に過ぎないものをセックス(生物学的な「そういうもん」)と捉えて根拠にするという、ジェンダーのセックス化/セックス視。
結果の性別なのに根拠の性別だと思ってしまう。
だからこそ、環境と心理の中にある「今なぜかそうなっている」というものを見逃さずに、今のあり方を切り裂いて、習慣を変えていくこと。それを体現しているものをまとって、自分自身がそれを体現していくことが素敵ではないかと思う。
自己や他者と対話しないセルラブはただのナルシシズムであり、新しい私にもなれないし、他者をエンパワーメントとやらもできない。
たとえば、この対談が象徴的なように、虚勢と露悪を手放して他者へ開かれた反省(内省と対話)を具現化した表現こそが、本人も他者もエンパワーする。冒頭で述べたように、人は自分に合うリズムを得たとき、躍動する。でも、自分を表せるもの(自分に似合う/合うと思えるもの)がないとき、しばしば周りや社会に対するあり方が固着してしまう。
そして、素朴な適応や反社会性を示してしまう。そんなありようから変わることの大切さがみてとれる。
他者とも自己とも対話せずに楽しげにセルフラブを掲げる。そんなコンセプトがない表現(あるいはコンセプトはあってもそれを人格が体現してない表現)