2015年7月2日 14:35
黄金を巡る旅 (1) 名古屋城の金の鯱(しゃちほこ)--尾張藩の「金庫」だった!
年と1846(弘化3年)にも改鋳を実施する。減らした金の代わりに銀を混ぜたことから純度が下がり、金の鯱の光沢が鈍くなる事態に陥ってしまう。これを隠すために、尾張藩は「鳥が巣を作らないように…」などの理由をでっち上げて、金の鯱を金網で覆い見えにくくする。金の鯱は誰もが見ることができる「金庫」であり、尾張藩はその中身が減っていることを懸命に誤魔化そうとしたのであった。
○地方巡業と海外公演、そして帰郷
明治維新の廃藩置県で尾張藩は消滅し、名古屋城も廃城となり取り壊されることが決定する。明治新政府への帰順の意を示すために、金の鯱は宮内庁に献納されることになり、1871(明治4)年に天守閣から降ろされて東京へ運ばれる。
ここから金の鯱の「旅」が始まった。金の鯱は翌年の5月、東京の湯島聖堂で開かれていた「第一回勧業博覧会」に出品され、再び人々の前に姿を現す。
眩い姿を間近に見た人々は驚嘆の声を上げ、その様子は多くの錦絵にも描かれたが、博覧会終了後に雄と雌が引き離されてしまう。
雄の金の鯱は、石川や大分、愛媛に名古屋と、各地で開かれた博覧会を回る「地方巡業」に出る。一方の雌の金の鯱は、オーストリアのウィーンで開催された万国博覧会に出品される。