くらし情報『ト書き通りにいかない自由と、ト書き通りの不自由について【洒脱なレディ論】『山猫(Il gattopardo)』『カルテット』』

ト書き通りにいかない自由と、ト書き通りの不自由について【洒脱なレディ論】『山猫(Il gattopardo)』『カルテット』

その彼らには下手の横好き、というコトバが似合う。最終話のホールでの演奏の1曲目に演奏したフランツ・シューベルトの『死と乙女』に現れるように、一流になれる未来なんてなくても淡々と演奏をつづけるという選択は、世間にとって「どうでもよい」存在にかなり近い。そして変化が著しい現代において、それはすこし「死」に近い。だからこそ、決して王道ルートでないけれど “これが私たちの幸せだ” と言わんばかりの彼らがラストシーンでは、ミゾミゾというよりキラキラして見えた。大方の悩みに対する答えは、往往にして結果論でしかないかもしれない。なんたって、ジュゼッペ・トマージ・ディ・ランペドゥーサが、没後はじめて『山猫』を “イタリア文学の最高峰” と評価されたくらいなのだから。その時代時代での善いとか悪いとか勝ちとか負けとかは所詮、未来を誰にも予測させるべきではないのと同じくらいに、永遠を持たないコンテンポラリーなことでしかないのかもしれません。『山猫 (原題:Il gattopardo)』(1963)監督:ルキーノ・ヴィスコンティ出演:バート・ランカスター、アラン・ドロン、クラウディア・カルディナーレ ほかこんな時に観たい:黄昏どきアーカイヴはこちら〈 洒脱なレディ論 〉では映画・音楽・本・舞台といった作品を通じて、様々なレディ像を紐解いていきます。

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