なくならないパワハラ指導。順番を間違えるとブラック指導になるスポーツ現場の「人間教育」
そして、そういった勝利至上主義の指導者たちは、「選手たちの正しい日常生活」を競技力向上と絡めることを好みます。
例えば、彼らは選手に口酸っぱく言います。
「挨拶をちゃんとしなさい」
「服装をきちんとしなさい」
「時間を守りなさい」
礼儀や作法みたいなものです。それをやらせていれば、良い人間をつくると考えています。冒頭の鹿児島県の高校で生徒を殴ったり蹴ったりした監督が「厳しさが必要」と言ったのは、恐らくそういうことでしょう。高校の顧問の先生に聞くと「怒鳴ったり怒るのは、プレーの良しあしではなく日常生活や練習態度なんです」と言いますから。
でも、本当にそうでしょうか?暴力や暴言を指導に用いる人は、それらを抑圧的な態度をとり続ける言い訳にしてないでしょうか?
自分が選手を支配するための道具にしていないでしょうか?怒鳴る監督は怖い。怖いから言うことを聞く。
そんなふうに抑圧され、委縮し、支配されている人間に、果たしてクリエイティブなプレーができるのでしょうか?
良い人間をつくるためと言うのは、支配するための理由なのではないかと思えるのです。
■一流選手が持つ「自己決定」能力
もちろん、日常生活の質を高めることはアスリートにとって重要です。一理あります。
気持ちよく挨拶する。人の話を聞く。服装も時間管理も人として正しく過ごす。
そうすることで、その選手の日常は「気力が充実する」という大きなメリットがあります。日常で気力が充実していれば、非日常のスポーツも心置きなく熱中できます。
とはいえ、順番が違うような気がします。いい選手になるために挨拶するのではなく、意識の高いいい選手が気持ちよく挨拶をする。そういったことをやれる子が一流のアスリートになります。
「自分から主体的に」やるべきです。指導者が人としてあるべき姿を言葉で伝えるだけでなく、自らの態度で示し続ける中で、スポーツの楽しさやチームで戦うことの素晴らしさを経験させていけば、選手たちの「日常」は間違いなく質の高いものになるはずです。
なぜなら、自分たちがそういったことが必要だと気づき、自己決定するからです。「勝つチームはかばんを揃えているよな」
「勝つチームは挨拶もして雰囲気がいいよな」
自らそう気づいて、ひとつひとつ自分たちのものにしていくのです。
過去の指導を振り返ると、それとはまったく違うものでした。