The NFT Records音楽家、井上日徳による、オルタナティブミュージックのユニット「I.DO.I 」NFT販売開始株式会社クレイオ(東京都港区赤坂代表取締役神名秀紀)は、音楽専門のNFTマーケットプレイス『The NFT Records』にて、音楽家、井上日徳による、オルタナティブミュージックのユニット「I.DO.I 」の商品2件を販売開始しましたのでお知らせいたします。サイトURL: (日本)商品は100点限定の音源商品「百戒」および、下北沢WAVERにて行われたライブのダイジェストムービー(計5点)の予約販売です。いずれも9月2日金曜日正午までの販売となります。▼I.DO.I 1st NFT「百戒」Remix - 数量限定販売 限定100点/税込770円▼I.DO.I Live2022 Special Movie - 予約販売 予約限定販売/税込1650円/こちらの商品は9月2日正午締切以降視聴可能となります。なお、いずれの商品も視聴はThe NFT Records内のMy Collectionよりお願いいたします。CD、DVDなどのフィジカル商品ではありませんのでご注意下さい。▼アーティストプロフィール音楽家、井上日徳による、オルタナティブミュージックのユニット。2017年に制作を開始。自分が好きなスタイルの音楽を作りたい。世の中と調和しても、しなくても。「I.DO.I 」私は私という意味の名を与えた。井上日徳が全ての曲をプロデュース。アートワークも自ら行う。ライブではヴォーカル、ギターを担当。ライブ活動を行うにあたって、マニピュレーターキーボーディストとして大串友紀と合流。最近のライブではVJとして、映像を用いた演出もサポートする。独特なサウンド、そして一語に重さのある詞を世界に向けて発信している。 <The NFT Recordsについて>音楽専門のNFTマーケットプレイス。Twitter: Instagram: The NFT Recordsでは、商品を仮想通貨ではなくクレジットカードなどの法定通貨で購入することができます。なお、The NFT Recordsで購入した音楽、MV、ジャケット写真、アーティスト写真などはThe NFT Recordsの「マイコレクション」ページで楽しむことができます。<NFTについて>NFTとは、デジタルのものであっても、ユーザーが確かにそれを持っていることを証明してくれる仕組みのことです。NFTを買うということは、ユーザーの好きなアーティストと共に喜びを分かち合うことにつながります。NFTの楽しみ方の一つとして、急激に市場が拡大しています。<The NFT Recordsが取り扱うNFTについて>The NFT Recordsは音楽原盤および各種データを権利元から正式に許諾を受けて商品化し、NFT商品としてお客様にお届けします。NFT商品の原盤権や著作権はアーティストまたはレーベル各社が権利を保有しており、NFTは原盤権や著作権を販売・譲渡するものではありません。また、販売されるNFT商品には一つ一つ固有のシリアルナンバーが入っております。その番号を持っているのは購入者のみとなり、購入者がその商品を「所有」することとなります。購入し受け取った商品は、アーティスト/版元から許諾が降りた商品のみ、The NFT Recordsのマーケットプレイスにて出品することも可能です。<環境への配慮について>The NFT Recordsは、環境に配慮した設計を心掛けています。当社のマーケットプレイスでは、ブロックチェーンネットワークで一般的な、計算競争によるPoW (プルーフ・オブ・ワーク)というコンセンサスアルゴリズムを使っていないため、電力を大きく消費することがなく、環境に配慮した設計になっています。【株式会社クレイオ会社概要】本 社:東京都港区赤坂3丁目7番地13号代 表 者:代表取締役社長 神名秀紀設 立:2019年4月22日事 業 概 要:マーケットプレイスの企画・開発・制作・運営、動画配信サービスの開発・運営。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆【The NFT Records】 音楽NFTの著作権処理及びデータフォーマットの課題解決に向け、 パブリックチェーンでの音楽NFT流通を実現するための構想と新規格を提言、実現へというプレスリリースも是非ご覧ください。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆The NFT Recordsには、経験豊富なNFTの専門家及び、エンターテインメント界に精通する多彩なメンバーがそろっています。レーベル様単位でのNFT化、アーティスト様のNFT楽曲販売についてのサポートなどを行わせていただきます。是非お気軽にお問い合わせ下さい。 詳細はこちら プレスリリース提供元:NEWSCAST
2022年08月19日7月27日、インドネシア共和国のジョコ大統領夫妻を御所に招かれた天皇陛下と雅子さま。ヒジャブをかぶった民族衣装のイリアナ夫人を、雅子さまは淡い色合いのお着物で迎えられた。陛下のご即位以来、皇后として海外からの賓客をもてなす雅子さまは、令和初の国賓として来日したトランプ元大統領夫妻をお迎えしたときから、相手国の伝統や夫人のスタイルによって和洋の装いを上手に選ばれている。そんな、雅子さまの“国際親善”のお姿を振り返るーー。【アメリカ】’19年5月国賓として来日したトランプ元大統領夫妻を歓迎する宮中晩餐会。雅子さまは通訳を介さず英語で会話。友好を深められた。【フランス】’19年6月マクロン大統領と来日したブリジット夫人を昼食会にご招待。フランス語でもてなされた。【トルコ】’19年7月今日のウクライナ・ロシア問題打開のカギを握るエルドアン大統領とエミネ夫人をお迎えに。【ニジェール】’19年8月第7回アフリカ開発会議に出席したイスフ大統領夫妻ら32カ国の首脳を茶会に招かれて。【スウェーデン】’19年10月即位礼正殿の儀の後、饗宴の儀でヴィクトリア皇太子のカーテシーをお受けに。【オランダ】’19年10月饗宴の儀で、仲のいいオランダのマキシマ王妃との再会では親しみを込めてチークキスを。【ウズベキスタン】’19年12月サマルカンドブルーの装いのミルジヨーエヴァ大統領夫人を和服でお迎えに。【インドネシア】’22年7月27日流水に花をあしらった和服をお召しに。雅子さまが海外の賓客と会見されるのは2年7カ月ぶりとなった。雅子さまのこまやかなお気遣いが友好関係を育み、世界平和にもつながっていく。両陛下は8月15日の終戦記念日にも全国戦没者追悼式に出席し、国内外の平和を願われる。
2022年08月18日7月21日、110年前の7月30日に崩御した明治天皇の百十年祭に際して、雅子さまは天皇陛下に続いて、明治天皇と明憲皇太后がまつられる明治神宮の本殿を参拝された。この日は午前中から蒸し暑く、最高気温は30度を超えたが、雅子さまは肌の露出を抑えたオフホワイトのロングドレス姿でも、終始涼やかなご表情をお見せに。明治神宮の権宮司の挨拶に、落ち着いた笑顔でお応えになった雅子さま。玉串を捧げられたのちも、境内にいる人々に、にこやかに会釈をなさりながらお帰りになった。両陛下に続いて、秋篠宮ご夫妻も同日の午後に参拝されている。
2022年07月30日開幕まで残り1000日を切った2025年の大阪・関西万博。7月18日に名前が発表された万博の公式キャラクター「ミャクミャク」がネットを中心に話題となるなど、徐々に盛り上がりを見せてきている。大阪で万博が開催されるのは2025年で2回目。1970年に初めて大阪万博が開催された際には、昭和天皇をはじめ数々の皇族がお出ましになった。特に楽しまれていたのが、秋篠宮さまとご兄弟で訪問された当時10歳の天皇陛下だ。モノレールやジェットコースターを楽しまれた天皇陛下は、三菱未来館にもご来館。取材陣の前では、当時子供たちに大人気だった漫画『おそ松くん』に出てくるイヤミのギャグ、「シェー」のポーズを披露される一幕も。これまで本誌は、このように皇族方がリラックスした“素顔”を見せられる瞬間を目撃してきた。今、改めて振り返りたい。■雅子さま天皇陛下とドライブデート1997年、那須御用邸でのご静養中に、お車を運転され、天皇陛下とつかの間のドライブデートを楽しまれたのは雅子さま。運転されていたのは、ご成婚前から乗られていたカローラIIライムだ。当時の東宮御所から運びこまれ、那須町共同利用模範牧場内の高原道路を颯爽と走られた。ドライブ中には時折車を止められて、写真を撮影なさったり、牧場で馬と遊ばれたりといった微笑ましい場面も。1時間の予定を大幅にオーバーし、2時間のデートを満喫されていた。■愛子さまソフトクリームを手に同級生とガールズトーク2016年、学習院大学のキャンパスで行われる恒例行事「オール学習院の集い」に参加された当時中学3年生の愛子さま。大合同演奏会では、初等科管弦楽部のOGとしてチェロを演奏された。昼食後には、仲のいいご学友4人とソフトクリームを片手におしゃべりなさるお姿が目撃された。キャンパス内のコンビニで愛子さまが選ばれたのは「ワッフルコーンホワイトカフェモカ(当時213円)」。ベンチに腰掛けて、ガールズトークを楽しまれていた。■佳子さまヒョウ柄パンプスでコンビニへ2018年、キャメル色のライダースジャケットに、レオパード柄のパンプスという“肉食系ファッション”で都内のコンビニに現れたのは、秋篠宮家の次女・佳子さま。リラックスされたご様子で店内をご覧になり、iTunesカードを購入された。会計を終えた佳子さまは、「お待たせ♪」と言わんばかりの笑顔で、1人の男性のもとへ駆け寄られた。店の外で待っていた30代後半と思しき精悍な顔立ちの男性は“側衛”と呼ばれる皇宮護衛官。そんな護衛官とのひとときは、佳子さまにとって貴重な息抜きの時間となられていたようだった。■ゲームセンターを楽しまれる秋篠宮さま■ノリノリでヒップホップダンスを披露される佳子さま■ボーイフレンドと仲良く駈け出される愛子さま■チェック柄の水着で海水浴を楽しまれる愛子さま■スーパーで買い物をされる黒田清子さん
2022年07月23日6月27日、天皇陛下と雅子さまは日本学士院賞授賞式にご出席。そして、7月1日にも日米フルブライト交流計画70周年記念式典にお二人で出席された。東京都心で35度以上の猛暑日が続いた酷暑ウイークに、コロナ禍以降、初めて週に2つのご公務で外出された雅子さま。日本学士院賞の授賞式後には、受賞者から研究について説明を聞き、雅子さまは「どういうことで、この分野に興味を持たれたんですか」と身を乗り出されて質問を。また、日米間で学生や研究者を奨学生として相互派遣する留学奨学金制度「日米フルブライト交流計画」の70周年記念式典では、留学経験がある陛下と雅子さまは、若い人たちの国際交流に大きな期待を寄せられているようだった。これまで暑い夏がどちらかといえば苦手といわれてきた雅子さまだが、この2つのご公務では終始明るい表情をお見せだった。連日の猛暑にも、皇后としてのお務めを大切にする姿勢を示されていた。
2022年07月09日担当者の説明にうなずきながら、沖縄返還にまつわる資料を真剣な表情でご覧になった天皇陛下と雅子さま。お二人が特別展「公文書でたどる沖縄の日本復帰」を鑑賞するために、国立公文書館に行かれたのは6月14日のことだった。雅子さまが同館を訪問されたことに、皇室担当記者は胸をなでおろしたという。「雅子さまの“腰のご不調”が大変心配だったからです。“腰の調子がよくない”という理由で、予定されていたご養蚕行事『初繭搔き』を取りやめられたのは6月8日のことでした。作業には腰をかがめる動作なども必要となりますので、それがご負担だったようです。雅子さまのご体調について、不良な体の部位が明確に公表されるのは大変珍しいことなのです」だが2日後の6月10日、宮内庁担当記者たちからの質問に、侍従次長はこのように答えるばかりだったという。「皇后陛下の腰のお痛みにつきましては、だいぶ落ち着かれたようです。ただ女性の体調に関わるお話ですので、どういった症状であるのかなどは、私のほうからお伺いすることは控えておりますので、詳しくはわかりません」ご不調の原因は明らかにされなかったのだ。さらに1週間後の16日になっても侍従次長は、「(皇后陛下の腰については)完全にお痛みがなくなったわけではないようです」と、コメントを……。前出の皇室担当記者が続ける。「実は4年前、’18年6月にも、当時皇太子妃だった雅子さまの“腰のお痛み”が公表されているのです。当時、東宮大夫は“車での移動をはじめ、立ったり座ったりする際にお痛みを伴う”と、説明していました。医師の診断は『腰椎ねんざ』。しかしこのときも原因は明らかにされず、東宮大夫は『お疲れもたまっていたと思うが、それが直結しているかはわからない』と、語っていました」“原因不明の腰の爆弾”を抱えられている雅子さま。腰や首の不調は、“皇后の職業病”とも言われているという。宮内庁関係者が解説する。「式典などで来賓席に一度座られたら、背筋を伸ばし身じろぎすることもできません。ずっと同じ姿勢を保つことは、腰や首にかなりご負担になっているはずです。また地方にお出かけになり、地元の人々とお話しになる際は、視線を相手に合わせるために、腰をかがめられています。皇后さまは東日本大震災の後に、避難所なども訪問されましたが、いつも床に膝をつけて、被災者と長時間にわたってお話しになっていました。さらに言えば、宮中祭祀も天皇陛下よりご負担が大きいといわれています。天皇陛下の正装は束帯、皇后さまは十二単をお召しになります。皇后さまの『おすべらかし』の御髪(おぐし)は首などに重圧がかかります。美智子さまも70代後半からは、お体への負担を考慮され、欠席されることも増えたのです」皇后になられて4年目、58歳の雅子さま。58歳というご年齢は“皇后の鬼門”なのかもしれない。「美智子さまが精神的なショックの積み重ねから、お倒れになったのが’93年10月、59歳のお誕生日のことでした。その後、しばらく声を出すことができない症状が続きました」(前出・皇室担当記者)■ストレスが腰痛を引き起こすケースも美智子さまが失声症を発症されたのは59歳だったが、58歳当時は被災地ご訪問などの過酷なスケジュールに疲弊し、またご自身への心ないバッシング記事に胸を痛めていらしたという。皇室ジャーナリストの渡邉みどりさんはこう語る。「バッシング報道は、皇室改革を進めてこられた美智子さまへ、保守派の反発が向かったことが原因だったといわれています」美智子さまが58歳といえば、皇后になられて4〜5年目。雅子さまも同様だが、一心不乱に邁進された心身のお疲れが蓄積してきた時期ということなのか。精神科医の香山リカさんは次のように語る。「雅子さまが腰に違和感を覚えられていると伺い、心配しております。実は整形外科の医師から受けたレクチャーによれば、腰の痛みの70%は原因がわからないというのです。さらに、原因不明の方の多くが、心因性によるのではないかとも指摘していました」確かに厚生労働省のHPでも、《ストレスが腰痛を引き起こすメカニズム》について詳細に説明されている。香山さんは、こう続ける。「60歳の手前である58歳ごろは、自分の人生を振り返り、やり残したこと、やれなかったことなどを思い出し、精神的な苦痛が生じやすい年齢といわれているのです」美智子さまが危機を乗り越えられたのは、長女・黒田清子さんの尽力も大きかったという。「清子さんが中心になって、御所に音楽家を招いて、美智子さまがお好きな作曲家のシベリウスの曲の演奏会を開かれるなど、お心安らかに過ごせるお時間を作ったのです」(前出・渡邉さん)すると雅子さまが現在の危機を脱するためにもご家族のサポートが必要となるのだろうか。「『初繭搔き』を取りやめられてから、3日後の6月11日、雅子さまは紅葉山御養蚕所に赴かれたのです。お痛みをこらえてのお務めを心配されたのでしょう。天皇陛下と愛子さまも合流され、作業をご一家で行われました。詳細は明らかにされていませんが、雅子さまが声を出して笑われる場面もあったと伺っています」(前出・宮内庁関係者)腰痛に悩まれる雅子さまにとって、陛下と愛子さまとお過ごしになるひとときが、何よりの癒しになっているのだろう。
2022年06月23日6月5日、天皇陛下と雅子さまは滋賀県甲賀市で開催された「第72回全国植樹祭」にオンラインでご出席。昨年に続き、中継で式典会場のスクリーンに両陛下の様子が映し出された。今年は会場の参加者と同時に緑化への願いをこめてハンカチを振る演出があり、両陛下は、皇居・御所の玄関前に設けられたお席で黄色いハンカチをお振りになられた。ハンカチ一枚一枚には滋賀県の子どもたちが書いた、「滋賀県は特別な自然や生き物がたくさん」などのメッセージが。コロナ禍で予定されていた生徒全員の参加がかなわなかったため、県庁が植樹祭に関する一言をお願いしたのだという。さらに、両陛下は記念にスギなどの苗木をお植えになり、コウヤマキなどの種を蒔まかれた。式典後、滋賀県に運ばれて植えられる予定だ。また、3年ぶりに緑化啓発ポスターの展示をご覧になり、植樹祭の参加者たちともご懇談。コロナ禍で直接のご交流はできないが、地方ご公務のオンライン参加にも両陛下らしい工夫がなされているようだ。
2022年06月18日1958年、NHK局員だった金子鮎子さん(88)は、ご婚約直前の美智子上皇后のお姿を撮影できたことが認められて、日本初の女性テレビカメラマンになることができた。順風満帆にみえた金子さんだが、紆余曲折を経て精神障害者支援への道を歩んでいくことになる。【前編】日本初の女性テレビカメラマン明かす「美智子さまご婚約直前の極秘撮影」秘話から続く■社会的に孤立していた精神障害者に寄り添いたかった念願のカメラマンになった金子さんは、事件があれば米国製の16ミリカメラを手に局を飛び出した。1964年の東京五輪では、女子選手村に入り、選手たちのプライベート映像をカメラに収めた。女性として第一線で働く金子さんの姿は、美智子さまと同様に時代の華として、週刊誌などでもたびたび紹介された。順風満帆に思えた金子さんのキャリアに転機が訪れたのは、カメラマン9年目の1968年。広報室へと異動になったのだ。金子さん35歳のときだった。「当時はまだ、労働基準法の保護規定で、女性の深夜労働が禁止されていたんです。キャリアを重ねたら多少お給料は上がるけれど、深夜労働ができない女性は、デスクとしては使いにくい。今なら問題でしょうが、当時は仕方ないと思いました」だが、転んでもただで起きない。これを機に、幼少期から関心があった心理学について学ぼうと、週に1度、仕事帰りに東京カウンセリングセンターに通い始めた。「そこの先生が、うつ病の当事者が集まる会を作ったというので、手伝いに行くようになったんです」ここで出会ったのが、心の病いに苦しむ当事者や、その家族だった。「幻覚や妄想などがある統合失調症は、10代で発症する人も多く、回復までに長くかかります。ひきこもりになると、本人も家族も苦しいし、家族間の関係性も悪くなってしまう。さらに、周囲からは偏見の目を向けられて、社会で孤立していました」幼少期の劣等感が思い出され、人ごととは思えなかった。「人は誰しも、深刻な出来事が重なれば心の病いになりかねません」金子さんは、知り合いの精神科医やカウンセラーなどと一緒に、1971年に障害当事者が集まる「日曜サロン」と、家族が集う「家族会」をオープン。「日曜サロン」は、現在までなんと50年以上も続いている。「心の病気のことって人に話しにくいじゃないですか。だから、心置きなく話せる場所を作れたらと思ってね。じっくり話を聞くだけでも、ご本人や、お母さんの表情が柔らかくなるんです。お母さんは、子どもにつらくあたったりしなくなるし。それだけでも、ずいぶん親子の関係性が変わるんですよ」■精神障害者でも働ける社会へーー株式会社を設立当事者やご家族から厚い信頼を得るようになった金子さん。NHKの勤務がない時間は、精神障害者宅を訪問して話し相手になったり、精神障害者を支援する会で病気のことを学んだり……。「仕事や勉強で手いっぱいで、結婚には前向きになれなくて」金子さんは、結婚より精神障害者と共に歩む道を選び取っていた。そんななか、「働いて自立したい」という精神障害当事者が多いことに気づく。「当時、NHKに入っていた清掃会社にお願いしてまわり、精神障害者の方を数名、雇ってもらったんです。いきなりフルタイムは無理でも、一日数時間から徐々に延ばしたら、長く働ける人もいてね。サポートすれば精神障害があっても、ご本人次第で働けると確信しました」NHKで働きつつも、金子さんの心には、「精神障害者と共に働く会社をつくりたい」という思いが年々膨らんでいった。「私は医師でも保健師でもない。だから“支援”なんていう上から目線じゃなくて、手助けしながら“一緒に”働きたい。ただそれだけでした」1988年、金子さんはおよそ34年勤めたNHKを55歳で定年退職。翌1989年、志を同じくする仲間と共に、精神障害者が働く清掃会社、株式会社ストロークを起業する。障害者は数百円の工賃しかもらえない時代、社会福祉法人などではなく、株式会社にこだわったのは「障害があっても仕事に見合う賃金が支払われるようにしたかったから」と金子さん。社名のストロークには、なでる、さするなどの意味がある。「赤ちゃんでも、スキンシップや周囲からの声かけが多いほどすくすく育つでしょう。そんなプラスのストロークを、もらうだけじゃなく、障害があってもこちらから発信して社会の役に立ちたい。社名にはそんな思いを込めたんです」金子さんの熱意を目の当たりにし、応援団は増えていく。「NHK時代の仲間や地域医療に関わってきた医師、たくさんの支援仲間、そして他界する直前だった父も株主になってくれて。起業を後押ししてくれました」一方、美智子さまは、1989年に昭和天皇が崩御し現在の上皇陛下が天皇に即位されたことで、初の民間出身の皇后になられる。新しい時代の扉は開きつつあった。■村木厚子さんらと実現した障害者雇用の道金子さんは、清掃会社でアルバイトをしながらノウハウを学んだ。しかし、簡単に事は進まない。「働きたい思いはあっても、社会経験がなかったり、薬を服用しているせいで朝起きられなかったりする人も少なくありません。『睡眠薬を飲んだので、明日は起きられません』と夜中に電話がかかってくることもあります。ですから私は事務所で寝泊まりして、急に休む人が出た場合は、代わりに現場に入る準備をしていました」事なきを得たからよかったが、金子さんは脳梗塞で倒れる71歳まで、事務所で寝泊まりする生活を送っていたという。みずからの命を削りながらも、金子さんは、精神障害者の人たちが働けるようになるまで「待つ」ことを諦めない。「一日数時間、週に数回のシフトから始めて、慣れたら入る時間や回数を増やしていく。そうすると、うまくいく場合が多い。調子が悪いときは、調子のいい誰かが入る。サポートがあれば、障害があっても職を失わず働き続けられるんです」金子さんの愛情は、障害当事者にもしっかり伝わっていった。勤続27年目のスタッフで統合失調症の持病がある只隈光人さん(65)は、こう振り返る。「入社してしばらくは、調子が悪いとすぐに仕事を休んでいました。でも金子さんは一度も怒らず、『仕方ないわね』とカバーしてくれた。でも、私が休むと、日ごろから無理をしている金子さんの負担がさらに増えてしまう。そう気づいてから仕事を休まなくなりました」とはいえ、一企業ができることには限界がある。金子さんの目標は、精神障害者の人たちが当たり前に働き、自立できる社会の仕組みをつくることだった。そのために、次々と各方面に働きかけた。「通称“職親会”といって、精神障害者の社会復帰のために働く場を提供してくれる小さな事業者(職親)の集まりがあるんです。こうした職親の取り組みを広く紹介したり、2000年からは2期にわたって厚生労働省主催の委員会の一員になり、どうやったら精神障害者が就労できるか、具体策を示して民間企業へ雇用を働きかけたりしました」当時から一定規模以上の企業は、身体・知的障害者を雇用せねばならない義務があった。しかし、精神障害者に関しては理解が進まず、雇用義務から外されていたのだ。さらに金子さんは、障害者雇用に道を開いた、当時厚労省の局長だった村木厚子さんの勉強会にも積極的に参加した。「いろんな障害者支援のグループの方々が夕方、厚子さんの局長室に集まって意見交換するんです。厚子さんは、こちらの意見にも熱心に耳を傾けてくださって、精神障害者の雇用を増やすために一緒に考えてくださいましたね」これらの勉強会を経て、2006年には「障害者自立支援法」が成立。障害者雇用促進法も改正されて、2018年ようやく企業での精神障害者の雇用も義務化されたのだ。「長い道のりでしたが、やっとスタートラインに立てた。そんな気持ちでしたね。私が起業したころは、ハローワークの人に『精神の病気を治してから来てください』と言われる時代でしたから」金子さんの脳裏には、これまで泣き笑いしながら共に働いてきた仲間たちの顔が浮かんでいた。■天皇皇后両陛下に謁見。陛下は驚かれて……64年前、正田邸で出会った若かりし日の美智子さまと金子さん。2021年12月20日、時代を経て2人の人生が再び“接近”する出来事があった。金子さんが、福祉の道で貢献した個人や団体に送られる「第73回保健文化賞」を受賞したのだ。同賞の受賞者は天皇皇后両陛下に謁見することが慣例となっており、金子さんは今上陛下と雅子さまにお会いすることができた。「陛下にこれまでの取り組みを申し上げると、陛下は、『それは大変でしたね……』と、私の話に熱心に耳を傾けてくださいました」天皇陛下の福祉へのご関心の高さは、母である美智子さま譲りなのかもしれない。ご成婚の年である1959年7月に、母子愛育会をご訪問されたときから、美智子さまの福祉施設へのご訪問は始まった。それから、半世紀以上にわたって、全国の福祉施設や病院を訪問され続けた。こうしたお姿が、国民にとって御簾の向こうにあった皇室を身近なものにしたことは間違いない。「美智子さまが訪問された病院を、直後に、厚労省の委員として視察に行ったこともありました。美智子さまも障害者の支援に、ずっと熱心でいらっしゃいました」お代替わりもあって、残念ながら美智子さまにお会いすることはかなわなかったが、お志を継がれた天皇皇后両陛下に、金子さんはこれまでの活動をご報告できた。「陛下には、美智子さまをご婚約内定前に撮影させていただいたお話もさせていただきました。そうしたら『ほぅ』と驚いていらっしゃったわね(笑)」皇室の扉を国民へーー。就労の扉を精神障害者へーー。64年前、夢と希望を胸に抱いて、同じ部屋でひとつの時を共有した2人の女性たちは、とびきりの勇気と優しさで、固く閉ざされていたドアを開いたのだ。
2022年06月12日筑波大学附属高等学校に悠仁さまが入学されて2カ月が過ぎた。同校は、2021年度の入試では42人が東京大学に合格した都内屈指の進学校。悠仁さまを東大に合格させるという目標があるといわれる秋篠宮ご夫妻にとっては、“期待できる”教育環境が整ったのだ。そんななか、ひっそりと秋篠宮家を去った女性職員がいたーー。「皇嗣職宮務官のAさんが、4月30日付で依願退職したのです」こう話すのは、秋篠宮家に近い宮内庁関係者だ。「Aさんは、2019年5月に皇嗣職宮務官として着任していますが、前職はお茶の水女子大学の職員で、広報などの責任者でした。ちょうどこの前月に、悠仁さまがお茶の水女子大附属中学校に進学されていました。Aさんは、秋篠宮家と学校側との連絡調整を担当するとともに、東大を目指す悠仁さまの“教育係”の役割も、秋篠宮ご夫妻に求められてやってきたそうです」(前出・宮内庁関係者)皇嗣家である秋篠宮家を支える宮内庁の内部部局は皇嗣職と呼ばれる。その職員である皇嗣職宮務官は、どんな役割を担うのか。元宮内庁職員で、皇室ジャーナリストの山下晋司さんはこう話す。「宮務官は、宮家の公務に関する調整や報道対応、身の回りの品のことから私的な交際に至るまで幅広く対応することが求められます。皇嗣職は、東宮職と同等の組織ですが、東宮侍従や東宮女官といった男女別の職種をやめ、皇嗣職宮務官という形で統一されています。東宮女官には他省庁からの出向組はおらず、公務員試験も経ない選考のみで採用していました。長期間務める方が多かったですね」悠仁さまの筑附高ご進学、Aさんの退職の少し前に、海外でも報じられた騒動が起こっている。昨年、悠仁さまが中学2年生のときに書かれた作文が、北九州市が主催する「第12回子どもノンフィクション文学賞」の中学生の部で佳作に選ばれたのだがーー。「今年2月になって、作文の参考文献として記載されていない書籍からの引用が指摘されたのです。当初宮内庁は、『悠仁さまはご指摘に感謝している』と説明しただけでした。しかし、“盗用ではないか”といった批判が高まり、結局2カ月後に参考文献を追記して提出し直すことになりました。この騒動については、海外のメディアのほうが厳しい論調で、紀子さまも相当ショックを受けられたそうです」(皇室担当記者)■“ご難場”と呼ばれる職場環境未来の天皇の経歴が汚されてしまったーー。騒動の余波に慄いたのは、秋篠宮家に仕える職員たちだった。「紀子さまは高い観察力をお持ちで、ふだんから細かいことにお気づきになり、責任感もお強いです。“次の皇后”“将来の天皇の母”という自負ゆえに、時に職員に対して、高いレベルで仕事を仕上げることをお求めになります。厳しい口調で職員に注意していたと報じられることもありました。盗用騒動のときも、作文を提出する前の確認に怠りがあったとして、Aさんをはじめとする秋篠宮家の職員ばかりでなく、文学賞への応募の窓口になった中学校の関係者にも激しく憤られていたと聞きます」(前出・皇室担当記者)以前から秋篠宮家の職場環境は、宮内庁内で“ご難場”として知られているという。「これまでも、紀子さまがお示しになる高い要求水準や、そのプレッシャーに耐え切れずに辞める職員は後を絶ちませんでした。宮内庁内でも、秋篠宮家への異動に後ろ向きな職員が多い気がします。大手航空会社から秋篠宮家の職員に転じた方もいましたが、すぐに辞めてしまいました」(前出・宮内庁関係者)秋篠宮家が皇嗣家となってから、職員の定数は20人前後から51人まで増えた。秋篠宮家が担われるご公務も多くなっている。「一方で、紀子さまは細かい事務作業へのチェックは変わらず厳格に行われています。結局、短期間で職員が入れ替わる環境もそのままで、なかなか人材が定着しない状態なのです」(別の皇室ジャーナリスト)Aさんの退職直後、国際協力機構(JICA)の職員だった女性が、後任の皇嗣職宮務官に就いた。「宮内庁内では、悠仁さまが筑附高に進まれ、お茶の水女子大側との“パイプ役”だったAさんが当面の役割を終えただけでなく、“盗用騒動で信頼を失って更迭されたのでは”などと囁かれています。秋篠宮ご夫妻は令和になり、JICAの海外協力隊員との接見というお務めを天皇皇后両陛下から引き継がれています。皇室と同団体との関わりは深く、過去にもJICAの元職員が、皇嗣職宮務官に就いたことがあります。秋篠宮ご夫妻からすれば、より役に立つ人材を登用したということなのでしょう。ですが、過酷な環境のせいで職員が定着しないままでは、将来の天皇家となる秋篠宮家を必死に支える人材がいなくなってしまいます」(前出・皇室担当記者)こうした現状を憂えているのは、学生時代からの紀子さまの知人だ。「紀子さまが学習院大学で学ばれていたころ、弟の川嶋舟さんも通われた中等科の後輩たちが授業時間にキャンパスにいるのを見かけ、優しく『サボっちゃだめだよ』と声をかけられたと伺いました。お若いころからまじめで、こまやかな気配りができるお優しい方なのです。皇嗣家の妃殿下として、“両陛下や上皇ご夫妻にご迷惑をかけたくない”というお気持ちが強すぎて、ご心労が大きくなられているのかもしれません……」紀子さまの職員を慈しむお気持ちこそが、ひたむきに秋篠宮家を支える人材を集めることにつながるはずなのだがーー。
2022年06月09日「このコはよく食べますね」「こちらにも葉を置いたほうが食べやすいかも……」蚕たちが食べる桑の葉の置き方について相談される雅子さまと愛子さま。そしてお二人を、ほほ笑みながら見つめられる天皇陛下。天皇ご一家が、そんなかけがえのないひと時を過ごされたのは、6月1日午後のことだったという。皇室担当記者が次のように語る。「雅子さまが、皇居・紅葉山御養蚕所で取り組まれている養蚕の作業に、天皇陛下と愛子さまも参加されたのです。実は前日の5月31日に雅子さまが、蚕に餌となる桑の葉を与える『ご給桑』という作業を行われる予定になっていました。ご養蚕は明治以降、歴代皇后が受け継いできたお仕事です。天皇陛下の稲作とともに、皇室においては神事に近いお務めであり、雅子さまもとても熱心でいらっしゃいます。しかし雅子さまのご体調が思わしくなかったそうで、直前になっておとりやめに……。雅子さまが、事前に参加が発表された行事を欠席されるのは、最近では大変珍しいことですので、私たちも驚き、また宮内庁職員たちも心配していました」だが翌日の6月1日、体調が回復された雅子さまは、御養蚕所に赴かれたのだ。「天皇陛下と愛子さまも同行されたのは、雅子さまのお体を心配されたからかもしれません。愛子さまが御養蚕所で作業をお手伝いされるのは初めてのこと。詳しい経緯について宮内庁は明らかにしていません。しかし、ご家族3人で有意義で楽しい時間を過ごされたことは、記念日を目前に控えられた天皇陛下にとっても、“サプライズな出来事”となったことでしょう」’93年に結婚された天皇陛下と雅子さまは、6月9日に29回目のご結婚記念日をお迎えになる。お二人が出会われた当時、東宮侍従を務めていた竹元正美さんはこう語る。「’86年10月、スペインのエレナ王女が来日した際、東宮御所で歓待のためのお茶会が開かれたのです。エレナ王女と同年代の若い人も、ということで出席されたのが、外交官試験に合格したばかりだった“小和田雅子さん”でした」輝かしいキャリアを歩み始めた雅子さまが、お輿入れを決断されたのは、それから6年後の’92年。「皇室に入られることには、いろいろと不安や心配がおありでしょうけれども、雅子さんのことは僕が一生全力でお守りしますから」プロポーズのお言葉はあまりにも有名だ。そして陛下は、その誓いを守り続けてこられたのだ。■ご夫婦でのご公務を待ち望み続けられた天皇陛下天皇皇后両陛下の側近も務めたことがある元宮内庁関係者も感慨深げだった。「この30年の道のりはけっして平坦ではありませんでした。’03年12月に帯状疱疹で宮内庁病院に入院された後、翌年3月から雅子さまは、軽井沢にある小和田家の別荘で1カ月ほど静養されました。当時はまだ『適応障害』という診断が出る前で、このころがいちばん不安でおつらい時期だったと思います。そういった時期だからこそだったのでしょう。天皇陛下は多忙なご公務の合間を縫って、軽井沢に駆け付け、雅子さまに寄り添われたのです。また愛子さまが学習院初等科への登校に不安を感じられ、雅子さまが付き添われていたこともあります。そうしたときも天皇陛下は外では国民のために粛々とご公務に臨まれ、また東宮御所では、雅子さまと愛子さまを優しく支えていらしたのです」一時期は、雅子さまがご公務にほとんど出席されず、陛下の“単独ご公務”が続いた。元宮内庁関係者が続ける。「東京都内の式典でも、地方へのご訪問でも、陛下はいつも関係者に、このようにおっしゃっていました。『雅子も来たがっていましたが、今回は残念ながら……』『次の機会には、ぜひ雅子もいっしょに』こうしたお言葉は、お二人でのお出ましを願い出ていた式典の主催者らへのフォローという意味もありましたが、陛下の、“雅子さまとごいっしょに公務に臨みたい”という真摯なお気持ちの表れなのだと、私たちは感じていました」雅子さまとお二人でご公務に臨まれるとき、天皇陛下はとてもうれしそうにされているという。ある宮内庁関係者によれば“楽しいお気持ちが、お体全体から感じられる”のだという。「5月25日には、東京国立博物館で開催中の特別展『琉球』を、両陛下がご覧になりました。展覧会鑑賞などのために皇居からお二人で外出されるのは約2年3カ月ぶりのことで、このときも陛下のお気持ちが伝わってくるように思いました。展示物についてお二人が腰をかがめて、目を合わせながらお話しになるお姿、また説明担当者にそれぞれがタイミングよく質問される息の合ったお姿などからも、両陛下の仲むつまじいご様子が感じられました」■「次回は皇后を…」バイデン大統領への言葉に秘めたもの前出の元宮内庁関係者が明かした、「次はぜひ雅子も」と、お話しになっていたという陛下の“習慣”が、いまも変わらずに続いていることが最近判明した。「5月23日、天皇陛下はバイデン米国大統領と御所で会見されています。翌々日に、陛下に同行して特別展『琉球』を鑑賞することを決断されていたためか、雅子さまは接遇に参加されませんでしたが、会見では、雅子さまのことも話題に上ったのです。陛下が『皇后も高校・大学をアメリカで過ごし、たくさんよい思い出を持っています』と、お話しになりました。さらにボストン市郊外にあるベルモント・ハイスクールを卒業したことも明かされると、バイデン大統領は『それでは(皇后は)ボストンなまりの英語を話されるのですか?』と聞き返すなど、会話もさらに盛り上がったそうです。陛下としては、その場にいない雅子さまも、いっしょに会見に臨んでいるようなお気持ちだったのでしょうか。会見の最後には陛下が『次回は皇后を交えてお会いしたいです』と、挨拶されています。このやりとりを知ったとき、私は、あるエピソードを思い出しました……」(前出・宮内庁関係者)ご成婚後、天皇陛下と雅子さまは、忙しい日も朝食をともにすることを日課とされていた。しかし雅子さまが体調を崩されるようになり……。「雅子さまは、朝の起床も難しくなってしまったのです。それでも陛下は、テーブルの前で座ったまま、食事に手をつけることなく、静かに雅子さまをお待ちになっていました。ときには昼近くになったこともあったと聞いています。天皇陛下にとられて、雅子さまと“二人でいる”ということは、それだけ大切なことなのだと知りました。会見時の『次回は皇后を交えて』というご挨拶は、もちろんバイデン大統領に向けてのものなのですが、陛下にとっては『永遠に皇后と2人で』という誓いでもあったのでしょう。ご結婚記念日を前にした重要な会見の場での、そのお言葉は、雅子さまへの“再プロポーズ”ともいうべきものだと思います。雅子さまも、きっと感動されていたはずです」(前出・宮内庁関係者)コロナ禍も収束傾向にあり、両陛下のご公務も本格的に再始動しつつある。「国内では、今年10月から国民文化祭、全国障害者芸術・文化祭が沖縄県で開催されます。雅子さまも25年ぶりの沖縄再訪に向け、意欲を燃やされています。また海外については、’20年に両陛下でイギリスを訪問される予定でしたが、コロナ禍のために実現しませんでした。これは宮内庁も“延期”という認識ですから、近いうちに再検討が始まると思います」(前出・皇室担当記者)6月9日からご結婚30年目に入られる天皇陛下と雅子さま。きっと絹糸のように美しく、しなやかな絆を紡がれ続けるに違いない。
2022年06月08日5月25日、天皇陛下と雅子さまは上野の東京国立博物館を訪問し、沖縄復帰50年記念特別展「琉球」を鑑賞された。お二人での展覧会へのお出かけは2年3カ月ぶり。雅子さまのご様子からは、胸のときめきが伝わってくるようだった。雅子さまは、琉球王国時代の「銅鐘 旧首里城正殿鐘」に興味を持たれ、鐘に刻まれた「船で万国の津梁、いわば架け橋となって貿易を行い、国に宝物が満ちている」といった内容の銘文を、熱心にのぞき込んで読まれていた。さらに、鐘についた傷をご覧になり「やはり戦争の傷ですか」とご質問。戦争の爪痕についても気にかけていらした。コロナ禍の自粛ムードもようやく薄れつつあり、今後は両陛下でのお出ましも増えてくるに違いない。
2022年06月04日夕暮れ時の東京・上野。報道陣が待ち受ける中、到着した車から天皇陛下に続いて、雅子さまが降りられた。5月25日、両陛下は特別展「琉球」をご覧になるため東京国立博物館にお出ましになったのだ。「報道陣にはもともと、天皇陛下お一人でご覧になるとアナウンスされていました。雅子さまも体調を整え、行かれることになったようです」(皇室担当記者)雅子さまのご同行は“サプライズ”だったのだ。両陛下は、15世紀に制作された「銅鐘旧首里城正殿鐘」という銅製の鐘について説明を受けた。雅子さまは、鐘の穴や凹みをご覧になって「やはり戦争の傷ですか」などと質問されていたという。この2日前、天皇陛下は、就任後初来日となったバイデン米大統領と御所で面会されている。だが、その席に雅子さまはいらっしゃらなかった。陛下はご自身と米国との関わりについて発言するなかで「皇后も高校、大学を米国で過ごし、たくさんよい思い出を持っています」と、雅子さまについても言及。さらに帰り際には「次回は皇后を交えてお会いしたいです」とお伝えになった。接遇の場に姿をお見せにならなかった雅子さま。だが、前出の皇室担当記者は「この選択に雅子さまの信念を感じる」と語る。「今回は、バイデン大統領は夫人を伴わない来日であったため、外交儀礼上、陛下との一対一の面会となったのは自然なことです。とはいえ、天皇ご一家のお住まいである御所での面会ですし、玄関での出迎えや見送りで雅子さまが挨拶される可能性は高いとみられていました。皇后となられて1年目に、当時のトランプ米大統領と通訳なしでお話しになる姿が話題になったように、国際親善は雅子さまの資質がもっとも輝くお仕事といっても過言ではありません。それでも雅子さまは、2日後にある琉球展に確実に同行したいとお考えになって、バイデン米大統領との面会を見送られたのではないでしょうか」雅子さまはいまだに適応障害の療養中であり、“体調の波”がある。短期間に複数のご公務に出席するのは大きな負担だ。そういった状況下で、沖縄関連の公務を優先するという選択の陰に、いったいどんな決意があったのか。■天皇陛下の目に光るものが…5月15日、沖縄復帰50周年記念式典に両陛下はそろってオンラインで出席されている。陛下は、お言葉のなかで沖縄の“犠牲”について言及された。「大戦で多くの尊い命が失われた沖縄において、人々は『ぬちどぅたから(命こそ宝)』の思いを深められたと伺っていますが、その後も苦難の道を歩んできた沖縄の人々の歴史に思いを致しつつ、この式典に臨むことに深い感慨を覚えます」さらに、沖縄の発展や県民生活の向上などに触れたうえで、次のように述べられたのだ。「一方で、沖縄には、今なおさまざまな課題が残されています。今後、若い世代を含め、広く国民の沖縄に対する理解がさらに深まることを希望するとともに、今後とも、これまでの人々の思いと努力が確実に受け継がれ、豊かな未来が沖縄に築かれることを心から願っています」 近現代の皇室に詳しい、歴史学者で名古屋大学大学院准教授の河西秀哉さんは「沖縄には『今も課題がある』と明確に述べたことは大きな意味がある」と語る。「政治的な発言ができない天皇の立場から、慎重に言葉を選んだのでしょう。『さまざまな課題』という言葉で、米軍基地問題などを私たちに思い起こさせたのだろうと感じます。今までの天皇のお言葉では、過去の沖縄の苦難については述べられていました。さらに踏み込んで、今も沖縄はたいへんな状況にあると述べたことは、政府や日本国民にその是正を求めたようにも感じました」お言葉を述べられているとき、陛下の感情があふれ出たように見える場面があった。宮内庁関係者が語る。「沖縄の“苦難の道”に言及されたあたりで、陛下の右目に光るものが見えました。陛下は涙を浮かべていたのではないかと、宮内庁内でも話題になっているのです。この50年の歩みを振り返り、感極まったのではないでしょうか。雅子さまも、陛下と同じ思いを抱かれたのでしょう。雅子さまも涙を浮かべんばかりの神妙なご表情で、陛下を見つめていらっしゃいました。両陛下は本土復帰50周年の節目に、沖縄へ心を寄せる活動にいっそう力を入れようと決意を固められたのではないでしょうか」
2022年06月01日●『モトカレ←リトライ』dTV版の“見せ場”MBSドラマ特区『モトカレ←リトライ』で、地上波ドラマ初主演を務めた鈴木仁。同作は、『cheese!』(小学館)で連載された同名漫画の実写化作品で、大学進学を機に一人暮らしを始めた蜜(川津明日香)と、偶然隣の部屋に引っ越してきたモトカレ・楓(鈴木)の恋模様を描いている。27日からは、楓目線の物語が描かれたdTVオリジナルドラマ『モトカレ←リトライ ~カノジョが知らない僕たちの本音~』が配信開始。地上波版に続き、主演を務めた鈴木に、作品への取り組み方や俳優としての転機について聞いた。○■1人の演者という意識――MBSドラマ特区『モトカレ←リトライ』のオリジナルドラマ『モトカレ←リトライ ~カノジョが知らない僕たちの本音~』がdTVにて配信されます。本編で地上波連続ドラマ初主演となりました。地上波で主演というのは、もちろんありがたいですし、作品を引っ張っていく責任を感じながら演じさせてもらいました。ただ、作品を作るうえでは1人の演者でもあるので、あまり主演ということを意識しすぎず、自分が加わることでどれだけ作品をよくできるのかということを気にしながら、挑みました。――主演という言葉を意識せずに、1人の演者として作品に参加する意識が強かったんですね。そうは言ってもメインということでポスタービジュアルだったり、こういった取材をしていただく機会もあるので、ありがたいです。SNSでもおめでとうと言ってくださるファンの方もたくさんいらっしゃって、とても嬉しかったですし、あくまでも自分が作品に臨む意識ですね。――そういう意識が作品にいい影響を与えたのかもしれません。また、今作は今までにない新しい形のラブストーリーだと思いますが、脚本を読んだときの感想はいかがでしたか?漫画が原作ということもあって、現実にありそうで、なかなかここまでのことって実際はない。楓と蜜のもどかしい関係性とか、お互いの見えない感情があるんですが、それをぶつけ合うわけでもない。やっぱり高校生の恋愛とは少し違った印象を受けました。大人とは言えないけど、子供とも言えない微妙な年代だからこそというか。僕も今年23歳で大学を卒業した年代で、楓たちよりは少し上になりますけど、大学生っていうところで同年代だったので、リアリティを出せたらなと思っていました。○■人気キャラクターを演じるプレッシャー「楓としてどう存在できるか」――漫画が原作ということで原作ファンにも人気の高い楓を演じることにプレッシャーはありましたか?演じることに対するプレッシャーはなかったです。というよりも現代版の『モトカレ←リトライ』の世界を作り上げていく中で、楓としてどう存在できるかということを考えながら演じました。やっぱり楓は蜜がいないと成り立たない人間だと思うので、監督や川津さんともコミュニケーションをとりながら、つくり上げていけたのかなと感じます。――鈴木さんから見て、演じた楓はどういう人間ですか?正直、思っていたよりも複雑でした……。その瞬間の感情の切り替えがすごく激しい。ストーリーが、ほんの数ミリのすれ違いの連続なので、その度に楓も感情が揺さぶられるんです。言葉にするとシンプルなのですが、ワンカットの中で、怒り→悲しみ→喜び→怒りみたいにすごい細かく揺れ動いています。台本を頂いたときも感じてはいたんですが、実際に演じてみるとすごく難しくて……。あと、楓の根に持ち方は怖いですよね……。純粋ゆえのなんですけど(笑)。悲しいことが続いて引きずってしまうことって誰しもあることだとは思いますが、自分にため込むのではなくて、周りに出してしまうのはすごいですね。よく和葉もずっと付き合ってくれるなと思います(笑)。――確かに1人の人間として、その切り替えをするのはとても難しいですよね。頭で考えていたら全然追いつかない(笑)。しかも楓は本編では、そういう感情をあまり見せる役ではなかったので、より難しく感じました。内心すごく蜜の言葉に揺さぶられているんですけどね(笑)。○■前野朋哉演じる一二三の金言は「よくよくちゃんと聞いてみると…」――逆に今回のdTV版では、本編では描かれなかった楓の感情や心情を、親友の和葉や熱波師・一二三に心情を吐露する姿が映し出されています。ある意味、少し違うキャラクターなのかとも感じたのですが、いかがでしたか?内面が垣間見えたとしても、もちろん楓ではあるんですけど、蜜がいない世界の中でどう新しい顔を見せていけるか、楓をどう紐解いていけるかというところが、dTV版の見せ場というか、やりがいでもあったので楽しめましたね。前野(朋哉)さん演じる熱波師の話についつい耳を傾けてしまう楓とかも、本編とは違った一面だと思います(笑)。――サウナのシーンでの、一二三の話は妙に説得力もありますしね(笑)。そうなんですよ! でもよくよくちゃんと聞いてみると、いまいちわからない(笑)。でも本当に悩んでいる楓から見たら、すごく訴えかけてくるものがあったんだなと素直に感じました。そうやって本編の楓のイメージが徐々に崩れていって、本当の楓が浮き彫りになっていく姿を楽しんでもらいたいです。●モデルとして芸能界入り、そして俳優へ○■転機は『花のち晴れ〜花男 Next Season〜』――一二三との会話の中で体の細胞に例えて、「傷ついて戻って強くなる」というやり取りがありましたが、俳優として同様の経験をしたことはありますか?少し違うかもしれませんが、もともとこの業界に入ってきたときには、演技の仕事をするという考えをもっていなかったので、初めて俳優としてお仕事を頂いたときに衝撃は受けましたね。全然ついていけなくて「やばい……」と焦りました。その経験から演技に興味を持ち始めたので、その感覚に近いのかなと思います。――もともとはモデルとして活躍されていました。そうですね。モデルを目指してオーディションを受けたのが、芸能界入りのきっかけでした。そこからありがたいことに演技のお話を頂いたのですが、右も左もわからない状態。現場でどこにいたらいいかとか、カットがかかったらどうすればいいのかとか、現場の居方もままならなくて(笑)。そんななかで、個人的に転機になったと感じたのは、『花のち晴れ〜花男 Next Season〜』(18年)ですね。出演陣が同世代なのに第一線で活躍されている方ばかりだったのもあって、刺激を受けました。この作品を撮影していく中で、俳優としてもっとこうしたいとか、こうなりたいと思うようになった意識の変化があって、そうするにはどうすればいいのか考えながら芝居をするようになりました。○■『のぼる小寺さん』で感じた演じる楽しさ――『花のち晴れ』の現場で同世代に、いい刺激を受けて成長できたと。あとは、もう一つの大きな転機でいうと、映画『のぼる小寺さん』(20年)で演じた四条という役だと思います。この四条は、髪の長いすごく暗い人間で、今までいただいた役や自分とも違う、少し違和感のある役。四条を演じて、つかみどころのない不思議な役を演じる楽しさに気づかされました。演じるという仕事をやっていなかったら、知ることのできなかった人の人生だったと思うし、そういう自分以外の人の人生を生きることができるって面白いなと感じました。そこからもっとこうしたら……とか発想が浮かぶようになって、個人的にも新しい発見と演じることへの楽しさを実感できた作品でした。○■先輩・坂口健太郎への憧れ――先ほどのお話しにもあったモデルとしても活躍中の鈴木さんですが、同じ『メンズノンノ』の歴代先輩方も俳優として多く活躍されています。目標としている先輩はいますか?歴代すごい先輩が今なお活躍されているんですけど、代が近い方で言うと、坂口健太郎くん。坂口くんは印象が強いというか、人を引き付ける魅力があって、ドラマや映画を観ていても、目に留まる。そういう魅力って狙って出せるものじゃないと思うので憧れます。あとは、人間としてとても温かくてとにかく優しいんですよ。僕がメンズノンノモデルになって半年後に卒業されてしまったので、ご一緒する機会が数回しかなかったのですが、これから僕も俳優としても頑張って、坂口くんがいるところまで食い込んでいけるようになりたいです。――いつか共演できたらいいですね。最後に、俳優として今後どういう活動をしていきたいですか?この仕事を続けていく上で、様々な作品に参加したいですし、今作のように同世代の役者さんと切磋琢磨していきたい。また、多くの先輩方とご一緒して、もっと技術を盗んでいろいろなものを得て、吸収したいです。こういう仕事をしている上で、興味を持つことはすごく大事だと思うので、それを忘れずに考えながらこれからも取り組んでいきたいです。■鈴木仁1999年7月22日生まれ、東京都出身。2016年に「第31回メンズノンノモデルオーディション」で準グランプリを獲得し、同誌専属モデルに就任。2017年には、TBS金曜ドラマ『リバース』で俳優デビュー。2020年に映画『ジオラマボーイ・パノラマガール』で映画初主演を飾ったほか、『花のち晴れ〜花男 Next Season〜』や『お耳に合いましたら。』、『消えた初恋』など話題作に出演し、注目を集めている。7月8日公開の映画『モエカレはオレンジ色』にも出演。
2022年05月27日強い日差しのなか、水色のシャツに長靴姿で水田に入られた天皇陛下。一株一株、丁寧に苗を植えられていく。天皇陛下は5月18日、恒例のお田植えに臨まれた。秋には実った稲穂を陛下が自ら刈り取られ、収穫された稲は伊勢神宮の神事や宮中祭祀に用いられる。雅子さまも11日、皇居・紅葉山御養蚕所で、御養蚕始の儀に臨まれた。儀式のあと、蚕を育てる蚕室を見て回った雅子さまは、稚蚕が餌となる桑の葉に張り付いている様子などを確かめられたという。「ご養蚕は明治以降、歴代皇后が受け継いできました。当初の目的は、生糸が重要な輸出品だった時代、養蚕業を奨励することでした。養蚕業が衰退した平成になっても、美智子さまがご養蚕を続けられたのは、この伝統文化を守っている人々に対する、強い共感と連帯のお気持ちを示すためでした。雅子さまも、そういった心を受け継いでご養蚕に取り組まれています。天皇陛下の稲作とともに、皇室において神事に近いお務めといえます」(皇室担当記者)実は、雅子さまが今年のご養蚕を始められるのと時を同じくして、愛子さまも御所で13年目となる蚕の飼育をスタートされたという。宮内庁関係者はこう語る。「愛子さまは学習院初等科3年生のころ、授業で蚕の飼育に取り組まれて以来、ずっとその子孫を飼い続けていらっしゃいます。卵を孵化させて成虫になるまでの全過程、愛子さまが自ら面倒を見ておられます。たとえば適切な時期に孵化させるには、温度管理を慎重にやらなければなりません。また、万が一の病気に備えて、2つのグループに分けて育て、次の世代を増やされているといいます。たいへん手間のかかる作業です。それを12年も続けていらっしゃいますから、驚嘆するばかりです」愛子さまは初等科6年生のころ、皇室と密接な関係があった藤原道長についての研究レポートを書かれるなど、皇室の歴史にも早くから関心をお持ちだった。「最初は蚕の幼虫が繭を作り、蛹となり、羽化するというプロセスに、生命の神秘を感じられたのかもしれません。ただ、12年も続けられている理由は、やはり歴代の皇后の仕事として受け継がれてきた歴史の重みに触れられたからだと思います。自主的に“神事”に取り組まれることで、皇室の一員としての自覚を強められたのでしょう」(前出・宮内庁関係者)■蚕を通じて学ばれた“苦楽を共にする”心昨年10月、秋篠宮家の長女・眞子さんは小室圭さんと結婚し、皇室を離れた。結婚を巡ってご両親と対立し、皇室と決別した眞子さんが、今後、皇室と関わりを持つことはないと思われる。「女性皇族が結婚後も皇室に残れるようにする皇室典範の改正も検討されていますが、佳子さまはその前に結婚し、皇室を離れてしまわれる可能性も十分にあります。愛子さまはそのような状況を理解されて、ご自身は皇室に残って両陛下を支え続けるご覚悟を固められたのでしょう。難しい蚕の飼育を12年も続けられた間に、皇室に生を受け、天皇の娘となった宿命から逃げないとの意志が芽生えたのではないでしょうか」(前出・皇室担当記者)愛子さまは今年3月の成年会見でも、皇室の一員としてのあり方についてこうおっしゃっていた。「私は幼い頃から、天皇皇后両陛下や上皇上皇后両陛下を始め、皇室の皆様が、国民に寄り添われる姿や、真摯に御公務に取り組まれるお姿を拝見しながら育ちました。そのような中で、上皇陛下が折に触れておっしゃっていて、天皇陛下にも受け継がれている、皇室は、国民の幸福を常に願い、国民と苦楽を共にしながら務めを果たす、ということが基本であり、最も大切にすべき精神であると、私は認識しております」蚕を自らの手で育てることで、養蚕を守る人々の苦労、そして伝統を守ろうとする強い思いを、愛子さまもお感じになっていたのではないか。まさに、蚕の飼育を通じて、愛子さまは小学生のころから、国民と“苦楽を共にする”経験を積まれてきたといえるだろう。精神科医の香山リカさんはこう語る。「愛子さまが中学生のころに書かれた文章には、愛子さまが看護師となって動物を救う物語や、広島への修学旅行を通じて平和や核兵器廃絶についてお考えになった作文があります。一般的に子供のころは、自分の家族や好きなものなど、自分を主語にした文章を書くことが多いですが、愛子さまの関心は他者、そして社会に向いています。雅子さまにも通じることですが、身の回りの人でなくても、遠い国の人々や、言葉の通じない動物といった存在にも、共感し、痛みを共有できる心をお持ちなのです。もしかすると子供のころ、愛子さまは大人びすぎていて、同世代とそぐわない部分があったのかもしれません。しかし高校生、大学生と成長され、成年皇族としてのお務めが始まり、愛子さまの責任感や社会への関心の強さを発揮できる機会も増えてきました。今後、本格的にご公務に取り組まれるなかで、きっと愛子さまの思慮深さは、これまで以上に発揮されるはずです」愛子さまは強い信念で、両陛下、そして皇室を支え続けるーー。
2022年05月26日「バイデン米大統領は5月22日から24日までの日程で、就任以来初めて来日する予定となっています。天皇陛下との面会も行われる方向で調整されています」(政治部記者)コロナ禍で活動が縮小されていたが、皇室による国際親善が本格的に再開されようとしている。バイデン氏はオバマ政権で副大統領を務めていた’13年12月、当時は皇太子だった天皇陛下から東宮御所に招かれ、懇談している。今回の来日は東京でのQuad(日米豪印戦略対話)首脳会議に出席するためで、国賓ではなく「公式実務訪問賓客」の扱いとなる見込み。宮中晩餐会などは予定されていない。また、大統領夫人のジルさんが同行するかは未定のため、面会は天皇陛下と大統領、一対一となる可能性もある。ただ、雅子さまはまだ、バイデン氏と面会されたことはなく、大統領の次の来日がいつになるのか、なかなか見通せない状況だ。「面会に同席しなくても、出迎えのときには雅子さまも陛下と一緒に、大統領と言葉を交わされることでしょう。さらに、雅子さまはその場に、愛子さまも連れていきたいとお考えのようです。雅子さまは、愛子さまに“米国との橋渡し役”を担ってほしいと期待されているからです」(宮内庁関係者)今回の来日にあたって、広島市と長崎市は、バイデン大統領の被爆地訪問を要請している。3月には、米国のエマニュエル駐日大使が岸田文雄首相と広島市の平和記念公園を訪問。エマニュエル氏は「大統領は来日したときに、広島か長崎のどちらかに行きたいと言うと思います」と話した。「今回はたった3日間の来日日程のため、被爆地訪問は難しいかもしれませんが、バイデン大統領は核兵器の廃絶を目指す意志を、日本国民の前で示したいと考えているはずです。愛子さまといえば’16年5月、中学校の修学旅行で広島の原爆ドームや平和記念資料館を見学し、そのときに感じた平和を願うお気持ちを卒業文集に綴られました。もし、バイデン大統領が愛子さまと接する機会があれば、この平和の作文のことが話題に上るのではないでしょうか」(前出・宮内庁関係者)《原爆ドームを目の前にした私は、突然足が動かなくなった。。まるで、七十一年前の八月六日、その日その場に自分がいるように思えた》初めて原爆ドームを見たときの衝撃を、愛子さまはそう記された。この日以来、平和な日常を送れることは当たり前ではないと感じられるようになり、「意識が大きく変わった」という愛子さまは《日常の生活の一つひとつ、他の人からの親切一つひとつに感謝し、他の人を思いやるところから「平和」は始まるのではないだろうか》と綴られている。■国連事務次長にも手渡された愛子さまの作文実は雅子さまは、国連事務次長・軍縮担当上級代表を務める中満泉氏と面会された際、愛子さまの作文を「読んでください」と手渡されている。「雅子さまは以前から、愛子さまの平和の作文を広めていたのです。昨年12月に成人を迎えられた愛子さまは、今後は国際親善の場にも出席されることになります。作文に綴られた平和への願いを、これからは愛子さま自身の手で世界に発信していってほしいと、雅子さまは期待されているのではないでしょうか」(皇室担当記者)バイデン氏は大統領選挙期間中に、「広島と長崎の恐怖を二度と繰り返さないため、核兵器のない世界にさらに近づけるよう取り組む」と明言していた。オバマ元大統領以上といっていいほどに、その意志を強く打ち出している。来日に際して、愛子さまが核兵器廃絶へ強い思いを抱かれていることも把握しているだろう。さらには、日本政府や外務省も、愛子さまに“米国外交役”としての活躍を期待しているという。広島県を地元とする岸田首相は、外務大臣時代に当時のオバマ大統領の広島訪問の案内役を務めている。愛子さまが修学旅行で広島を訪れた2週間後のことだった。数多くの国際会議で核兵器廃絶を訴えてきた岸田首相は、核軍縮を政治家としての「ライフワーク」と位置づけている。外務省では、雅子さまの同期が着々と要職に就き始めている。総合外交政策局長の岡野正敬氏や、儀典長の志野光子氏など、両陛下と接点の多い役職に、雅子さまの同期が就任しているのだ。『インサイドライン』編集長でジャーナリストの歳川隆雄さんが解説する。「岡野氏は両陛下にご進講を3回も行っています。同じ昭和62年入省組ですし、雅子さまにとって気心が知れた仲といえるでしょう。総合外交政策局長は、外務省の中でもエリート中のエリートが就く役職。ここから外務審議官、外務事務次官とさらに出世する可能性も高いです」今後、皇室の方々の外国訪問も再開されることになる。雅子さまの外務省時代の同期たちは、結束して両陛下に尽くし、愛子さまを全力でサポートするだろう。静岡福祉大学名誉教授で歴史学者の小田部雄次さんは、国際情勢が不安定な中、皇室の役割に期待を寄せる。「かつて皇室は、世界から“戦争の火付け役だった”と見なされていたこともあります。その反省として、戦後は世界平和への貢献を積み重ねてきました。日本の象徴である天皇と皇族には、戦争のない社会を目指すべく、理想に向かう言動が望まれます。激しい対立のさなかにどちらかの立場に肩入れするのは避けるべきですが、ウクライナでの戦闘状態を憂慮し、一日でも早く収束することを願うのは望ましいことでしょう」愛子さまの平和の作文には《唯一の被爆国に生まれた私たち日本人は、自分の目で見て、感じたことを世界に広く発信していく必要があると思う》と綴られていた。成年皇族となられたいま、雅子さまの期待を背に、愛子さまは世界平和の実現のため行動される。
2022年05月11日天皇陛下に続いて車から降りた雅子さまは、マスク越しではあったが、カメラに向かってほほ笑まれたーー。4月13日、天皇皇后両陛下は科学技術の進歩に大きく貢献した研究者に贈られる「日本国際賞」の授賞式に出席された。コロナ禍により’20年と’21年の授賞式が延期となっていたため、3年分がまとめて表彰された今回の授賞式。天皇陛下はお言葉のなかで、コロナ禍における科学の力への期待を示された。「現在、わが国を含め世界中の人々が、新型コロナウイルス感染症の影響により、さまざまな困難に直面しています。そのような状況の中で、科学技術が果たす役割は、さらに重要になってくるものと思われます。さまざまな分野の叡智を結集し、世界の人々が互いに力を合わせることにより、この困難な状況を乗り越え、希望に満ちた未来を築いていくことを願っています」陛下と雅子さまは式典のあと、受賞者との懇談にも出席されたという。お二人そろって外出を伴う公務に臨まれるのは、昨年8月の戦没者追悼式以来、8カ月ぶり。「事前の発表では天皇陛下お一人が出席されるはずでした。しかし雅子さまは1週間以上前から意識的に体調を整えられ、当日は式典に続き、外国人受賞者たちとの懇談まで完遂されたのです。今回、雅子さまにとって“勝負色”であるブルーのお召し物を選ばれたことからも、再始動への強い意気込みが伝わってきました。両陛下は、ご自身の活動が感染を広げたり、感染対策が周囲の負担になったりしないよう、外出をお控えになってきました。オンラインで式典に出席されたり、地方の福祉施設と交流されたりと、外出せずに“国民に寄り添う”務めを果たそうと工夫されてきました。今後は、引き続きオンラインを活用しつつも、式典会場などに足を運ばれることも増えるでしょう」(皇室担当記者)ただ、この数カ月にわたって雅子さまを苦しめたのはコロナ禍だけではなかった。体調が優れない日々が続いていたのだ。■大きなプレッシャーを克服されて昨年の秋から、雅子さまは体調不良に見舞われていた。誕生日写真の撮影を2度キャンセルされたり、2日に分けて行われた愛子さまの成年祝賀行事の1日目を欠席されたりした。年始の講書始の儀も、体調が整わず欠席されている。「愛子さまの成年行事や記者会見のために、雅子さまは数カ月前からご準備を続けていました。国民から大きな注目が集まり、愛子さまの人生を左右するだけに、雅子さまも大きなプレッシャーをお感じになっていたのではないでしょうか」(宮内庁関係者)しかし、昨年12月の成年祝賀行事で愛子さまが披露されたティアラ姿に続いて、3月の記者会見にも絶賛の声が集まった。「雅子さまにとっては、これまでの母としての努力がすべて報われたようなお気持ちだったでしょう。愛子さまの記者会見での立派なお姿によって、雅子さまは自信を取り戻されたのではないでしょうか。それゆえ、本格的に公務を再開するという大きな一歩を踏み出すことができたのだと思います」(前出・宮内庁関係者) 愛子さまは会見で、両陛下への尊敬の念を、率直に話されていた。「両親と話をしておりますと、豊富な知識や経験に驚かされることが多々ございまして、また、両親の物事に対する考え方や、人との接し方などからは学ぶことが多くございます」両陛下こそが、愛子さまにとって一番のお手本になっているのだ。両陛下からのどんなお支えや言葉があったのかとの質問には「何か問題に直面した時は、その問題に真剣に向き合ってくれまして、私の意見や考え、気持ちを尊重しつつ、的確なアドバイスをくれたように思います。そして、両親からもらった大きな愛情や励ましが、そのような時に私の支えとなっておりました」とお答えになった。会見が行われた大広間の隣の部屋では、雅子さまが待機なさっていたという。愛子さまの言葉をお聞きになった雅子さまは“私が愛子を導く”という思いを抱かれたのではないだろうかーー。精神科医の香山リカさんは、愛子さまの成長が雅子さまにも好影響を及ぼしていると語る。「成年皇族となられた愛子さまにとって、雅子さまは母親というだけでなく、先輩女性としてのお手本にもなります。今回の日本国際賞に関しても、どんな方が受賞したのか、懇談の場ではどのような話をしたのかなど、御所に帰られたあと愛子さまにお話しになったことでしょう。愛子さまにとっては、近い将来ご公務に出席される際の参考にもなりますし、大学卒業後の進路を考えるうえでも、世界的な研究者である受賞者の方々について知ることは有意義だったでしょう。たとえご一緒に公務に行かれなくとも、こうしたコミュニケーションによって、雅子さまは愛子さまと二人三脚で公務に取り組んでいるように感じられるのではないでしょうか」雅子さまは今月28日にも、陛下とご一緒にアジア・太平洋水サミットにオンラインで出席されることが発表されている。“母の自信”を取り戻された雅子さまのご活躍は続く。
2022年04月22日4月13日、天皇陛下と雅子さまは東京都千代田区の帝国ホテルで開催された日本国際賞の授賞式に出席された。両陛下がおそろいでお出かけになるのは昨年8月の全国戦没者追悼式以来、約8カ月ぶり。この日、ブルーのロングドレスに、和のテイストを感じさせる前合わせのジャケットをお召しになった雅子さま。日本国際賞は、科学の分野で貢献した研究者に贈られる賞で、このお務めは上皇ご夫妻から引き継がれている。今年は新型コロナウイルスワクチンの実用化に尽力したカタリン・カリコー博士らに贈られ、式典後、雅子さまは陛下とともに受賞者らとの懇談に臨まれた。
2022年04月22日2022年4月9日、秋篠宮家の長男である悠仁さまが、筑波大学付属高校の入学式に出席されました。報道陣の取材に応じられた、悠仁さま。高校生になり、初めての1人での取材対応でした。「ご入学おめでとうございます」という記者に対し、悠仁さまは高校生活への抱負を次のように語られています。ありがとうございます。きょう入学式を迎えることが出来て、とても嬉しく思っています。学業に励みながら、興味を持っていることや関心を持っていることをさらに深めていきたいと思います。また、諸行事などの学校生活も楽しみにしたいと思います。FNNプライムオンラインーより引用また、同校は私服通学であるため、悠仁さまはスーツ姿で入学式にご出席。報道陣から「新しい制服はいかがですか?」という質問に対し、悠仁さまは「これ、スーツなんです」と朗らかにお答えになりました。悠仁さまの高校ご入学のニュースに、ネットからは祝福の声が上がっています。・ご入学、おめでとうございます。高校生活、楽しんでください。・制服がない自由な校風の学校なのですね。有意義な時間になるよう、応援しています!・悠仁さま、こんなに大きくなられたのか。つい先日、中学校へご入学されたような気がしています。立派な姿に感動しました。悠仁さまはこれから、新たな環境で、多くのことを学ばれるのでしょう。[文・構成/grape編集部]
2022年04月09日2022年3月15日、俳優の片桐仁さんが、自身のTwitterを更新。この日、誕生日であるという次男との写真を投稿しました。今日3/15は、次男春太の11歳の誕生日でした〜。ふなっしーケーキ!! #ふなっしー #誕生日 #桃味 pic.twitter.com/YGkIKtdxfL — 片桐仁なう (@JinKatagiri_now) March 15, 2022 1枚目のに写っているのが、この日の主役である次男。2枚目には、長男と片桐さん、3人で楽しそうに肩を寄せ合っています。家族の仲のよさがうかがえて、ほのぼのとしますね。【ネットの声】・片桐さん含め、3兄弟のように見えます!すごく似てる!・美男子ですね!もうこんなに大きくなったのか。・美形な息子さんたちですね!片桐さんの役柄的にあまり意識してなかったけど、パパもかっこいい!・あと1年で、小学校卒業ですか。すくすくと育ってください!次男のために用意されたケーキをよく見ると、マスコットキャラクターの『ふなっしー』が描かれています。投稿には、『ふなっしー』本人から「おめでとうなっしー」とお祝いの言葉が寄せられていました。次男にとって、忘れられない誕生日となったことでしょう![文・構成/grape編集部]
2022年03月16日『珍スポット』という言葉があるように、世の中には珍妙な光景が広がるスポットが存在しています。静岡県伊豆半島の最南端に位置する石廊崎(いろうざき)を訪れた、あおすけ(@aosuke32)さんは『珍スポット』を目撃。Twitterに実際の写真を投稿したところ、面妖な光景に多くの人が驚く声を上げました。すごーい!石廊崎の断崖に和式便所があった!恐らく使われてないと思うが… pic.twitter.com/t4ccqIW9CL — あおすけ (@aosuke32) March 9, 2022 石廊崎の断崖にあったのは、和式のトイレ!ここでトイレを利用すれば、背後には海が広がっています。こんなにも開放感のあるトイレは、ほかにないかもしれません…!便器をよく見てみると、陶磁器製の染付古便器であることが分かります。こういった装飾の和式トイレは明治時代を中心に製造されていたのだとか。『開放的すぎるトイレ』の真相は…このトイレの近くにある石室神社に筆者が話をうかがったところ、このトイレは昭和天皇が訪れた際に用意されたものなのだとか。トイレが実際に使用されることはなかったそうですが、昭和天皇のお車が通れるように神社周辺の砂利道を整えるなどの用意もしていたそうです。また、当時はトイレの囲いもあり、開放的な造りではなかった様子。台風などで柵が壊れ、今の状態になったといいます。【ネットの声】・なんという秘境のトイレ…!使うのに度胸が要りすぎるだろ!・開放感がありすぎて爆笑した。ここじゃ出るものも出なさそう。・どうせなら海を見ながらしたいから、便器は逆向きがいいな。残念ながら実際に使うことはできませんが、多くの人が「自分がこのトイレを使うことになったら…」と想像した様子。「開放感があって気持ちがよさそう」と思うか、「落ち着いてトイレなんてできない!」と思うかは、性格によりそうですね。[文・構成/grape編集部]
2022年03月11日2月23日、62歳の誕生日を迎えられた天皇陛下は宮殿で催された祝賀の儀に臨まれた。ネイビーのロングドレス姿の雅子さまと並んで、お祝いの挨拶を受けられる陛下。多くの人が集う一般参賀や、飲食を伴う会は3年連続で中止となったが、昨年とは違い、誕生日の儀式に雅子さまとお二人で出席されたことで華やかな印象が残った。誕生日の会見で、陛下は雅子さまについて「私の日々の活動を支えてくれる大切な存在であるとともに、公私にわたり良き相談相手になってくれています」と語られたほか、「雅子は」「雅子と共に」「私たち」と繰り返し述べられ、お二人で歩むことを大切にしているお気持ちを表された。雅子さまの昨年末からのお疲れについては「感染症の感染拡大による活動への制約などから、体調を整えにくくなっている面はあります」とご説明。ご夫婦の絆を感じさせる会見となった。誕生日会見で語られたご夫婦の絆ーー陛下のお言葉と写真で振り返ります。■「雅子と共に、『平和の礎』を訪れ、二人そろって、沖縄戦で亡くなった全ての方々への思いを新たにいたしました」’97年、本土復帰50年にあたり沖縄への思いも述べられた。■「私は、雅子と共に、引き続き被災地に心を寄せていくつもりです」’17年、津波の被害が甚大だった宮城県名取市の閖上(ゆりあげ)地区で供花された。■「新型コロナウイルス感染症の影響により、国民の皆さんと広く直接触れ合うことが難しくなっていることを、私も雅子も残念に思っています」オンラインで日本各地を訪問され、多くの人とご交流。そのメリットもお感じになっている。■「愛子と3人でいると、私たちの団欒は、笑いの絶えない楽しいものになっています」20歳になられた愛子さまと楽しそうに語らいを。お誕生日写真で、優しい笑顔で見つめ合われる両陛下。そんな写真からもお二人の心の絆が感じられる。
2022年03月05日2月23日は天皇誕生日。2022年、62歳の誕生日を迎えられた天皇陛下は、記者会見で2021年に成年を迎えられた愛子さまとの思い出などを語られました。「同じ親としてグッとくる」天皇陛下、愛子さまの印象深い思い出は…娘が「天皇陛下はどこに住んでいるの?」と聞いてきて…3人の子供を育てる、母親(@seikunnoouchi)がTwitterに投稿した、8歳の娘さんとのエピソードをご紹介します。天皇誕生日当日、娘さんが投稿者さんに「天皇陛下って、どこに住んでいるの?」と質問してきたそうです。投稿者さんは「東京都にある皇居に住んでいるよ」と教えてあげました。すると、自宅から皇居まで距離があることを悟った娘さんは、衝撃的な言葉を発したそうです。「じゃあ、遠いから誕生日ケーキ届けられへんわ…」なぜか、娘さんは天皇陛下に対し、友人のような親しみを感じていたのです!どうしてもお祝いがしたかったのか、ケーキを購入するよう投稿者さんにお願いした娘さん。その日の夜、主役を招待することはできなかったものの、投稿者さん一家は、自宅で天皇陛下の誕生日を祝ったのでした。投稿者さんによると「わりと盛り上がった」とのことです。娘に、天皇ってどこに住んでるのか聞かれ、東京の皇居ってとこだと教えたら「じゃあ遠いから誕生日ケーキ届けられへんわ…」と天皇陛下に対して友だち感覚すぎる。そして今日、天皇誕生日を理由にケーキを買わされ、今なぜかみんなでケーキを食べてる。主役はいないけども。わりと盛り上がってる。— *イケメン自閉症せいくん*ブログ更新中* (@seikunnoouchi) February 23, 2022 この投稿には「ほほ笑ましい」「娘さん、かわいすぎる!」などの声が寄せられています。・とてもほほ笑ましいですね!温かい気持ちになりました。・娘さんの気持ちがなんだかかわいくて笑っちゃいました。天皇陛下にこのエピソードが届くといいな~!・みんなで祝っている姿を想像すると癒されます!うちでもケーキを買ってお祝いしようかな。・会ったことがなくても、その人の誕生を祝えるって素敵です!娘さん、その気持ちを大切に育ってね。娘さんの温かい気持ちは、多くの人の心に癒しを届けたようです。[文・構成/grape編集部]
2022年02月26日2022年2月23日は、天皇陛下の誕生日です。62歳の誕生日を迎えられた天皇陛下は、同月21日に記者会見に応じられました。天皇陛下、二十歳の愛子さまについて「感慨深い」2021年12月、純白の『ローブ・モンタント』を身にまとい、成年行事に臨まれた、天皇、皇后両陛下の長女である愛子さま。女性皇族の正装で、お姿を見せた愛子さま凛としたたたずまいに「お美しい」「素敵!」天皇陛下は記者会見で、成年を迎えられた愛子さまについて「感慨深く思いました」と振り返られました。いつの間にか20歳という年齢を迎え、大人の仲間入りをすることになったことを感慨深く思いました。日頃から、多くの人々に助けられ、支えられているということに、愛子が感謝の気持ちを持っていることを親としても嬉しく思っています。印象深い思い出については、学校の水泳の授業で、小さい頃にはビート板を使ってプールで短い距離を泳いでいた愛子が、女子中等科時代、静岡県の沼津の海で3kmの遠泳ができるようになった時や、中学の修学旅行で広島を訪れた際に強い衝撃を受け、平和への思いを文章にまとめた時などに成長を感じ、嬉しく思ったことを覚えています。また、コロナ禍で大学生活を送る愛子さまについて「たとえどのような環境にあっても、実り多い学生生活を送ることができればと願っています」とも語られました。2021年に結婚した、小室眞子さんについて一方で、同年10月に結婚した姪の小室眞子さんについては「今後幸せな人生を歩んでいってほしいと思いますが、同時に、この間、多くの方に心配をお掛けすることになったことを心苦しく思っています」と感想を語られています。また、記者会見では、小室さんの結婚を巡る週刊誌報道やインターネット上の書き込みについても質問が上がりました。天皇陛下は、憲法が保障する自由な表現は「尊重すべきもの」とした上で、一般論と前置きし、「他者に対して意見を表明する際には、時に、その人の心や立場を傷つけることもあるということを常に心にとどめておく必要がある」と述べられています。天皇陛下のお言葉に、ネットからはさまざまな声が上がりました。・天皇陛下、お誕生日おめでとうございます。・愛子さまについて、1人の親として言及されていて、同じ親としてグッとくるものがありました。・正直、小室眞子さんの結婚について発言されたことに驚いた。親族だもの。心苦しかっただろうな。天皇陛下が記者会見で語られた、親族への想いは、多くの人の心を温かくしたようです。[文・構成/grape編集部]
2022年02月23日2月23日、62歳の誕生日を迎えられる天皇陛下。誕生日に公表される会見の回答では、成年皇族となられたばかりの愛子さまへのお言葉にも注目が集まる。現在学習院大学に通われる愛子さまと同じく、幼稚園から大学まで学習院で過ごされてきた陛下は、どのような学生だったのだろうか。大学の卒業アルバムをめくると、「徳仁親王」というお名前の下に「歴史の研究を続け、先人の足跡を学びながら未来への展望につなげたい」と陛下のコメントが添えられていた。学習院時代の印象をご学友に聞くと、「お人柄については、非常にいいやつの一言です」という。「今では『いいやつ』などとは決して申せませんが(笑)、当時の感覚ではこの表現がいいと思います」陛下と話し始めたきっかけは名前を聞かれたことだった。当初はどうお呼びしていいかわからず、「浩宮さま」と呼ぶと、陛下から「やめてよ、同級生でしょう。僕の名前は徳仁だからナルと呼んでほしい」と言われ、それ以来気軽に会話をするようになった。■散髪もお弁当作りもされていた美智子さま「高等科時代のことですが、『ナルは散髪行くのも大変だろ?』と尋ねると、『おふくろが切ってくれている。レザーカッターで』とおっしゃっていて驚きました。そしてお弁当は当時珍しかったフランス製の密閉容器に、おかずがきれいに入れられていました。そのお弁当も、おふくろ、つまり美智子さまが作られていたとのことでした」お弁当を召し上がらない日は、校内の食堂を利用されていたという。「陛下はカツ丼をよく注文されていましたね。食堂のトンカツはまるでハムカツのように薄かったので深く印象に残っています」大学時代のご学友からは、こんなエピソードも。「大学時代は、陛下が食堂で150円のきつねうどんを召し上がっていたのをお見かけしました。ほかの学生に交じり、順番に並ばれていましたね。学食にもお付きの護衛の方が一緒に来るのですが、護衛の方はガッツリしたものを食べているのに、陛下は割と少なめだなと思いました」■『平凡パンチ』『プレイガールQ』にご興味を示されて陛下と会話を重ねていくなかで、好奇心旺盛な一面が垣間見えることもあった。「友人グループで雑談をしているときに、『ナル、今いちばん何したい?』と聞くと、『みんなと茶店(さてん=喫茶店)でお茶したいし、本屋に行って“平パン”とか立ち読みしてみたい』とお答えになりました」“平パン”とは平凡出版(現・マガジンハウス)が発行していた、若者向けの週刊誌『平凡パンチ』のことだ。また、あるときには、陛下が「一度でいいから、『プレイガールQ』を見てみたいんだ」とおっしゃったこともあったという。少しお色気シーンもあり、高校生に人気だったアクション・ドラマだ。「陛下が最初に『深夜テレビ、見たことある?』とお尋ねになってから、21時枠で放送されていた『プレイガールQ』の名前を出されたので、陛下にとっては21時は深夜という感覚なのかもしれないと思いました」当時の東宮家(現・上皇ご一家)の方たちは、夕食の時間はご家族で過ごされ、20時になると私室に戻られていたのだ。テレビは、弟の秋篠宮さまが好まれていたウルトラマン・シリーズなどを一緒にご覧になっていた。その後は、陛下も私室に入られご自身のことや勉強などをされていたという。「学習院の教室や講堂には、警備のために外から中の様子がうかがえる覗き窓がありました。同じようにお住まいの東宮御所にも覗き窓があったそうです。そのうえ30分に一度、私室でのご様子を確認する見回りがきていたというのです。公人としては果たせない、普通の若者の日常への淡い憧れがあったのではと思います」大学卒業までを振り返り、ご学友は「ニックネームで呼び合い、友人たちと集まったときには、同じような感覚で会話に参加してくださる陛下に身近さを感じていました」と話す。学生時代からご友人たちと、フランクなご交流を続けられていた天皇陛下。ユーモラスで気さくなお人柄は、令和の「国民の中に入っていく」皇室の姿につながっている。
2022年02月22日「連日、日本人選手の活躍が続く北京五輪ですが、愛子さまも、天皇皇后両陛下とご一緒にテレビ観戦されていると聞いています」そう語るのは宮内庁関係者。天皇ご一家は、長年ウインタースポーツに親しまれてきた。本誌は、愛子さまにスケートを指導してきた長久保初枝さんに話を聞いた。長久保さんは、2大会連続で五輪入賞を果たした日本女子スピードスケートの黎明期の第一人者だ。「愛子さまがスケートの練習を始められたのは幼稚園の年長のころだったと思います。フィギュアスケートをされていた佳子さまに憧れて『ジャンプを飛びたい』とおっしゃったこともあったそうです。私が足をケガしたため、途中から直接ご指導ができなかったのは残念でした。高3の3月に最後の練習をする予定でしたが、それもコロナ禍でできなくなってしまいました。コロナ禍が落ち着いたら、立派に成人された愛子さまとリンクでお会いしたいですね」そんな愛子さまがとくに応援されているのが、フィギュアスケートの羽生結弦選手だという。ソチ、平昌に続く五輪3連覇に挑んだ羽生は4位に終わったものの、誰も成功したことのない「4回転アクセル」に挑戦。惜しくも転倒してしまい、2分の1の回転不足と判定されたが、史上初めて4回転半として認定される歴史的なジャンプとなった。「実は8年前に、愛子さまと羽生選手にはある接点がありました。’14年7月、ソチ五輪の入賞者を招いて皇居宮殿で開催された茶会に、羽生選手も出席しました。中学生だった愛子さまは出席されなかったのですが、天皇陛下(当時は皇太子)に質問を託されていたのです」(皇室担当記者)陛下が愛子さまから預かっていた質問は「得意なジャンプはなんですか?」だったという。羽生は茶会後の取材で、このときのやり取りを明かしている。「僕はアクセルジャンプが好きなので『アクセルジャンプが好きです、得意ですということを(愛子さまに)お伝えください』と言わせていただきました」その言葉通りに、羽生はアクセルジャンプをさらに極め、4回転半にまで挑んだのだ。「コロナ禍が落ち着いてからになりますが、北京五輪終了後にも、入賞者を招いた茶会が開かれるでしょう。成年皇族となられたので、今回は愛子さまも出席されます。羽生選手との“8年越しの対面”を楽しみにされているのではないでしょうか」(前出・皇室担当記者)夢の対面へ、愛子さまの胸も高鳴るーー。
2022年02月19日「3年連続で、2月23日の天皇陛下の誕生日に予定されていた一般参賀は、感染拡大防止のため中止になってしまいました。残念ながら令和になって一度も天皇誕生日の参賀は開かれていません。祝賀行事も大幅に縮小されます。ただ、昨年とは異なる点があります。祝賀の儀に、雅子さまが出席されることになったのです」そう語るのは皇室担当記者。昨年は新型コロナ対策で、陛下が単独で出席されていた祝賀の儀。今年はお二人そろっての出席となり、総理大臣が代表でお祝いの挨拶をするという。「雅子さまは、昨年の11月ごろから体調不良が続いています。2日に分けて行われた愛子さまの成年行事も、1日目は欠席。年明けの講書始の儀も欠席されています。そういったなかで、陛下の62歳の誕生日に催される祝賀の儀に出席を決められた陰には、雅子さまの強い思いがあったのではないでしょうか」(前出・皇室担当記者)昨年12月のご自身の誕生日、雅子さまは陛下への感謝の思いをこう綴られていた。《天皇陛下には、コロナ禍の中でも引き続きお忙しい日々をお過ごしですが、変わらずお元気でいらっしゃることを何よりありがたく存じます。また、常に私の体調にお気遣いいただき、深く感謝申し上げます》いまだ体調の波を抱えながらも、雅子さまはできる限り陛下を傍で支え続けることを誓っておられるのだ。「陛下が雅子さまにプロポーズされてから今年で30年ですが、お二人の愛はまったく色褪せることがありません。雅子さまは、陛下へのバレンタインデーのプレゼントを欠かすことはないそうです。ご実家の小和田家も、海外生活が長く、また離れ離れになる時期もあったことから、クリスマスやバレンタインデー、お誕生日などの記念日の贈り物を大切にしていました。雅子さまはそうした習慣を引き継がれているといいます」(宮内庁関係者)■バレンタインデーにスイスチョコを天皇陛下の誕生日はバレンタインデーの直後ということもあり、誕生日会見で記者から、プレゼントについて質問を受けることもあった。婚約直後だった’93年の会見で陛下は「バレンタインデーについては非常に心のこもった物をもらいました。けれども内容については、二人の秘密にさせていただきたいです」と、おっしゃっていた。雅子さまが陛下にプレゼントされていたものの一つが、スイスの「ステットラー」というブランドのチョコレートだった。かつて東京・代官山にあった、ステットラーの日本代理店の元オーナーに話を聞くことができた。「雅子さまが天皇陛下のためにお求めになったのは、『ジュネーブの石畳(パヴェ・ド・ジュネーブ)』というチョコレートです。ヨーロッパの街並みの石畳を思わせる、キューブ形にカットされた生チョコです。現在ではこういった石畳形のチョコはさまざまなお店で見られますが、その発祥となったのはステットラーといわれています。ステットラーのチョコレートはもともと雅子さまのお父さまが、仕事の関係でジュネーブに住んでいたころからたいへんお好きだったそうです。ご結婚前に、雅子さまは陛下へのプレゼントとしてお求めくださいました。ご結婚後にも、侍従の方を通じて何度かご注文いただきました」■雅子さまへのねぎらいの言葉を忘れない陛下スイスのジュネーブは、雅子さまが2歳のころに短い間ではあるが滞在したことのある街。双子の妹・礼子さんと節子さんが生まれた、雅子さまやご家族にとって大切な場所だ。雅子さまは高校時代の夏休みにも、スイスを再訪されている。そんな少女時代の思い出がこもったチョコレートを、陛下にお渡しになっていたのだ。一方の天皇陛下も、雅子さまへのねぎらいの言葉を忘れることはない。昨年の誕生日会見ではこうおっしゃっていた。「雅子はいまだ快復の途上にあり、体調には波があり、大きな行事の後には、疲れがしばらく残る傾向があります。これからも、無理をせずにできることを一つ一つ着実に積み重ねていってほしいと思います」コロナ禍のため、引き続き外出を伴うご公務は控えていくことになりそうだが、両陛下は2月10日、島根県の障害者支援施設をオンラインで視察された。画面越しではあるが、子どもたちが音楽に合わせて体を動かす「ミュージックケア」をご覧になるなど、施設利用者と交流されたのだ。両陛下は感染拡大を予防しつつ、新しい形での国民とのふれあいを模索されている。困難な状況は続くとみられるが、これからも雅子さまは“一生お傍に”という愛情で陛下を支え続けられるーー。
2022年02月16日「愛子さまは3月17日に初めての記者会見に臨まれます。非常にプレッシャーがかかる状況のなか、お一人で質問にお答えになります」そう語るのは皇室担当記者。「成年皇族の仲間入りをされた愛子さまには、皇室のイメージを刷新する存在として大きな期待がかかっています。注目が集まるゆえ、一言一句に神経を巡らさなければなりません」(前出・皇室担当記者)そんな“試練”を前に、愛子さまは現在、ひそかに準備を進めているという。宮内庁関係者が語る。「お父上の天皇陛下も、同じく20歳を迎えられたタイミングで初めて公式記者会見に臨まれています。それから40年以上、毎年会見を開かれていますから、ご自身の経験を愛子さまにお伝えになっているといいます。とくに記者への対応では“ユーモアを大切に”とお教えになっているそうです」陛下はお若いころから、答えるのが難しい質問に対しても柔軟に返答されていた。28歳の誕生日会見では、結婚の見通しを富士登山にたとえて「七、八合目ぐらいといったところでしょうか」「山頂は見えていても、なかなかそこにたどりつけないという感じ」と、お答えに。雅子さまとの婚約会見では、将来のお子さまの人数について質問を受けたが「コウノトリのご機嫌に任せて……というふうに申し上げておきましょう」とかわされた。お妃選びやお子さまに関しては、国民も大きな関心を持っている。陛下はそうした質問にも理解を示しつつ、ユーモアを交えて精いっぱいの回答をされてきたのだ。象徴天皇制に詳しい名古屋大学大学院准教授の河西秀哉さんはこう語る。「現在の天皇皇后両陛下は、ときにユーモアを交えながら、しかし真摯にメディアに対応することで、会見からその人柄が見えて、好意的な評価につながりました。記者会見では“敵対的”には見えないように、等身大で話すようにと、愛子内親王にアドバイスされているのではないでしょうか」3月の愛子さまの会見では、陛下ゆずりのユーモア返答術が見られるだろうか――。
2022年02月11日「1月24日に、自民党は皇室問題に関する懇談会の初会合を開きました。政府の有識者会議がまとめた報告書をもとに、皇族数の確保策などを今後検討していきます。確保策の大枠としては2つあり、(1)女性皇族が結婚後も皇族の身分を保持する、(2)旧宮家の男子が養子として皇族に復帰する、となっています。しかし(2)に関しては自民党内でも異論があるようです。朝日新聞は閣僚経験者の『世の中から尊敬のまなざしで見られるのか』という懐疑的なコメントを紹介しています」(皇室担当記者)旧宮家とは、終戦後の1947年に皇籍を離脱した11宮家のこと。現在も残るのは、東久邇家、久邇家、賀陽家、朝香家、竹田家の5つとなる。NHKが1月に実施した世論調査によれば、「旧皇族の男系男子を養子に迎える」案について「賛成」41%、「反対」37%だったという。一般人として生活してきた男性が皇族になるということに、賛成できない国民も少なくないというのが実情のようだ。そのような状況のなか、自民党初懇談会から3日後の1月27日、『週刊新潮』は次のような見出しの特集記事を掲載した。《「愛子さま」のお婿さん候補宮内庁格付け第1位!旧宮家「男系男子」皇籍復帰の最筆頭「賀陽家」とは》記事の趣旨は、現存する旧宮家のうち、2人の未婚男子がいる賀陽家が皇籍復帰の“最有力候補”として関係者の間で注目されているというもの。記事には識者の次のようなコメントも掲載されている。「また年齢からして、賀陽家の男子お二方が愛子さまのお相手候補に入っているのも、間違いないところだと思います」キーパーソンとなっているのは賀陽正憲氏。皇籍離脱前は皇位継承順位8位だった賀陽宮恆憲王の孫で、愛子さまの“お婿さん候補男子”2人の父親でもある。賀陽正憲氏について前出の皇室担当記者はこう語る。「賀陽氏は、天皇陛下とは学習院初等科から大学までの同級生でした。高等科時代には、美智子さまから“浩宮のことをよろしくお願いしますね”と、お声をかけられていたほどです。ご成婚の6年前の’87年、陛下が、当時は外務省に勤務されていた雅子さまをご招待してお茶会を催されたのですが、その場にも賀陽氏は同席していたそうですから、よほど陛下からのご信頼も厚かったのでしょう」このお茶会について、後に賀陽氏はこう語っている。《雅子さんがあまりに魅力的な方なもので、私がずいぶん口を挟みまして、今になれば宮様には悪いことをしたなと申し訳なく思っているんです(笑)》(『文藝春秋』’93年3月号)賀陽氏は大学卒業後に大手信託銀行から宮内庁に転職。それから外務省に出向し、現在も外務省儀典官室に勤務しているという。■男系論者たちが注目する“愛子さまの夫”という立場さらに気になるのは、愛子さまのお婿さん候補たちのこと。賀陽氏には2人の息子がおり、26歳と24歳。愛子さまより“少し年上”といった世代だ。この兄弟に会ったことがある天皇陛下の知人によれば、「2人が高校生ごろでした。すでに身長は180センチほどあり、小顔でスラリとしていました。誰似と聞かれても困りますが、2人ともイケメンなのは間違いありませんし、挨拶もしっかりしているのが印象的でした。お兄さんは早稲田大学政治経済学部、弟さんは早稲田大学理工学部に進学したと聞いています。愛子さまも高身長ですが、兄弟のどちらが、おそばに並んでもお似合いだと思います」また、ある学習院関係者もこう語る。「好青年だそうですし、大学入学前は学習院に通っていたこともあり、“賀陽さんの息子さんが愛子さまと結婚すればいいのではないか”という声を、最近よく聞くようになりました」愛子さまが昨年12月に成年皇族になられてから、注目度が急上昇しているという賀陽家の兄弟。実は、すでに数年ほど前から、2人を愛子さまのご結婚相手として推す声があったのだという。「自民党政権を支持している保守派の政治団体『日本会議』は、かなり以前から賀陽家にも注目しており、“愛子さまと旧宮家である賀陽家の男子が結婚してくれれば”という声も漏れ聞こえていました」(皇室ジャーナリスト)自民党のおもだった議員が名を連ねる日本会議国会議員懇談会は、男系による皇位継承維持を提唱してきた。それにしても、なぜ彼らは、愛子さまと旧宮家の男系男子との結婚を望んでいるのか?前出の皇室ジャーナリストは、次のように語る。「旧宮家が皇籍離脱してからすでに75年。国民にとってはなじみがうすく、現在では皇室と生活環境もかけ離れています。そうしたギャップを解消するために、“愛子さまと旧宮家男子が結婚するのがもっともよいのではないか”と、一部の男系論者たちは主張しているのです。愛子さまの“夫”であれば、国民からの祝福を受けることができるでしょうし、その間に生まれたお子さんは、今上陛下の孫であり、男系男子ということになります」男系論者たちのこうした主張に、静岡福祉大学名誉教授の小田部雄次さんは反対意見を唱える。「男系論者の一部が、愛子さまと旧宮家男系男子との結婚を、皇位継承問題の解決策として主張している以上、もし結婚が実現したとしても、“政治的圧力で進められた婚姻”という印象が残り、国民の皇室への敬愛を損ねる可能性もあります。また男系を維持するために、愛子さまの人生を犠牲にするようなことは、国民の1人として絶対に避けるべきと考えています」愛子さまの初めての記者会見は3月に行われる予定だが、これまで愛子さまは恋愛観や結婚観について語られたことはない。では天皇陛下や雅子さまは、賀陽家の子息たちを推す声についてどうお考えなのだろうか。高学歴、すぐれた容姿、旧宮家出身、信頼していた友人の息子……、条件としてはこれ以上は望めないようにも思えるのだが――。■天皇陛下が反対していた同級生の側近登用しかし賀陽氏の長男・次男を絶賛していたはずの前出の天皇陛下の知人の意見も、予想とは異なるものだった。「確かに2人のお子さんは素晴らしい青年たちです。しかし、この縁談が進んでいくとなると、天皇陛下も雅子さまも困惑なさると思います。ある時期から両陛下と賀陽氏は、疎遠になっているからです」両陛下と賀陽氏との間に何があったのか。さらに取材を進めていくと意外な事実が判明した。「20年ほど前、故・鎌倉節さんが宮内庁長官を務めていたころ(’96年から’01年)のことです。賀陽氏が当時は皇太子殿下でいらした天皇陛下の、東宮侍従に就任することが決まりかけました。賀陽氏には“おそばで殿下をお支えしたい”という強い熱意もあり、鎌倉長官も“殿下の周囲に同年代の相談役がいたほうがよいのではないか”という判断で、内示を出したのです。しかし陛下はこの人事に厳しい調子で異を唱えられたそうです。『かつての同級生と上司と部下のような関係で接したくはない』と。賀陽さんは、その直後に外務省に出向を命じられました。宮内庁長官という側近トップと、長年の同級生が、自分にまったく相談もなく重要人事を決めてしまっていたことに、陛下は強い不信感を抱かれたのではないでしょうか。その後、陛下が賀陽さんとの交流を復活なされたという話は聞きません。雅子さまもその経緯を間近でご覧になっています」(元東宮職関係者)また陛下と旧友とのわだかまりが解消されていたとしても、“賀陽家との縁談実現は難しいのでは”と語るのは宮内庁関係者。「雅子さまはかつて『愛子には愛子の持って生まれた運命がある』と、漏らされたことがあったそうです。それは皇室に生まれた宿命を受け入れつつも、せめて結婚などの女性としての幸せは自分の意思で決めてほしいという願いを込めたお言葉でした。また天皇陛下も、一時期は暗礁に乗り上げながらも、雅子さまへの愛を貫き、結婚されています。愛子さまにも“結婚相手は自分で選んでもらいたい”と願われていることでしょう」愛子さまのご結婚が、政治的な主義主張に利用されないことを祈るばかりだ――。
2022年02月01日1月18日、新春恒例の宮中行事「歌会始の儀」が皇居宮殿・松の間で行われた。今年のお題は「窓」。成年皇族となられたばかりの愛子さまは、大学の期末試験中で出席は控えられたが、次の和歌を寄せられた。「英国の学び舎に立つ時迎へ開かれそむる世界への窓」愛子さまは学習院女子高等科2年生だった’18年の夏休みに、約3週間の英国短期留学をされた。愛子さまは留学当時に感じられた思いを、“初和歌”で表現されたようだ。「愛子さまはロンドンにあるイートン校のサマースクールに参加し、寮生活を送りながら英会話やイギリス文化を学ばれました。これは愛子さまにとって初めての留学経験となりました。約600年の歴史を持つイートン校の立派な建物を前に、愛子さまは『今、ここから世界が開かれようとしている』と期待に胸を膨らませていらっしゃいました」(宮内庁関係者)英国から帰国後、宮内庁を通じて「すべてが新鮮で、とても楽しく充実した滞在になりました」と感想を述べられていた愛子さま。留学に意欲的なのは、父である天皇陛下の影響もおありなのだろう。陛下は42年前の’80年2月、成年式を前に開いた宮内庁記者会で次のようにお考えを述べられていた。「海外へ出るってことは、これは非常に重要なことだと考えていますから、できるだけ機会があれば出たいと思ってます」その後、’83年から2年間にわたって英国留学をされた陛下は、出発前の会見で「広く世界に学ぶことに大きな意義を見出しています」と述べられていた。続けて「ヨーロッパという離れたところから日本を見つめてみたいと思っています」と、視野を広げる意欲も示されていた。新型コロナウィルスの影響で、大学のキャンパスにさえ足を運ぶこともできない日々を過ごされている愛子さま。海外で学べる機会が再び訪れることを、両陛下も願われていることだろう。
2022年01月20日天皇陛下の御即位をはじめとする皇室の御慶事を記念し、正倉院宝物の精巧な再現模造の数々を一堂に公開する展覧会『御大典記念特別展「よみがえる正倉院宝物―再現模造にみる天平の技―」』が、1月26日(水)よりサントリー美術館にて開催される。奈良時代、東大寺の倉庫・正倉院には、約9,000件におよぶ宝物が保管されていた。その頃より1,300年近くの年月を経ている正倉院宝物は、きわめてもろく、毎年秋に奈良で開催される『正倉院展』以外はほとんど公開されてこなかった。そんななか、明治時代に開催された奈良博覧会を機に正倉院宝物の修理事業として行われるようになった模造製作は、昭和47年より宝物の材料や技法、構造の忠実な再現に重点が置かれるようになる。以来、人間国宝ら伝統技術保持者の熟練の技と、CTスキャンなど最新の調査・研究成果との融合により、優れた作品が数多く生み出されてきた。同展では、正倉院宝物の再現模造事業で製作された数百点におよぶ作品の中から、平成最後の年に8年がかりで完成した「模造 螺鈿紫檀五絃琵琶」を筆頭に、調度品、楽器、染織品、仏具など多彩な分野から選りすぐりの約70件と関連資料を紹介。現代の名工たちが、伝統工芸と最新の科学技術を融合させて再現した品々とは、いったいどんなものなのか。天平美の芸術的深みや品格を通して、日本の伝統技術を継承することの意義を確かめたい。模造酔胡王面 正倉院事務所蔵模造黄銅合子 正倉院事務所蔵模造螺鈿箱 正倉院事務所蔵模造金銀鈿荘唐大刀 正倉院事務所蔵【開催概要】『御大典記念特別展 よみがえる正倉院宝物―再現模造にみる天平の技―』会期: 2022年1月26日(水)~3月27日(日)会場:サントリー美術館時間: 10:00~18:00、金土、2月10日、3月20日、3月21日は10:00~20:00 (入館は閉館の30分前まで)休館日:火曜(3月22日は開館)料金:一般1,500円、大高1,000円公式サイト: ※会期中展示替えあり
2022年01月17日