“選挙の顔になり得ない”と辞職に追い込まれた菅義偉前総理に代わり、捲土重来で新総理の座についた岸田文雄氏。所信表明演説での力強い話ぶりは、今月行われる衆議院選挙の自民党勝利をいくらか手繰り寄せたようにも感じられた。しかし、自民党の中では国民的知名度の高い河野太郎氏、小泉進次郎氏、石破茂氏といった面々のいない新閣僚の顔ぶれは、あまりに心許ない。今回本誌では、女性読者に対して岸田内閣の大臣に関するアンケートを実施。(10月8日~10月11日)。その知名度と期待する政策について聞いてみた。【岸田内閣の大臣の名前を見て、顔が思い浮かぶ議員はだれ?】という質問で、総理以上に票を集めたのが、内閣府特命担当大臣(地方創生少子化対策男女共同参画)の野田聖子氏。実に74%もの読者が「顔が浮かぶ」と答えた。続いては岸田文雄内閣総理大臣。総理としては残念な第2位という成績で、67%の読者が顔と名前が一致すると答えた。第3位は意外にも萩生田光一経済産業大臣。岸田総理と大差のない59%となった。その後は、岸信夫防衛大臣(39%)、茂木敏充外務大臣(33%)、牧島かれんデジタル大臣(31%)と続く。しかし内閣が発足したばかりとは言え、認知度50%を超える大臣が3人しかいないというのは、寂しすぎる結果ではないだろうか。岸田内閣に政策で期待することとしては、「消費税減税」「コロナ対策の現金給付」「申し込んだ人だけが恩恵を受けられるような対策ではなく、国民全員平等に受けられる対策を打ち出してほしい」といった、新型コロナで打撃を受けた人たちからの給付に関するコメントが多く寄せられた。“選挙の顔”を立てるために行われたはずだった自民党総裁選だが、結果誕生した岸田内閣は、安倍内閣、菅内閣と比べてもまるで“顔なし”。有権者にとっては、ますます誰を選べばいいのかわからなくなった!?【岸田内閣の大臣の名前を見て、顔が思い浮かぶ議員全員をチェックしてください】1位:野田聖子内閣府特命担当大臣(74%)2位:岸田文雄総理大臣(7%)3位:萩生田光一経済産業大臣(59%)4位:岸信夫防衛大臣(39%)5位:茂木敏充外務大臣(33%)6位:牧島かれんデジタル大臣(31%)7位:堀内詔子東京オリンピック競技大会・東京パラリンピック競技大会担当(19%)8位:鈴木俊一財務大臣(17%)9位:松野博一官房長官(11%)10位:西銘恒三郎復興大臣(7%)
2021年10月18日実業家の堀江貴文氏(48)が10月12日、宮迫博之(51)のYouTubeチャンネルに出演。動画内で、同じく実業家の「ひろゆき」こと西村博之氏(44)について“絶縁宣言”する一幕があった。宮迫が動画後半で「聞きたいことがあってん」と切り出し、単刀直入に「ひろゆきくんと仲悪いってホンマなん?」と堀江氏に質問。すると堀江氏は「仲悪いっていうか、僕が縁を切っただけです」とキッパリ。その理由について、「去年、餃子事件でめちゃくちゃ叩かれて。あいつが最後炎上させたようなもの」と語ったのだ。また絶縁する前の様子について「(ひろゆき氏と)言い合いになりましたよ。Twitter上で」と振り返り、「これはもうちょっと無理だな」と感じたという。堀江氏は昨年、広島の餃子店を訪れた際に同行者がノーマスクだったことで入店拒否された。そのことを堀江氏がFacebookに投稿したことで、SNS上で論争に発展。堀江氏の投稿をきっかけに、餃子店にいたずら電話が殺到。結局、お店は休業に追い込まれたのだ。そんな状況を見たひろゆき氏は、Twitter上で餃子店に《クラウドファンディングとかでお金集めて、通販とかデリバリーで再開するとかどうですかね?》《サイト作る人居ないとかだったら、手伝いますよ》と呼び掛けていた。その後、餃子店がクラウドファンディングを立ち上げると、ひろゆき氏も支援したことを表明していた。■ひろゆき氏「言い争いをしたことはない」「堀江さんは当初から“自分は悪くない”のスタンスです。たしかに堀江さん自身はマスクを着用していたようですし、いたずら電話もかけていません。ですが一般人以上に影響力があるため、『少なからず非があるのでは』との声が上がっていました。餃子店が立ち上げたクラファンは、最終的に1,500万円以上もの支援金が集まりました。店側にそういった同情が広がる風潮に、堀江さんは不満げでした。Twitter上で自らの正当性を主張したり、《金儲けのネタにされてさらに居た堪れない》などと綴ったりしていました。ひろゆきさんは経営が立ち行かなくなった餃子店にアドバイスをしたにすぎず、堀江さんとは直接的な“バトル”はなかったはずです」(ITジャーナリスト)ひろゆき氏は13日にTwitterを更新し、堀江氏の“絶縁宣言”にこう疑問を呈している。《ホリエモンこと堀江さんの餃子事件はおいらが居ない所で起きたのに「あいつが炎上させたようなもんなんで」と言ってる。twitter上で堀江さんとおいらが餃子事件で言い争いをしたことはない。 堀江さんの事実認識がおかしくなってる気がするのですが、どうしちゃったのかな?》堀江氏の主張にネット上では「この件に関してはホリエモンが悪い」と批判する声が多く、共感はさほど得られなかったようだ。《餃子事件は、ひろゆきさんがいない所で 発生したのに堀江氏はひろゆきさんを恨んでいる。これは「逆恨み」ですね》《餃子の件に関してはひろゆきは悪いことしてないけどな。ホリエモンからしたら味方してほしかったんだろうけどホリエモンのせいで営業できない状態までいってた餃子屋をクラウドファンディングで救ったわけだし》《ひろゆきが炎上させたとおもってたのか自分が勝手に炎上したのを人のせいにすんのはなぁ。。。》
2021年10月15日「今回の新内閣を幕の内弁当にたとえると、岸田首相が掲げた『老壮青』のバランスを取って、うまく盛り付けたように見えます。ところが、肝心の中身と味はどうかというと、そのおかずは何?というものがたくさんあって、しかも薄味(笑)。そんなイメージです」こう語るのは、政治情勢に詳しい共同通信の編集委員兼論説委員の久江雅彦さん。岸田内閣では、初入閣が20人中13人と、6割超を占めた。最年長は77歳、最年少が44歳。女性は3人だけだが、中堅、若手議員を多く登用したことで、見た目だけはたしかに「老壮青」のバランスが取れているようにも思える。だが、安倍元首相の実弟・岸信夫防衛相が留任したほか、麻生太郎副総裁の義弟・鈴木俊一財務・金融相が、義兄と入れ代わりで就任するなど、相変わらず世襲議員が内閣のほぼ半数を占めている。さらに、“顔と名前が一致しない小粒が多すぎる”といった声も少なくない。「組閣では、各派閥から順送りの名簿が作られて、基本的にそこから閣僚を選んでいきます。つまり、すべての閣僚を適材適所で選んでいるわけではありません。今回はとくに目玉もいなかったことから、“こんな人いたんだ”と、口にする与野党関係者が何人もいました。なかには、“出がらし内閣”“あなた誰?内閣”と言っている人も(笑)」(政治部記者)この閣僚の人事の裏では、3Aと呼ばれる安倍晋三元首相、麻生太郎副総裁、甘利明幹事長の意向が大きく働いているとされる。内閣発足直後、報道各社が行った世論調査では、岸田内閣の支持率はいずれも50%前後。歴代内閣と比べると、発足時としては低水準のスタートとなった。「その理由は、岸田内閣は安倍氏、麻生氏の操り人形という印象が強いこと。さらに、政治とカネの問題を引きずっている甘利氏が、党の幹事長に就いたことが支持率に大きく影響したのだと思います。岸田首相は、“生まれ変わった自民党をしっかり国民に示す”と力強く言いましたが、国民の目には、“何も変わってない”と、映ったのでしょう」(自民党関係者)さらに前出・久江さんは、新しく任命された閣僚にも問題があると指摘する。「たとえば、ワクチン担当大臣になった堀内詔子氏。彼女は任命直後のインタビューで、“浅学非才の身ですので大変驚いた”と言ったんです。国民はこの発言にドン引きしたのではないでしょうか。ワクチン担当大臣は、今のコロナ有事の中で重要な一角を担うポストです。これから勉強します的な人物が、そのトップに立つわけですから、国民は安心できる内閣とは、とても思えないでしょう」ワクチン未接種者の存在、ブースター接種の実施、そして第6波の感染拡大が懸念されているなか、新内閣はコロナ関連の3つのポスト(厚生労働、経済再生、ワクチン)のトップを総入れ替えした。本来であれば、どういう理由でトップを代えるのか。岸田首相が国民にしっかり説明しなければいけないはずだが……。「今はコロナ有事です。各派閥のバランスにこだわって、人事を決めている場合ではなかったはず。もっと国民に対して安心、納得できる人物を閣僚に選ぶべきだった、そう思います」(久江さん)そんな国民の不安をよそに、3Aの1人、安倍元首相は今回の閣僚・党役員人事には、不満を漏らしていると言われている。「安倍氏は党内への影響力維持を狙う目的で、内閣の要である官房長官に萩生田光一氏、党の幹事長には高市早苗氏を置きたかった。ところが、岸田首相はそうしなかった。あまりにも安倍カラーが強いと、森友、加計学園の問題や、『桜を見る会』をめぐる疑惑が、今後の政権運営に支障をきたす可能性が出てくる。だからできるだけ安倍カラーを排除したかったのでしょう」(政治部デスク)しかし、そのもくろみむなしく支持率は低調なスタートになった。岸田“出がらし”内閣の船出は前途多難?
2021年10月14日岸田新内閣では、初入閣が20人中13人と、6割超を占めた。最年長は77歳、最年少が44歳。女性は3人だけだが、中堅、若手議員を多く登用したことで、見た目だけは「老壮青」のバランスが取れているようにも思える。だが、安倍元首相の実弟・岸信夫防衛相が留任したほか、麻生太郎副総裁の義弟・鈴木俊一財務・金融相が、義兄と入れ代わりで就任するなど、相変わらず世襲議員が内閣のほぼ半数を占めている。さらに、“顔と名前が一致しない小粒が多すぎる”といった声も少なくない。そこで、本誌は取材をもとに、岸田首相を含む新閣僚21人のプロフィールを紹介。【総理】岸田文雄(64)/衆院広島1区、当選9回あだ名は“キッシー”。人柄は温厚でマジメで、政界きっての酒豪として有名だが、発信力不足との指摘も。外相を4年半務めた。【総務】金子恭之(60)※初/衆院熊本4区、当選7回無所属を経て自民党入り、当選7回で初入閣の苦労人。水俣病やハンセン病などの問題に取り組んできた。趣味はウオーキング。【財務・金融】鈴木俊一(68)/衆院岩手2区、当選9回父は鈴木善幸元首相、義兄は麻生前財務相という政界のサラブレッド。温和な人柄で趣味は料理。エプロン姿を披露したことも。【外務】茂木敏充(66)/衆院栃木5区、当選9回英語が堪能。趣味は海外ドラマの観賞で、ワインに詳しい。“タフネゴシエーター”として、安倍政権で経産相などを歴任。【法務】古川禎久(56)※初/衆院宮崎3区、当選6回東大法学部卒。代議士になる前、焼き鳥店を営んでいた。郵政民営化に反対し、自民党を一時離党。総裁選では河野候補を応援。【文部科学】末松信介(65)※初/参院兵庫、当選3回座右の銘は「あるがまま」。兵庫県議を20年務め、国政に進出。参議院のバリアフリー化を議員運営委員長として推進した。【厚生労働】後藤茂之(65)※初/衆院長野4区、当選6回大蔵省出身。ニューヨークに留学中、メトロポリタンオペラに80回近く通ったという。民主党から初当選するも離党し、自民党に。【農林水産】金子原二郎(77)※初/参院長崎、当選2回(衆院当選5回)長崎県議→衆院議員→長崎県知事→参院議員と、46年の長いキャリアを持つ。好きな女優は栗原小巻。父の岩三氏も元農水相。【経済産業】萩生田光一(58)/衆院東京24区、当選5回八王子市議、東京都議を経て衆院議員となった「たたきあげ」。安倍元首相の側近で、加計学園の問題では “キーマン”といわれる。【国土交通】斉藤鉄夫(69)/衆院比例中国ブロック、当選9回名前のごとく、自他ともに認める大の鉄道マニア。愛読書は時刻表。自民党と連立を組む公明党からの入閣で、元環境相。【環境】山口 壯(67)※初/衆院兵庫12区、当選6回元外交官。民主党の期待の若手だった。野田政権では外務副大臣などを務めたが、野党転落後に離党。自民党に。二階氏の側近。【防衛】岸 信夫(62)/衆院山口2区、当選3回(参院当選2回)安倍元首相の実弟。実父は安倍晋太郎元外相、祖父は岸信介元首相、大叔父は佐藤栄作元首相。母方の伯父に養子入りし岸姓に。【官房・拉致問題】松野博一(59)/衆院千葉3区、当選7回松下政経塾出身。酒豪で交友関係が広く、永田町では“いちばん人柄のいい政治家”という評判も。これまでに文科相などを歴任。【復興・沖縄・北方】西銘恒三郎(67)※初/衆院沖縄4区、当選5回父親は元沖縄県知事。県議を経て’03年に初当選。初入閣を果たしたが、“ガールズスナック”への政治活動費の支出が報じられた。【国家公安】二之湯智(77)※初/参院京都、当選3回京都市議を17年務め、全国市議会議長会の会長も経験。’04年に参院議員に。来年に“引退”予定で、“思い出作り入閣”と指摘も。【少子化・地方創生】野田聖子(61)/衆院岐阜1区、当選9回今回の総裁選では岸田首相と戦う。森友問題の再調査にも言及し、3Aとの距離も見せた。「夫は元暴力団員」との報道が出た。【経済再生】山際大志郎(53)※初/衆院神奈川18区、当選5回獣医師。東大大学院時代にクジラを研究。捕鯨問題についての著書も。自民党神奈川県連の公募を経て政界入り。甘利氏に近い。【デジタル・行政改革】牧島かれん(44)※初/衆院神奈川17区、当選3回わな猟の狩猟免許を持つ。河野洋平元衆院議長の選挙区を引き継ぎ、’12年に初当選。NTTから豪華接待を受けていたことが発覚。【経済安全保障】小林鷹之(46)※初/衆院千葉2区、当選3回身長186センチ。岸田首相の母校・開成高校を卒業し、東大を経て、大蔵省に。甘利氏の右腕といわれる。趣味はマラソン。【ワクチン・五輪】堀内詔子(55)※初/衆院山梨2区、当選3回夫は富士急行社長、義父は堀内光雄元通産相。親類に大久保利通や吉田茂などがおり、天皇陛下の“お妃候補”と報じられたことも。【万博・消費者】若宮健嗣(60)※初/衆院東京5区、当選4回セゾングループの代表だった堤清二氏の秘書を6年務め、その後政界入り。外交、安全保障の分野に精通。趣味は森林浴。「組閣では、各派閥から順送りの名簿が作られて、基本的にそこから閣僚を選んでいきます。つまり、すべての閣僚を適材適所で選んでいるわけではありません。今回はとくに目玉もいなかったことから、“こんな人いたんだ”と、口にする与野党関係者が何人もいました。なかには、“出がらし内閣”“あなた誰?内閣”と言っている人も(笑)」(政治部記者)
2021年10月14日先の自民党総裁選で、立候補した4人の筆跡から、いち早く「岸田氏勝利」を自身のブログで事前予想。見事的中させた筆跡仕事人・芳田マサヒロさん。今回は、岸田氏の書いた色紙の筆跡から“首相の器”について診断。まずは、首相に求められる「リーダーシップ力」から。「ポイントは文字の中の横線の上に突き出た縦線の長さ。名前の『雄』が特徴的です。ほとんど上に突き出ていない(写真の(1)参照)。これはカリスマ性のあるリーダーというより、周りの空気を読みながら指揮を執るタイプに多い。さらに押しにも弱く、押しの強い人に押し切られてしまうことも」(芳田さん・以下同)3A(安倍晋三元首相、麻生太郎副総裁、甘利明幹事長)は押しが強そうだが、大丈夫だろうか?次は「コミュニケーション力」。これもリーダーに必要不可欠だ。「漢字のへんとつくりの間の広さから、周りの意見やアドバイスを受け入れる“聞く耳”を診断できます。『縫』、『雄』のへんとつくりの間は、ビッチリ閉まっていて、見るからに極狭です(写真の(2)参照)。こういう字を書く人は、話を聞くといいながら、実は話半分で聞いているタイプに多い。コミュニケーション力はあまり高くないかも」岸田首相の特技は「人の話をしっかり聞くこと」だったはずだが……。最後は一国の首相としての「責任感」。「責任感の強さは、はねの強さで見ます。『衣』のはねの強さはハンパなく、責任感に関しては申し分ない(写真の(3)参照)。粘り強さや忍耐強さがありますが、あきらめの悪さも兼ね備えている。一人で背負いすぎてしまうところがあるので、ストレスを抱え込むことも。その他、気になる特徴としては『天』『衣』『無』『文』など、文字の横線の右上がり度が強いことです(写真の(4)参照)。これは慣習や伝統を重んじるタイプで、組織主義的で保守性が強い。機転がきかない」責任感はあるが、リーダーシップ、コミュニケーション力にやや難あり。はたして岸田内閣の運命はいかに!
2021年10月14日9月29日の自民党総裁選を勝ち抜き、岸田文雄新総裁(64)が誕生した。10月4日の国会での首相指名選挙を経て、第100代の首相に選出される。岸田氏は、総裁選への出馬を表明してから、総裁を除く自民党役員の任期を「1期1年、連続3期まで」とする党改革案を掲げ、中堅・若手を大胆に起用し、権力の集中を避けると主張し、じりじりと世論の支持を高めた。総裁に選出され、壇上にあいさつに立った岸田氏は「私たちは、生まれ変わった自民党をしっかりと国民の皆さんに示し、支持を訴えていかなければなりません」と宣言。直後の記者会見でも、「自民党改革への思いは1ミリたりとも後退していない」と述べた。注目されていたのは、幹事長という選挙活動の指揮や候補者に対する公認権、党財政を管理する重要ポストに誰がつくか。絶大な権力を振るってきた二階俊博氏(82)の後任とあって、党改革を掲げる岸田新総裁にとっては最初の重要な人事だった。だが9月30日、甘利明党税調会長(72)が内定したと報じられるやいなや、SNSやネット上には、岸田氏への失望の声が広がった。《生まれ変わった自民党とやらも結局3A支配か》《自民党を変えると言った翌日にこれか》《幹事長の甘利氏…政治とカネの問題など大丈夫か》《これじゃ変わってないのと一緒だ》《誰が総裁選を勝ち抜いても何も変わらないから期待しない》甘利氏といえば、2016年に「政治とカネ」の問題で経済再生担当相を辞任している。千葉県の建設会社が、都市再生機構(UR)に対する“口利き”を甘利氏側に依頼し、当時の秘書が現金500万円を受領、甘利氏本人も大臣室などで現金100万円を受け取ったという報道が発端だった。「現金を受け取ったその元秘書は、建設会社側に高級車の『レクサスを買って』と“おねだり”していたという疑惑も浮上し、甘利氏も国会でも相当な追及を受けました。甘利氏と秘書は、あっせん利得処罰法違反と政治資金規正法違反の疑いで刑事告発され、一時は東京地検特捜部が捜査に動きましたが、結局不起訴となりました。甘利氏は、疑惑が浮上した後に『睡眠障害』を理由にして国会を1カ月欠席。捜査の終了を待ち構えていたかのように、国会に復帰していました」(政治部記者)10月1日、幹事長就任後の共同記者会見で、甘利氏は改めて自らの関与を否定。「改めて、お騒がせしたことをおわびいたします」とし、「一番の問題は、私が事件に関して事情をまったく知らされていないんです。寝耳に水」と述べ、説明責任は果たしているという認識を示した。■「麻生副総裁」就任にも反発広がる――だが、こうした甘利氏の姿勢に、反発する声が広がっている。《そういう人物を幹事長に起用する意味がわからない》《誰も再調査しない加計問題、森友問題、桜を見る会と同じ》《もう元気に出てきたのならもう一回ちゃんと解明した方が良いのでは?》《あなたが幹事長ポスト?国民の方が寝耳に水だよ》こうした意見がネット上を覆うなか、自民党内からも疑問の声が上がっているという。「甘利さんは経済再生相を辞任表明した時、『しかるべきタイミングで公表する機会を』と述べ、復帰した後に弁護士の“調査”を発表し、『捜査と異なる結論を導く事実は見当たらなかった』と説明しましたが、弁護士の名前を明かしませんでした。選挙に勝つことで“禊は済ませた”という理屈は立つかもしれませんが、大臣室で現金を受け取ったと報じられたのに、これで説明が十分だったとは思えません」(自民党関係者)甘利氏の幹事長就任につづき、麻生太郎副総理兼財務相(81)が副総裁に就任することとなった。これにも多くの批判の声が上がっている。《岸田さん言ってることとやってることが違う》《なんだこの人事は、まったく期待外れの組閣だわ》《この人事ではとても選挙対策にならないでしょ》永田町では、甘利氏と麻生氏に、安倍晋三元首相(59)の3人は「3A」と呼ばれる。「3人は古くから懇意で、第2次安倍政権発足後から甘利氏の辞任までは菅義偉前首相を加えて『3A+S』と呼ばれ、政権を維持するうえで中心となっていました」(官邸関係者)といい、岸田新政権では、再び「3A」の影響力が大きくなっているのだ。■首相側近は“安倍人脈”で固められ――党役員が正式決定した後は、閣僚の人事が注目を集める。なかでも、首相の“右腕”とされる官房長官には、松野博一元文科相(59)が起用されると見られている。この人事の裏には、安倍晋三元首相(67)の陰がちらつく。「当初から、安倍氏が事実上率いる細田派が官房長官ポストを要求していました。官房長官は首相の“右腕”として政権中枢を取り仕切るので、自民党政権では、同じ派閥に所属するなど、首相と近い立場の議員から選ばれることが多いんです。松野氏は安倍元首相が『細田派四天王』と持ち上げたことがある同派の幹部。政権のど真ん中に“安倍カラー”の強い人物を選んだということに、岸田氏が安倍氏に相当配慮していることがよくわかる人事といえます。安倍元首相は総裁選で高市早苗氏を支援していましたが、水面下で岸田さんにも手を回していました。首相だったときの最側近である今井尚哉元首相秘書官兼補佐官(61)に“岸田四本柱”の策定に協力させていたし、“岸田首相”になった際の政策のすり合わせを、岸田・高市両陣営で済ませていました。また、安倍政権で内閣情報官を務めていた北村滋元国家安全保障局長は、岸田氏と同じ開成高校のOB。岸田氏が立候補を表明する前から陣営と接触し、安倍氏と岸田氏のパイプ役を担っていたとも報じられています。その論功行賞とばかりに、官僚組織のトップとなる事務担当の官房副長官への起用される見込みです。いまの杉田和博官房副長官は北村氏と同じ、公安部門を担当してきた警察官僚。北村氏が就任すれば、副長官は二代続けて警察庁出身となり、これは初めてのことです」(全国紙政治部デスク)新政権が発足し、岸田氏の独自性が期待されていたのにも関わらず、強まる“安倍カラー”。野党・立憲民主党の安住淳国対委員長も、「岸田さんの顔をした安倍内閣」と、国会内で記者団に語っている。さらに――。「9月30日午後、安倍事務所に今井元秘書官、佐伯耕三元首相秘書官、長谷川榮一元内閣広報官と、安倍官邸から霞が関を支配した経産省出身の“官邸官僚”が参集。今後の“振り付け”を協議したとみられています。しかも、政務担当の首相秘書官に、嶋田隆元経産事務次官(61)が就任します。嶋田氏は、今井氏の同期入省組。安倍氏や今井氏の“お目付け役”が官邸に送り込まれているようなものです」(与党担当記者)“キングメーカー”安倍元首相の高笑いが聞こえるかのようだ――。
2021年10月02日9月29日に自民党総裁選で勝利し、自民党総裁に就任した岸田文雄氏(64)。10月4日に臨時国会で行われる内閣総理大臣指名選挙を経て、第100代首相に選出される見込みだ。そんな岸田氏だが、早くもインターネット民から“徹底マーク”されているーー。総裁選に勝利した日の夜、岸田氏は自身のTwitterを更新。お好み焼きとソースが映った写真とともに、このように投稿した。《帰宅すると、妻の裕子がお好み焼きを作ってくれていました。インスタライブで私が、「妻の作ってくれるお好み焼きが大好きです」と言っていたからです。いつも最高に美味しいけど、今日は、一生忘れられない美味しさでした。ありがとう》総裁選で勝利した喜びと、妻・裕子(57)さんへの感謝を表した感動的な内容。多数のフォロワーが「当選おめでとうございます」「最高の奥様ですね」といった反応を示していた。だが、一方で“意外な指摘”が入り始めた。「一部のネットユーザーが、ソースのメーカーを特定し始めました。さらには画像を拡大し、ラベル部分に記載されていた賞味期限に注目。“2021.07.03”と書かれていたことを受け、『賞味期限が切れている!』と指摘し始めたのです。ソースの賞味期限が切れるなんて、どこの家庭にもあることです。しかし多くは親近感が湧くという声だったものの、『“お好み焼き大好き”でよく食べていれば、ソースの賞味期限が切れることはない』などと言い出す人も出てきました。またその後もお箸の製造元を特定する人や、使われているお皿が20年以上前の景品であると指摘する人まで……。次々と、特定合戦が繰り広げられました。いずれも、普通に見ているだけではまず気がつきません。それだけ、つぶさに”監視”をしているということでしょう」(ITジャーナリスト)岸田氏といえば、昨年9月にも家Twitterの投稿が話題になっていた。当時の岸田氏は安倍元首相(67)辞任後の総裁選に立候補し、多忙な日々を送っていた。そんななかで夕食が置かれたテーブルに座る岸田氏と、その姿を立って見守る妻・裕子(57)さんの映った画像とともに《夜のテレビ出演の合間に、地元から上京してきてくれた妻が食事を作ってくれました。ありがたいです。#岸田文雄 #自民党総裁選 #束の間のひととき #妻の手料理》と投稿。すると《素敵な夫婦》と好意的な意見が多く寄せられたいっぽうで、《関係が対等ではない》《亭主関白》と意見する人が出てきたのだ。「その後、岸田さんは『私は妻に対してそんなに強い立場にない』とわざわざ釈明することになりました。当時でさえ、それだけ大きな騒動に発展したわけです。ましてや総裁になってからは、さらに一部のネット民からの監視が強まることでしょう。今後は画像を投稿する際にも、細心の注意を払う必要がありそうです」(前出・ITジャーナリスト)
2021年10月02日この度、モデル・タレントの西内ひろとフォトグラファーの大島央照(オオシマチアキ)で「#PASSPORT BOOK vol.2 IN GREECE」2nd 写真展を開催。新たに、フラワーアーティストのMASSAをお迎えし、展覧会を開催いたします。また、西内ひろが初プロデュースするアパレルブランド“KIGINU”の初公開、オンラインイベントも開催いたします。URL: #PASSPORT BOOK vol.2 IN GREECE 2nd 写真展【オンラインイベント】9/18(土)17:00~18:00/出演:西内ひろ、大島央照ギリシャで大島が撮影したドキュメンタリー映像を見ながら、旅、写真、写真集の裏話などをいたします。お申し込みURL: ※取材いただける方はURLを発行いたします。オンラインイベント終了後15分間、質問を受け付けます。E-MAIL passportbook2021@gmail.com にオンラインイベント参加と書いて17日(金)21時までに、媒体名、掲載予定日、担当者名を明記し、お申し込みください。#PASSPORT BOOK vol.2 IN GREECE 2nd 写真展■女性ふたり旅。ギリシャで見た美しい景色と植物の生命力・色彩を見せる空間、旅で得たインスピレーションで作る洋服、ここにしかない初のコラボレーション!!「#PASSPORT BOOK vol.2 IN GREECE」2nd 写真展「2014年ミス・ユニバースジャパン」準グランプリの西内と、「2002年ミス・ユニバースジャパン」ファイナリストの大島がキューバの旅をスタートとして動き出した#PASSPORT BOOK vol.2 IN GREECE。今作は、西内が“一番天国”だと思ったギリシャのサントリーニ島とミコノス島の旅、第2弾。広大なエーゲ海、青い空、宝石のように輝く街、大きな太陽に照らされたピンクに染まる夕景の街etc。ギリシャで見た、ただただ美しい景色と、どんどん開放的になっていく西内のドキュメンタリーを写真と映像に収めました。今回は、ギリシャの写真を見てインスパイアされたMASSAの生命力溢れる花、そして、旅で得たインスピレーションを受けて作った西内の初ブランドとのコラボレーション展示!【#PASSPORT BOOK vol.2 IN GREECE 2nd 写真展×MASSA/at UNDER THE PALMO】Hiro Nishiuchi×MASSA×Chiaki Oshimaギリシャをより近くに感じることができるような葉山の海が目の前に見えるUNDER THE PALMOにて、モデル 西内ひろと写真家 大島央照が旅したギリシャの開放的な景色とリアルなドキュメンタリー写真・映像と、唯一無二の空間づくりを演出するフラワーアーティストMASSAが「天地人・力強さ」をコンセプトとし植物の生命力/色彩を表現。ここにしかない新たな空間を作るコラボレーションを展開。そして西内ひろが初めて監修するブランド1st Collection“KIGINU”。ヨーロッパを旅しながら得たインスピレーションで、美しい自然と共存するものづくりをテーマに、サスティナブルでエコな素材から作り出される生地を使用し洗練された大人の女性の魅力を引き立てるリラックス感あふれるブランドも展示いたします。是非ご覧ください。<西内ひろ/Hiro Nishiuchi>モデル・女優・タレント・フィリピン観光親善大使・宗像国際環境会議アンバサダー/福岡県出身1989年、福岡県生まれ。16歳でデビューしタレント、モデルとして活躍。2014年にミス・ユニバースジャパンで準グランプリを獲得。2018年にフィリピン観光大使に任命され、同国の映画『KINTSUGI(金継ぎ)』にヒロインとして出演(2021年、日本公開)。2020年フィリピンマニラで行われた第四回Pista ng pelikulang Pilipinoにおいて140本の映画ラインナップの中からBest Actressにノミネートされる。最近はSDGsに根差した環境問題への取り組みを国内外で積極的に行っている。趣味で始めた海外旅行では、これまでに40ヶ国を訪れ、そのセンスが好まれアパレル、宿泊施設など幅広くプロデュース・ディレクション業にも力を入れている。Web: 西内ひろ<Massa Nakagawa>フラワーアーティスト/ダイナミックさと繊細さを合わせ持つ独創的なスタイルと、日本的な感性を融合させたフラワーデザインが信条。世界のハイブランドのレセプション、オープニングパーティーの装花演出、雑誌、広告、ウェディングなどのデザインワークを数多く手掛ける。またコンサートのステージデザインなどのアートワークやディスプレイは既成の概念に囚われない空間デザインとして国内外で高く評価されている。2010年「Flowerアート&デザイン協会」会長就任。2012年パレスホテル東京でのWEDDING装花ブランド「MUKU」を立ち上げ、デザイン監修、同エグゼクティブアートディレクターとして就任。Web: MASSA<大島央照/Chiaki Oshima>写真家/京都府京都市出身雑誌IN ROCK, MOVIE STARにて来日ハリウッドスター、各界のセレブリティのポートレートを中心に、広告、雑誌、オフィシャル撮影、映像撮影、ディレクターなど手がける。ライフワークで人の人生の一部を追いかけたフォトドキュメンタリーを国内外で撮影、展覧会に多数参加。2016年 #PASSPORT BOOK vol.1 IN CUBAを企画・撮影・制作・出版。2002年ミス・ユニバースジャパンファイナリスト、モデル、女優として舞台、イタリア映画(TARDA ESTATE/ベネチア国際映画祭招待作品)出演など。最近は、各々のライフステージに寄り添ったChiaki Oshimaフォトプランの展開や、料理撮影のディレクション、ドレスやジュエリー撮影など幅広く行っている。Web: 大島央照【#PASSPORT BOOK vol.1 IN CUBA】60年代から止まったままのキューバの景色を残したい。アメリカとの国交が回復して変わってしまう前に今のキューバの街と、西内ひろが旅するキューバを写真集として残したいという想いのもと、キューバの旅を初めとして#PASSPORT BOOK制作を開始した。#PASSPORT BOOKとは、旅先でスタンプをおしていく様に、旅の思い出を写真と文章で綴るブック。ここにしかない自分だけの#PASSPORT BOOK。一緒に旅をした気になる、旅をしたくなるブックを写真と文章で構成。Web: #PASSPORT BOOK vol.1 IN CUBA 詳細はこちら プレスリリース提供元:@Press
2021年09月16日「再調査をするとか、そういうことを申し上げているものではない」こう発言したのは、自民党の岸田文雄前政調会長(64)。これは6日放送のインターネット番組内で、学校法人「森友学園」への国有地売却をめぐる公文書改ざん問題について語ったもの。菅義偉首相(72)の総裁任期満了に伴い、自民党総裁選への立候補を表明した岸田氏だが、“一貫性のない”態度に批判が集まっている。9月2日に出演した報道番組で森友学園問題の再調査について問われた際、「国民が納得するまで努力をすることは大事だ」と力強く語っていた岸田氏。菅政権では、コロナ対応や、政治とカネ問題に関する「説明不足」が国民の不信感を高めていただけに、説明責任を果たそうとする岸田氏の姿勢には好感を寄せる視聴者が少なくなかった。しかし、その4日後に冒頭のようにまさかの“前言撤回”。岸田氏の一貫しない主張の陰には、安倍晋三元首相(66)が潜んでいるとある全国紙の記者は言う。「岸田氏はもともと優柔不断で、総理としては不適格ではと言われていました。しかし今回の立候補にあたっては、菅首相と真っ向から反対する動きを見せていて、“変わった”と、期待が高まっていた。しかし、再調査発言の2日後に安倍前首相が高市早苗氏(60)を支援する考えを表明します。これは、森友学園問題に踏み込んだ岸田氏に対する“牽制”の側面もあると言われています。結局、安倍氏を敵に回すことはできなかったようです。岸田政権が誕生しても安倍前首相の傀儡政権になる可能性もあります」岸田氏にとっては、国民の声よりも安倍氏の動きの方が重要ということなのか。早速ブレブレの岸田氏に対し、ネット上では呆れの声が相次いでいる。《やはり岸田文雄氏は安倍前首相の傀儡でしかない。》《安倍に擦り寄る岸田。期待できない。》《多少まともに見えてもやっぱり同じ穴のムジナ》《安倍前首相が怒ったから、前言撤回ですか。やっぱりチキンですな。》相変わらずの優柔不断さを見せた岸田氏。安倍氏の支持を取り付けたとして、朝令暮改をする首相に、国民がついていくことはあるだろうか――。
2021年09月07日Twitterやnoteで子育てに関する『気付き』を発信している、保育者のきしもとたかひろさん。連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』では、子育てにまつわる悩みや子供の温かいエピソードなど、親や保育者をはじめ多くの人の心を癒します。第15回は、『素直な子供』について。また、誰もが持っている劣等感について、きしもとさんが持論を展開します。第15回『気休めだけど、持ってってや。』レジャーシートを広げてごっこ遊びをしているところに、フリスビーが飛んできた。遊んでいた女の子たちは突然飛んできたフリスビーに驚きはしたものの、特に迷惑そうにすることはなく、不安定に転がるフリスビーの行く先を見つめていた。レジャーシートから少し離れた、手を伸ばしても絶妙に届かない辺りでフリスビーが止まる。拾ってあげようかそのままにしていようか迷っている。一人の子が立ち上がりフリスビーの方へ歩いて行ったが、案の定というか、拾おうとした女の子と取りに来た見知らぬ男の子とほぼ同時にフリスビーの元に辿り着いた。お互いに気まずそうにしながらも「せっかくだから」という雰囲気で、女の子が拾って渡してあげた。男の子が「ありがとう!」と思いのほか大きな声でお礼を言ったので、素直な子だなと感心する。女の子は返事をせずに戻っていった。素っ気ないなと思う。普段はおちゃらけて僕たちを笑わせてくれるような、天真爛漫を絵に描いたような子なので不思議に思う。それでも、知らない子に親切にしてあげているのを見て嬉しかったので、僕はその子の側に行き「ありがとうって言ってもらえたなあ」と声をかけた。褒められるためにやったわけではないだろうから、偉いとかすごいとかではなく、喜んでもらえて嬉しかったねという気持ちをただ共有するつもりで、話しかけた。少し照れながら、まんざらでもない顔をする。返事をしなかったのは照れ臭かっただけなのだと思い「答えてあげたらよかったのに~」と、助言をするいうよりはどちらかというと調子付かせる感じで言った。するとその子は笑いながら「わたしの声へんやから」と答えた。思いもしない言葉だったので「ん?なんで?変じゃないで?」と間の抜けた返答をしてしまう。「こないだ友達に、笑い声が変やって言われたから声聞かれたくないねん」言う。そんな一言で声を出すことを躊躇するようになるなんて悲しすぎる。けれど、その場で「誰やそんなこと言ったん!許せへん!」と息まくことができないのは、僕自身もその一端を担っていたかもしれないと思ってしまったからだ。いつも変な顔をしながらみんなを笑わせていたその子が、笑われることに本当は傷ついていたのかもしれない。なにも知らずになにも考えずに笑っていた僕は、大きな間違いを犯していたんじゃないか。「まったく変なんかじゃないし、君の楽しく話す声も元気に笑う声も好きやで」と伝えたけれど、その言葉は不安を打ち消す魔法の言葉ではなく、ただの気休めにしかなっていないような気がした。気の弱い、控えめな女の子がいた。その子には仲のいい友達が2人いて、その日も、その2人に付いて遊んでいた。自分の意見をあまり言わずに2人の言いなりになっているように見えて、その子がひとりになったときに「嫌なら嫌って正直に言っていいんだよ」と、声をかけた。「僕はあなたの気持ちに気づいているからね」という風に、救いの言葉として伝えた。するとその子はしばらく黙ってから涙を流した。残念ながらその涙は、理解者が現れた感動からではない。「怒られた」と思って泣いていた。「嫌って言っていいんだよ」という言葉が、嫌だと言えない自分が悪いのだと思わせてしまっていた。そんなつもりじゃないんだよ、と言っても遅い。自分の思いに正直になっていいよっていう言葉で僕は、嫌と言えないその子自身を否定しまっていたのだ。その子は、仲良しの2人に付いて遊ぶことを嫌とは思わず、もしくは自分で嫌だという気持ちに気づいていない中で、外側から「嫌って言えない自分はダメなのだ」と、元々は持っていなかった不安を持たされたことになる。素直な子と聞いてどんな子を思い浮かべるだろう。気持ちよく「ありがとう!」と言えたり、悪いことをして「ごめんなさい」と言える子を見て素直だなと感じる。なにかお願いをして「うん!」とか気持ちよく返事してくれると素直ないい子だなあと思う。けれどそれは、子どもに素直になることを求めているんじゃなくて、聞き分けが良くて可愛げがあることを求めているのかもしれない。僕が求めている姿や正しいような姿だから素直だと感じているのかもしれない。以前、ある保育士さんが「子どもに注意した時、すぐにケロっとしていると馬鹿にされている気になったり、もっとしょんぼりしろよ…と思ってしまう自分がいる」と言っていたのを思い出す。言い返してきたり、嫌がったりしても、それがその子の率直な思いなら「素直」ということのはずなのに、「素直じゃない」と思ってしまう。そんな風に思ってしまう自分に気づいて、自分はダメだなあって落ち込む。じゃあ、「嫌だ」とはっきり言えることが素直なんだろうか、と考えてみる。いや、自分の気持ちを表せられたらいいけれど、表さないのもその子の表現であるなら否定しちゃいけない。自分の気持ちを真っ直ぐ表すことが素直であることならば、恥ずかしくて黙ってしまうことも、嫌って言えないのも、その子のそのままの気持ちでそのままの姿だ。その子の「素直な姿」を僕が勝手に、「自分の思いが言える子に」と理由をつけてひねくれさせているだけだ。もちろんうまく自分を表せられなくてしんどい思いをしている場合もあるだろうから、ほっとけばいいわけじゃない。素直であることを大切にしたいなら、その子の素直な気持ちを「自分の気持ちを素直に表そうよ」なんて矛盾した言葉で否定してしまわないようにしたいということ。その保育士さんは「自分が言っていた素直な子って、自分が保育しやすい子どもなんじゃないか、そこからズレた素直さが受け入れられないんだろうな」と葛藤を見せながら言った。そして「その子の素直さって「価値」ではなくて、ただ守られるべきもののはずなのに」と続けた。本当だな。素直であるかどうかを測っている時点で、その子の本当の気持ちなんて見ることができていないのかもしれない。それでも、僕は子どもに本当の意味で素直な気持ちでいてほしいから、間違えて傷つけてしまわないように向き合っていたいんだ。そのためにできることはなんだろうって考えたら、その子がどう感じているんだろうって思いを巡らせることしかないのかもしれないけれど。小学生のときに「笑い方気持ち悪いな」と言われたことがある。たったその一言だけで、それから20年以上経った今でも、自分が笑っている顔を写真で見たり、ビデオ通話をしていて視線の端に入ったりするのも嫌だ。きっと言った子は覚えてないだろうから、同じようなことを僕も誰かに言っていて、同じように僕も覚えていないんだろう。あからさまに意地悪で言っていることもあれば、全く悪気がなく言っていることもある。自分にそんなつもりがないのに相手を傷つけてしまうことも、相手にそんなつもりがないって分かっているのに自分が傷ついてしまうこともある。自分の笑顔をまじまじと観察して嫌いになったわけじゃないのに、なんとも思っていないそいつに言われたその一言で、なんで自分で自分を嫌いにならなきゃいけないんだろう。「お前に言われたないわ」と一言返せばよかったのに、と思いながら、一言返したとしてもきっと傷ついていただろうし、ずっと心に残っている。それは、人格を揺るがすような大袈裟なものだけでなく、例えば好きなお菓子なんかを「そんな味が好きなの?」と馬鹿にされたりしても、「大きなお世話じゃ」とは言えず、言えたとしても心のどこかでは「自分は変なんだろうか、劣っているんだろうか」って思ってしまうだろう。いま抱いている不安や劣等感はどこからやってきたんだろうって改めて考えてみると、もしかしたら自分で見つけたものではなく、僕じゃない誰かが作ったものを持たされているだけかもしれない。僕は頭髪が薄くおデコが後退している。いわゆるハゲだ。ただ僕がハゲていることを喜べないのは髪型でオシャレができないからではない。なぜか劣っているように感じるからだ。ただ、冷静になってみたら髪の毛が少ないだけでなんで劣ってるってことになるんだ。ならないだろう。悪口で「ハゲ!」とか言われるけど、誰が言い出したんだ。あれ悪口じゃなくてただの事実やからな。事実を言うだけやったらこっちだって言ったるわ!イケメン!ハンサム!いかん、取り乱してしまった。劣等感を刺激して、さも正しい姿があるように見せて、そうでなければ劣っている、と感じさせる物を社会の中では多く目にする。戦略的な商業広告から、普段の生活の会話まで、なにかしら「こうあるべきなんじゃない?」という感情を持たされている。小学生のまだ低学年の子でも「太ってるからおやつ食べない」とか「足の毛が濃いから見せたくない」と言う子がいる。周りと自分との違いに気づいて自分の身なりなどが気になっていくことは発達の過程で見られる育ちのひとつだ。だけどこの場合は違うだろう。その子が自分とほかの子を見て気づいた違いではなく、自分ではない誰かから持たされた劣等感だ。そしてそれはとても悲しくてしんどいことだ。「素直になろう」とか「元気でいよう」という言葉も、もしかしたらそうなっているのかもしれない。子育てでしんどいことや不安に思うことも、自分で考えて生まれた不安ではなく、周りから持たされた劣等感ということも多くあるんじゃないか。「子どもがかわいそう」「親として」「愛情が」そんな言葉なんか「大きなお世話じゃ!」と一蹴すればいいのかもしれないけれど、そう思おうとしても心の奥底では「自分はできていない」と思ってしまう。子どもたちと楽しく過ごしたいと思っていても、行儀良くさせなきゃ、好き嫌いさせない、手抜きしちゃいけない、そんなことを考えてしまうと、なぜだか楽しく過ごしているだけではダメな気がしてしまう。逆に「心の余裕があることが大切です」「楽しんだほうがいいです」なんて言葉を聞いても、楽しめていない自分がよくない気がするし、さらに余裕がなくなっていく。そのしんどさは、もしかしたら誰かに持たされているのもかもしれない。その子の姿を見て不安になっていると思っていても、どこかで聞いた正しい姿ではないから不安なのかもしれない。自分とその子の関係が苦しいように見えて、誰かが言っていた形にならないから苦しいのかもしれない。その子と自分との関係は、ふたりにしか分からないのに。色んなしんどさがあるけれど、その子と自分との関りだけで両手はいっぱいなんだから、誰かに持たされた不安はその辺に置いとけたらいいな。いや、この言葉もまた僕が誰かに不安を持たせているかもしれないから、置いておけなくてもいいなとも思えたらいいなって書き足しておこう。余談ですが「笑い声が変だと言われたから」と言っていたその子が、その後声を出さなくなったり話さなくなったりすることは、少なくとも一緒に過ごした一年程の間には、なかった。相変わらずおちゃらけている姿を見てそんな大げさに考える事ではなかった、と思いたいけれど、それはできない。もしかしたら、あれからずっと気にしているかもしれないし、忘れていたとしても何かのきっかけで思い出すかもしれない。みんな何かしら誰かから持たされた不安を抱えているのだと思う。「そんなことないよ」って言われても、きっと残念ながら、その呪いみたいなものはずっと無くならない。けれど、そのたびに「そんなことないよ」って言ってもらえたことも思い出して、どうにかやっていけるのかもしれない。「大丈夫やで」「そんなことないで」そんな言葉は気休めのように聞こえるかもしれないけれど、僕もその気休めの言葉に救われていたりする。誰かに言われたしんどい言葉を捨てられないなら、ついでに別の誰かが言った気休めもカバンにぶち込んでおくのはどうだろう。なんとなく取り出してしまったしんどい言葉に絡まって「そんなことないで〜」と出てきてくれ。僕がかけた言葉も「でも、あいつはそんなことないでって言ってくれてたよな」って、しんどい言葉に釣られて思い出してくれたらいいな。「なんて言ってたか覚えてないけど、そんなことないでって言ってくれてたような気がするな」って。「どこの誰やったか覚えてないけど」って。きしもとたかひろ連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』[文・構成/きしもとたかひろ]きしもとたかひろ兵庫県在住の保育者。保育論や保育業界の改善について実践・研究し、文章と絵で解説。Twitterやnoteに投稿している。⇒きしもとたかひろnote⇒きしもとたかひろTwitter
2021年08月14日Twitterやnoteで子育てに関する『気付き』を発信している、保育者のきしもとたかひろさん。連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』では、子育てにまつわる悩みや子供の温かいエピソードなど、親や保育者をはじめ多くの人の心を癒します。第14回は、つい他人と比べてしまうことについて、きしもとさんが持論を展開します。第14回『みんな頑張ってて、みんな怠けてる。』梅雨なのに何日か気持ちのいい晴れた日が続くことを梅雨の中休みというらしい。カラッといい天気だったので、7歳の友人を誘って少し遠い普段行かない公園に行くことにした。宿題を持ってきたので公園へ行く前に済ませることに。二桁の足し算をする横で応援しながら、学校楽しい?なんの授業が好き?と、邪魔もしていた。邪魔されているのに律儀に「国語と道徳が嫌いかなー」と答えてくれたので理由を聞いてみると、道徳の授業で聞いたらしい物語を話してくれた。サルくんがロボットを作って学校に持ってきました。みんなが「すごーい」と言ってサルくんの周りに集まってるのを見て、クマくんは「僕も作ったことがあるよ」と言いました。そしたら、みんなから「持ってきて見せてよ」と言われました。クマくんは急にお腹が痛いと言ってどっかに行ってしまいました。クマくんの気持ちはどんなだったでしょうか?伝聞調ではあるけれど、しっかり話を聞いて理解しているのが分かる。伝わるように話をしてくれたのを聞いて、むしろ国語得意なんじゃないかと思ったが、得意だからといって好きだとは限らないか、と思い直す。ほんでほんで?って続きを聞くと、「どう思うか聞かれてんけど、うまく答えれへんかってん」と、その時のことを思い出すのかしょんぼりしている。「どう思ったの?」と尋ねると「ズルイと思ったって思ってん」と小さな声で自信なさげに応えてくれた。的外れな答えとは思わない。「みんなにすごいなーって言われてるサルくんをクマくんはズルいって思ったんか」と、言葉を補足しながらその「ズルい」の意味を汲み取ろうとしてみる。自身が友達をみて「ズルい」と思うことがあるのかもしれないな、と学校生活を想像する。その「ズルい」が、羨ましいなのか妬ましいなのかは分からないけれど、自分にとって知っている感情で、それがその言葉なのだろう。「あの子だけズルいなーって思うことあるもんなあ。クマくんもサルくんみたいにみんなからすごいって思ってもらいたかったんかもしれへんなあ」と、何かの答えに誘導するわけではなく、例えば映画を観ながらヒロインの心情を考察するくらいの気軽さで、話してみた。「うんうん、そやろそやろ」と頷いてくれる。「けど、みんなの答えは違っててな」と、また急にトーンが下がる。「自分だけ間違えてると思って泣きそうになってん」と。発表してみんなから非難を浴びたんだろうか。発表する前にみんなの答えを聞いて自分は間違っていると思って自信をなくしたんだろうか。「それは辛いなあ、けど間違ってないと思うで」と伝えると、「あ、泣きそうになったってのは言い過ぎやったわ!」と急にケロっとするので、思わず吹き出してしまった。泣きそうになってないんかい!とツッコミながら、けれど、と思う。具体的な辛さは分からないけれど、その泣きそうになるっていう気持ちは分かるような気がする。僕も同じような思いになったことが、いつかあったかもしれない。自分の感じたことや考えたことは間違っているかもしれない。みんなとは違うかもしれない。みんなは分かっているはずなのに自分は分かってないかもしれない。そんな漠然とした不安で苦しくなることがある。答えのないものを答えられるか試されているような、自分の考えがあるのか試されているような。正解がないというのなら答えさせないでおくれよ、と愚痴りたくなる。夕方18時前に電話がなる。僕が体調を崩してから、ドイツにいる友人がほぼ毎日同じ時間に電話をかけてきてくれる。少しだけ世間話をした後で将棋のネット対戦を3局だけ楽しんで、ではまたと電話を切る。だいたい僕がうっかり飛車を取られてそのまま負ける。心配してくれているのと、息抜きなのと、将棋で僕をぶちのめしたいのと3:3:3くらいの割合だろう。残りの1割はなんだろうな。その日電話に出ると、開口一番「よくない話があったんだけど聞いてくれる?」と、尋ねられた。海外映画では「いい話と悪い話どっちが先に聞きたい?」というような台詞を聞くけれど、日本では先に断ることってあまりないよなあと、どうでもいいことを思いながら「聞こうか」とそれっぽい返事をする。「ドラッグストアに石鹸とスマホ用のプリペイドカードを買いに行ったんだけど、買うもの2つだけだからメモせずに行ったのね」ドイツのドラッグストアはコンビニみたいな感じなのかな、と想像する。「で、プリペイドカードはすぐ見つかって、あと、最近おじさんになってきたからか肌荒れひどいしYouTubeでビタミン入りの美容液がいいって見たのを思い出して、せっかくドラッグストアに来たからと思って買ったんだよね」急におじさんのお肌事情の話に飛ぶ。お肌にはビタミンがいいのか。ビタミンてのは何にでも効くんだな、YouTubeはなんでも教えてくれるんだなと、またどうでもいいことを考える。「買うもの2つだから満足して帰ってきたんだけど、家に着いて手を洗おうとした時にさ」と話したところで、「あ、石鹸」と、思わずオチを言い当ててしまった。これもまた映画っぽいやりとりだなとくだらないことを考えていると「ほんま自分が嫌になるわ〜」と、オチを横取りされたことを気に留めずに自身の失態に落ち込んでいる。「あるよなあ」と共感する。「あるんや」と意外そうだったので、そんなきっちりしてるように見えるのかな?と思いながら「うん、毎日のようにあるで。毎日というか、1日に何度も」と返すと、「俺はたまにでこれだけ落ち込んでるのに、それが毎日なんて、生きてるの嫌になれへん?」と心配された。ものすごい勢いで失礼なことを言うな。「けど安心したわ」と続けたので、失礼には目を瞑ることにした。ダメな自分と同じような姿を他の人にも見えたら安心する、その気持ちはとても分かる。それは、蔑んだり見下したりするという意味ではなくて、この人も完璧じゃないんだと思えて、同じ人間なんだと思えるからだ。自分は人と比べてできていないなあ、と思うことはよくある。僕はとくに、よく忘れ物をするし、優柔不断だし、うっかりミスもする。大人になってもできないことだらけだ。だから、きっちりしてる人と話す時はいつも心なしか緊張する。ズボラだとか雑だとかダメなやつだとか思われてるんじゃないかと不安になる。逆に、きっちりしている人からすれば、ゆるい人と話すときには、「柔軟で臨機応変に対応できる人との会話は緊張する」と思っているかもしれない。いや、それは都合よく考えすぎか。僕はいつもどこかで、自分はダメだなあと思っている気がする。ただ人と比べてダメだなあと思うだけならいいんだけど、しんどいのは自分が頑張りたいのに頑張れない時だ。これじゃダメだと分かっているのにできなくて情けなくて、でもどうしたらいいか分からなくて頑張れない自分を責めてしまう。こんな風にできたらいいなって前向きに思えたらいいけれど、それじゃダメだぞ、としっかり後ろ向きに考えてしまう。几帳面できっちりしているのと、ズボラで優柔不断なのとだったら、どっちがいいだろう。感情的な人と理性的な人とどっちがいいだろう。自分がなれない「それ」になろうとすることはいいことかもしれないけれど、その前に「それになれない自分」を責めてしまって潰れてしまいそうになる。「自分を責めちゃダメだよ、自分はそのままでいいって思おうよ」って言葉で、さらに自分を責めて抜け出せなくなっていく。どちらが善くて、どちらが悪いって思ってしまうけど、きっと本当はどちらも悪くない。その人はたまたまきっちりしていて、僕はたまたま忘れっぽいだけ。ズボラなことで誰かに迷惑をかけることもあれば、きっちりしていることで誰かを傷つけることもあるかもしれない。几帳面なことで助かる人がいるかもしれないし、ゆるいからこそ救われる人もいるかもしれない。都合よく考えすぎかもしれないけれど、そういうことにしようと思う。できている人とできていない人を分けて「できている人が正しくて、できていない人が間違ってる」ってしてしまうのは、とってもしんどいもの。こんな人間でいたいな、と思うことがある。子どもと関わる時にこんなことに気をつけたいな。と思うことがある。けれどできなくて、自分はできないなあって思ってしまう。もしかしたら、みんなが「自分はダメだなあ」と思っているかもしれない。そんなふうに思ってみると、少し気持ちが楽になる。みんな頑張ってて、みんな怠けてて、みんな自分はこんなんじゃダメだって思ってて、頑張りたいけど頑張れなくて、みんな怠けてて、みんな頑張ってる。やっぱりそれも都合よく考えすぎかもしれないけれど、そういうことにする。余談ですが無事宿題を終わらせて、少し離れた広い公園へ来た。芝が傾斜になっていて、その芝を上下に挟むように細い歩道がある。子ども連れが数組レジャーシートを広げている。「そういえば小さい頃ここで転けたことあるねんで」と、芝を指差し、スマホに保存されている動画を見せてあげる。当時2歳の友人の手を握って芝の坂道を登っているときに、僕の方が足を滑らせて転んでしまい、その勢いで一緒に転んで大泣きしてしまったのだ。大の大人がひっくり返る動画を見て声を出して笑ってくれたので、どさくさに紛れて「ごめんね泣かして」と7歳になった本人に改めて謝罪した。「悪くないよ!」と返ってきた。「でも、巻き込んじゃったからさ、悪いのは悪いねん」と説明しても、「悪くないってば!」と強めに返してくる。気を遣わせてしまったかなと思いながら、身軽に大型遊具を登るのを離されないように追いかける。なんて言えばいいか分からないから「許してくれてありがとね」と伝えた。すると「好きな人のこと悪いって言いたくないし、自分が悪いんやって思ってほしくないもん」と小さな声で言うのが聞こえた。大事な人のことを悪いって言いたくないし、大事な人には自分が悪いって思ってほしくない。こんなにシンプルなことを、僕は言葉にされてようやくなにより大切なことだと気づく。優しさとか慈しみとか凡庸な言葉しか浮かばない。分かっているのに、僕はあなたに自分が悪いって思わせているかもしれない。分かっているのに、僕は自分で自分のことを悪いって思ってしまっているかもしれない。また自分はダメだなあって思いそうになっている。けれど、君がそう言ってくれるなら、自分で自分のことを悪いって思わないことにするよ。長いローラーすべり台を滑り降りながらそんなことを思って泣きそうになった。いや、泣きそうになったってのは言い過ぎやったわ。きしもとたかひろ連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』[文・構成/きしもとたかひろ]きしもとたかひろ兵庫県在住の保育者。保育論や保育業界の改善について実践・研究し、文章と絵で解説。Twitterやnoteに投稿している。⇒きしもとたかひろnote⇒きしもとたかひろTwitter
2021年06月27日フレンズが4月30日、昨年末より活動休止をしていたメンバー・ひろせひろせ(MC / Key)の脱退を発表した。配信がスタートした新曲「急上昇あたしの人生」のミュージックビデオも公開されている。この脱退の発表により、今後はえみそん(Vo)、三浦太郎(Cho/Gt)、長島涼平(Ba)、関口塁(Dr)の4人でバンドは継続。そして新体制となったフレンズの初の新曲となる本MVでは、えみそんが初めてMVの監督を務めている。自らが企画立案しアイデアに溢れた演出で、疾走感ある楽曲の世界観を見事に表現。音楽のみならず多彩な才能を発揮し、これからのバンド活動に期待が膨らむ見応えのある内容だ。楽曲自体は、ひかりTVオリジナルドラマ『取り立て屋ハニーズ』の主題歌として好評配信中。新ビジュアルも、これからも様々な形で楽しませてくれる予感のする、爽快なメンバーの姿が印象的なものだ。新たなフェイズを迎えたフレンズの今後の更なる飛躍を期待しよう。■リリース情報『急上昇あたしの人生』4月30日(金)配信リリース■公演情報「フレンズワンマンツアー “UNO!”」5月29日(土)会場:愛知・THE BOTTOM LINE1部:開場15:30 / 開演16:002部:開場18:00 / 開演18:305月30日(日)会場:大阪・Banana Hall1部:開場15:30 / 開演16:002部:開場18:00 / 開演18:306月5日(土)会場:東京・duo MUSIC EXCHANGE1部:開場15:30 / 開演16:002部:開場18:00 / 開演18:30※各回90分程度の公演を予定。料金(税込):全自由¥5,000※未就学児入場不可※お一人様2枚まで※ドリンク代別途必要※政府指定のガイドラインに沿った形での開催。※オンライン配信の予定なし
2021年04月30日Twitterやnoteで子育てに関する『気付き』を発信している、保育者のきしもとたかひろさん。連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』では、子育てにまつわる悩みや子供の温かいエピソードなど、親や保育者をはじめ多くの人の心を癒します。子供の成長は、とても喜ばしいもの。ですが結果だけに目がいってしまい、大切なものを見落としてしまっているかもしれません。第13回『すこしずつ、変わっていくだけ。』こないだ、ピーマンを生で食べた。7歳になった友人と食事をしている時に、学校の給食でピーマンが出るとテンションが下がるという話になった。面白半分で「そういえば、こないだピーマンを生で食べてんけど、意外とこれが美味しくて」と話をすると「食べてみたい!」と言い出した。間違いなく好奇心だけで言っている。その好奇心を取りこぼさないように冷蔵庫からピーマンを取り出し、手渡して種をとる方法を教えてあげた。流水で洗って塩をかけると、嫌いだと言っていたのに好奇心の方が勝ったのか勢いよくかぶりついた。パリッと“美味しそうな”音が鳴る。もぐもぐと味わいながら笑顔になったので「おいしい?」と尋ねると、表情を歪ませてお皿に吐き出した。美味しいのは音だけだったらしい。苦い後味を紛らわすために白米を口いっぱいに含む。「出しちゃったけどさ、学校のみんなには食べたって言おう」と笑っていた。「味はどうでしたか?」という質問には「まずかったです!」と元気に答えたのに、しばらくしてから「もう一回食べてみる」と言い出した。クセになるのだろうか。せっかくなので次はマヨネーズをかけてみることにした。すると、さっきより苦味が少ないのか、一口食べて「これはイケる」とばかりに追いマヨネーズ。二口三口と食べ進め、「食べてみて?美味しいわ」と嬉しそうに勧めてきた。それから面白くなって、ケチャップやソースでも試してみた。「ケチャップが美味しいって思ったけど、やっぱりマヨネーズが一番やわ。そのままで食べるのは苦いので0点です!」と、ゲラゲラと笑いながら、結局1人でまるまる一個食べてしまった。僕はピーマンを見るたびにその時のことを思い出しては、パリパリッという心地いい音とゲラゲラと笑う声が耳に蘇ってつい口元が緩む。ピーマンは子どもの嫌いな食べ物の代表格だ。子どもの舌は苦味を感じやすいから無理に食べさせることはないと聞いたことがある。好き嫌いが多くて不安だという子育て中の悩みはよく聞くけれど、ピーマンに限らず嫌いなものを無理に食べることはない。好き嫌いはよくない、という価値観は根強いけれど、無理に食べさせようとすることで、逆に食べること自体が嫌いになっては元も子もない。まず食べることを楽しむことができたら、いつか食べられるようになるかもしれない。もちろん食べられるようにならないかもしれないけれど、ピーマンを食べられなくても生きてはいける。嫌いなものを克服できた。それはきっと本人にとって喜びだろうし、大人にとっても何か成長の瞬間に立ち会ったようで嬉しく感じる。だけどなぜだか、この生ピーマンを食べた話を「苦手を克服した話」にすると、違和感がある。なんでだろうと考えて出た答えは単純明快で、僕が伝えたいと思ったのはその子が苦手を克服したことではなくて、まずそうな顔をしたり美味しそうな顔をしたりして笑い合ったその時間なのだ。ただ楽しく食事をした。いろんな調味料を出してきて、半分遊びみたいだから行儀が悪いかもしれないけれど、とにかく楽しかった。それを伝えたいのに「苦手を克服した」というレンズ越しに見ると、途端にそのおもしろさが見えなくなる。できなかったことができるようになった。それがとてもいいことのように感じる。もちろん、いいことなんだろうけれど、そればかりに目がいってしまって大切なものを見落としてしまっている。そんなことって意外と多くあるかもしれない。同僚が「去年やんちゃだった子が、今年に入ってから落ち着いて過ごしているんです」と話していた。何気なく「成長ですね」と答えた。すると「本当にそれが成長なんですかね」と返ってきた。僕の言葉への批判という感じではなかった。自問するように「大人しく過ごせるようになった、トラブルを起こさなくなったということが成長なんですかね」と考えを巡らせているようだった。何年か前に訪問した保育園での出来事を思い出す。子どもたちが整列して朝の会をしていた。その横で、ひとり、でんぐり返りをしている子がいた。僕が笑って見ていると、それに気づいて嬉しそうにまたでんぐり返しを見せてくれた。周りの子どもたちがその子に「ちゃんと並びや!」と注意をしているのを聞いて、僕も空気を読んで、みんなと一緒に並ぶよう促した。その後も何度かそんな場面があり、その子はじっとしていたりみんなと同じ行動をすることが苦手なんだろうということが見て取れた。別の日に、体育館のようなところで音楽会の予行演習があった。本番を想定して舞台に上がって演奏していて、緊迫した雰囲気が漂っていた。その子はというと、でんぐり返しはしていなかった。普段の姿とは別人のように、かしこまって楽器を演奏していた。その時の僕は、どんなことを感じたんだっけ。「やればできる子なんだ」とか、その子の良い姿を見たような気がしたのだと思う。演奏の途中でその子がトイレに行きたいと言ったので僕が付き添った。手を洗うその子に、僕は「上手に演奏してたね、楽しかった?」と尋ねた。するとその子は、少しムッとしたような顔で「楽しいとかちゃうねん」と答えた。予想もしない返事で戸惑ってしまった。「頑張ってんねんから、楽しいとか言わんといて」と言われた。この言葉を聞いて、「協調性が育まれている」とか「責任感を持っている」なんて的外れなことを思いたくなったけれど、それはさすがに自分のエゴだと思い直す。僕は「やればできる子」なんて言葉を使って、その子のしんどさを見ようとすらしていなかった。自由奔放に見えていたその子は、みんなの中で普通になるために頑張っていたのだ。やればできるのではなく、やるしかなかったのだ。成長したように見えるその姿は、追い込まれて苦しみながらギリギリで頑張っていることなのかもしれない。逃げ道を無くして克服することは成長ではない。ましてやその頑張りを求めて喜ぶなんて、なんだかおかしいような気がしたのだった。毎日わがままを言っていた子が、ある日を境に何も要求をしなくなったとして、そんな時に僕は、聞き分けが良くなったとか自制が効くようになったとか、勝手に成長だと思ってしまう。けれど、その実は「言っても無駄だと悟ったから」かもしれない。自分の思いを伝えるエネルギーがなくなったからかもしれない。社会では、言っても無駄だからと諦めて黙ることを、「大人になる」と表現する。けれど、それは成長して大人になったのではなくて、身を守る術を身につけただけだ。僕は子どもの何を見ているんだろう。できているように見えるその姿は、みんなから外れないように、こぼれないように、少しでも普通になるために必死にしがみついているのかもしれない。僕自身がまさにそれで苦しんでいるのに、子どもの姿となると、みんなと同じようにできて、トラブルを起こさないでいられるようになったそれを、成長だと感じてしまう。学校に行けるようになった。ピーマンが食べられるようになった。友達と仲良く過ごせるようになった。落ち着いて話が聞けるようになった。聞き分けが良くなった。じゃあそれで、その子は生きやすくなったんだろうか。それで一つ問題が解決したように感じるけれど、その子のしんどさは「できなかったことができるようになった」という姿に隠れただけで、ずっと深くに残ったままかもしれない。子どもの育ちを見守って、その育ちに喜びを感じる立場だからこそ、その成長した姿に喜びを感じる。それは悪いことではないけれど、それと同時に、無理していないだろうか、しんどさを抱えさせていないだろうかと、見えない部分にも目を向けていられたらと思う。できなかったことができるようになって生きやすくなることもあれば、しんどくなることもきっとある。僕がほんとうに大切にしたいことは、できなかったことができるようになることではない、もっとほかの何かだ。見栄えのするものに覆われてしまってその大切にしたいことが見えなくなる前に、ちゃんとそれに気づけるようにしていたいな。去年と今年を比べて、先月と今月を比べて、昨日と今日を比べて、子どもができるようになったことは、きっとたくさんある。その分、サボるようになったとか片付けをしなくなったとか、やらなくなったこともきっとある。その度に、一喜一憂する。「成長というよりも、変化しているだけなんですよね」とその同僚は言った。昨日と比べてしまうけれど、日々の姿がその子の姿で、それは成長でもなく後退でもない。ただ、移り変わっているだけなのだと。僕はどこかで、子どもの育ちは右肩上がりで、多少の浮き沈みがあったとしても、伸びていくもの。そんな風に思っていたのかもしれない。できるようになることも、できなくなることもある。その変化の中で、その時のその子が生きやすくなる方法を、その都度見つけていけたら。それは、見栄えしなくて不安になるかもしれないけれど、そうやってとどまることなく心配事が見えている方が、いいのかもしれない。子どものしんどさに気づけなくなるよりかは、もしかしたらその方がいいのかもしれない、なんて思う。余談ですが手巻き寿司の正解ってなんだろう。シンプルに刺身だけを巻くのもいいし、胡瓜や大根を添えて巻くのも飽きない。何も考えずに目についたものを乗せて、巻ききれず溢れそうになったのにかぶりつくのも、何味かわからないけれど美味しい。大葉なんか入れると最高だ。そういえば、僕は子どもの頃から、シソ(いわゆる大葉)が嫌いだった。独特の香りが苦手で、素麺つゆに間違え入れて勢いよくすすってしまい、勢いよく吐き出したことがある。シソはシソでも、ばあちゃんが作るシソジュースだけ飲めた。原液を水で薄めて飲むんだけれど、きれいな薄い紫色でシソ独特の香りがしない。大人になっても嫌いだったんだけれど、いつからか食べられるようになっていて、気づいたら好物になっていた。今では素麺にも手巻き寿司にも欠かせない。僕はシソのことを好きになってよかったって思うけど、だからと言ってシソが苦手な人に勧めたりはきっとしない。苦手なものは、苦手なままでいい。もし、いつかそれを好きになったなら、それは「克服した」のではなくて、ただ「きらい」が「すき」に変わっただけなんだろうなって思う。苦手なままなら、それは成長していないのではなくて、ただ、そのままなだけ。克服するのではなくて、おもしろそうだから試してみる、そんな感じで楽しめるのなら、嫌いなものも試してみようかなって思えるのかもしれない。例えばやったことない組み合わせで手巻き寿司にしてみて、色んな味を試してみるように、あんまり美味しくなくても食べられるようにならなくても、それでもいいかって思えるような気がする。きしもとさんの記事やこれまでの連載コラムはこちら[文・構成/きしもとたかひろ]きしもとたかひろ兵庫県在住の保育者。保育論や保育業界の改善について実践・研究し、文章と絵で解説。Twitterやnoteに投稿している。⇒きしもとたかひろnote⇒きしもとたかひろTwitter
2021年04月09日江崎グリコの「アイスの実」シリーズから、新作フレーバー「アイスの実<濃いブラッドオレンジ>」が登場。2021年3月1日(月)より全国で発売される。「アイスの実」新作は“濃いブラッドオレンジ”一粒一粒に詰まった素材の濃い味わいを楽しめる“ひとくちジェラート”として、1986年の発売から36年目をロングセラー商品「アイスの実」。今回新たにラインナップに加わる「アイスの実<濃いブラッドオレンジ>」は、ブランド史上初となるブラッドオレンジフレーバー。フルーツの果汁をたっぷりと使用した“濃い”シリーズの新作となる本商品には、春に旬を迎えるイタリア産のブラッドオレンジ果汁40%を使用。人工甘味料不使用で仕上げており、素材本来のジューシーで濃い味わいと、後口のほろ苦さが楽しめる一品となっている。<濃いぶどう>&<濃いもも>も同時発売また、果汁80%のジューシーで濃厚なおいしさの<濃いぶどう>、黄金桃の果汁・果肉をブレンドしたコク深いおいしさが楽しめる<濃いもも>も併せて発売される。商品情報「アイスの実<濃いブラッドオレンジ>」発売日:2021年3月1日(月)価格:140円+税【問い合わせ先】グリコお客様センター(フリーダイヤル)TEL:0120-917-111受付時間:10:00〜16:00(月〜金)
2021年02月25日Twitterやnoteで子育てに関する『気付き』を発信している、保育者のきしもとたかひろさん。連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』では、子育てにまつわる悩みや子供の温かいエピソードなど、親や保育者をはじめ多くの人の心を癒します。「つらい環境でも耐え忍べば報われる」という意味を持つ『石の上にも三年』という、ことわざ。ですが、長く続けることよりも難しいのは…。第12回『石の上にも、三日坊主。』始めることと続けることって、どちらが難しいんだろう。興味を示したけれど輪に入らずに、あそびに参加しない子がいる。そのあそびに興味がないのかといえばそうではなく、観戦しながら一緒に楽しんでいるので仲が悪いというわけでもない。むしろやりたそうにはしているけれど、誘ってみると「やったことないから」と断られる。「教えるよ」と声をかけても頑(かたく)なで、あまりしつこく誘うと逆に離れてしまうので、一歩を踏み出すきっかけを見逃さないように見守るくらいしかできない。保護者の方にお話しすると、家では興味深げにそのあそびについて話しているらしい。やってみたい気持ちはあるようだ。じゃあ、なんでやらないんだろう。やってみたいのにやらない。どうしてだろうって考えてみる。無理にそのあそびをさせたいわけではない。したいならしたらいいし、したくないならしなくていい。「見ているだけ」も、その人の楽しみ方だ。サッカーをしたことがなくても観戦は楽しめるし、経験者よりも劣っているということもない。実際にプレーしている人と見ている人、そこに優劣はないのだから。ただ、なにかが足枷になっていて一歩を踏み出せないのであれば、その足枷を外してあげたいなと思う。もちろん、その子と自分は違う人間だし場面も違うから、正しい答えが出るとは限らない。けれど、分かるわけないからといって開き直ってしまったら、分からないままだ。想像したり思いを馳せたりしていれば、すこしでもなにかのヒントが見つかるかもしれない。5年くらい前、友人に誘われてボルダリングを始めた。室内の壁に打ち付けられた、岩のでっぱりやくぼみを模した“ホールド”というものを登っていくスポーツクライミングと呼ばれるものだ。初日はペットボトルの蓋も開けられないくらい腕がパンパンになったんだけど、何度か通っていると筋肉痛も心地よく感じるようになり、日ごとに登れるようになっていった。競技自体も楽しいんだけれど、目に見えて自分の成長が感じられるのも嬉しかった。大人になってのびしろを感じる機会って少ないもんね。ある程度技術がついてきたあたりから、初めは見えなかった面白さを感じるようになってきて、一層楽しめるようになった。そのものの本質的な面白さがわかるまでには時間かかる。あそびもスポーツも仕事も同様だろう。時間をかけてこそ見えてくるものは確かにあるよね。三日坊主という言葉がある。物事が続かないことを揶揄(やゆ)する言葉だ。逆に、辛抱強くいればうまくいくかもしれないという意味として、石の上にも三年ということわざがある。初めは冷たい石の上でも、長く座り続ければいずれ温かくなるということだ。継続は力なりというように、三日で辞めるより続けられた方がきっといい。途中で投げ出さずに粘り強くやり抜くことって、何かを成し遂げるためだけではなく、楽しむためにもとても大切なことだろう。子どもたちにも、やり始めたことは途中で投げ出さずにやり抜いてほしいと思う。今は面白さを感じなくても、続けていれば楽しくなってくるよって。根気強く続けた先に見える面白さや追求することの楽しさを知ってほしい。壁にぶち当たっても乗り越えてほしい。そのときに味わう達成感は格別だ。けれど、と少し考えてみる。何気なく腰掛けて、なんとなく座っていただけなら三年座っていられるかもしれない。けれど、あらかじめ石が温かくなるまでは何年もかかりますよ、と言われていたら、そんな石には座らないんじゃないだろうか。どうしても座らなきゃいけない状況はあるかもしれない。そんな人にとっては、「いつか温かくなるかもしれない」という見通しがあれば安心する。だけど、それは座り続けるための理由ではなく、あくまでも我慢を続けるための慰めだ。そうやってやっとのことで温まったお尻に感じるのは、きっと達成感ではなく、辛かったことから解放された安堵だろう。少し走ってみようかなと思ったときに、遠くにあるゴールにたどり着くまで走り続けないといけないとしたら、ましてや、周りのみんなはその道のりを悠々と走っているのを見たら「今回はやめておこうかな」と、スタートを切ることさえしないんじゃないか。そうしたら、そのまま「興味はあるけれどやっていないリスト」に追加されることになる。続けたら花が咲き、実がなるかもしれないけれど、そもそも始めなかったら芽さえも出ない。なんとなく始めてみて、一歩ずつ進んで、気づいたら遠くまで来ていた。座っていたらいつの間にか温くなっていた。それくらいでいいのなら、最初の一歩も気軽に踏み出せそうな気がする。どうして僕はその面白さを知れるくらい続けられたんだろう、と考えた時に思うのは、同じように下手くそな友人がいたからではないだろうか、ということ。もちろん、上手い人に憧れて鍛錬して上達する人もいるだろうけれど、自尊心の低い僕の場合は、周りの人たちが板チョコのような薄さのホールドを掴んで身軽に登っているのを見て、憧れよりも惨めさを感じた。僕だけが、バナナみたいなデカいホールドに不格好にしがみ付いている。身軽さなんて微塵もなく、ナマケモノのように壁にへばりついて腕をプルプルさせたあげく引力に負けてマットの上に落下する。初心者なんだから当たり前だし、恥ずかしがって楽しめないのはもったいない。そんなこと分かっているけれど、やはり恥ずかしいものは恥ずかしいのだ。だから僕は、慣れるまではひとりで行けなかった。一緒に通う、同じタイミングで始めた同じように下手くそな友人がいたから、その恥ずかしさが紛れていた。自分より下手だから安心できるのではない。「失敗しても大丈夫だ」と思えるから安心できるのだ。持つべきものは偉そうに教えてくれる熟練の友ではなく、共に失敗する未熟な友だった。そんなことを思い出しながら思う。興味を持ったあそびに参加しないその子は、新しいことに挑戦することが嫌というよりは、「みんなができていて自分だけできない」のが嫌なんじゃないだろうか。「失敗するかもしれない」という気持ちが足枷となっているんじゃないだろうか。なんとなく始めて、なんとなく覚えて楽しんでいる間に上達することってある。特に幼少期はそういうことが多いだろう。自分が人よりも劣っているかも、そんなことを思うとはじめの一歩は踏み出せない。大人なら子どもよりも上手にこなして「やってみなよ、教えてあげるよ」って、色んなことを教えてあげたい。けれど、未熟な友として共に失敗しながら成長していくのも良いのかもしれない。簡単に投げ出したり、逃げ出したりしないでほしい。けれど、途中で辞めることを「悪いこと」にしてしまっては、その経験はきっと「あの時も投げ出してしまったし、今回もどうせ続かないからやめておこう」になる。投げ出さないように嫌なことに耐えて育つのは、根気強さではなく我慢強さだ。根気強さや粘り強さはきっと、「もう少し続けたら面白くなるんじゃないかな」という期待のもとにあるんじゃないかな。それはきっと、与えられるものではなく、気軽に始めてたまたま続いた、そんな経験の積み重ねから生まれるんだろう。だから、途中で投げ出さずに続けてほしいなら、途中で辞めても大丈夫って思いたい。いつ立ってもいいからこそ、気負わずに安心して座り続けられるのだ。身になりかけたものを途中でやめそうになったときに「もったいないな」って思ったりもする。こんなに勉強してきたのに生かせないのはもったいないな。この資格取ったのに、別の仕事するなんてもったいないな。ここまで原稿書いたのに、ボツにするのはもったいないな。そんなことを大人になっても、いや、大人になったからこそ思ったりする。きっと、これまでそれに注いできた時間が無駄になるようで嫌なんだと思う。けれど、これまでの時間はこれまでの時間で、これからの時間はこれからの時間だ。ちなみに、これまで注ぎ込んだものを無駄にしたくない!という思いで損をすることが分かっていてもそれを続けてしまうことを、コンコルド効果っていうらしい。博打好きの同僚が教えてくれた。博打と一緒にするなよ、と思うけれど、同時に納得もしてしまう。未来のためにやってきたことを間違いにしないために、これからを犠牲にしているならそれは、未来ではなく過去のために生きているということになる。きっと誰だって、失敗するのは嫌だ。けれど、それが失敗じゃないとしたらどうだろう。「やるなら途中で投げ出しちゃダメだよ」「どうせ続かないんだからやめときなよ」って言葉は減るかもしれない。飽きたなら途中で辞めればいい。しんどければ逃げればいい。簡単に投げ出せばいい。そんなことを言葉にするのは憚られるけれど、それが許されるなら、大人も子どもも、少し肩の荷が降りるような気がする。甘いんじゃないだろうか。その子のためにならないんじゃないだろうか、と思ってしまうかもしれない。途中で辞めてしまう子を見て、歯痒い気持ちになるかもしれない。けれどそれは失敗じゃないし、無駄なんかじゃないとすれば、育んでいるものに目を向けられる。新しいことに挑戦できた。別のことに興味を持てた。できない自分を受け入れられた。全部大成功だ。何にも見つからなくても、自分の気持ちに正直になれた、無理しなかった、だけでも十分だ。それを失敗にしなければ、次の挑戦ができるかもしれない。気軽に、なんとなく興味を持って、なんとなく始められるかもしれない。そんな一歩が積み重なって、気づいた頃にどこか遠くまで来ているかもしれない。もちろん、どこにも辿り着かないかもしれないけれど、それはそれでいいじゃない。活発な子に育ってほしいなら、元気がなくてもいいよって言ってみる。なんでも食べる子に育ってほしいなら、無理して食べなくてもいいよって言ってみる。強い子になって欲しいなら、泣いてもいいよって言ってみる。今と未来は地続きだけれど、今のこの時間を、未来の何かにつなげるために無理しなくていい。「こんなんじゃダメだ」ではなく、「できなくても大丈夫」って安心できたなら、どこかの何かのきっかけでなんとなく「もう一歩踏み込んでみようかな」って思えるのかもしれない。余談ですがこの連載コラムは、月2本くらい書くつもりでスタートした。次第に月1本くらいのペースになっていった。1月から始まり12月にちょうど第12回の原稿を書き始めた。三日坊主の自分が月一を継続したと喜んでいたら、八割方書けたくらいで手が止まってしまい、結局予定より2ヶ月遅れた。初めは、「続けられるか分からないけれどとりあえずこの一本を」と書いていたのに、過去に積み上げたものや達成しそうな何かを見た途端、身動きが取れなくなったのだ。けれど、書いた。今までのものなんて忘れて、次のことも考えないで、目の前のことだけ考えて、ちゃんとできた。えらいな、自分。結局、ボルダリングは2年ほど続けたけれど、引っ越してアクセスが悪くなったことで足が遠のき、そのまま辞めることになった。せっかく鍛えたのだから衰えないようにと通い始めたフィットネスジムは、2、3回通って飽きてしまった。かと言って一度始めたのに途中で辞めるのもなんだかやはりダメな気がして「今月は月謝も払ったし…」と先延ばしにし続けていたら、結局1年間ほとんど通わないのに毎月月謝が引き落とされていた。これがコンコルド効果か、と無表情で納得した。始めたいけれどきっかけがない、ということもあれば、続けたいけれど途切れてしまうこともある。やめたいのにダラダラと続けていることもある。三日坊主が石の上に座っているのを想像してみる。ただの坊主なら修行っぽいけれど、三日坊主が座り続けているのならば、よほど居心地のいい石だろう。そんな石が見つかればいいなって思う。いつか見つかるかもしれないから、そんな石が見つかるまでは、少し冷たいお尻ももう少し我慢してみようかな、なんて誤魔化してみたりする。座っているのがしんどいならば、寝転んででもへばりついてでも居心地いい姿勢を見つけてやろうか。きしもとさんの記事やこれまでの連載コラムはこちら[文・構成/きしもとたかひろ]きしもとたかひろ兵庫県在住の保育者。保育論や保育業界の改善について実践・研究し、文章と絵で解説。Twitterやnoteに投稿している。⇒きしもとたかひろnote⇒きしもとたかひろTwitter
2021年02月06日お笑いコンビ・キャイ~ンの天野ひろゆきが30日、一般女性との結婚を発表した草なぎ剛をツイッターで祝福した。草なぎはこの日、婚姻届を提出。所属事務所を通じ、「これからも、今までと変わらぬスタンスで仕事を続けていきたいと思っておりますので、皆様にも応援していただけるよう、日々精進してまいります」とコメントを発表した。天野は相方・ウド鈴木と共に撮った思い出のスリーショットをアップし、「うぉー、今つよぽん結婚!」と興奮。「こんな嬉しいサプライズは、なんぼあってもいいですからね」と喜び、「本当におめでとう」とメッセージを送った。天野が投稿した写真は、昨年11月に草なぎが行ったライブイベント「草なぎ剛のはっぴょう会」後の一枚。当時のブログでは会場まで足を運んだことを明かし、「歳をとると、失敗を恐れたり、なるべく恥をかきたくないという気持ちが強くなり、次第に自分で挑戦を諦めたり、限界を決めたりしてしまうものだ」「しかし、つよぽんにはそれがない」「その姿を見ていたら人生を楽しんで生きてるかい?とお尻を叩かれたような気持ちになったりした」と感想をつづっていた。
2020年12月30日2021年3月4日(木)~3月14日(日)に、東京・大手町三井ホールにて上演される舞台「元号男子」のメインビジュアルが公開された。本作は、志島とひろによる元号を擬人化した作品を舞台化したもの。時代とともに生まれた大正、昭和、平成、令和の4人の元号男子が一つ屋根の下で暮らす模様を描いている。脚本・総合演出を川尻恵太、演出を白鳥雄介が担当。大正役の和合真一、昭和役の校條拳太朗、平成役の平賀勇成、令和役の大薮丘を中心に、若手俳優たちが活躍する。今回公開されたビジュアルのイラストは、原作者の志島が手がけた。背景はイラストレーターの村カルキによるもの。魅力的なキャラクターはもちろん、美しく描かれた背景も注目してほしい。なお、和合、校條、平賀、大薮のキャスト4名のサイトにて、チケット先行受付を実施中。申し込み締め切りは12月7日(月)23:59となっている。【公演概要】舞台「元号男子」公演日:2021年3月4日(木)~3月14日(日) / 全15公演会場:大手町三井ホール(東京都千代田区大手町 1-2-1 Otemachi One 3F)チケット代:全席指定9,800円(特製 A4 タペストリーつき / ランダム)※本公演のチケットは電子チケットとなります。ご注意ください。キャスト先行:2020年11月20日(金)10:00~12月7日(月)23:59大正役・和合真一 FC: 昭和役・校條拳太朗 FC: 平成役・平賀勇成 ニコニコチャンネル: 令和役・大薮丘 FC: ※詳細は各サイトでご確認ください。公演に関するお問い合わせ:サンライズプロモーション東京 0570-00-3337(平日12:00〜15:00)公式サイト:
2020年11月27日Twitterやnoteで子育てに関する『気付き』を発信している、保育者のきしもとたかひろさん。連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』では、子育てにまつわる悩みや子供の温かいエピソードなど、親や保育者をはじめ多くの人の心を癒します。まだ感情のコントロールが苦手で、癇癪(かんしゃく)を起こしてしまう子どもたち。他人の苦しみや欲求は、どうすれば理解できるのでしょうか。第10回『同情するならお湯をくれ。』「怒りたくて怒ってるんじゃないよ」と言われて「なら怒らなければいいじゃないか」と思ったことがあるのは僕だけではないだろう。学校からの帰り道、歩きながらノートを広げている子がいた。「危ないからノートしまって歩きなよ」と声をかけると「だってー」と返してきた。「危ないことは危ないからやめてね」と口答えを制した。理由があろうと危ないことは危ないのだ。しばらく歩いたところでお茶を飲みながら、またノートを広げていた。「しまっときって言うたやろー!」と少し語調を強めると、注意されて落ち込むというよりも楽しみを邪魔されたというような表情をした。心配していることを伝えるつもりで言い訳のように「怪我したらあかんからな。ほんで、暑いから水分しっかり取ってな」と言うと「だから飲んでてんやん」と言い返してきた。なんだかやけに反抗的だなと思いながら視線を落とすと、広げたノートに地図のようなものが書かれているのが見えた。スタートらしき場所には「がっこう」と記されており、路線図のようにいくつかの四角を線で繋げていて、ところどころに手書きの星マークがつけられていた。双六のようにも見える。「なに見てたの?」と、指摘としてではなく興味本位で尋ねた。「帰り道に暑くてお茶飲まなあかんから、飲むポイントを書いてんねん、いまここ」と言って[学校]と[学童]の間にあるチェックポイントの一つを指した。「真夏の水分補給」も子ども達に指導している交通ルールと同じく大切なことだ。それを自分たちで工夫して実践できるようにしていることに感心しながらも「いいことやけど、危ないからノート広げて歩くのはやめような」と伝えた。しばらくしてから、「おもろいなあ」とそのノートのことを思い出していた。自分たちで相談して書いたんだろうか。決められためんどくさいことも、あそびに昇華してるなんてすごいじゃないか。「いいことやけど」ってなんやねん。ただただめっちゃおもしろいやん。「いいことや」って取ってつけたように言ったけど、あの子たちには「怒られた」ってことだけが残っているんじゃないかと少し後悔した。自分で自分に「怒りたくて怒ったんちゃうねん」と言い訳した。「なら怒らなければいいじゃないか」と子どもの頃のぼくが顔を出す。危ないことは危ないからやめてもらわなきゃいけない。けれど、もっとほかに伝え方があったんじゃないか、間違いを指摘することをそんなに焦らなくてもいったん話を聞くことくらいはできたんじゃないか、と何度も考えていた。思い通りにいかないときに癇癪を起こしてしまう子がいる。諭すように話したり、思いに寄り添うように声をかけたりしてみても全く応じることはなく、言葉をかければかけるほど興奮したり、脱力して床に寝そべり駄々をこねたりする。腫れものを触るように接していき、癇癪玉が爆発したら最後「鎮まりたまえ!」と災難が過ぎ去るのを待つようになだめ、根負けして思い通りにさせるか、そうでなければ開き直って強引に言うことを聞かせるしかない。その子は好きなあそびを中断されるたびに駄々をこねた。みんなで遊んでいるときには機嫌よく過ごしているけれど、終わってしまったり中断されると手をつけられなくなっていた。ある日、その子は好きなあそびをせずに一人で過ごしていた。ひとりでのんびり過ごしているのかといえばそうではなく、かと言って別のあそびに夢中になっている訳でもなさそうで、あえてそのあそびから離れているように見えた。何かあったのか尋ねてみると、その子は少し黙ってから「もう、ああなるの嫌やねん」と小さく言った。「ああなるの」とは「キーーーッ!」ってなること、つまり「癇癪を起こしてしまうこと」だ。「思い通りにいかないことがあったら癇癪を起こす子」ぼくはそんな風にその子のことを見ていた。思い通りにいかないことを押し通そうとする姿は、半ばわがままにも見えた。その子にも制御ができないのだ、とそのときに初めて気が付いた。本人が苦しんでいるなんて思ってもいなかった。癇癪を起こさないようにしたり、それを鎮める方法を話し合いもした。けれど、それは「その子がしんどいから」ではなく、「僕たちがしんどいから」やっていた。その子が癇癪と戦っているのに、僕とも戦わなきゃいけないなんてそりゃあしんどい。僕には見守るか支えるしかできなかったのだ。もしかしたら、わがままな姿や怠慢に見える姿が、ただ気に食わなかったのかもしれない。誰も困りはしないのに何故だか許せない、そんな感情ってあるんだよね。その子が感情をコントロールできなくて、うまく表現できなくて苦しんでいるかもしれない。それを分かっていても、それでもやっぱり「自分の言う通りにしたいだけじゃないか」とか「ただのわがままなのではないか?」と感じてしまう自分がいる。考えてみれば、その子が癇癪を起こさずに言うことを聞いて欲しい、と望んでいる僕の考えも、自分の思い通りにしたいというわがままだよね。僕たちはなんで、人がわがままに振る舞っていたりサボっているように見えたりするのが許せないんだろう。たとえば危険があるとか誰かの迷惑になるとかなら分かるけれど、誰に迷惑をかけるわけでもないのに、手を抜いていたりサボっていたりズルをしていたりすると許せない。気に食わないな、と思うだけなら勝手だけれど、「その子のためにならない」というもっともらしい理由をつけて厳しくしてしまうこともある。親を甘やかしたらいけないという価値観も、保育や教育の業界から聞こえてきたりする。「気に食わない」だけで批判するのは理不尽だって誰でも分かるけれど、それが「教育」とか「当たり前」という仮面を被ってたら、そういうものなのかもと思ってしまう。しんどい人は救われるどころかさらに追い込まれていく。しんどいのなら、甘えてもいいんじゃないのかな。なんで、甘えたり手を抜いたりすることが許せなくなってしまうんだろう。あ、例えば、狩りで生きてきた時代には、サボってしまったら生死に関わるから本能的に「サボるのは許せない」と感じるのかもしれないな。とか適当なことを考えてみたけれど、「サボりたい」「休みたい」も生きるために必要な心の声じゃないか。「何個しんどかったら帰れるんですか?」中学校に勤めている友人が、保健室で生徒に聞かれたらしい。熱は無いけれどアトピーの調子が悪いし具合もよくないので帰りたい。けれど、サボりだと思われて帰らせてもらえないとのこと。甘やかしてクセになってもいけないし、だからって子どものしんどさに寄り添えないのもつらいものだ。僕は子どもの頃からアトピーなんだけれど、痒いとか痛いとかだけでなく、向けられる視線やかけられる言葉に傷付いたり、自分は頑張りたいのに頑張れないしんどさもある。学童でも身体が痒くて目の前の宿題に集中できない子がいて、それを見て「集中力がないな」と思ってしまいそうになる。けれど、絶対に「集中しなよ」と声をかけることはしない。だって、集中できるならしてるもんね。痒いから集中できなくて、集中できないからまたイライラして掻いちゃって、終わりが見えなくてボーッとしてしまうんだ。荒れた肌は見た目も良くないし、フケが服についたりするから清潔感がないとか言われる。清潔にしていないとすぐに悪化するから、一度来た服を洗わずに着ることはないしシーツだってしょっちゅう洗う。その辺の清潔感のあるイケメンよりも、きっと清潔であることを心がけているけれど、見た目の清潔感は伴わない。食生活が良くないんじゃないかとか生活習慣が悪いんだよって言われることもある。怠慢だから、サボっているからだよと病気をその人のせいにしたがる。しんどくてエネルギーを使いすぎて、いつもなら容易にできることが、ガス欠でできないこともある。当たり前にできるべきことができていないから、またやっぱりサボってるって思われる。その人のしんどさはその人にしか分からない。同じ痛みでも、平気な人もいれば、動けないくらい苦しむ人もいる。その人にしかその苦しみはわからない、という至極当たり前のことを忘れて、苦しむ人が弱いのだと、それを悪いことのようにしてしまう。忍耐力が足りない?みんな我慢してる?その事実があったとしても、それでしんどさはなくならないのに。病気に限らない。健康でも、その時の環境や状況でしんどい人はきっとたくさんいる。家族がケガをしたり、飼っている猫が病気だったり、失恋したり、推しが引退したり。病気だからとか障害だからとかではなくて、なにもなくてもそのしんどさに目を向けていたい。「そんなことくらいで」なんて他人が言っちゃいけないんだよね。みんなは大丈夫なのに自分がしんどくても、「そんなことくらいで」って自分で思ってしまうことも、もうやめたい。みんなしんどいことは嫌なはずだよ。そのしんどさから逃げたり解放されることを望んだりするのって悪いことじゃないはず。みんながしんどくなくて、みんながサボれる社会の方が断然生きやすいやんか。「なぜしんどいか」なんて関係なくて、そこにしんどさがあるのなら、それをまずは解消したい。甘えてなにがいけないんだろう。弱くてなにがいけないんだろう。教育というモノを言い訳に、育てるという名目のもとに、その子のしんどさを否定してはいないだろうか。まっとうに生きる。勤勉に生きる。それが幸せになるためではなく、ちゃんとした大人として見られるためなのであれば、もうそれにならなくてもいいやって思うの。ちゃんとした大人、を目指すなら、人のしんどさを自分の尺度で測らずに、想像したり寄り添える大人でありたいと思う。「正しいこと」よりも先に「生きやすいこと」を大事にしてみようよって思う。他人が大切にしているものを否定しないのと同じように、他人のしんどさを否定しない。それができたならきっと、自分の大切にしているものもしんどいことも、自分で否定しないでよくなるんだと思う。子どもの育ちを見守る立場である僕が、こんな風にサボることを肯定したら、それで不安になる人もいるかもしれない。けれど、ぼくははっきりと言いたい。一個でも十分しんどいよ。みんながしんどくないことでも君がしんどいのならしんどいんだよ。休んでいいんだよ。手を抜いていいんだよ。苦しみを我慢して厳しくされた分だけ辛抱強くはなるかもしれない。けれど、その分相手にもその強さを求めてしまうのであれば、自分のしんどさに気づいて誰かに甘えられるほうが、その誰かもまた誰かに甘えていけるほうが、みんながしんどくないんじゃないかな。少なくとも、相手には相手のしんどさがあることを知れるから、強さを求めて追い込んだり傷付けたりすることは減るだろう。みんなが強いことを望んで傷つけ合うよりも、弱さを認め合って支え合えたら。甘いと言われようと、僕はそうありたいと思うのだ。余談ですが別の日の帰り道に、「泥棒って、ご飯食べてるんかなあ」と尋ねてきた。不意に問われたその意図が分からなかったので、なるべく断定するような答えにならないように「どうやろうなあ」と返すと「食べてないんやったら、カップラーメンにお湯入れてあげたいわ」とその子は言った。ただカップラーメンをあげたい、ではなく「お湯入れてあげたい」という具体的な優しさが、哀れみとか同情ではなくその子の本当の思いであることを感じさせた。「泥棒ってお金ないんやろ、だからカップラーメンに」と繰り返す。生まれながらに悪い人、ではなく、お金がないから悪いことをしてしまう。そんなふうに考えられる人がどれだけいるだろう。悪い人の代名詞である泥棒だけれど、その子にとっての泥棒は悪い人ではなく困っている人なのだ。犯罪を犯すのはその人のせいで、貧乏なのは自己責任だと叩かれるこの社会で、この子は泥棒のカップラーメンにお湯を入れてあげたいと言っている。それを聞いてぼくが抱いた感情を、なぜだろう、うまく言い表せられない。考えを巡らせすぎたのだろうか、「あーーー」と叫んで「あかん、ほんまに泥棒にお金配りたくなってきた」と泣きそうな顔で呟いた。もしぼくが泥棒なら、って少し想像したら、泥棒でもないぼくが何故か救われたような気持ちになった理由が分かった気がした。ぼくが泥棒だったなら。きっと、そのもらったお金でカップラーメンを買うだろう。ビールを飲んだり美味しいお肉も食べたいけれど、餃子やお寿司も食べに行きたいけれど、でもきっとカップラーメンを買うだろう。そして、その子がお湯を入れてくれるのを待つのだ。きしもとさんの記事やこれまでの連載コラムはこちら[文・構成/きしもとたかひろ]きしもとたかひろ兵庫県在住の保育者。保育論や保育業界の改善について実践・研究し、文章と絵で解説。Twitterやnoteに投稿している。⇒きしもとたかひろnote⇒きしもとたかひろTwitter
2020年10月27日江崎グリコの新作アイス「アイスの実<大人のショコラ>」が、2020年9月28日(月)より全国で発売される。「アイスの実」史上“最濃“のフローズンショコラ2019年に発売され好評を得た「アイスの実<大人のショコラ>」が、リニューアルして2020年も登場。ベルギー産のハイカカオチョコレートを使用したジェラートを、ココアパウダーが入ったコーティングで包み込んだ、ほろ苦く濃厚な味わいが楽しめる大人のアイスの実だ。今回のリニューアルでは、トリュフチョコレートを思わせる口溶けの良さや、チョコレートの濃厚感に更に磨きをかけ、「アイスの実」史上最も濃いフローズンショコラに。また、睡眠の質を高めるなどリラックス効果のあるGABAを1袋に28mgを配合しており、1日を締めくくるリラックスタイムにもぴったりのアイスとなっている。商品情報「アイスの実<大人のショコラ>」発売日:2020年9月28日(月)メーカー希望小売価格:180円+税内容量:84ml(7ml×12コ)【問い合わせ先】グリコお客様センター(フリーダイヤル)TEL:0120-917-111受付時間:月~金 9:00~16:00
2020年09月17日Twitterやnoteで子育てに関する『気付き』を発信している、保育者のきしもとたかひろさん。連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』では、子育てにまつわる悩みや子供の温かいエピソードなど、親や保育者をはじめ多くの人の心を癒します。保育の授業である質問をされた、きしもとさん。これを読んでいるあなたにとって『子供』とはなんですか?第9回『ちょっとずつやさしくて、ちょっとずつかなしい。』「子ども」を一言であらわすとなんという言葉を思い浮かべますか?保育の授業でそんな質問をされた。はしの席から一人ずつ「かわいい」とか「純粋」とか答えている中で、ある男が「邪悪」と答えた。その言葉は一際目立っていて、ぼくは「たしかに子どもには邪悪な一面もあるかもしれないな、おもしろい視点だなあ」と感心していた。一方、教壇でその質問をした先生は憤怒していた。憤怒なんて言葉を初めて使ったけれど、大げさではなく噴火する勢いで声を荒げて怒っていた。「子どもに悪の心なんてありません!」と。その男の言葉が宙ぶらりんになっていた。なんで「邪悪」と言ったのか、どんな想いや考えがあるのか聞こうとしないその姿勢はいかがなものかと思ったが、必要以上に怒られている当の本人は言い返すことはなく「そんな変なこと言った?」と困惑していた。どこかに隠れてしまったその男の本心を知りたくて、授業が終わってからどういう意味でその言葉を使ったのかを尋ねた。「子どもって悪気なく嫌なこととかするやん?人叩いたり悪口言ったりさ」と、いまだ怒られたことに納得しない表情で話してくれた。「それ、無邪気ちゃうん」と尋ねると「あ、それやわ!」と合点がいったようだった。まわりが子どものキラキラしている姿ばかりを言っている中でその視点を提起したのは素晴らしいなという尊敬の気持ちと、どんな言い間違いしてんねんアホやなという気持ちが入り混じり、「じぶん邪悪やな」と返すと、どう受け取ったかわからないけれど「ほんまや、邪悪やわー」と笑っていた。子どもの言葉と向き合うときに「子どもの言動をどこまで注意したらいいかわからない」という相談を受けることがある。小学生にもなると、どこで覚えたのか耳を塞ぎたくなるような暴言を、たとえば「しね」とか「ころすぞ」とか言うような言葉を軽はずみに使うようになる。そんな言葉を子どもから聞くと、ヒヤリとする。純粋無垢だったはずのその子が、悪に染まっていくようで不安になる。純粋なまま育ってほしい一心でその言葉を禁止したり、その言葉を使ったその子を咎めたりしてしまうけれど、子どもが本当に殺意を持ってその言葉を使っているのかと言えばきっと大体がそうではない。「きらい!」であるとか「むかつく!」であるとか、関西人の使う「あほか!」くらいの軽いノリの時もあるのかもしれない。どこで覚えたのかと書いたけれど、思い当たる節はいくつもある。テレビやネット動画だけでなく、日常で大人も使っていたりする。それこそ軽いノリで。自分の思いを言葉にしようとしたというよりは、まだ語彙の少ない中で相手を攻撃したり、自分のイライラする感情を表す言葉として、どこかで見聞きしたその乱暴な言葉を使うこともあるだろう。ぼくはそんなとき、自分が嫌だなって思ったことなら、それをそのまま伝えるようにしている。子どもの育ちのために、とか躾のためにとかは考えず、ひとりの人としてどう感じたかをそのまま伝える。言われたことが嫌だったなら、「傷ついたよ」と伝えればいい。誰かを傷つけるようなことをしていたら「見ていて気分が悪いよ」と自分の気持ちを話せばいい。必要以上に断罪はしない。表現の方法を間違えているだけだから、その言葉を肯定はしなくても否定もしない。否定したり禁止するということは、その子の感情に蓋をするということかもしれないからね。整理できない思いがあるのならそれを使わないようにするのではなく、その思いを表す言葉を知ることや、その感情との向き合い方を知ることの方が必要だろう。あわせて、その言葉の本心を理解しようとしてくれる存在と、受け止めてもらう経験も。それでもやっぱり根っこの感情が本当に「殺したい」のであれば「死ね」という言葉で正しいんだろうし、もしそうならば、その言葉を他人が否定することはできない。僕たち大人も自分の思いや感情を普段からちゃんと言葉にしているだろうか。そう考えたら、できていることの方が少ない気がする。「仕事いきたくなーい」ってよくいうけど、みんなは言わないかもしれないけど僕は言うんだけど、本当に仕事に行きたくないかといえば実はそうではなく「もうちょっとゆっくり寝たーい」とか「のんびり映画見てすごしたーい」とかだったりする。「細かい雑務がめんどくさーい」とか「あの上司と顔合わせたくなーい」とかかもしれないし、言葉にできなくてなんとなく言っていることだってきっとある。その感情をそのまま言葉にするのって実は難しくって、複雑に絡み合った感情を何か言葉にしたくて目の前のことにそのまま表出したりする。自分の感情をうまく言葉にできないだけでなく、自分の感情自体を正確に理解することもままならないときもある。子どもに「あっちいって!」とか「きらい!」とか「死ね!」と理不尽に言われたときに、本当はチクっと傷ついているのに、どうしてか怒ってしまったり。そもそも、感情を正確に言葉にすることなんかできるのかな。なんだかルンルンしている気持ちを「楽しい」という言葉にするから「楽しい」になる。そもそもルンルンってなんの音かわからないけれど、楽しいという言葉よりもルンルンの方が伝わることもあるかもしれない。もやもやしている気持ちを「悔しい」とか「むかつく」とかいう言葉にするからその感情が形になる。どの言葉にするのか適切な言葉をまだ知らないから、その感情からまっすぐ「死ね」とか「きらい」いう過激な言葉になるんじゃないか。その「死ね」や「きらい」は、「悲しい」かもしれないし「寂しい」かも「痛い」かも「虚しい」かもしれないし、「もやもや」とか「いらいら」とかかもしれないし、この世界の言葉にはない感情なのかもしれない。そんなときに、あなたはそんなこと言う子じゃないって言われたら、そんな思いを持つことはいけないことだって否定されてその思いに蓋をされたら、ぎゅーっと苦しくなる。それはきっと大人も同じだ。たとえばなにかお願い事をされたときにも、大人だから付き合ってあげないとって思わなくても、自分がそれをしたくないのなら断ってもいいのだ。ぼくは仕事だから子どもにお願いされたらよほど無理なことじゃなければ断らないようにしているけれど、仕事じゃないならその断る理由が「疲れた」とか「めんどくさい」でも悪いことではないと思う。ただ、そのときに「断られることも覚えないと」だとか「思い通りにいかないときの折り合いの付け方を学ぶ」とか、その子の育ちのためになりそうな理由を探しそうになるんだけれど、それは必要はない。むしろ、「相手のため」という言い訳は本質を隠すし、本心でもない。自分を守るために相手を引き合いに出す必要はない。相手のためではなく、自分のために自分を守ればいい。「いまは私が使っているから貸したくない」「疲れているから応えられない」ときちんと伝えればいい。「それはやめてね」「傷つくからね」そうやって伝えるだけでいいんだと思う。それでその子のなにかが育つとか考えるのは少し傲慢なんだ。意見の表明をして相手はそれを受け止めた。できる限り自分の本心に近い部分を伝えて、できる限り相手の本心に近い部分を受け取る努力をした。ただそのやりとりが人と人との関係なんだと思う。優しい人だねと言われたら、「そうなのかな」と思うと同時に、期待に応えようと思う。強い人だねと言われたら、弱音を吐いてはいけないような気がする。本が好きだもんね、勉強好きだもんね、優しいもんね、子どもが好きだもんね。その言葉に励まされることもあるし、道を踏み外しそうになるのを踏みとどまらせてくれることもある。けれど、その言葉が呪いとなることもきっとあるんだろう。期待に応えたいという思いとあわせて「そうある自分に価値がある」と思ってしまっていたりもする。言いかえればそれは、期待を裏切らないように、価値がないと思われないように、ということ。自分の役割に徹していると、自分の気持ちが疎かになる。そんな自分の気持ちをなおざりにしていることに気づいていなかったりもする。大人だから、子どもの言うことには傷ついたりしない。親だから、めんどくさいこともきちんとやる。長男だから下の子に優しくする。上司だから、部下だから…それぞれの立場でそれぞれの役割を演じるために、ときに頑張りすぎたりする。それってやっぱりしんどい。だから、優しくない自分もいて良いんじゃないかな。頑張れない自分も、意地悪な自分も、ネガティブな自分も、期待を裏切る自分も。「相手はどんな言葉を望んでいるんだろう」それを考えることはきっと優しさなんだけれど、本当の思いを伝えることでお互いが救われることもきっとある。それは、自分を大切にするということでも、相手を大切にすると言うことでもあるよね。子どもも同じだ。ぼくたちが抱く「子どもは純粋であってほしい」とか「子どもに邪悪なところなんてない」という期待が、子どもも大人もおいつめてしまう。自分にどんな役割があったとしても、自分がしたくないことやできないことは「したくない」と言っていい。それは、自分もひとりの人間であるという、自分が自分であるということ。命を危険に晒すとか突き放すのでなければ、相手を故意に傷つけたりするのでなければ、大人も子どもも一人の人間だ。子どもに対してだけでなく家族にでも友人にでも職場でもそうなんだと思う。当たり前にそれを我慢する必要はない。そんなこと言ったらできる人にしわ寄せがいくとか、みんなわがままになってしまう、と言われるかもしれない。「それはしたくないな、嫌だな」と思っても、それを伝えても、結局はやらなきゃいけないことはある。けど、だからって黙ってなきゃいけないとは思わない。部屋の掃除をしたくないし、洗い物がめんどくさい。だからって「掃除めんどくさーい!やりたくなーい!」と言っちゃダメかといえばそんなことないはずなんだよ。いい大人なんだから掃除するの当たり前でしょう。文句なんか言わずにやれよ。なんて言わないでほしいし、自分が自分をそうやって追い込むのももうやめたい。「めんどくさいよね、明日にしよっか」「まあでもやろっか」「だれかにたのもっか」でいいんじゃないかな。絶対に手を抜けない消毒とかもさ、やるのが当たり前でしょうではなく「めんどくさいよね、けどやらなきゃね」って自分で自分を慰めながらやってる。伝えることって立場によってはとても勇気のいることだから、言えないことが悪いことだということではなくて、自分を大切にするために、自分を追い込む必要なんてないってこと。近しい人に話したり、帰って独り言でも、SNSに吐いてもいい。「ほんとは嫌だったんだよね」「悲しかったんだよね」「むかつくんだよね」とほんとの気持ちを言葉にするだけで、自分の気持ちを大切にできるような気がする。その言葉が少し乱暴でもいいのかもしれない。もしかしたら相手も自分の感情を正確に言葉にはできていなくて、悲しませるつもりはなくて、まっすぐ正確に言葉にすれば関係が良くなることだってきっとあるんだろう。もちろんそんな簡単なことではなくて悪化することだってあるけどね。自分が誰かのその心の言葉を聞いたときに、「なら代わりにぼくがやりますね」って言うかもしれないし、「キツイですよね」って共感するだけかもしれない。けれど「あなたはこうなんだから」「あなたの役割なんだから」「あなたが言ったんだから」って、その思い自体を批判して突き放さなしたりしないように気をつけていたいなと思う。自分の思いや価値観は、人を叩くためのものではなく自分を守るためのものだ。そうやって考えるだけで、少なくとも自分の言葉で誰かが傷つくことはあっても攻撃するという事は減るのかもしれない。僕の文章も、誰かの心に突き刺さる言葉としてではなく、そこらに生えている草花を眺めるような、たまに気になったら摘むような、そんな感覚で読んでもらえていたら嬉しいなと思う。余談ですが子どものころ、たまに会いに来てくれるじいちゃんは、いつもアンパンを買ってきた。ぼくの2つ上の兄の好物だったからだ。じいちゃんがアンパンを買ってくるたびに、ぼくの中でアンパン好きの兄ちゃんというイメージが確立されていき、兄のなかでも「自分はアンパンが好きだ」という意識が強化されているようだった。兄の喜ぶ姿を見てじいちゃんは「やっぱり好きなんだな」と満足げにまたアンパンを買ってきた。そのままいけば相当なアンパン好きになるんだろうと期待できたが、意外にもそうはならなかった。ある日当たり前のようにアンパンを取ってあげたら、「おれ、あんまりアンパン好きちゃうかも」と遠慮気味に兄は言ったのだ。「自分は本当にアンパンが好きなのか、君はアンパンが好きだねと周りに言われるからそんな気がしていたのか、本当は好きじゃないんじゃないか」そんな葛藤があったかは知らない。自分が本当に好きなのはアンパンではなくアンパンが好きな自分なんじゃないかなんて悩む姿を想像すると微笑ましいけれど、当時の幼いぼくはなにか不安な気持ちになった。たしかに好きだったはずなのに飽きてしまったんだろうか、もともと好きじゃなかったんだろうか、じいちゃんはどんな気持ちになるんだろうかと、誰も悪くないのに、寂しいような切ないような言葉にできない気持ちになっていた。その事実がじいちゃんの耳に入ったのかはわからない。そのあとじいちゃんが変わらずアンパンを買ってきていたか、買ってこなくなったのかも覚えてないくらい曖昧な記憶だ。けれどたまに、嬉しそうにアンパンを買ってきたじいちゃんと、突如アンパンに別れを告げた兄を思い出す。みんなが優しいのになぜか悲しい。なんだか少し切ないけれど、誰かひとりがしんどいではなく、みんなが優しいからみんなが少しずつ悲しいのなら、そのほうがいいのかもしれない。きしもとさんの記事やこれまでの連載コラムはこちら[文・構成/きしもとたかひろ]きしもとたかひろ兵庫県在住の保育者。保育論や保育業界の改善について実践・研究し、文章と絵で解説。Twitterやnoteに投稿している。⇒きしもとたかひろnote⇒きしもとたかひろTwitter
2020年09月13日「初めて会った瞬間、『私、この人と結婚するんじゃないかな』と思ったんです」そう語るのは、岸田文雄政調会長(63)の妻・裕子さん(56)だ。衆議院議員だった父・文武さん(享年65)の跡を継ぎ、広島県広島市を地盤とする岸田政調会長。いっぽう裕子さんの実家は、かつて広島県三次市で造酒業や銀行業を営んでいた旧家。2人の出会いはお見合いだったが、当初から“縁”に恵まれていた。「まず祖母同士が同級生で、友人同士だったのです。主人の祖父や父のこともとても人柄の良い人だと聞いていました。だから、不安はありませんでした」さらに岸田政調会長は、故・宮澤喜一元首相(享年87)と親戚関係にある。父・文武さんの妹が宮澤元首相の弟と結婚していたためだ。実は、ここにも“奇縁”があったという。裕子さんが続ける。「まだ中選挙区制だったころ、私の実家のある所が宮澤喜一元首相の選挙区でした。そのため実家の一角に、元首相の事務所があったんです」結婚後、3人の息子に恵まれた岸田夫妻。夫は、東京で単身赴任生活。その間、裕子さんが地盤を守りながら3児の子育てにも奔走してきたという。「やはり、たいへんでした(笑)。ふだんは父親が家にいない分、厳しく育ててきたつもりです。幼いころはまだ言えばちゃんと理解してくれていましたが、成長するにつれて息子たちも反抗期をむかえますからね。中学や高校になると、だんだん力ではかなわなくなってきます。それでも『ここで引いてはいけない!』と思い、育ててきました」また岸田政調会長といえば、Twitterの投稿が炎上したことでも話題になった。《妻が食事を作ってくれました》として夫婦写真をアップしたところ、“妻を立たせて夫が食事する構図”に批判が殺到したのだ。だが、裕子さんはこう語る。「あの日は夜遅く、主人から『テレビ出演中に、20分だけ時間ができた。家に帰ると何か食べるものがあるか』と連絡がきたんです。ただ私たちはすでに食事を済ませていたので、さっと作って出しただけです。家でマスクをしていたのも、テレビ局のスタッフさんが10人くらいいたためです。ふだんの主人は料理こそしませんが、お風呂掃除などは手際よくやってくれます。忙しい毎日の主人ですが、家では家族への気づかいもしてくれますよ」結婚から32年。これまでどおり夫婦は“あうんの呼吸”で総裁選に臨む――。「女性自身」2020年9月22日号 掲載
2020年09月09日自店をオープンして14年たっても変わらない価値観――白金台時代から14年。自店を営業してきて思うことはありますか?岸田周三(以下、岸田):14年間、店をやりながら、スタッフと話し、反省も重ねどんどん変化してきました。常に試行錯誤し、向上を日々のテーマとしているので、オープン当時よりはるかにいい店になった自信はあります。――オープン当初からの、〝素材〟〝火の入れ方〟〝味付け〟の追求というテーマは変わらないですか。岸田:はい。流行を追いかける人も多いけれど、僕が大切だと思っている価値観は変わらない。外部からインプットしたものでなく、自分の中から湧き出るものを料理していますから。『山羊乳のババロア』開業当時からのスペシャリテ。――『山羊乳のババロア』などのスペシャリテも長く愛されていますね。岸田:あれは、フランスでの修業時代に生まれた料理です。当時、佐藤伸一さん(元【パッサージュ53シェフ)とよくホームパーティをしながら、自店を開店する時のために、いろんな料理の試作をしました。200以上はあったんじゃないかな。。山羊乳とオリーブオイルってあうなと感じていて、さらに乳脂肪と植物性油の組み合わせがいいなと思って。最初は少し違うスタイルでしたが、そこからブラッシュアップをして今の形に落ち着きました。この料理は、塩とオリーブオイルを主役にしたもの。オリーブオイルを搾汁する11月頃に、各社から取り寄せ、試食を繰り返し、ブレンドする三種類のオイルを決めます。自分の味のイメージに近づけるため、オイルの銘柄は決めていません。そしてそこで三種類のブレンドを決めたら、一年間その組み合わせで通す。塩は天日干しのフルール・ド・セルです。ユリ根とマカデミアナッツは食感を作るため。強烈な個性は放たない、縁の下の力持ちになる食材を選んでいます。『山羊乳のババロア』は〝料理に使われる、うちのベースはこれですよ〟という、いわば名刺代わりの料理としてお出ししています。今、振り返っても完成度が高いと思います。――パリでは【アストランス】のパスカル・バルボシェフのもとで働かれました。きっかけはなんですか?岸田:パリに行った時に食べ歩いて衝撃を受けた店が【アストランス】でした。彼の料理は素材を尊重し、ソースの必要性に疑問を呈するような、非常に新しいものでした。クラシックフレンチをやってきた僕にとっては衝撃的で。海外の食材も良いと思えば使う。日本人の僕をスーシェフにしてくれたのにも驚きました。〝おいしさ至上主義〟で、偏見が一切ない柔軟な人でした。スーシェフになった時に、パスカルさんに恩返しがしたい、とその年の「ゴ・エ・ミヨ」で絶対に最高点をプレゼントしたいと思ったんです。チームみんなで一致団結して、19点(満点)を取ったときは嬉しかったですね。同じ年に、ミシュランでも一つ星から二つ星になりました。2005年、パリで【アストランス】スーシェフになった年に「ゴ・エ・ミヨ」で満点を獲得その時フランスで購入した本は、今でも大切に手元に置いてある――パスカルさんとの出会いは大きいものだったんですね。岸田:はい。特別なものです。当時、彼のような素材を重視し、素材へのアプローチを積み重ねながら料理をしていくシェフはほとんどいませんでした。固定概念を崩し、フランス料理はこんなに自由なんだと教えてくれました。〝おいしいさ至上主義〟の彼に感銘を受けました。おいしくなければ、皿の上で語る哲学や、技術さえも意味がない。たとえば熱いものは熱く、冷たいものは冷たく提供し、卓上で漂う料理の香りについては非常に大切にしていることの一つです。僕の料理は、写真映えはしませんが、食べた人にしかわからない”何か違う”と感じるおいしさを伝えられたらと思っています。――先ほど、ミシュランのお話が出ましたが、【カンテサンス】は現在、14年連続ミシュラン三つ星です。星の維持は意識しますか?岸田:そこまで強くは意識していません。評価を追いかけるとおかしな方向に行ってしまいます。日々の生活を崩してしまうことはしないです。――でも、フランス料理人にとってミシュランは特別なものでは?岸田:そうですね。料理人を目指した頃から憧れていたものではあります。フランスから認められているということは非常に大事。自店をやるからには、三つ星という価値のある店をつくりたいとは思っていました。世界に誇れる店をつくりたい。それは最初から思っていたことです。『ホワイトアスパラガスのグラチネ』。ゆでずに焼いて味と香りをしっかり残す。未来に向けてできることを料理人として考えて実行する――ミシュランといえば、去年はドラマ『グランメゾン東京』の料理監修もされましたね。岸田:あれはお話をいただいたときに、すぐにお受けしたわけではなかったんです。「どうしても、岸田さんに監修をしていただかないと駄目なんです」と話してくださったプロデューサーの真剣な思いに心を動かされ、また、料理界のお役に立てられればと思い、一旦は承諾しました。けれど、いざ第一話の台本をいただいた時に想像以上に大変なことが判明して。これは営業に支障が出てしまうと「申し訳ないですが、やはり受けられない」と断ったんです。――え!?そうなんですか?岸田:はい。でも、プロデューサーの方が、〝こうしてくれないとできない〟と言ったことをすべてクリアし、再度依頼に来てくれた。この調整は、大勢の人を動かさなければならず、簡単なことではないものでした。けれどそれをやってのけた。そこに、彼のプロとしての仕事を見た気がしました。この人の仕事を間近で見てみたい。自分もきっと何か学びがあるのではと思い直し、継続してお引き受けしました。この仕事で、ドラマの撮影がこんなに多くの人が関わり、時間と情熱をかけてつくっているんだ、ということを知りましたね。もうドラマを見るときは、正座してテレビに向かうような気持ちで見ています。『石鯛のロースト』。大きな塊で焼き、中をほんのりレアに仕上げて切り分ける魚料理はスペシャリテの一つ。――劇中の、鈴木京香さんが演じる早見倫子シェフの店、【グランメゾン東京】の料理を岸田さんが考案したんですよね。岸田:そうですね。台本の大まかな流れにあわせ、旬の食材を、マニアックすぎず、オリジナリティある料理にしました。脚本は大まかなところしか決まっていないんです。第一話の、倫子さんが、木村拓哉さん演じる尾花夏樹の料理を食べるシーンありましたよね。制作サイドからは”カフェのような簡単な調理場でさっとできる料理”とだけ伝えられます。そこで、料理を考えるのが僕の仕事です。このシーンでは複雑ではないけれど、この一皿で倫子さんが尾花さんの料理に心を動かされるようなものでなければならない。色々考えて、料理方法は食材の持つ水分で軽く蒸すように火を通す”エチュべ”にしました。フライパンひとつでできますから。それから、例えば10話の「リードヴォーとクスクスのサラダ」。山から戻ってくる途中、アクシデントがあって食材が店に時間どうり到着しない。それで料理ができないわけですが、ライバルが食材を分けてくれて、危機を乗り越える……という流れは決まっています。けれど、その食材をどういうものにして、どんな料理にして、というのは決まっていません。ですから、”マタギの人がとってくる食材だから、山のもの。しかも冬に採れるものと考えると、セリにしよう”となるわけです。そこで、じゃあ、その素晴らしいセリをどういう調理しようか。そのようにして、ドラマの内容から食材が決まり、組み立てながら料理を生み出しました。――放映のたびに、料理が話題になりましたね。見ていても、知っている食材だけれど、この料理はどんな味がするのだろう?と想像も楽しく、臨場感があり、食べたくなりました。岸田:一度登場した食材、調理法は重ねて使えないので、後半にメニューを一新します、と言われた時には大変でした。過去のレシピもひっくり返して、全力で考えました。2ヶ月に1回はメニューを変更する。スペシャリテの2品を残して、基本的に他は一新料理は岸田シェフが仕上げてゲストへ――最後、尾花夏樹がマグロの料理を悩んで、悩んで、悩んで完成させていたシーンが思い浮かびます。岸田:僕も、尾花夏樹さん以上に悩みましたよ(笑)。実は、あのマグロの料理には裏話があるんです。僕の中で、マグロをいかに料理にするか、というのはずっと取り組んでいた課題だったんです。マグロというのはフランス料理では難しい、いわば禁断の食材。10年前、NHKの「プロフェッショナル」という番組で、このマグロの料理にチャレンジをしているところを取材されたことがありました。ところが4ヶ月間の密着取材期間中に、思いつく限りのアイデアに納得することができずに、料理は完成しなかったんです。当時のプロデューサーさんに「どうしても、これ以上アイデアが出ないです。撮影期間中に料理ができなくてすみません」と謝リました。ドキュメンタリーだから、結局”できない”という結果が真実で、そのままの放送となりました。その「プロフェッショナル」を見て、マグロ料理が完成しなかったことを覚えていてくれた今回のドラマのプロデューサーの方が、”10年たって、あの時の答えが料理できたらいいですね。マグロでいきましょう!”と言ってくださったんです。僕にとって、マグロというのは相変わらず難しい食材で、未だ自分のお店でも出していません。マグロの最大の問題点「加熱すると良さが出ない」ということをいかにクリアし、納得のいくものをどう作るか。本当にギリギリまで悩みました。結局納得がいくか、というと自分の中では100%イエスとは言い切れない部分もあります。けれど、今、マグロを代表する海洋資源の問題にも視聴者の方に知っていただきたくて、そうしたことも含めて”マグロ”という食材をあえて出しました――岸田さんは『Chefs for the Blue』の理事として海洋資源の問題にも取り組んでいらっしゃいます。ドラマでそうしたことに触れるシーンがあって、視聴者の方に現状を伝えるいい機会になったのではないでしょうか。岸田:海洋資源は今、本当に危機的な状況です。太平洋黒マグロが乱獲されていなくなってしまった。ドラマでもマグロの状況を説明するシーンを加えていただきました。自分が表に立って話す機会がある場所ではできるだけその問題についてお話ししています。白紙のメニューは ”すべておまかせください“というメッセージ。――あのドラマで、料理人になりたいと思う若い方が増えたのでは?岸田:料理人に光が当たるというのも引き受けた理由の一つでした。実は料理人志望者の減少には前から危機感を覚えていました。労働時間が長い料理人は、他の業種と比べると優秀な人の確保が難しい。そんな時代がまさに来ていると思っています。――レストランの働き方改革。みなさん悩まれている部分だと思います。去年、【カンテサンス】は営業時間を変更しましたね。岸田:ランチとディナーをやっていた時、僕の労働時間は一日16時間でした。自分のことを考えても、この働き方をいつまでやるのかと疑問も感じていた。従業員の給料を払うには、一日にお迎えするゲストの数は減らせない。そこで、17時からと20時半からの1.5回転にし、労働時間を減らして売り上げとのバランスをとりました。ビジネスシーンでの利用などを考えると、悩みましたが結果うまくシフトできたと思います。―― 何が起こるかわからない時代。残るために必要はことは何でしょう。岸田:今、できることをやりぬくこと。やっていることの目的を忘れないこと。それは、どんな仕事においても言えることではないでしょうか。BGMは客のさざめき。ゆったりと間隔を取った店内は、肩ひじ張らずにくつろげる編集後記予約が取れないレストランになって長くたった今も岸田氏は自身の熱量を内に秘め、何かを声高に語ることはない。自分がいいと思うものを信じ、考え、つくって、誰よりも深く積み重ねて生まれる純度の高いダイヤモンドのような料理が、唯一無二の輝きを放ち、自然と人々を魅了し続けているのだと感じた。どんな時代もブレずに鍛錬して信念を貫く。その姿勢は、こうした不安定な時代にこそ必要なのではと感じた。Quintessence(カンテサンス)【エリア】品川【ジャンル】フレンチ【ランチ平均予算】10000円【ディナー平均予算】30000円【アクセス】品川駅 徒歩13分
2020年06月23日お笑いコンビ・キャイ~ンの天野ひろゆきが8日、オフィシャルブログを更新し、香取慎吾の感動エピソードを明かした。日本テレビ系『天声慎吾』共演以降も香取のことを「王子」と呼ぶなど、親しい間柄で知られる天野。8日付のブログでは、「昨日のななにーも、近くにはいたけど、リモート状態で会えずかと思ったら、ライブへの移動で少しだけ王子と話せた(これはもはや出待ちするファンだ(笑))」と直接の会話が久しぶりだったことを明かした。香取に会いに行った天野が「ドラマ宣伝してくれてありがとう」「おかげで好評うちに完走出来たよ!!」と伝えたところ、香取から「僕の宣伝のおかげだなんて」「じゃなくて楽しく面白く沢山の人が観たくなる作品だったんだよ。楽しい時間をありがとう!」と逆に感謝されてしまったのだそう。「久しぶりに王子に会えた」と題したこの日のブログは、「泣けるじゃねぇか王子」と天野の感情がにじみ出る一文で結ばれている。「ドラマ宣伝」というのは、天野が出演したドラマ『隕石家族』(東海テレビ・フジテレビ系)を、香取がTwitterなどで告知していたこと。先月30日、香取の「いよいよこの後23時40分から隕石家族 最終回!!」に対して天野はTwitterで「おい!ついに俺を経由しないで直接ツイートしとるやないかいっ!!(笑)」「気付かないでメール待ってたよ」「ありがとう王子!!」と反応。ブログでは度々感想メールが送られてきたことを明かし、最終回後にも届いたようで、翌日には「王子からのメールが『STAY HOMEに楽しい時間をありがとう!諦めたら人生そこで終わり 明日の人生に懸けてみるか どんとこいだね!!』その通りだよ!! 王子~!! ありがとう」と感謝のメッセージを送っていた。
2020年06月10日NHK Eテレ『みいつけた!』のエンディングテーマとして、岸田繁(くるり)が書き下ろした楽曲「ドンじゅらりん」のセルフカバーが、6月3日(水)より配信されることが分かった。「ドンじゅらりん」は、3月9日より放送されている番組『みいつけた!』のエンディングテーマ。幼児向け番組の楽曲を初めて手がけたという岸田が、“恐竜”をモチーフに、子どもの想像力が膨らんだ楽しい世界を表現している。同番組では、メインキャラクターのスイちゃんが歌詞を歌い、同じくキャラクターのコッシーとともに岸田がコーラスを担当しているが、今回配信されるのは、そのセルフカバー。岸田は、「朝の楽しみ『みいつけた!』に、こういった形で関わることができて幸せです。楽しく作ることができました。子どもたちのワクワク、ドキドキのこと……時間の感じ方、身近な存在のこと、知り得ぬ存在のことを、ひとつの世界の中で表現してみました。みんなで歌ってみてください!」とコメントしている。岸田繁「ドンじゅらりん」セルフカバー6月3日(水)より配信開始
2020年06月02日Twitterやnoteで子育てに関する『気付き』を発信している、保育者のきしもとたかひろさん。連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』では、子育てにまつわる悩みや子供の温かいエピソードなど、親や保育者をはじめ多くの人の心を癒します。第5回は、きしもとさんが人それぞれ異なる子育ての価値観について考えます。第5回『知らないからこそ、間違うからこそ。』年度の変わり目、一年が過ぎようとしているこの時期にようやく気づく子どもの姿がある。3月の初め、ある高学年の男の子と公園で遊んでいるのを見て「楽しそうですね」と同僚から声をかけられた。その子を見ると、いつにない笑顔ではしゃいでいた。「いつにない?」本当かなとふと思った。自分が気づけていなかっただけでいつもこんな風に楽しんでいたんじゃないか。高学年の男の子たちは、大人にはあまり依存せず自分たちの世界であそびを楽しんでいる。家でゲームをしたり公園で同年代の子達と遊ぶ方が楽しいんじゃないかと感じることもある。もちろん一緒に遊ぶことはあるけれど、低学年のようにずっとくっついてくるようなことはほとんどない。すると、自然とこちらから声をかけるのが、危険なことやよくないことをしたときに偏ってしまう。楽しんでいる中で「注意してくる人」とだけ認識されたら、話もまともに聞いてくれない。危険なことなら聞いてもらわないといけないから遠慮なく伝えるのだけれど、ふてくされた態度や反論があるとこちらもつい強い語調になってしまう。そんなやりとりが多い男の子だった。あんなに毎日会っていて、この楽しそうにしている姿にぼくはどれだけ目を向けていたのだろう、と思った。全然見れていなかったかもしれないな、と。荒い口調で怒ってしまったり否定するような言い方をしたりした、思い出したくない記憶が蘇り、後悔した。「もう少し優しく接したらよかったなあ」と同僚にこぼすと、「まだありますよ、接する時間」と返された。うんそうだよなと思った。あと一ヶ月、できなかったことを嘆くにはまだ早い。いまからでもできることをしよう、と気持ちを立て直した。子どもとの関わりや子育てについての発信をしていると、共感してくれる人や参考にしてくれる方たちがたくさんいる。ありがたいことに、すごいねと言ってもらえることもある。けれど、その度に自分はそんな人間じゃないんだと逃げだしたくなる。「よく綺麗事が言えるよね、そんな清廉潔白な人間じゃないだろう。今までの失敗が無かったことにはならないぞ」ともう一人の自分が責めてくる。「あの人は間違っている」というような誰かを批判する言葉を聞くと、他人事ではなくその言葉はそのまま自分にも突き刺さる。浅はかな偏見で人を差別したことや傷つけたことがある。保育でも、強い言い方をしたり怒鳴ったり、言うことを聞かせようとしたり、そういった「適切ではない関わり」をしたことがある。体罰を与えて大怪我を負わせたことはなくても、そうなっていたかもしれない状況はいくらでもあったと思う。思い出すだけでこの仕事から離れたくなる。ぼくが今どんな人間になっていても、そのときのその人の傷はきっとそのままだ。なかったことにはできない。たまたまなのだ、いま何もない顔をして保育を語れているのは。当たり前のように子どもたちと毎日関わることができているのは。ぼくの知っているそれと、違うものたちぼくが育った家庭は、父がお茶をくれと言えば母はお茶を淹れる。返事をする母は、どちらかといえば嫌そうな顔をしているので、それはそれで嫌だろうから自分で淹れれば良いものを、父は半ば意地のように自分では淹れない。それについての是非は語れないし語るつもりもない。それは本人たちにしか分かり得ない二人だけの関係だ。ただそういう環境で育ったということは、ぼくも「それがふつう」という感覚を少なからず持っているということだ。良いとか悪いとかではなく、そこから自分の偏見が生まれていたりする。そう自覚しだしたのは成人してからだった。友人の母親が好きな歌手のライブに一人で行くというのを聞いて、不思議に思った。「母親が夜一人であそびにいくの?」と否定的な感情を僅かながら持った。恥ずかいしいことに、その時のぼくはまだ未熟で思慮が浅く世間知らずだった。なにも変なことじゃないのに、自分の知っているそれと違うというだけで違和感を感じてしまったのだ。保育や保護者支援について学んでいたし、実習にも行っていたけれど、自分の偏見や世の中の当たり前と向き合う機会はあまり持たなかったのだろう。ぼくの実家のおでんにはニンジンが入っている。小学校の頃に他の家ではニンジンが入っていないことに衝撃を受けた。そして、大人になってからタケノコのおでんを食べてさらなる衝撃を受けた。自分の経験がすべてで、それが当たり前だと思い込んでしまう。食事は手作りで手間をかければかけるほどよくて、共働き家庭もあるけれど父親が養って母親は家にいるのが普通で、子どもには両親がいて、休日は家族と過ごして、おでんにはニンジンが入っていて。なんとなくそれが当たり前だと思っていた。けれど、こういった「自分の当たり前」って、いろんなことを見て考察して考え抜いた先に見つけた揺るぎない価値観とか考え方ではなく、ただ「ぼくが知っているそれ」ってだけなんだよね。だから、そんな中で感じる他人の「間違い」は「ぼくが知っているそれではない」というだけなんだ。それは、偏見にまみれたものに限らず逆も然りなんだろう。ジェンダー意識が高くて多様性を尊重する環境で育ったとしても、そうでない人を見て「あの人は間違っている」と感じてしまうなら。「自分の知っているそれではない」という、ただそれだけの感覚が偏見となり、気づかぬうちに誰かを追い込んでしまっていたりする。だから、自分の当たり前で人を潰してしまわないように、人の当たり前で自分が潰れてしまわないように気をつけていたいと思うのだ。いろんな方法を、いろんな人がいることを、いろんな考えがあることを、完璧じゃなくていいことを、自分が知らないことがたくさんあることを、まず知ることができたら。多くのことを知るたびに知らないことがどんどん増えて、自分が知っていることは米びつの中にある米粒一粒くらいなのだと知れたら、きっと他の米粒を見て簡単に批判はできなくなる。当たり前だと思っているものに潰されそうになった時に、実はそれは当たり前ではないのかもしれないと知れたら、少し気持ちが楽になる。もし間違っていると感じる言説に触れて許せなかったり、自分は間違ってばかりだと感じて落ち込みそうになったら、「まだ知らないのだ」と思えたらいいな。その人がまだ知らないのかも知れないし、自分がまだ知らないのかもしれない。それは、卑下するという意味ではなくて。「タコは食べものではない」と言う人に「タコを食べないなんておかしい!」なんて怒ったりしないように。ただ、文化が違うのかな、食べたことないのかな、おいしさを知らないだけなんだろうなと思うように。そこでもし、食べてみてほしいなって思ったら、あなたは間違っていますよ、とはきっと言わずに「タコパしようよ」って誘うよねきっと。他のもの入れても美味しいから、一回やってみて気が向いたらタコ焼き食べてみようよって。あ、おでんにしても美味しいよね。生まれたばかりの、まだ価値観とも呼べない感覚を正面から否定されたら、自分の全てを否定されたと感じて防御反応としてその「なんとなくの価値観」に固執してしまうんじゃないかな。いろんなものを見て考えて価値観を作り上げていくのはやめて、自分が「間違い」にならないように「ぼくが知っているそれ」を正解にするための答えを探していくんじゃないのかな。そうなったらきっと、永久に考えが変わることはないんだろう。だから、批判をするなら丁寧にしたい。なんのために、どこに向いてそれを批判するのかをちゃんと考えたい。それは、いい人でありたいからではなく、間違っている自分と、これから間違うかも知れない自分のために。もし「許せない」と思いそうになったら、タコパに誘ってみれたらいいなと思う。いまの自分が10年前のぼくを思い出してそう思うように、これを書いている現在の自分もまた10年後の自分から見たら未熟で、やはり気づかぬうちに自分の当たり前で誰かを傷つけたり追い詰めてしまったりしているのだと思う。自分がもともとどんな人間かを気にしてしまったらもう人生を諦めてしまいそうになる。だから、どんな人間でありたいか、そのために今から何ができるのかを考えることにする。子どもたちを大切にできる保育者でありたいし、みんながしんどくないようになればいいなと思っている。うまくできなくても、その思いは本当なんだ。自分がした言動を変えることはできないけれど、だからこそ何度も間違う自分とともに、埋まることはない穴を自己満足で埋めることはなく、愚直にユーモラスに、できることを重ねていきたいな。いい親でいることはできないかもしれない。いい保育者であることはできないかもしれない。けれど、それでもいいじゃないか。完璧にできないし、100点を取ることはできないけれど、その時その時に最善だと思うほうを選んでいければ。その方法をみんなで出し合えたら。その中から選ぶのは、自分を追い詰めるためのものではなく、追い込んでしまう自分を救うためのものであればいいなと思う。余談ですが冒頭の話から一ヶ月経った3月の末のある日の夕方、公園から学童に戻るときにその子が「まだ遊びたい」と伝えてきた。幸い人手があったので小一時間その子と走り回った。二人で遊ぶこと自体はそんなに楽しくないはずなのに、ゲラゲラと笑っていた。「帰りの匂いがするわ」公園を出た時に、その子がふと呟いた。わかるような、わからないような、けれどその子のそのままの言葉なんだろうな、ああ、いいなあと素直に思った。意味を聞くのは野暮だとわかっていながらも、やっぱりどうしても聞きたくなって尋ねてみた。「終わったなあー寂しいなあーけどまあ明日も学童あるしなあって感じの匂いやな」と返ってきた。ぼくの目に写っているのは生意気なその子ではなく、今日を思いきり楽しんで明日に期待して充たされているような、そんな顔だった。「まだありますよ、その子と接する時間」一ヶ月前に同僚からかけられた言葉を思い出した。穴は埋まっていないかもしれないけれど、救われた気がした。ふいになにかが溢れ出しそうになり、それがこぼれないように、その「帰りの匂い」を思いきり鼻から吸いこんだ。「金曜日の夕方と日曜日の夕方、どっちが好き?」と続けるその子に、そりゃあ金曜の夕方やな。とだけ答えた。君たちのおかげで日曜の夕方が憂鬱になることはほとんどないけどね。【コラム第1回】子育てで『正解』に苦しめられたら保育者が大切にしたいこと【きしもとたかひろ連載コラム】【コラム第2回】子供を注意して「しまった!」保育者が気を付けていることは…【きしもとたかひろ連載コラム】【コラム第3回】「ヘタだからやらない」という子供その理由に考えさせられる【きしもとたかひろ連載コラム】【コラム第4回】子育ての『手抜き』で大切なこと「手を抜いてもいい」ではなく…【きしもとたかひろ連載コラム】[文・構成/きしもとたかひろ]きしもとたかひろ兵庫県在住の保育者。保育論や保育業界の改善について実践・研究し、文章と絵で解説。Twitterやnoteに投稿している。⇒きしもとたかひろnote⇒きしもとたかひろTwitter
2020年04月16日文学座アトリエの70周年記念公演として、岸田國士作『歳月』『動員挿話』を文学座アトリエの会が2本立てで上演。問題作『ジョー・エッグ』(2018年)を手がけた西本由香と、『いずれおとらぬトトントトン』(2019年)で怪作を世に送り出した所泰がそれぞれ演出し、文学座の創設者のひとりである岸田の作品を現代に甦らせる。『歳月』の舞台となるのは、大正8年、東京・山の手にある浜野家。隠居生活をおくる元知事・浜野計蔵のひとり娘・八州子は、信じる男の子どもを身ごもるが、相手が結婚を拒んでいることから自殺未遂にまで追い込まれる。妹のために兄・計一と弟・紳二は結束し、厳格な父の耳に入る前に最善策を探る。それから7年、さらに10年と歳月は過ぎ……。演出の西本は「岸田國士が、これが私の“戯曲を書くために何かしら云う”最後の作品となった、と記しているのが本作『歳月』です。活動の初期から創作の上で意識的に様々な実験を行ってきた彼にとってひとつの到達点ともいうべきこの作品に、同じだけの実験精神をもって臨みたい」と意気込む。もう1本『動員挿話』の舞台は、明治37年の夏、日露戦争真っ只中の東京。陸軍少佐・宇治の師団に動員令が下り、宇治は馬丁の友吉を連れて行こうと声を掛ける。だが、友吉の妻・数代は断固拒否。宇治夫人・鈴子の説得にも応じず、主従関係の断絶を言い渡されてしまう。まもなく宇治は戦地へ。その時、友吉と数代が選んだ道は……。こちらを演出する所いわく「戦争という狂気に巻き込まれた人たちのおはなし。短編らしいあっと驚く結末。そのボルテージの高さは岸田戯曲の中でも別格だと思います。ただ後味が良くありません。その後味の悪さを、2020年の観客はどう捉えるのでしょうか」。3月17日(火)から29日(日)まで東京・信濃町の文学座アトリエにて上演。なお今公演は、鵜山仁の監修のもと、昨年12月から今年12月まで1年にわたり、さまざまな演出家が岸田戯曲を連続上演する「岸田國士フェスティバル」の一環として行われる。文:伊藤由紀子
2020年03月16日川下大洋・三上市朗・後藤ひろひとが大阪で活動してきたユニット「大田王」が、東京では初となる公演「TOKYO大田王 2020~THAT’S GOING TOO FAR ~」を、4月2日(水)から赤坂レッドシアターにて上演する。川下、三上、後藤に話を聞いた。【チケット情報はこちら】三上が「僕らは元々、イギリスのコメディグループ『モンティ・パイソン』とか、アメリカのコメディ番組『サタデー・ナイト・ライブ』で育ってきた世代で。僕自身、今でも海外のコメディアンに憧れているところがあるのですが、そういうことをやりたくて始めたユニットです」という「大田王」。’96年に川下大洋と三上市朗が「田王」として活動スタートし、翌年、後藤ひろひとも加わったコントオムニバス公演のユニットだ。川下が「コントと言ってもあくまで演劇の一貫。その中でパワーのある笑いが生まれます。これだけ舞台で遊べるんだ、というものを観ていただけると思いますよ」と話すように、所謂お笑い芸人のコントとは違う笑いが生み出される公演だ。後藤が「『大田王やるよ』って言われると毎回ちょっとうんざりするんだけど(笑)、会っちゃうと楽しくてしょうがないんだよな」と笑う3人は、もう30年ほどの付き合い。作品づくりは3人全員でやるといい、「本番2週間前に集まって、『さあ、なにしよう』というところから始めます。それぞれが台本も書くし、演出もします」(後藤)。モチーフになるのは、『スター・トレック』や『スター・ウォーズ』など誰もが知る映画作品。その作品選びの基準は三上で、「三上の『あのコスプレをしたい』がスタートです(笑)。熱意がすごいんですよ」(川下)。今回のモチーフは『男はつらいよ』だが、それも三上が「寅さんの恰好ってできそうでしないじゃないですか」と熱く語る。劇場で観る三上からはちょっとイメージできない姿だ。長く大阪での上演にこだわってきたが、東京での公演を望む熱い声も多く、今回の上演に至った。初めての東京公演だが「どれだけ期待してもらっても、それより上のものをお見せします!」(後藤)とキッパリ。ちなみに「僕らは汚い笑いの取り方はしないですよ」(三上)と、カッコいい大人たちの掌で転がされる、楽しい時間になりそうだ。三人に加え石丸謙二郎(青年座)、多田野曜平(テアトル・エコー)、久保田浩(遊気舎)ら個性豊かな面々が集い、「早めに来ていただくと、楽しいことが待っているかもしれません」(川下)という本作は、4月2日(水)から5日(日)まで東京・赤坂レッドシアターにて上演。取材・文:中川實穗
2020年03月13日《麗子像》などで知られる岸田劉生の没後90年を記念した大回顧展『岸田劉生展』が開幕。10月20日(日)まで東京ステーションギャラリーで開催された後、山口県立美術館(11月2日〜12月22日)、名古屋市美術館(2020年1月8日〜3月1日)に巡回する。日本の近代美術を代表する画家、岸田劉生(1891〜1929)。没後90年を迎えて開催される同展では、初期から最晩年までの厳選された名品が一堂に会する。監修の山田諭氏(京都市美術館学芸員)によると、「日本の近代美術が常にフランスの近代美術を後追いしていた時代に、劉生はただひとり、自己の価値判断によって、自己の歩む道を選択し、自己の絵画を展開していった」と言う。劉生のほとんどの作品は、画面に残されたサインや日記から制作年月日が明らかになっており、同展ではほぼ制作年代順に作品を展示。そうすることで、劉生がどの時期に、どのような刺激を受けて、自身の画風を意識的に変転していったのか、その歩みを理解できるようになっている。第1章では、独学で水彩画を制作していた劉生が、黒田清輝が主催する研究所で本格的に油彩を学び、雑誌『白樺』からゴッホやゴーギャン、マチスら後期印象派の画家たちから衝撃を受けた時代の作品を紹介する。東京ステーションギャラリー()
2019年09月04日グリコ「アイスの実」と京都吉兆のコラボレーションによる「アイスの実<国産野菜シリーズ>」が、2019年7月3日(水)から7月16日(火)まで大阪・京都の高島屋の期間限定ショップにて販売される。なお、8月5日(月)までは、高島屋ギフトカタログ・高島屋オンラインストアにて数量限定でギフトセットを販売する。「アイスの実<国産野菜シリーズ>」は、“世界中のお母さんが子どもに安心して食べさせたくなるアイス”をコンセプトに、京都の老舗料亭「京都吉兆」の徳岡邦夫総料理長が監修した、ひとくち野菜ジェラート。夏のギフトとしても贈れるようにと、原料は国産野菜を100%使用し、香料・着色料・人工甘味料は不使用で仕上げた。野菜の美味しさをぎゅっと閉じ込め、スイーツとしての優しい甘さを出した特別な一粒だ。フレーバーは、国産かぼちゃ、国産さつまいも、国産にんじん、国産とうもろこしの4つを展開する。【詳細】「アイスの実<国産野菜シリーズ>」販売期間:2019年7月3日(水)~7月16日(火)販売場所:・大阪タカシマヤ(大阪市中央区難波5-1-5 地下1階 )・京都高島屋(京都市下京区四条通河原町西入真町52 地下1階)内容:10個入り価格:1個540円(税込)、箱入り4個セット2,260円(税込)、ギフトセット4個入り(オンライン予約)4,320円(税込) ※送料込み
2019年06月23日「アイスの実」の期間限定ショップ「ジュワトピア バイ アイスの実(JUWATOPIA By ICE-NO-MI)」が、2018年6月1日(金)より1ヶ月限定で渋谷モディにオープンする。「ジュワトピア バイ アイスの実」では、「濃厚フルーツでプチリセット」をテーマに、好みに合わせてカスタマイズできる、アイスの実を使用したオリジナルドリンクを提供。「濃いぶどう」「濃いもも」「濃いキウイ」から好きなフレーバーのアイスの実を選び、「ラズベリー&レモン」「ハニーレモン&ジンジャー」といったベース、ティーソーダなどの割り材と組み合わせて楽しめる。組み合わせ次第で、全36パターンのドリンクが作成可能だ。また、ショップ内は写真映えのするフォトスポットスペースも提供。ちょっとした気分転換にぴったりな、お洒落なユートピアのような空間が登場する。【詳細】ジュワトピア バイ アイスの実(JUWATOPIA By ICE-NO-MI)期間:2018年6月1日(金)~ ※1ヶ月限定場所:渋谷モディ 1F ポップアップショップ内住所:東京都渋谷区神南1-21-3■メニューアイスの実ドリンク 300円(税込)カスタマイズ内容:・〈アイスの実〉濃いぶどう、濃いもも、濃いキウイ・〈ベース〉ラズベリー&レモン、ハニーレモン&ジンジャー、ライム&レモングラス、エルダーフラワ&ローズ・〈割り材〉ソーダ、紅茶、ティーソーダ
2018年05月28日