「平成」制定の裏方が語る「事前に候補を知っていたのは4人だけ」
に就任した昭和60年(’85年)、前任者から候補案を引き継いでいたが、それを選んだ有識者が相次いで亡くなってしまった。
「天皇陛下が崩御された後に候補を選ぶのが建て前なので、亡くなった方の候補案は使えません。だから新たな人選と交渉を、誰にも知られないように1人で動いていました」
そんななか、昭和天皇の体調が急変する。
「昭和63年(’88年)9月19日、陛下が入院されます。そのころから、新聞やテレビの記者たちが、新元号の情報を得ようと、24時間態勢で私に張り付くようになりました。『あなたたちに話したら、こっちは首をくくらないといけない。無駄だからやめたらどうだ』と、何度も言いましたが、誰もやめませんでした。ある記者に“ブリキのパンツ”と言われたことも……。
絶対に漏らさないから(笑)」
最終的に3人の有識者から出された「平成」「修文」「正化」の3つの候補案にまで絞り込んだ。
「候補案は、中華圏の諸外国を含め、過去に使われたものではないほうが望ましい。また、市区町村の名前や、一部上場企業にもないほうがいい。特定のところを応援するわけにはいきませんから。ほかの仕事もありますし、あらゆる資料を1人で調べつくすことはできません。