2022年7月15日、絵本作家の、あいはらひろゆきさんが亡くなったことが分かりました。61歳でした。かつて、あいはらさんが代表取締役を務めていた株式会社キャラ研によると、あいはらさんは同年6月27日に亡くなったといいます。あいはらさんが文章を担当した絵本シリーズ『くまのがっこう』は子供を中心に愛され、図書館や学校の図書室でも人気を博しました。くまのがっこう 公式ホームページ スクリーンショット子供が生まれたことをきっかけに、『くまのがっこう』シリーズを作ったという、あいはらさん。絵本に登場するくまのこたちに、笑顔をもらった人は多いようで、「思い出の絵本をありがとうございます」という感謝の声が続々と上がりました。今後も、幅広い世代の子供たちに、『くまのがっこう』シリーズは本を読む楽しさを教えてくれることでしょう。あいはらさんのご冥福をお祈りいたします。[文・構成/grape編集部]
2022年07月15日女優の高田夏帆が2ndシングル『風の唄』を5月25日にリリースすることが決定した。現在放送中のNHK連続ドラマ小説『ちむどんどん』に主人公・比嘉暢子の友人役で出演している高田。約3年ぶりのシングルとなる今作の表題曲「風の唄」は、高田がMCを務めるTOKYO MX『音ボケPOPS』内の企画から生まれた楽曲で、彼女が大ファンである阿部真央が書き下ろした。阿部はレコーディングにも立ち会ったほか、歌詞とアレンジは本人同士でのディスカッションを重ねて制作された。またカップリングには、高田が初めて楽曲制作に参加したオリジナル曲「今日だけは思い出していい?」が収録される。■阿部真央 コメント高田夏帆さんに「風の唄」を提供させて頂きました阿部真央です。私は、出会った時から夏帆ちゃんの声と、歌い方と、強くて真っ直ぐな意志がとにかく大好きで、その魅力全てを美しく網羅できる曲を作りたくて、風の唄を書きました。夏帆ちゃんのボーカルによって完成した曲だと思っています。この歌が風のようにキラキラと、夏帆ちゃんの声によって軽やかに、多くの人の心に届きますように。夏帆ちゃん、素敵な曲にしてくれてありがとう!「風の唄」どうぞよろしくお願いします!■高田夏帆 コメント再び音楽をやらせてもらう事になりました。2ndシングルです。まだかまだかと自分が一番待っていたかもしれません。今、嬉しくてたまりません!さらに大好きな阿部真央さんが楽曲提供して下さったのです。私が恋した時、落ち込んだ時、前を向きたい時、そばに居てくれた音楽の主です。レコーディングを終え、もっと好きになって帰ってきました!風の唄は私と話して膨らんできたイメージで書いて下さったそうです。この曲に不思議と背中を押される毎日です。今度は私の番。皆さんにとって追い風になる唄になりますように。カップリング曲の「今日だけ思い出していい?」は作詞をしてみました。二曲とも今もこれからもずっと好きな唄です。リリースに向けて闘ってくれた仲間と一緒に歌い続けたいです!<リリース情報>高田夏帆 2ndシングル『風の唄』2022年5月25日(水) リリース●初回盤(CD+36Pフォトブックレット):1,980円(税込)高田夏帆『風の唄』初回盤ジャケット●通常盤(CDのみ):1,210円(税込)高田夏帆『風の唄』通常盤ジャケット【収録内容】※全形態共通M1. 風の唄M2. 今日だけは思い出していい?M3. 風の唄 instrumentalM4. 今日だけは思い出していい? instrumental関連リンクTwitter::
2022年04月25日Twitterやnoteで子育てに関する『気付き』を発信している、保育者のきしもとたかひろさん。連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』では、子育てにまつわる悩みや子供の温かいエピソードなど、親や保育者をはじめ多くの人の心を癒します。なんらかの理由があって不満そうにする子供。大人がその気持ちを理解し、解決に導くにはどうすればいいでしょうか。第18回『あなたごととわたしごと』外食をしていると、少し離れた席で子どもの泣き叫ぶ声が聞こえた。姿は見えないけれど、保護者らしき人がどうにか静かにさせようとしているのが伝わってくる。なかなか泣き止まない声を聴きながら「周りの目も気になるだろうし大変そうだな」「自分ならどんな風に声をかけるだろうか」と思い見ていた。僕が泣き声を気にしていることを察したのか、一緒にいた友人が声の聞こえる方を一瞥しながら「なんや不満なんやろなあ」とつぶやいた。呑気なセリフに笑ってしまう。そりゃ何か不満なことがあるから泣いているのだ。なにを当たり前のことを、と思いながら、当たり前であるのになにか大事なことを言ったように感じる。さっき僕は、大人の目線で「泣きやますことが大変そうだなあ」と思っていた。当然に子どもには子どもの泣いている理由があるけれど、なぜ泣くのかを考えるときに具体的になにが嫌なんだろうかと想像することはあっても、漠然と「不満なんやなあ」と思うことはあまりない。「不満なんやろなあ」という言葉は他人事に見えながらも(実際に他人のことではあるけれど)、実はその子の気持ちにそのまま寄り添う言葉なのではないか。子どもが泣いてしまったり癇癪(かんしゃく)を起こしたりした時に真っ先にそれを鎮めようとする。何が嫌なんだろう、どうやったら泣き止んでくれるんだろう、と焦ってしまう。そんな時に一旦、無責任に「不満なんやなあ」と呟いてみるのもいいかもしれない。それで何かが分かったり解決の糸口を見つけたりするわけではないかもしれないけど、その一言で少し肩の力が抜けて向き合い方が変わるかもしれない。ある時、小学校からの帰り道に急に「学童に行きたくない」と言い出した子がいた。無理に連れて行くわけにはいかないため、休めるかどうかを確認するために保護者に連絡してみたが都合がつかず、渋々学童に向かうことになった。話を聞くと学校で嫌なことがあったらしい。施設に着くまでに気分を切り替えられるように、愚痴を聞いたりくだらない話をしたりして笑いながら到着できた。けれど、いざ室内に入ろうというところでその子は足を止めてしまった。説得しても動こうとはせず、他の子が室内で活動しているのを放っておくわけにはいかないため、別の支援員にその子を見守るようお願いして、僕は一度室内に入り用事を済ませることにした。室内から様子を見ていると、支援員はずっとその子の愚痴を聞いているようだった。埒があかないのでタイミングを見て再度室内に入るように声をかけようかと思っていると、しばらくして何事もなかったかのように部屋に入ってきた。相変わらず不貞腐れてはいるけれど、少しスッキリしているようにも見える。相手をしてくれていた支援員にありがとうございますと声をかけると、「いえ、どうしていいか分からなくて、ただ話を聞いていただけでなにもしていないです」と返ってきた。「なにもしてない」という言葉で、自分が見落としていたものに気づく。僕は玄関先で過ごされるのも困るため、その子を室内に入れることしか考えてなかった。楽しくなるようにと話したことも、その子が学童を嫌がらないようにと思ってやっていた。けれど、それは僕の思いをただ押し付けているだけだったんじゃないかと。なにもせずただ話を聞く。それはすなわちその子の話に耳を傾けるということだ。なにもしていないように見えるけれど、そのなにもしないということがその子に寄り添っているということなんだ。そうやってうまくいったから、子どもに言うことを聞いてほしいときにはまずその子の言葉を聞こう。という話ではなく、知らぬ間に自分ばかりになってしまっているかもしれないから気をつけていたいという話。「こちらの思い通りに動いてもらう」ためにその子の言葉に耳を傾けるのではないもんね。こちらがしてほしいと思っていることは、その子がしんどくならないための数あるうちの一つだ。僕にできるのは、僕が思うその“いい方法”を押し付けることではなく、その子のしんどさに目を向け耳を傾け、そのしんどさを解消できる色んな方法を一緒に見つけていくことだよね。こないだ、掌の中(たなごころのうち)という言葉を知った。文字通り「手のひらの中」のことなんだけど、転じて「手のひらの中にあるように、思いのままになること」の例えとして使われるらしい。そういえば相手を思い通りに動かそうとすることを「手のひらの上で踊らせる」と表現するな、とか、子どもの頃に読んだ西遊記という本でそんなエピソードがあったような気がするな、とか曖昧ながら思い出す。相手を思い通りに動かしたいという欲求は人類の普遍的なテーマなのかもしれないな、と大層なことを考えながら、「けれど」と思う自分もいる。そんな傲慢な思いばかりではないよなあ、と。純粋に、本当に心の底から相手のことが大切だからこそ、という思いは間違いなくあるはずなんだ。その思いを表現する方法を間違うことがあっても。本心として「その子のために」と思ったことが自分の傲慢なのかもしれないことを知ると、自分のその子を思う気持ちさえも否定されたように感じてしまう。全部が間違っている気がして前に進めなくなってしまう。そんなことを思いながらその言葉について調べていると「思いのままになることのたとえ」だけでなく「大切に育て、取り扱うことのたとえ」としても使われることがあるらしいことを知る。同じ言葉なのに反対にも捉えられる意味を持っていて、その言葉が僕と同じように葛藤しているように見えた。大切だからこそ掌の中で育ってほしい、そんな葛藤を子どもとの関わりの中では多く感じる。「その子のために」と思えば思うほど、自分があれもこれも世話をしてあげたくなるけれど、「その子のために」と思うこと自体は悪い事ではないんじゃないか。もし「思い通りにさせたい」という“傲慢な僕”が顔を出したら、そんな僕を否定したり無理に失くしたりしようとせずに「それだけ大切に思っているんだ」って思うことにしよう。そして「大切にする方法を間違えないようにね」って自分に言い聞かせながら、“傲慢な僕”を横に置いておいてあげるのだ。別の方法を見つけてみるから、君はそばにいてもいいけれど大人しくしておいてね、って優しく諭しながら。余談ですが「お腹が痛い」と訴えてきたので「大丈夫?」と声をかけると「大丈夫じゃないけど大丈夫」と返ってきた。心配するほどではないけれど痛いものは痛いということだろう。痛みが落ち着いたと思ったらまた痛みが押し返してくるようで、その度に「いたた」とこぼしている。何度も「大丈夫?」と聞くのもしつこいような気がして、なんて声をかけようかと悩んだ挙句、棒読みで「かわいそう」という言葉が出た。他人事な感じがすごい。全然心配しているように聞こえない。なんかごめん、と思っていたら案の定「ひとごとか!」と笑いながら突っ込まれた。「ほんまに心配してんねんで」と弁解しながら、その人の痛みはその人のもので、どうしたって他人事だよな、とも思ったりする。同じように、自分のことはどこまでいっても自分ごとだ、と“傲慢な僕”を思い浮かべる。そんな中でわずかにある、相手のことを思ったり心配したりする気持ちはどっちなんだろう。と考える。どちらか一方だけとは限らないか。自分ごとと他人事が重なる部分があって、その部分を自分ごとにし過ぎたら相手の領域にまで踏み込んでしまうけれど、自分ごとでなくなったなら心配することもなくなってしまうもの。突き放すでも寄せすぎるでも混ぜるでもなく、その重なったところを重ねたまま大切にする。それが寄り添うってことなのかもしれないな。それからは、僕が例えば「二日酔いか気圧のせいか、朝から頭が痛くて」と嘆いたりするたびに、棒読みで「かわいそう」と返ってくるようになった。気持ちのこもった心配ではないけれど、二人にだけ分かる符号のようなものだから、労ってくれていることが伝わってくる…なんてことはない。全然心配してもらっているようには感じない。もっと心配してくれよ!と少し寂しくなる。けれど、それでいいのだと思ったりもする。その少し素っ気なく感じるお決まりのやりとりが、お互いに踏み入れない部分があることを尊重するためのやりとりな気がして心地よかったりするのだ。きしもとたかひろ連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』[文・構成/きしもとたかひろ]きしもとたかひろ兵庫県在住の保育者。保育論や保育業界の改善について実践・研究し、文章と絵で解説。Twitterやnoteに投稿している。⇒きしもとたかひろnote⇒きしもとたかひろTwitter
2022年03月10日法政大学(東京都千代田区、総長:廣瀬 克哉)は、2021年度「陸前高田市SDGsワークショップ」の最終報告会を2022年3月14日(月)にオンラインで開催します。法政大学と岩手県陸前高田市は、2019年12月に「持続可能な開発目標(SDGs)推進に係る協定書」を締結し、様々な取り組みをおこなっています。2020年度からは、陸前高田市の事業者と法政大学の学生が一緒になって課題解決に取り組む「SDGsワークショップ」を実施しています。2021年度は、昨年度に引き続き、4つの事業者(社会福祉法人燦燦会、村上製材所、橋勝商店、山十(伊東文具店))と学生が、オンラインでSDGsの課題解決に向けたアクションプランを考えました。最終報告会では、学生の視点で考えたプランについて、オンラインでプレゼンテーションを行います。■SDGsワークショップ最終報告会の概要法政大学の9学部・1研究科から応募した19名の学生が、4つのチームにわかれ、それぞれの事業者と協働しながら、SDGsに係る具体的なアクションプランの作成に取り組みました。2021年9月からの約半年にわたる成果を発表します。社会福祉法人燦燦会 「生きがいを感じられる働き方実現のためのブックカバーについて」村上製材所 「人を繋ぐ山」橋勝商店 「橋勝商店から広げるSDGs」山十(伊東文具店) 「伊東文具店×法政大学SDGsへの取り組み」当初は、全チームとも陸前高田市でのリアルな現地学習を予定しておりましたが、新型コロナウイルス感染症の影響により、村上製材所チームを除く3チームはオンラインのワークショップのみとなりました。日時:2022年3月14日(月) 19:00~20:30会場:オンライン(後日YouTubeにて録画配信)当日の流れ(予定)1. 本日の趣旨・出席者の紹介2. 陸前高田市 戸羽 太市長よりご挨拶3. 法政大学 廣瀬 克哉総長よりご挨拶4. 村上製材所現地フィールドワークの紹介5. 学生発表(10分)・事業者様からのコメント(5分)×4チーム(60分)6. 陸前高田市より講評7. 法政大学 小秋元 段副学長より講評 詳細はこちら プレスリリース提供元:@Press
2022年03月07日「三陸花火大会2022 - SANRIKU Fireworks Festival -」が、2022年4月29日(金・祝)に岩手県陸前高田市で開催される。花火と音楽が融合した「三陸花火大会2022」「みんなで夢を打ち上げよう。」をコンセプトにスタートした「三陸花火大会」が2022年も開催。過去には、ドローンやスマートフォンを活用した「花火大会のDX化(デジタルトランスフォーメーション化)」や「キャンプサイトでの花火観覧」などの新しい挑戦を実施。2021年には国内最大級の花火大会となった。「三陸花火大会2022」では、“花火+(プラス)1コンテンツ”をテーマに設定。音楽とシンクロさせた花火"ミュージックスターマイン"を中心にエンターテイメント性の高い内容を予定している。10曲以上の音楽と共に、映像、光が一体となり、陸前高田市の空を華麗に彩る。また今回新設される観覧席は、2種類。打ち上げ地点から一番近いエリアで花火を鑑賞できる「パノラマVIPシート」や、2人並んで座ることができる「スペシャルペアシート」を用意している。他にも、最大4名まで座ることができる「エキサイトBOX」や、車から花火を見られる「ドライブイン花火」なども展開。いずれも、家族や恋人、友達などの大切な人と大迫力の花火をゆっくりと楽しむことができる。さらに、三陸フードを堪能することができる「さんりくフードビレッジ」も登場。三陸食材をふんだんに使用した三陸花火限定のフードや各店舗のオリジナルメニュー、SNS映えするメニューなどの豊富な料理を用意している。【詳細】「三陸花火大会2022 -SANRIKU Fireworks Festival-」会場:高田松原運動公園(岩手県陸前高田市)開催日:2022年4月29日(金・祝)※雨天決行、荒天の場合は中止開場時間:12:00~21:00(予定)打ち上げ時間:19:00~20:30(予定)打ち上げ数:10,000発以上(尺玉100発以上含む)■観覧チケット情報【駐車券別売り】パノラマVIPシート(1名分) 25,000円【駐車券別売り】スペシャルペアシート(最大2名まで) 25,000円【駐車券別売り】エキサイトBOX(最大4名まで) 20,000円【車1台】ドライブイン花火(Drive in HANABI)(車高1,600mm以下/1,800mm以下/2,000mm以下) 40,000円※車の車高に合わせて3種類の中から選択【宿泊可・専用駐車場付き】キャンプサイト(最大10名まで) 100,000円※その他のコンテンツについては、3月上旬を目処に随時発表予定。※本花火大会は、【無料観覧エリア及び無料駐車場】を設けていない。※事前に観覧チケットの購入が必要。※台風・大雨・強風など荒天の場合は中止。中止となった場合は、各種手数料を引いた額を返金。【問い合わせ先】FIREWORKS事務局(三陸花火大会2022 お客様窓口)TEL:050-5526-3851(対応可能時間:10:00〜17:00 ※土日祝日も対応)
2022年02月24日「魔法の天使 クリィミーマミ」のキャラクターデザインを手掛ける人気イラストレーター高田明美の展示販売会「高田明美展」が、銀座三越にて2022年2月16日(水)から22日(火)まで開催される。「魔法の天使 クリィミーマミ」版画や原画を展示販売高田明美は、スタジオぴえろによるアニメ作品「魔法の天使 クリィミーマミ」をはじめ、「きまぐれオレンジ☆ロード」「うる星やつら」のキャラクターデザインを手掛けたことでも知られているイラストレーター。2020年に続き第2回目となる「高田明美展」では、「魔法の天使 クリィミーマミ」を中心に版画や描き下ろし原画を展示販売。ファンタジックなタッチと色彩で表現された、華やかな世界観を楽しめる作品が揃う。クリアファイル&雑貨なども「魔法の天使 クリィミーマミ」の他、「きまぐれオレンジ☆ロード」の版画や原画も展示販売。さらに、クリアファイルや雑貨などのグッズも店頭に並ぶ。【詳細】「高田明美展」会期:2022年2月16日(水)~22日(火) ※最終日は18:00終了会場:銀座三越 本館7階 銀座シャンデリアスカイ・イベントスペース住所:東京都中央区銀座4-6-16※本イベントの内容は諸般の事情により予告なく変更または中止となる場合あり。※来店時は必ず事前に銀座三越ホームページを確認。※状況により入場制限となる場合あり。※期間中、原画または版画を購入した先着100名に、直筆サイン入り色紙をプレゼント。
2022年02月11日「どうも、ブラッド・ピットです」「アンジェリーナ・ジョリーという者なんですが」大仰な人物の名を借りた自己紹介で笑いを取るのは、高田純次の定番ネタだ。いつからだろう、高田は初対面の人に会っても自分の名前を名乗ることはほとんどなくなった。帯番組の『じゅん散歩』(テレビ朝日系)は、そんな高田のバリエーションに富んだ「挨拶ボケ」が見られる、貴重な番組である。初代の地井武男、二代目の加山雄三からバトンを受け継ぐ形で、2015年9月にスタート。『ちぃ散歩』は6年強にわたって続いたが、高田はその記録を今年ついに更新した。いわゆる街ブラ番組だが、高田は施設の案内人や店主に対して実に適当に話しかける。「テレビ朝日の『じゅん散歩』で来ました、私、○○です」という挨拶が定型で、ある日は「中山美穂」、またある日は「島崎藤村」……といった具合だ。高田純次といえば、適当。2006年に出版した著書『適当論』のタイトルを思い起こすまでもなく、そんなイメージが染みついている。だが、適当なだけで番組は続くのか?一見、バカバカしくボケ続けているだけのようで、何らかの法則があるのではないか?同番組の公式サイトを見ても、高田が自己紹介で何と名乗ったかまでは、当然ながらいちいちリストアップされていない。だとしたら、自分で調べるより他はない。そう思い立ち、番組を毎日見ながら、高田の「挨拶ボケ」を定点観測することにした。2018年に『水曜日のダウンタウン』(TBS系)が「高田純次が『高田純次です』と挨拶してるシーン TBSのアーカイブ全部調べても出てこない説」を検証していたが、今回は2021年2月15日から同年12月17日までの『じゅん散歩』219回分のデータを検証した(ただし、日曜日放送の総集編『週刊!じゅん散歩』は除いた)。統計期間内の高田は388回も何らかの形で自己紹介をしているが、いったい何を名乗ったのか? まずはその内訳を分析してみよう。【高田純次は『じゅん散歩』の挨拶ボケで何を名乗ったか?】・人名(アニメのキャラなども含む)……319回(82.2%)・物、動物など……62回(16.0%)・その他……7回(1.8%)やはり気になるのは人名以外の69回分だが、ロケ地に関係した名乗り方をしているケースが圧倒的だ。たとえば、壁に絵が描かれている店に入る際には「テレビ朝日の『じゅん散歩』で来ました、バンクシーですが」といった具合である。海の近くにいるというだけで「コロンブスです」、神社にいるだけで「狛犬です」と名乗ることもあった。唐突に「ジョージ・クルーニーですが」と名乗ることもあったが、自分を飾ってみせる、高田お得意のハリウッド系自己紹介は『じゅん散歩』ではレアケース。番組を定点観測してゆくと、一見、適当な自己紹介のようで、ワードのチョイスにはだいたい根拠があることがわかってくる。分析を進めよう。人名を名乗った319回の内訳は以下のようになる。・地名にちなんだ人名……118回(37.0%)【春日通りに面している店で「春日八郎です」など】・施設名、店名にちなんだ人名……175回(54.9%)【服部栄養専門学校で「忍者ハットリくんです」など】・その他……26回(8.1%)【なんの脈絡もなく「オダギリジョーです」「舘ひろしです」「佐藤健です」など】また、人名以外を名乗った62回を分類してみると、以下のようになる。・地名にちなんだもの……4回(6.5%)【京野菜の店で「おばんざいという者なんですけど」など】・施設名、店名にちなんだもの……51回(82.2%)【鍋料理店で「三元豚という豚なんですけど」など】・その他……7回(11.3%)【神社でおみくじを引いた後、「どうも。中吉です」など】■意外とマジメ?ロケ地を下調べしたボケも多いやはりこの番組での高田は、他の番組での「パリス・ヒルトンです」や「レオナルド・ディカプリオです」といった、本人とのギャップを感じさせる挨拶ボケとは違って、人名であろうとなかろうと、ロケ地と関係のあるワードを選ぶことが多い。また、事前に調べたと思われる知識で対応していることも見えてきた。たとえば、北区の飛鳥山周辺を散歩しているオンエアでは「江口洋介」「春風亭小朝」、江戸川区内のロケでは「後藤真希」「松崎しげる」「亀梨和也」と、ご当地出身の著名人の名前が使われる。おそらくスタッフとともに調べているのではないか? 何がなんでもボケたい、毎日の帯番組でも視聴者を飽きさせずにボケ続けたいという、高田の意外とマジメな姿勢が浮かび上がってくる。案外、適当ではない性格なのかもしれない。ここまでの傾向から、挨拶ボケに関してはある程度の法則と高田の意外な努力の形跡が見えてきた。しかし、そのあとの高田が店主らとする会話など番組を通しで見ていると、「やはりこの人は適当だ」と思わざるを得ない。その地の名店を通行人に聞いておきながら、「えっ、右に行くと有名な店がある?ちょうどこれから左に行こうとしてたんだよな。ハッハッハ!」と豪快に笑い飛ばすさまは、彼の真骨頂である。初対面の人間にこんなに失礼なことを言っても許されてしまうのは、高田が適当男であると全国的に認知されているからに他ならない。そして、振り切ったボケをアドリブで続けられる高田の適当力には、ただただ感嘆する。ちなみに、定点観測を行った219回分の放送のなかで、本名である高田純次を名乗ったのは、わずか1回だけ。7月6日放送の鎌倉編で、案内人のミス鎌倉に対して「ミスターテレ朝の高田純次です」と挨拶した瞬間のみだった。これからも永遠に、高田がマジメに自己紹介をすることはないだろう。もしもなんのボケもなく、「こんにちは、高田純次です」といつも名乗るようになってしまったら、日本中が不安に包まれることは間違いない。(TVウォッチャー・犬飼 華)
2021年12月29日高田純次の定番といえば、自己紹介の際の「どうも、ジョージ・クルーニーですが」と言った挨拶ボケ。7年目に入った帯の冠番組『じゅん散歩』では、実に多彩なバリエーションが見られる。約1年間『じゅん散歩』を定点観測し、挨拶ボケを統計した結果は別の記事で発表した通りだが、今回は調査の中で見えてきた高田純次の意外と知られていない人物像をお伝えしたい。細かすぎてどうでもいいことばかりかもしれないが、40年以上もの間テレビでの活躍を続け、2022年1月には75歳を迎える高田純次のファンはかなり多い。人生経験も豊富な高田を「適当」の一語で片づけてはならない。いや、適当であることには違いないのだが、人間は多面体であるはず。それは高田とて例外ではないことを紹介していこう。『じゅん散歩』をしばらく見続けて気づいたのは、高田は“あんことバターの組み合わせ”に目がないということだ。立ち寄った和菓子店で高田がきまって探すものは、あんことバターを使用した饅頭。そういったメニューがない飲食店には、「あんことバターを入れてみたらどう?」と新メニューを提案することもしばしばある。“あんことバター”と同じレベルで好きなのは、金の話だ。高層マンションを見かけると、「ほぉー、これは1億じゃきかないな」と感想を漏らす。高そうな包丁を扱う店では、「待ってね……これは100万?あー、150万か。それくらいするわなー」と値段当てクイズを始める。どうやら高田は値段を推理するのが好きなようで、そのあたりは『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』のレギュラー解答者だった血が騒ぐのだろう。また、東京デザイナー学院からジュエリーデザイナーの道に進んだ経歴からもわかる通り、高田はデザインや美術、はたまた建築などの知識が豊富。風変わりなデザインの家を見かけると、「あれは隈研吾さん(のデザイン)かな?」とつぶやいてみたり、帝国ホテルを設計したフランク・ロイド・ライトの名前を散歩中に何度か出したりもしている。ちなみに、8月放送分では隈研吾本人と共演を果たしている。いかにも高田らしい会話の流れとして、店に入った高田が店主に対して決めつけた質問をすることがよくある。「(店先の看板に書いてあった)100種類のパスタって、あれはハッタリみたいなもんでしょ?」(11月30日放送)と断定したり、立派な木版画を見ながら「これ写真でしょ?」と質問したり(12月17日放送)。店主が怒り出すのではないかとヒヤヒヤするのだが、高田は何を言っても許される。100種類のパスタを作る労力を考えれば、簡単に「ハッタリ」などとは普通は言えないものだが、高田の軽妙かつ適当なイメージが失礼さをねじ伏せるのだ。間もなく後期高齢者となる高田純次。まだ足腰の調子も悪くないようで、ロケ番組にも今のところ支障はなさそう。ファンとしてはまったくうれしい限りだが、いつ体調を崩すかはわからない。いつまでも元気に全国を歩き回ってもらい、一日でも長く適当な挨拶ボケでファンを笑わせ続けてもらいたい。(TVウォッチャー・犬飼 華)
2021年12月29日株式会社ヒューマン・モア(所在地:広島市西区、代表:西原 梨沙、以下 ヒューマン・モア)は、広島市中区紙屋町「ひろぎんホールディングス本社ビル」の1階「トゥモロウスクエア内イベントスペース」にて開催される、地域特産品を紹介・販売するイベント「ひろしまあたり⁉」に参加致します。参加日程は12月16日(木)の午前11時から午後4時までとなっており、広島県産牡蠣を使用した万能だし「かきの極み 万能だし」を販売致します。「ひろぎんHD本社ビルトゥモロウスクエア」詳細:【 】「ヒューマン・モア」詳細: 【 】販売商品のご紹介かきの極み万能だし寒い季節の鍋物にお好み焼きもより美味しく牡蠣の濃厚な旨味がすごい!「かきの極み 万能だし」地元広島の名産である牡蠣を使用した、牡蠣の旨味たっぷりの万能だしです。健康食品で使用している湯煎抽出された牡蠣肉エキスを使用し、パックにしました。臭みも少なく味も良く、栄養も豊富と評判です。いつものお料理が簡単にますます美味しく出来上ります。かきの極み詳細ページ : 通販サイトよりのご購入ご遠方の方は通販サイトによる販売も承っております。こちらでは現在、12月25日までの期間「かきの極み」を2,000円以上(かきの極み2袋以上)お買い上げの方に、弊社製品サンプルセット1,000円相当をプレゼントいたしております。対象の購入先は下記記載の通販サイト、弊社運営の購入ページとなります。お電話でのお問い合わせも受け付けております。この機会に是非ご利用くださいませ。47club : Yahoo!ショッピング : ヒューマン・モアは、今後もより一層サービスを充実させ、お客様の食と健康をサポートしてまいります。「ひろしまあたり⁉」参加概要参加日時: 12月16日(木) 11:00~16:00会場 :ひろぎんHD本社ビルトゥモロウスクエア内イベントスペース〒730-0031 広島県広島市中区紙屋町1丁目3番8号アクセス: アストラムライン「本通」駅すぐ広島電鉄宇品線「本通」電停すぐ詳細URL :【 】会社概要社名: 株式会社ヒューマン・モア代表者 : 代表取締役 西原 梨沙所在地 : 広島市西区中広町三丁目3番21号設立 : 平成16年9月1日事業内容: 健康食品及び栄養補助食品・一般食品の製造・販売、機能性素材の研究・開発資本金 :1,000万円URL :[ ]本件に関するお客様からのお問い合わせ先株式会社ヒューマン・モアTEL : (082)295-2204お問い合せフォーム:[ ]{ } 詳細はこちら プレスリリース提供元:NEWSCAST
2021年12月14日Twitterやnoteで子育てに関する『気付き』を発信している、保育者のきしもとたかひろさん。連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』では、子育てにまつわる悩みや子供の温かいエピソードなど、親や保育者をはじめ多くの人の心を癒します。親なら一度は直面する「静かにしないといけない場所で子供が騒いでしまう」という悩み。子供と触れ合ううちに、きしもとさんはあることを感じたといいます。第17回『今できなくても、ずっとでも。』「子どもに注意するときに笑いながら怒るやつ、よくしてたでしょう?僕もあれ最近やるんです」と、同僚から言われた。「真面目な顔して言うんじゃなくて、あえてミステリアスに笑いながら注意するんです」と、丁寧に説明してくれるけれど、意味がわからない。まったくピンときていない僕をよそに、「宿題してる子の横で騒いでいる子に厳しく注意しても、またしばらくしたら騒いじゃうでしょう。で、こっちも疲れるじゃないですか。ていうか、そもそもなんでやかましくしたらあかんねんって話なんですよ」と、誰に向けているのかわからない愚痴を漏らしている。「子どもにとっては、あんな狭い部屋で静かにするってことの方が無理なんですよ」と、急に話の核心が現れた。なるほど、たしかにそうだな、と納得する。子どもがやかましいこと自体は別段悪いことではない。良く言えば快活で元気な子とも言える。その部屋が狭いから元気なことが困るだけで、べつにその子に「静かな人」に育ってほしいわけではないのだ。ただ今、その場所でそうしてほしいだけなのに、「それができない子は悪い」として怒ってしまうことって、色んな場面で起きている。もちろんルールを守れるっていうのは大事だけれど、ルールってのはお互いに気持ちよく過ごすためにあるものやもんね。静かにしなきゃいけない環境がその子にとってはしんどいことだってある。静かにできない子が悪いのではなく、「静かにしなきゃいけない環境」と「元気なその子」とが噛み合っていないのだと見ると少し見え方は変わってくる。いい気づきだなと思っていると、「だから最近は、“今だけ静かにしてほしいねん”って伝えるようにしているんです」と言うので「笑いながら怒った顔で?」と尋ねると、「そんな変なことしませんよ」と返ってきた。いや、自分が言うたんやん。通勤途中の電車で、赤ちゃんが泣いていた。抱かれて座っているうちはご機嫌だったけれど、ベビーカーに乗せようとすると泣いてしまうようだった。荷物が多いのでどうしてもベビーカーに乗ってもらわないと次の駅で降りられないらしい。泣き声が車内に響くこともあり居た堪れないようで、嘆くように「お願いだから」とこぼしながら困ったようになだめていた。もしそんな時があったら、と想定していたその時が来たと思い、勇気を出して「ベビーカー押すので抱っこしててあげてください」と声をかけた。警戒して当然なのに「お願いします」と言ってもらえたので、緊張しながらもホームに降ろした。エレベーターの近くに辿り着く前に「ここで大丈夫です」と言われて、たどたどしくベビーカーを手渡すとすぐに去っていった。出過ぎたマネだったかな、怖がらせたなら逆に申し訳なかったな、とその日は一日反省会だった。助けになりたかったけどうまくできなかった。ずいぶん前に発達支援の仕事をしていたころ、障害がある子に付き添って電車やバスに乗って出かけることがあった。小学生から中高生までそれぞれが行きたい場所へ、例えば科学館や映画館やファストフード店など、その子の“お出かけ”に付き添う。その子の特性によって、電車やバスの中で独り言を呟いていたり、急に大きな声を出してしまったりすることがあった。その度に僕は周りの目を気にして言い訳するように「静かにしようね」と声をかけた。本当はその子のことを怒る必要なんてないのに、周りの目を気にして怒らなきゃいけないように感じて半ばアピールのように怒ってしまっていた。その子は悪くないのに、静かにしなきゃいけない場所とその子とがただ噛み合わないだけなのに、もし大きな声を出してしまうにしても、出さないように工夫するにしても、その子がしんどくないようにできたかもしれないのに。電車に乗って、赤ちゃんが泣き止まなくて周りに謝っていたり、飲食店で癇癪(かんしゃく)を起こして叫んでいる子に静かにするよう怒っていたりする場面を見るたびに、その時の後悔を思い出す。本当は怒らなくていいのに怒ってしまうことって、お互いにとてもしんどいんだよね。誰も悪くないもん。迷惑かもしれないけれど、変なやつだと思われたかもしれないけれど。「大丈夫ですよ、気にしないで大丈夫だから」と伝えたかったんだよな。下手だったけど。幼児や小学生と電車に乗るとき、「静かにしていようね、大事なことだからね」と教育や躾の上で大切なことのように話していた。静かにじっとできてえらいね、と褒めてあげることもあった。けれど、よく考えたら電車のなかでは静かにすることを、その子の力による必要ってあるんだろうか。じっとしていられることって、大事なんだろうか。そもそも「静かにする力」ってなんなんだと聞かれたら答えられない。もちろん、静かにしなきゃいけない場面もあるけれど、それならどんな方法であっても「その場で静かにする」ができればいい。じっと座っていなきゃいけないのなら、どんな方法であっても「その場でじっと座っている」ができればいいんじゃないか。その時、その環境でそれをする必要があるだけなら、その子がしんどくないようにスマホで動画を見たりお菓子を食べたりして気を紛らわせたっていいんじゃないか。その環境で、自分がしんどくない方法で適応できるならそれでいいはずなのに、なにか、物に頼らずにその子の力でそれを克服することが大切なことのように思っている節があった。「その子がそれをできるようになること」ばかりを大事にしなくていいのかもしれないな。たとえば子どもがガラス窓に向けておもちゃを投げたとして、当然投げちゃいけないよと伝えるけれど、今その子が「窓に向かって物を投げない」を身に付けないといけないか、身に付けられるか、といったら、その子の発達によっても性格によっても変わってくるんだよね。ダメなことをまだ理解できなかったり、理解できても衝動を抑えられなかったりするのなら、その子に繰り返し注意して怒って怒られてを繰り返すのはとてもしんどい。それなら、「その子の力で我慢できること」にこだわらずに、投げても大丈夫な環境に変えたり、投げてもいいものを与えたりすれば、怒ることも怒られることも減ってお互いのしんどさが軽くなる。「しないでって言ったことを何回言ってもする」と悩んだ時には、今その子が身に付けなくてもいいことを、身に付けることが難しいことを、その子に求めているのかもしれないと思ってみれたら。僕たち大人は、子どもに「やらないでほしいこと」もたくさんある。「きちんとさせなきゃ」と思っている。あいさつができるようになってほしいし、ありがとうが言えるようになってほしい。廊下は走らないでほしいし、道路には飛び出さないでほしい。ガラス窓に物を投げないでほしいし、公共の場では静かにしてほしい。けれど、それは「いまできなきゃいけないこと」なんだろうか。「ちゃんとさせなきゃ」と思っていたことが、もしかしたら「いまだけ」できたらいいことかもしれないし、「いつか」できるようになってほしいことかもしれない。「やらないで」と言ったことをやって、その度に注意して、また同じことを繰り返してまた怒って、そうやってお互いにしんどくなっていくのなら、できなきゃいけないと思っていることの中から、できなくてもいいことを見つけてみたい。「できなくていいこと」は「怒らないでいいこと」だ。それを少しずつ増やしていけたら、しんどさは少しずつ減っていくんじゃないか。それは「怒っちゃいけない」と自分を責めるためのものではなく、「怒らなくて大丈夫だよ」と余裕を持つために。あわよくば、笑って見過ごせるように。高学年にもなると、「おかえり」と声をかけても無視をされることがある。お年頃、と言ったらその子に失礼だろうけれど、いわゆるそういう時期だ。無視されるのはなかなか辛いんだけれど、かといって無理にあいさつをするように怒ることはしないようにしている。子どもが言うことを聞いてくれなかったり、約束を守ってくれなかったりすると、残念な気持ちになる。それは、裏切られた悲しさというよりは、思ったように育っていないように見えて抱く不安のようなものだ。なんで言うことを聞いてくれないんだろう、なんで思ったように育ってくれないんだろう、と自分や子どもを責めてしまう。けれど、言うことを聞かなかったり思ったように育ってくれなかったりするのって、よく考えたら、その子がその子として育っているということだ。期待を裏切られたら裏切られた分だけ、その子はその子として生きていて僕の想像の外側で育っている。あいさつしないのも、ごめんねを言わないのも、ピーマンを食べないのも、その子がその子として生きている証だ。そんなふうに思えたら、返事が返ってこなくてこっそり傷つきながらも、その子の小さな意志を感じて少しだけ嬉しい気持ちになれるんだ。余談ですが電車に乗ったらおじいさんからジャズが流れていた。もちろんおじいさんから音楽が鳴るわけがないので、繋いだはずのイヤホンが外れているのだろう。おじいさんは気づいていないようだ。車内は空いているとはいえ、少し離れて座る僕にも聞こえる大音量で漏れているので誰かが指摘するかと思ったけれど、みんな気づいていないのだろうか声をかける人はいなかった。気づいたぼくが声をかけるのが親切かとも思ったけれど、そうはしなかった。そのジュークボックスおじいさんに気を遣ったというよりは店内BGMのように流れている音楽が心地よかったからだ。お裾分けしてもらう気分でそのままにした。これが、YouTube動画の音が若者のイヤホンから漏れていたらまた心境は違うのかもなと考えて、自分の身勝手さに苦笑いする。目的の駅に着く少し前でジャズの演奏は聞こえなくなった。おじいさんが自分でイヤホンのコードが繋がっていないことに気付いたようだった。最後まで聞けなかった残念さと、おじいさんが音漏れに気づいた安堵を感じながら電車を降りた。子どもたちと生活をともにしていると、子どもたちが自分の人生の一部に感じることがある。けれど、その子はその子の、僕は僕の人生を生きていて、たまたま重なり合った時間を過ごしているだけなんだよね。その子が聴く曲を僕が選べはしないけれど、漏れた音をお裾分けしてもらうような、たまにイヤホンを片方貸してもらうような、そんな関係であれたらいいなと思う。きしもとたかひろ連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』[文・構成/きしもとたかひろ]きしもとたかひろ兵庫県在住の保育者。保育論や保育業界の改善について実践・研究し、文章と絵で解説。Twitterやnoteに投稿している。⇒きしもとたかひろnote⇒きしもとたかひろTwitter
2021年12月03日Twitterやnoteで子育てに関する『気付き』を発信している、保育者のきしもとたかひろさん。連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』では、子育てにまつわる悩みや子供の温かいエピソードなど、親や保育者をはじめ多くの人の心を癒します。生きていると、後悔をするような出来事が起こることも。子供と接する上で、きしもとさんが悔やんだ出来事とは…。第16回『まっくろイヤや、まっしろがいいの。』「明日早起きをして、おいしい朝ご飯を食べに行こう」と言われて「きっと朝寝坊するよ」と、僕は答えた。夜更かしをしているからきっと早起きはできないだろうし、早起きできないままダラダラとしてしまう、いつもそうでしょうと。案の定、次の日は朝寝坊して朝食兼ねた昼食、あえておしゃれに言うならばブランチを食べることになった。食べながら「ほらやっぱり言った通りでしょう」と僕が言う前に「早起きできなかったなあ」と残念そうにしている姿を見て、昨晩のことを少し後悔した。それが叶わないと思っても、その時はただ楽しみだねって返せばよかったな。先回りなんかせずに、今の楽しみとして“明日を一緒に楽しみにすること”はできたんじゃないかなって。そして、一緒に「早起きできなかったなあ」と悔やめばよかった。学童の施設で、お泊まり会をしてみたいと言い出した子がいた。何年か前に企画した子がいたことを知って興味を持ったらしい。子どもの「今やりたい」という気持ちを尊重して、前向きに実現していくのが僕の役目だ。なんでもかんでもできるわけではないけれど、やりたいなって思った気持ちを逃さずに、大事に育ててあげたいと思っている。けれど、その時は別のことで手がいっぱいになっていて「いいね、どうやったらできるか考えてみようか」と促したまま、そのあとなにも言ってこなかったのでそのまま放ったらかしにしていた。数日後、「そういえばあの話」と切り出すと、「もういいねん」と素っ気なく返事をされた。ただ興味が薄らいだというだけでなく、友達関係も思うようにいかない時期でそんな気分じゃなくなったらしい。本当にやる気があるのなら諦めずにやり遂げるし、それができないのは本当にやりたかったわけではない…なんてことはなくて、やりたいと思ったことをやり始めて自分で走り出すためには助走が必要で、その助走をつけるための環境や支援がさらに必要だ。できるかできないかの主導権をその子が持っていないならなおさら、その子のやる気のせいにしてはいけない。その子がやめてしまったのは、単に興味が薄らいだのではなく、僕がうまく拾えなかったからかもしれない。タイミングを逸してしまったことを悔やみながら、けれど無理に引き戻すのも違う気がして、「また思いついたら言ってね」とだけ声をかけた。数ヶ月経って、友人関係も良好になっていき、学童での活動も充実してきた頃にまた、その子から「冬休みを使ってお泊まり会がしたい」と提案があった。一度失くなったチャンスがまた来たことはありがたかった。このタイミングは逃さないぞ、と張り切って企画を進めることにした。その子が友達たちと色々な案を出し合い練っている間に、僕は組織上層部に掛け合って施設利用などについての手回しをする。しかしながら、なかなか組織からはゴーサインが出なかった。過去に何度も開催しているのに、その時は色んな事情が重なり一筋縄ではいかなかった。冬休みには間に合わず、僕はその子に春休みに向けて交渉していくことを伝えた。もちろん嘘をつくわけにはいかないので、できるか分からないけれど相談しているということを伝えて、その子は「それでもいい」と楽しみにしてくれていた。そしてその春、結局お泊まり会は開催されなかった。大規模な感染症流行が原因だとその子には伝えたけれど、それは表向きの理由で、本当は“大人の事情”がクリアできないままパンデミックが起きて、そのまま有耶無耶になったのだった。多くの子どもたちが通う場所だから、すべての子どもたちの思いに応えたりやりたいことを叶えたりすることは難しいし、安全が第一なのでどちらにしてもできなかったと言えばそうだ。そうやってじぶんで自分に言い聞かせるけれど、後悔は消えない。その時にしか咲かないのに、水をやるのを怠って、目を離したすきに姿を消している。そんな風に育たなかった芽が数え切れないほどある。また新たな芽が出てきたのを見て安心してしまいそうになるけれど、気づかれずにそのまま閉じてしまった芽は間違いなくあった。すぐに気づいていたらグングンと育っていたかもしれないものさえも後回しにして枯らしてしまっていたんじゃないかと、いつも過ぎてから後悔する。その全てを拾えるわけないし、悔やんだってしょうがないのは分かっている。けれど、あの時拾えていたら、その子はワクワクできたしその楽しそうな顔を僕は見ることができたのにと思うことが数え切れないくらいある。7歳の友人が、先日「アスレチックに行ってみたい!」と言い出した。YouTubeで見て興味を持ったらしい。楽しそうだね、と話をしてネットで調べたりしたけれど、その日は時間がないからアスレチックはまた今度にして近くの公園で遊ぶことにした。たっぷり遊んで満足げに帰っていったのに、夜になってひとりビールを飲みながら、「アスレチック行きたい!」と言ったその子の姿を思い出して、「ああ、なんでちょっと無理してでも行かなかったんだろう」って後悔している自分がいる。何年か前にはアンパンマンミュージアムに行きたい!と言っていたのを思い出す。何度か行ってはこれで最後かなあ、まだ楽しめるんやなあ、と思っていたらいつの間にか言わなくなった。いつまで行きたい気持ちがあったのかな。最後に行きたいなって思った時に連れていってあげれたかなと考えてしまう。数週間後に会った時に「さあ、アスレチック行こっか!」と決定事項のように言ってくれた姿を見て、「なんで決まってるねん」と笑ってツッコミながらホッとする。まだ失くなっていなかった、間に合ったと安心する。おもちゃコーナーで大好きなアンパンマンのおもちゃをねだられたときに「また今度ね」って言って、次に行った時には「もういらない」って言われてしまう。「これ好きって言ってたよね」と、変身して戦うプリティな癒しキャラの人形を手に取ると、「もうお姉ちゃんやから好きちゃうし!」と怒られる。そんな時に、ああ過ぎてしまったのか、と大事なものを取り逃してしまった気持ちになる。その子にはその時しかないのに、「また今度ね」って言うたびに色んなものを取りこぼしてそのまま気づかずに過ぎていくのかもしれない。なんでもかんでも拾えるわけないし、その興味の移り変わりがすべて僕のせいなんて、おこがましいことを言うつもりもない。成長の中で変わっていくことも逃したことで偶然生まれる新たな関心もあるだろう。ただ何度も同じような後悔をしてしまうのは、半分はそのワクワクを拾えなかったことを申し訳なく思う気持ちと、もう半分は僕が寂しいからなんだろう。その時にしかない、その子の姿を、もしかしたら見られたかもしれないその子の姿を、もう二度と見られないんだろうなと思うと、後悔のような残念なような寂しいような切ないような、うまく言い表せられないけれど、そんな気持ちになる。ついこないだも、後悔するのを分かっているはずなのに、キックボードが欲しいと言い出したその子に「危ないからな、気をつけなあかんからな」と買う前から言ってしまった。次会った時に一緒に買いに行こう。一緒に練習して、一緒に楽しみながら、一緒に危ないから気をつけることを確認しよう。そうやって大事なものを逃さないように心の準備をしておくことにする。余談ですが何年か前、当時3歳のその友人が泊まりに来た時のことを思い出す。朝から一日中遊んでいたのに、日が落ち始めて窓の外が暗くなってくると「まっくろイヤやの!まっしろがいいの!」と、泣きながら天に向かって怒っていた。この楽しい時間が終わってほしくない!もっと遊びたい!と、つたない言葉で表す姿が、「いまを生きているんだ」と全身で語っているようで、とても愛おしかった。遊びたくて遊びたくて仕方がないのだろう、夜中になっても全然寝ずに、電気を消しても布団の中で延々としゃべり続けていた。「はよ寝えな」と半ばうんざりしながら、終わって欲しくないほど楽しい時間だと思ってくれていることを嬉しく感じた。大きくなったいまはもう、“まっくろ”になっても、寝て起きればまた“まっしろ”が来ることを知っているんだろう。夜になることを「まっくろ」なんて表現しないんだろうなって寂しくなりながら、「まっしろがいいの!」と泣いていたその姿を何度も思い出す。ずっとずっと「まっしろがいいの!」と、言えるような人生でありますように。「楽しい今日が終わってほしくない!」って、そんな毎日を送っていてほしいな。きしもとたかひろ連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』[文・構成/きしもとたかひろ]きしもとたかひろ兵庫県在住の保育者。保育論や保育業界の改善について実践・研究し、文章と絵で解説。Twitterやnoteに投稿している。⇒きしもとたかひろnote⇒きしもとたかひろTwitter
2021年10月21日実業家の堀江貴文氏(48)が10月12日、宮迫博之(51)のYouTubeチャンネルに出演。動画内で、同じく実業家の「ひろゆき」こと西村博之氏(44)について“絶縁宣言”する一幕があった。宮迫が動画後半で「聞きたいことがあってん」と切り出し、単刀直入に「ひろゆきくんと仲悪いってホンマなん?」と堀江氏に質問。すると堀江氏は「仲悪いっていうか、僕が縁を切っただけです」とキッパリ。その理由について、「去年、餃子事件でめちゃくちゃ叩かれて。あいつが最後炎上させたようなもの」と語ったのだ。また絶縁する前の様子について「(ひろゆき氏と)言い合いになりましたよ。Twitter上で」と振り返り、「これはもうちょっと無理だな」と感じたという。堀江氏は昨年、広島の餃子店を訪れた際に同行者がノーマスクだったことで入店拒否された。そのことを堀江氏がFacebookに投稿したことで、SNS上で論争に発展。堀江氏の投稿をきっかけに、餃子店にいたずら電話が殺到。結局、お店は休業に追い込まれたのだ。そんな状況を見たひろゆき氏は、Twitter上で餃子店に《クラウドファンディングとかでお金集めて、通販とかデリバリーで再開するとかどうですかね?》《サイト作る人居ないとかだったら、手伝いますよ》と呼び掛けていた。その後、餃子店がクラウドファンディングを立ち上げると、ひろゆき氏も支援したことを表明していた。■ひろゆき氏「言い争いをしたことはない」「堀江さんは当初から“自分は悪くない”のスタンスです。たしかに堀江さん自身はマスクを着用していたようですし、いたずら電話もかけていません。ですが一般人以上に影響力があるため、『少なからず非があるのでは』との声が上がっていました。餃子店が立ち上げたクラファンは、最終的に1,500万円以上もの支援金が集まりました。店側にそういった同情が広がる風潮に、堀江さんは不満げでした。Twitter上で自らの正当性を主張したり、《金儲けのネタにされてさらに居た堪れない》などと綴ったりしていました。ひろゆきさんは経営が立ち行かなくなった餃子店にアドバイスをしたにすぎず、堀江さんとは直接的な“バトル”はなかったはずです」(ITジャーナリスト)ひろゆき氏は13日にTwitterを更新し、堀江氏の“絶縁宣言”にこう疑問を呈している。《ホリエモンこと堀江さんの餃子事件はおいらが居ない所で起きたのに「あいつが炎上させたようなもんなんで」と言ってる。twitter上で堀江さんとおいらが餃子事件で言い争いをしたことはない。 堀江さんの事実認識がおかしくなってる気がするのですが、どうしちゃったのかな?》堀江氏の主張にネット上では「この件に関してはホリエモンが悪い」と批判する声が多く、共感はさほど得られなかったようだ。《餃子事件は、ひろゆきさんがいない所で 発生したのに堀江氏はひろゆきさんを恨んでいる。これは「逆恨み」ですね》《餃子の件に関してはひろゆきは悪いことしてないけどな。ホリエモンからしたら味方してほしかったんだろうけどホリエモンのせいで営業できない状態までいってた餃子屋をクラウドファンディングで救ったわけだし》《ひろゆきが炎上させたとおもってたのか自分が勝手に炎上したのを人のせいにすんのはなぁ。。。》
2021年10月15日俳優の高田純次が出演する、 HOYA「コンタクトのアイシティ」のWEB動画「目の筋肉運動」が、10日より順次公開される。10日の「目の愛護デー」に合わせて特設サイトにて公開される今回の動画は、架空都市・eyecity市の学校を舞台に、生徒となるマッチョ軍団が講師から「目の筋肉運動」を学ぶというストーリー。1時間目「マッチョ探し」、2時間目「いないいないマッチョ」などが順次公開され、すべての授業にマッチョを絡めたシュールな授業で、楽しく「目の筋肉運動」を学ぶことができる。そして1時間目の動画には、eyecity市の市長役として高田が特別出演。高田節が炸裂するテキトートークに注目だ。また、メディアでも活躍する医師・日比野佐和子さんが講師役、フィットネスジム ・RIJU Fitnessを運営し、筋肉YouTuberとしても活躍するRIJUがマッチョ学生役として出演し、「目の筋肉運動」を熱く学ぶ様子が描かれる。今回の動画撮影を振り返り、高田は「印象に残っているのは、セリフが長かったことですかね。そういう意味ではある程度言いたいことも言えてパーフェクトじゃないかなと思っています」とコメント。また、マッチョ学生との共演については「いい体していてすごいですよね。僕は、鏡を見るたびに、昨日よりも今日の方が老けてるよなって感じます。今からスケボーでも挑戦しようかな? 思ってるだけなんですけど」と、インタビューでも“らしさ”全開だった。
2021年10月08日この度、モデル・タレントの西内ひろとフォトグラファーの大島央照(オオシマチアキ)で「#PASSPORT BOOK vol.2 IN GREECE」2nd 写真展を開催。新たに、フラワーアーティストのMASSAをお迎えし、展覧会を開催いたします。また、西内ひろが初プロデュースするアパレルブランド“KIGINU”の初公開、オンラインイベントも開催いたします。URL: #PASSPORT BOOK vol.2 IN GREECE 2nd 写真展【オンラインイベント】9/18(土)17:00~18:00/出演:西内ひろ、大島央照ギリシャで大島が撮影したドキュメンタリー映像を見ながら、旅、写真、写真集の裏話などをいたします。お申し込みURL: ※取材いただける方はURLを発行いたします。オンラインイベント終了後15分間、質問を受け付けます。E-MAIL passportbook2021@gmail.com にオンラインイベント参加と書いて17日(金)21時までに、媒体名、掲載予定日、担当者名を明記し、お申し込みください。#PASSPORT BOOK vol.2 IN GREECE 2nd 写真展■女性ふたり旅。ギリシャで見た美しい景色と植物の生命力・色彩を見せる空間、旅で得たインスピレーションで作る洋服、ここにしかない初のコラボレーション!!「#PASSPORT BOOK vol.2 IN GREECE」2nd 写真展「2014年ミス・ユニバースジャパン」準グランプリの西内と、「2002年ミス・ユニバースジャパン」ファイナリストの大島がキューバの旅をスタートとして動き出した#PASSPORT BOOK vol.2 IN GREECE。今作は、西内が“一番天国”だと思ったギリシャのサントリーニ島とミコノス島の旅、第2弾。広大なエーゲ海、青い空、宝石のように輝く街、大きな太陽に照らされたピンクに染まる夕景の街etc。ギリシャで見た、ただただ美しい景色と、どんどん開放的になっていく西内のドキュメンタリーを写真と映像に収めました。今回は、ギリシャの写真を見てインスパイアされたMASSAの生命力溢れる花、そして、旅で得たインスピレーションを受けて作った西内の初ブランドとのコラボレーション展示!【#PASSPORT BOOK vol.2 IN GREECE 2nd 写真展×MASSA/at UNDER THE PALMO】Hiro Nishiuchi×MASSA×Chiaki Oshimaギリシャをより近くに感じることができるような葉山の海が目の前に見えるUNDER THE PALMOにて、モデル 西内ひろと写真家 大島央照が旅したギリシャの開放的な景色とリアルなドキュメンタリー写真・映像と、唯一無二の空間づくりを演出するフラワーアーティストMASSAが「天地人・力強さ」をコンセプトとし植物の生命力/色彩を表現。ここにしかない新たな空間を作るコラボレーションを展開。そして西内ひろが初めて監修するブランド1st Collection“KIGINU”。ヨーロッパを旅しながら得たインスピレーションで、美しい自然と共存するものづくりをテーマに、サスティナブルでエコな素材から作り出される生地を使用し洗練された大人の女性の魅力を引き立てるリラックス感あふれるブランドも展示いたします。是非ご覧ください。<西内ひろ/Hiro Nishiuchi>モデル・女優・タレント・フィリピン観光親善大使・宗像国際環境会議アンバサダー/福岡県出身1989年、福岡県生まれ。16歳でデビューしタレント、モデルとして活躍。2014年にミス・ユニバースジャパンで準グランプリを獲得。2018年にフィリピン観光大使に任命され、同国の映画『KINTSUGI(金継ぎ)』にヒロインとして出演(2021年、日本公開)。2020年フィリピンマニラで行われた第四回Pista ng pelikulang Pilipinoにおいて140本の映画ラインナップの中からBest Actressにノミネートされる。最近はSDGsに根差した環境問題への取り組みを国内外で積極的に行っている。趣味で始めた海外旅行では、これまでに40ヶ国を訪れ、そのセンスが好まれアパレル、宿泊施設など幅広くプロデュース・ディレクション業にも力を入れている。Web: 西内ひろ<Massa Nakagawa>フラワーアーティスト/ダイナミックさと繊細さを合わせ持つ独創的なスタイルと、日本的な感性を融合させたフラワーデザインが信条。世界のハイブランドのレセプション、オープニングパーティーの装花演出、雑誌、広告、ウェディングなどのデザインワークを数多く手掛ける。またコンサートのステージデザインなどのアートワークやディスプレイは既成の概念に囚われない空間デザインとして国内外で高く評価されている。2010年「Flowerアート&デザイン協会」会長就任。2012年パレスホテル東京でのWEDDING装花ブランド「MUKU」を立ち上げ、デザイン監修、同エグゼクティブアートディレクターとして就任。Web: MASSA<大島央照/Chiaki Oshima>写真家/京都府京都市出身雑誌IN ROCK, MOVIE STARにて来日ハリウッドスター、各界のセレブリティのポートレートを中心に、広告、雑誌、オフィシャル撮影、映像撮影、ディレクターなど手がける。ライフワークで人の人生の一部を追いかけたフォトドキュメンタリーを国内外で撮影、展覧会に多数参加。2016年 #PASSPORT BOOK vol.1 IN CUBAを企画・撮影・制作・出版。2002年ミス・ユニバースジャパンファイナリスト、モデル、女優として舞台、イタリア映画(TARDA ESTATE/ベネチア国際映画祭招待作品)出演など。最近は、各々のライフステージに寄り添ったChiaki Oshimaフォトプランの展開や、料理撮影のディレクション、ドレスやジュエリー撮影など幅広く行っている。Web: 大島央照【#PASSPORT BOOK vol.1 IN CUBA】60年代から止まったままのキューバの景色を残したい。アメリカとの国交が回復して変わってしまう前に今のキューバの街と、西内ひろが旅するキューバを写真集として残したいという想いのもと、キューバの旅を初めとして#PASSPORT BOOK制作を開始した。#PASSPORT BOOKとは、旅先でスタンプをおしていく様に、旅の思い出を写真と文章で綴るブック。ここにしかない自分だけの#PASSPORT BOOK。一緒に旅をした気になる、旅をしたくなるブックを写真と文章で構成。Web: #PASSPORT BOOK vol.1 IN CUBA 詳細はこちら プレスリリース提供元:@Press
2021年09月16日Twitterやnoteで子育てに関する『気付き』を発信している、保育者のきしもとたかひろさん。連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』では、子育てにまつわる悩みや子供の温かいエピソードなど、親や保育者をはじめ多くの人の心を癒します。第15回は、『素直な子供』について。また、誰もが持っている劣等感について、きしもとさんが持論を展開します。第15回『気休めだけど、持ってってや。』レジャーシートを広げてごっこ遊びをしているところに、フリスビーが飛んできた。遊んでいた女の子たちは突然飛んできたフリスビーに驚きはしたものの、特に迷惑そうにすることはなく、不安定に転がるフリスビーの行く先を見つめていた。レジャーシートから少し離れた、手を伸ばしても絶妙に届かない辺りでフリスビーが止まる。拾ってあげようかそのままにしていようか迷っている。一人の子が立ち上がりフリスビーの方へ歩いて行ったが、案の定というか、拾おうとした女の子と取りに来た見知らぬ男の子とほぼ同時にフリスビーの元に辿り着いた。お互いに気まずそうにしながらも「せっかくだから」という雰囲気で、女の子が拾って渡してあげた。男の子が「ありがとう!」と思いのほか大きな声でお礼を言ったので、素直な子だなと感心する。女の子は返事をせずに戻っていった。素っ気ないなと思う。普段はおちゃらけて僕たちを笑わせてくれるような、天真爛漫を絵に描いたような子なので不思議に思う。それでも、知らない子に親切にしてあげているのを見て嬉しかったので、僕はその子の側に行き「ありがとうって言ってもらえたなあ」と声をかけた。褒められるためにやったわけではないだろうから、偉いとかすごいとかではなく、喜んでもらえて嬉しかったねという気持ちをただ共有するつもりで、話しかけた。少し照れながら、まんざらでもない顔をする。返事をしなかったのは照れ臭かっただけなのだと思い「答えてあげたらよかったのに~」と、助言をするいうよりはどちらかというと調子付かせる感じで言った。するとその子は笑いながら「わたしの声へんやから」と答えた。思いもしない言葉だったので「ん?なんで?変じゃないで?」と間の抜けた返答をしてしまう。「こないだ友達に、笑い声が変やって言われたから声聞かれたくないねん」言う。そんな一言で声を出すことを躊躇するようになるなんて悲しすぎる。けれど、その場で「誰やそんなこと言ったん!許せへん!」と息まくことができないのは、僕自身もその一端を担っていたかもしれないと思ってしまったからだ。いつも変な顔をしながらみんなを笑わせていたその子が、笑われることに本当は傷ついていたのかもしれない。なにも知らずになにも考えずに笑っていた僕は、大きな間違いを犯していたんじゃないか。「まったく変なんかじゃないし、君の楽しく話す声も元気に笑う声も好きやで」と伝えたけれど、その言葉は不安を打ち消す魔法の言葉ではなく、ただの気休めにしかなっていないような気がした。気の弱い、控えめな女の子がいた。その子には仲のいい友達が2人いて、その日も、その2人に付いて遊んでいた。自分の意見をあまり言わずに2人の言いなりになっているように見えて、その子がひとりになったときに「嫌なら嫌って正直に言っていいんだよ」と、声をかけた。「僕はあなたの気持ちに気づいているからね」という風に、救いの言葉として伝えた。するとその子はしばらく黙ってから涙を流した。残念ながらその涙は、理解者が現れた感動からではない。「怒られた」と思って泣いていた。「嫌って言っていいんだよ」という言葉が、嫌だと言えない自分が悪いのだと思わせてしまっていた。そんなつもりじゃないんだよ、と言っても遅い。自分の思いに正直になっていいよっていう言葉で僕は、嫌と言えないその子自身を否定しまっていたのだ。その子は、仲良しの2人に付いて遊ぶことを嫌とは思わず、もしくは自分で嫌だという気持ちに気づいていない中で、外側から「嫌って言えない自分はダメなのだ」と、元々は持っていなかった不安を持たされたことになる。素直な子と聞いてどんな子を思い浮かべるだろう。気持ちよく「ありがとう!」と言えたり、悪いことをして「ごめんなさい」と言える子を見て素直だなと感じる。なにかお願いをして「うん!」とか気持ちよく返事してくれると素直ないい子だなあと思う。けれどそれは、子どもに素直になることを求めているんじゃなくて、聞き分けが良くて可愛げがあることを求めているのかもしれない。僕が求めている姿や正しいような姿だから素直だと感じているのかもしれない。以前、ある保育士さんが「子どもに注意した時、すぐにケロっとしていると馬鹿にされている気になったり、もっとしょんぼりしろよ…と思ってしまう自分がいる」と言っていたのを思い出す。言い返してきたり、嫌がったりしても、それがその子の率直な思いなら「素直」ということのはずなのに、「素直じゃない」と思ってしまう。そんな風に思ってしまう自分に気づいて、自分はダメだなあって落ち込む。じゃあ、「嫌だ」とはっきり言えることが素直なんだろうか、と考えてみる。いや、自分の気持ちを表せられたらいいけれど、表さないのもその子の表現であるなら否定しちゃいけない。自分の気持ちを真っ直ぐ表すことが素直であることならば、恥ずかしくて黙ってしまうことも、嫌って言えないのも、その子のそのままの気持ちでそのままの姿だ。その子の「素直な姿」を僕が勝手に、「自分の思いが言える子に」と理由をつけてひねくれさせているだけだ。もちろんうまく自分を表せられなくてしんどい思いをしている場合もあるだろうから、ほっとけばいいわけじゃない。素直であることを大切にしたいなら、その子の素直な気持ちを「自分の気持ちを素直に表そうよ」なんて矛盾した言葉で否定してしまわないようにしたいということ。その保育士さんは「自分が言っていた素直な子って、自分が保育しやすい子どもなんじゃないか、そこからズレた素直さが受け入れられないんだろうな」と葛藤を見せながら言った。そして「その子の素直さって「価値」ではなくて、ただ守られるべきもののはずなのに」と続けた。本当だな。素直であるかどうかを測っている時点で、その子の本当の気持ちなんて見ることができていないのかもしれない。それでも、僕は子どもに本当の意味で素直な気持ちでいてほしいから、間違えて傷つけてしまわないように向き合っていたいんだ。そのためにできることはなんだろうって考えたら、その子がどう感じているんだろうって思いを巡らせることしかないのかもしれないけれど。小学生のときに「笑い方気持ち悪いな」と言われたことがある。たったその一言だけで、それから20年以上経った今でも、自分が笑っている顔を写真で見たり、ビデオ通話をしていて視線の端に入ったりするのも嫌だ。きっと言った子は覚えてないだろうから、同じようなことを僕も誰かに言っていて、同じように僕も覚えていないんだろう。あからさまに意地悪で言っていることもあれば、全く悪気がなく言っていることもある。自分にそんなつもりがないのに相手を傷つけてしまうことも、相手にそんなつもりがないって分かっているのに自分が傷ついてしまうこともある。自分の笑顔をまじまじと観察して嫌いになったわけじゃないのに、なんとも思っていないそいつに言われたその一言で、なんで自分で自分を嫌いにならなきゃいけないんだろう。「お前に言われたないわ」と一言返せばよかったのに、と思いながら、一言返したとしてもきっと傷ついていただろうし、ずっと心に残っている。それは、人格を揺るがすような大袈裟なものだけでなく、例えば好きなお菓子なんかを「そんな味が好きなの?」と馬鹿にされたりしても、「大きなお世話じゃ」とは言えず、言えたとしても心のどこかでは「自分は変なんだろうか、劣っているんだろうか」って思ってしまうだろう。いま抱いている不安や劣等感はどこからやってきたんだろうって改めて考えてみると、もしかしたら自分で見つけたものではなく、僕じゃない誰かが作ったものを持たされているだけかもしれない。僕は頭髪が薄くおデコが後退している。いわゆるハゲだ。ただ僕がハゲていることを喜べないのは髪型でオシャレができないからではない。なぜか劣っているように感じるからだ。ただ、冷静になってみたら髪の毛が少ないだけでなんで劣ってるってことになるんだ。ならないだろう。悪口で「ハゲ!」とか言われるけど、誰が言い出したんだ。あれ悪口じゃなくてただの事実やからな。事実を言うだけやったらこっちだって言ったるわ!イケメン!ハンサム!いかん、取り乱してしまった。劣等感を刺激して、さも正しい姿があるように見せて、そうでなければ劣っている、と感じさせる物を社会の中では多く目にする。戦略的な商業広告から、普段の生活の会話まで、なにかしら「こうあるべきなんじゃない?」という感情を持たされている。小学生のまだ低学年の子でも「太ってるからおやつ食べない」とか「足の毛が濃いから見せたくない」と言う子がいる。周りと自分との違いに気づいて自分の身なりなどが気になっていくことは発達の過程で見られる育ちのひとつだ。だけどこの場合は違うだろう。その子が自分とほかの子を見て気づいた違いではなく、自分ではない誰かから持たされた劣等感だ。そしてそれはとても悲しくてしんどいことだ。「素直になろう」とか「元気でいよう」という言葉も、もしかしたらそうなっているのかもしれない。子育てでしんどいことや不安に思うことも、自分で考えて生まれた不安ではなく、周りから持たされた劣等感ということも多くあるんじゃないか。「子どもがかわいそう」「親として」「愛情が」そんな言葉なんか「大きなお世話じゃ!」と一蹴すればいいのかもしれないけれど、そう思おうとしても心の奥底では「自分はできていない」と思ってしまう。子どもたちと楽しく過ごしたいと思っていても、行儀良くさせなきゃ、好き嫌いさせない、手抜きしちゃいけない、そんなことを考えてしまうと、なぜだか楽しく過ごしているだけではダメな気がしてしまう。逆に「心の余裕があることが大切です」「楽しんだほうがいいです」なんて言葉を聞いても、楽しめていない自分がよくない気がするし、さらに余裕がなくなっていく。そのしんどさは、もしかしたら誰かに持たされているのもかもしれない。その子の姿を見て不安になっていると思っていても、どこかで聞いた正しい姿ではないから不安なのかもしれない。自分とその子の関係が苦しいように見えて、誰かが言っていた形にならないから苦しいのかもしれない。その子と自分との関係は、ふたりにしか分からないのに。色んなしんどさがあるけれど、その子と自分との関りだけで両手はいっぱいなんだから、誰かに持たされた不安はその辺に置いとけたらいいな。いや、この言葉もまた僕が誰かに不安を持たせているかもしれないから、置いておけなくてもいいなとも思えたらいいなって書き足しておこう。余談ですが「笑い声が変だと言われたから」と言っていたその子が、その後声を出さなくなったり話さなくなったりすることは、少なくとも一緒に過ごした一年程の間には、なかった。相変わらずおちゃらけている姿を見てそんな大げさに考える事ではなかった、と思いたいけれど、それはできない。もしかしたら、あれからずっと気にしているかもしれないし、忘れていたとしても何かのきっかけで思い出すかもしれない。みんな何かしら誰かから持たされた不安を抱えているのだと思う。「そんなことないよ」って言われても、きっと残念ながら、その呪いみたいなものはずっと無くならない。けれど、そのたびに「そんなことないよ」って言ってもらえたことも思い出して、どうにかやっていけるのかもしれない。「大丈夫やで」「そんなことないで」そんな言葉は気休めのように聞こえるかもしれないけれど、僕もその気休めの言葉に救われていたりする。誰かに言われたしんどい言葉を捨てられないなら、ついでに別の誰かが言った気休めもカバンにぶち込んでおくのはどうだろう。なんとなく取り出してしまったしんどい言葉に絡まって「そんなことないで〜」と出てきてくれ。僕がかけた言葉も「でも、あいつはそんなことないでって言ってくれてたよな」って、しんどい言葉に釣られて思い出してくれたらいいな。「なんて言ってたか覚えてないけど、そんなことないでって言ってくれてたような気がするな」って。「どこの誰やったか覚えてないけど」って。きしもとたかひろ連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』[文・構成/きしもとたかひろ]きしもとたかひろ兵庫県在住の保育者。保育論や保育業界の改善について実践・研究し、文章と絵で解説。Twitterやnoteに投稿している。⇒きしもとたかひろnote⇒きしもとたかひろTwitter
2021年08月14日Twitterやnoteで子育てに関する『気付き』を発信している、保育者のきしもとたかひろさん。連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』では、子育てにまつわる悩みや子供の温かいエピソードなど、親や保育者をはじめ多くの人の心を癒します。第14回は、つい他人と比べてしまうことについて、きしもとさんが持論を展開します。第14回『みんな頑張ってて、みんな怠けてる。』梅雨なのに何日か気持ちのいい晴れた日が続くことを梅雨の中休みというらしい。カラッといい天気だったので、7歳の友人を誘って少し遠い普段行かない公園に行くことにした。宿題を持ってきたので公園へ行く前に済ませることに。二桁の足し算をする横で応援しながら、学校楽しい?なんの授業が好き?と、邪魔もしていた。邪魔されているのに律儀に「国語と道徳が嫌いかなー」と答えてくれたので理由を聞いてみると、道徳の授業で聞いたらしい物語を話してくれた。サルくんがロボットを作って学校に持ってきました。みんなが「すごーい」と言ってサルくんの周りに集まってるのを見て、クマくんは「僕も作ったことがあるよ」と言いました。そしたら、みんなから「持ってきて見せてよ」と言われました。クマくんは急にお腹が痛いと言ってどっかに行ってしまいました。クマくんの気持ちはどんなだったでしょうか?伝聞調ではあるけれど、しっかり話を聞いて理解しているのが分かる。伝わるように話をしてくれたのを聞いて、むしろ国語得意なんじゃないかと思ったが、得意だからといって好きだとは限らないか、と思い直す。ほんでほんで?って続きを聞くと、「どう思うか聞かれてんけど、うまく答えれへんかってん」と、その時のことを思い出すのかしょんぼりしている。「どう思ったの?」と尋ねると「ズルイと思ったって思ってん」と小さな声で自信なさげに応えてくれた。的外れな答えとは思わない。「みんなにすごいなーって言われてるサルくんをクマくんはズルいって思ったんか」と、言葉を補足しながらその「ズルい」の意味を汲み取ろうとしてみる。自身が友達をみて「ズルい」と思うことがあるのかもしれないな、と学校生活を想像する。その「ズルい」が、羨ましいなのか妬ましいなのかは分からないけれど、自分にとって知っている感情で、それがその言葉なのだろう。「あの子だけズルいなーって思うことあるもんなあ。クマくんもサルくんみたいにみんなからすごいって思ってもらいたかったんかもしれへんなあ」と、何かの答えに誘導するわけではなく、例えば映画を観ながらヒロインの心情を考察するくらいの気軽さで、話してみた。「うんうん、そやろそやろ」と頷いてくれる。「けど、みんなの答えは違っててな」と、また急にトーンが下がる。「自分だけ間違えてると思って泣きそうになってん」と。発表してみんなから非難を浴びたんだろうか。発表する前にみんなの答えを聞いて自分は間違っていると思って自信をなくしたんだろうか。「それは辛いなあ、けど間違ってないと思うで」と伝えると、「あ、泣きそうになったってのは言い過ぎやったわ!」と急にケロっとするので、思わず吹き出してしまった。泣きそうになってないんかい!とツッコミながら、けれど、と思う。具体的な辛さは分からないけれど、その泣きそうになるっていう気持ちは分かるような気がする。僕も同じような思いになったことが、いつかあったかもしれない。自分の感じたことや考えたことは間違っているかもしれない。みんなとは違うかもしれない。みんなは分かっているはずなのに自分は分かってないかもしれない。そんな漠然とした不安で苦しくなることがある。答えのないものを答えられるか試されているような、自分の考えがあるのか試されているような。正解がないというのなら答えさせないでおくれよ、と愚痴りたくなる。夕方18時前に電話がなる。僕が体調を崩してから、ドイツにいる友人がほぼ毎日同じ時間に電話をかけてきてくれる。少しだけ世間話をした後で将棋のネット対戦を3局だけ楽しんで、ではまたと電話を切る。だいたい僕がうっかり飛車を取られてそのまま負ける。心配してくれているのと、息抜きなのと、将棋で僕をぶちのめしたいのと3:3:3くらいの割合だろう。残りの1割はなんだろうな。その日電話に出ると、開口一番「よくない話があったんだけど聞いてくれる?」と、尋ねられた。海外映画では「いい話と悪い話どっちが先に聞きたい?」というような台詞を聞くけれど、日本では先に断ることってあまりないよなあと、どうでもいいことを思いながら「聞こうか」とそれっぽい返事をする。「ドラッグストアに石鹸とスマホ用のプリペイドカードを買いに行ったんだけど、買うもの2つだけだからメモせずに行ったのね」ドイツのドラッグストアはコンビニみたいな感じなのかな、と想像する。「で、プリペイドカードはすぐ見つかって、あと、最近おじさんになってきたからか肌荒れひどいしYouTubeでビタミン入りの美容液がいいって見たのを思い出して、せっかくドラッグストアに来たからと思って買ったんだよね」急におじさんのお肌事情の話に飛ぶ。お肌にはビタミンがいいのか。ビタミンてのは何にでも効くんだな、YouTubeはなんでも教えてくれるんだなと、またどうでもいいことを考える。「買うもの2つだから満足して帰ってきたんだけど、家に着いて手を洗おうとした時にさ」と話したところで、「あ、石鹸」と、思わずオチを言い当ててしまった。これもまた映画っぽいやりとりだなとくだらないことを考えていると「ほんま自分が嫌になるわ〜」と、オチを横取りされたことを気に留めずに自身の失態に落ち込んでいる。「あるよなあ」と共感する。「あるんや」と意外そうだったので、そんなきっちりしてるように見えるのかな?と思いながら「うん、毎日のようにあるで。毎日というか、1日に何度も」と返すと、「俺はたまにでこれだけ落ち込んでるのに、それが毎日なんて、生きてるの嫌になれへん?」と心配された。ものすごい勢いで失礼なことを言うな。「けど安心したわ」と続けたので、失礼には目を瞑ることにした。ダメな自分と同じような姿を他の人にも見えたら安心する、その気持ちはとても分かる。それは、蔑んだり見下したりするという意味ではなくて、この人も完璧じゃないんだと思えて、同じ人間なんだと思えるからだ。自分は人と比べてできていないなあ、と思うことはよくある。僕はとくに、よく忘れ物をするし、優柔不断だし、うっかりミスもする。大人になってもできないことだらけだ。だから、きっちりしてる人と話す時はいつも心なしか緊張する。ズボラだとか雑だとかダメなやつだとか思われてるんじゃないかと不安になる。逆に、きっちりしている人からすれば、ゆるい人と話すときには、「柔軟で臨機応変に対応できる人との会話は緊張する」と思っているかもしれない。いや、それは都合よく考えすぎか。僕はいつもどこかで、自分はダメだなあと思っている気がする。ただ人と比べてダメだなあと思うだけならいいんだけど、しんどいのは自分が頑張りたいのに頑張れない時だ。これじゃダメだと分かっているのにできなくて情けなくて、でもどうしたらいいか分からなくて頑張れない自分を責めてしまう。こんな風にできたらいいなって前向きに思えたらいいけれど、それじゃダメだぞ、としっかり後ろ向きに考えてしまう。几帳面できっちりしているのと、ズボラで優柔不断なのとだったら、どっちがいいだろう。感情的な人と理性的な人とどっちがいいだろう。自分がなれない「それ」になろうとすることはいいことかもしれないけれど、その前に「それになれない自分」を責めてしまって潰れてしまいそうになる。「自分を責めちゃダメだよ、自分はそのままでいいって思おうよ」って言葉で、さらに自分を責めて抜け出せなくなっていく。どちらが善くて、どちらが悪いって思ってしまうけど、きっと本当はどちらも悪くない。その人はたまたまきっちりしていて、僕はたまたま忘れっぽいだけ。ズボラなことで誰かに迷惑をかけることもあれば、きっちりしていることで誰かを傷つけることもあるかもしれない。几帳面なことで助かる人がいるかもしれないし、ゆるいからこそ救われる人もいるかもしれない。都合よく考えすぎかもしれないけれど、そういうことにしようと思う。できている人とできていない人を分けて「できている人が正しくて、できていない人が間違ってる」ってしてしまうのは、とってもしんどいもの。こんな人間でいたいな、と思うことがある。子どもと関わる時にこんなことに気をつけたいな。と思うことがある。けれどできなくて、自分はできないなあって思ってしまう。もしかしたら、みんなが「自分はダメだなあ」と思っているかもしれない。そんなふうに思ってみると、少し気持ちが楽になる。みんな頑張ってて、みんな怠けてて、みんな自分はこんなんじゃダメだって思ってて、頑張りたいけど頑張れなくて、みんな怠けてて、みんな頑張ってる。やっぱりそれも都合よく考えすぎかもしれないけれど、そういうことにする。余談ですが無事宿題を終わらせて、少し離れた広い公園へ来た。芝が傾斜になっていて、その芝を上下に挟むように細い歩道がある。子ども連れが数組レジャーシートを広げている。「そういえば小さい頃ここで転けたことあるねんで」と、芝を指差し、スマホに保存されている動画を見せてあげる。当時2歳の友人の手を握って芝の坂道を登っているときに、僕の方が足を滑らせて転んでしまい、その勢いで一緒に転んで大泣きしてしまったのだ。大の大人がひっくり返る動画を見て声を出して笑ってくれたので、どさくさに紛れて「ごめんね泣かして」と7歳になった本人に改めて謝罪した。「悪くないよ!」と返ってきた。「でも、巻き込んじゃったからさ、悪いのは悪いねん」と説明しても、「悪くないってば!」と強めに返してくる。気を遣わせてしまったかなと思いながら、身軽に大型遊具を登るのを離されないように追いかける。なんて言えばいいか分からないから「許してくれてありがとね」と伝えた。すると「好きな人のこと悪いって言いたくないし、自分が悪いんやって思ってほしくないもん」と小さな声で言うのが聞こえた。大事な人のことを悪いって言いたくないし、大事な人には自分が悪いって思ってほしくない。こんなにシンプルなことを、僕は言葉にされてようやくなにより大切なことだと気づく。優しさとか慈しみとか凡庸な言葉しか浮かばない。分かっているのに、僕はあなたに自分が悪いって思わせているかもしれない。分かっているのに、僕は自分で自分のことを悪いって思ってしまっているかもしれない。また自分はダメだなあって思いそうになっている。けれど、君がそう言ってくれるなら、自分で自分のことを悪いって思わないことにするよ。長いローラーすべり台を滑り降りながらそんなことを思って泣きそうになった。いや、泣きそうになったってのは言い過ぎやったわ。きしもとたかひろ連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』[文・構成/きしもとたかひろ]きしもとたかひろ兵庫県在住の保育者。保育論や保育業界の改善について実践・研究し、文章と絵で解説。Twitterやnoteに投稿している。⇒きしもとたかひろnote⇒きしもとたかひろTwitter
2021年06月27日フレンズが4月30日、昨年末より活動休止をしていたメンバー・ひろせひろせ(MC / Key)の脱退を発表した。配信がスタートした新曲「急上昇あたしの人生」のミュージックビデオも公開されている。この脱退の発表により、今後はえみそん(Vo)、三浦太郎(Cho/Gt)、長島涼平(Ba)、関口塁(Dr)の4人でバンドは継続。そして新体制となったフレンズの初の新曲となる本MVでは、えみそんが初めてMVの監督を務めている。自らが企画立案しアイデアに溢れた演出で、疾走感ある楽曲の世界観を見事に表現。音楽のみならず多彩な才能を発揮し、これからのバンド活動に期待が膨らむ見応えのある内容だ。楽曲自体は、ひかりTVオリジナルドラマ『取り立て屋ハニーズ』の主題歌として好評配信中。新ビジュアルも、これからも様々な形で楽しませてくれる予感のする、爽快なメンバーの姿が印象的なものだ。新たなフェイズを迎えたフレンズの今後の更なる飛躍を期待しよう。■リリース情報『急上昇あたしの人生』4月30日(金)配信リリース■公演情報「フレンズワンマンツアー “UNO!”」5月29日(土)会場:愛知・THE BOTTOM LINE1部:開場15:30 / 開演16:002部:開場18:00 / 開演18:305月30日(日)会場:大阪・Banana Hall1部:開場15:30 / 開演16:002部:開場18:00 / 開演18:306月5日(土)会場:東京・duo MUSIC EXCHANGE1部:開場15:30 / 開演16:002部:開場18:00 / 開演18:30※各回90分程度の公演を予定。料金(税込):全自由¥5,000※未就学児入場不可※お一人様2枚まで※ドリンク代別途必要※政府指定のガイドラインに沿った形での開催。※オンライン配信の予定なし
2021年04月30日Twitterやnoteで子育てに関する『気付き』を発信している、保育者のきしもとたかひろさん。連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』では、子育てにまつわる悩みや子供の温かいエピソードなど、親や保育者をはじめ多くの人の心を癒します。子供の成長は、とても喜ばしいもの。ですが結果だけに目がいってしまい、大切なものを見落としてしまっているかもしれません。第13回『すこしずつ、変わっていくだけ。』こないだ、ピーマンを生で食べた。7歳になった友人と食事をしている時に、学校の給食でピーマンが出るとテンションが下がるという話になった。面白半分で「そういえば、こないだピーマンを生で食べてんけど、意外とこれが美味しくて」と話をすると「食べてみたい!」と言い出した。間違いなく好奇心だけで言っている。その好奇心を取りこぼさないように冷蔵庫からピーマンを取り出し、手渡して種をとる方法を教えてあげた。流水で洗って塩をかけると、嫌いだと言っていたのに好奇心の方が勝ったのか勢いよくかぶりついた。パリッと“美味しそうな”音が鳴る。もぐもぐと味わいながら笑顔になったので「おいしい?」と尋ねると、表情を歪ませてお皿に吐き出した。美味しいのは音だけだったらしい。苦い後味を紛らわすために白米を口いっぱいに含む。「出しちゃったけどさ、学校のみんなには食べたって言おう」と笑っていた。「味はどうでしたか?」という質問には「まずかったです!」と元気に答えたのに、しばらくしてから「もう一回食べてみる」と言い出した。クセになるのだろうか。せっかくなので次はマヨネーズをかけてみることにした。すると、さっきより苦味が少ないのか、一口食べて「これはイケる」とばかりに追いマヨネーズ。二口三口と食べ進め、「食べてみて?美味しいわ」と嬉しそうに勧めてきた。それから面白くなって、ケチャップやソースでも試してみた。「ケチャップが美味しいって思ったけど、やっぱりマヨネーズが一番やわ。そのままで食べるのは苦いので0点です!」と、ゲラゲラと笑いながら、結局1人でまるまる一個食べてしまった。僕はピーマンを見るたびにその時のことを思い出しては、パリパリッという心地いい音とゲラゲラと笑う声が耳に蘇ってつい口元が緩む。ピーマンは子どもの嫌いな食べ物の代表格だ。子どもの舌は苦味を感じやすいから無理に食べさせることはないと聞いたことがある。好き嫌いが多くて不安だという子育て中の悩みはよく聞くけれど、ピーマンに限らず嫌いなものを無理に食べることはない。好き嫌いはよくない、という価値観は根強いけれど、無理に食べさせようとすることで、逆に食べること自体が嫌いになっては元も子もない。まず食べることを楽しむことができたら、いつか食べられるようになるかもしれない。もちろん食べられるようにならないかもしれないけれど、ピーマンを食べられなくても生きてはいける。嫌いなものを克服できた。それはきっと本人にとって喜びだろうし、大人にとっても何か成長の瞬間に立ち会ったようで嬉しく感じる。だけどなぜだか、この生ピーマンを食べた話を「苦手を克服した話」にすると、違和感がある。なんでだろうと考えて出た答えは単純明快で、僕が伝えたいと思ったのはその子が苦手を克服したことではなくて、まずそうな顔をしたり美味しそうな顔をしたりして笑い合ったその時間なのだ。ただ楽しく食事をした。いろんな調味料を出してきて、半分遊びみたいだから行儀が悪いかもしれないけれど、とにかく楽しかった。それを伝えたいのに「苦手を克服した」というレンズ越しに見ると、途端にそのおもしろさが見えなくなる。できなかったことができるようになった。それがとてもいいことのように感じる。もちろん、いいことなんだろうけれど、そればかりに目がいってしまって大切なものを見落としてしまっている。そんなことって意外と多くあるかもしれない。同僚が「去年やんちゃだった子が、今年に入ってから落ち着いて過ごしているんです」と話していた。何気なく「成長ですね」と答えた。すると「本当にそれが成長なんですかね」と返ってきた。僕の言葉への批判という感じではなかった。自問するように「大人しく過ごせるようになった、トラブルを起こさなくなったということが成長なんですかね」と考えを巡らせているようだった。何年か前に訪問した保育園での出来事を思い出す。子どもたちが整列して朝の会をしていた。その横で、ひとり、でんぐり返りをしている子がいた。僕が笑って見ていると、それに気づいて嬉しそうにまたでんぐり返しを見せてくれた。周りの子どもたちがその子に「ちゃんと並びや!」と注意をしているのを聞いて、僕も空気を読んで、みんなと一緒に並ぶよう促した。その後も何度かそんな場面があり、その子はじっとしていたりみんなと同じ行動をすることが苦手なんだろうということが見て取れた。別の日に、体育館のようなところで音楽会の予行演習があった。本番を想定して舞台に上がって演奏していて、緊迫した雰囲気が漂っていた。その子はというと、でんぐり返しはしていなかった。普段の姿とは別人のように、かしこまって楽器を演奏していた。その時の僕は、どんなことを感じたんだっけ。「やればできる子なんだ」とか、その子の良い姿を見たような気がしたのだと思う。演奏の途中でその子がトイレに行きたいと言ったので僕が付き添った。手を洗うその子に、僕は「上手に演奏してたね、楽しかった?」と尋ねた。するとその子は、少しムッとしたような顔で「楽しいとかちゃうねん」と答えた。予想もしない返事で戸惑ってしまった。「頑張ってんねんから、楽しいとか言わんといて」と言われた。この言葉を聞いて、「協調性が育まれている」とか「責任感を持っている」なんて的外れなことを思いたくなったけれど、それはさすがに自分のエゴだと思い直す。僕は「やればできる子」なんて言葉を使って、その子のしんどさを見ようとすらしていなかった。自由奔放に見えていたその子は、みんなの中で普通になるために頑張っていたのだ。やればできるのではなく、やるしかなかったのだ。成長したように見えるその姿は、追い込まれて苦しみながらギリギリで頑張っていることなのかもしれない。逃げ道を無くして克服することは成長ではない。ましてやその頑張りを求めて喜ぶなんて、なんだかおかしいような気がしたのだった。毎日わがままを言っていた子が、ある日を境に何も要求をしなくなったとして、そんな時に僕は、聞き分けが良くなったとか自制が効くようになったとか、勝手に成長だと思ってしまう。けれど、その実は「言っても無駄だと悟ったから」かもしれない。自分の思いを伝えるエネルギーがなくなったからかもしれない。社会では、言っても無駄だからと諦めて黙ることを、「大人になる」と表現する。けれど、それは成長して大人になったのではなくて、身を守る術を身につけただけだ。僕は子どもの何を見ているんだろう。できているように見えるその姿は、みんなから外れないように、こぼれないように、少しでも普通になるために必死にしがみついているのかもしれない。僕自身がまさにそれで苦しんでいるのに、子どもの姿となると、みんなと同じようにできて、トラブルを起こさないでいられるようになったそれを、成長だと感じてしまう。学校に行けるようになった。ピーマンが食べられるようになった。友達と仲良く過ごせるようになった。落ち着いて話が聞けるようになった。聞き分けが良くなった。じゃあそれで、その子は生きやすくなったんだろうか。それで一つ問題が解決したように感じるけれど、その子のしんどさは「できなかったことができるようになった」という姿に隠れただけで、ずっと深くに残ったままかもしれない。子どもの育ちを見守って、その育ちに喜びを感じる立場だからこそ、その成長した姿に喜びを感じる。それは悪いことではないけれど、それと同時に、無理していないだろうか、しんどさを抱えさせていないだろうかと、見えない部分にも目を向けていられたらと思う。できなかったことができるようになって生きやすくなることもあれば、しんどくなることもきっとある。僕がほんとうに大切にしたいことは、できなかったことができるようになることではない、もっとほかの何かだ。見栄えのするものに覆われてしまってその大切にしたいことが見えなくなる前に、ちゃんとそれに気づけるようにしていたいな。去年と今年を比べて、先月と今月を比べて、昨日と今日を比べて、子どもができるようになったことは、きっとたくさんある。その分、サボるようになったとか片付けをしなくなったとか、やらなくなったこともきっとある。その度に、一喜一憂する。「成長というよりも、変化しているだけなんですよね」とその同僚は言った。昨日と比べてしまうけれど、日々の姿がその子の姿で、それは成長でもなく後退でもない。ただ、移り変わっているだけなのだと。僕はどこかで、子どもの育ちは右肩上がりで、多少の浮き沈みがあったとしても、伸びていくもの。そんな風に思っていたのかもしれない。できるようになることも、できなくなることもある。その変化の中で、その時のその子が生きやすくなる方法を、その都度見つけていけたら。それは、見栄えしなくて不安になるかもしれないけれど、そうやってとどまることなく心配事が見えている方が、いいのかもしれない。子どものしんどさに気づけなくなるよりかは、もしかしたらその方がいいのかもしれない、なんて思う。余談ですが手巻き寿司の正解ってなんだろう。シンプルに刺身だけを巻くのもいいし、胡瓜や大根を添えて巻くのも飽きない。何も考えずに目についたものを乗せて、巻ききれず溢れそうになったのにかぶりつくのも、何味かわからないけれど美味しい。大葉なんか入れると最高だ。そういえば、僕は子どもの頃から、シソ(いわゆる大葉)が嫌いだった。独特の香りが苦手で、素麺つゆに間違え入れて勢いよくすすってしまい、勢いよく吐き出したことがある。シソはシソでも、ばあちゃんが作るシソジュースだけ飲めた。原液を水で薄めて飲むんだけれど、きれいな薄い紫色でシソ独特の香りがしない。大人になっても嫌いだったんだけれど、いつからか食べられるようになっていて、気づいたら好物になっていた。今では素麺にも手巻き寿司にも欠かせない。僕はシソのことを好きになってよかったって思うけど、だからと言ってシソが苦手な人に勧めたりはきっとしない。苦手なものは、苦手なままでいい。もし、いつかそれを好きになったなら、それは「克服した」のではなくて、ただ「きらい」が「すき」に変わっただけなんだろうなって思う。苦手なままなら、それは成長していないのではなくて、ただ、そのままなだけ。克服するのではなくて、おもしろそうだから試してみる、そんな感じで楽しめるのなら、嫌いなものも試してみようかなって思えるのかもしれない。例えばやったことない組み合わせで手巻き寿司にしてみて、色んな味を試してみるように、あんまり美味しくなくても食べられるようにならなくても、それでもいいかって思えるような気がする。きしもとさんの記事やこれまでの連載コラムはこちら[文・構成/きしもとたかひろ]きしもとたかひろ兵庫県在住の保育者。保育論や保育業界の改善について実践・研究し、文章と絵で解説。Twitterやnoteに投稿している。⇒きしもとたかひろnote⇒きしもとたかひろTwitter
2021年04月09日Twitterやnoteで子育てに関する『気付き』を発信している、保育者のきしもとたかひろさん。連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』では、子育てにまつわる悩みや子供の温かいエピソードなど、親や保育者をはじめ多くの人の心を癒します。「つらい環境でも耐え忍べば報われる」という意味を持つ『石の上にも三年』という、ことわざ。ですが、長く続けることよりも難しいのは…。第12回『石の上にも、三日坊主。』始めることと続けることって、どちらが難しいんだろう。興味を示したけれど輪に入らずに、あそびに参加しない子がいる。そのあそびに興味がないのかといえばそうではなく、観戦しながら一緒に楽しんでいるので仲が悪いというわけでもない。むしろやりたそうにはしているけれど、誘ってみると「やったことないから」と断られる。「教えるよ」と声をかけても頑(かたく)なで、あまりしつこく誘うと逆に離れてしまうので、一歩を踏み出すきっかけを見逃さないように見守るくらいしかできない。保護者の方にお話しすると、家では興味深げにそのあそびについて話しているらしい。やってみたい気持ちはあるようだ。じゃあ、なんでやらないんだろう。やってみたいのにやらない。どうしてだろうって考えてみる。無理にそのあそびをさせたいわけではない。したいならしたらいいし、したくないならしなくていい。「見ているだけ」も、その人の楽しみ方だ。サッカーをしたことがなくても観戦は楽しめるし、経験者よりも劣っているということもない。実際にプレーしている人と見ている人、そこに優劣はないのだから。ただ、なにかが足枷になっていて一歩を踏み出せないのであれば、その足枷を外してあげたいなと思う。もちろん、その子と自分は違う人間だし場面も違うから、正しい答えが出るとは限らない。けれど、分かるわけないからといって開き直ってしまったら、分からないままだ。想像したり思いを馳せたりしていれば、すこしでもなにかのヒントが見つかるかもしれない。5年くらい前、友人に誘われてボルダリングを始めた。室内の壁に打ち付けられた、岩のでっぱりやくぼみを模した“ホールド”というものを登っていくスポーツクライミングと呼ばれるものだ。初日はペットボトルの蓋も開けられないくらい腕がパンパンになったんだけど、何度か通っていると筋肉痛も心地よく感じるようになり、日ごとに登れるようになっていった。競技自体も楽しいんだけれど、目に見えて自分の成長が感じられるのも嬉しかった。大人になってのびしろを感じる機会って少ないもんね。ある程度技術がついてきたあたりから、初めは見えなかった面白さを感じるようになってきて、一層楽しめるようになった。そのものの本質的な面白さがわかるまでには時間かかる。あそびもスポーツも仕事も同様だろう。時間をかけてこそ見えてくるものは確かにあるよね。三日坊主という言葉がある。物事が続かないことを揶揄(やゆ)する言葉だ。逆に、辛抱強くいればうまくいくかもしれないという意味として、石の上にも三年ということわざがある。初めは冷たい石の上でも、長く座り続ければいずれ温かくなるということだ。継続は力なりというように、三日で辞めるより続けられた方がきっといい。途中で投げ出さずに粘り強くやり抜くことって、何かを成し遂げるためだけではなく、楽しむためにもとても大切なことだろう。子どもたちにも、やり始めたことは途中で投げ出さずにやり抜いてほしいと思う。今は面白さを感じなくても、続けていれば楽しくなってくるよって。根気強く続けた先に見える面白さや追求することの楽しさを知ってほしい。壁にぶち当たっても乗り越えてほしい。そのときに味わう達成感は格別だ。けれど、と少し考えてみる。何気なく腰掛けて、なんとなく座っていただけなら三年座っていられるかもしれない。けれど、あらかじめ石が温かくなるまでは何年もかかりますよ、と言われていたら、そんな石には座らないんじゃないだろうか。どうしても座らなきゃいけない状況はあるかもしれない。そんな人にとっては、「いつか温かくなるかもしれない」という見通しがあれば安心する。だけど、それは座り続けるための理由ではなく、あくまでも我慢を続けるための慰めだ。そうやってやっとのことで温まったお尻に感じるのは、きっと達成感ではなく、辛かったことから解放された安堵だろう。少し走ってみようかなと思ったときに、遠くにあるゴールにたどり着くまで走り続けないといけないとしたら、ましてや、周りのみんなはその道のりを悠々と走っているのを見たら「今回はやめておこうかな」と、スタートを切ることさえしないんじゃないか。そうしたら、そのまま「興味はあるけれどやっていないリスト」に追加されることになる。続けたら花が咲き、実がなるかもしれないけれど、そもそも始めなかったら芽さえも出ない。なんとなく始めてみて、一歩ずつ進んで、気づいたら遠くまで来ていた。座っていたらいつの間にか温くなっていた。それくらいでいいのなら、最初の一歩も気軽に踏み出せそうな気がする。どうして僕はその面白さを知れるくらい続けられたんだろう、と考えた時に思うのは、同じように下手くそな友人がいたからではないだろうか、ということ。もちろん、上手い人に憧れて鍛錬して上達する人もいるだろうけれど、自尊心の低い僕の場合は、周りの人たちが板チョコのような薄さのホールドを掴んで身軽に登っているのを見て、憧れよりも惨めさを感じた。僕だけが、バナナみたいなデカいホールドに不格好にしがみ付いている。身軽さなんて微塵もなく、ナマケモノのように壁にへばりついて腕をプルプルさせたあげく引力に負けてマットの上に落下する。初心者なんだから当たり前だし、恥ずかしがって楽しめないのはもったいない。そんなこと分かっているけれど、やはり恥ずかしいものは恥ずかしいのだ。だから僕は、慣れるまではひとりで行けなかった。一緒に通う、同じタイミングで始めた同じように下手くそな友人がいたから、その恥ずかしさが紛れていた。自分より下手だから安心できるのではない。「失敗しても大丈夫だ」と思えるから安心できるのだ。持つべきものは偉そうに教えてくれる熟練の友ではなく、共に失敗する未熟な友だった。そんなことを思い出しながら思う。興味を持ったあそびに参加しないその子は、新しいことに挑戦することが嫌というよりは、「みんなができていて自分だけできない」のが嫌なんじゃないだろうか。「失敗するかもしれない」という気持ちが足枷となっているんじゃないだろうか。なんとなく始めて、なんとなく覚えて楽しんでいる間に上達することってある。特に幼少期はそういうことが多いだろう。自分が人よりも劣っているかも、そんなことを思うとはじめの一歩は踏み出せない。大人なら子どもよりも上手にこなして「やってみなよ、教えてあげるよ」って、色んなことを教えてあげたい。けれど、未熟な友として共に失敗しながら成長していくのも良いのかもしれない。簡単に投げ出したり、逃げ出したりしないでほしい。けれど、途中で辞めることを「悪いこと」にしてしまっては、その経験はきっと「あの時も投げ出してしまったし、今回もどうせ続かないからやめておこう」になる。投げ出さないように嫌なことに耐えて育つのは、根気強さではなく我慢強さだ。根気強さや粘り強さはきっと、「もう少し続けたら面白くなるんじゃないかな」という期待のもとにあるんじゃないかな。それはきっと、与えられるものではなく、気軽に始めてたまたま続いた、そんな経験の積み重ねから生まれるんだろう。だから、途中で投げ出さずに続けてほしいなら、途中で辞めても大丈夫って思いたい。いつ立ってもいいからこそ、気負わずに安心して座り続けられるのだ。身になりかけたものを途中でやめそうになったときに「もったいないな」って思ったりもする。こんなに勉強してきたのに生かせないのはもったいないな。この資格取ったのに、別の仕事するなんてもったいないな。ここまで原稿書いたのに、ボツにするのはもったいないな。そんなことを大人になっても、いや、大人になったからこそ思ったりする。きっと、これまでそれに注いできた時間が無駄になるようで嫌なんだと思う。けれど、これまでの時間はこれまでの時間で、これからの時間はこれからの時間だ。ちなみに、これまで注ぎ込んだものを無駄にしたくない!という思いで損をすることが分かっていてもそれを続けてしまうことを、コンコルド効果っていうらしい。博打好きの同僚が教えてくれた。博打と一緒にするなよ、と思うけれど、同時に納得もしてしまう。未来のためにやってきたことを間違いにしないために、これからを犠牲にしているならそれは、未来ではなく過去のために生きているということになる。きっと誰だって、失敗するのは嫌だ。けれど、それが失敗じゃないとしたらどうだろう。「やるなら途中で投げ出しちゃダメだよ」「どうせ続かないんだからやめときなよ」って言葉は減るかもしれない。飽きたなら途中で辞めればいい。しんどければ逃げればいい。簡単に投げ出せばいい。そんなことを言葉にするのは憚られるけれど、それが許されるなら、大人も子どもも、少し肩の荷が降りるような気がする。甘いんじゃないだろうか。その子のためにならないんじゃないだろうか、と思ってしまうかもしれない。途中で辞めてしまう子を見て、歯痒い気持ちになるかもしれない。けれどそれは失敗じゃないし、無駄なんかじゃないとすれば、育んでいるものに目を向けられる。新しいことに挑戦できた。別のことに興味を持てた。できない自分を受け入れられた。全部大成功だ。何にも見つからなくても、自分の気持ちに正直になれた、無理しなかった、だけでも十分だ。それを失敗にしなければ、次の挑戦ができるかもしれない。気軽に、なんとなく興味を持って、なんとなく始められるかもしれない。そんな一歩が積み重なって、気づいた頃にどこか遠くまで来ているかもしれない。もちろん、どこにも辿り着かないかもしれないけれど、それはそれでいいじゃない。活発な子に育ってほしいなら、元気がなくてもいいよって言ってみる。なんでも食べる子に育ってほしいなら、無理して食べなくてもいいよって言ってみる。強い子になって欲しいなら、泣いてもいいよって言ってみる。今と未来は地続きだけれど、今のこの時間を、未来の何かにつなげるために無理しなくていい。「こんなんじゃダメだ」ではなく、「できなくても大丈夫」って安心できたなら、どこかの何かのきっかけでなんとなく「もう一歩踏み込んでみようかな」って思えるのかもしれない。余談ですがこの連載コラムは、月2本くらい書くつもりでスタートした。次第に月1本くらいのペースになっていった。1月から始まり12月にちょうど第12回の原稿を書き始めた。三日坊主の自分が月一を継続したと喜んでいたら、八割方書けたくらいで手が止まってしまい、結局予定より2ヶ月遅れた。初めは、「続けられるか分からないけれどとりあえずこの一本を」と書いていたのに、過去に積み上げたものや達成しそうな何かを見た途端、身動きが取れなくなったのだ。けれど、書いた。今までのものなんて忘れて、次のことも考えないで、目の前のことだけ考えて、ちゃんとできた。えらいな、自分。結局、ボルダリングは2年ほど続けたけれど、引っ越してアクセスが悪くなったことで足が遠のき、そのまま辞めることになった。せっかく鍛えたのだから衰えないようにと通い始めたフィットネスジムは、2、3回通って飽きてしまった。かと言って一度始めたのに途中で辞めるのもなんだかやはりダメな気がして「今月は月謝も払ったし…」と先延ばしにし続けていたら、結局1年間ほとんど通わないのに毎月月謝が引き落とされていた。これがコンコルド効果か、と無表情で納得した。始めたいけれどきっかけがない、ということもあれば、続けたいけれど途切れてしまうこともある。やめたいのにダラダラと続けていることもある。三日坊主が石の上に座っているのを想像してみる。ただの坊主なら修行っぽいけれど、三日坊主が座り続けているのならば、よほど居心地のいい石だろう。そんな石が見つかればいいなって思う。いつか見つかるかもしれないから、そんな石が見つかるまでは、少し冷たいお尻ももう少し我慢してみようかな、なんて誤魔化してみたりする。座っているのがしんどいならば、寝転んででもへばりついてでも居心地いい姿勢を見つけてやろうか。きしもとさんの記事やこれまでの連載コラムはこちら[文・構成/きしもとたかひろ]きしもとたかひろ兵庫県在住の保育者。保育論や保育業界の改善について実践・研究し、文章と絵で解説。Twitterやnoteに投稿している。⇒きしもとたかひろnote⇒きしもとたかひろTwitter
2021年02月06日お笑いコンビ・キャイ~ンの天野ひろゆきが30日、一般女性との結婚を発表した草なぎ剛をツイッターで祝福した。草なぎはこの日、婚姻届を提出。所属事務所を通じ、「これからも、今までと変わらぬスタンスで仕事を続けていきたいと思っておりますので、皆様にも応援していただけるよう、日々精進してまいります」とコメントを発表した。天野は相方・ウド鈴木と共に撮った思い出のスリーショットをアップし、「うぉー、今つよぽん結婚!」と興奮。「こんな嬉しいサプライズは、なんぼあってもいいですからね」と喜び、「本当におめでとう」とメッセージを送った。天野が投稿した写真は、昨年11月に草なぎが行ったライブイベント「草なぎ剛のはっぴょう会」後の一枚。当時のブログでは会場まで足を運んだことを明かし、「歳をとると、失敗を恐れたり、なるべく恥をかきたくないという気持ちが強くなり、次第に自分で挑戦を諦めたり、限界を決めたりしてしまうものだ」「しかし、つよぽんにはそれがない」「その姿を見ていたら人生を楽しんで生きてるかい?とお尻を叩かれたような気持ちになったりした」と感想をつづっていた。
2020年12月30日2021年3月4日(木)~3月14日(日)に、東京・大手町三井ホールにて上演される舞台「元号男子」のメインビジュアルが公開された。本作は、志島とひろによる元号を擬人化した作品を舞台化したもの。時代とともに生まれた大正、昭和、平成、令和の4人の元号男子が一つ屋根の下で暮らす模様を描いている。脚本・総合演出を川尻恵太、演出を白鳥雄介が担当。大正役の和合真一、昭和役の校條拳太朗、平成役の平賀勇成、令和役の大薮丘を中心に、若手俳優たちが活躍する。今回公開されたビジュアルのイラストは、原作者の志島が手がけた。背景はイラストレーターの村カルキによるもの。魅力的なキャラクターはもちろん、美しく描かれた背景も注目してほしい。なお、和合、校條、平賀、大薮のキャスト4名のサイトにて、チケット先行受付を実施中。申し込み締め切りは12月7日(月)23:59となっている。【公演概要】舞台「元号男子」公演日:2021年3月4日(木)~3月14日(日) / 全15公演会場:大手町三井ホール(東京都千代田区大手町 1-2-1 Otemachi One 3F)チケット代:全席指定9,800円(特製 A4 タペストリーつき / ランダム)※本公演のチケットは電子チケットとなります。ご注意ください。キャスト先行:2020年11月20日(金)10:00~12月7日(月)23:59大正役・和合真一 FC: 昭和役・校條拳太朗 FC: 平成役・平賀勇成 ニコニコチャンネル: 令和役・大薮丘 FC: ※詳細は各サイトでご確認ください。公演に関するお問い合わせ:サンライズプロモーション東京 0570-00-3337(平日12:00〜15:00)公式サイト:
2020年11月27日元総合格闘家でタレントの高田延彦が、自身のYouTubeチャンネルにて1997年10月11日に開催された「ヒクソン・グレイシーvs高田延彦」の秘蔵映像を投稿し、当時の心境を語った。動画は前・中・後編の3本で、後に高田自ら「死刑台に向かうようだった」と表現したリングでの戦いと、その前後にどんなストーリーがあったのかを公開。後編では、一方的な負け方で批判が集まった試合について「試合のゴングがなってから終わるまで、自分がパフォーマンスしたことで自分自身が実感できる。俺は戦犯的な負け方をしたんじゃないかって」「罵声の中を俺は、このリングから、みんなの視界から消えていく」「誰が言わなくたって俺は戦犯だな」と当時の心境を明かしている。控室に戻ってからは、悔しさを滲ませた表情で声をかける安生洋二選手や妻の向井亜紀が、高田の前では明るく振る舞いながらも、高田がいなくなるとしゃがみ込んで涙を見せる姿も。映像を振り返り「自由に批判してよ」と呼びかけた高田だが、芸人の玉袋筋太郎からはInstagramにて「A級戦犯は戦う場に出ていかなかったプロレスラー達だ!」というコメントが。ファンからも「よく見せてくれた。なんべんでも見て、高田延彦のウン十万分の一でも、この時の気持ちを共有できたらと思う」「安生選手『高田さん、約束してください! 引退という言葉だけは使わないでくださいっ!』もうこれで泣ける」「向井さんの明るさが、深い愛情に感じる」など熱いコメントが殺到した。高田は最後に「感謝の気持ちしか出てこないもんね。俺が死ぬまで一生付き合っていく物語だけあって強烈でした」と語って、“ヒクソン・グレイシーvs高田延彦 第1部”を締めくくっている。
2020年11月17日Twitterやnoteで子育てに関する『気付き』を発信している、保育者のきしもとたかひろさん。連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』では、子育てにまつわる悩みや子供の温かいエピソードなど、親や保育者をはじめ多くの人の心を癒します。まだ感情のコントロールが苦手で、癇癪(かんしゃく)を起こしてしまう子どもたち。他人の苦しみや欲求は、どうすれば理解できるのでしょうか。第10回『同情するならお湯をくれ。』「怒りたくて怒ってるんじゃないよ」と言われて「なら怒らなければいいじゃないか」と思ったことがあるのは僕だけではないだろう。学校からの帰り道、歩きながらノートを広げている子がいた。「危ないからノートしまって歩きなよ」と声をかけると「だってー」と返してきた。「危ないことは危ないからやめてね」と口答えを制した。理由があろうと危ないことは危ないのだ。しばらく歩いたところでお茶を飲みながら、またノートを広げていた。「しまっときって言うたやろー!」と少し語調を強めると、注意されて落ち込むというよりも楽しみを邪魔されたというような表情をした。心配していることを伝えるつもりで言い訳のように「怪我したらあかんからな。ほんで、暑いから水分しっかり取ってな」と言うと「だから飲んでてんやん」と言い返してきた。なんだかやけに反抗的だなと思いながら視線を落とすと、広げたノートに地図のようなものが書かれているのが見えた。スタートらしき場所には「がっこう」と記されており、路線図のようにいくつかの四角を線で繋げていて、ところどころに手書きの星マークがつけられていた。双六のようにも見える。「なに見てたの?」と、指摘としてではなく興味本位で尋ねた。「帰り道に暑くてお茶飲まなあかんから、飲むポイントを書いてんねん、いまここ」と言って[学校]と[学童]の間にあるチェックポイントの一つを指した。「真夏の水分補給」も子ども達に指導している交通ルールと同じく大切なことだ。それを自分たちで工夫して実践できるようにしていることに感心しながらも「いいことやけど、危ないからノート広げて歩くのはやめような」と伝えた。しばらくしてから、「おもろいなあ」とそのノートのことを思い出していた。自分たちで相談して書いたんだろうか。決められためんどくさいことも、あそびに昇華してるなんてすごいじゃないか。「いいことやけど」ってなんやねん。ただただめっちゃおもしろいやん。「いいことや」って取ってつけたように言ったけど、あの子たちには「怒られた」ってことだけが残っているんじゃないかと少し後悔した。自分で自分に「怒りたくて怒ったんちゃうねん」と言い訳した。「なら怒らなければいいじゃないか」と子どもの頃のぼくが顔を出す。危ないことは危ないからやめてもらわなきゃいけない。けれど、もっとほかに伝え方があったんじゃないか、間違いを指摘することをそんなに焦らなくてもいったん話を聞くことくらいはできたんじゃないか、と何度も考えていた。思い通りにいかないときに癇癪を起こしてしまう子がいる。諭すように話したり、思いに寄り添うように声をかけたりしてみても全く応じることはなく、言葉をかければかけるほど興奮したり、脱力して床に寝そべり駄々をこねたりする。腫れものを触るように接していき、癇癪玉が爆発したら最後「鎮まりたまえ!」と災難が過ぎ去るのを待つようになだめ、根負けして思い通りにさせるか、そうでなければ開き直って強引に言うことを聞かせるしかない。その子は好きなあそびを中断されるたびに駄々をこねた。みんなで遊んでいるときには機嫌よく過ごしているけれど、終わってしまったり中断されると手をつけられなくなっていた。ある日、その子は好きなあそびをせずに一人で過ごしていた。ひとりでのんびり過ごしているのかといえばそうではなく、かと言って別のあそびに夢中になっている訳でもなさそうで、あえてそのあそびから離れているように見えた。何かあったのか尋ねてみると、その子は少し黙ってから「もう、ああなるの嫌やねん」と小さく言った。「ああなるの」とは「キーーーッ!」ってなること、つまり「癇癪を起こしてしまうこと」だ。「思い通りにいかないことがあったら癇癪を起こす子」ぼくはそんな風にその子のことを見ていた。思い通りにいかないことを押し通そうとする姿は、半ばわがままにも見えた。その子にも制御ができないのだ、とそのときに初めて気が付いた。本人が苦しんでいるなんて思ってもいなかった。癇癪を起こさないようにしたり、それを鎮める方法を話し合いもした。けれど、それは「その子がしんどいから」ではなく、「僕たちがしんどいから」やっていた。その子が癇癪と戦っているのに、僕とも戦わなきゃいけないなんてそりゃあしんどい。僕には見守るか支えるしかできなかったのだ。もしかしたら、わがままな姿や怠慢に見える姿が、ただ気に食わなかったのかもしれない。誰も困りはしないのに何故だか許せない、そんな感情ってあるんだよね。その子が感情をコントロールできなくて、うまく表現できなくて苦しんでいるかもしれない。それを分かっていても、それでもやっぱり「自分の言う通りにしたいだけじゃないか」とか「ただのわがままなのではないか?」と感じてしまう自分がいる。考えてみれば、その子が癇癪を起こさずに言うことを聞いて欲しい、と望んでいる僕の考えも、自分の思い通りにしたいというわがままだよね。僕たちはなんで、人がわがままに振る舞っていたりサボっているように見えたりするのが許せないんだろう。たとえば危険があるとか誰かの迷惑になるとかなら分かるけれど、誰に迷惑をかけるわけでもないのに、手を抜いていたりサボっていたりズルをしていたりすると許せない。気に食わないな、と思うだけなら勝手だけれど、「その子のためにならない」というもっともらしい理由をつけて厳しくしてしまうこともある。親を甘やかしたらいけないという価値観も、保育や教育の業界から聞こえてきたりする。「気に食わない」だけで批判するのは理不尽だって誰でも分かるけれど、それが「教育」とか「当たり前」という仮面を被ってたら、そういうものなのかもと思ってしまう。しんどい人は救われるどころかさらに追い込まれていく。しんどいのなら、甘えてもいいんじゃないのかな。なんで、甘えたり手を抜いたりすることが許せなくなってしまうんだろう。あ、例えば、狩りで生きてきた時代には、サボってしまったら生死に関わるから本能的に「サボるのは許せない」と感じるのかもしれないな。とか適当なことを考えてみたけれど、「サボりたい」「休みたい」も生きるために必要な心の声じゃないか。「何個しんどかったら帰れるんですか?」中学校に勤めている友人が、保健室で生徒に聞かれたらしい。熱は無いけれどアトピーの調子が悪いし具合もよくないので帰りたい。けれど、サボりだと思われて帰らせてもらえないとのこと。甘やかしてクセになってもいけないし、だからって子どものしんどさに寄り添えないのもつらいものだ。僕は子どもの頃からアトピーなんだけれど、痒いとか痛いとかだけでなく、向けられる視線やかけられる言葉に傷付いたり、自分は頑張りたいのに頑張れないしんどさもある。学童でも身体が痒くて目の前の宿題に集中できない子がいて、それを見て「集中力がないな」と思ってしまいそうになる。けれど、絶対に「集中しなよ」と声をかけることはしない。だって、集中できるならしてるもんね。痒いから集中できなくて、集中できないからまたイライラして掻いちゃって、終わりが見えなくてボーッとしてしまうんだ。荒れた肌は見た目も良くないし、フケが服についたりするから清潔感がないとか言われる。清潔にしていないとすぐに悪化するから、一度来た服を洗わずに着ることはないしシーツだってしょっちゅう洗う。その辺の清潔感のあるイケメンよりも、きっと清潔であることを心がけているけれど、見た目の清潔感は伴わない。食生活が良くないんじゃないかとか生活習慣が悪いんだよって言われることもある。怠慢だから、サボっているからだよと病気をその人のせいにしたがる。しんどくてエネルギーを使いすぎて、いつもなら容易にできることが、ガス欠でできないこともある。当たり前にできるべきことができていないから、またやっぱりサボってるって思われる。その人のしんどさはその人にしか分からない。同じ痛みでも、平気な人もいれば、動けないくらい苦しむ人もいる。その人にしかその苦しみはわからない、という至極当たり前のことを忘れて、苦しむ人が弱いのだと、それを悪いことのようにしてしまう。忍耐力が足りない?みんな我慢してる?その事実があったとしても、それでしんどさはなくならないのに。病気に限らない。健康でも、その時の環境や状況でしんどい人はきっとたくさんいる。家族がケガをしたり、飼っている猫が病気だったり、失恋したり、推しが引退したり。病気だからとか障害だからとかではなくて、なにもなくてもそのしんどさに目を向けていたい。「そんなことくらいで」なんて他人が言っちゃいけないんだよね。みんなは大丈夫なのに自分がしんどくても、「そんなことくらいで」って自分で思ってしまうことも、もうやめたい。みんなしんどいことは嫌なはずだよ。そのしんどさから逃げたり解放されることを望んだりするのって悪いことじゃないはず。みんながしんどくなくて、みんながサボれる社会の方が断然生きやすいやんか。「なぜしんどいか」なんて関係なくて、そこにしんどさがあるのなら、それをまずは解消したい。甘えてなにがいけないんだろう。弱くてなにがいけないんだろう。教育というモノを言い訳に、育てるという名目のもとに、その子のしんどさを否定してはいないだろうか。まっとうに生きる。勤勉に生きる。それが幸せになるためではなく、ちゃんとした大人として見られるためなのであれば、もうそれにならなくてもいいやって思うの。ちゃんとした大人、を目指すなら、人のしんどさを自分の尺度で測らずに、想像したり寄り添える大人でありたいと思う。「正しいこと」よりも先に「生きやすいこと」を大事にしてみようよって思う。他人が大切にしているものを否定しないのと同じように、他人のしんどさを否定しない。それができたならきっと、自分の大切にしているものもしんどいことも、自分で否定しないでよくなるんだと思う。子どもの育ちを見守る立場である僕が、こんな風にサボることを肯定したら、それで不安になる人もいるかもしれない。けれど、ぼくははっきりと言いたい。一個でも十分しんどいよ。みんながしんどくないことでも君がしんどいのならしんどいんだよ。休んでいいんだよ。手を抜いていいんだよ。苦しみを我慢して厳しくされた分だけ辛抱強くはなるかもしれない。けれど、その分相手にもその強さを求めてしまうのであれば、自分のしんどさに気づいて誰かに甘えられるほうが、その誰かもまた誰かに甘えていけるほうが、みんながしんどくないんじゃないかな。少なくとも、相手には相手のしんどさがあることを知れるから、強さを求めて追い込んだり傷付けたりすることは減るだろう。みんなが強いことを望んで傷つけ合うよりも、弱さを認め合って支え合えたら。甘いと言われようと、僕はそうありたいと思うのだ。余談ですが別の日の帰り道に、「泥棒って、ご飯食べてるんかなあ」と尋ねてきた。不意に問われたその意図が分からなかったので、なるべく断定するような答えにならないように「どうやろうなあ」と返すと「食べてないんやったら、カップラーメンにお湯入れてあげたいわ」とその子は言った。ただカップラーメンをあげたい、ではなく「お湯入れてあげたい」という具体的な優しさが、哀れみとか同情ではなくその子の本当の思いであることを感じさせた。「泥棒ってお金ないんやろ、だからカップラーメンに」と繰り返す。生まれながらに悪い人、ではなく、お金がないから悪いことをしてしまう。そんなふうに考えられる人がどれだけいるだろう。悪い人の代名詞である泥棒だけれど、その子にとっての泥棒は悪い人ではなく困っている人なのだ。犯罪を犯すのはその人のせいで、貧乏なのは自己責任だと叩かれるこの社会で、この子は泥棒のカップラーメンにお湯を入れてあげたいと言っている。それを聞いてぼくが抱いた感情を、なぜだろう、うまく言い表せられない。考えを巡らせすぎたのだろうか、「あーーー」と叫んで「あかん、ほんまに泥棒にお金配りたくなってきた」と泣きそうな顔で呟いた。もしぼくが泥棒なら、って少し想像したら、泥棒でもないぼくが何故か救われたような気持ちになった理由が分かった気がした。ぼくが泥棒だったなら。きっと、そのもらったお金でカップラーメンを買うだろう。ビールを飲んだり美味しいお肉も食べたいけれど、餃子やお寿司も食べに行きたいけれど、でもきっとカップラーメンを買うだろう。そして、その子がお湯を入れてくれるのを待つのだ。きしもとさんの記事やこれまでの連載コラムはこちら[文・構成/きしもとたかひろ]きしもとたかひろ兵庫県在住の保育者。保育論や保育業界の改善について実践・研究し、文章と絵で解説。Twitterやnoteに投稿している。⇒きしもとたかひろnote⇒きしもとたかひろTwitter
2020年10月27日ヒトサラ「Go To Eat」キャンペーンのポイント!ランチは500pt、ディナーは1,000ptもらえる期間中はヒトサラPOINTが通常の3倍!最短翌日でポイントがつかえる大和八木駅【bistro La Fuwaja】奈良県産の食材でつくる【フレンチ×和の融合】を味わう独立時からお店で出そうと決めていた一品。『奈良吉野・上北産の鹿肉ロースト』店名は【フランス・和・ジャポン】を表すシェフの造語。その名の通り、フレンチ×和の融合を目指したシェフこだわりのコース料理を提供しています。日頃の疲れをリフレッシュできるようなアットホームな空間で、カジュアルにフレンチを堪能できますよ。お肉は地元奈良県吉野でとれた鹿・猪肉、野菜は桜井山田の段々畑で採取された野菜を使用。ほかに旬の魚介をシェフ自ら厳選しています。ワインは料理に合ったものを多数取り揃えており、フレンチとのマリアージュを楽しめるのも魅力です。bistro La Fuwaja【エリア】橿原【ジャンル】フレンチ【ランチ平均予算】3000円【ディナー平均予算】4000円【アクセス】大和八木駅 徒歩3分畝傍御陵前駅【ビストロイマイ】高級食材をつかった本格フランス料理を気軽に楽しめるビストロ想像を超えるやわらかな食感と、口いっぱいに広がるアワビの甘みを堪能できる『アワビのステーキ』オーソドックスでクラシックなフランス料理を味わえる【ビストロイマイ】。過剰な演出無しの、おいしさだけを追求した料理を提供してくれます。白を基調にした明るい店内は、アットホームな雰囲気。小上がり席もあり、つかい勝手がいいお店です。用意されたコースメニューは全部で6種類。中でも『menu special』は、フォアグラやアワビなどの高級食材を堪能できるおすすめのメニューです。量の少ないハーフコースも用意があり、家族連れにうれしい配慮がされています。ビストロイマイ【エリア】橿原【ジャンル】フレンチ【ランチ平均予算】1600円【ディナー平均予算】3800円【アクセス】畝傍御陵前駅 徒歩6分坊城駅【ImagamI】新しいフレンチ×自然派ワイン。ゆっくり味わえる一軒家レストランバラエティ豊かな旬の山海の幸を満喫『旬の彩り前菜いろいろ盛合わせ』能登牛やのどぐろなど、石川で採れる一級の品々を堪能できるレストラン。店内にはゆったりとくつろげるカウンター席と奥まったテーブル席があり、大人の隠れ家のような趣があります。営業時間が昼ノ部と夜ノ部に分かれており、それぞれ違った雰囲気を楽しめます。ランチは気軽にのどぐろなどの丼ものを、ディナーは加賀野菜や海の幸をつかった創作コース料理を堪能できます。金沢市内の料亭でみっちり腕を磨いた料理人がつくる和食は、地元の食通も唸らせる逸品揃い。お酒も地のものをたくさん用意してあります。ImagamI【エリア】橿原【ジャンル】フレンチ【ランチ平均予算】3000円【ディナー平均予算】5000円【アクセス】坊城駅高田市駅【ヴェルデ辻甚】極上な大人の時間を満喫できるモダンスタイルレストラン8時間煮込んだコンソメのソースで見事フレンチに仕上げた贅沢な『フカヒレのステーキ』3,500円(税抜)約400年の歴史を持つ元老舗料亭旅館である【辻甚】が品位と格調に満ちた空間として蘇った【ヴェルデ辻甚】。風光明媚な大正ロマン溢れる風雅な外観はそのままに、おいしい料理と心温まるおもてなしが迎えてくれる、非日常空間が広がります。どの料理も季節の魚介や野菜をそれぞれの食材に合わせて料理し、美しい盛り付けや味にもこだわった逸品揃いです。また、幅広い年齢層が楽しめるよう、大人と同じ食材をつかった本格フレンチのお子様向けコースも用意。家族のお祝い事にもおすすめです。ヴェルデ辻甚【エリア】大和高田【ジャンル】フレンチ【ランチ平均予算】4000円【ディナー平均予算】9000円【アクセス】高田市駅 徒歩3分新ノ口駅 【レストランピノノワール】洗練されたアーティスティックな空間でフレンチとワインを堪能皮目をパリッと、身はふっくらと焼きあげた旬魚の芳醇な味わいに心ときめく『魚料理』アーティスティックな空間が魅力の、一軒家フレンチ。デザイナーが手掛けるウォルナット製の家具や画家制作の版画作品が目を引く店内は、ゲストの美的感覚をも刺激してくれます。重厚感のある洗練された大人の雰囲気でゆっくりと上質な時間を過ごせます。素材の持ち味を最大限に引き出したフランス料理を提供。そこに合わせたいのは、フランスブルゴーニュ地方のワイン。熟成した飲み頃のワインを常時300本ほど取り揃えたワインセラーがあり、普段なかなか味わえない高級なワインもグラスで用意しています。レストランピノノワール【エリア】橿原【ジャンル】フレンチ【ランチ平均予算】5000円【ディナー平均予算】10000円【アクセス】新ノ口駅 徒歩5分ほかにも、「GoToイート」利用可能なお店をお探しなら、こちらをチェック!↓
2020年10月25日新型コロナウイルスにより、10月4日にこの世を去った天才デザイナー・高田賢三さん(享年81)。訃報を受け、出身地である姫路市できょうだい3人が会議を開いていた。次姉・瑞子さん(84)宅に集まり、その後に近くのお好み焼き店で会食へ。7人きょうだいの5人目として花街で生まれ育った賢三さんだが、デザイナーとしての才能の片鱗は少年時代から見え始めていたという。長姉の志津加さん(86)は、賢三さんの若かりしころを語る。「賢三がファッションに興味を持ったのは、母親の影響が大きいんです。母はすごく着物が好きで、自宅には見本の布などがたくさんありました。私たちの服もすべて仕立てたものばかり。それくらい着るものにこだわっていました。私も洋裁学校に進学したのですが、賢三は当時からデザイン画がすごく上手でね。よく私の学校から出された課題を手伝ってくれたりしていました」また、次姉の瑞子さんは賢三さんのフランス行きを後押ししていたのだという。「’65年に渡仏する前、賢三は六本木に住んでいました。するとマンションが改築になって、“立ちのき料”として大金が転がり込んできたんです。そのとき、賢三から『軽井沢に別荘でも買おうかな』と相談を受けて……。だから私は『デザイナーとして成功したいなら、フランスへ行きなさい!』と叱りました。そのほうが、絶対に将来のためになると思ったんです」姉の叱咤もあり、賢三さんは船で渡仏。KENZOブランドを設立し、世界へと羽ばたいていった。しかし’90年には信頼するパートナーと死別し、経営は次第に悪化。’93年には、ブランドを手放すことになった。それでも、実弟・紀年さん(79)は当時をこう振り返る。「私は、あの時期に会社を手放せてよかったと思っているんです。というのも、経営者だったころの兄は、好きな仕事だけに打ち込むわけにはいきませんでした。でも、晩年は一人のデザイナーとして自由に生きていたんです。衣服以外のデザインをしたり、油絵に挑戦して個展を開いたり。思いのままやりたいことをやって過ごせていました。それは、兄がもっとも求めていたことでした」今でも年に1度は食事会などを開き、必ず顔を合わせていたという高田家のきょうだいたち。紀年さんは遺骨が日本に帰ってきた後、こんな“追悼プラン”を思い描いているという。「正直、今後のことはまだ何も決まっていません。ただあくまで私個人の意見ですが、遺骨が戻ってきたらまず一部を姫路にある先祖代々の墓に入れたい。そして残りは、エーゲ海などに散骨してあげたほうがいいのではと思っているんです。今年の夏もバカンスに出かけていた思い出の地ですからね。日本の小さなお墓に入るよりも、のびのびして兄らしいんじゃないでしょうか。向こうの人たちも『KENZO!』と言って慕ってくれますし。いつか、きょうだいみんなで行って見送ってあげたい。そんなことを考えています」KENZOは、亡くなった後も世界を旅し続ける――。「女性自身」2020年10月27日号 掲載
2020年10月14日2020年10月4日、ファッションデザイナーの高田賢三さんが亡くなりました。高田さんは、ファッションブランド『KENZO』を設立し、日本のみならずフランスで芸術文化勲章を受章するなど世界で活躍していました。『KENZO』の高田賢三さん、新型コロナで死去「また偉大な人が」「さびしい」冨永愛「胸がえぐられる思い」モデルの冨永愛さんは、高田さんの訃報を知り自身のInstagramにコメントを掲載。2006年に開催されたパリコレで、当時生後6か月だった息子とともにランウェイを歩いた写真を公開しました。 この投稿をInstagramで見る 冨永愛(@ai_tominaga_official)がシェアした投稿 - 2020年10月月4日午後4時38分PDT高田賢三さんの訃報を知り悲しみに暮れています今年は訃報が多く胸がえぐられる思いです…この写真は生後6か月の息子と歩いた @kenzo 2006S/Sのパリコレですが高田賢三さんの時代ではありませんしかし彼が引き継いだブランドの魂は確実にそこにあると信じていますそしてこれからも…Rest In Peace KenzoLove youai_tominaga_officialーより引用「悲しみに暮れている」と胸中を吐露した冨永さん。高田さんのブランドの魂は、ファッション界で生き続けているといいます。投稿には、高田さんへのお悔やみのコメントが寄せられていました。・素敵な衣装ですね。今もブランドは受け継がれていると思います。・この写真、とてもよく覚えています。賢三さんの洋服、とても好きでした。・悲しいニュースが続いてつらいですよね。コロナがなければ…と思うばかり。同年7月21日には、ファッションデザイナーの山本寛斎さんが亡くなりました。偉大なデザイナーの訃報に悲しみは募るばかりです。高田さんが遺したブランドの魂は、この先も多くの人の心を明るくしてくれることでしょう。[文・構成/grape編集部]
2020年10月05日2020年10月4日、世界的なファッションデザイナーとして知られる、高田賢三さんがフランス・パリ郊外の病院で死去しました。81歳でした。サンケイスポーツによると、高田さんは新型コロナウイルス感染症(以下、コロナウイルス)に感染し、入院をしていたそうです。高田さんは9月初旬に南フランスへのバカンスからパリに戻った後の同10日ごろ、体調不良を訴えて入院。翌日にPCR検査でコロナ感染が判明した。関係者に電話で「体調が良くなってきた」と話すなどしていたが、容体は一進一退を繰り返し、日本時間の10月4日夜に亡くなったという。サンケイスポーツーより引用高田さんが設立したファッションブランド『KENZO』は、パリのコレクションで高く評価され、フランスの芸術文化勲章を受章したほか、日本でも紫綬褒章を受章。日本のファッション界を長らくリードする存在であった高田さんの訃報に、友人のファッションデザイナー、コシノジュンコさんは「亡くなるなんてあり得ない。しかもコロナウイルスが原因なんて」と喪失感を隠せない様子だったといいます。ネット上ではこのニュースにお悔みのコメントが相次ぎました。・つい先日、公園で『KENZO』のTシャツを着た子供を見て「素晴らしいデザイナーだな」と改めて思ったところでした。残念です。・山本寛斎さんに続き、賢三さん。青春時代の憧れのデザイナーたちでした。偉大な人たちの旅立ちは、とてもさびしいです。・『KENZO』の服とかばんを学生時代に使っていました。ご冥福をお祈りします。ファッション界に、数々の新しいインスピレーションをもたらした高田さん。その功績は、今後もさまざまな形で受け継がれていくことでしょう。ご冥福をお祈り申し上げます。[文・構成/grape編集部]
2020年10月05日「魔法の天使 クリィミーマミ」のキャラクターデザインを手掛ける人気イラストレーター高田明美の展覧会「高田明美展」が、2020年9月23日(水)から28日(月)まで、銀座三越にて開催される。高田明美は、2018年にデビュー40周年を迎えた人気イラストレーター。スタジオぴえろが手掛けたアニメ作品「魔法の天使 クリィミーマミ」を代表作に持ち、「きまぐれオレンジ☆ロード」、「うる星やつら」のキャラクターデザインを手掛けたことでも知られている。銀座三越で開催される「高田明美展」では、「魔法の天使 クリィミーマミ」を中心とした作品の版画、書き下ろしの原画を展示販売。期間中、原画または版画を購入した先着100名には、直筆サイン入り色紙もプレゼントされる。9月26日(土)には、高田明美本人が来場するため、本人から直筆サインを受け取ることが可能だ。グッズ販売にも注目。「魔法の天使 クリィミーマミ」の限定クリアファイルをはじめ「きまぐれオレンジ☆ロード」や「うる星やつら」の缶バッチ、ポストカードなどが展開される。【詳細】「高田明美展」開催期間:2020年9月23日(水)~28日(月)※最終日18:00閉場場所:銀座三越 9階 銀座テラス/テラスコート(東京都中央区銀座4-6-16)※入場無料展示販売作品例:・「これまでも これからも いつだってクリィミーマミ!」版画/受注品/額サイズ:約76×65㎝ 308,000円・「Celestial Voice」版画/額サイズ:約65×57㎝ 220,000円・「What’s a Magic?」版画/額サイズ:約56×44㎝ 30,800円・クリアファイル 440円※価格はすべて税込。※数に限りがある商品もある。※イベントの内容は変更、中止になる可能性がある。■高田明美サイン会日時:9月26日(土)15:00~17:00期間中、原画または版画購入者の中から、先着100名に直筆サイン入り色紙をプレゼント。サイン会当日は本人から直接受け取ることができる。※来店スケジュールは、都合により変更または中止になる場合がある。
2020年09月19日Twitterやnoteで子育てに関する『気付き』を発信している、保育者のきしもとたかひろさん。連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』では、子育てにまつわる悩みや子供の温かいエピソードなど、親や保育者をはじめ多くの人の心を癒します。保育の授業である質問をされた、きしもとさん。これを読んでいるあなたにとって『子供』とはなんですか?第9回『ちょっとずつやさしくて、ちょっとずつかなしい。』「子ども」を一言であらわすとなんという言葉を思い浮かべますか?保育の授業でそんな質問をされた。はしの席から一人ずつ「かわいい」とか「純粋」とか答えている中で、ある男が「邪悪」と答えた。その言葉は一際目立っていて、ぼくは「たしかに子どもには邪悪な一面もあるかもしれないな、おもしろい視点だなあ」と感心していた。一方、教壇でその質問をした先生は憤怒していた。憤怒なんて言葉を初めて使ったけれど、大げさではなく噴火する勢いで声を荒げて怒っていた。「子どもに悪の心なんてありません!」と。その男の言葉が宙ぶらりんになっていた。なんで「邪悪」と言ったのか、どんな想いや考えがあるのか聞こうとしないその姿勢はいかがなものかと思ったが、必要以上に怒られている当の本人は言い返すことはなく「そんな変なこと言った?」と困惑していた。どこかに隠れてしまったその男の本心を知りたくて、授業が終わってからどういう意味でその言葉を使ったのかを尋ねた。「子どもって悪気なく嫌なこととかするやん?人叩いたり悪口言ったりさ」と、いまだ怒られたことに納得しない表情で話してくれた。「それ、無邪気ちゃうん」と尋ねると「あ、それやわ!」と合点がいったようだった。まわりが子どものキラキラしている姿ばかりを言っている中でその視点を提起したのは素晴らしいなという尊敬の気持ちと、どんな言い間違いしてんねんアホやなという気持ちが入り混じり、「じぶん邪悪やな」と返すと、どう受け取ったかわからないけれど「ほんまや、邪悪やわー」と笑っていた。子どもの言葉と向き合うときに「子どもの言動をどこまで注意したらいいかわからない」という相談を受けることがある。小学生にもなると、どこで覚えたのか耳を塞ぎたくなるような暴言を、たとえば「しね」とか「ころすぞ」とか言うような言葉を軽はずみに使うようになる。そんな言葉を子どもから聞くと、ヒヤリとする。純粋無垢だったはずのその子が、悪に染まっていくようで不安になる。純粋なまま育ってほしい一心でその言葉を禁止したり、その言葉を使ったその子を咎めたりしてしまうけれど、子どもが本当に殺意を持ってその言葉を使っているのかと言えばきっと大体がそうではない。「きらい!」であるとか「むかつく!」であるとか、関西人の使う「あほか!」くらいの軽いノリの時もあるのかもしれない。どこで覚えたのかと書いたけれど、思い当たる節はいくつもある。テレビやネット動画だけでなく、日常で大人も使っていたりする。それこそ軽いノリで。自分の思いを言葉にしようとしたというよりは、まだ語彙の少ない中で相手を攻撃したり、自分のイライラする感情を表す言葉として、どこかで見聞きしたその乱暴な言葉を使うこともあるだろう。ぼくはそんなとき、自分が嫌だなって思ったことなら、それをそのまま伝えるようにしている。子どもの育ちのために、とか躾のためにとかは考えず、ひとりの人としてどう感じたかをそのまま伝える。言われたことが嫌だったなら、「傷ついたよ」と伝えればいい。誰かを傷つけるようなことをしていたら「見ていて気分が悪いよ」と自分の気持ちを話せばいい。必要以上に断罪はしない。表現の方法を間違えているだけだから、その言葉を肯定はしなくても否定もしない。否定したり禁止するということは、その子の感情に蓋をするということかもしれないからね。整理できない思いがあるのならそれを使わないようにするのではなく、その思いを表す言葉を知ることや、その感情との向き合い方を知ることの方が必要だろう。あわせて、その言葉の本心を理解しようとしてくれる存在と、受け止めてもらう経験も。それでもやっぱり根っこの感情が本当に「殺したい」のであれば「死ね」という言葉で正しいんだろうし、もしそうならば、その言葉を他人が否定することはできない。僕たち大人も自分の思いや感情を普段からちゃんと言葉にしているだろうか。そう考えたら、できていることの方が少ない気がする。「仕事いきたくなーい」ってよくいうけど、みんなは言わないかもしれないけど僕は言うんだけど、本当に仕事に行きたくないかといえば実はそうではなく「もうちょっとゆっくり寝たーい」とか「のんびり映画見てすごしたーい」とかだったりする。「細かい雑務がめんどくさーい」とか「あの上司と顔合わせたくなーい」とかかもしれないし、言葉にできなくてなんとなく言っていることだってきっとある。その感情をそのまま言葉にするのって実は難しくって、複雑に絡み合った感情を何か言葉にしたくて目の前のことにそのまま表出したりする。自分の感情をうまく言葉にできないだけでなく、自分の感情自体を正確に理解することもままならないときもある。子どもに「あっちいって!」とか「きらい!」とか「死ね!」と理不尽に言われたときに、本当はチクっと傷ついているのに、どうしてか怒ってしまったり。そもそも、感情を正確に言葉にすることなんかできるのかな。なんだかルンルンしている気持ちを「楽しい」という言葉にするから「楽しい」になる。そもそもルンルンってなんの音かわからないけれど、楽しいという言葉よりもルンルンの方が伝わることもあるかもしれない。もやもやしている気持ちを「悔しい」とか「むかつく」とかいう言葉にするからその感情が形になる。どの言葉にするのか適切な言葉をまだ知らないから、その感情からまっすぐ「死ね」とか「きらい」いう過激な言葉になるんじゃないか。その「死ね」や「きらい」は、「悲しい」かもしれないし「寂しい」かも「痛い」かも「虚しい」かもしれないし、「もやもや」とか「いらいら」とかかもしれないし、この世界の言葉にはない感情なのかもしれない。そんなときに、あなたはそんなこと言う子じゃないって言われたら、そんな思いを持つことはいけないことだって否定されてその思いに蓋をされたら、ぎゅーっと苦しくなる。それはきっと大人も同じだ。たとえばなにかお願い事をされたときにも、大人だから付き合ってあげないとって思わなくても、自分がそれをしたくないのなら断ってもいいのだ。ぼくは仕事だから子どもにお願いされたらよほど無理なことじゃなければ断らないようにしているけれど、仕事じゃないならその断る理由が「疲れた」とか「めんどくさい」でも悪いことではないと思う。ただ、そのときに「断られることも覚えないと」だとか「思い通りにいかないときの折り合いの付け方を学ぶ」とか、その子の育ちのためになりそうな理由を探しそうになるんだけれど、それは必要はない。むしろ、「相手のため」という言い訳は本質を隠すし、本心でもない。自分を守るために相手を引き合いに出す必要はない。相手のためではなく、自分のために自分を守ればいい。「いまは私が使っているから貸したくない」「疲れているから応えられない」ときちんと伝えればいい。「それはやめてね」「傷つくからね」そうやって伝えるだけでいいんだと思う。それでその子のなにかが育つとか考えるのは少し傲慢なんだ。意見の表明をして相手はそれを受け止めた。できる限り自分の本心に近い部分を伝えて、できる限り相手の本心に近い部分を受け取る努力をした。ただそのやりとりが人と人との関係なんだと思う。優しい人だねと言われたら、「そうなのかな」と思うと同時に、期待に応えようと思う。強い人だねと言われたら、弱音を吐いてはいけないような気がする。本が好きだもんね、勉強好きだもんね、優しいもんね、子どもが好きだもんね。その言葉に励まされることもあるし、道を踏み外しそうになるのを踏みとどまらせてくれることもある。けれど、その言葉が呪いとなることもきっとあるんだろう。期待に応えたいという思いとあわせて「そうある自分に価値がある」と思ってしまっていたりもする。言いかえればそれは、期待を裏切らないように、価値がないと思われないように、ということ。自分の役割に徹していると、自分の気持ちが疎かになる。そんな自分の気持ちをなおざりにしていることに気づいていなかったりもする。大人だから、子どもの言うことには傷ついたりしない。親だから、めんどくさいこともきちんとやる。長男だから下の子に優しくする。上司だから、部下だから…それぞれの立場でそれぞれの役割を演じるために、ときに頑張りすぎたりする。それってやっぱりしんどい。だから、優しくない自分もいて良いんじゃないかな。頑張れない自分も、意地悪な自分も、ネガティブな自分も、期待を裏切る自分も。「相手はどんな言葉を望んでいるんだろう」それを考えることはきっと優しさなんだけれど、本当の思いを伝えることでお互いが救われることもきっとある。それは、自分を大切にするということでも、相手を大切にすると言うことでもあるよね。子どもも同じだ。ぼくたちが抱く「子どもは純粋であってほしい」とか「子どもに邪悪なところなんてない」という期待が、子どもも大人もおいつめてしまう。自分にどんな役割があったとしても、自分がしたくないことやできないことは「したくない」と言っていい。それは、自分もひとりの人間であるという、自分が自分であるということ。命を危険に晒すとか突き放すのでなければ、相手を故意に傷つけたりするのでなければ、大人も子どもも一人の人間だ。子どもに対してだけでなく家族にでも友人にでも職場でもそうなんだと思う。当たり前にそれを我慢する必要はない。そんなこと言ったらできる人にしわ寄せがいくとか、みんなわがままになってしまう、と言われるかもしれない。「それはしたくないな、嫌だな」と思っても、それを伝えても、結局はやらなきゃいけないことはある。けど、だからって黙ってなきゃいけないとは思わない。部屋の掃除をしたくないし、洗い物がめんどくさい。だからって「掃除めんどくさーい!やりたくなーい!」と言っちゃダメかといえばそんなことないはずなんだよ。いい大人なんだから掃除するの当たり前でしょう。文句なんか言わずにやれよ。なんて言わないでほしいし、自分が自分をそうやって追い込むのももうやめたい。「めんどくさいよね、明日にしよっか」「まあでもやろっか」「だれかにたのもっか」でいいんじゃないかな。絶対に手を抜けない消毒とかもさ、やるのが当たり前でしょうではなく「めんどくさいよね、けどやらなきゃね」って自分で自分を慰めながらやってる。伝えることって立場によってはとても勇気のいることだから、言えないことが悪いことだということではなくて、自分を大切にするために、自分を追い込む必要なんてないってこと。近しい人に話したり、帰って独り言でも、SNSに吐いてもいい。「ほんとは嫌だったんだよね」「悲しかったんだよね」「むかつくんだよね」とほんとの気持ちを言葉にするだけで、自分の気持ちを大切にできるような気がする。その言葉が少し乱暴でもいいのかもしれない。もしかしたら相手も自分の感情を正確に言葉にはできていなくて、悲しませるつもりはなくて、まっすぐ正確に言葉にすれば関係が良くなることだってきっとあるんだろう。もちろんそんな簡単なことではなくて悪化することだってあるけどね。自分が誰かのその心の言葉を聞いたときに、「なら代わりにぼくがやりますね」って言うかもしれないし、「キツイですよね」って共感するだけかもしれない。けれど「あなたはこうなんだから」「あなたの役割なんだから」「あなたが言ったんだから」って、その思い自体を批判して突き放さなしたりしないように気をつけていたいなと思う。自分の思いや価値観は、人を叩くためのものではなく自分を守るためのものだ。そうやって考えるだけで、少なくとも自分の言葉で誰かが傷つくことはあっても攻撃するという事は減るのかもしれない。僕の文章も、誰かの心に突き刺さる言葉としてではなく、そこらに生えている草花を眺めるような、たまに気になったら摘むような、そんな感覚で読んでもらえていたら嬉しいなと思う。余談ですが子どものころ、たまに会いに来てくれるじいちゃんは、いつもアンパンを買ってきた。ぼくの2つ上の兄の好物だったからだ。じいちゃんがアンパンを買ってくるたびに、ぼくの中でアンパン好きの兄ちゃんというイメージが確立されていき、兄のなかでも「自分はアンパンが好きだ」という意識が強化されているようだった。兄の喜ぶ姿を見てじいちゃんは「やっぱり好きなんだな」と満足げにまたアンパンを買ってきた。そのままいけば相当なアンパン好きになるんだろうと期待できたが、意外にもそうはならなかった。ある日当たり前のようにアンパンを取ってあげたら、「おれ、あんまりアンパン好きちゃうかも」と遠慮気味に兄は言ったのだ。「自分は本当にアンパンが好きなのか、君はアンパンが好きだねと周りに言われるからそんな気がしていたのか、本当は好きじゃないんじゃないか」そんな葛藤があったかは知らない。自分が本当に好きなのはアンパンではなくアンパンが好きな自分なんじゃないかなんて悩む姿を想像すると微笑ましいけれど、当時の幼いぼくはなにか不安な気持ちになった。たしかに好きだったはずなのに飽きてしまったんだろうか、もともと好きじゃなかったんだろうか、じいちゃんはどんな気持ちになるんだろうかと、誰も悪くないのに、寂しいような切ないような言葉にできない気持ちになっていた。その事実がじいちゃんの耳に入ったのかはわからない。そのあとじいちゃんが変わらずアンパンを買ってきていたか、買ってこなくなったのかも覚えてないくらい曖昧な記憶だ。けれどたまに、嬉しそうにアンパンを買ってきたじいちゃんと、突如アンパンに別れを告げた兄を思い出す。みんなが優しいのになぜか悲しい。なんだか少し切ないけれど、誰かひとりがしんどいではなく、みんなが優しいからみんなが少しずつ悲しいのなら、そのほうがいいのかもしれない。きしもとさんの記事やこれまでの連載コラムはこちら[文・構成/きしもとたかひろ]きしもとたかひろ兵庫県在住の保育者。保育論や保育業界の改善について実践・研究し、文章と絵で解説。Twitterやnoteに投稿している。⇒きしもとたかひろnote⇒きしもとたかひろTwitter
2020年09月13日お笑いコンビ・キャイ~ンの天野ひろゆきが8日、オフィシャルブログを更新し、香取慎吾の感動エピソードを明かした。日本テレビ系『天声慎吾』共演以降も香取のことを「王子」と呼ぶなど、親しい間柄で知られる天野。8日付のブログでは、「昨日のななにーも、近くにはいたけど、リモート状態で会えずかと思ったら、ライブへの移動で少しだけ王子と話せた(これはもはや出待ちするファンだ(笑))」と直接の会話が久しぶりだったことを明かした。香取に会いに行った天野が「ドラマ宣伝してくれてありがとう」「おかげで好評うちに完走出来たよ!!」と伝えたところ、香取から「僕の宣伝のおかげだなんて」「じゃなくて楽しく面白く沢山の人が観たくなる作品だったんだよ。楽しい時間をありがとう!」と逆に感謝されてしまったのだそう。「久しぶりに王子に会えた」と題したこの日のブログは、「泣けるじゃねぇか王子」と天野の感情がにじみ出る一文で結ばれている。「ドラマ宣伝」というのは、天野が出演したドラマ『隕石家族』(東海テレビ・フジテレビ系)を、香取がTwitterなどで告知していたこと。先月30日、香取の「いよいよこの後23時40分から隕石家族 最終回!!」に対して天野はTwitterで「おい!ついに俺を経由しないで直接ツイートしとるやないかいっ!!(笑)」「気付かないでメール待ってたよ」「ありがとう王子!!」と反応。ブログでは度々感想メールが送られてきたことを明かし、最終回後にも届いたようで、翌日には「王子からのメールが『STAY HOMEに楽しい時間をありがとう!諦めたら人生そこで終わり 明日の人生に懸けてみるか どんとこいだね!!』その通りだよ!! 王子~!! ありがとう」と感謝のメッセージを送っていた。
2020年06月10日