「没後40年 熊谷守一 生きるよろこび」東京国立近代美術館にて開催
戦争を挟んで次々と家族の死に見舞われた熊谷。戦後、明るい色彩と単純化されたかたちを特徴とする画風を確立し、97歳で没するまで制作をおこないました。
熊谷は、こんな言葉を残しています。
「みんなはわたしのことをすぐ仙人、仙人と呼びますが、わたしは仙人なんかじゃない、当たり前の人間です……」
熊谷守一の実直な人柄が偲ばれる言葉ですね。
●展覧会の構成※章のタイトルは全て仮題です
●1章 画業の始まり(1910-1920年代)
熊谷守一 《某夫人像》 1918年 豊島区立熊谷守一美術館
1900年、熊谷は東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学し、黒田清輝らの指導を受けました。授業で人体のデッサンを学び、1920年代以降の裸婦像の基礎を作ります。また、闇の中でのものの見え方を追究するなど、早くから独自のテーマにも取り組みました。
1910年、故郷岐阜に戻り、材木を扱う仕事に就いたのち、再上京。
山仕事の経験は生涯、作品や生活態度に影響を与えました。
●2章 さまざまな模索(1930-1940年代)
この時期の熊谷は、絵の具を厚く塗り重ねる技法を用いて多くの裸婦像を描きました。また、山や海に出かけて風景画を制作してもいます。