「日本初のアイドル」明日待子さん 戦時中は兵士たちの癒しに
「空襲で電車が止まっても、『戦地へ赴く兵隊さんのため、明日、私は死んでもいいから舞台に立ちたい』という思いで劇場に通っていました。けれど結局、劇場は焼け落ちて……。何より残念だったのは、台本がすべて焼失してしまったこと」(待子さん)
待子さんは戦後も地方巡業で舞台に立ったが昭和24年に29歳で結婚する。お相手の須貝富安氏は2歳年下、かつてのファンの一人。当時は早稲田大学の学生で、学徒出陣の直前まで劇場に通い、客席から熱視線を送っていたという。彼は卒業後に、札幌市内で劇場を経営していた父親の跡を継いだが、思いを募らせ、縁をたぐり寄せ、待子さんに求婚した。
待子さんは「『明日待子』は東京に置いていきます!」と決意して北海道に嫁いだ。当然のごとく日々の生活は一変する。
「それまでお世話をされてチヤホヤされて、もてなされる側だったのが、結婚を機にもてなす側に180度転換です。私は、劇場主の女房となり二条市場へ買い出しに行き、巡業団の何十人分の食事を作る毎日が始まりました。朝の3時からおにぎりを握ります。