この国親の息子が元親(もとちか)です。元親は二十一歳で初陣を迎えますが、その時に初めて槍の使い方を聞き敵陣へ突撃。見事、敵をやりで討ち取ったといいます。
国親の後を継いだ元親は辛抱強く戦略を進め、ついに悲願であった土佐の平定に成功。戦略眼のあった元親は織田信長に接触を図ります。畿内の平定で忙しかった信長は「四国は切り取り放題」のお墨付きを与えます。また、元親をさほど重要視していなかったのでしょう、「鳥なき里の蝙蝠(こうもり)」と元親を評したと言われています。
つまり、「鳥がいないような田舎の里では、コウモリのようなヤツでも評価される」という意味で信長は元親を認めてなかったのです。
最初は「ふん!」ばかりに長宗我部家をあまり重視していなかった織田信長ですが、元親の快進撃が続くと徐々に焦り始めます。今風に言うと「ちょwおまw」状態です。「四国切り取り放題」のお墨付きを出したくせに、「土佐と阿波はやるからあとはダメ」と言い出す始末。
元親はこれを拒否し、信長と対決することになります。畿内から信長軍が来るぞ! という時になって本能寺の変が勃発。元親は一息つきました。この後中央のドタバタ、つまり秀吉と家康の争いの最中に四国平定へとまい進します。