小島秀夫「髭と眼鏡が僕のアイコン」 自身の“ヒゲとメガネ”の歴史を振り返る
と。しかし、乱視が強いので当時の技術での矯正は難しいという結論になった。あの頃は、まだコンタクトはメジャーではなかった。眼鏡は逃れたものの、教室では前の方に座らされることとなった。
小学5年になって、川西市(注1)に引越しすることになった。周囲には山や緑が多かったせいか、視力は日常生活で回復した。
ところが、ゲーム業界に入り、5年くらい経った頃、異変が起こった。最初は頭痛が酷くなり、続いて眼が痛くなり、ゲーム開発を続けられないほどに悪化した。
20数年ぶりに駆け込んだ眼医者に、「それは見えてないからですよ。矯正すべき」と言われ、僕は人生で初めて眼鏡を作った。最初は、日本語字幕が見えるようにと、映画館でだけかける程度だった。ところが、当時開発していたPC版『ポリスノーツ』(注2)というタイトルで、内作した自家製ツールを使い始めてから、一気に視力が落ちた。“眼に優しい”市販ツールではなく、スタッフが簡易製作した“眼に厳しい”ツールでの無理な作業のせいだった。日常でも眼鏡をかけるようになると、眼鏡はいつの間にか、僕の身体の一部となった。昔から眼鏡をかけていたかのように、僕の裸眼人生は永遠に抹消された。