おひとりさまブームが依然として続く中、その真逆の価値観を題材とした『東京タラレバ娘』のヒットには驚かされた。「結婚=幸せな人生」という考え方よりも、多様な生き方が求められる社会になったかと思えば、『東京タラレバ娘』での「東京オリンピックまでに結婚しなきゃダメ!」といった煽りにもまだまだ需要があるのだろう。東京オリンピックに向けて着々と開発が進んでいる街を見て、「一人だけ取り残されている気がして不安」とボヤいたSOLO編集部の編集者O氏の一言がきっかけで、この記事は企画された。「一人暮らしの家に帰った瞬間に押し寄せる不安をどうにかしたい。独り者が快適に暮らせる住環境について知りたい」と嘆くO氏。一人世帯の住環境は、今どうなっていて、これからどうなっていくのだろうか。『ひらかれる建築 ――「民主化」の作法』(ちくま新書)の著者・松村秀一先生にお話を伺った。多様化されつつある一人世帯の暮らし方松村秀一先生(以下、松村)「今の日本には一人世帯が最も多く、ワンルームマンションに住んでいる人がほとんどなので、『一人だけ取り残されている』という感覚は実は間違っているのです。ただ、そういった一人きりで生きていくという不安からなのか、一人世帯の暮らし方が多様化している流れは確かにあります」――それは例えば、どのような暮らし方でしょうか?松村「代表的なのはシェアハウスでしょうね。古くは木造賃貸のアパートとかが一人暮らしの代表的な住まいでしたが、これはトイレが共同だったり、自分専用のお風呂がついていなかったり、自分の部屋だけで完結する快適な一人空間とは言い難かった。そこで登場したのがワンルームマンションで、これは家族が住むような部屋を一人向けに突き詰めていった形態の住居なのです。キッチンを小さくして、部屋の数を減らして、閉鎖的な一人の空間を作り上げたわけです」――なるほど、確かにそうですね。松村「けれど昨今は、一人だからって必ずしも住居の持つ機能をコンパクトにすればいいわけではないことがわかってきたのです。おひとりさまであっても“他人が含まれる空間”に住みたい人は少なからずいるようだ、と。今までは、このような“他人が含まれる空間”というのは、住宅に必要なものだと認識されていなかったんですよね。ここ数年、“住宅”と呼んでいなかったものが、住宅化していっているのです」なぜ“他人が含まれる空間”に住みたいのか松村「“シェア”というのも今の世代特有の価値観だと思います。具体的に言えば、団塊の世代Jr.より下からでしょうか。分け合ったり借りたりすれば事足りると思っていて、住宅の購入についても、無駄だと思っている人が多いんですよ。30歳のうちの息子も、『家なんて買う人がいるの!?』と言っています。僕の買った分譲マンションで育ったにも関わらず、ですよ。同じ価値観を共有してきたはずの家族ですら、家を買うことについての認識がこうも違う」――私もその世代ですが、確かに一生賃貸マンションでもいいや、と思っています。松村「かつては、“自分で所有しなければならない感覚”があったんです。財産などを“所有”することで個を確立し、その家族を守っていた。ですが若い世代は、すでに世の中にストックが溢れかえっている時代に生まれました。そのため、自分で所有するよりも、仲良くシェアしていきましょう、という教育を受けてきているように感じます」――成長の過程で“所有欲”が育たなかった世代なんですね。松村「これは社会情勢なども影響しているのかもしれません。中国からの留学生は、海外で不動産投資をするなどして財産を所有しておく意識が非常に高いんです。自分の身を守るのは自分だけ、という感覚があるんですよね。そういった国と比べたらずっと政治体制が安定している日本では、日本全体に溢れているものをシェアすればいい、と安心しきっているところがあるのだと思います。それで、同じ値段を払うなら、広いキッチンが使えるシェアハウスのほうがコスパがいい、という発想になるわけですね」――平和で豊かな国であることが、シェア意識に繋がっていたとは……。松村「とはいえ、シェアハウスも今、さらに新しい形の住まいが登場する過渡期にあります。シェアハウスで出会った男女が少しずつ結婚し始めているのですが、その際の居住形態がないのです。みんなで集まって暮らすことが習慣になっている二人にとって、ファミリー型マンションは需要に合っていないんですね」――結婚してもなお、シェアハウスに住みたがるんですね!松村「この流れで、子どもが産まれても、家族じゃない者同士でみんなで一緒に育てる、といったやり方が増えていくかもしれません。従来になかった人間関係の作り方を求めている人が増えているというのが、こうした住環境のニーズからもよくわかります」庭付き一戸建てを目指して我慢する時代は終わった――今後はますますシェアハウスのような暮らし方を選ぶ一人世帯は増えていくのでしょうか?松村「ワンルームマンションでの一人暮らしが大多数であることは変わらないとは思います。ただ、その場その場で自分に合った住み方を選べる時代になりましたよね。昔はみんながみんな、庭付き一戸建てを目指して『今住んでいるところは仮住まい』という感覚を持っていた。でも、結局それが叶わないままの人もたくさんいます。だったら、最初からしっくりしないアパートなどで我慢せずに、もう少し良い暮らしをすればよかったんですよ。一人暮らしだから適当なアパートに住んでおけばいい、とかではなく、そのときの自分のニーズに合った住居選びをしていってほしいと思います」“誰かがいる空間”は今や住居の条件の一つになっている。ワンルームマンションに一人で住むときに感じる不安感は、住環境の多様化により、いくらでも払拭することができそうだ。そう思うと、幾分か気分がラクになるのではないだろうか。(取材・文/朝井麻由美)■プロフィール)松村秀一(まつむらしゅういち))1957年兵庫県生まれ。80年東京大学工学部建築学科卒業、85年同大学院工学系研究科建築学専攻修了。2006年より現職。05年「住宅生産の工業化に関する研究」で日本建築学会賞(論文)、08年「建築生産の進め方―ストック時代の建築学入門」で都市住宅学会賞(著作)。近著に「ひらかれる建築」、「箱の産業─プレハブ住宅技術者たちの証言」(共著)、「建築─新しい仕事のかたち 箱の産業から場の産業へ」、「2025年の建築『七つの予言』」など。特集「おひとりさまのあたらしい住処」もあわせてご覧ください!・これからの社会は「弱い繋がり」で生きやすくなる/ジャーナリスト・佐々木俊尚さん・「ひとり」と「ふたり」と「みんなで」を、行ったり来たりする人生が理想
2017年05月09日黒髪美人がコーヒー片手にタバコを吸う姿がかっこいい!皆さん、こんばんは。あたそです。突然ですが、私はSッ気の強い黒髪美女がコーヒー片手にタバコを吸っている姿を街中で見かけると、ぞわっと性欲が掻き立てられます。鳥居みゆきさんがまさにそう。インスタグラムにタバコを吸っている写真をたまにアップしているのですが、最高の女感がすごい。でも、女の人って、全然タバコ吸わないですよね。女の人がタバコを吸うだけで、男の人に「タバコ、吸うんだね……。」って言われますよね。あれ、なんなんでしょうね。「そうだよ」以外に、どう答えればいいんでしょうか。ちなみに私は、昼食後と酔っ払った時など、嗜み程度に週4本くらい吸います。食事や飲み物は一度ハマると飽きるまでずっと摂取し続けるタイプなんですが、タバコに関しては全く依存しないんですよね。なんでだろう。「喫煙者のほとんどは、高校生から吸っている」とか「成人するとあらたまって吸う機会がない」というじゃないですか。でも、私が吸い始めたのはここ1年くらいの話で、「シーシャ」と呼ばれる水タバコがひとつのきっかけでした。日本ではまだ馴染みがないかもしれないませんが、ニコチンを抜いたタバコの葉をレモンやアップル、モカ、シナモンなどのシロップ漬けにし、その煙を1~2時間くらいで吸って楽しみます。東京だったら渋谷や新宿、高円寺、下北沢で吸えるお店があるんですが、私は月に一度くらいのペースで、シーシャを楽しみながら文章を書いたり読書をしたりと、カフェの代わりとして利用しています。店内は大体が男友達同士、外国人、デートコースとして利用している人がほとんど。女一人で来ているのが珍しいのか、店員さんにも顔を覚えられてしまい、今や世間話をする仲になっています(最近見かけないけど、イケメンでお洒落で、笑い方がちょっと気持ち悪くて可愛い店員さんがいるんだよなあ~……)。私が好きなのは、シャンパン味とブルーミスト(スミレ)味ですが、顔馴染みの店員さんがいる時は、大体お任せにしています。吸うと、フワフワする感じ。ちょっと強めのお酒を飲んだ、ほろ酔い状態をイメージすればいいんじゃないかな。ヨルダンで初体験、エジプトでどハマりする日々私が初めてシーシャに出会ったのは、ヨルダンの首都アンマンでのこと。宿で仲良くなったドイツ人とスペイン人に、「今からシーシャ吸いに行くから、一緒に行かない?」と誘われたのがきっかけでした。元々存在自体は知っていたんですけど、周りで吸っている友達なんて一人もいなかったので、自ら進んで吸ってみようとまでは思ってなかったんです。でも、せっかくの機会だったので、面白そうだし、旅先って基本的に暇だからついて行きました。イスラム教の人は、基本的にお酒を飲みません(しかも、ヨルダンは酒税が高い!の割に毎日飲んでたけど)。その代わりに、シーシャ屋で水タバコを吸いながら紅茶を飲みつつ、談笑したりします。あとは、「チャット」と呼ばれる葉っぱ―麻薬ではないんですけど―を嚙みながら話をしたりとか。まぁ苦いので、私はあまり好きではなかったです。ヨルダンで初めて吸ったときは、「こんなもんかあ」程度だったのですが、エジプトのダハブに2週間くらい滞在していた時にどハマりしました。朝起きて泳いで、そのままシーシャ屋に行って、ご飯を食べて寝る、という自堕落すぎる生活をするくらい。1回150円という安さもさらに拍車をかけ、ほとんど毎日罪悪感に駆られながら吸っていましたね。エジプトでは、女性の方がまだまだ地位が低いため、女性が一人でシーシャを吸っているというのもかなり珍しいようで、色んなおっさんに話しかけられたり、時には一緒にテレビのサッカー中継を観たり、果物やお菓子を貰ったりしました。最後に訪れた国・トルコでは、自分用のお土産として、バックパックに大きなシーシャを無理やり詰め込んで持ち帰りました。帰国後、ワクワクしながら自室で吸ってみたものの、煙を吸い過ぎて4~5回ぶっ倒れ、あげく親に処分されるというアホすぎることもやりました。脳に酸素が回りきらなくて倒れたみたいです。頭と足がアザだらけになりました。馬鹿かよ。少し立ち止まって、記憶を整理できる存在言葉の通じない国をたくさん旅行して、色んな景色や建造物に触れ、日本では見ることができないもの・経験できないことをたくさんしてきたはずなのに、ふと思い出すのは、その国々で出会った人との関わりやどうでもいい会話なんです。私の場合は。シーシャを吸っていた時間もそのうちのひとつ。日本人の友達と「何もやることないよね」なんて話をしたこと、店員さんにサービスでナツメの実をたくさんもらったこと、一人で吸っていたら目の前のイスに縞模様の猫が座ってくれたこと…そういうなんでもないことを、なんとなく思い出します。ある特定のものを見たり、場所に行ったり、懐かしい匂いを嗅いだりすると、思い起こされる体験や記憶の片隅から懐かしい人が飛び出てくるとか、そういう経験って誰にでもあると思うのですが、私にとって、シーシャがまさにそう。匂いを嗅いだり吸ったりする度に、ちょっとした古い思い出が呼び起こされるんです。仕事をして、友達と遊んで、嫌なこととか悲しいこともあったりして、そんな忙しい毎日を過ごしているけれど、シーシャを吸っているときはほんの少しだけ立ち止まって昔のことを思い出したり、色々なことを考えたりする時間になっているんですよね。“シーシャを吸う”という動作でワンクッション置くからか、頭の中の容量に少し余裕ができるのかもしれません。もちろん煙を吸うのが好きになった、というのもあるんですけど。自分と対峙できる時間があると、作業に没頭しつつ普段の考えを整理することができるので、いいですよ。ちなみに、この文章もシーシャを吸いながら書いています。店はけっこう繁盛していて、たくさん人はいるのに、各々が作業に集中していて、周囲に全く関心がない独特の空気が漂っている。この感じとかが好きなんだよなあ。Text/あたそ前回記事<普通に生きて、普通に死ぬだけだと思っていた私がTwitterで変わったこと>もチェック!あたそさんの生活や友人関係まで変えてくれた、Twitterについてです。
2017年05月02日前編で佐々木俊尚さんは、従来の会社や家族といった「共同体」が崩壊し、ライフスタイルが似た者同士でゆるく繋がる社会がやってくると指摘していた。後編では、その従来の「共同体」はなぜ崩壊しつつつあるのか、その中でどう生きていくべきかを伺った。従来の「強い共同体」が崩壊しつつある――なぜ、このように共同体の形が今変わりつつあるのでしょう?佐々木俊尚さん(以下、佐々木):終身雇用制度が機能しなくなってきているなど、今までのシステムが崩壊し始めているからです。高度経済成長期、人がどんどん都会に出てくるようになると、農村という共同体から切り離されたため、人々は企業という新しい共同体を求めました。ところが今、企業にぶら下がって生きることが難しくなり、新しい共同体を求める人が増えているのです。――共同体を求めるのは日本人独自の気質なんでしょうか。佐々木:諸説あるのですが、歴史学者の與那覇潤さんの「中国化する日本」によると、室町から戦国時代にかけては非常に開かれた社会で、流動的な関係性だった。それが江戸時代になると地域に縛られるようになって、今の日本のムラ社会は江戸時代から400年くらい続いているんです。これがもう一回壊れて、17世紀以前の社会に戻るかもしれないわけです。歳が同じ、会社が同じそれだけで繋がるほうがしんどい――17世紀以前の日本、ですか……。なんだか途方もない話のような気がしてしまいます。佐々木:30代くらいだったら将来のことなんて考えられないと思いますが、もう今までの日本人がイメージする「老後」というものは崩壊しています。昔は定年して自由な人生が待っていて、退職金がたくさんあり、年金もたくさんもらって、自由にあちこち行って、という感じだったんですが、今は年金も退職金もいくらもらえるかわからないし、子どももいなければ孫もいない、そんな人ばかりです。かつての老後のイメージはほぼ消滅していると考えたほうがいい。そうすると、どうなると思いますか?――うーん……、どうなるんでしょう。佐々木:多くの人は、定年したあとも何らかの形で働くことになるのだと思います。そうなったときに、一番いいのは、年齢関係なしに友達がたくさんいることです。違う世代の人とゆるく繋がっておくと、仕事を紹介してもらえることもあるでしょうね。――日本は上下関係の意識が強いですし、年齢差があるとなかなか「友達」という感じになりにくいですよね。佐々木:逆に、歳が同じだとか、たまたま同じ会社だとか、そういった縁があるだけで共同体が形成されるほうがしんどいことなのです。社会学者の山岸俊男さんが「信頼」とはどういうことかについて様々な著書で論じているのですが、山岸さんが言うには、同じ村にいるというだけで信頼するのは本来の信頼ではなく、やくざの世界における「信頼」と似ている、と。やくざ同士というのは本心から信頼しているのではなく、裏切ると指を詰めなければならないから裏切れないだけですよね。コミュニケーション能力がなくても無縁の人と繋がれるのか?――ただ、バックグラウンドの違う知らない人と繋がるというのは、誰にでも簡単にできることなのでしょうか? かなりコミュニケーション能力が必要な気がします……。佐々木:それは今が過渡期だからです。共同体の安定、共同体の崩壊、共同体の模索、と歴史が繰り返される中で、新しい共同体の形を模索している段階にいます。ここ数年はずっと、先陣をきってコミュニケーション能力の高い人が様々な形を試している状態なのです。こういった様々な試みの中からいずれ成功モデルが現れるはず。そうすれば、コミュニケーション能力がなくても、誰もが真似できるようなものが社会に浸透していくはずです。-----------------佐々木俊尚さんの言うところの「弱い繋がり」とは、あくまでも「自分は一人で生きている」という自立心を持っているのが前提のように思う。会社や村社会などの既存の「強い繋がり」における同調圧力は、誰しもが一人になるのが不安だからこそ生まれる。私自身は、そういった同調圧力に巻き込まれるくらいならば、誰とも関わらないで生きたほうがましである、と思っていた。けれど、必要な分だけ誰かと繋がれる、そんな都合のいい共同体(弱い繋がり)ばかりになるならば、どんなに生きやすくなることだろう。願わくば、生きている間にそのような社会になりますよう。(取材・文/朝井麻由美)■プロフィール佐々木俊尚(ささき としなお)1961年兵庫県生まれ。早稲田大学政治経済学部中退。毎日新聞記者、月刊アスキー編集部を経て、フリージャーナリストとして活躍。ITから政治・経済・社会・文化・食まで、幅広いジャンルで、綿密な取材と独自の視点で切り取られた著書は常にベストセラーとなっている。『キュレーションの時代』(ちくま新書)、『レイヤー化する世界』(NHK出版新書)、『家めしこそ、最高のごちそうである。』(マガジンハウス)など著書多数。特集「おひとりさまのあたらしい住処」もあわせてご覧ください!・これからの社会は「弱い繋がり」で生きやすくなる/ジャーナリスト・佐々木俊尚さん(前編)・「ひとり」と「ふたり」と「みんなで」を、行ったり来たりする人生が理想
2017年04月13日誰かと一緒にいるより、一人の時間が好き。一人でいれば、空気を読む必要もない。気遣いやしがらみなど、集団の煩わしさとは無縁である。けれど、暮らしていく上で一切不安がない言うと嘘になる。“ライフスタイル”ならばそれでよくても、こと“ライフ(=人生)”の話になると、一人というのは圧倒的に不利だ。今はよくても、働けなくなったら? 病気になったら?ジャーナリストの佐々木俊尚さんは、新刊『そして、暮らしは共同体になる』の中で、今までとは違った新しい集団(共同体)の形を提唱している。佐々木さんによると、今後の社会では、「一人の時間がほしい」、「集団で協力し合って不自由なく生きていく」、この一見相反する2つが両立するようになるらしい。“おひとりさま”も本当に一人なわけではない――「新しい集団(共同体)の形」とはどういうことなのでしょうか? 昨今、依然として“おひとりさま”ブームは続いていますし、「集団で協力し合って生きる」とは真逆の流れがあるように思います。佐々木俊尚さん(以下、佐々木):おひとりさまといっても、本当にたった一人で生きているのかといったら、そうではないですよね。一人で旅行に行ったとしても、Facebookに投稿するでしょう? これもある意味、人と繋がっていると言える。SNSも一切やらずに山の中で一人で暮らしているならば正真正銘のおひとりさまですが、そうではないですから。――それは……その通りですね。佐々木:自分の行動をSNSで誰かに見せるなどといった、おひとりさまにも“おひとりさまならではの共同体感覚”というものはあります。新しい共同体の形とは、「会社」とか「夫婦」などの既存の共同体ではなく、別のゆるい繋がり方があってもいい、というオルタナティブな選択肢のことなんです。必ずしも「強い共同体」じゃなくていい――なるほど。共同体、集団、コミュニティというと、助け合いや絆といったポジティブな面と同時に、気遣いやしがらみなどの面倒なマイナス面がどうしても思い浮かぶのですが、そういうのではなく……?佐々木:そうです。人類の歴史上、共同体がなかったことはなく、必ずしも息苦しいものではありません。「ストロング・タイズ(強い繋がり)」と「ウィーク・タイズ(弱い繋がり)」という言葉があるのですが、これからの社会では「弱い繋がり」が重要になってきます。――「弱い繋がり」?佐々木:「強い繋がり」は例えば家族や会社、「弱い繋がり」は年に何回かご飯を食べたり、趣味の集まりで一緒になったりといったゆるやかな関係性のこと。おひとりさまがSNSでゆるく繋がっている感覚も「弱い繋がり」の一種です。――その程度の繋がりでも「共同体」になるんですね。佐々木:一昔前の終身雇用の時代、そのさらに昔の農村の時代と、「強い繋がり」の時代が長く続いたため、「共同体=強い繋がり」といったイメージがどうしてもありますよね。こういった共同体には同調圧力が生まれやすく、人によっては息苦しさを感じるでしょう。「絆」なんかも良い言葉だと思われがちですが、僕自身は絆なんてないほうがいいんじゃないかと思っています。絆は同調圧力と紙一重ですから、あまりに絆、絆と言われると、生きづらいんですよね。――ああ……わかります、わかります。佐々木:でも、生きていくのに必ずしも強い繋がりの共同体は必要ないんです。弱い共同体で充分なのです。会社に所属しているとか、誰かの奥さんとして専業主婦をやっているとか、「強い繋がり」しかなかった今までの日本が終わり、それぞれが色々な繋がりを網の目のように張り巡らせる社会が少しずつやってきているのです。ライフスタイルで繋がる「無縁の共同体」――それが佐々木さんのおっしゃる「新しい共同体」だと?佐々木:そうです。具体的にこの「弱い繋がり」のどんな共同体が主流になっていくのかはまだ模索中の段階ですが、ここ10年~20年はインターネットのテクノロジーのおかげで、距離や時間のハードルを越えて人と繋がるのが可能になってきました。こうしたテクノロジーを活用しながら、「無縁の共同体」、つまり血の繋がりもなく、夫婦でもなく、同じ会社でもない人たちが寄り添って生きるのがおそらく普通になっていくのではないかと思います。――とはいえ、「夫婦」という共同体そのものがなくなることはない、ですよね?佐々木:でも、夫婦のあり方が変わっていくと思います。今までの夫婦は「強い繋がり」でしたが、これからは「弱い繋がり」の夫婦がもっと増えていいと思います。実際、そのほうが夫婦はうまくいくんですよ。――えっ、そうなんですか?佐々木:夫婦に共通の友人が少ないほうが、夫婦の持続性がある、とアメリカの調査でわかっています。だから、お互いの友人を紹介し合うなど、あまり夫婦ぐるみの付き合いはしないほうがいい。お互いのプライバシーを侵害せず、夫婦間を「弱い繋がり」の共同体にしておくのは、長く続けるひとつの方法なのです。――ただ、お互いに相手を干渉しないスタイルは、苦手な人もいそうです。佐々木:夫婦だからってルールで縛りすぎるほうが生きづらいはずなんですけどね。そもそも結婚相手には、ルールで縛る必要のない、同じようなライフスタイルの相手を選ぶことも重要です。例えば、コレクター癖がある人と、ものが少ない中で生活したい人は絶対に合わないですよね。人は似たライフスタイルの人と生きるに限るんです。実際、「恋愛の果てにある結婚」というより、生きる上での「セーフティネットの一つ」という考え方の人も増えてきています。――つまり、これまでのお話をまとめると、様々なバックグラウンドを持った人々が、同調圧力が生まれない程度にゆるく繋がりつつ、困ったときにだけ助け合う、ということでしょうか? 「結婚」も、そのゆるい繋がりの形の一つでしかない、と。佐々木:はい。100年後くらいには、お年寄りから子どもまで、まったく縁のない人同士で育児や介護をシェアするのが当たり前になっているはず。まだ今はロールモデルが存在しないため、イメージしづらいかもしれませんが。――そうですね……。実際にはまったく縁がない人に対して壁を感じる人はまだまだ多いでしょうし。佐々木:今までの日本って、強い繋がりしかない社会だったんです。会社に所属しているとか、誰かの奥さんとして専業主婦をやっているとか。たとえるなら、壁に囲まれた敷地内でだけで生活していたわけですね。けれどこれからは、その壁を取り払って、一面芝生が広がっている中に、一人一人それぞれから細い道(弱い繋がり)が伸びている、そんな社会になっていくと思います。そうやって「弱い繋がり」を持てば持つほど、リスクヘッジになるのです。(後編に続く)(取材・文/朝井麻由美)■プロフィール佐々木俊尚(ささき としなお)1961年兵庫県生まれ。早稲田大学政治経済学部中退。毎日新聞記者、月刊アスキー編集部を経て、フリージャーナリストとして活躍。ITから政治・経済・社会・文化・食まで、幅広いジャンルで、綿密な取材と独自の視点で切り取られた著書は常にベストセラーとなっている。『キュレーションの時代』(ちくま新書)、『レイヤー化する世界』(NHK出版新書)、『家めしこそ、最高のごちそうである。』(マガジンハウス)など著書多数。特集「おひとりさまのあたらしい住処」もあわせてご覧ください!・これからの社会は「弱い繋がり」で生きやすくなる/ジャーナリスト・佐々木俊尚さん(前編)・同世代の繋がりだけではキツイ!崩壊する老後の生き方/ジャーナリスト・佐々木俊尚さん(後編)
2017年04月06日第11回:存在感がなくても「楽しみではあるのですが、うまくやっていけるか、心配です。」今回の読者投稿は4月から新社会人になる方から。なんかもう見ただけで若さや眩しさを浴びてしまうのは私だけではないはず。そんな不安を和らげられるか分からないけど、私の新社会人エピソードといえば「iPhoneの目覚まし」だ。数年前、新社会人として某社に就職した私は、本社で研修を受けていた。近くのホテルの各大部屋に約6人ずつ同期が割り振られ、4泊をそこで過ごす。もちろん研修が主なので、そこまで私語はできない。というか、そうでなくても私はあまり人と話すほうではなく、人との距離を図るまでの気まずさは、居心地の良いものではなかった。が、そういう気まずさは思いもしなかったきっかけで崩れる。1泊した朝。おそらく控えめに設定したであろう各々の携帯が鳴る中、私のiPhoneが鳴った。iPhoneをお持ちの方は目覚ましのサウンドでクラシックの中の「アラーム」を選択して聞いてほしい。そのけたたましいアラーム音が最大で鳴ったのだ。もはや警告音。「研修では存在感のなかったあの人がここにきて存在感を」というギャップと、「朝だし眠いし周りからどう思われようと知ったことか」という私の間違った“旅の恥はかき捨て”状態に同期は失笑せざるを得なかったようだ。2泊目以降は「その音なにさ〜」「そりゃ起きるわ〜」「あはは〜(私アラーム止めない)」みたいなやりとりが続いたが、思えば一番最初に「それうるさいって笑」と言ってきた同期は、その後同期の中で一番飲みに行った人だった。無理に存在感を出そうとしなくても、意外なところから出たものがその後の関係にちゃんと作用してくれる。今回は、一見存在感のないものがけたたましいものを放つ様子を描いた。Design&Text/つめをぬるひとこの連載では、爪作家である私が、読者のみなさんが「どんなおひとりさまか?」をヒントに爪をつくります。あなたのエピソードを添えて、送ってください。前回記事<決めなきゃいけない。「モラトリアムの終焉」は秒速でくる>もチェック!「モラトリアム」がテーマの爪です。
2017年04月03日男と女ってほんと違う生き物男と女ってほんと違う生き物かよってくらい、考え方が違いますよね。 たいていの「少女マンガに登場する男子はかなり繊細で女っぽいので、ファンタジーの生き物ですが、最近は割と「男子の生態」みたいな作品も増えてきましたね。その中でもダントツ面白いのが『僕と君の大切な話』です。『僕と君の大切な話』(ろびこ/講談社)1巻2年4組の東司朗くんと2組の相沢のぞみちゃんが、駅のホームでいろいろ語らうってだけの物語(2巻になると舞台は学校へ移動しますが)。で、1巻中ずーっと男女の考え方の違いについて述べ合ってます。その内容は、異性と付き合ったことのある人なら、誰もが「うんうん」とふかーくうなずくことでしょう。話はいきなり野菜になりますが、山芋を見るたびに、男の人のスネっぽいなあと思います。毛穴っぽいとこからもじゃもじゃしたむだ毛が生えてるし、肌色で無骨な感じがするし。あのガサガサした障り心地といい……。相沢さんは、靴下とズボンの間、5cmほどの隙間から見えた東くんのスネ毛に驚いて、しばらく口がきけなくなります。「東くんの男らしい下半身を見て私、ちょっとびっくりしたっていうか、なんか どん引きしたっていうか……」だそうです。ものすごいいかがわしい言い方だけど、わかる、わかります!!シュッと下あごのラインとか、腕の筋とか、骨張った手の甲とか、背中の筋肉とかは、男性の「かっこいいパーツ」ですよね。女にはない逞しさに加えて、繊細さを感じてキュンってします。ところがこのスネ毛ですよ。スネ毛って、めちゃくちゃ男っぽくないですか。繊細さも感じないし、あの毛深い感じが動物的だし。さすがに大人なんでどん引きはしないけど「わっ男の人だ!」って思います。かといって、無毛のつるんぴかんとしたスネも、ちょっと違うんですよね。あってもイヤだ、なくてもイヤだのたいへん微妙なパーツと言えそうです。どこかでスネ男子コンテストとかやってくれないかな。そうしたら理想のスネが見つかるかもしれないのに。さて話はスネ毛から離れますが、そうこうしているうちに、2人は東くんの友人、カフェインくん(コーヒ―屋の息子)の恋の相談を受けることになります。この返答が、男女できっちり別れていて面白い。男女でハッキリ異なる、恋愛のスタンス手作りの差し入れを持ってきてくれた彼女がカワイイというカフェインくんに、東「だいたい手作りなんて自己主張の激しい女のやりそうなことだ!」相沢「いいえ! 純粋な好意からだと思うわ!」友達の誰々とどこ行ったとか何して遊んだとか、あれ返信しなかったのがマズかったのかな…と不安になるカフェインくんに、相沢「それはカフェインくんが悪いわね。『よかったね』とか『どうだった?』とか答えてあげなきゃ」東「そんな会話に一体なんの意味があるんだ」相沢「あなたの愛を確かめているのです。愛があれば即答出来て当然です」東「無理難題すぎるだろ 男はエスパーか何かか!?」さて、みなさんはどちらの意見に共感しますでしょうか。『深夜のダメ恋図鑑』は、クソ男を容赦なくぶちのめして笑いたおす名作だけど、『僕と君の大切な話』は、特に悪者がいないので、どちらに肩入れすることなく楽しめます。テンポもよくて笑えますよ。これ、カップルで読んであれこれ意見を言い合うのも楽しそうだけど、おひとりさまで読むのもオススメです。過去の失敗の振り返りや、これから訪れるかもしれない新しい経験の際に役に立つかも。それよりも、マンガって最高の娯楽ですよね。深くうなずいて、ゲラゲラ笑って。おひとりタイムを元気よく過ごしましょう。ちなみに、作者のろびこさん、絵がめちゃくちゃかわいいです。東くんはサラ髪にメガネで、いつも本を読んでる読書家です。めっっちゃタイプです。サラ髪メガネ男子って少女漫画的人気キャラですよね。その上、個人的に本をいっぱい読む男性が大好きなので、もう東くん最高です。こうなると、彼の多少不器用なところも許せるっていうか……。いやー、ほんとに良質な少女マンガってホントストレス解消かつ癒やしです。Text/和久井香菜子前回記事<「自分に自信のある人はいない」『昭和元禄落語心中』 が心に響く名作である理由>もチェック!登場人物はみな、辛い。けど、一人ひとりが丁寧に描かれている名作です。
2017年03月29日「独身女性のロールモデル」について考えてみた昨年大ヒットしたドラマ、海野つなみさん原作の『逃げるが恥だが役に立つ』。私はあいにくドラマは見ていなかったんですが、原作となったマンガを読むことで、なんとか流行についていこうと悪あがきしました。こちらの作品、偽装夫婦となった主人公たちの物語も興味深いですが、SOLO的に注目したいのはやはり高齢処女で独身の、ドラマでは石田ゆり子が演じていた“百合ちゃん”だったのではないでしょうか。私が百合ちゃんの姿でいちばん印象に残ったのは、コミックス第8巻で年下の友人・風見さんに、「年をとって一人なのが怖いっていう人に、あの人がいるじゃないかって安心するような存在になれたらなって」と語るシーンでした。百合ちゃんは独身で子どももいないけど、バリバリ仕事をして一人で楽しく暮らしています。だから、結婚して子どもがいないと不幸なのではないかと悩む若い女性たちの救いになってあげたい。おお、なんだかこのままSOLOで連載を持っていただきたいですね。この百合ちゃんと風見さんのやり取りを読んで、私は「独身女性のロールモデル」についてちょっと考えてしまったんです。「尊敬できる憧れの女性」という枠みなさんは、自分より年上の40~50代の女性たちの中に、「将来こんなふうになれたら素敵だな」と思う女性はいるでしょうか。私は正直なところ、いません。それは、今を生きる40~50代の女性に魅力的な人がいないというわけではなくて、たぶん無意識のうちに、「お手本」を探さないようにしているんだと思います。「将来こんなふうになれたら素敵だな」と私が思う人は、なぜかいつも男性です。女性をお手本にしてしまうと距離が近すぎて、その人と自分の差異が一向に埋まらないことに焦って、落ち込んでしまいそうなんです。男性相手だと、差異が埋まらなくても、「まあ性別ちがうしな」と気にせずにいられる。……と書くと私がダメな奴みたいですが、女性に憧れを抱く女性ってやっぱりとても真面目なんだと思います。年上の女性が相手だと、彼女の考えで「それはちょっとちがうのでは?」と違和感を覚えても、私は言葉をぐっと飲み込んでしまいます。自分の考えのほうが間違っているのかな、ということにしてしまう。日常生活レベルではそれも大人の処世術の一つかもしれないけれど、人生レベルでそれが起こることを、私は避けているんだと思います。一方、憧れの人とはいえ相手が男性だと心理的な距離があるので、「いや、それはアンタの頭がおかしいだけでしょうよ」と突っぱねることができて、私にとってはラクなんです。だから年上の女性に憧れることはやめて男性にしましょう……って話では全然ないんですが(そもそも誰かに憧れる気持ちってコントロールできるものじゃないですから)、たとえ年上の、それも憧れの女性が相手でも、「この人の言ってることおかしくない?」という目線は常に持っていていいと私は思います。憧れの女性とはいえ、その人だって人間なのだから、弱い部分も間違っている部分も、自分とは合わない部分もあります。年齢を重ねた自分のイメージを一歩先に進んで作ってくれる女性がもたらしてくれる安心感や救済の言葉は、とてもありがたい。だけど、この人生を生きるのはやっぱりどうしたって自分です。他人のお手本になんかならなくてもいい翻って、冒頭の『逃げ恥』百合ちゃんの話です。自分が先導となって若い女の子たちを救ってあげられたらいいという百合ちゃんに対して、思わず「そんなこと言わないで」と言ってしまった風見さん。後日、「他人のお手本になんかならなくてもいいって思ったんですよ。だめだったり、恥ずかしいことしちゃっても、他人にあきれられてもいいじゃないですか」と百合ちゃんに伝えます。自分の生き方が、誰かの救いになったとしたら嬉しいです。だけどそれは結果論であるべきで、「誰かのお手本にならなきゃ」「なりたい」と思って、自分を枠の中に押し込めようとしてしまったら本末転倒です。だから、風見さんのこのセリフを持ってきた『逃げ恥』の展開は個人的にすごく好きだな、と私は思ったのでした。ちなみに私の憧れの人は、29歳でミャンマーのアヘン密造地帯に潜入し、地元の人と7カ月かけてケシ栽培をやったという探検家です。人生に対する考え方がとても素敵だなと思い真面目に憧れているのですが、どこからどう見ても真似できないので、これはこれで間違っている気が、しなくもありません。Text/ チェコ好き
2017年03月27日この年齢でこの自分、どうなの?by jim jackson昨年の話です。某化粧品ブランドのCMの中にあった「25歳からは女の子じゃない」というメッセージが批判を浴び、CMの放送自体が中止になったことがありましたよね。一昔前だったら抗議の声すら上がらなかった(もしくは上がっても無視されていた)はずなので、女性の年齢に対する世間の反応は、徐々に変わってきているんだなあと思います。とはいえ、やはり「25歳」あるいは「30歳」という年齢は、女性の中である種の分水嶺のように考えられています。さらに、書店に行けば、「20代でやっておくべき◯個のこと」みたいなタイトルの本が平積みされているし、インターネットを見れば、「アラサーでこれをやったらイタイ」なんて書いてある記事がたくさんあります。世の中は、「この年齢でこの自分、どうなの?」とこちらを不安にさせる材料に事欠きません。加齢によって失ったもの、一個もなかった!このコラムを読んでいる人の中で、年齢を重ねることに対して不安を感じている女性がいたら、参考になるかどうかはわからないけど私自身の経験を少し書いてみます。まず率直に、見た目に関してですが、一般的には20代後半から30代、40代と年齢が上がっていくにつれて、容姿は衰えていくということになっています。肌は乾燥するようになるし、髪の毛は徐々にやせ細っていくし、匿名掲示板などでは年齢を重ねた女優やモデルを指して「劣化」なんて言ってみせる人だっています。だけどこれらの現象って、本当に「劣化」なのでしょうか。私の恥ずかしい容姿遍歴を晒すと、自分はもともと顔の肌質がオイリーに傾きやすいタイプで、20代前半なんて油田に胴が生えて歩いてるような有様だった気がします。おまけに、もとが剛毛でぶっとく、クセ毛という悲しい髪質。20代前半の頃の写真を自分で見返すとわりと「うわっ」と思います(そしてその直後に捨てる)。それがどうでしょう。25歳を過ぎた頃から徐々に顔の脂が落ち着き、ポーチの中から脂取り紙が消えました。髪がやせ細ってくれたおかげで、クセ毛は相変わらずだけど、剛毛が落ち着いて朝の時間がだいぶラクになりました。私にとっては加齢って、今のとこいいことずくめの大ハッピーです。人間関係も、私は妙に落ち着きのある性格だったせいか中学生の頃すでに女子大生に間違われていたくらいで、20代前半の頃は「若い女の子」という身の丈に合わないスーツを着せられているようですごく窮屈でした。だけど30歳が近付くにつれて、ようやくスーツのサイズが私の中身に合ってきたような気がして、なんだかとても過ごしやすくなったんです。「それはただあなたが昔から老けててカワイソウな奴だったからだけでは……?」と思われるかもしれませんが、すべての女性にとって加齢がマイナスなわけではありません。声を上げる人が少ないから目立たないけど、年齢を重ねることで逆にいい思いをしている女の人って、意外といっぱいいるんじゃないかなーと私は思います。人生論の99%は言ってる人のエゴだから年上の人の声って参考になる部分も確かにあるんだけど、99%は自分の成功体験を語っているだけです。「20代でやっておくべき◯個のこと」って、ちゃんと言い換えると「著者の私が(当時は特に意識してなかったけど)20代でやっておいて良かったなと今になって思うこと」だし、「アラサーでこれをやったらイタイ」みたいな話だって、その人のキャラによってはむしろアラサーでそれをやることこそが魅力だったりする場合もあります。はっきりいって、そこに普遍性はまったくありません。人間って一人一人、本当にバラバラです。容姿のピークですら、元オイリー剛毛の私には、よくいわれる女性の枠とはちょっとズレていた気がするし、仕事や恋愛のピークと来たらそれこそ千差万別です(それを言い出すとそもそもピークという概念自体がどうなんだと思うけど)。「◯歳だからこうしなきゃダメ」という話は、ほとんど言ってる人のエゴというか、「私はこうした」という話でしかありません。もちろん、私のこのコラムだってそうです。だからどうか、半分は聞き流すというか、あまり真面目に取りすぎて苦しくなってしまわないでくださいね。年齢に関することって、「ほー、あいつあんなこと言ってら」とナメた態度で聞くくらいでちょうどいいんじゃないかと、私はいつも思います。Text/ チェコ好き
2017年03月13日自分に自信のある人なんていない「自分に自信のある人なんていませんよ」と、お世話になっていたお姉さんに言われたことがあります。和久井が20代の頃だったかな。当時はそれが信じられなくて、「だってあの人はあんなに偉そうにしているじゃない」「この人はこんなにいい大学を出ていい企業に勤めているじゃない」なのに自信がないわけないでしょう? って。でも、今ならわかります。和久井は、端から見るととってもポジティブで自信満々に見えるみたいです。短大を卒業した後、銀座でバイトしてお金貯めて23歳で夜間の専門学校に行って、28歳で大学に入り直して、32歳でスペインにテニス留学して。なんだかすごく人生前向きに生きてる感じがするみたいです。だけど、あれこれやらざるを得なかった理由は、単純にコンプレックスです。自分に自信がなかったからです。自分を好きになれなかったから、なんとか好きになろうとしていたんです。知りあいの若い女子にそんな話をしたら「和久井さんでも迷ったり辛かったことがあるんですね」と言われました。今まで、よっぽどキラキラして見えてたらしいです。でもさ、人はそうそう自分の心の奥底で思っていることなんか、他人には言わないものですよ。気持ちがカタチで表現できないことも多いし。きっと、誰もがなにかを抱えていているのでしょう。恨み辛みを口に出して生きる人もいれば、つまらないことは口にしないという人もいる。口にしないからといって、その人に「いいこと」だけしか起きていないってわけじゃないんです。京都のお寺(どこだか忘れちゃったけど)で、門前の掲示板に「みな辛い、ただ言わぬだけ」って書いてあって、ガビーンとしました。そうか、みな辛いのか。『昭和元禄落語心中』は、すごい物語です。出だしが、刑務所から出所したばかりの若者が落語家に弟子入りを希望して押しかける、という派手な始まりなので、喜怒哀楽の激しい、わかりやすい事件やハプニングがたくさん起こるのかな、と思ってましたが、物語はひたすら淡々と語られていきます。そして、登場人物が「みな辛い」。『昭和元禄落語心中』(雲田はるこ/講談社)1巻元ヤクザでムショ帰りの与太郎、与太郎が弟子入りした昭和最後の大名人・八雲、八雲と同期だった助六、助六の娘で八雲に養女として育てられた小夏。しかし小夏は、自分の父親は八雲に殺されたと言っています。だけど花びらの舞う中泣き叫んだり、ショックを受けてカミナリが落ちたりという大仰な表現はありません。登場人物は、みんなものすごく人間くさいです。迷って、葛藤して、なんとなく目の前に現れた道を進んでいく。決して「名落語家に、おれはなる!」とか言って、まっすぐがんばって結果を出す人はいません。わかりやすく問題が解決して友情が深まることもありません。誰もがどこか足りないし、完璧じゃない自分にコンプレックスを抱いています。落ち度がなくても認めてもらえない物語は、ひとり一人の人生を丁寧に描いていきます。初めは、単に未熟な人に見えていた人物たちが、その葛藤や考えを知るうちに、どんどんと魅力的な存在に思えてきます。和久井は、八雲にもっとも感情移入してしまいます。てか好みです。細身で繊細で、同期の助六に猛烈な憧れとコンプレックスを抱いている。死ぬために生きているような後ろ向きなところがとても放っておけない感じです。ひとつ、とても印象的な設定があります。八雲は、子どもの頃に落語家の先生に弟子入りをして、順調に出世をしましたが、生まれは芸者の家でした。そこは女でなければ居場所のない世界です。しかも、足を故障したせいで踊りもできなくなり、家を出なければならなくなりました。決して前向きな理由で落語を目指したのではなかったのです。しかし落語は逆に、女の居場所がない世界です。小夏は、子どもの頃から落語に慣れ親しんでいながら、落語家になることはできません。八雲も小夏も、生まれた場所の違いから、自分の性別を肯定することができないのです。自分に落ち度がなくても、自分を認めてもらえないことがある。逆に、自分ですべてを壊してしまう人もいる。どうして人生ってこううまく行かないんだろう、などと思ってしまいます。そして、作中に産まれた赤ん坊、実はとある人の子どもかもしれない……という予測が語られます。その展開を読んだとき、ドドン! と心臓が鳴りました。こんな奇跡のような子どもがいるのかと。漫画を読み終えたとき、胸がずしんと重たくなり、頭はのろのろと動きが悪くなって、物語の中に自分が入り込んでしまうことがあります。それは間違いなく自分の人生を変えるような名作です。『昭和元禄落語心中』は、そんな物語でした。Text/和久井香菜子
2017年03月01日孤独な時間を楽しめますか?by Abiris「一人で生きていくために」なんていうと、妙に肩に力が入っちゃってなんかヤダ……と思う人もいるかもしれません。今は一人だけど、この先もずっと一人で生きていくと決めたわけじゃないし、とか。だけど、ものすごく端的な事実として、今一人だろうと一人じゃなかろうと、死ぬときばかりはみんな一人なんですよね。夫がいたとしても、平均寿命からすると女性のほうが長生きする確率が高いわけで、既婚の方であっても夫に先立たれた後の何年かを一人で過ごさなければならない可能性は十分にあります。子どもがいたとしても、今どきは、子供に老後の面倒を全部見てもらおうなんて考えの人は少ないはず。だから実は、「一人で生きていく」力を養わなくてもいい人なんていないんです。さて、では一人で生きていくために必要なことって、貯金とかそういう実務的なことをのぞくと、いったい何があるでしょう。私が思うに答えは二つあって、一つは「コミュニケーション能力」。夫に先立たれても子どもと離れて暮らしていても、まわりに友達がいれば寂しくないですよね。ただし綾小路きみまろみたいなことをいうと、その友達ですら時が経つにつれバタバタ死んでいくと思うので、一定の仲間と密な関係を築き上げられる力よりは、どんな国籍・年齢・境遇の人ともゆるく仲良くなれる力、みたいなものを想定しておいたほうがよさそうです。そしてもう一つは定番ですが、やっぱり「一人で孤独な時間を楽しむ力」ではないでしょうか。どのようにしたら、一人で孤独な時間を楽しめるのか。これについては、手を替え品を替え様々なことをいろいろな人が語っているので、いささか手垢がついた話題ではあります。そこで、これは一つの仮説なんですが、「ずっと継続してやっている何かを持つ」というのはどうなんだろうと思ったんです。時間と労力を捧げた先に実は私、数ヶ月前から、護身術を習い始めました。なぜ護身術だったのかというと、純粋に体力作りをしたかったのと、自分の身を自分で守れるようになりたかったんです。「いくら一人で生きていくとはいえ、暴漢を撃退できるまでに強くならなくてもいいのでは!?」という声も聞こえてきそうですが、なんかカッコイイかな、と思っちゃったんですよね……。護身術は、やってみると相当ハードでした。ストリートファイトを想定しているので、練習では首を絞められたり馬乗りになられたりおもちゃのナイフで襲われたりします。そして一瞬の気の緩みから攻撃をくらってしまい、腕に痣を作ったり、唇から血が出たりすることもしばしば。最初の頃は、何度も「今日こそ退会を申し出よう……」と思っていました。だけど、上級クラスの生徒さんたちを観察すると、その動きに一切の無駄がなく、フォームが整っていて美しいことがわかります。私の運動神経がもともと悪いのもあるけれど、へなちょこパンチやよろよろキックしか繰り出せないことが実際にやってみてわかったからこそ、彼らがどれだけの時間と労力をかけてそこまでたどり着いたかに、思いを馳せることができます。「継続」とは「孤独」と向き合う力好奇心から一回だけやってみる、というフットワークの軽さも素晴らしいけれど、同じことをずっとずっと継続するのってとにかく大変です。飽きるし、時間的にも金銭的にもコストがかかる。だけどそこで毎回、自分を飽きさせないような何かを発見して純度を高めていくことって、実はすごく「孤独」と向き合うことと繋がっているのではないかと思ったんです。最近私が読んだ本によると、外向的な人は外部からの刺激に鈍感で、内向的な人は外部からの刺激に敏感なんだそう。内向的な人が家に一人でいても退屈しないのは、小さなことからでもたくさん刺激を受けたり感動したりできるからなんですね。もう脳の構造がそうなっているらしい。なのでこれを今さらどうこうするのは難しそうではありますが、一人の時間を持て余しがちな人は、一つ継続してできる何かを見つけてそれにとことん向き合ってみると、小さな刺激や変化を見逃さない孤独に強い脳になれるかもしれません。かくいう私は思いっきり内向型なので、孤独と向き合うのは大得意なのですが、反対にコミュニケーション能力のほうが問題です。読者のみなさん、私に何か有効なアドバイスをください。それにしても、コラムに書いたことによって、護身術がますます辞めにくくなってしまいました……。Text/ チェコ好き
2017年02月13日ウィル・スミスをはじめ、ヘレン・ミレンやケイト・ウィンスレット、キーラ・ナイトレイ、エドワード・ノートンら、豪華キャストが集結した『素晴らしきかな、人生』。このほど、ウィル演じる主人公ハワードが、“ドン底”になる以前、イケイケ広告マン時代だったころに“人生論”を熱く語るシーンがシネマカフェに到着した。『プラダを着た悪魔』のデヴィッド・フランケル監督の最新作となる本作。舞台は、冬のニューヨーク。華やかで、時代の最先端を走る広告代理店の代表ハワード(ウィル・スミス)は、最愛の娘を失ったことで自分の人生を見失ってしまう。そんな人生ドン底を迎えた男の前に、ある日、3人の奇妙な舞台俳優たちが現れ…。今回到着したのは、主人公ハワードがイケイケ広告マンだったとき、社員の前で“広告の極意”…というよりもむしろ“人生論”を、熱くスピーチする冒頭の1場面。ハワードは、広告代理店の代表であり、かつてはクライアントからの厚い信頼を集めるカリスマ広告マンだった。彼の同僚のホイット(エドワード・ノートン)、クレア(ケイト・ウィンスレット)、サイモン(マイケル・ペーニャ)の3人に加え、会社の若い従業員たちも、ハワードのスピーチに熱心に耳を傾けている。「君の“なぜ”への答えは何だ?」という問いかけから始まるスピーチ。ハワードの表情は、その後の“ドン底”など予感もさせないほど自信に満ちあふれている。「広告は人に伝えることがすべて。人は愛を渇望し、時間を惜しみ、死を恐れる。それこそが人々を繋ぐ要素だ」と、彼の“人生論”ともいえる広告のロジックを熱く語りかける。この後に、最愛の娘の死をきっかけに“愛”、“時間”、“死”、この3つの抽象概念を信用できなくなるとは思いもせずに…。ウィルは自らが演じたハワードについて、「彼は、自分の人生プランを完璧に立てていた男。知るべきことはすべて把握しているんだ。彼は自分を指導者、マーケティングの達人だと考えている。すごい男ですよ。愛情があり、必要な助言をし、どの友人にも力になろうとした。彼は人生の勝ち方を知っていました」と、そのハワードがいかに成功を収めていたかを語る。ニューヨークの広告業界の第一線で活躍する広告マンのアツいスピーチは、いわば“勝つための人生論”ともいうべきエッセンスの詰まった、観る者の心に響く深いもの。本作をひと足先に観賞した日本の現役広告マンからも、「思わず自分とシンクロしてしまい涙、涙でした。人生を走り続けることの意味と尊さを考えさせられた」(T.Yさん 34歳/営業/東京)、「他者との繋がりを愛し、絶望し、そして救われてゆく主人公ハワードの姿に、広告マンとして、人として通じるものを感じ、涙があふれた。いま、繋がりを共有したい大切な人と一緒に見てほしい映画」(Y.Hさん 25歳/メディアプランナー/東京)といった共感&感動の声が続々と届いている。『素晴らしきかな、人生』は2月25日(土)より全国にて公開。(text:cinemacafe.net)■関連作品:素晴らしきかな、人生 2017年2月25日より丸の内ピカデリー、新宿ピカデリーほか全国にて公開(C) 2016 WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC., VILLAGE ROADSHOW FILMS NORTH AMERICA INC. AND RATPAC-DUNE ENTERTAINMENT, LLC
2017年02月08日第7回:多様性のある個と個今回の読者投稿は、「恋のわずらわしさより、関係性を築く喜びが勝つタイプだ」と前置きがある上で、「でも、既婚の友人の愚痴を聞いていると、単位が二人にするのでなく、『おひとりさまとおひとりさま』で居られないのかと思う」というご意見(要約させて頂きました)。「結婚していながらにしておひとりさまで居ること」にねじれが生じるのは何故だろう。そもそも、世間のおひとりさまに対するイメージは、人と関係を築くことよりも、自分を見つめる、自分を尊重する、どこか強く見える、といった感じ。しかし、実際のおひとりさまは、「一人でいること」にそこまで重きを置いていない。誰かと居たい、自分を見つめるとかよく分からない、強くない。そんなおひとりさまも居るのだ。しかし、どんなおひとりさまであろうと、結婚した途端にそれまで通りではいかなくなることがある。物事を相手と共有したい、甘えたい、分かってほしい、というごく当たり前に抱く思いと、「奥さん」「旦那さん」と周囲から呼ばれる慣習的な型。いつの間にかそれらが、“個"としての概念を霞ませてしまう。おひとりさまの多様性はある程度許されても、夫婦でいるとその多様性が許されなくなる時がある。それがねじれを生んでいるように感じる。人と一緒に居るということは、離れようと思えばいつでも離れられる脆さを含んでいる。それを意識し、相手のために気を遣ったり、自分のためにも気を遣わなかったりすることで、維持できる関係がある。誰かと一緒に居ながらおひとりさまでいる…というのは一見矛盾しているように見えるが、「おひとりさまが二人いる」という意識が、誰かと一緒に居るための秘訣ではないだろうかと思う。むしろ、そうであれば良いのに、と思う。Design&Text/つめをぬるひとこの連載では、爪作家である私が、読者のみなさんが「どんなおひとりさまか?」をヒントに爪をつくります。あなたのエピソードを添えて、送ってください。
2017年02月06日突然ですが、あなたはバラ色の人生?と聞かれ首を縦に振れる? "ラビアンローズ(=バラ色の人生)" なんておとぎ話と侮っていてはつかめる幸せも逃げてしまうかも。今年もまだ始まったばかりだし、たらればの御託を並べる前に "ラビアンローズ" への一歩を踏み出しませんか?戦後のシャンソンから生まれた "ラビアンローズ"すっかりカタカナで定着したこのフレーズが生まれたのは遡ること半世紀超、シャンソン歌手のエディット・ピアフが戦後直後の1946年に発表した〈 La vie en rose 〉からでした。Quand il me prend dans ses brasIl me parle tout basJe vois la vie en rose〈 彼の腕の中にいて/彼が優しく囁くとき/わたしはバラ色の人生を見る〉——、桃色だと違和感だったことからバラ色になったんだとか。けれども仕事に勉強にと追われる毎日を過ごすわたしたちは、毎日があっという間。ましてや〈 東京タラレバ娘 〉に震撼している女性たちからしたら、毎日がふわふわとバラ色に過ぎていかないことなんて、既知事項ではないかしら。魔法の代わりになるのは、鵜呑みにしない賢さこの名曲〈 La vie en rose 〉が奇しくもグラミー賞名誉賞を受賞した1998年に制作されたのが、映画〈 エヴァー・アフター(原題:Ever After)〉でした。"happily ever after." が由来であることから察しがつくように、原案はおとぎ話(シンデレラ)です。主役ダニエルを好演するのは、〈 E.T. 〉で天才子役の名を世界に轟かし、着実にキャリアを積んでいたドリュー・バリモア、当時22-3歳!(最新作〈 マイ・ベスト・フレンズ 〉も記憶に新しいですね。)この作品で注目すべきは、"シンデレラが実在した" という新しい切り口で描かれていること。それって、一見ものすごく可愛らしい響きだけれど、つまり、"ビビディ・バビディ・ブー!" を唱えてくれる魔法使いはいないからカボチャは馬車にならないし、歌いながらネズミはドレスを縫い上げてくれない。じゃあ、どうやって王子のハートを射止めたのかって?キーになったのは『ユートピア』でした。16世紀に英国人思想家のトマス・モアが出版した、現代に至るまでの名著ですね。亡くなったダニエルの父が残した形見の書籍として、彼女が後生大事に持っていた宝物でした。読書家だったダニエルは、この本で架空国家として登場する "ユートピア" と父との思い出と重ね合わせ、心の拠り所としていたのです。読書家だった彼女は、ひょんなことから王子様にこの一節を諳んじるほか、機転の利いた行動の数々で、魔法がなくても、彼のハートをつかんでいくのです。ラビアンローズへの一歩はユートピアと入れ替わりにかといっても、現実世界でバラ色の人生を歩もうたって、いま世界はトランプ大統領を起点にその一挙手一投足にあたふたするばかり。金色になったカーテンや傍若無人な大統領令の報道に、ビフ・タネンを彷彿とさせられるけれど、これは紛れもない現実のお話。その一方、自由を奪われ(かけて)いる人々の多くは声を上げ、その輪は大きくなってきているというのも現実のお話であることを忘れてはいけません。先日のウィメンズ・マーチへのエマ・ワトソンの参加は心強かったし、@Trump_Regretsや#Trumpretsからは後悔が先に立たないことをわたしたちは学んだはず。ところで、〈 エヴァー・アフター 〉で義理の姉は物語の終盤、ダニエルの『ユートピア』を燃え盛る暖炉の中へ投げ捨てます。唯一の形見が灰になった姿を見てダニエルは怒り心頭、その後継母らへの猛攻へでるのです。つまり、強烈なマイナス体験が、結果的な "happily ever after" へと向かうトリガーとなったのです。現実はもっと複雑怪奇だとしても、今のあなたがダニエルだとしたら、この瞬間からバラ色に染められるかはあなた次第だと思いませんか?そもそもバラ色とはマゼンダと赤の間にあるいくつかの色を指す言葉であり、カラーコードが指定された一色ではありません。ということで、ピアフの歌う「バラ色」に加えて、自戒も込めてこの言葉を。人生はバラ色。/願わくば情熱的な真紅の薔薇より/100色の薔薇の花束を抱えていたい(THE LADY / La vie en Rose)ROBEがこれまでもこれからも提案したいのは、ヒールが側溝にハマって転んでも、至らなさに辟易して泣き明かしても、それでもしなやかな強さを失わないレディたち。2017年のみなさんが、十人十色のラビアンローズを手にできますように! エヴァー・アフター (1998)監督:アンディ・テナントキャスト: ドリュー・バリモア、アンジェリカ・ヒューストン、ダグレイ・スコット、ジャンヌ・モロー ほかこんなときに観たい:自分の背中をちょびっと押したいとき参考:トマス・モア「ユートピア」(1957、岩波文庫 赤202-1)〈 洒脱なレディ論 〉では映画・音楽・本・舞台といった作品を通じて、様々なレディ像を紐解いていきます。目指すのは、混沌とした時代に軽妙洒脱なレディとして生きるための指南書です。 過去のアーカイヴはこちらText. Midori TokiokaIllustration. Sandra Jockus
2017年01月30日ひとり旅を続けて10年、約150カ国も訪れたという、旅ライター・旅写真家の黒水綾乃さん。一年の半分をひとり海外で過ごし、「ひとり旅はさみしいものではない」と明るく語った彼女ですが、実は既婚者。半年はひとり旅、もう半年は居住地である台湾で、旦那さんとふたり、夫婦生活を送っているそうですが、結婚しても「ひとり旅」をすることは可能なんでしょうか。決断した理由と、ひとりで、夫婦で過ごす秘訣を伺いました。結婚後の、半分ひとり半分ふたりの生活中央:黒水綾乃さん――ご結婚されてからも、半分ひとり旅、半分旦那さんと生活しているとのことですが、なぜ「ひとり旅」を選んだのか、またどんな工夫をしていますか?旦那はメーカーに勤める駐在員です。現在いる台湾は日本より少し休暇は多いですが、旦那と長期の旅に出るのはもちろん不可能。なので、年に二回ほど行きやすい欧米諸国などを一緒に旅行しています。「ひとりで旅なんて…」とよく言われますが、結婚前からこんな生活をしていたし、こんな私を受け入れてくれた人なので、ふつうの感覚ではないとは思いますよ(苦笑)。とはいえ、最初からそんな生活だったわけではないです。私にはひとり旅で世界一周をしたいという夢があったので、子どもを産む前に叶えたいと旦那に打診したんです。何度も話し合い、旦那は聞き入れてくれて、ついに実現しました。その後、数年間紆余曲折を経て、私たちは子どもを作らない選択をしました。お互い夢があって、それを実現させようと決めたからです。私の今の夢は、世界250ヶ国を訪ねて、それを一冊の本にまとめること。全世界訪問し、世界中の人に読んでもらいたいと思っています。その夢に近づくために、毎年10ヶ国以上を訪問して写真を撮る計画なので、半年はひとり旅をすることになりました。ただ、やっぱり旦那に会いたいし、彼もそう思ってくれているので、3ヶ月以上の長い旅はせず、一度は帰ってくる約束をしています。――お互いの夢を叶えるため、そして、納得した約束をしていて素敵だなと思いました。では、旦那さんと一緒にいるときは、どんな生活を送っているのですか?旦那の料理はまずいですが(苦笑)、お互い独身時代も長かったので、家事はなんでもできます。ふたりで過ごす半年間は、お互いの仕事以外はほとんど一緒に行動しています。平日は一緒にごはんを食べ、お笑いDVDを見たり、週末は台湾国内を食べ歩いたり散歩したり。ふたりでいる時に別行動というのはほとんどないです。なので、友人や親が日本から来ても、旦那を誘って一緒にでかけます。こうやって書くととても仲がいい夫婦みたいですが、、週に二度はケンカしてますし、昔は殴り合いのケンカもしていました(笑)。逆にひとり旅をしているときは、連絡は必要最低限に。ネットがない環境にいたり、時差が大きかったりするので、安否確認(?)としてスカイプにメッセージを残すくらいです。ネットが充実した環境にいるときは、お互いの近況を語ったりとゆっくり話していますこれらは”工夫”ということではなく、私たちにとって自然な流れ。これらでうまくバランスをとれているかどうか分かりませんが、おかげさまで結婚生活も早6年になりました。ひとり旅の最大のミッションを叶えるために――旦那さんと過ごす時間を、とても大切にされてると感じました。では「ひとり旅」を続けて、何か変化してことはありますか。リラックスして旅ができるようになったことでしょうか。若かりし頃は「こうせねばいけない」「こうあらねばならない」と自分で自分を縛り付けていたと思います。さらに年齢も経験を重ねたので、情報収集力や危険察知能力があがり、イヤな経験をすることも少なくなってきましたしね。ひとり旅での私の最大のミッションは、現地の人との触れ合うことです。若いときは話しかける勇気もなかったし怖がっていたけど、今は大阪のおばちゃんみたいに(笑)気軽に話しかけられるようになりましたよ。力まずに、現地の空気を楽しめるようになったのは大きいですね。その結果、旅の密度が濃くなりましたし、なかなか見れない、触れられない体験や楽しみが増えました。よくバックパッカーや旅人が、旅をすればするほど新鮮さがなくなって飽きてくると言いますが、私は全く思いません。つまらないと感じれば、より僻地に行き、違う経験をすればいいだけ。今より10年後のほうが旅を楽しめていると思いますし、私は歳をとることに一ミリも抵抗はないので、実年齢や旅の経験値をあげ、毎日を楽しくしたいと思っています。――最後に「ひとり旅」で気をつけたほうがいいことを教えてください。現地の方と知り合えたり、現地の文化に触れ合いやすいことは、ひとり旅でしか得られない経験です。私もそこに魅了されています。だからこそ、意識して気をつけてもらいたいのは、やはり女性のひとり旅は危険度が増す、ということ。私は人生で2回襲われそうになり、1回は強奪未遂を経験しました。もちろん私の不注意が原因ですが、襲われそうになったときは「女が一人」というのが多分に関係していると思いました。とにかく女のひとり旅は警戒が最重要です。でも、自分のルールをしっかり決めて、事前準備と注意を働かせ、警戒を怠らなければ防ぐことができます。また、現地の言葉や風習を予習して人に迷惑をかけないよう配慮することも、日頃から取り組んでいます。text /SOLO編集部特集「さみしさは敵か」の記事はこちら!・世界150カ国で言われた「ひとり旅ってさみしくない?」に私が出した答え/黒水綾乃さんインタビュー・美しいさみしさの奥にあるグロテスクな本音と向き合う/紫原明子
2017年01月30日ひとり旅をはじめて10年。今まで訪れた150カ国以上をブログに綴り、旅ライター・旅写真家として活躍している、黒水綾乃さん。現在は旦那さんとふたり、台湾で暮らしながら、一年の半分はひとりで旅をしているそう。彼女をかき立てる「ひとり旅」の魅力はなにか? そして、どこに行っても聞かれる「ひとり旅ってさみしくないの?」から、さみしさの正体について伺いました。旅は「誰かと行く」のが目的ではない撮影:黒水綾乃さん――では、「さみしい」という感情はどんなときに沸き起こるものだと思いますか?私は人と一緒にいるからこそ、「さみしい」という感情が沸き上がるんだと思います。上京したての20歳のころ、私は東京の三軒茶屋に住んでいて大失恋をしました。三茶のTSUTAYAにいるカップルがうらやましくて、余計に切なくなってたんですよね。もともとひとりの時間も好きで、「さみしい」という強烈な感情も持っていなかったのに、それまでずっと一緒にいた彼と会えなくなることが「私はこんな大東京でひとりなんだ…」と意識させ、猛烈にさみしくなったんだと思います。でも、どなたの格言だったか忘れてしまいましたが、「誰かと一緒にいる寂しさよりひとりの寂しさのほうが幸せ」という言葉に出会えて心が楽になりました。――あったものがない、傍にいた人がいないという「喪失感」「欠乏感」が「さみしさ」を引き起こすと、小池龍之介さんもおっしゃっていました。そうですね。さきほども答えたように、私はいつも人と別れた(分かれた)後にさみしくなります。旦那と一緒に旅をして、私だけそのまま続けるというときは、別れ際に多少さみしさを感じますから。まあ旦那とはすぐにまた会えるので、次の日にはその感情はなくなりますけどね(笑)。現地の人との別れ、旦那と別れたさみしさがこみ上げてきたら、次の目的地のことを考えて自分を奮い立たせます。どんな景色が待ち受けているんだろう、どんな文化に触れられるんだろうって。地図ばかり眺めて妄想するんですけど、かえって眠れないほどの興奮状態になりますよ(笑)。ハタチの頃のような猛烈な感情はもう戻ってこないですし、最近はさみしいという感情もかなり薄くなったので、ひとり焼き肉、ひとり居酒屋、ひとりご飯はもちろんのこと、ひとりディズニーも(アミューズメントパーク全体)ひとりワイキキも、ひとりヘタクソボーリング大会もなんだってできるようなりましたよ。<結婚後、ひとり旅を続ける意味…>特集「さみしさは敵か」もあわせてご覧ください!・“たまたまひとりでも大丈夫”と思えれば、世間の目なんて気にならない/月読寺・小池龍之介さん・美しいさみしさの奥にあるグロテスクな本音と向き合う
2017年01月16日「分かったような分かんないような」作品:つめをぬるひと好きな映画で、「みんな寂しいんだよ。だから『寂しい』って言うのなんて意味ない」というセリフがある。これは「周りも辛いんだからあなたも我慢しなさい」という押しつけではなくて、「さみしい」というごく当たり前の感情に振り回されるなんて、というニュアンスがある。そのセリフに対して相手は「分かったような分かんないような」と返す。さみしさに深入りしすぎて「どうして自分だけ」みたいになってしまうこと(「この世で自分が一番可哀想」が一番可哀想に見えない仕組み)や、逆に、何事もなかったように無理矢理スッキリ楽しいフリをすること(SNSでコメントしようがなく「とりあえずいいね」をさせてしまう現象)は、周囲の反応を困らせ、さらにさみしさを増長させているように見える。冒頭の映画のセリフは、そのどちらでもない。さみしさを肯定も否定もせず、ごく当たり前に誰もが持ってる感情として扱う。「どうせ帰れっつっても帰らないんでしょ」と、しばらくそのへんで好きにさせておけば、「さみしさ」は知らないうちに帰ってる。そういう付き合い方もある。そして、実際はそう、うまくいかないこともあるのが現実。たしかに、分かったような分かんないような。Design&Text/つめをぬるひと※連載「誰に見せるでもない爪」より、出張コラムです。特集「さみしさは敵か」もあわせてご覧ください!・美しいさみしさの奥にあるグロテスクな本音と向き合う・閉じこもってた3年…認められると人ってこんなに変われるんだ!/『さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ』作者・永田カビさん
2016年12月19日大学中退後、所属コミュニティがなくなった不安から鬱による自傷行為を繰り返し、摂食障害も患った永田カビさん。満たされない寂しさから、人肌を求めてレズビアン風俗に足を運ぶことになるまでの心情を描いた自叙伝的漫画『さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ』がネットで話題となり書籍化。誰の心にもある寂しさや、承認欲求との向き合い方が共感を呼び、あれよあれよと重版がかかる大ヒットとなりました。自己否定のループにあった永田さんが、漫画での成功をきっかけに変わったこととは? 寂しさの先にあった、今のお気持ちを伺いました。「若い芽を摘みたい…」ライバルに負けたくない覚悟永田カビさん――作品の中では、ご両親からの愛に飢える様子も描かれていますね。いわゆる「毒親」ではなくて、永田さんも、お母さんのことが大好き。でも、一緒にいるのが苦しいという。「毒親に悩む人にオススメ」というレビューがあったりするんですが、そのつもりで描いたわけではないんです。作中では「毒親」という言葉は使っていないし、母は世間でいう「毒親あるある」にも当てはまらないんです。母は連載(『一人交換日記』(ヒバナ/小学館))も読んでくれていて、「私はあんなのじゃない」って直接クレームも来るんですけど(笑)、あくまで私の主観で描いていて、当時はお母さんが怖く見えたんだよって。ただ、それだけですね。――作中で描かれているご両親は、攻撃的になるわけでもないですし、永田さんを全否定する感じでもないですよね。でも、一緒にいると何か休まらない部分があると。実家にいる時は、自分の部屋が超汚かったんです。それは、「母が見たら悲しむものを自分の部屋に隠しておく」という意味があったんです。それなのに、母はドカドカ遠慮なく入ってくるので「わざわざ見に来てどうするの!」って思ってました(笑)。一人暮らししてからは、母が来る前に、念入りに片付けるようにしています。「粗相がないうちに帰って欲しい」と思うくらいに気を遣うし、緊張するんですよね。母が帰ったあと、どっと疲れちゃうのは、いいように見せたいっていう表れかもしれません。―― 一人暮らしをして、ご両親への気持ちや関係は変わりましたか?実家から近いところに引っ越したんですけど、想定していたよりも、両親からの連絡があんまり来なかったんです。「連絡がないってことは、意外と私は親に信用されているのかな」と思えて嬉しかったですね。家事も「自分はできない」と思い込んでいたけれど、やってみるとちゃんと出来たんです。人から肯定してもらえることで、こんなに変われる――漫画の反応や、親元を離れての一人暮らしで自信がついたんですね。状況が大きく好転してから、永田さん自身にとって一番の変化は何でしたか?認めてもらえたことで、自分も着実に変わってきたと思います。まずは、人と会えるようになりましたね。今までは「私なんかに会っても楽しい時間が過ごせる訳がないから、相手の時間がもったいない。申し訳ない」という気持ちでした。3年くらい、ずっと人と会っていなかったんですけど、こちらから人を誘えるようになったのが一番大きな変化です。距離感が近い人に対しても、「そんなに受け入れてくれるの?…じゃあ(笑)」っていけるようにもなりました。今は無理のない範囲で、できるだけ人と会うようにしています。その代わり、「今日は無理」というのがわかったら、なるべく早く連絡するようにしてます。昔はバイト先にも友達にも、ドタキャンばかりしてしまっていたんです。直前で苦し紛れに嘘をついてしまったり。今は、そういうことはしなくなりましたね。自信がついてきたからこそ、気が乗らない約束も断れるようになりました。今までは上手くいかなかったフラストレーションがあったけど、認められたことで、変な遠慮がなくなったのかもしれません。――お写真は出せないのですが、今日の永田さんは口角がキュッと上がっていて、柔らかな笑顔が印象的です。お仕事が上手くいってから、お顔つきも変わったのでしょうか。昔からずっと暗いし、猫背だし、アルバイトの面接も落ちまくるし、初対面なのにいきなり「表情が暗い」って言われるくらいでした(笑)。人と会えるようになったのもそうだし、自分の身なりを整えることもそうなんですけど、「人から肯定してもらえることで、こんなに変われるんだ!」と、自分でも驚きですね。--------------------------------------自身の内面や葛藤を漫画にさらけ出すことで、世界がどんどん広がっていった永田さん。人から認めてもらえたことで、意識が外に向き、自分が心地良いと思うことを素直にできるようになったというお話が印象的でした。ただ寂しさをごまかすのではなく、そう感じる原因を分析して向き合うことで、解決の突破口になるということを、心に留めたいと思います。Text/小沢あや特集「さみしさは敵か」もあわせてご覧ください!・“たまたまひとりでも大丈夫”と思えれば、世間の目なんて気にならない/月読寺・小池龍之介さん・美しいさみしさの奥にあるグロテスクな本音と向き合う
2016年12月13日第3回:寂しさで賑わいを見せる「結婚期間を終えて『おひとりさま』になってから1年が経った」という読者投稿をいただいた。私は結婚をしたことはないが、今年の夏頃まで1年半ほど「おひとりさま」の時期があった。その最初のクリスマス。仕事を終えた私は、帰りに駅前のコンビニに寄った。そこにあった小さめのクリスマスケーキを見て、素直に美味しそうだと思った。昨今のコンビニスイーツはどれも目を引くものが多く、侮れない。尚かつ、クリスマス。つい気分が上がり、ケーキ買おう! ついでにチキンも! と、後先考えずにクリスマスの定番品を買って帰宅。しかし、わくわくしたのも束の間。私はそれらを食しながら気付いてしまった。あ、分かった! これ寂しい! やってしまった! あーすごいすごい! 寂しい!こうハッキリ寂しいと分かると、可笑しく思えてくるもので、「寂しい」という感情が部屋の装飾になったような、滑稽な気持ちになった。そこから学んだことは、寂しい時は寂しいとハッキリ認めてしまうことだ。その1年はいろんなことをやらかしたが、無かったことにするべきではない。というよりも、自分の中ではどうやったって無かったことにはならない。周囲に声を荒げて言う必要もないが、認めるということを忘れてはいけない。素直にケーキを買っちゃう自分のことも、寂しいと認めた上で労ってあげるのが大事で(ここが大事。寂しくない、平気だ、と自分に嘘をついたんじゃ不健康極まりない)、そんな自分に最適なご褒美をあげられるのもまた、自分だ。もうすぐクリスマス。なんでもない普通の日として過ごすのも良いが、自分にご褒美をあげる日として過ごすのも良いのではないか。この連載では、爪作家である私が、読者のみなさんが「どんなおひとりさまか?」をヒントに爪をつくります。あなたのエピソードを添えて、送ってください。Design&Text/つめをぬるひと
2016年12月12日障がい者と結婚した人に「偉いね」と言ってしまったあのとき2016年4月から、障がい者差別解消法が施行されました。人の個性に応じて、できる範囲で助けてあげましょうねという法律です。最近はパラリンピックも注目されつつあり、テレビで放送されるようになりました。今までは障がい者と縁がなかった人でも、これからはどんどん身の回りに接する機会が増えていくでしょう。不慣れなものには、不慣れな対応をしてしまうもの。私もいくつか経験があります。もう10年くらい前だったと思いますが、知り合いの女性が、車いすの男性と結婚をすると聞いたときのことです。思わず「偉いね」と言ってしまったのです。直後に、「あれ、思っていることと違うことを言った」と思いました。「車いすの男性とわざわざ付き合うなんて、あなたはいい人ね」と言いたかったのではないのですが、彼女にはそう聞こえたかもしれません。今、Co-Co Life☆女子部という障がい女子のためのフリーペーパーの制作に関わっていることもあり、車いす女子と一緒に出歩くことも普通になりました。まあそれで感じるのは、靴で歩くか車いすで歩くかは大した違いではなく、単に一緒にいて楽しければまた遊びに行く、というだけの話です。あのとき私が言いたかったのは、心のバリアを取り払って一人の男性として車いすの彼を選んだその女性はステキだな、ということだったんですよね。『パーフェクトワールド』(有賀リエ/講談社 KC KISS)既刊3巻『パーフェクトワールド』は、高校時代に好きだった男性と同窓会で再会したら、彼は歩くことができず、車いすの人になっていた、というストーリーです。絵柄はカワイイのですが、ネタはシビアです。ラストで、彼が迫ってくる牛が怖くて思わず立ち上がって歩けるようになりました、みたいことは(たぶん)ないでしょう。「私があなたの足になるわ!」ジャジャーンでハッピーエンド、ということでもないでしょう。少女マンガは社会の問題や来るべき未来を先取りするストーリー中、「幻肢痛」といって、動かなかったり切断してしまった足が痛むことや、排泄などの健康上の問題を次々とぶつけられます。とはいうものの、テレビでよく見かけるような、「車いすの生活は大変だけど頑張っているんです!」みたいなお涙頂戴の障がい者ポルノでもありません。障がいを客観的に見つめ、そこで起こる問題をどう解決していくのか、主人公は努力をしていきます。きれい事だけでは済まない、障がい者との恋愛について真摯に受け止め考える姿勢には、とても好感が持てます。これからますます社会のバリアフリー化が進んで、障がいがあるとかないとかの境界線がなくなっていくでしょう。和久井が少女マンガって素晴らしいと思うのは、こうした社会の問題や来るべき未来を先取りする作品がとても多いことです。障がいを持つ人と関わる機会が増えれば、当然、恋愛や結婚という問題も身近になっていくでしょう。「障がい」と一口に言ってもさまざまで、車いすひとつとってもたくさんの種類があります。「車いすの人はこうだ」と決めつけてしまうことはできませんが、ひとつの例として、そして自分が恋愛に求めるものや条件を考えるのに、参考になるかもしれません。ちなみに和久井は、車いすの男性はけっこう好みです。付き合ったらどうかというのは、経験がないからわからないけど。Text/和久井香菜子
2016年12月06日『さみしさサヨナラ会議』(宮崎哲弥と共著)という著書もある月読寺住職の小池龍之介さん。前回、“さみしい”という感情は脳内物質による錯覚が引き起こすもので、人間関係では満たすことができないと伺いました。後編となる今回は、そんな“さみしさ”とうまく付き合う具体的な方法や、「“おひとりさま”はかわいそう」という世間の偏見に負けないための心得を教わりました。さみしさを埋めようとすると“心の借金”が増えていくだけ――そもそも“さみしい”と感じてしまうのは、悪いことなのでしょうか?何を良い/悪いとするかにもよりますが、仏法的な観点からすると、苦しみが増えるのはよくないこと、苦しみが減るのは好ましいこと、とします。ですから、さみしいと感じると苦しみは増えるので、悪いことだと言えそうですね。ところが、これにはカラクリがあって、多くの人は自分のしていることが“悪いこと”だとわかると、自己嫌悪や罪悪感が湧いてきて、苦しみが増えてしまうんです。だから、「さみしくなっている自分はダメだ」と自分を責めたり、抜け出そうともがくことで、余計に苦しみが増えてしまっては本末転倒です。――では、どう対処すればいいのでしょうか?さみしさは、抜け出そうとするとうまくいかないんです。たとえば、さみしいと感じているとき、私たちは「さみしさの部屋」にいるとしましょう。そこで、“さみしさポイント”10Pを受け取ります。でも、その部屋の中にとどまってじっとしていれば、さみしさはやがて消えてなくなり、10Pは返済できるんですよ。ところが、となりに「友達に電話する部屋」があると、多くの人はつい安易に移動して「さみしさの部屋」を抜け出そうとします。でも、そうすると10Pは返済されずに借金として残る。しかも、電話が終わるとまたさみしくなって10Pが発生してしまい、さみしさの総量が増えてしまうんです。――さみしさを埋めるために、別のことをしてはいけないということですか?さみしさを何か別の手段で紛らわそうとする行為はすべて、「さみしさの部屋」から別の部屋へ移動しただけです。つまり、“さみしさポイント”という借金を返済するために、別のところから借金をしている状態なんです。特に、電話やメール、SNSといった人とのつながりや恋愛など、人間関係で孤独を紛らわそうとするのはおすすめしません。自分の欠損を満たしてくれる相手を求めると、特別扱いしてもらおうと傲慢な態度を取ったり、過剰に卑屈になって相手に従属しようとしたりと、ろくでもない行動を引き起こしてしまいます。だから、さみしいときは人に会うべきではないし、新しい出会いも求めてはいけないんです。さみしさも怒りも、必ず消えていくもの――では、具体的にはどうすればいいんですか?何もしないことが大事です。まず、さみしさを感じている自分を、「かわいそうだ」とか「ダメな人間だ」などと一切“評価”しないでください。さみしい自分を、ただ“認めて、受け入れる”だけでいいんです。ざわざわ、もやもやするような、なんらかの身体感覚に意識を向けて、さみしさに寄り添うイメージを持ってください。――さみしさに寄り添うとは…?心の中で、自分自身に声をかけてあげましょう。「さみしいんだね、わかるよ、大丈夫だよ」とか、「じっと待っていればそのうち消えるからね」とか、小さい子どもをなだめるような感じです。他のことで紛らわすのではなく、さみしさのエネルギーそのものと一緒にいてあげて、消えてなくなるまで待つようにしてください。――では、寝て忘れちゃうというのもアリですか?それも「寝て忘れる部屋」という別の部屋に移動して、借金を増やすことと同じになってしまいます。もし、起きていると何かしたくなってしまうなら、楽な状態でゴロゴロと寝転がって天井の木目を数えたり、公園で空を眺めたりして、さみしさが収まるのを静かに待ってあげましょう。意識のある状態で、さみしさが減っていくのを体感しきることが大事なんです。――なぜ、“さみしさポイント”の借金は増えてしまうのでしょうか?前回お話しした通り、“ドーパミン中毒”が原因です。さみしさを別の手段で満たすということは、刺激が入力されることでドーパミンが発生し、脳が快楽を得るということです。ところが、次はもっと強い刺激や快感でないと物足りなくなるため、どんどん耐性ができてしまいます。昔は手紙や電話くらいしか手段がなかったので刺激自体も弱かったし、ドーパミンが切れても、次の刺激を受け取るまでにそれなりの時間がかかりました。そのため、そこまで重いドーパミン中毒にはならずに済んでいたんです。ところが現代のSNSは、刺激が入力される頻度や速度、その強度もケタ違いに大きいですよね。不特定多数の人から一度に注目され、圧倒的な承認を得られますが、私たちの脳には刺激が強すぎるんですよ。一度に受け取るドーパミンが多すぎてすぐに飽和してしまい、耐性がついてどんどんさみしくなっていく。借金がものすごいスピードで増えていくということです。――でも、“さみしさ”には終わりがくる、とは思っていませんでした。この方法はさみしさに限らず、“怒り”に対しても有効です。「物に当たる部屋」や「怒鳴りちらす部屋」、「怒りを我慢する部屋」に移動してしまうと、“怒りポイント”は返済されないまま借金としてどんどん溜まっていきます。だから、必ず「怒りの部屋」にとどまって、「そうか、イライラしてるんだね、大変だね」と怒りの感情に寄り添ってあげれば、怒りポイントのゲージは減っていき、そのエネルギーも自然と収まっていきます。安心感が諸行無常であるように、さみしさも怒りもすべては無常で、必ず消えていってしまいますから。“たまたまひとりでも大丈夫”と思えばいい――無理して恋愛や結婚をしなくていい、と思っている人でも、周囲からの「ひとりなんてさみしい人だ」という価値観にさらされて、考えがグラついてしまうこともあると思うのですが…。いまや、ひとりで生きていくこともひとつのスタンダードですから、以前と比べれば「ひとりなんてかわいそう」という視線の圧力はだいぶ弱まっているとは思います。むしろ、圧力をかけてくる人たちに「他人の愛情に頼って依存する価値観でしか生きられないのね」と心の中で見返してやることもできるでしょう。ただ、味方や仲間がいるとか、“おひとりさま”というグループに所属していることに安心している、という意味では、孤独やさみしさを受け入れているとは言えないでしょうね。――でも、周りの目がどうしても気になります。それは、幼い頃に親の視線を自分の中に内面化するクセがついているからです。子どもは、親に同調することで愛情や承認を得て、庇護やお世話をしてもらう戦略を取ってきました。そのせいで大人になってからも、相手や世間の規範を内面化しないと、見捨てられ見放されてしまうんじゃないか、という恐怖が残っているんです。――自分の身を守るために、周りに同調してしまうんですね。そういった心の仕組みをわかっていれば、「ひとりってさみしくない?」と言われて心がグラついてしまいそうなときに、「ああ、私は今、この人に嫌われたくないという“さみしさ”を抱えているんだな」と自己分析できるようになるのではないでしょうか。まあ、こうなるとほとんど修行の域ですけどね。ただ、“おひとりさま”として生きていこうとしている人が、他人から言われて不安になってしまうようでしたら、その人はたぶん強がりで“おひとりさま”を選んでいる可能性があると思うんです。前の恋愛で痛い目を見たからもう嫌だとか、どうせ他の男もそうに違いないとか、何かしらの強い感情によって孤独を抑え込んでいるのだとすれば、あまりよくない状態だと思います。それは、「強がってやせ我慢する部屋」に移動しているだけですから。――心から“おひとりさま”であることを受け入れていないと、それも借金を増やしていることになるわけですね。私たち人間は、そもそも生まれたときから孤独でさみしい存在なんです。恋愛相手であれ、自分の親であれ子どもであれ、ある特定の人間関係に自分のさみしさを預けて解消してもらおうとすると、必ず痛い目に遭います。まずは「さみしいから」という理由で人とつながるのをやめてみましょう。「さみしい自分はかわいそう」などと評価せず、さみしいという感情にただじっと寄り添い、受け入れることができるようになると、ちょっと大袈裟な言い方ですが、人生が変わります。つまり、人間関係に過剰な期待をしなくなって、精神が自立した状態になります。――かなり強い心が必要になりそうですね。だからといって、一生ひとりぼっちになるわけではありません。むしろそういう状態のときに出会い、関わる人とのほうが、強烈に求め合うような刺激はない代わりに、ほどほどに満たされた、安定した人間関係を築けるようになるでしょう。さみしさとうまく付き合って自立できるようになれば、わざわざ「自分はこの先ずっとひとりで生きていく」と頑なに決めなくてもいいんです。“たまたまひとりでも大丈夫”なだけであって、運良くいい人が現れたら好きになればいいし、結婚してもいい。いなければ、それはそれで「ひとりでもいいや」と思える。そういう精神状態を保っていられるなら、相手がいてもいなくても、どちらでもハッピーなのですよ。Text/福田フクスケ■プロフィール小池龍之介(こいけ・りゅうのすけ)1978年生まれ、山口県出身。東京大学教養学部卒。2003年、ウェブサイト「家出空間」を立ち上げる。同年、寺院とカフェの機能を兼ね備えた「iede cafe」を展開(〜2007年まで)。現在は、鎌倉にある月読寺の住職として、宗派仏教を超えた立場で自身の修行と一般向けの座禅・瞑想指導を続けている。『考えない練習』(小学館文庫)、『超訳 ブッダの言葉』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)、『しない生活 煩悩を静める108のお稽古』(幻冬舎新書)など著書多数。特集「さみしさは敵か」もあわせてご覧ください!・さみしさは“人とのつながり”では満たされない/月読寺・小池龍之介さん(前編)・美しいさみしさの奥にあるグロテスクな本音と向き合う
2016年12月05日寂しくなくなったのは一人になったからby Flash Bros矛盾しているように聞こえるかもしれないけど、3年前に離婚してからというもの、全然寂しさを感じなくなった。それは別に、寂しさの回路がショートした、みたいな絶望的な理由ではなくて、本当に、離婚したら寂しくなくなったのだ。だって、結婚していたときなんて、一年のうちの4分の3くらいは寂しかった。一つ屋根の下に住んでいるはずの家族が、なぜだかほとんど家にいないのだから。初めのうちは私も遅くまで起きて、夫の帰りを健気に待ったりもしていた。代わり映えしないSNSのタイムラインを延々とリロードし続けたり、漫画アプリに課金し続けたり、だらだらと時間をやり過ごす合間に「まだ帰ってこないの?」なんてメールを送ってみる。一向に返事がないことにイラっとして、今度は少し悲しい口調でメールを送ってみる。それでもやっぱり返事がないので、今度はちょっと、むっとした感じでメールする。一人、寂しさを持て余す時間に、家のリビングから繰り出すあの手この手は、自分では全て正当性のあるものだったけど、客観的に見れば情緒不安定な、“触るなキケン”な人だっただろう。そのうち、珍しく夫が家にいるときだって、いないときと全く何も変わらずさみしい、ということに気がついた。家にいないからさみしいと思っていたのに、一緒にいたってさみしいのだ。結婚生活の終盤には、とにかくそんな粘着質なさみしさが、一度手に付いた納豆の糸みたいに、何をやっても、どこにいっても、しつこくまとわりついてきた。そんな期間が結構長く続いたので、たかだか離婚ごときでは逃げきれないと腹をくくっていたけれど、意に反して、あのときほどのさみしさには、離婚してから一切お目にかかることがなくなったのだ。このことを考えてみると、少なくとも私にとってのさみしさとは、本来埋まっているべき隣の席が埋まっていないこと、ぽっかりと空いていること。そのことへの、耐え難い空虚さなのだった。離婚して、一人になることを選んだ今の私の隣には、そもそも誰かのための椅子なんてない。だからもう、あのときのように空虚にならない、さみしくないのだ。「さみしい」という便利な言葉の奥にあるものつい先日、友人がこんなことを言っていた。「僕は“かわいい”という言葉を極力使わないようにしてる。行き場のない軽い性的な興奮を“かわいい”というと、それ以外に表現できなくなるから」これには唸らされた。猫も赤ちゃんも老人も、総じて「かわいい」存在は「かわいい」。そしてこの「かわいい」という言葉があまりにも便利過ぎるので、その奥にあるべき自分にとっての意味を、個別に定義することを怠けてしまっている。そんな真実は確かにある。これと同じことが「さみしい」にも言える。何しろ社会にはいまだに、成人はツガイになってしかるべき、といった考え方がしぶとく残っている。恋愛したり、結婚したり、子供を生んだりするのが当然という無言の圧力もある。そんな中、おひとりさまであることはそれだけで、何かが不足している、不完全な自分を作る動機になる。そしてあらゆる物足りなさは、大体「さみしい」で表現できてしまうのだ。だけどざっくりと「さみしい」と表現したその気持ちの正体は、本当は「人肌恋しい、セックスしたい」なのかもしれない。あるいは「毎日が退屈でつまらない」かもしれない。恋人がいたり、結婚したりしている女性と自分を比べて、つい本来不要な劣等意識を持ってしまっているのかもしれない。幸せそうなあの子への嫉妬かもしれない。もしくは、案外仕事のストレスが思わぬ形で影を落としているだけかもしれない。本音って大体グロテスクで、エゴイスティックで、自分ですら向き合うのを避けたくなるようなものだ。だけど、一度わかってしまえば、案外、なんだ、そんなことだったのか、と理性や論理で片が付くことはよくある。もし生理前でもないのにただ無性にさみしいと感じるとき。本当は、その言葉のもっと奥にある何かが、“ここをケアしてほしい”と、しきりにSOSのサインを出している。一見綺麗なベールの内側にある本音と覚悟を持って向き合うことで、そのときの自分に必要なものが、見えてくるのだろうと思うのだ。Text/柴原明子特集「さみしさは敵か」もあわせてご覧ください!・さみしさは“人とのつながり”では満たされない/小池龍之介さんインタビュー
2016年12月01日「隙がないからモテない」女性へby picjumbo.com世間でモテないと自認している女性で、「隙がないっていわれるんです」っていう人、いますよね。SOLOを読んでくれているような、一人で自立した生活を送っている女性にも、こういう人は多いかもしれません。かくいう私も、隙があるかないかでいえば、圧倒的に隙がないタイプ。小学生のときに親友から「性格がドライだ」と言われたのを皮切りに、笑顔が少ないとか、表情の変化が乏しいとか、冷静だとか、愛想がないだとか、今までも散々言われてまいりました。そんな私が「魅力的な隙の作り方」という大見得を切ったタイトルの文章を今回書こうとしているわけですが、これは私が思う「魅力的な隙の作り方」をみなさんにレクチャーしよう、という主旨のものではありません。一種の思考実験として、「隙がない」といわれてしまう女性が、隙がある女性になるためにはどうすればいいのかを、一緒に考えてみようという試みです。そしてこの思考実験は、「隙がない→作る」以外の様々なシーンでも、応用が可能だと私は考えています。「隙を作ったほうがいい」という助言はほとんど無効まず大前提として、自分が「隙がない」タイプか、「ある」タイプか、どちらなのかを自覚しておくことは大切です。自分だけでは気付きにくい点を指摘してくれる人、またその助言は受け入れるべきだし、この時点までは有効でしょう。だけどその先、「あなたには隙がない。だから隙を作りなさい」という助言は、隙がない私たちにとってほとんど無効なんじゃないかと思います。なぜか。野球の野村克也監督の言葉で、「『ボール球を打つな』という指導はダメ。かえって注意がボール球に行ってしまうから。そういうときは『ストライクを打て』と言わなければ」というものがあります。これは野球の世界ではけっこう有名な教訓みたいなのですが、人間の脳はネガティブな刺激に対してとても敏感です。「(打ち損じが多いとされる)ボール球を打つな」と指導されると、人間の注意はとにかくボール球を避けることに向いてしまい、打てるはずの球も打てなくなってしまう。体が動かなくなって、攻めではなく現状維持の守りの姿勢に入ってしまうのです。これと同じ原理で、「隙を作りなさい」と助言を受けた女性は、自分のネガティブな要素である「隙のなさ」に意識が向いてしまい、余計に肩の力が入ってしまう。これが私の仮説です。仮説というか、実体験ですけどね。「隙がない」人間というのは、いない!ではどうすればいいのか。「隙がない女性」が考えるべきは、「ボール球を打たない」ことではなく、「ストライクを打つ」ことです。つまり、ないものを創造しようとすると「ない」ことに意識が向いてしまうので、「もともとあるものを効果的に出す」という方向に考え方を切り替えればいいのです。私見ですが、本当にまったく一分の隙もない人間、というのはいません。みんなそれぞれ、隙、それも魅力的な隙がある。これが大前提です。あとはその隙がどこにあるのか、本人が自覚すればいい。たいていは、自分が好きなものの話をしているとき、楽しいと思う瞬間に立ち会っているとき、こういうときに人は隙だらけになります。あとは逆に、何かに対してものすごく妬みを持っていて、その嫉妬を素直に表明しているときとか。ようは、感情が強く出ているシーンですね。繰り返しますが、「ないものを創造しなければ」と考えると肩に力が入って悲しくなってしまうので、「もともとあるものを拡大する」と考えたほうが、自分もまわりも幸せなのではないかと思います。そしてこれは、「隙がない」といわれ悩んでいる女性以外にも、私が広く伝えていきたい考え方です。今の社会は、広告にしろ漫画にしろSNSにしろ、「ボール球を打つな」という助言が溢れかえっているように思います。だけど、一度問題が自覚できたらいつまでも「ボール球の見極め」をやっている必要はありません。ストライクを打ちに行かなければ。読書の秋……というにはもう随分寒くなってきてしまいましたが、私が秋の夜長に考えていたのは、そんなことです。みなさんはこの命題、どう考えますか?Text/ チェコ好き
2016年11月04日『悩みごとの9割は捨てられる』(植西聰著、あさ出版)の著者は、資生堂勤務を経て独立し、現在は人生論の研究に従事しているという、少し変わったキャリアの持ち主。「成心学」という独自の理論を確立し、“人々が明るく元気になる”著述活動を続けているのだそうです。人には、自分で自分を慌ただしい気持ちにさせるところがあるもの。しかし人生は、いくら慌てたところでどうなるものでもありません。どんなに悩んでみたところで、事態が大きく改善するわけでもないわけです。むしろ楽天的に、のんきに生きていくほうが賢く、人生はより豊かになる。それが著者の根本的なメッセージです。そして本書では「楽天的になる」という趣旨のもと、「自分を悩ませていることの9割は取るに足らないことであり、捨て去ってよいものである」と気づくためのヒントを紹介しているわけです。数字に関する大切なテーマ、すなわち「お金」に関する考え方を引き出してみましょう。■お金は精神的なゆとりを持つことが大切「金はよい召使いでもあるが、悪い主人でもある」ここで紹介されているのは、アメリカの政治家であり、科学者でもあったベンジャミン・フランクリンの言葉。お金は、いい使い方をすれば、生活を便利で楽しいものにしてくれます。そして、より充実した生活に役立ちもするでしょう。しかしその一方で、「もっとお金がほしい。もっと金儲けをしたい」と、金の亡者になってしまうこともあります。そうなると、結果的にはお金のためにこき使われ、お金に振り回され、お金のために悩まされることになってしまうもの。まさにお金という「悪い主人」に仕えるようなものなので、それでは本当に意味で幸せな暮らしとはいえないというわけです。お金に対して、心にゆとりがあるときは、お金を「よき召し使い」として上手に扱っていくことが可能。ところが、お金儲けのことしか頭になくなり、精神的なゆとりがなくなっていくと、お金は「悪い主人」になるということ。そして、大切なことは、必ずしも金銭的なゆとりを持つことではないと著者はいいます。いってみれば、お金について「精神的なゆとり」を持つことが大切だということ。■お金がなくても贅沢な時間は楽しめる!お金がなければ、贅沢な食事はできませんし、豪邸に住むことも不可能。高級な衣類を見にまとうこともできないでしょう。しかし、そういう意味での贅沢な生活はできなくても、「贅沢な時間」を楽しむことはできると著者はいいます。「贅沢な時間」を楽しむためには、必ずしもお金が必要なわけではないということ。むしろ、お金儲けに無我夢中になっていると、「贅沢な時間」を持てなくなる場合も出てくるもの。なぜなら、朝から晩までお金儲けのために働かなければならなくなるからです。「贅沢な時間」を楽しむために必要なのは、自分が自由に使える時間、気楽に過ごせる時間を持つことだといいます。そして「贅沢な時間」を持つために大切なことは、自分なりの工夫と情熱だと著者は考えているのだそうです。もしお金がなかったとしても、自分なりの工夫と情熱によって、真の「贅沢な時間」をたくさん持つことができるということ。そして、そんな時間が人生を豊かにしてくれるというわけです。■勇気と想像力で素晴らしい人生にできるここで引用されているのは、喜劇王チャールズ・チャップリンの次の言葉。「人生を素晴らしいものにするために必要なものは、勇気と想像力、そしてほんの少しのお金だ」まず「勇気」は、「チャレンジ精神」といいかえてもいいだろうと著者は記しています。「自分にはなにができるだろう。どんなおもしろいことが達成できるだろう。自分には、どんな秘められた才能があるのだろう」とワクワクしながら自分の可能性を見つけ、人生を切り開いていこうとするチャレンジ精神。仕事においても、またプライベートでも、旺盛なチャレンジ精神を持ちことで、より充実した人生を実現できるという考え方です。そして「想像力」とは、自分の将来、つまり、これからの人生をよりよいものとして創造する力のこと。将来を悲観するのではなく、「自分にはこの先、大きな喜びが待っているはずだ」と信じ、喜ばしい人生を具体的にイメージする力。素晴らしい人生にするためには、この2つの力さえあれば、それほど多くのお金は必要ないとチャップリンは主張しているわけです。つまり私たちも、お金の欲に振り回されることなく、自分なりの勇気と想像力に満ちた人生を追い求めていけばいいということです。*収録されているのは、実に84種ものメッセージ。しかもひとつひとつがコンパクトにまとめられているため、空いた時間を利用して楽に読み進めることができるはずです。精神的に追い詰められていたり、漠然とした不安感から抜けきれない人は、本書のなかから答えを探し出してみるのもいいかもしれません。(文/作家、書評家・印南敦史) 【参考】※植西聰(2016)『悩みごとの9割は捨てられる』あさ出版
2016年07月10日(c)zoetnet全長13メートルのタイガー・シャーク、巨大なサメが大きな水槽に入れられ、ホルマリン漬けにされている。これまた巨大なガラスケースの内部に牛の頭部が入っており、それに蛆虫から孵った大量のハエがたかっている──などなど、「死」を連想させるグロテスクな作風で知られ、存命中の美術家としては最高額で作品が取引されるともいわれている、デミアン・ハースト。美術館で作品を目にする機会はあっても、そんな人の作品を実際に購入して家に飾って置いておく、なんてことは普通あまり考えません。……考えないのですが、実は数ヶ月前、都内ギャラリーでこのデミアン・ハーストの版画展がやっていたんですよね。作品自体は版画なので、ハーストの代表作にあるようなグロテスクさはほとんどなかったのですが、それでも、あのデミアン・ハーストの作品です。版画たちに付けられていた値段は、1枚だいたい40~60万円ほど。40~60万円といったら、もちろん気軽にポンと出せる金額ではないですけど、まったくもって手が届かないわけでもないじゃないですか。デミアン・ハーストの作品って、買えるんだ!? と思ったのが、私にとっては静かな衝撃だったのです。後悔しない買いもの、3つのコツ女性も30代が近くなると、不動産であったり車であったり、あるいは時計であったりブランドバッグであったりと、大きな買いものを経験する人も増えてくると思います。一方、幸か不幸か私はこれまでの人生で、まだ大きな買いものをする機会には恵まれていません。しかし、そんな私がいつかしてみたいと夢見ている大きな買いものが、現代アート。一部の専門雑誌以外では特集されることもあまりなく、まだまだ一部の人の趣味に留まっているアートの購入ですが、私はこの趣味がもっと一般に普及したらいいのにと思っています。その理由はというと、現代アートは多くの場合、世界にたったひとつの一点モノか、写真などでも数点しかこの世に存在しないからです。どういうことか。もちろん私もまだまだ経験値不足ではありますが、最近なんとなくわかってきたこととしては、後悔しない買い物のコツは3つあります。1つは、「たくさんの人の声を参考にする」こと。昨今はどんな製品でも、ネットで簡単に口コミを調べることができます。もちろん、口コミやレビューに頼りすぎるのはどうなんだと考えもするんですが、たくさんの人が「いい」といっている商品は、やはり「いい」確率が高いのは否定できません。2つは、「自分と価値観の似ている人の声を参考にする」こと。作家やブロガー、友人知人、上司に親戚などだれでもいいのですが、自分と考え方が似ているだれかが買った商品を参考にすると、これもけっこう当たります。私は最近、「お金の使い方とモノの買い方で、人生観というやつがわかってしまう……」で紹介した山内マリコさんのエッセイ 『買いものとわたし~お伊勢丹より愛をこめて~』に載っていた、レインファブズというメーカーのゴム製のスニーカーを買いました。そしたらこれが、歩きやすいし、デザインもいいし、ゴム製だから梅雨も気にせず外出できるしで、大当たりだったのです。いい買い物をした!そして最後、3つめが、「自分の思考力と直感力を使うこと」です。そしてこれがいちばん難しい。一億総レビュー社会も現代アートの前では用をなさずレビューや他の人の情報に頼りにすると、確かに買いものにおける失敗は少なくなります。だけどそのぶん「自分で考えて買う」力は衰えていってしまう。しかしその点、現代アートの購入は、そもそも一点モノか数点モノですから、「他の人の声を聞く」という手が封じられています。「たくさんの人の声」も、「価値観が似ている人の声」も、モノが一つしかないのだから参考にならない。となると、これはもう自分でとことん考えて判断するしかないのです。前述した山内マリコさんのエッセイには、この「現代アートを買った話」も実は登場します。「買う(かも)」という目線でギャラリーや美術館、あるいは街中へ出ると視点が変わるし、もっといろいろなことを調べたいという気にもなってきます。現代アートの購入は、思考力と直感力を使うから、いつか来るそのときに備えて、それらを鍛えるようにと頭が動くんですね。アートの購入、実際やるかどうかは別にして、候補としてだけでも頭に入れておくと、モノに対する新たな価値観が獲得できるかもしれませんよ。Text/ チェコ好き
2016年07月07日(c)vl8189みなさんは、「ゾンダーコマンド」って言葉を聞いたことはありますか? この言葉は、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所で、ユダヤ人である同胞をガス室に送る任務に就いていた、特殊部隊の人たちのことを指すのだそうです。ゾンダーコマンドはほかの囚人たちとは引き離された状態で数ヶ月働いたあと、最終的にはナチスによって、抹殺される運命にあります。アナタまた今回は、いやに重い話を……とお思いになるかもしれませんが、この「ゾンダーコマンド」を主人公にした映画がありまして、タイトルは『サウルの息子』。2015年に、カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞した作品です。全国で公開している映画なので、もしこれを読んで気になった方がいたら、お近くの映画館を探してみてください。強制収容所の「リアル」に迫る?さてこの作品、少々特殊な構成で作られています。物語のあらすじとしては、ゾンダーコマンドである主人公・サウルがガス室で出会った彼の息子らしき少年の遺体を、ユダヤ教の教義にのっとった正式な方法で弔おうと奮闘する、というものです。なのでてっきり、サウルを中心に描くユダヤ人の悲劇……みたいな話なのかと思いきや、そういうわけでもありません。この映画のいちばんの特徴は、なんといってもカメラワーク。カメラは基本的にサウルの背中を映し出し、見えるのは彼の頭や肩、そしてその前方にあるぼやけた強制収容所内の映像です。ガス室から出てきた裸の遺体が、ただモノのように積み上げられていく光景はなんともおぞましいですが、はっきりと映るわけではないので、映像的にはそれほどショッキングでもありません。強制収容所の凄惨な光景を、申し訳程度にあるストーリーと一緒に延々と映し出していくというのがこの作品なのですが、監督のネメシュ・ラースローは、これが長編デビュー作だそうです。おそらくラースローの狙いは、「ユダヤ人が遭遇した強制収容所の悲劇」というわかりやすい物語を観客に提示することではありません。強制収容所内の映像をただ流すことで、「ここに映っているものはいったいなんなのか?」「サウルという男はいったいどんな人間だったのか?」と、そういったことを観客自身の頭で考えさせたかったのではないかと、私は思ったんですよね。もっともっと、多様な視点を獲得しようまあ、というわけでテーマは重いのに物語性が弱く、盛り上がる場面もなく平坦でという、なかなか楽しみづらい作品ではあります。だけど、この映画から私たちが得ることができる教訓も、もちろんあります。それは、一方的に提示されるわかりやすい物語を信じなくても良い、ということです。戦争映画というと、どうしても重苦しい悲劇を連想してしまいますが、実際はどうだったのか。たとえば、これとは別に『厳重に監視された列車』という、ナチス占領下のチェコを描いた戦争映画があるんですけど、この作品の主人公である青年の最大の悩みは、自分が童貞であること! です。おまけに映画に出てくる駅員は、勤務中におしりにスタンプを押したりしながら呑気に遊んでいたりするので、ちょっと「悲劇」ってかんじの映画じゃありません。そして、今回紹介した映画に登場するサウルは、強制収容所を扱った戦争映画の主人公としては、おそらくちょっと異例の存在です。彼は英雄ではないし、それほど賢くも、特別心優しくもない。これを観ることによって、従来の、いわゆる戦争の映画とは、少々異なる体験ができるはずです。それらしき言葉で語られる真実らしきもの、というのは世の中に無数にあります。仕事はこういう姿勢で臨むべきとか、女性はこうしたほうが幸せになれる、とか。とはいえ、みなさんだって、それを頭ごなしに信じて悩んでいるわけではないでしょう。親の世代と我々はちがうし、そんなものなくても幸せになれるということもわかっている。だけど、わかってはいるけれど時々心が揺らぎそうになる。そんなときに自分を助けてくれるのは、多様性に富んだ視点です。仕事に悩んだから仕事の本を、恋愛に悩んだから恋愛の映画を、というのも悪くはないですが、たまにはこんな一風変わった強制収容所の映画を観てみる、というのもなかなか良い刺激になるはずです。そして、アウシュヴィッツの物語に、またあなたの人生の物語に、既存の価値観に捉われない新しい解釈を、加えてみてください。Text/ チェコ好き
2016年04月22日健康のためにも、子どものためにも、夫には禁煙して欲しい。自分がたばこを吸わない人ほど、そう強く思うのではないでしょうか。しかし、「たばこをやめて!」と訴えたところで、簡単には禁煙してくれませんよね。どうすれば夫を禁煙させることができるか、私の体験をもとに、使えるテクニックをご紹介しましょう。■禁煙外来はハードルが高い!?確実に禁煙できる手段として、禁煙補助薬や禁煙外来の存在が注目されています。たしかに効果はあると思うのですが、本人が行動しないと意味がないので意外とハードルが高いです。夫に通うようにすすめても、「仕事が忙しい」と逃げられてしまいました。また、病院や薬は「最終手段」というイメージがあるようで、これをすすめたものの意地になって拒否されました。本人に禁煙の意志が芽生えるまでは提案しないほうがいいのかもしれません。■まずは節煙から!私はたばこを吸わないので、結婚前からたばこをできるだけやめてほしいとお願いしていました。しかし、すぐにはやめられないのが難しいところ。そこで、たばこの本数やタールの量を少しずつ減らすように提案、いわゆる「節煙」ですね。夫はタール量の多いたばこを吸っていたので、少しずつ軽いものに変えてもらいました。完全に断つわけではないので取り組みやすかったといいます。これだけでは続かないので、「ごほうび作戦」も実行。本数が減ったら欲しがっていたフィギュアを買ってもいい、おこづかいアップも考えるといった感じですすめていくと、自分から節煙に励むようになりました。 ■自分にも課題を与える本人も納得して節煙をしていたのですが、続けていくうちに「どうして自分だけ我慢しなきゃいけないんだ!」と、夫の不満が募るように。そこで、私もダイエット宣言をして、甘いものを断ちました。何かと理由をつけて「自分へのごほうび」を与えていた私にとって、これはとてもつらかったです。でも、自分のためにもなるし、大変な思いをしているのは自分だけという思いをさせないことで、夫のやる気が復活したように感じます。■ゲーム感覚を取り入れるさらに「先に目標を達成できたほうが相手に好きなことを要求できる」という条件をつけました。これがゲーム感覚で楽しめたようで、あれだけたばこをやめる意志がなかった夫が、あっという間に禁煙に成功したのです。夫が欲しがっていたアニメDVDを全巻買わされたのは痛かったけれど、彼の健康のためになるなら安いもの。いまでは、自ら全席禁煙の店を選ぶようになるほど、完全にたばこを断つことができました。こうしてみると、意外とあっさり禁煙に成功したように見えますが、ここまで3年近くの月日がかかっています。子どもができてからでは遅いので、できるだけ早く取り組みたいところです。でも、子どもが生まれてから夫を禁煙させた友人もいます。本人も子どものためにやめたいと思っていたようですが、思うように禁煙できず、自らおこづかいの減額を申し出たのだとか。強制的にたばこと決別できる環境をつくることも、ときには必要かもしれませんね。4月に入り、銘柄によってはたばこが値上がりしました。健康面だけを訴えても効果がない場合は、家計を助けるという目的もつけ加えるといいかもしれません。
2016年04月13日「幸福とは何か?」。多くの学者や思想家たちがこのテーマと向き合い、言葉を尽くして語ってきました。それを記した「幸福論」には難しい内容のものもありますが、思い切って読みはじめてみると、そこには意外と身近に感じられる金言がいっぱい!今回はそんな「幸福論」の中から、恋に迷う大人女子にもおすすめの3冊をご紹介します。■優しさ溢れるヒントが満載「幸福論」(アラン著/白井健三郎訳/集英社文庫)フランスの哲学者・アランは、実践的人間哲学の新しいスタイルを作ったと言われている人物。「実践的人間哲学」なんて難しそうですが…。この「幸福論」は、幸福をテーマとした短いコラムのような文章を集めたもので、意外と読みやすいです。一冊丸ごと読み切る自信がない方は、まず目次の気になった項目だけを読んでみるのもアリ。「悲しいときは、こんな風にしてみたら?」「ここをちょっと変えてみたら、幸福が手に入るかもよ?」そんなヒントをちょっとずつくれるような感じで、とても「優しさ」を感じます。 ■恋愛や結婚、出産など現代の女性も共感できる「ラッセル幸福論」(B.ラッセル著/安藤貞雄訳/岩波文庫)続いては、イギリスの哲学者、バートランド・ラッセルの「幸福論」。この「幸福論」は二部構成で、第一部が「不幸の原因」、第二部が「幸福をもたらすもの」となっています。幸福論なのに、ほぼ半分が「不幸の話」になっているワケですが、ただ「原因」について語るだけにとどまらず、原因を取り除くためのヒントも丁寧に示してくれます。また、女性の幸せ・自由などに触れた文章は、現代の日本女性が共感できる部分も多いはず。恋愛や結婚、出産についてもたっぷり書いてあるので、今の自分と重ね合わせながら読める「幸福論」だと思います。■男性目線だけど清々しい「私の幸福論」(福田恆存著/ちくま文庫)最後に紹介するのは、福田恆存(ふくだつねあり)の「私の幸福論」です。もともと若い女性向け雑誌に連載されていた文章なので、「雑誌のコラム感覚」で読めるというのが大きな魅力。仕事、恋、結婚、家庭など、女性が抱える問題について書かれています。また、この本の内容が、あくまでも男性である著者の目線で語られているというのもおもしろいところ。著書自身もまえがきで「女性の読者であるあなたがたの耳に、かならずしも快くはひびかない」と書いているのですが、たしかに女性にとっては耳の痛い話もたくさん出てきます。ちなみに、本編は「美醜について」からスタート。最初から、「耳の痛い話」なのですが、それがかえって清々しいような…。なんとも言えないスッキリ感があります。今回紹介した3つの「幸福論」。興味がわいたら難しく考えず、本を開いてみてはいかがでしょうか? もしかしたら、恋や仕事、人生そのものを大きく変える言葉に、めぐり合えるかもしれません。
2016年04月08日SOLO読者のみなさんこんにちは。今回は少々自己啓発っぽいタイトルにしてみたのですが、みなさんは、「ひとり」で生きていることの最大のデメリットってなんだと思いますか?私が思うに、それは自分の世界がどんどん固定され、狭くなっていってしまうことです。それを、「自分のこだわりをどんどん強めていける」と良いほうに解釈することもできますが、ライフスタイルや価値観が凝り固まっていくことって新しいものを受け入れられなくなるということなので、やはり歓迎してはいけない部分もあると思うんですよね。一方、結婚や出産によってライフスタイルを変える機会があった人たちは、自分のこだわりをどんどん捨てて、新しいものを受け入れていかざるを得なかったでしょう。私やあなたがもし今妊娠したら、母子ともに健康に過ごせるようにさまざまな情報を探したり人から聞いたりするでしょうし、ベビーグッズにも詳しくなっていくはず。巷にはお腹におもりのついた「妊婦さんの世界を疑似体験できるジャケット」なるものもありますが、妊娠したり出産したりすると、誇張なしでちょっと世界が変わるんだろうなと私は独身ながら思うのです。自分のこだわりを強めていくのも楽しいですが、予期せぬものがもたらす未知の世界、新しい情報ってなかなか侮れません。「旅行」と聞いてあなたが思い浮かべる場所はどこ?©paul bicaでは、もうちょっと具体的に考えていきましょうか。みなさん、旅行は好きですか?出不精だからキライ、という方もいるかもしれませんがここは少々譲って好き派の立場に立っていただいて、次回旅行に行くとしたら、あなたはどこに出かけたいですか?私の場合、「旅行」といわれると、今年実際に行く計画を立てている中東のイスラム諸国を思い浮かべます。しかし、もちろん「韓国」という方もいるでしょうし、「屋久島」という方もいるでしょうし、「別府温泉」という方もいるでしょう。それぞれの場所に優劣はないのですが、問題は「次回の旅先」と、「前回の旅先」の傾向です。リゾート好きの方は毎回世界各地のリゾートに、自然が好きな方は毎回日本全国の自然が深い場所に。お酒や土地の食材を楽しみたい方は、それに適った場所を選ぶでしょう。好みの問題なので別にそれが悪いわけではありませんが、毎回の旅先の傾向が固まってきてしまうのって、長い目で見るとどうなんだろうな?と私は考え込んでしまったのです。自分自身を振り返ってみると、私は国内の観光地にほとんど興味がわかず、海外の美術や文学の世界が楽しめそうなところか、複雑な歴史を抱えたディープな土地を選んでしまいがちです。自分的には毎回新しいものを吸収しているつもりだったんですけど、それは同時に、私に日本の自然の素晴らしさや地酒や土地の食材を楽しむ感性が備わっていないことを意味しています。おひとりさまは、意識して自分の傾向を変えていったほうがいいかももちろん旅行はあくまでたとえで、読む本、付き合う人、飲食店、身の回りのすべてのものにこの話は適用することができます。おひとりさまは、変えるキッカケがないから変わらない。変わらないのは悪いことではありませんが、なんだかんだで柔軟性があったほうが、世の中生きていきやすいと私は思うんですよね。『東京タラレバ娘』最新の4巻では、「世の中の女は2種類に分けられる妥協できる女と妥協できない女」というズバリなモノローグがありましたが、妥協というか、要は柔軟性ってことだと思うんです。凝り固まらずに新しいものを柔軟に受け入れていく余地があったほうが、何かとやりやすいのではないでしょうか。恋愛であればよりいろいろな人と仲を深めていけるしチャンスが広がるし、共同生活を営むにもそのほうがやりやすいでしょう。仕事に行き詰まったときも打開策が見つかりやすいと思いますし、大人になるにつれ作りにくくなっていく新しい友人もできやすいはず。未知のもの・世界への好奇心、それを受け入れる余地は、いくつになっても持っていたいものです。キッカケがないなら、自分で作るしかないのです。私はまだまだ刺激物が欲しいお年頃なので当分海外旅行を続けるでしょうが、30代半ばくらいになったらそれを1回ぱたっとやめて、国内の自然が深い場所や海が綺麗な場所を重点的に旅しようかなあと考えています。「自分の傾向」を意識して把握し、それをガラッと変えていく。口でいうのは簡単ですが、これは頭も使うし勇気もいります。でも、おひとりさまが縮こまらずに、柔軟性を保ちながら世界を広げていく方法って、これしかないような気もします。あなたは妥協できる女でしょうか、できない女でしょうか?もしくは、柔軟性はありますか?私は最近ガチガチなので、これを書きながらちょっと反省させられました……。Text/ チェコ好き
2016年01月19日