くらし情報『#011「“死に方”って、生き方と同じくらい自由じゃないの?」私が『三国志』を観ながら自殺について考えたこと|カミーユ綾香の「マイノリティ爆弾」』

#011「“死に方”って、生き方と同じくらい自由じゃないの?」私が『三国志』を観ながら自殺について考えたこと|カミーユ綾香の「マイノリティ爆弾」

例えばですが、無双の武将として気高く生きてきた周瑜が諸葛亮にプライドをボコボコにされて、そんな彼に、「周瑜、ガンバ、恥辱にまみれてもいいじゃない、死なずに生きよう、にんげんだもの」なんて言えなくないですか。島流しにされた崇徳院に対して、「崇徳院、ガンバ、流刑でも天狗にならずにいいじゃない、にんげんだもの」とか言えなくないですか。私はちょっと言えないんですよね。何故なら死に方って、生き方と同じくらい個人の自由だと思うからです。 十代の頃、よく不法侵入していた近所の大学の図書館に、ストア哲学の本がありました。そこには、「ストア学派では、自殺は人間の自由の最高の表現であるとする」と記されておりました。この一節に、私は感動しました。有り難いことにこれまで自殺を願うことも実行することもなく生きて来られましたが、だからといって自殺を絶対ダメだと決めつけることには違和感がありました。
それって、どうなの。生き方が自由なら、死に方も自由でしょ?きっと、生きられないほどの苦しみというのは、存在すると思うのです。英雄の挫折や作家の苦しみもそうであろうし、重病の辛さもそうです。そういう人に対して、自殺は絶対悪と言い切る資格は、果たして私達にあるのでしょうか。

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