吉本新喜劇座員の金原早苗が3月31日、自身のX(旧ツイッター)を更新。昨年1月に離婚していたことを公表した。金原は「皆様へ」と文面を投稿。「いつも応援してくださっている皆様 関係者各位へ 大事な報告がございます。私、金原早苗は2023年1月に離婚をしました。ご報告が遅くなり大変申し訳ございませんでした」と公表した。現在は、地元の大阪府八尾市に戻っているそう。「八尾の自然と、 新鮮でお手頃な野菜、人情あふれる大好きなご飯屋さん、協力してくれる家族達に囲まれて、実家の近くで大切な娘と二人で暮らしています」と伝える。「いろいろと新しい環境にバタバタと慣れない生活でしたが、ようやく落ち着いてきて責任感も今まで以上に増しました」とする。「明日からは新学期で娘もまた違う土地で新たなスタートを迎えます。娘といつまでも笑顔で過ごせるように強いママ!おもろいママ!を目指してこれからも頑張っていきますので今後とも変わらないご支援宜しくお願い致します」と結んでいた。金原は2005年にNSC大阪・女性タレントコース1期生に入り、翌年に新喜劇に入団。座員の信濃岳夫とコンビで「小泉進次郎&滝川クリステル夫妻」のモノマネを披露し、19年に『細かすぎて伝わらないモノマネ』(フジテレビ)で準優勝を獲得した。また、21年7月には年下の一般男性との結婚、妊娠5ヶ月であると発表し、12月に第1子となる女児を出産していた。
2024年03月31日■前回のあらすじ和美と離婚後、合コンで出会った気の強そうな美女と結婚を決めた雄大。これで子どももできるし、人生楽勝!と思っていたが、新しい妻は和美とは正反対のタイプの女性だった。子どももできず、日々の生活にだんだんとストレスを溜めていく雄大は…。 >>1話目を見る 結局、雄大との子どもができなかった原因がなんだったのか……本当のところは私はわかりません。だけどもしあのまま、雄大との子を妊娠できたとしても、きっと私は幸せにはなれなかったでしょう。それよりも、雄大との結婚生活を解消したことで、そばでずっと支えてくれていた素敵な男性と結婚することができました。子どもにも恵まれ、今の幸せをこれからも大事にしようと、心に誓うのでした。※この漫画は実話を元に編集しています原案・ウーマンエキサイト編集部/脚本・高尾/イラスト・ タキノユキ
2023年02月28日憲政史上初の女性首相就任に向け、奮闘を続ける高市早苗氏(60)。しかし、自民党総裁選に向けた彼女のある“選挙活動”に疑問が集まっている。19日、Twitterで《皆さまに向けてメッセージを撮りました。是非ご覧ください》というコメントともにともにYouTube上で公開したメッセージ動画へのリンクを投稿した高市氏。動画では、Twitter上で自身に寄せられた激励コメントをプリントした紙をびっしりと貼り付けた壁の前に立った高市氏が、「睡眠時間が短い」としながらも、にこやかな笑みを見せて支援者への謝意を表明。そして「とにかく私は日本を守るために、未来を開くために精一杯働いて参ります」と意気込みを語っていた。高市氏を支援する杉田水脈衆議院議員(54)も高市氏の投稿を引用リツイートし、《皆さんのTwitterのコメントもしっかり読んでくださっています。》と綴るとともに、印刷された応援コメントを眺める高市氏の写真を投稿した。この投稿に対し、《お知らせいただきありがとうございます》《頑張ってください》といった応援コメントが寄せられるいっぽう、こんな声も。《なんでプリントしてんの?》《紙かよw今どきw》《紙代勿体なくね?》《スマホで見たらええやん》基本的にスマートフォンやパソコンで見ることができるTwitterの呟きをわざわざ出力して、張り出したことに疑問を呈する人もいたようだ。というのも高市氏は、衆議院でのペーパーレス化推進派なのだ。2019年5月30日に公開された自身の公式サイトのコラムで、高市氏はこのように語っている。《今日は、嬉しいことがありました。「質問主意書」及び「これに対する内閣の答弁書」について、ペーパーレス化することを可能にする『衆議院規則の一部を改正する規則案』を議院運営委員会で起草し、本日の衆議院本会議に緊急上程し、全会一致で可決されたのです。》果たして、自身の選挙活動の“ペーパーレス化”について高市氏はどう思っているのだろうかーー。
2021年09月21日9月17日に告示され、29日に投開票となる自民党総裁選。日々情勢が変わるなか、現在注目を集めているのが高市早苗前総務大臣(60)だ。今月4日には安倍晋三前総理大臣(66)が高市前大臣を支持することにしたとの報道が。もし高市前大臣が自民党総裁になると、100代目にして初の女性総理大臣が誕生することに。実現すれば快挙となるが、いっぽうで歓迎していない人たちもいる様子。そのため“高市総理大臣”を待ち望む人たちは、Twitterで「女性活躍推進につながるのになぜ応援しない?」とこう疑問視している。《フェミ系は女性総理がとか日頃言いながら、高市氏には黙り。なんでだろ?》《フェミニストは女性の社会進出を推進する考え方のはずなのに、フェミニストを自称する人は高市さんを応援しないじゃん?その理由を知りたいのよ》《女性躍進ガーって言いまくるマスコミが高市氏を避けてて岸田一本みたいな言い方してんの笑える》しかし、高市氏が総理大臣となることで“女性がますます活躍する社会”に本当につながるだろうか?「高市前大臣は選択的夫婦別姓制度に反対しています。今年2月には同制度導入に賛同する意見書を採択しないよう求める文書を連名で、地方議員に送っていたことも判明。そのやり方は『地方議会への圧力だ』と問題視されました」(全国紙記者)さらに高市前大臣は’17年、『朝日新聞』の調査で同性婚に対して「どちらかと言えば反対」とコメント。そして昨年8月、総務大臣当時の国勢調査で同性パートナーを“他の親族”としてカウントすることについて「同性カップルは区別する必要がある」とも発言。東京オリンピックの閉会式では、多様な家族の形を歌う楽曲『Chosen Family』が流れていたはずだがーー。「’13年に『婚外子は嫡出子よりも遺産相続分が半分である』との規定を最高裁が“違憲”としたところ、高市前大臣は『すごく悔しい』とコメントしました。国民の多様性に対して消極的ともいえ、結果的に女性の活躍を狭める可能性が危惧されています」(前出・全国紙記者)■“五輪騒動”の後に高市氏が総理に?100代目内閣総理大臣という“またとないチャンス”のいっぽうで、高市氏は「タイミング的に相応しくないのでは」と指摘する声もある。例えば彼女は、ナチス・ドイツを信奉するネオナチ団体の代表と議員会館でツーショット写真を撮影。その写真が同団体の公式サイトで公開されていたと’14年9月に発覚し、海外メディアでも取り沙汰にされた。「当時の会見で『不可抗力だった』と釈明しました。ですが高市さんは国会議員になった翌年、小粥義雄氏の著書『ヒトラー選挙戦略』に推薦文を寄稿していたこともあります。同作は『ヒトラーを正当化し過ぎている』との抗議をユダヤ人人権団体などから受け、即刻絶版となったものです」(社会部記者)『ハフポスト』によると、「推薦文については記憶が無い」と高市氏の事務所は答えたという。「東京オリンピックでは開催直前に、開会式の総合演出を務めていた小林賢太郎氏(48)がかつて『ユダヤ人大量虐殺ごっこ』と発言していたことが発覚。そして国内外問わず問題視されました。小林氏は即刻解任となりましたが、その矢先に高市さんが総理大臣になれば再び波紋を呼ぶのではないでしょうか」(前出・社会部記者)■「彼女の属性ではなく政策・思想を根拠にしている」という反論また’12年5月に議員連盟「創生『日本』」がYouTubeにアップした「第3回東京研修会」という動画で、高市氏は国家の成長戦略や“税と社会保障”について言及。そして「さもしい顔して貰えるものは貰おう。弱者のフリをして少しでも得をしよう。そんな国民ばかりになっては日本国は滅びてしまいます」と生活保護受給者への揶揄ともとれる発言をしている。「生活保護の申請は国民の権利であり、『さもしい』との表現は差別を助長するものといえます。折しもメンタリストのDaiGo氏(34)が『生活保護の人が生きてても僕は別に得しない』などとライブ配信で語り、大問題となったばかり。DaiGo氏は謝罪しましたが、高市前大臣は“さもしい発言”に対して何ら釈明をしていません」(前出・社会部記者)はたして、高市前大臣が100代目内閣総理大臣となれば本当に「女性の活躍に期待ができる」だろうか?ネットでは冒頭のコメント群に対し、こんな反論が上がっている。《「女性総理がいい」と「女性総理なら誰でもいい」は意味が違うわけで》《単純に支持できるかできないかの話ですよね。そこは性別の話でもなく》《クォーター制は現在は男性が多すぎる社会で女性が同じように活躍出来ることを目指す途中にある「手段」であって目的そのものではないと思うので、女性の権利や自由を尊重するとは思えない高市早苗議員を応援できないフェミニストが多いのは別に不思議じゃないんじゃないの》《彼女の属性ではなく政策・思想を根拠にしているのですから、「女性の社会進出を望むなら高市氏を応援するべき」と短絡的に口走る人達よりも余程理性的であり、かつ「フェミニズム的に正しい」ことになると思うんですがね……》
2021年09月08日京都の定番土産「おたべ」や「京ばあむ」などを製造・販売する美十から、月ごとに中身の餡を変えるおたべスイーツ第2弾、5月のおたべ「早苗月(さなえづき)」が登場。くるみつぶあんを入れた4月のおたべに次ぐ、5月のおたべ「早苗月(さなえづき)」は、ほうじ茶あんを包んだおたべスイーツ。芳醇なほうじ茶の香りとすっきりとした餡の甘さを、コシヒカリ本来の風味を感じる生八つ橋と共に味わうことができる。パッケージも新しい装いに。5月はイラストレーター&グラフィックデザイナーとして活躍する瀧川裕恵が、初夏の訪れを告げる藤の花を鮮やかに描いている。【詳細】5月のおたべ「早苗月(さなえづき)」ほうじ茶あん 10個入り 600円+税販売期間:2018年5月1日(火)~5月31日(木)販売店舗:京都市内を中心とした土産店など
2018年05月13日---------------------------------------------------------------------------初恋、結婚、就職、出産、閉経、死別……。人生のなかで重要な「節目」ほど、意外とさらりとやってきます。そこに芽生える、悩み、葛藤、自信、その他の感情について気鋭の文筆家、岡田育さんがみずからの体験をもとに綴ります。「女の節目」は、みな同じ。「女の人生」は、人それぞれ。誕生から死に至るまでの暮らしの中での「わたくしごと」、女性にとっての「節目」を、時系列で追う連載です。---------------------------------------------------------------------------○クララが立った!以前にも書いた通り、私の初恋の相手は色白で線の細い男の子だ。元気に幼稚園へ通っていた彼の実際の健康状態は記憶にないけれども、幼い私は彼の「病弱そうな」佇まいに惹かれていた。もっと言えば、もともと自分の中にあった「病弱」幻想にぴったりの憑代(よりしろ)として、手近にいた彼を好きになっただけかもしれない。生まれてこのかた大きな怪我や病気をしたことのない私は、だからこそ「病弱」な人々に見果てぬ夢を描き、憧れ、羨んでいた。それはたとえば、バーネットの小説『秘密の花園』に出てくる車椅子の少年コリンのような男の子、ちばてつやの漫画『ユキの太陽』に出てくる社長令嬢の岩淵早苗ちゃんのような女の子。児童向け作品のおてんばヒロインに感情移入しながら私は、「自分にはないもの」を持った臥せりがちの美少女美少年に惹かれ、彼ら彼女らと親密になりたいと願っていた。美しく裕福で儚げな、籠の鳥。二本の足で立ってどうとでも歩いていける野生児の私と違って、誰かの支えや特別なしつらえを伴わなければ命をつなぐことも難しい存在。モヤシッ子が筋骨隆々のマッチョなヒーローに憧れるように私は、触れなば落ちん、という風情の瀕死のヒロイン(年齢性別不問)にグッとくる。裏返せば、それだけ自分が頑丈だったのである。学校の図書室で借りて読む本の中では、貴婦人がしょっちゅう気絶しては気付薬を嗅がされ、お嬢様はサナトリウムで肺病と闘い、戦場から生還した勇者は古傷の疼きや幻肢痛に悩まされている。私はそのどれも経験がない。「朝礼の最中に貧血で倒れる」とか「手術のために入院する」とか、一度やってみたいなぁ、松葉杖で登校できれば最高……と思案しながら車道を横切っていたら通りかかった軽自動車にハネられ、ボンネットに乗り上げるまでの交通事故に遭った。き、キター! と大興奮のまま整形外科へ担ぎ込まれたものの、診断は「全身打撲」でその日のうちに家へ帰され、「えー、骨折じゃないのー」と不服を申し立てるような小学生だった。小児喘息で入院した経験のある級友からは、「病院生活って、あんたが思ってるようなイイもんじゃないんだから!」とさんざんなじられ、しばらく口をきいてもらえなかった。経験をもって発せられる言葉の重みがグッと胸に響く。彼女がたった一人で克服したその苦労を、みずから勝ち取った生きる喜びを、同じ年の私はまったく知らない。自由と不自由、健康と不健康、生と死。片方しかない自分がひどくアンバランスに思え、ますますもう一方を「経験」したくなった。今度は『王子と乞食』めいた話だ。そして、「おまえさん、そんなに病弱なお姫様になりたいんだったら、あたしがその夢を叶えてやろうかえ……?」と、森で悪い魔法使いにそそのかされたわけでもなかろうに、二十歳を過ぎてからの私は、急速に自身の健康を損ねていくことになる。○錠剤、噛み砕いて最初の異変は婦人科系だった。10代までは何とも感じなかった生理痛が20歳を過ぎるとみるみる悪化して、月経前はほとんど毎月、激痛で半日以上ベッドから起き上がれなくなる。風呂場で脚の力が萎えたまま意識を失ったり、往来で突然ぶっ倒れて救急車で運ばれたり、ありとあらゆる失態を演じたが、検査をしても具体的な原因がわからない。子宮内膜症も筋腫の類も見つからず、月経前症候群(PMS)の一種、自律神経失調症のようなものだろうという診断で、市販の鎮痛剤を多めに服用することでしのいできた。性交渉のときさえピンと来ない子宮という臓器のかたちが、くっきりわかるような鋭い痛みである。志賀直哉の小説『赤西蠣太』に侍が自分で自分の腹を割いて腸捻転を治した逸話があって、激痛に床をのたうち回りながら私はいつもこのくだりを思い返していた。今すぐこの腹かっさばいて、子宮を取り出してじゃぶじゃぶ丸洗いできたらどんなにいいか。朦朧とする意識に屈して台所の包丁を持ち出さないよう、必死で堪えていた。症状が出ている最中は寝たきりで、寝具もすべて取り替えるほど大量の汗をかく。服を着替えて病院へ行くのは、すべてが終わった後だ。正午を過ぎてから勤め先に病欠の電話を入れたり、そのくせ半日経った夕方にはケロリと遊びに出かけたり、すこぶる元気そうなのに「大事をとって」翌日の予定を急遽キャンセルしたりするもので、周囲からはまぁ、サボッていると誤解されたことだろう。「生理痛なんて子供を産めば治るもんだ」という謎のアドバイスもしょっちゅう受けた。たしかに体質が変わることもあるだろうが、出産は「治療」ではない。いかに「病気」扱いされないかという話である。次に悩まされたのは不眠症だ。おそろしく寝つきが悪く、眠りに就ける時間帯がズレてきて、翌日以降の日常生活に支障を来す。もともと夜型のロングスリーパーだったのが、編集者という職業柄、どうしても「夜討ち朝駆け」状態になる。私はそこで短時間睡眠に切り替えることができなかった。数十時間覚醒して十数時間睡眠する不規則な生活を続けながら、「ひとたび寝てしまったら定刻に起きられなくなるかもしれない」という恐怖でどんどん眠れなくなり、何をするわけでもなく徹夜状態で朝の仕事へ行く日々が続いた。今夜もまた前夜と同じように眠れないのではないか、眠れないと取り返しのつかない粗相をするのではないか、不安でさらなる緊張を強いられ、症状がひどくなる。のちのち「概日リズム睡眠障害」という言葉を知ることになるのだが、20代後半の当時はまだ、「自分はもしかして、うつ病なのではないか?」とも疑っていた。仕事の合間に精神科や心療内科をハシゴして、よりどりみどりの睡眠薬を処方してもらう。働くために薬が必要なのか、薬代のために働いているのか、なんだかよくわからない状況だったが、尊敬する上司も一緒に仕事する仲間もみな何かしら身体に「故障」を抱えながら私以上の激務をこなしているのだから、それが当たり前だと思っていた。○脳病院へまゐります。「眠れなくて精神科へ通ってるんだ」と言うと、あちこちでギョッとされる。「待合室には頭のおかしな人たちがたくさんいるのか?」と真顔で訊かれたこともあった。別の科にかかるならまず受けないであろうそうした偏見の眼差しよりも、私は、自分の不健康を放置しておくことのほうが、よっぽど怖かった。尊敬する上司、一緒に仕事する仲間、友人の友人、飲み屋ですれ違った客。素人目にも明らかに重篤な精神の病を抱えていると思われる人たちが、周囲にたくさんいた。そのほとんどに自覚症状がなく、自分は「マトモ」と信じきったまま、病的な言動で他者を振り回しては疲弊させていた。私も傍目にはあんなふうに見えるのかもしれない。睡眠を、心身を、自分をコントロールできず他人に迷惑をかけている現状を、一刻も早く脱したい。とはいえ、吐いて下痢をしたとか、骨が折れて血も出たとか、目に見えてわかりやすい患者とはわけが違う。医師の見立てはてんでばらばら、新しい診断を下されるたびに右往左往して、なかなか腰が落ち着かなかった。仕事があると朝一番の診療予約しかとれず、となると数度に一度は薬が効きすぎてすっぽかす。「ちゃんと時間通りに来てくださいね」「いや、だからそれを治したいんですってば!」で押し問答となった医院もあった。精神安定剤を服用すると気分が悪くなる。副作用が少ない入眠導入剤でも寝起きにひどいめまいに襲われる。中途覚醒はしないのに、それを抑える薬が不思議と効く。かたや、ある医師に「気休めですよ」と一笑に付された光療法は、かなり効果的だった。行き着いたのは結局、最寄駅の駅前にある小さな小さな心療内科で、階下の薬局のために処方箋を書くのがお仕事、というようなナメきった態度の小太りの院長だ。「まぁ、うつ病ではないですよ。寝れば治るんだから」「休職の診断書を書いてあげてもいいけど、あなたは会社行けないと悪化するタイプだよね。社畜乙」「本当に薬飲むの向いてないねー、でも漢方はもっと向いてないだろうね」といった脱力系の挑発口調は、私の意欲を覿面に削ぎ、代わりに少しの元気をくれた。仕事熱心には程遠く、「ヤブ」と呼んで差し支えない医者だったと思う。毎朝同じ時間に起きられるようになった今でも、それが彼のおかげだとは到底思えない。だが、会計窓口で三割負担の医療費を支払いながらいつも、腕のいい占い師にかかっているような気分だった。あるいは、いつ引いても絶対に「凶」だけは出ないおみくじ。自分のことは自分ではわからない。素直に他人に意見を仰ぎ、身を委ねるのが一番だなと、初めて思った。40度の熱を出しても、交通事故に遭っても、そんなふうに感じたことはなかった。○自覚と無自覚のあいだかつて私は健康優良児だったが、もはや健康は不断の努力で「維持」しなければ簡単に失われてしまうものとなってしまった。その「節目」が、心身の不調に悩まされながらビクビクしていた20代後半にあった。氷の入った冷たいドリンクを飲まなくなったのも、常温の水を1日2リットル飲むようになったのも、真夏でも靴下や腹巻を身につけてカイロの買い置きを欠かさなくなったのも、婦人科系疾患の大敵「冷え」への対策であるし、どうせ眠れないのだからと毎日のように夜遊びや暴飲暴食を繰り返していたのは20代半ばまで、時間帯で食べるものを節制して、主食を玄米に切り替え、カフェインや刺激物の摂取にも敏感になった。頭痛や腰痛を併発しないように寝具や照明にもお金を注ぎ込み、有酸素運動が大事と言われればフィットネスジムにも入会した。入会だけは、した。そして、小児喘息で入院していたクラスメイトは、あんなに小さな子供の頃から、こんなふうに「健康」に気を遣っていたのだろうか、などと考えたりもした。新しくとる何気ない行動の一つ一つが、脆く壊れやすい自分の心身を損ねやしないかと、いちいち考えながら生きるのはどんな気分だろう。彼女の「節目」は私と違って、うんと早くに訪れたのだ。自分からみすみす健康を手放したがるやつがあるか。今ならその怒りに寄り添える気がする。一方で、私と彼女の歩んだ半生は、すでにしてずいぶん違ってしまっているよね、とも思う。親元を離れて暮らすようになってから、久しぶりに親と会うたびに健康を心配され、いつも「あなたはもともと、小さい時から虚弱だったからねぇ」と言われる。言われるたびに驚く。彼らの思い出話の中の私は、季節ごとに高熱を出して寝込み、アトピーなど皮膚のトラブルが絶えず、少しの傷でも出血が止まらず、採血しただけで体調を崩し、何度も腎臓の精密検査を受け、運動が苦手で直射日光に弱い、そんな子供だというのだ。それでも私が「健康優良児」を自認して育ったのは、たまたま、子供のうちに大きな怪我や病気をせず、生死をさまようほどの経験をせずに済んでいたから。ただ、それだけのことなのだと、何度でも驚く。憧れに憧れていた「手術」の初体験は32歳のとき、日帰りで受けた視力回復のレーシック手術だった。「入院」はまだしたことがない。できればこのまま、せずに生きていきたい。ようやくそう思うようになった。<今回の住まい<もともと根暗な性格で、外に出て遊ぶより室内で本を読むほうが好き、そんな人間が心身に不調を来たして引きこもりがちになると、快活な人々より症状の発見が遅れることがあるのかもしれない。26歳のとき引っ越した先は、小さな中庭に面した一階で、縦に細長い間取りの1Kだった。日中でもほとんど陽が射さず、電気を点けてもつねに薄暗いこの部屋を「穴倉みたいで落ち着くし、家具が置きやすいし、何より蔵書が日に灼けないのがいい!」と大変気に入って選んだ。もしタイムマシンがあったら契約の前日に乗り込んで、当時の自分にもう一度、熟考を促したい。どんな性格の人間だろうと、お日様の光は、とても大切です。岡田育1980年東京生まれ。編集者、文筆家。老舗出版社で婦人雑誌や文芸書の編集に携わり、退社後はWEB媒体を中心にエッセイの執筆を始める。著作に『ハジの多い人生』『嫁へ行くつもりじゃなかった』、連載に「天国飯と地獄耳」ほか。紙媒体とインターネットをこよなく愛する文化系WEB女子。CX系の情報番組『とくダネ!』コメンテーターも務める。イラスト: 安海
2015年05月08日