ト書き通りにいかない自由と、ト書き通りの不自由について【洒脱なレディ論】『山猫(Il gattopardo)』『カルテット』
だ。絶対的権威を誇っていた一つの貴族の中で、新時代の幕開けにうまく溶け込む甥のタンクレディと、これまでの「貴族」のまま抵抗することなく静かに「死」を待つ叔父のファブリツィオが、奇妙なまでに美しく描かれる。バート・ランカスター演じるファブリツィオにとって、これまで “絶対的” だった貴族という存在が俗世と馴染んでいきその “絶対的” が失われていく過程は、まるで自分の存在が世間から葬り去られる感覚に近い。「若い者にはわかるまい。君らに死は関係ない。存在せぬのと同じだ」という言葉には、四半世紀程度の小娘には想像もつかない「死」への甘美な憧れとも言える凄みを感じてしまう。ただ、一歩引いて感じてしまったことは、時代の変化に取り残される「死」は虚しくないだろうかという素朴な疑問だった。
ト書き通りにいかないグレー色な自由鑑賞後から悶々としていたわたしにとって、現代の答えを示してくれているように感じたのが『カルテット』でした(何段も論理が飛躍しているのは承知のうえ)。
偶然を装った必然か、必然を装った偶然かで、カルテットを組むことになった4人の男女の軽井沢での物語。誰かが突出した奏者であることもなく、むしろ亜流= “三流” 。