その結果、周防、長門の2国に減封されてしまいました。明治維新では、その長州藩が幕府・徳川家を倒す中心的な役割を果たすことになるのです。
■宇喜多秀家 八丈島の流人第1号!
宇喜多秀家というと備中岡山の大名でした(57万4,000石)。豊臣政権の五大老の1人でもありました。しかし、その運命は皮肉なものでした。日本を二分した関ヶ原の戦いで、西軍についたため宇喜多家は改易。秀家自身は鹿児島の島津家まで逃げのびますが、後に徳川家康に引き渡されます。
死罪は免れますが、八丈島へ流されました。
八丈島はこの後、流刑地として多くの流人を受け入れます。公式な流人第1号は宇喜多秀家なのです。ちなみに子孫の方が現在に至るも八丈島の秀家のお墓を守られているそうです。
■森家の人々 6人中5人は戦死
森蘭丸というと織田信長に仕えた小姓として知られていますが、この森家は結構ヒドイ目に遭っています。まず蘭丸の父親である森可成(もりよしなり)という武将がいました。信長の家督相続、尾張統一に尽力し、そのため信長の信任も厚かった武将です。しかし、浅井朝倉連合軍から信長の後背を守るため、坂本で戦死。彼の子供は6男いました。