小林千絵語る「河合奈保子との上京」と「履歴書をゴミ箱に」暗黒時代《あの80年代アイドルの今》
高校3年生になったときに担任の先生と進路相談をして、“1年間はオーデションを受けまくって、それでダメだったら別の道を考えよう”と決意。それまではなかなか受からなかったんですが、“最後の1年間”と思ってからは次々に受かるようになったんです。ヤマハのザ・デビューというコンテストもグランプリに選ばれ、うちの母親が『ヤマハさんだったら知っているし安心やわ』ということでデビューすることになったんです」
■大磯ロングビーチの部屋で「私たち本当に売れなかったね。悔しかったね」と握手
しかし「花の82年組」と対比され、83年は「アイドル不作の年」と言われるように。
「同じ世界にいても82年組の皆さんとは全く扱い方が違っていましたね。悔しかったこととしては、賞レースのときにプロフィールを持ってテレビ局に挨拶回りをするのですが、忘れもしないのがある局の音楽番組のプロデュサーが目の前でプロフィールをゴミ箱に捨てたんです。売れないと人間以下なんだなと涙が出ました。ただ、これには理由があって、これまでヤマハのニューミュージック系の方は“テレビの賞レースには出ません”としていたのに、ヤマハのアイドルは私が初めてだったので、“これまで断っていのに、なにをいまさら賞をくださいなんだ”という意味を込めていたらしいです。