自分の価値観が揺さぶられるとき、積極的に黙ることができるか?
■肌を着る
リンクコーデの紹介を観た夜、テレビ千鳥の名物企画「面白キャラを作るんじゃ」を偶然観た。中年の男性芸人たちがセット裏のアイテムをいろいろまとって即興でキャラを作るモノボケ企画。「この企画は引き算」というコメントのあと、ななまがりの人がパンイチで出てきた。
しかし、露出を増やすことは、引き算じゃなく、皮膚をまとうことなのだと思う。布を脱いだんじゃなくて、肌を着ている。お約束のなかで前例を踏まえながらも、今までの「変」とは違う変な恰好をする。決まった逸脱の仕方から逸脱した仕方で逸脱する。Y2Kリバイバルはその新たな種類なのではないかと思う。
オノヨーコのカット・ピースは、見る・見られるという二項対立を揺るがすパフォーマンスだった。ユニバーサルスタジオジャパンのような公共の場を駆け抜けるストリーキングは多くの人の目線を揺さぶるプロテストだった。60年代にミニスカートが大人社会のドレスコードを無効にするファッションとして若者に強く支持された(※1)ように、Y2Kファッションはオジサンが作ったドレスコード(すなわち何を身にまとうかの規範)を無効にする。
自分のまなざしがつい揺さぶられるときがあると思う。