萩本欽一82歳語る「僕がまだ走れるのは慎吾がいるから」仮装大賞復活で香取への感謝
周囲の熱意に萩本は折れた。
「どうにもならないんだもん。だから、応援するって言ったの。そしたら、プロデューサーが『出演の仕方を考えます』と帰っていった」
自らの限界に挑戦する新たなドラマの幕が開いたーー。
■ずっと突っ込みをしていたから、「司会だけは無理だから」と言っていた
いつの時代も、萩本欽一はタブーを打ち破ってきた。高校卒業後、東京・浅草の東洋劇場で修業を始め、25歳の’66年、坂上二郎とコント55号を結成。翌秋、『大正テレビ寄席』(NETテレビ、現・テレビ朝日系)から出演依頼が来た。
「当時はカメラが固定されていて、フレームからはみ出しちゃいけなかった。
迷ったけど、いつもと同じように舞台を駆け回った。怒られると思ってすぐ帰ろうとしたら、ディレクターが『僕らが間違っていた。また出てよ』と言ってくれた」
常識を覆した2人はスターの座を射止める。’68年、土曜夜8時枠で『コント55号の世界は笑う!』(フジテレビ系)が始まった。音楽やドラマ中心のゴールデン帯で、コメディアンの冠番組は異例だった。
コンビの活動を休止した’71年、萩本は日本テレビからオーディション番組『スター誕生!』の司会を要請された。