9月13日に予定されている内閣改造・党役員人事。各メディアによると、岸田文雄(66)総理大臣は小渕優子議員(49)を自民党の選挙対策委員長に起用する意向であるという。一部メディアでは、小渕議員の党4役への起用は女性の積極登用をアピールする狙いもあるとみられると報じている。第84代総理大臣である小渕恵三氏(享年62)を父に持つ小渕議員。恵三氏は’00年4月の総理在任中に脳梗塞で倒れ、5月に急逝。その翌月に小渕議員は自民党公認で出馬し、初当選を果たしている。’08年には内閣府特命担当大臣として少子化対策や男女共同参画などに携わり、’14年には経済産業大臣に就任。ところが大臣当時、大きなスキャンダルが発覚した。「政治資金規正法違反が報じられ、その影響で経済産業大臣を辞任しました。東京地検特捜部が後援会事務所などを家宅捜索したところ、会計書類などを保存したパソコンのハードディスクに電動ドリルで破壊された痕跡が見つかったのです。そこでネットを中心に、『ドリル優子』という異名を持つことに。小渕議員は嫌疑不十分で不起訴となりましたが、“証拠隠滅”疑惑によって国民からの信頼を失う結果となってしまいました」(全国紙記者)今回の“重役登用”報道により、9年前の騒動が蒸し返されたことで、再び「ドリル優子」がTwitter(現X)でトレンド入り。今回の人事についても、「国民はドリル事件を忘れてない!」と批判する声が上がっている。《ドリル優子は、国会議員は忘れても国民は忘れないですよ》《小渕優子のコトは忘れてもドリル優子のコトは忘れません!》《「ドリル優子」忘れてないよ》また《就任会見では徹底的な説明を求めて欲しい》《ドリルで破壊した説明責任を果たせ》《贈収賄疑惑を説明しろ、ドリル優子》と説明を求める声がいまだ後を絶たない。世論を納得させない限り、騒動は風化せず、ずっと彼女について回ることになりそうだ。
2023年09月12日「こちらにお住まいですか?」道路を通り抜けようと試みると、バリケードの前に立った警察官は、そう問いかけてきた。安倍晋三前首相が辞任してからもうすぐ2カ月、渋谷区内にある自宅マンション前の道路は、いまも警察官やバリケードによって封鎖されたままになっている。「理由を言えば道を通してくれるのですが、やっぱり不便ですね」(近所の住民)安倍前首相の自宅マンションの前にはポリスボックスも残されたままで、さらに付近の大通りにはマイクロバスなどの機動隊車両が4台待機していた。政治ジャーナリストの有馬晴海さんは次のように語る。「政治家など要人の警護レベルに関しては、警視庁警備部が判断しています。辞任しても首相経験者にはSPがつけられるのが慣例となっています。しかし、それは1人程度で、細川護熙元首相や村山富市元首相は、『煩わしいから』というような理由で断っています。元首相のために、それだけ厳重な警備が敷かれたままになっているのは非常に異例なことなのです」確かに首相経験者で、現在も副総理や財務大臣を務めている麻生太郎邸の前にはポリスボックスが置かれているだけだった。警視庁警備部警護課で6年間SPを務め、いまは「身辺警護SP学院」の講師としても活躍している伊藤隆太さんに話を聞いた。「私は小渕恵三元首相の警護も務めたことがありますが、基本的にはポリスボックスを置いての警護で、道路の封鎖まではありませんでした。しかし私が以前、安倍前首相のお宅を確認したところ、付近の見通しもよくはなかった印象がありました。そのために通常よりも警備に従事する員数を多めに割いているのかもしれません。また一つの可能性としては、警視庁が“何らかの情報”をつかんでいるために、警備レベルを下げていないということも考えられます。警備費用の基本は人件費。何人でどのくらいの期間を担当するか、ということになります」永田町関係者によれば、安倍前首相の場合、外出の際につくSPなども含めると、24時間体制のために警備担当者は30人ほどになるという。警察官の平均年収は約700万円なので、人件費だけでも1年間で2億円を超える計算だ。警視庁は、なぜ安倍前首相への“忖度”を続けているのか?前出の有馬さんによれば、「警視庁が、現在の菅政権に対して大きな影響力を及ぼす重要人物と判断しているということです。また実は永田町では、来年の秋の自民党総裁選に安倍氏が出馬するのではないかという情報も流れていますし、自民党内には再々登板を期待する声もあるようです。おそらく警視庁も、その可能性を重要視しているのでしょう」体調不良が辞任の理由となった安倍前首相だが、夕刊フジのインタビューでは回復へ向かっていることを明かしている。《新しい薬が、大変よく効いている。今後、8週間に1回のペースで、数回投与すれば終わる》(11月7日付)来年秋には、安倍氏が2度目の首相返り咲き!?異例の厳重警備には、“驚愕の政界未来図”が秘められていたのか。「女性自身」2020年11月24日号 掲載
2020年11月12日30年前、“平成”の2文字を掲げた小渕恵三官房長官が約10年後に首相となったように、菅義偉内閣官房長官(70)にも次期首相の芽が出てきたと語るのは作家・大下英治氏。「30年前も、小渕さんが未来の総理になるとは誰も思っていませんでした。菅さんはこれまで、本人が総裁選に出る気持ちはまったくないということでした。ですから派閥も持っていません。しかし、この“令和”の雰囲気のなか、地方票も期待できる機運になっていることは確か。安倍さんの細田派と、40人以上を擁する幹事長の二階派に候補者はなく、この2派が応援するとなれば、名官房長官の誉高い菅さんの芽は十分に出てきました。安倍さんが院政を敷くこともできますしね」横浜市議時代からの盟友・田野井一雄氏(78)は、菅官房長官の素顔を豪快にこう笑い飛ばした。「以前、菅さんの悪いところはないかって聞きに来たメディアもあったけど、秋田男なのに酒が一滴も飲めない。あとは早飯ってことくらいしかないかな」一方で大の甘党でもあるという。「秋田の郷土菓子の落雁『やましな』が大好きでした。相撲で大関までいった清國さんが作った『清国まんじゅう』も本当によく食べていた」(小中高の同級生・由利昌司氏)こうじて一時は太っていた時期もあったと、政治部記者は説明する。「大学時代、57キロだった菅さんですが、10数年前は最大76キロまで太ってしまった。それで朝にスープカレーと黒豆入りヨーグルトを食べ、昼はそば、夜はどうしても会食が2~3件入るため量を減らし、帰りも1時間歩いて帰宅。1カ月で62キロまで一気に14キロのダイエットに成功したんです。久しぶりに横浜の自宅に帰ったら、インターホンのカメラで奥様に『見たことない人がいる』と間違われたことがあるそうです」菅には3人の息子たちがいる。後援会関係者は言う。「そのうちの1人が秘書をしていたのは10年も前のこと。“政治には興味がない”ということで辞めて、今は3人とも民間企業で働いています。このときに菅が思ったのは“政治で世襲制はよくない”ということでした」前出・田野井氏も言う。「すでにお孫さんも2~3人いるはずです。菅さんは社会人の息子たちを政治家にさせるつもりはないようです」2世議員である安倍首相の側近ながら、「政治家の反世襲」こそ、“令和おじさん”の確固とした「令(おきて)」のようだ――。
2019年04月12日5月1日の新天皇即位に伴う新しい元号が「令和」と決定しました。昭和が終わった時に筆者はまだ学生で、小渕恵三官房長官(当時)が「平成」と書かれた額縁を風呂敷から取り出すシーンを柔道部の部室のテレビで観ていたことを思い出します。元号の変更は様々な点で国民生活に影響しますが、我々の生活に影響する「名前の変更」は元号だけではありません。■ マンション名が変わることはよくある分譲マンション一筋だった筆者が賃貸物件の営業に転身した際に驚かされたことは数多くありますが、そのうちの一つが「賃貸ではマンション名が変わることがよくある」ということでした。YNS / PIXTA(ピクスタ)オーナーが賃貸物件を所有するのはそこから発生する家賃収入を目的とする場合が大半ですが、一棟ものの賃貸物件を安く購入して高く売ることにより利益を上げようとしている人も意外なほど多く存在します。このように物件の所有者が変わることを「オーナーチェンジ」と呼びますが、この際にマンション名まで変えてしまうという場合が意外なほど数多くあります。入居者にとっては自分が住むマンションが売りに出ているなどという話は知る由もなく、ある日突然「〇月〇日からマンション名が変更になります」という通知が送られてきてビックリという場合が多いようですが、各種の登録情報の変更は大変ではないかと思います。Non+i / PIXTA(ピクスタ)数多くの区分所有者の権利関係がこんがらがっている分譲マンションの場合は、こういった事例はほとんどありません。名前を変更したマンションの管理員から話を聞いたことがありますが、それはそれは面倒な手続きが必要だったそうです。■ 駅名は地域ブランドと直結する!学芸大学は中央線の武蔵小金井駅と国分寺駅の中間にあり、都立大学といえば現在では首都大学東京と名前を変えて多摩ニュータウンの南大沢に存在します。しかし、不動産の名前に「学芸大学」「都立大学」が付いていればそれは東急東横線沿線の物件であることを意味します。sunny / PIXTA(ピクスタ)このように駅名というものはそれが地域のブランドに直結する場合が多く、鉄道会社の都合だけでは簡単には変更できないもののようです。東京学芸大学が移転したのが昭和39(1964)年、都立大学が移転したのが平成3(1991)年でその後受験生から紛らわしいという苦情も数多く発生しているようですが、アンケートをとったところ改名には周辺住民の過半数が反対していました。田園都市線と東横線のちょうど中間の世田谷区野沢3丁目でマンションを分譲する際、東横線沿線という方が売りやすいということでマンション名に「学芸大学」と付けた事例を知っています。駅名が地域に及ぼす影響はそれだけ大きいものなのです。筆者が最寄り駅として利用する田園都市線南町田駅はもともと地域とは縁もゆかりもない味もそっけもない名前でしたが、開業して40年以上が経過する中で地域に完全に定着し、遂に町田市の住居整理によって「町田市南町田」という地域が誕生するまでになりました。Ryuji / PIXTA(ピクスタ)周辺地域の再開発に合わせて「南町田グランベリーパーク駅」に変更することが決定したようですが、利用者としては気分のいいものではありません。■ 由緒ある地名は残さなければならない?有名な東京・港区にある愛宕神社の「出世の石段」の脇に「愛宕の町名存続達成記念」と書かれた碑が建てられているのをご存じでしょうか。江戸を代表する景勝地であった愛宕山がある場所ですが、昭和になって周辺地域の住居表示変更に伴い「愛宕」という地名が消えかかり、周辺住民の猛烈な反対運動でかろうじて存続が決まったということがあったようです。最近では住居表示変更によって由緒ある地名が次々と消滅していますが、地名というのは先祖が残してくれた貴重な言い伝えであり、その地域の古代の姿を物語る要素が隠されているものです。その地域の過去を知れば、未来の姿を予測できるような場合もあります。行政の都合だけで由緒ある地名を変えてしまうのは、そろそろやめにしてもらいたいものです。いかがでしたか?「名前を変える」というのは各方面に影響するものなので、実施にあたっては十分な検討が必要です。ちなみに、筆者が使用している名前は実はペンネームですが、これも相当長時間かけて考えました。
2019年04月02日「anan」2134号1/9水曜日発売『平成!LOVE』特集。表紙にご登場いただいた、木村拓哉さんの撮影の様子を紹介します。anan編集部木村拓哉さんとまさか、平成を一緒に振り返る日がくるとは…。今回表紙とグラビアに登場してくれたのは、主演映画『マスカレード・ホテル』の公開を1/18に控える木村拓哉さん。グラビアでは“パーマネントな人。パーマネントなもの。”をテーマに、デニムやブーツ、シルバーアクセサリー…といった普遍的なアイテムを木村さんならではの着こなしで特写しました。編集部のリクエストにこたえ、私物での着こなしも披露してくれた木村さん。事前にダメ元でお願いしていたものの、まさか実際に私物を持ってきてくれるとは思わず、インタビュー前にお礼を言うと「いや、ただ着てきただけなんで…」とあの声で一言。そしてアイテムについての思い入れを聞くと、購入したタイミングやその時の気分、普段どう使っているかを丁寧に説明してくれ、各アイテムごとに本当に愛を持って使ってきた感じがヒシヒシと。スーパースターでありながら、堅実な姿勢に胸がアツくなる取材でした。木村さん自身にとってのパーマネントな人を語ったインタビューも必読です!そして、『マスカレード・ホテル』で共演している長澤まさみさんとの対談では、あの平成を代表するアイテムについての噂の真相(!?)が明らかに。さらには、「平成おじさん」の異名を持つ、小渕恵三さんが平成の元号を発表した瞬間、木村さんが何をしていたかも明かしてくれました。(YN)
2019年01月08日安倍晋三首相は4日の記者会見で、新たな元号を4月1日に発表すると表明。5月1日、新天皇の即位とともに、新しい元号が始まる。そもそも元号とはどうやって決まるのか?元号は天皇が決めるものだったが、昭和54年(’79年)に施行された「元号法」によって、内閣が決めるものとされた。「元号法」制定後の初の改元となったのが、昭和から平成への改元。今回も同じ手続きで改元が行われると考えられる。そのときの現場責任者が内閣内政審議室長だった的場順三さん(84)だ。「元号は、内閣が選んだ漢文学や中国古代史を専門とする有識者から候補を挙げてもらい、最終的に絞り込んだ数個の候補案のなかから、閣議で決定するという流れで決まります。法律上は“元号は皇位の継承があった場合に限り改める”となっていますし、皇位継承もないのにあらかじめ準備しておくのは“不敬”だとなりかねない。かといって、万が一のことがあったとき、“何の用意もありません”というわけにはいかないので、歴代の室長が秘密裏に候補案を用意するというのが慣例でした」(的場さん・以下同)的場さんは内閣審議室長(のちに内閣内政審議室長に改称)に就任した昭和60年(’85年)、前任者から候補案を引き継いでいたが、それを選んだ有識者が相次いで亡くなってしまった。「天皇陛下が崩御された後に候補を選ぶのが建て前なので、亡くなった方の候補案は使えません。だから新たな人選と交渉を、誰にも知られないように1人で動いていました」そんななか、昭和天皇の体調が急変する。「昭和63年(’88年)9月19日、陛下が入院されます。そのころから、新聞やテレビの記者たちが、新元号の情報を得ようと、24時間態勢で私に張り付くようになりました。『あなたたちに話したら、こっちは首をくくらないといけない。無駄だからやめたらどうだ』と、何度も言いましたが、誰もやめませんでした。ある記者に“ブリキのパンツ”と言われたことも……。絶対に漏らさないから(笑)」最終的に3人の有識者から出された「平成」「修文」「正化」の3つの候補案にまで絞り込んだ。「候補案は、中華圏の諸外国を含め、過去に使われたものではないほうが望ましい。また、市区町村の名前や、一部上場企業にもないほうがいい。特定のところを応援するわけにはいきませんから。ほかの仕事もありますし、あらゆる資料を1人で調べつくすことはできません。文科省から来た審議官に絶対口外しないよう頼んだうえで、手伝ってもらいました」焼き肉店や中華料理店などに同名の店がないかまで、電話帳で調べたという。「私はこの3案の中で、最初から『平成』しかないと思っていました。考案者は東洋史が専門の東京大学名誉教授(当時)の山本達郎先生です。じつは何人かの候補者の中で、いちばん最後に頼みに行った方だったんです」崩御1カ月以上前の段階で、3つの候補案は竹下登総理(当時)と小渕恵三官房長官(当時)に、事前に伝えられていた。「竹下さんも小渕さんも一切誰にも漏らしませんでした。その時点で候補案を知っているのは、文科省の審議官も含め、4人だけです」年が明けた1月7日早朝、昭和天皇が崩御する。民間の有識者を集めた「元号に関する懇談会」、全閣僚会議などを経て、新元号は「平成」に決まった。「修文」「正化」の頭文字は「S」。「M(明治)、T(大正)、S(昭和)なので、Hの平成がいちばんいいと思います」という的場さんの意見も重視された。「平成というのは本当にいい元号だと思います。なんとなく見ただけで意味がわかりますし、実際にそうだったかと言われると異論があるかもしれませんが、平和になるようにという願いを込めた元号なのですから」「平成」を考案した山本達郎教授も平成13年(’01年)に亡くなった。竹下氏も小渕氏もすでに物故者だ。「山本達郎先生は最期まで、自分の案が採用されたということを口外されませんでした。しかし、まったく関係のない方が考えたという話が、まことしやかに広まってしまっていたので……。私は’15年に初めて先生の名前を公表しました。もう当時の生き証人は私だけです。山本先生の名誉のためにも、正さなければならないと考えたのです」当時の経緯から考えると、すでに「平成」の次の元号案は、数個にまで絞られている可能性が高い。元号法制定に伴う要領では、元号は「国民の理想としてふさわしいようなよい意味を持つものであること」とされている。新しい時代に願いを込めて、どんな元号が生まれるのだろうか。
2019年01月08日人気男性デュオ「コブクロ」の約1年半ぶりの新曲が、福士蒼汰主演映画『ちょっと今から仕事やめてくる』の主題歌に決定。新曲の「心」は、元サラリーマン経験のある小渕健太郎が、映画を観て共鳴し書き下ろした意欲作となっている。ブラック企業で働く青山隆(工藤阿須加)は、疲労のあまり駅のホームで意識を失い、危うく電車に跳ねられそうになってしまう。寸前のところで青山を救ったのは、幼なじみのヤマモト(福士蒼汰)と名乗る男。だが、青山には彼への記憶が全くなかった。大阪弁でいつでも爽やかな笑顔を見せる謎の男・ヤマモトと出会ってからというもの、青山は本来の明るさを取り戻し、仕事の成績も次第に上がってゆく。そんなある日、青山がヤマモトについて調べると、なんと3年前に自殺していたことが分かる。ではヤマモトと名乗る、あの男は一体何者なのか…?本作は、「第21回電撃小説大賞」メディアワークス文庫賞を受賞した、60万部突破の北川恵海による同名人気小説。謎の男・ヤマモト役を福士さんが演じるほか、就職した会社の厳しいノルマとパワハラに心身ともに疲弊した若者・青山役に工藤阿須加、さらに黒木華、小池栄子、吉田鋼太郎といった豪華キャストが集結している。楽曲を書き下ろした小渕さんは、18歳から4年間サラリーマンとして働く優秀な営業マンだった過去が。今回は完成した映画を観て、サラリーマン時代の記憶をリアルに思い出し、そこから制作がスタート。新曲はタイトルの通り“心”がテーマとなっており、自分の心と体が時々離れてしまいそうになったとき、そのバランスをどう生きるか。“心”を一人称としてとらえ、「心と生きること」という答えに辿り着き完成。本楽曲は、バンドが入らずオーケストラだけで歌うという「コブクロ」の楽曲で初めての試みとなっており、新しい境地に飛び込んだ楽曲となっている。当時をふり返り、外回りの営業職だったという小渕さんは、無我夢中で働く中、「働くことで自分を知り、楽しい経験も多くあったが、心はボロボロ、身体だけで出社している様な日もあった」と明かす。そんなサラリーマンの傍ら、息抜きとして大阪堺の商店街で路上ライブを始め、その後同じ商店街で歌っていた黒田俊介と出会い「コブクロ」が結成された。「コブクロ」は、「心が生き生きし始めると、様々なイメージが沸き、閉じこもっていたときとは全然違う自分になれます。『心と生きること』それが、自分の人生を変えるということをこの曲を通して、感じてもらえたら嬉しいです」とコメント。いち早く楽曲を聴いた福士さんは、「映画を包み込んでくれるような優しい歌で感動しました。登場人物の心にそっと寄り添うように書かれた詩が演じ手の僕の心にも届き、聴いていて心地よかったです」と絶賛。また初めて「心」が聴いた際、感動して涙が溢れたと言う工藤さんは、「ヤマモトと隆、それぞれの想いが歌詞に込められているような気がしました。暗闇の中から抜け出せずに、小さな光を探しもがき苦しむ人々、誰しもが心に持っていて、表には出せない感情が詰まっているメロディ。映画を観てくれた人に、一歩を踏み出す勇気をくれる優しく強い楽曲だと思いました」と語っている。コブクロNewシングル「心」は5月24日(水)よりリリース。『ちょっと今から仕事やめてくる』は5月27日(土)より全国東宝系にて公開。(cinemacafe.net)
2017年03月14日大人気音楽デュオ『コブクロ』の小渕健太郎さん(39)の不倫が発覚して話題となっています。『デイリー新潮』によると、小渕さんは1997年に一般女性と結婚しましたが、それ以降2004年と2009年に2人の女性と不倫をしていたとのこと。記事ではその2人の女性からの“証言”を掲載し、一人とは自らが既婚者であることを隠して交際し、もう一人とは一夜限りの不倫だったと報じています。数々の純愛ソングを生み出してきた小渕さんだけに、今回の不倫発覚はファンに大きな衝撃を与えているようです。●コブクロ小渕の不倫にファンはショック!『うそ!普通にショックなんだけど!もう有名人は全員不倫してるの?』『ファンキーのときもそうだったけどさ、純愛系の歌をうたう人は自分でも実践してほしいよね。真剣に聞いてた自分が馬鹿みたい』『路上ライブしてたころからファンだったからめっちゃショックなんだけど』『陣内と紀香が離婚したのも頷けるな。今後コブクロの曲は結婚式で流さないようにしないと』『くそゲスキノコ、石井竜也、ファンキー加藤、コブクロ小渕←NEW……ここに並ぶような人じゃないだろ。もったいない』『普通のミュージシャンなら驚かないけど、コブクロはびっくりするなぁ』『あ〜あ。コブクロじゃなくてゲスクロになっちゃったね』『奥さんを大切にできないやつがラブソングなんて歌うな!』などなど、ファンからは悲しみの声が上がっています。今年2016年をもってデビュー15周年となったコブクロ。この報道が今後の活動にどのように影響してくるのでしょうか。【画像出典元リンク】・コブクロ公式(@TeamKobukuro)(Twitter)/(文/パピマミ編集部)
2016年10月20日“ノストラダムスの大予言”で知られる1999年の7月から2か月ほどが過ぎた9月、当時24歳の岸本斉史は「週刊少年ジャンプ」(集英社刊)にて「NARUTO-ナルト-」の連載を開始した。参考までに、当時の内閣総理大臣はいまは亡き小渕恵三。甲子園をわかせた“怪物”松坂大輔がプロ野球で初登板を果たし、石原慎太郎が東京都知事に当選し、宇多田ヒカルが累計900万枚を超える大ヒットとなるファーストアルバム「First Love」を発表したのも同じ1999年である。それまで「ジャンプ」を支えてきた人気漫画「るろうに剣心」(和月伸宏)が最終回を迎えたのと同じ号で、のちに全世界で2億部超の大人気漫画となる「NARUTO-ナルト-」は産声を上げた。そこから15年におよんだ連載をふり返ると共に、まもなく公開となる劇場版「THE LAST -NARUTO THE MOVIE-」についても語るロングインタビュー<後編>!【原作の結末に関するネタバレの記載、発言もありますのでご注意ください】15年の歳月で一番つらかった時期は「連載開始当初」。7日間で1話を仕上げる週刊連載の“地獄の”サイクルに体が悲鳴を上げた。「連載が始まったのは嬉しかったけど、体力的にはすごく弱くて毎週、原稿を上げたら熱は出るわ、食べたものは吐くわ…『やっていけるのかな?』という感じ。どんどん体がつらくなって、変な熱が出て病院に行ったら、先生が何かの数値を見ながら『きみ、これ細胞が死んでるよ。とにかく休みなさい』って(苦笑)。『細胞が死んでる』なんて初めて言われて引いたけど、週刊連載なんだから休めるわけない。当時は連載を始めたばかりの新人が休むなんてありえなくて、あるとしたら連載打ち切りだった。でも、さすがに当時の担当が、このままじゃ死ぬと思って少しの間、休載にしてくれたんです。その時はみんな、口に出さないけど『こんな新人に休みやるってどういうことだ?』と思ってたんじゃないかと…。ただ、そこからみんな、ちょっとずつ休みをもらえるようになったので、そういう意味じゃ新たな流れを切り拓いたのかも(笑)。その頃はいまよりも15キロくらい痩せてましたね」。そこから徐々に、週刊連載のリズムを掴み始め、同時に読者の反響からも作品に対する手応えを感じ始める。「2回目に巻頭カラーをもらった時かな?担当が原稿をFAXしながら『嬉しいよ。(読者投票で)1位だから』と言ってたのを覚えてます。僕自身は、投票結果はあまり気にしないようにはしてたんですが、二人三脚で連載を一緒に始めた担当はここまで胃の痛い思いもしてきたんだろうし、彼の嬉しそうな顔を見るのは嬉しかったですね。僕自身もその後、結婚して生活が安定して、体調を崩すことも少なくなりましたね」。15年という歳月の中で社会情勢も大きな変化を遂げた。「NARUTO-ナルト-」の世界は現実の世界情勢を鏡のように映し出しているのでは?という声は以前よりファンの間でも多く聞かれた。五大国の存在や、各国が“尾獣(※巨大な力を持つ魔獣)”を兵器として持っていること。そのバランスを崩そうとする組織「暁」。暴力ではなく対話で解決を試み、相手を理解しようとするナルト。歴史的な因縁などを含め、なるほどと思わされる部分が多々あるが…。「やはり、それ(世界情勢を作品に重ねること)はありますが、重ねすぎるとおかしくなるので、あまり意識し過ぎずにと思ってました。僕はいま、日本に住んでいて、(それぞれの国々の)実際のところは分からないし、ナルトやサスケじゃないですが、相手を知り、互いを知らなければ判断できないところもあると思います。僕は岡山出身で、広島の原爆ドームなどにも足を運びましたし、やはりそれを見ていろいろ思うところはあります。例えばうちの祖父には祖父の言い分、思いがあったのを聞いてるし、でもそれは世代が変わることで変わっていく部分もある。その上でやはり、あまりリアルに重ねすぎずに描いてます」。社会情勢だけではない。時に岸本さん自身の変化もまた作品に反映されていった。岸本さんが原稿を描きながら、感情が高ぶり思わず涙がこぼれたというのが、ナルトが死んだ母と逢い、自身の出生の秘密について知らされるシーン。「ナルトが母親・クシナの愛を知り喜ぶときの顔は、自分で描いてるのに泣きました。そこまでナルトが(両親の愛を知らず、里のものからは厄介者として扱われ)あまりに可哀想だったので。社会情勢だけでなく、僕自身に新しい家族が出来て、子どもが生まれると、作品の中のナルトの気持ちがより一層分かるし、親の立場でナルトを見るようにもなる。最初は何も考えずにナルトを両親のいない設定にしたけど、自分が親になると、親がどれほど子どものことを思っているのか?それを子どもが知らないままでいるのがすごく悔しくて、伝えてやりたくて、そうせずに話を進めるわけにはいかなかった」。本作が「ジャンプ」のバトル漫画の系譜を受け継ぐ王道の作品であったことは間違いないが、その一方で、これまでの少年漫画とは異なる、ある意味で“少年漫画らしからぬ”道を切り拓いたのも事実。先にも少し触れたが、ナルトが中盤以降、単に戦いではなく“対話”と“許し”で平和をもたらそうとする姿もそう。読者からの支持が高い「ペイン編」で、ナルトが師の自来也を殺したペインと対話し、和解するという描き方は「ある意味でタブー(苦笑)。少年漫画では普通はやらないやり方だった」とふり返る。「まず、忍者というものの考え方に関わってくるんですが、『NARUTO-ナルト-』は正規の忍者漫画とは違うんです。オレンジの服着て『オレがナルトだ!』と名乗り上げるんですから(笑)。歌舞伎的な感覚ですね。だから、ここでいう“忍(しのび)”というのは『暗殺をしたり、君主のために命を捧げる』というものではない。僕の中では『全てのものにおいて我慢し、耐え忍ぶ者』として描いてて、それ自体が少年漫画らしくないかもしれないですね。だから、戦いの中で怨念やわだかまりがあっても、いつかは上手くいくと未来を“信じて耐え忍ぶ”忍者を描きたかった。『ペイン編』もやられてやり返すという描き方もできたけど、それじゃ憎しみの連鎖は続く。誰かがそれを断ち切らないといけない。なぜそうなったのかを考え、相手を理解する――そこまで描きたかった。それを少年誌でやるということは大変でしたし、本当に成り立つのか?とすごく悩みもしました」。その“哲学”は壮大な物語の結末にも当然、大きく関わってくることになる。「最後は、サスケとナルトが戦って終わることは決めていた」というが、そこで重要なのがサスケの立ち位置。里やかつての仲間を憎む“敵”としてではなく、ナルトの“親友”として拳を交え、最後には2人の拳が“和解の印”を結ぶ。「最後に2人は戦うけど、仲直りする。そう決めたからには、ナルトはそうやって相手を許せるキャラクターでなくてはいけない。前もって“許し”を経験させるという意味で生まれたのが『ペイン編』でした。そうすると、それ以降もただナルトが敵を倒せばいいというわけじゃなくなった。逆に言うと、バトル漫画なのに“生きている敵”をナルトがバンッと倒すというのが簡単には出来ない。そこで“穢土転生(※詳しくはインタビュー<前編>)”であったり、植物からできた敵が生まれるようになったんです」。結末と言えば、戦いだけでなく、ナルト、サクラ、サスケらの恋の行方も最終回で描かれ、驚きや納得など様々な声が挙がった。まもなく公開の劇場版『THE LAST -NARUTO THE MOVIE-』では、原作の「699話」(忍界大戦の終結、ナルトとサスケの和解)と最終「700話」(その十数年後)の間の空白の時間が描かれる。ストーリー監修を務める岸本さんは「恋愛の映画」と語るが、企画の段階から大切にしてきたというのが、ナルトとサクラのある会話のシーン。「この映画は、あの戦争から2年後の世界を描いてて、言ってしまえばナルトとヒナタがどうやってくっつくに至るかを描いてはいるんですが、別の言い方をすると、初期の頃からずっとサクラのことを『好き』と言い続けてきたナルトとサクラの“訣別の物語”でもある。最終回を読んだ読者の方が抱いた疑問やモヤモヤをここでキッチリと解消し、すっきりしてもらえると思います!」。ずいぶん長くなってしまったが、前後編2回にわたるロングインタビューもこれでおしまい。最後にひとつだけ。「NARUTO-ナルト-」の最終回が掲載された「週刊少年ジャンプ」で、「ONE PIECE」の表紙が、様々な仕掛けが施された“「NARUTO」仕様”とも言える粋な作りになっていることが大きな話題を呼んだ。共に看板漫画として2000年代の「ジャンプ」を引っ張ってきた“盟友”尾田栄一郎からの熱いメッセージを目にした時の感想は?「めっちゃ嬉しかったです。すぐにLINEで尾田さんに『ありがとう!』って伝えました。表紙もそうですが、裏の作者コメントの欄に『タメで友でライバル』とあって、僕自身もそう思いながら『NARUTO-ナルト-』を描き続けてきたので、本当に嬉しかった。『ONE PIECE』?そりゃ意識しますよ。だって『ONE PIECE』ですもん。それ以外、言いようがない(笑)。『ONE PIECE』がなかったら、尾田さんへのライバル意識がなかったら『NARUTO-ナルト-』はここまでにならなかったと思う。だから、僕にとっては『NARUTO-ナルト-』はもちろんですが、『ONE PIECE』も特別な作品なんです」。(photo / text:Naoki Kurozu)■関連作品:THE LAST NARUTO THE MOVIE 2014年12月6日より全国東宝系にて公開(C) 岸本斉史 スコット/集英社・テレビ東京・ぴえろ (C) 劇場版NARUTO製作委員会2014
2014年12月05日時の官房長官・小渕恵三氏が、「平成」と書かれた台紙を出し、新しい元号を発表したのが、いまから23年前の1月7日。翌日から新しい時代「平成」が始まりました。その年の3月18日深夜、筆者は東急目蒲線(現・目黒線)目黒駅24時40分発、奥沢駅行終電車に乗車。自宅がある途中駅では降りずに、わざわざ終点の奥沢駅まで乗り通しました。なぜならこの日の終電車をもって、目蒲線、ひいては東急線上(営業線上)から、グリーンの3000系旧型車が引退となったからです。「平成」がスタートした年に、またひとつ「昭和」の電車たちが消えて行きました……。そこで、今回は目蒲線を走った懐かしの旧型車を、形式別にご覧頂きましょう。1939(昭和14)年の製造当初、将来は路線を標準軌に改軌して京急に乗り入れる予定だったため、改軌が可能な長軸台車を履いていました。しかし、改軌されることなく引退となりました。目蒲線では、全22両が中間にサハやクハを挟んだ3両編成を組み活躍。晩年には、数本が池上線に転属となりました。1931(昭和6)年から50両が製造され、東急のルーツでもある目黒蒲田電鉄時代から、1989年の引退まで60年弱もの間活躍していました。名車にして長寿命車両でもあったのです。当初、目蒲線では少数派でしたが、田園都市線にステンレスカーが増備されていくと、4両から3両編成に組み換えられ、目蒲線に転属してきました。3両編成オンリーの目蒲線でしたが、田園都市線の4両編成が助っ人運用に入ることもありました。1967~1974年の間、朝夕ラッシュ時におもに3450形が使用され、目黒~田園調布間の折り返し列車として運転されました。戦後、増大する輸送力に対処するため、国鉄から戦災損傷した車両や部品の払い下げを受けて復旧させた車両で、16両が製造されました。そのため、モーターの出力が通常の電動車の1.5倍と強く、俊足ながら空転もすごかった記憶があります。また、メーカー4社が復旧にあたったため、車両の外観や仕上がりにかなりの違いがありました。1982年の引退後、一部は青森県の弘南鉄道に譲渡されましたが、すでに廃車となっています。「運輸省規格型」の車両で、1947年に15両が製造されました。この「運輸省規格型」とは、戦後の混乱期に鋼材をはじめさまざまな資材が不足したため、運輸省が車両の設計に規格を設け、資材を効率よく有効活用し車両を製造させたもの。実際には、各鉄道会社のニーズに合わせて修正のうえ製造されたそうです。この3700形は全車が名古屋鉄道へ譲渡され、片側3ドアの特徴を生かしラッシュ時に活躍、名鉄に3ドア車導入のキッカケを作りました。元々、名古屋鉄道でも「運輸省規格型」の車両を保有していたので、譲渡がスムーズに運んだそうです。1953年に製造された、東急最後の旧型車です。製造の翌年には、東急にとって新性能車ともいえる5000系(初代)が製造を開始したので、たった2両の製造で打ち切られました。3両在籍した荷物電車の最古参。元々は国鉄の木造荷電が出自で、小田急の旧車体を載せ替えて鋼体化した車両でした。当時の東急では、新玉川線(現在の田園都市線の渋谷~二子玉川間)を除く鉄道線全線で荷物電車の運行があり、大岡山駅と田園調布駅に荷物ホームもありました。しかし1982年に、荷物電車の運行は廃止となりました。1989(平成元)年3月18日、深夜の目蒲線奥沢駅で東急旧型車の活躍に幕が降ろされました。セレモニーも何もない、普段通りの終電車の到着。静まり返った駅構内で入庫待ちをする2本のデハ3500形。そこに、拍手を贈った方がいました。その熱い拍手は、忘れることができません。【拡大画像を含む完全版はこちら】
2012年03月18日