報告に行きました。「よかったなあ、よく我慢した。よし、早く出て来いよ!」と我が事のように喜んで下さいました。この時さらなる幸運として、新たに大きな出会いを得られたのです。それまで投資信託事業の実現可能性を一緒に考えて議論を続けていた外資系投資信託会社の社長さんが、「中野さんが描くビジネスモデルのパートナーとして、これほど最適な相手はいないよ」と別の外資系運用会社の代表を紹介してくださることになったのです。実は私が新たに考えていた事業モデルは、ブランディング戦略として理念の合致する運用会社とのパートナーシップによる合弁投信会社の設立でした。その外資系投信会社の社長さんとは、その前提でずっと話を積み上げて来ていたのです。ところが彼はもっと最適なパートナーが居ると言うのです。私の描く事業理念をしっかり共有くださっていたからこその、この社長さんの心意気でした。紹介されて彼と一緒に訪れた先は、渋谷のはずれにある小さなオフィス、そこは米バンガード日本法人の事務所だったのです。この時が加藤隆バンガードインベストメンツジャパン代表との初めての出会いでした。まさに今に至るバンガード社とのパートナーシップの原点が、このご縁だったのです。【拡大画像を含む完全版はこちら】
2012年07月18日既存の金融業界の慣習とヒエラルキーの中では決して実現できないことを体験し、澤上さんの背中にインスパイアされて再び目覚めた長期投資への思い。今度は自ら投資信託会社を創って、直販で資金を集めるプランでの再挑戦が始まりました。とはいえ投資信託委託業はまだ金融庁の許認可ライセンスで、認可に至るまでのプロセスや提出書類の作成の仕方、あるいは組織の在り方などさっぱりわかりません。無論本屋さんに行っても、投信会社の作り方のノウハウ本などもあるはずもなく、途方に暮れました。すると澤上さんから「便利な男がいるから、彼に手伝ってもらえ」とある人を紹介されました。その便利な人とは、ファンドコンサルティングパートナーズ代表の房前督明さん。現在もセゾン投信アドバイザーとして私を支えてくださっている方です。早速房前さんと、大手町のパレスホテルのロビーラウンジでお会いしました。私のバックグラウンドと長期投資への渇望、そして「未来図」での体験を経て澤上さんから薫陶を受け今に至った経緯と、直販投資信託の実現に向けた構想をすべてお伝えしました。ところが房前さんからは色よい反応が得られません。実は房前さんは、大手証券出身でその後外資系投資信託会社でのさまざまな経験を経て独立された方で、その後数社の金融機関系投資信託会社設立をコンサルティングし、さわかみ投信設立の際も澤上さんの片腕として投信ライセンス許認可への作業に携わっていたのです。房前さんは、独立系運用会社としてさわかみ投信が認可を得てさわかみファンドを設定するまでの道程がいかに茨(いばら)の道であったか、金融機関系列の投信会社許認可とは雲泥の差の高いハードルを実体験されたこと、そしてそれは既存金融業界に連綿と横たわる目に見えぬ参入障壁であり、直販でそのフィールドに挑むことの困難さを充分理解しているが故の、躊躇(ちゅうちょ)だったのです。「悪いことは言わないからやめておいたほうがいいですよ」とおっしゃいます。「直販は日本の個人マネーの流れを抜本的に変えるための最善の方法ではあるが、澤上さんも今に至るまで大変な苦労を重ねて、未だ結果が出せていない状態で、わざわざ大企業に職があるあなたたちがそんな無謀な挑戦をすることを心からはお勧めできない。業界秩序に抗うということは、並大抵の覚悟じゃ続けられないですよ」と今度はこちらへの説得を始められたのです。私も負けじと本気の決意を持って、「是非ともお力を貸していただきたい!」と食い下がっての応酬。絶対あきらめないぞという気魄は伝えましたが、結局この日の初対面では応諾を得られなかったのです。それでも翌日、房前さんはすぐに電話で返事をくださいました。「一晩考えましたが、真剣な思いを理解しました。こうなったら一緒に日本の投資信託に革命を起こしましょう!」とアドバイザーとして仲間に加わってくださったのです。実に心強い味方が私にまたひとりできました。今に至るまで、房前さんの存在は私にとってかけがえのない財産なのです。房前さんの的確な指導で、直販投信会社創りが緒につきました。投資顧問会社の同僚たちと役割分担し、認可取得に向けての作業が始まりました。早速金融庁を訪問し、趣旨説明から入りました。やはりさわかみ投信が許認可されていた実績はありがたく、当局にも検討の俎上に載せてもらえました。それでも金融機関系列以外の独立系として、しかも直販モデルでの事業可能性を受け入れてもらうのはやっぱり大変でした。セゾングループが持つ顧客基盤を前提としたストーリーで事業計画を構築して行くことで、どうやら当局の納得を得られるところまで進みました。運用はこれまでの投資顧問事業で培って来たネットワークを活かして、海外の独立系運用者と複数交渉し、世界の成長を積極的に取り込んで行ける国際分散型のファンドオブファンズを前提に、着々と商品のカタチも準備が整って来ました。これまでの仕事で長くお付き合いしていた人たちが、共感してスタッフに加わってくれました。そして、あとは金融庁から認可申請書を提出してもいいですよ、といういわゆる仮認可を待つところまでたどりつきました。気が付いたら、澤上さんに「お前も直販ファンドを作れ!」と言われてから2年近くが過ぎていました。でも、もう一息です。スタッフみんなで認可を得られる日を楽しみにワクワクと盛り上がっていましたが、間もなく訪れる試練を誰も予測することはできませんでした。【拡大画像を含む完全版はこちら】
2012年05月22日さわかみ投信を訪れ、同社のやっていることを知り、そして澤上社長(現会長)からいただいた示唆によって、既成概念に縛られていた自らの考え方は根底から覆りました。確かに現在でも公募投資信託約4千本のほとんどすべてが証券・銀行あるいは郵便局のいずれかを通じて販売されています。現実に鑑みれば、投資信託を組成したなら必ず販売会社に卸して売ってもらうことは当然の常識だ、と考えることは決して間違いとは言えないでしょう。なので、業界の常識やしきたりの範疇でビジネスモデルをとらえることも、極めてノーマルな発想です。そして多くの場合、その中に問題意識が生じて阻害要因を特定できたとしても、それが常識の壁にぶち当たると途端に思考停止となり、妥協の産物に甘んじるかあきらめてしまうものです。まさに澤上さんに会うまでの私がそうでした。日本の投資信託業界に長期投資が根付かない理由。それは証券・銀行という販売会社主導で、販売することのみが目的化して、販売側が売り易い商品を指向し、新しいファンドを次々と売り出し乗換え営業によって手数料稼ぎに血道を上げるから、と阻害要因は明白です。それならボトルネックの根本である販売会社経由というフローをビジネスモデルから除去してしまおう! それが直接販売、つまり直販モデルです。そしてさわかみ投信は業界の常識と慣習を打ち破って、確かに直販モデルで長期投資に真っ向挑戦していたのです。澤上さんとの出会いは、私に絶大なる衝撃を与えました。確かに長期投資を実現可能とする方法がある、純粋な驚きであり、闇の中に光を見たような発見でした。私はそれから幾度も澤上さんのもとを訪ねました。澤上さんが考え決断し、実行しているさわかみ投信のモデルを、そして澤上さんが目指す長期投資の理念についても、猛烈に知りたくなったからです。澤上さんも忙しいなか、有り難くも時間を割いてくださいました。後から聞いた話ですが、当時澤上さんのところには同業者や大手の金融関係者など、たくさん訪ねて来ていたそうです。私もそのうちのひとりだったわけですが、みんな澤上さんが誠実に対応すると「良いことを聞いた、素晴らしい!」と言って帰って行くのですが、それっきりだったようで、「中野は何度も話を聞きに来た。だから信用した。」と仰っていました。やがて当時のさわかみ投信の幹部の方々とも交わるようになり、みんなとビールを飲みながら話を聞かせてもらえるようになりました。その時のひとりが、現ユニオン投信社長の田子慶紀さん。当時さわかみ投信のバックオフィスを一手に引き受けていました。もうひとりは、現ありがとう投信社長の岡大さん。さわかみファンドのファンドマネージャーだったのです。澤上さんも、私の長期投資への思いの本気度をちゃんと受け止めて下さって、やがて「中野、お前もさわかみ投信のような直販投信会社をセゾングループで作れ」と言い出しました。そしてもう一言、「お前が本気で取り組むなら俺は何でも協力してやるよ!」この言葉に私は目覚めました。そして澤上さんの大きな人間性にも惚れました。よし! もう一度チャレンジしてみよう! 改めて長期投資への挑戦へと心が定まりました。従前は、投資信託会社のライセンスを既存金融機関以外の資本で得ることには門戸が閉ざされていました。しかしそれから投信免許は認可制に変わり、さわかみ投信が確かに投資信託委託業の認可を受けたのです。今度はセゾン資本で投資信託会社としての認可を得よう、と事業モデルをいちから構築し直しです。当時投資信託委託業の認可を得るには、最低純資産1億円の縛りがありました。これはあくまでミニマムの純資本であって、これを1円でも不足させた段階で営業停止になるため、事実上数億円以上の資本を必要とする、かなりお金がかかる事業でした。私がいた投資顧問会社を投資信託会社に衣替えするプランを描きましたが、まとまった資本を得るには親会社であるクレディセゾンの出資が必須です。クレディセゾンの林野宏社長とはその頃ほとんど面識がなく、それも当然で私は小さな子会社の一社員でしたから、それならと社長宛に手紙を書きました。日本に根付いていない長期投資が、既存金融業界には決してできない新たな価値の提供となること、そのためには直販でダイレクトに顧客と結び付いて同じ価値観のお金を集める必要があること、そして澤上さんという人が既に行動を始めていることまで、とつとつとしたためてこっそり秘書さんに渡しました。数日後、林野社長から私宛に電話がかかってきました。「中野君か、手紙読んだよ。おもしろいじゃないか。やろうよ!」。よく知らない一社員の手紙をちゃんと読んでくださり、直接電話で伝えてくださる。それだけでも感動でした。これで長期投資を実現するための投信会社設立プランがスタートしたのです。暗黒のトンネルから一気に抜け出た気分でした。【拡大画像を含む完全版はこちら】
2012年05月08日私が初めて公募投資信託の運用に取り組んだ「未来図」というファンドは、やがてまったく販売(買い注文)がなくなり、解約だけの資金フローとなりました。日本の公募投資信託は現在約4千本存在していますが、実際に日々コンスタントに買い注文があるファンドはたいがい新規設定の旬なものに限られており、大多数は資金が出て行くだけで徐々に残高が減っていくファンドか、解約され尽くされて一切の資金の動きがなくなった屍(しかばね)ファンドなのが実態です。そしてひとたび解約一辺倒の資金フローに転じてしまうと、再び資金流入が蘇ることはほとんどありません。こうしていつの間にか、販売会社の人たちからも忘れ去られてしまう、それがずっとこの業界の日常風景なのです。こうした実状の中では、10年、20年、30年というスパンで運用者が長期的資産運用を目指そうとも、あるいは個人が将来に向けてじっくり資産形成へと行動しようにも、その機会を得ることができない。かように日本の投資信託は販売会社の都合で投資家も運用会社も振り回され続けているのです。文字通り「未来図」に最早未来がなくなったことで、私が描いていた投資信託での長期投資の実現という夢ははかなく散りました。多くの既存投信会社は、解約されていく資金流出を埋め合わせるため、再び販売会社に御用聞きをして、新しいファンドを設定する、そして…この繰り返しの”無間地獄”に陥っています。今も昔も同じ光景です。そんながっくり失意の時、私に新たな出会いがありました。さわかみ投信の澤上篤人社長(現会長)です。さわかみ投信は「未来図」が設定されたのと同じ頃、投信会社の認可を取得、さわかみファンドを設定し、世に送り出していたのです。マネー誌で澤上さんの記事を読んで、なんとしても会ってみたくなりました。それは私が思い描いている長期投資の理念を、違わず熱烈に紙面で語っていたからです。そのときの私はこれからどうしていけばいいのか途方に暮れており、まさに藁にもすがる思いだったのかもしれません。早速マネー誌の馴染みの記者さんに澤上さんとの引き合わせを頼み込みましたが、澤上さんからの返事は「セゾンのヤツが会いたい? そんな大企業に俺は用はない!」とけんもほろろでした。そこまでばっさりと断られると、もうますますこちらも会わなければ気がすまなくなってきます。再び件の記者さんにお願いしました。「忙しい!」とサッパリです。3度目の依頼でようやく面談を受けてもらえました。念願かなったわけですが、実はそのとき私は具体的に澤上さんの何が知りたい、ということが定まっているわけではなかったのです。とにかく自分の長期投資への思いを伝えたかっただけなのかもしれません。「さわかみ投信」の事務所を訪問しました。今の同社よりずっと小さく質素なオフィスでした。つっけんどんで高慢な人なのかなぁ、などと予想していましたが、ニコニコ顔で澤上さんは出迎えてくださいました。自己紹介をするより先に、自分の資産運用という仕事と長期投資に対する思い、そして「未来図」での自らの体験と憤りの心中を赤裸々に吐露しました。澤上さんはうなずきながら、私が話すことを最後まで黙って聞いてくださいました。ひとしきり私が自らの出来事を話し終わった後、澤上さんから発せられた最初の一言は「そうか、わかった。お前はバカだな!」でした。そして最初のニコニコ顔に戻っていました。続いて「よくわかっただろ? 既存の業界の中で長期投資をやろうと思ったって無理なんだよ」。まさにおっしゃるとおりです。それを身にしみて経験したからこんなに悩んでるんです。「だから俺は自分でこの会社を立ち上げたんだよ。そしてさわかみファンドを作ったんだ」。そしてさわかみファンドが既存業界のしきたりとは埒外に、既存会社との関係を持たず、自らダイレクトに個人のお金を集めてファンド運用をしていることを説明してくださいました。証券会社や銀行の販売力を一切頼らずに、投資信託会社が自ら投資家に直接販売する、直販のことです。「自分で資金を集めれば自分の思い通りの長期投資ができるんだよ」。直販という仕組みは知っていましたが、「投資信託とは証券会社か銀行が販売するもの!」という固定観念しかなかった私にとって自らが販売者になることなど思いもよらぬことでした。直販による長期投資の実現! 完全に目からウロコでした。そしてこの日の澤上さんとの出会いが、次の私の針路を定めることになるわけです。【拡大画像を含む完全版はこちら】
2012年04月24日オリンピック応援キャンペーン「ママの公式スポンサー」の象徴として起用P&G(プロクター・アンド・ギャンブル・ジャパン)は1月23日、女子サッカー・澤穂希選手と母親の満壽子(まいこ)さんを、オリンピック応援キャンペーン「ママの公式スポンサー」の象徴として起用、今後、P&Gの広告やキャンペーンなどでの初共演を予定していることを発表した。「ママの公式スポンサー」とは、2012年ロンドンオリンピック出場選手のママたちと世界中のママたちに賛辞を送る活動で、P&Gがオリンピックの世界的な公式スポンサー契約締結に伴う世界共通のキャンペーンテーマ。広告やWebショートムービーなどで初共演P&Gでは、ロンドンオリンピックに向けた取組みとして、ウェブサイト開設やイベントなどを1月23日から開始。4月以降、店頭でのキャンペーンも含めて本格的に展開、澤穂希選手と満壽子さんは、春以降に実施されるP&G「ママの公式スポンサー」の広告やWebショートムービーなどで初共演予定。また、P&Gの提供ナレーションで使用されているメッセージを、企業スローガン「暮らし感じる、変えていく」から、オリンピックテーマ「ママの公式スポンサー」に1月23日より変更するとしている。元の記事を読む
2012年01月25日貴重!さすがにきれいなすっぴん姿元「CanCam」モデルの徳澤直子が、自身のオフィシャルブログにて貴重なすっぴんを披露している。昨年7月にプロ野球西岡剛選手と結婚し、この8月には女児を出産した彼女。まさに幸せいっぱいといったところだ。現在は、メジャーリーグに移籍した夫とともに、家族でアメリカ・ミネアポリスで生活している彼女。最近のブログでは、子どものことに触れることも多く、子育てに奮闘中のようだ。美貌は健在!愛娘も可愛い☆すっぴん姿を披露した写真でも、わが子を大事に抱っこ。抱っこする姿も美しく、産後とは思えない美貌だ。このあたりはさすがといったところか。CanCamモデルを卒業し、ママとなっても美貌は健在のようだ。こんな彼女とイケメン選手としで評判になることも多い西岡選手とのあいだに生まれた子どもだけに、Jr.ちゃんもきっと可愛い子に育ちそう。すっぴんでわが子を抱っこした写真は、ほんの少し、その可愛らしさも見えるようなものとしても貴重な一枚だった。元の記事を読む
2011年09月03日