秋田県児童発達支援事業所Upload By 発達ナビ施設情報運動学習支援教室ふれんずは、秋田市初の「運動・学習」をメインにした放課後等デイサービスです。運動と学習の調和をコンセプトにプログラムを組み、子どもたちの持っている能力の芽生えと飛躍を目指しています。視覚・聴覚的なワーキングメモリや、同時処理能力を鍛えていくことにより、コミュニケーション能力の向上等、さまざまなアプローチからお子さんのできるを伸ばします。決まった形式には縛られず、想像力を刺激する活動や、保護者の方も一緒に参加できるようなイベントも積極的に実施しています。子どもたちがキラキラと輝ける空間と未来づくりを目指しています。秋田県の児童発達支援事業所をもっと見る埼玉県放課後等デイサービスUpload By 発達ナビ施設情報うんどう広場3C しき教室では、脳機能改善をテーマにした運動プログラムを導入しています。運動や視知覚トレーニングを通して、脳に負荷をかけることにより脳機能の発達を促し、体の使い方、抑制のコントロール、非言語的コミュニケーション能力等の向上を図ることで、学校やお家での問題行動、困り感を軽減させ、脳と体の土台を形成していきます。集団療育に入れないお子さんも、最初は個別療育からスタートできます。障害のあるお子さんの療育に熱い思いを持ち、トレーニングを積んだ専門スタッフが全力でお子さんと向き合っています。埼玉県の放課後等デイサービスをもっと見る岡山県放課後等デイサービスUpload By 発達ナビ施設情報まなてぃでは、学習支援、ライフスキルトレーニング、SST、ビジョントレーニング、感覚統合、作業活動、など一人ひとりに合わせた個別支援と、製作や料理などみんなで一緒に経験ができる小集団療育を行います。まなてぃの特徴は、「①好き・得意を伸ばす②自分のことを知る③自立に向けてのスキルアップ」です。ご家族の方にとっても安心して通っていただけるよう、各機関とも連携を図りながら、お子さんをサポートしています。多機能型事業所の強みを活かし、幼児期から思春期まで、土日・祝日もご利用可能です。岡山県の放課後等デイサービスをもっと見る栃木県放課後等デイサービスUpload By 発達ナビ施設情報ちゃれんじ松原教室は、4月オープンの新しくきれいな施設です。個別支援を軸に、時計の読み方、数の理解、言葉を正確に書き写す練習など、お子さんに合わせた教材を用いて支援をしています。毎週、買い物支援や調理実習も行っています。作業療法士、社会福祉士・保育士等、それぞれの専門分やに精通しているスタッフが支援をすることで、苦手を少しずつ克服し、お子さんのできるを増やしていきます。自信をつける関わり方で、お子さんと保護者の豊かな未来を目指しています。栃木県の放課後等デイサービスをもっと見る「もっと施設の情報を詳しく知りたい!」「見学をしてみたい!」と思ったら、WEBからもお問い合わせが可能です。施設情報ページでは、掲載されている施設の情報を地域ごとに検索して見ることができますよ。
2021年04月26日「図鑑の知識」は身を助ける…こともある?Upload By 丸山さとこ前回のコラムでも書いたように図鑑好きなコウは、一方的な知識の披露をしてしまいがちです。それがコミュニケーションのトラブルになることもあれば、会話のきっかけになることもあります。そんな彼の”図鑑知識”は、日常生活を送る中でしばしば役立つこともあります。「これはこうするといいんだよ」と何かを理解するために役立つこともあれば、「知っているもの」を増やすことで気持ちを落ち着けるために役立つこともあります。「よく分からない怖いもの」から「知っているもの」へ保育園年中のころ、クモのことが苦手だったコウは、植え込みに張られた小さな巣であっても大きく離れて迂回しようとするので、道路に飛び出さないよう注意が必要でした。Upload By 丸山さとこ保育園までの道は公園や街路樹が多く、電灯や足元灯も多いことからあちこちにクモの巣がありました。特に苦手ではない私からすれば「言われてみればいるなー」くらいの存在感だった彼らを、コウは素早く見つけては「クモいる」「通れない」とぐずり出します。Upload By 丸山さとこ街路樹などの高い所に張られたクモの巣だけでなく、植え込みや垣根などの低く小さなすき間に張られたクモの巣ですら的確に発見していくので、その度に迂回したりなだめたりでなかなか目的地までたどり着けません。『視覚優位の特性が活かされているから!?』と思うほどの発見率の高さに親子共々振り回されていました。そうして、たった数センチの存在に右往左往しながら登園と帰宅を繰り返していたある日のこと。いつものようにクモの巣を発見したコウは、逃げたり固まったりすることなく、じーっとクモの巣を見つめていました。しばらく待っていると、コウは静かにクモの糸の性質について解説を始めました。Upload By 丸山さとこ「クモの巣はたて糸とよこ糸で性質が違う。よこ糸はくっつくけどたて糸はくっつかない。クモはたて糸の上だけを歩くので、自分の巣にくっつくことなく動くことができる」そう言い終えて再び歩き出したコウに「そうなんだねー。それはどこで知ったの?」と聞くと、彼は淡々と「図鑑に書いてあった」と言いました。毎度おなじみのそのセリフを、そのときほどありがたいと感じたことはありませんでした!(笑)「必要な時間や回数」は、早送りできないのかも…?それから3ヶ月ほど、コウの「クモの糸はね…」は続きました。彼がクモの存在を受け入れるようになるまでに必要な時間だったのだろうと思います。Upload By 丸山さとこ今では毎日おしゃべりが止まらないコウからの情報量に「お腹いっぱいです」「それもう20回は聞いた」と言いたくなることもありますが、「20回でも30回でも話したいから話すんだよね。その内『お母さん聞いてー』も無くなっていくんだろうな。クモの糸の話のように、必要な時間や回数があるんだろうな…」と思うと、彼の延々と続く話にも『今は付き合ってもいいかな?』という気持ちになったりもするこのごろです。
2021年04月26日いじめで引きこもりに…「半分死んでいた」飲食関係の会社で働く父親と、元保育士の母親のもとで育った古橋さん。6歳上の姉とともに暮らしていた。中学1年の10月ごろから不登校になった。原因は、小学生時代から続いたいじめだった。「人がもうダメになって。小学校6年の終わりにいじめが始まったんです。小学校の人たちと縁が切れて、中学校に入ったら中学校で縁ができた人たちにもいじめられて……。あぁ、ちょっと無理、ってなって。自分の中で、引きこもりになるってことはすごくいけないことをしたっていう、人を殺すよりもいけないことをしたって考えていました。当時は、信号の赤を渡ったら地獄に落ちるぐらいの勢いで凹んでいたから。だからもう引きこもりになるってことは死ぬっていうか、半分死んでいるみたいな。生きてはいるけど。なんか死んではいないだけって感じで捉えていました」(古橋さん)Upload By 桑山 知之よく忘れ物をする子供だったという古橋さん。引きこもっている間に、自閉症スペクトラム障害だと診断を受けた。19歳の頃、鬱のため通院もしたが、なんとか苦しみを乗り越え、愛知県内にある通信制の高校や放送大学を卒業した。その後、就労支援のサービスを受け、エクセルやワードなどの資格を取得。2019年、晴れて貸し会議室などを運営・管理する会社にパートとして就職した。業界大手の一流企業だ。「その会社は時給社員っていう肩書きがある会社でした。社員だけどパートっていう、契約社員でも正社員でもなかった。営業の人が使う情報を入力して、資料を作成するような仕事ですね。そういったところでVBA(ビジュアルベーシック・フォー・アプリケーションズの略。Microsoft Officeに含まれるアプリケーションソフトの拡張機能のこと)を 使って、メールの下書きが自動で作れるようにしたりしていました」Upload By 桑山 知之襲い掛かった“コロナショック”就職から1年余りで週4日勤務、時給900円。手取り月収はおよそ7万円。決して裕福な生活こそできないが、それでも古橋さんは「正社員のような長時間労働は自分には難しいだろう」と、無理をせずに仕事に励んでいた。しかし、世界的なパンデミックの波が、古橋さんを襲った。「去年の春からコロナが流行って、不要不急の業務はやめるってことになって、お休みになったんです。それからずっと自宅待機になって、結局9月に退職しました。貸し会議の業界自体がお客さんを集めて運営するようなものなので……。人が集まれない状態ですから」(古橋さん)Upload By 桑山 知之「密を避ける」という時節柄、部屋に人が集まって会議をするという需要は激減した。自宅待機中、古橋さんは雇用調整助成金のおかげで給料のうち6割は支給されていたものの、「会社も運営が難しくなって人員を減らさないといけなくなり、その関係で切られた」という。現に、古橋さんと同じ立場であるパートは全員退職していた。「そりゃショックでしたよ。でも、しょうがないかなっていう思いが強かったですね。だってコロナの状況でしたし。なんでこうなったのかっていうのも、自分のせいじゃないってわかるし。じゃあ、就職活動頑張らなきゃなって」(古橋さん)Upload By 桑山 知之コロナと距離「自分を受け入れてほしい」元々は正社員志望だったという古橋さんだったが、飲食関係の中小企業で正社員として働く父親が朝から仕事に出て、翌日未明の2時や3時まで自宅に戻らない姿を見て、子どもながらに「これは無理だ」と悟った。社会情勢の影響を受けるのは経済面などで「弱い立場」の人間であることが多い。旧来の“当たり前の幸せ”すらまともに享受できない現代において、新型コロナウイルスは、こうした社会と市民との距離をはっきりと顕在化させているのではないかと筆者は思う。「いま、社会に望むことはあるか」との問いに、古橋さんはこう即答した。「そりゃあ自分を受け入れてほしいってことじゃないですか。社会に出て、パートナーを得て、家族ができて、成功できればなって。社会に受け入れられるっていうのは、僕はその2つだと思います」(古橋さん)社会との距離をあぶり出した、新型コロナウイルス。引きこもりで通信教育だったため友達作りの場が不足していた古橋さんは、親以外に相談相手がいない。取材中も「僕たちには相談相手が必要だ」としきりに話していた。古橋さんに愛情を注ぎ続けていた母親は、取材時にガンで入院中だった。その後、3月18日に息を引き取ったという。Upload By 桑山 知之Upload By 桑山 知之正しいからおもしろい行き着いた“適者生存”古橋さんは、去年11月から再び就労支援のサービスを受け始めた。幸い、以前も担当していたスタッフが在籍しており、また受け持つことになったそうだ。古橋さんがいま大切にしていること。それは「正しくないとおもしろくない」ということだ。「別に誰かに正しさを教えられたわけじゃないけど、自分の中でいつのまにか形成されたこだわりなんです。正しくないと楽しくないし、おもしろくないんです。正しくないよりは正しいことを楽しく感じますし」(古橋さん)Upload By 桑山 知之図書館に行っては歴史や社会、政治、自然科学といった専門書ばかりを読み漁る。その中で、ある言葉と出会った。いまの古橋さんの心を支えているという。「自分が最近好きな言葉が『適者生存』で。適しているから生き残るっていう意味らしいんですけど、実はそうじゃないんですよね。生物学の本に書いてあったんですけど、『生き残ってるのがすべて適者なんだ』って考え方なんです。適してないものは滅ぶんじゃなくて、すでに滅んでるんだって。だから、発達障害があるってことは環境に適していないっていうことではなくて、『生きているってことはすでに適している』っていう意味で適者なんだって」(古橋さん)Upload By 桑山 知之Upload By 桑山 知之平成元年愛知県名古屋市生まれ。慶應義塾大学経済学部在学中からフリーライターとして活動。2013年に東海テレビ入社後、東京支社営業部を経て、報道部で記者/ディレクター。2018年から公共キャンペーンのプロデューサーとして「いま、テレビの現場から。」や「見えない障害と生きる。」、「この距離を忘れない。」といったドキュメンタリーCMを制作。主な受賞歴は、日本民間放送連盟賞CM部門最優秀賞、ACC TOKYO CREATIVITY AWARDSゴールド、JAA広告賞 消費者が選んだ広告コンクール経済産業大臣賞、ギャラクシー賞CM部門優秀賞、広告電通賞SDGs特別賞など。取材・文:桑山知之取材協力:若者支援ネットワーク研究会in東海LITALICO発達ナビ無料会員は発達障害コラムが読み放題!
2021年04月25日幼いころから「なんか変?」だったタケルUpload By 寺島ヒロ他にも、先生の言ったことにあいまいなことがあると、迷ってしまって動けなくなったり、泣き始めると止まらなくなって2~3時間も声をあげて泣き続けたりと、自閉症のある子どもに特有の様子が見て取れました。その反面、文字の読み書きは人より早く覚え、複雑なパズルゲームをこなし、人の体の臓器や働きについての解説は「ハカセ」と呼ばれるほど。会話も他の子どもとの間に成り立っているかは怪しいですが、一応先生方の指示は意味を汲み取れており、返答も明朗でした。なので、私はかなり前から「この子には高機能自閉症の傾向があるな…でも、こんなにしっかり喋れるのだから、障害というわけではないのかな?」と思っていました。私は学生時代に心理学の授業を取っていたので、発達障害についても少しは知識があったのです。でも、当時はアスペルガー症候群とも言われていた「喋れる自閉症」の事を、私はまだ知りませんでした。Upload By 寺島ヒロ実は、私の実家の一族には多くの教育従事者がいます。何度か養護に詳しい親戚らに意見を聴いてみたこともあるのですが、私の息子のような子どもは本では読んだことはあるが珍しく、実際にはほとんど見たことがないとのこと。「そんなに珍しいのなら学校も、自治体も頼りにならない。私が上手く育てていかなければ!」とは思ったものの、具体的に何をすればいいのかはわかりません。手掛かりを求めて、年に3回、市が主催する発達相談に度々足を運びました。相談員のスタッフの方は優しく接してはくださいましたが、発達障害や自閉症については、当時はほとんどご存知ない様子でした。心理や精神の専門家というわけではなく自分の子育ての経験を元にアドバイスをするという形が主だったらしく、「しっかり喋っているから頭の障害ではない」「お母さんが社交的になって友達をつくってあげて」と言われるばかり。何度も通って、こんなに普通と違って手がかかる部分があるんですよと訴えていると、やがて「そんなに子どもの世話が嫌なのか、こんないい子を障害者にしたいのか!」と怒られるようになってしまいました…。そんな日々を180度転換させる出来事が…!タケルの「特性」がはっきり分かったのは2007年、タケルが8歳のころです。懲りずに行った子どもの発達相談ででした。Upload By 寺島ヒロそのときの相談で、ジャージ姿の支援スタッフの方に、息子の生育環境やこれまでの経緯、自閉症に特徴的ないくつかの行動があることなどをお話しました。その間、息子は他の支援スタッフの方と絵本やボールで遊んでいましたが、遊びながら行動をチェックされていたみたいです。その後、医師と息子本人の面談を経て、「この場では診断はできないんですが、印象として申し上げるとアスペルガー症候群に大変近いですね。詳しく調べてみた方がいいと思いますが、どうでしょうか。県の発達療育センターであればここで今すぐ予約という形にできるんですが」ということになりました。急・展・開!市井の病院ではなかなか予約が取れないことを知っていたので、即申し込み!次の週末にはもう受診できることになりました。さて、ようやく療育センターの予約を取ったものの、困ったのは息子になんと説明するかです。発達相談の方は、会場となった保健所が近所だったこともあり「タケルの成長を保健所に行って見てもらおうね」で済ませていましたが、行ったことにない場所に、車に乗って1時間半もかけて行くのですから、さすがに説明なしは無理があります。いや、それ以前に何があるかわからないところに行くなんて、そんな恐ろしいことをタケルが認めるわけがありません。断固として拒否されてしまうでしょう。そこで、急遽「告知」をすることにしました。障害かどうかこの時点ではわかっていないので告知というのも変なのですが、適当な理由をつくって療育センターに連れ出したとしても、読み書きは大人並みにできる息子のこと、院内の表示やもらうプリントから何が起こっているのか正確に察知してしまうでしょう。私たち親が信頼を損なうだけです。Upload By 寺島ヒロ思った以上にすんなり受け入れてくれて一安心。実際の療育センターでの聞き取り調査や検査にも、飽きることなく頑張って取り組んでくれました。その後、数度の診察や検査を経て、タケルは「アスペルガー症候群にごく近い状態(※現在はASDに統合)」と診断されました。Upload By 寺島ヒロさらに…「診断結果は予想通りだったね。感想?いや別に。体重50キロの人が改めて計って体重50キロですねって言われたようなもんじゃない?」と、さらっと言うのでした。タケルの場合、「障害者」になる悩みとか葛藤はあまり感じていなかったようです。本人とって障害はすでにあるもので、診断がつかなければ消えてなくなるというものではない。診断がつけば福祉の対象にしてもらえて学校生活も配慮されるのだから、診断はついた方がいい。何を悩むことがあろうか?ということなんですね。ASDらしい原理主義的ロジカルシンキングだと思います。しかし、このようにストレートに向き合うことができたのも、タケルの周囲に障害をネガティブに捉える人が少なく、タケル本人を可愛がってくれる人が多くいたからでしょう。Upload By 寺島ヒロ発達障害のことを本人にどう伝えるかは、お子さんの置かれた状況や障害の特性、そしてお子さん本人の性格によって大きく変わるため、一概に言うことはできません。ですが、どういう状況であれ、その子本人を認め、困りごとがあれば一緒に改善しようとしてくれる人が周囲にいれば、きっとなんとかなるんじゃないかなあと思います。LITALICO発達ナビ無料会員は発達障害コラムが読み放題!
2021年04月24日満3歳児クラスに入園Upload By かさはらあやこ息子を幼稚園の満3歳児クラスに入園させたのは、早く集団に入れたほうがいいと医師から促されたこと、地域に療育園が無く、集団に入るには幼稚園か保育園の二択だったこと、保育園の申し込みに落ちたことなどが理由でしたが、3歳前は本当に酷い夜驚が毎日続いており、乳児の世話もあったことでかなり疲弊していました。今考えると 入園を促されたいちばんの理由は、私のレスパイトが目的だったのだろうと思います。私自身も、幼稚園と保育園、息子にとってどちらがいいのかなどを深く考えるより、自分が休めるならどちらでもいいという気持ちがあったと思います。とはいえ意思の疎通が全くできない知的障害を伴う自閉症児を満3歳で幼稚園に入園させるということは凄く難しいことでしたが、児童発達支援の先生達の協力もあり、幼稚園側が受け入れてくれたことで 晴れて入園することができました。すっかり安心していたけれど…Upload By かさはらあやこ満3歳になった翌日の6月某日に入園し、11月に退園しました。私が園側とのコミュニケーションに失敗したことが退園の理由です。コロナ禍で面談などもなく、加配の有無さえわからぬままでしたが、入園前に息子の特性などをまとめたものを提出しました。特性を一方的に伝えたことで満足し、相手には伝わっている、理解してくれていると思い込んでいたことや、入園後も息子が特に嫌がることなく、楽しそうに通っていたことで すっかり安心していました。もちろんそのような状態でうまくいくはずもなく、小さな出来事がきっかけとなり、先生と意思の疎通がうまくいっていないことに気づきました。これ以上迷惑をかけてはいけないという遠慮Upload By かさはらあやこ感覚の過敏や鈍磨がある息子は、熱が39度以上あっても、ぐったりするようなこともなく平気で遊ぶため、なかなか気づいてあげることができません。怪我をしても絆創膏をすぐ剥がしてしまうし、傷が気になって触ってしまい、悪化します。虫刺されひとつでも掻きこわし、完治するまでに半年かかるような傷になってしまうし、それが原因で夜泣きをしたり、癇癪を起こしたりするので、風邪をひかないように、怪我をしないように、虫に刺されないように、目を離さず育ててきました。「そうやって大切に、大切に育ててきました、だから、怪我をさせないようにしてください。虫に刺されないように気をつけてください。絶対に目を離さないでください」などと伝えることなどできるはずもなく、何かあるたびに小さなモヤモヤを抱えていきました。息子は迎えに行くと泣いていることがよくありました。帰りの会のとき、眠くなったりして椅子に座ることを拒み、姿勢を保つことができずに椅子からずり落ちて床に頭をぶつけて泣いてしまうのだと説明されました。「集団生活なので特別扱いはできないのですみません」 と言われると、帰りの会で立たせておくことはできませんか?どうしても座らないといけませんか?と聞くことすらできませんでした。障害がある息子を受け入れてくれた園に、手のかかる息子の世話をしてもらっている先生に、これ以上迷惑をかけてはいけないと遠慮し、息子の過ごしやすさを一緒に考えるという一番大切なことが全くできていませんでした。同じ失敗を繰り返さないためにUpload By かさはらあやこ小さな身体で、知らず知らずのうちにストレスを蓄積していた息子。帰宅すると酷い癇癪を起こし、偏食は激しくなり、食べていたものをほとんど口にしなくなりました。秋になり行事が増えたころ、砂を食べるようになったり他害をしたりするようになり、わたしは退園させることを決意しました。些細な違和感やモヤモヤを最初からきちんと伝えていれば、息子のために諦めずに話し合っていれば、このような結果にはならなかったのではないかと思います。息子は4月から保育園に通い始めましたが、今後、保育園でも同じような問題は起こると思います。何か起こったとき、同じ失敗を繰り返さないために、普段から先生としっかりコミュニケーションをとり、どんな小さなことでもすぐに相談できるような関係を築き、息子のことを一番に考えて対処できるようにしたいと強く思っています。LITALICO発達ナビ無料会員は発達障害コラムが読み放題!
2021年04月23日Upload By ひらたともみUpload By ひらたともみ次男リクの幼稚園の友達の中に、「ひとことも話さない」という子がいました。返事もしないし、笑い声ひとつあげない。イエスとノーは、Hくんが首をふるか縦にうなずくかで周囲が判断していました。話すというコミュニケーションができないこともあり、言葉で「嫌だ」と伝えられず、叩く・押すなどしてしまうことがあったHくん。ある日、リクが転倒しておでこを縫うケガをしてしまいました。病院で治療を受けたため、園がHくんの家庭に報告。その日の夜に、Hくんとお母さんが謝罪にやってきました。Upload By ひらたともみHくんはやはり無言のままです。お母さんは必死に、Hくんに謝るよう促しましたが、最後までひとことも言葉がでません。お母さんによると、家では多弁で、弟ともよく怒鳴りあうほどの兄弟ケンカをするそう。その日もリクに謝る練習を何十回もしてきたらしく、お母さんもどうして外でひとことも話さないのか不思議で仕方がない。こんな病気があるのだろうか…と、涙ながらに話していました。私も、そんな病気や障害など、全く知らなかったため、ただただ不思議で仕方ありませんでした。そしてその後、リクからまた驚きの話を聞きました。Upload By ひらたともみ「誰もHくんの声を聞いたことがない」というまま、リクはHくんと同じ小学校に入学しました。Hくんは相変わらず無言のままでしたが、週に一度程度、言葉の教室に通っていると風の噂で聞き、好転することを陰ながらも祈っていました。Upload By ひらたともみUpload By ひらたともみUpload By ひらたともみUpload By ひらたともみこの話はずいぶん前の話です。世間が子どもの発達障害に目を向け、学校や公共の場でも、理解に努めようと踏み出したころだったと思います。家で多弁なHくんがどうして学校で言葉が出てこないのか…。緊張なのか、シャイなのか…。どうして?いつまで?…と、家族はとても心配したと思います。後に、「場面緘黙症」という症状があることを知るのですが、この症状に悩んでいる人たちが世の中にたくさんいることも分かりました。この後Hくんは中学校に上がるのですが、なんと、よくしゃべる子になっていました。卒業式に初めて言葉を発したわけですが、それは私たちが考える以上のHくんの努力が詰まった返事だったと思います。私がHくんの場面緘黙症を「不思議」に思っていたように、まだ私の知らない障害や症状のある当事者の方を、知らず知らずのうちに傷つけていることがあるのかもしれないと、場面緘黙症を知ったときに深くそう思いました。LITALICO発達ナビ無料会員は発達障害コラムが読み放題!
2021年04月22日前回までのあらすじ小学校5年から民間の支援機関でSST(ソーシャルスキルトレーニング)やビジョントレーニングを受け始めた娘ですが、学校でのいじめの対応については校長先生をはじめとする各先生たちと、主人、私で話し合いをすることに。資料の引継ぎ漏れ、学校独自のルールなど問題解決には時間を要し、学校内での情報共有ができていないことを痛感しました。主治医が代わり支援が変わる娘が小学5年生の時、療育センターの主治医が思春期精神科の医師(新たに外部から派遣されることになった)に代わりました。それまで娘は療育センターで「様子を見ましょう」と言われていて、特に療育はなされておらず、心理士の定期的な面談のみをずっと続けている状態が続いていました。新しい主治医は若い女性医師で、診察は親子同席から親子別々に変わりました。私が家での娘の様子や学校での困りごとを話すと、主治医の表情から笑みが消えました。そして主治医は「薬を処方することもできますが、まずは環境を整えることが大切です。療育センターのスタッフに学校訪問のオーダーを出しますね。お母さんは学校側の許可を取っておいてください。それから療育センターの心理担当者に感情コントロールのプログラムをオーダーしておきますね。お薬は本人が飲むことで安心できる程度の極少量を処方します」とテキパキと看護師さんに指示を出されました。私はずっと「療育センターはただ相談をするところ」「話を聞いてくれるところ」だと思っていたので、この主治医のオーダーに大変驚きました。帰宅後、療育センターのパンフレットを読み返してみると、そこには確かに“幼稚園や保育所、学校などへの訪問支援”や“「地域との交流・連携を実施」など自立生活への支援に向けたサービスを提供する”と記されていました。私は医師のこのオーダーをとても有難く思いました。希望の光が見えるも、一気にどん底へ...療育センタースタッフの学校訪問の件を伝えると、学校側の許可はすんなり下りました。私は「これで少しは娘も落ち着くかも」と期待し、センターから訪問日の連絡が来るのを首を長くして待ちました。でもその後、療育センターからかかってきた電話に私の希望は打ち砕かれました。「ドクターからオーダーのあった学校訪問の件ですが、娘さんの通う学校と当センターとは交流がありません。学校から当センターに直接連絡がないということは、学校があまり積極的でない校風と思われます。学校から訪問依頼があったわけではないので行けるかどうかわかりません。また、心理士による感情コントロールプログラムは心理士の手が空いているときのみの対応になります」心理士のプログラムの実施についてはともかく、医師のオーダーがあったにも関わらず療育センタースタッフの学校訪問がなされないことに私はショックを受け、深く落ち込みました。立ちあがる力のもとになったのは...Upload By 荒木まち子Upload By 荒木まち子療育センタースタッフの学校訪問が実現したのは、主治医のオーダーから3ヶ月後のことでした。くじけそうになったとき、寄り添い支えてくれた支援者の存在があったからこそ私は再び立ち上がることができたのだと思います。療育センタースタッフの学校訪問後、変わったこと療育センターの担当者は授業の様子などを見学し、娘に限らず発達障害のある生徒に有効な環境設定や対応方法を学校にアドバイスしてくださったそうです。その後、私が学校を訪れたときには、教室前面の余分な掲示物は外されていました。教室後方にはカレンダー仕様の『一ヶ月の行事予定表』が新たに貼られていて“その日の持ち物や提出物”などが記入されていました。黒板の端には「掃除の手順」が書かれた小さなホワイトボードが置かれていました。それらは自宅で使用しているスケジュールボードと同様、視覚優位の娘にはとても有効なものでした。コノビ―(conobi)記事 スケジュールボードを作ろう!カレンダーや手順表などで可視化すると見通しが立ちやすくなり、娘はスムーズに行動ができるのです。私は早速さまざまな対応をしてくれた担任の先生に感謝の気持ちを伝えました。周りの友達の変化と協力も後押しになって環境整備したからといって、すべてがあっという間に解決するわけではありません。娘は家では相変わらず母の何気ない言葉にキレたり、弟の生意気な態度に激高したりしていました。学校で腹痛を起こし保健室で大半を過ごす日もありました。でも徐々に娘に声を掛け、助けてくれる友達や「実は自分も同じようにいじめられていた」と娘に告げる友達も出てきました。コミュニケーションは苦手だけれど“人”が大好きな娘にとって、このような友達の存在はとても大きなものでした。少しずつ少しずつ娘は落ち着きはじめ、薬の服用は10ヶ月で終了しました。数年後の学校~喜ばしい変化~娘が学校を卒業した2年後に息子が同じ小学校に入学しました。その年の最初の学校便りには『地域療育センターや子ども家庭支援課など関係機関との連携もできますので、まずはご相談を』と書かれていました。かつて、交流がないので学校訪問は難しいといわれた療育センターとの連携が積極的に行われるようになったことを私は嬉しく思いました。また、この年から新たに、クラス担任を持たない主幹教諭が特別支援教育コーディネーターとして配置され、全学年を通して児童・保護者・カウンセラーとの連携を専任で担うこととなりました。“学内でキーパーソンとなる先生”の存在は、私が切望していたものでした。皆さんに伝えたいこと10年前の私は娘の障害に対する知識が皆無でした。しょっちゅう泣いていたし、傍から見たら『恥ずかしい』とか『なりふり構わない』など感じられるようなこともしてきたと思います。私は人前で話をするのが苦手ですし、すぐに落ち込む性格です。でも前例がなければ、自らが動いて最初の例をつくるしかありませんでした。支援者や医師だけではなく、学校の先生や療育センターのスタッフさんたちが動いたからこそ状況は改善されました。もしも今、学校や支援機関との関係などに悩んでいる方がいらしたら『味方』を増やすことをおすすめします。困難な状況を打開したいとき、自分一人ではどうにもできないことも支援者や協力者がいればなんとかなると思うのです。共感したり愚痴を言い合える仲間がいると元気が出ますよね。ネットの繋がりや同じ立場の者同士のコミュニティーもとても大切です。同様に、リアルでも前向きで建設的な気持ちになれるような味方や仲間をぜひ増やしていってほしいと思います。障害児の子育てをしている親御さんは皆、日々悩みとても頑張っています。世の中きれいごとばかりではありません。どうしても分かり合えない人もいるでしょう。それは仕方のないことです。皆さんには『頑張りすぎず』ときには『休みを取って』でも『諦めることなく』進んでいってほしいです。諦めさえしなければ希望の光はきっと見えてくると思うのです。発達ナビ無料会員は発達障害コラムが読み放題!1話から読む↓
2021年04月21日はじめまして、児童精神科医の三木崇弘ですはじめまして。フリーランスの児童精神科医をしています、三木崇弘と申します。クリニック以外にも、学校や児童相談所、児童養護施設や保健所などで勤務しています。「困っている子とその保護者」が関わるいろんなシーンにいる人、と思ってもらえるといいかなと思います。第1回となる今回のテーマは「保護者の感情」です。子育て中にはイライラするシーンがつきもの。発達障害のある子どもを育てていると、不安になったり困ったりする場面も多くあるのではないかと思います。今日は「保護者の感情」を子どもがどう感じているかと、その対応についてお話ししたいと思います。Upload By 三木崇弘子育て中のイライラ、どうすればいい?子育てをしていると、どうしても感情がコントロールできないこともあります。声を荒げてしまったり、聞こえるように溜息をついてしまったり…最終的には保護者が自分で収拾をつけるとしても、浴びた側の子どもにとって親の気分や感情はどのような意味を持つのでしょうか?保護者の感情表現は、子どもにとって天気みたいなもの子どもからすると、お父さんやお母さんの気分や感情は家の中の天気みたいなものです。ご機嫌であれば晴れだし、イライラしていれば雨。怒っていれば嵐と言っても良いかもしれません。大人同士であればその天気をある程度距離を取って眺めることもできるかもしれませんが、大人と子ども、まして親子であれば、子どもが保護者から受ける影響は大きいものです。大荒れの天気の中、ずぶ濡れの子どもはどうすることもできず立ち尽くすしかありません。嵐の日があってもいい、でも…お父さんやお母さんだって人間ですから、雨の日があってもいい。そもそも外の世界も晴ればかりではなく、雨の日も風の日も、嵐の日だってあります。子どもにとっていろんな天気を体験することがその後のたくましさを育むのは間違いありません。ただそれが「ある程度は安心で、予報(予測)が可能であること」が大事です。私たちだって、毎日どんな天気か分からないまま暮らすのはとてもストレスです。最近の異常気象で朝晩の気温差があまりに大きかったり、予兆もなく突然雨が降ったりすると、とても大変ですよね。台風だって、いつどこでどれくらいの雨と風が起きそうか分かるから、建物の中で安心して過ごすことができます。だから、大人が不機嫌なときや怒っているときでも、「自分が何をしたからお母さんが怒ったのか」や「怒っていても関係性の根本が変わらないこと」を子どもがしっかり理解できるような関わりが大切です。お子さんの安心・安全を守るために、心がけてほしいことそのためには、普段から「いま大人がなぜ不機嫌なのか」「どういう状態なのか」をしっかりと話すようにすると良いでしょう。子どもは保護者や家族に起きていることを自分の責任だと思い込むことがよくあります。例えば、「私が悪い子だからママが私のことを嫌いになった」「私がちゃんとしてないからパパとママが喧嘩した」という感じです。大人からすると「そんな訳がない」のですが、子どもが自分の理解できる範囲でものごとの因果関係を捉えようとした結果、こういった解釈をします。一昔前であれば同居の祖父母や近所のおばちゃんが「そんなの気にしなくていいよ」「それはパパが悪いね」とニュアンスの調整をしてくれたのですが、今は親が自分でどうにかしないといけない環境であることが多いですよね。だから、余計な不安を与えないように「〇〇ちゃんが約束を守らなかったらママは怒ってるけど、それは〇〇ちゃんを嫌いってことじゃないからね」と声をかけたり、「パパとママは××について意見が合わなくて喧嘩になっちゃったけど、ちゃんと仲直りするつもりだから安心してね」と状況を共有したりすると良いでしょう。気分が不安定なときにこういったひとことを追加するのはとても大変ですが、このひと手間がお子さんの安心・安全を作ってくれると思います。
2021年04月20日発達障害・感覚過敏のある子は、電車通学のハードルが高過ぎる件出典 : こんにちは。『発達障害&グレーゾーン子育てから生まれた楽々かあさんの伝わる! 声かけ変換』他、著者・楽々かあさんこと、大場美鈴です。今回のコラムは、通学電車にまつわるお話を…。発達障害&グレーゾーンの子や、感覚過敏のある子は、電車通学…特に満員電車での負担がとても大きいでしょう。なぜなら、・感覚過敏のある子の身体接触等の苦手さ問題・ADHDのある子のうっかり忘れ問題・ASDのある子の予測不能な事態でのパニック問題…などがあるために、ハードルが特に高いのです。これらの問題は、決して大げさではなくて、せっかく受験で希望の学校に合格しても、「通学電車の負担が大きすぎて、不登校になったり、自主退学や転校を考える生徒さんもいる」と聞くほど。(実はうちのパパも若いころ、電車通勤の負担から大企業を辞めて、研究の道に入り直した人なのです)ですから、うちの長男・次男の中学受験では、最初の学校選びの段階で本人と相談しながら、例えどんなに素晴らしい学校でも、通学に1時間以上かかる学校や、複雑な乗り換えや混雑路線を使わざるを得ない学校などは、予め志望校リストから除外してしまいました。そして無事、長男・次男共に、ドア・ツー・ドアで1時間以内・乗り換え1回の私立中高一貫校に入学できたものの、小学校を卒業したばかりの当時若干12歳で、満員電車での通学に挑まなくてはなりませんでした。そこで、うちで親子で行ってきたさまざまな工夫や対策など、通学電車にまつわる諸問題の乗り越え方を、新型コロナの影響下での通学状況の変化も踏まえつつ、ご紹介していきますね。電車の使い方と身体接触に徐々に慣らす!出典 : うちでは、まず、「電車自体に慣れる」ところから、スタート。それまで、うちは地方在住なので普段の移動は車か自転車中心で、電車は年に1度の祖父母宅への新幹線での帰省程度でしたから。そこで、小学生の受験勉強時代から、学校見学や体験授業参加の際には、「実際の通学ルート」を使うことに。そして、本人用の交通系ICカードをつくり、券売機でのチャージの仕方、基本的なマナーなど、”いろはのい”から時間をかけて教えました。基本に慣れたら、次は、時間の余裕があるときに、トラブル時などを想定して、ワザと降車駅を乗り越してみたり、途中駅でトイレを借りたり、別の路線で遠回りして帰ってみたりも…。この際、「こういう時、どうすればいいと思う?」などの声かけで、なるべく本人が自分で判断できるようにして、それでも難しいときには、「駅員さんに聞いてみようか」「この場合は、こうすればいいんだよ」など、具体的に”困ったときには、どうすればいいか”を教えました。こうして、受験シーズンくらいには、電車にかなり慣れたので、「今日は〇太郎についていくから、かあちゃんを〇〇中学まで連れてって」と、(多少間違っても)なるべく手出し口出しせずに、見守るようにしました。出典 : そして、最後の難関、朝の通学時間帯の満員電車!志望校の合格後、長男と試しに朝のラッシュ時に一緒に電車に乗ると、今までとは別次元の混雑ぶり。身体接触が苦手な長男は「人が多すぎて、乗換駅で降りられない!!」「押されてどこにも掴まれない…」「いろんな匂いでキモチワルイ」とパニック寸前の涙目に。やはり、かなりハードルが高かったようです。そこで、本人と作戦会議をし、「満員電車よりも早起きのほうがマシ!」という結論に…。学校に門が開く時刻を聞き、朝は一番乗りで登校することにしました。ピーク時よりはかなりマシですが、それでも結構混んでいるので、入学後の最初の一週間ほどは、私も一緒に電車に乗って、「今日は一駅手前まで」「今日は乗換駅まで」と、様子を見ながら日毎に付き添う距離を短くしていき、最後は最寄り駅から見送るだけに。つまり、うちでは、親は「ステップを踏んで徐々に慣らし、だんだんと手を離す」ことで、子は「それでも無理なことは、人に相談し、できる工夫する」ことで、なんとかしました。ちなみに、3年後の今では、長男も混雑に慣れ、登校時間もずるずると遅くなってきましたが、「コロナのことで、ピーク時も多少人が減ってる気がする」とのこと(確かに、近隣地域ではマイカー・自転車通勤も増えています)。マスク着用の上、車内の換気もされているので、匂いへの負担も減ったよう。また、学校側も感染が拡大している時期は、オンライン授業や分散登校など、柔軟に対応してくれるので、潔癖で心配性の次男もホッとしている様子です。うっかり忘れの自覚と、持ち物の工夫と習慣化Upload By 楽々かあさん身体接触の次に懸念されたのは、うっかり屋の長男の電車での「忘れ物・落とし物」と、降車駅での「乗り過ごし」問題です。そこで、長男の通学用のリュックは、図のようになりました。元々、「よくなくすものには、ヒモをつける!」が、うちの忘れ物対策の鉄則。特に、定期とスマホと財布と家の鍵などの大事なモノは、フックのついたスプリング式のコード(通称「びょんびょん」。100円ショップのキーホルダーコーナー等で入手可能)をまとめ買いし、それぞれつけるように習慣化(※フックがかからない箇所は、カラビナやリング、バッグのタグなどと組み合わせる)。たったこれだけで、長男は今までスマホも定期も、一度も落としたことはありません(「びょんびょん」だらけで、年頃の子には少々カッコ悪いかもしれませんが、背に腹は変えられません!)また、今では長男も"自分はよく忘れる"自覚があるので、電車を降りるときには、座っていた座席を目視したり、制服やリュックのポケットなどを手触りで毎回ポンポンと確認したりする習慣をつけているのだそう。出典 : そして、「乗り過ごし」対策も、あまりに当たり前のようですが、長男自身が「自分で、気をつける!」ことで、対処しました。ここで大事なのは「どうすれば、気をつけられるか」を、具体的に考えることです。長男は、"自分がかなりうっかりしている"ことも十分自覚しているので、例えば、通学中にスマホで好きなサイトや動画を見ていると、つい、目的地の駅で降り忘れてしまうことをよ〜く知っています(実際、何度かやらかしました)。そこで、シンプルですが、学校の最寄り駅の数駅手前の大きな駅で、人が沢山乗り降りするので、「その駅になったら、スマホをやめて、アナウンスを聞く」ように習慣化しているそうです(これだと、視覚・聴覚を使っていても気づくとのこと)。スマホの乗り換え案内系のアプリにも、位置情報から降車駅が近づいたら通知やバイブレーション機能で知らせてくれるものもあるので、長男と似たようなお子さんは、自分が気づきやすく習慣化しやすい方法を見つけるといいでしょう。また、親の私のほうは、最初のころは位置情報アプリなどを使って、学校に無事到着したり、設定した範囲から長男が出たら通知が届くようにしたりもしました。ここでの大事なポイントは、自分(我が子)の特徴を自覚して工夫し、それを「習慣化する」ことだと思います。不測の事態には、事前知識と「こうすれば、大丈夫」という対処法!出典 : そして、「いつもと違うこと」「予測不能なこと」が苦手な子は、"電車が予定通り動かない”ことなどに遭遇すると、強い不安やストレスを感じたり、場合によってはパニックに陥ることもあるでしょう。でも、ご存知のように、電車の運行は、事故や故障などの他、急なゲリラ豪雨や、大雪、台風、地震などの気象条件や自然災害などによっても、突然止まったり、ダイヤが乱れたりすることがあります。うちではまず、「電車には、こういう可能性もある」と、予め、一緒に電車に乗っているときや、テレビのニュースなどを見ながら話し、さまざまなケースを”知識として”教えました。事前知識が少しでもあれば、実際にアクシデントが起こったときの衝撃がかなり違いますから。そして、前出の「通学リュック図」にあるように…・財布の中に非常用の千円札と保険証のコピー、自宅の連絡先・サバイバルセット(応急手当、ビニール袋、非常用トイレ、他)・晴雨兼用折りたたみ傘・頓服薬(頭痛・腹痛用など)…などを、常時入れっぱなしで「もしも」に備えています。それに加えて、特に役立った"不測の事態"への対策は、長男自身による「防災訓練」でした。出典 : 実は長男は、小さなころから「地震怖すぎる」等と、自然災害に対する恐怖心が人一倍強かったことで、逆に知識が豊富になり、日頃から防災意識が高く、何かと災害対策を実践するようになりました。その一環で、中1のあるときに、地震などで帰宅困難になったときを想定して、「おれ、1回、学校から家まで歩いて帰ってみる!」と言いだし、午前授業だけの日の帰りに、3時間ほどかけて徒歩帰宅しました(以来、年1度くらい、徒歩帰宅しています)。これで、「もし電車が止まっても、歩いて帰ればいい」と実感でき、かなり安心できたようです。そして実際に、この経験が大活躍しました。昨年の春のコロナ休校明けに、次男がようやく中学初登校できた日のこと。なんと、帰りの電車が、突然のトラブルで急に全線ストップしてしまいました。学校の最寄駅付近で、周囲が大混乱の中、合流して私に電話をかけてきた長男と次男によれば、「タクシー乗り場はすでに長蛇の列で無理そう」とのこと。でも、私が「もうすぐ長女が小学校から帰ってくるから、スグには車で迎えに行けない」と伝えると、「じゃあ、歩いて帰るか、〇次郎!おれ、道分かるから、大丈夫〜」と、長男は慌てず騒がず、次男と一緒に歩き出しました(乗換駅から復旧していたので、そこから通常ルートで帰宅)。やがて、「ただいま〜」と、ぐったり次男と共に、ケロリとした顔で無事帰宅した長男を見て、「あの〇太郎が、随分パニックに強くなったなあ」と、私は彼の成長を頼もしく感じました(ちなみに、現在は「痴漢冤罪怖すぎる」と、ネットで誤解されない対処法を検索しまくっています)。予測不能な事態も、事前の知識と、「こうすれば、大丈夫」という対処法が分かっていれば、案外落ち着ける場合も多いのではないでしょうか。多様な通勤通学方法の普及で、下がるハードルも…出典 : 現在、新型コロナウイルスによる影響が長期化する中で、発達障害&グレーゾーンや、感覚過敏のあるお子さんは特に、学校・日常生活の中での負担や不安・ストレスを感じる場面も多いことでしょう。その一方で、テレワークやオンライン授業の推進、通勤通学時間の分散化、マイカー通勤や徒歩・自転車通学の増加などによって、多様な通勤・通学方法が社会全体で模索される中で、高かった電車通学のハードルが多少下がってきた部分もあるように思います。これを機に、多様な子どもたちの通学の負担が少しでも減って、本来の学校生活に集中できるように願っています。大場美鈴(著),『発達障害&グレーゾーン子育てから生まれた 楽々かあさんの伝わる! 声かけ変換』あさ出版, 2020.6.27
2021年04月20日「卒業生入場!」ハラハラしながら見守る母の前で卒業式当日は親子で学校へ向かい、長男を教室へと連れていき、そこで別れて私や他の保護者たちは体育館で待機していました。大丈夫だろうか…長男は無事卒業証書を受け取れるだろうか…いやそもそもちゃんと歩けるだろうか…不安な気持ちがよぎります。けれどそれでもいい。卒業する長男の姿をしっかり目に焼き付けておこう、そう心に決めました。「卒業生入場!」先生の声と共に、体育館の扉から子どもたちが姿を現しました。入学式のときは小さかった子も立派に成長しています。赤いじゅうたんの上を次々に歩いていく子どもたち。成長障害がある為、ひときわ小さな体をした長男が入って来ました。驚いたことにてくてくとまっすぐに歩いています。Upload By シュウママ立ち止まらず、しゃがみこまず、泣き出しもせず。もうその姿を見ただけでこみあげてくるものがありました。いよいよ卒業証書授与。この日のために何度も練習した長男。いざ本番次はいよいよ卒業証書授与。長男にとって最大の難関といえるでしょう。学校からの連絡帳では何度も何度も予行練習したと書かれていました。特に名前を呼ばれるとき、はい!とどうしても手を挙げてしまうので「手を挙げないでね」と何度も伝えたそうです。でもどうしても癖で挙げちゃうんですよねというお話でした。階段を登っていく長男の姿が見えました。前のお子さんが卒業証書を授与される間、きちんと待機しています。長男の名前が呼ばれました。小さな声で「はい」と返事をしました。Upload By シュウママ手は挙がっていません。練習の成果です。長男は誰の力も借りずに歩き、両手で卒業証書を受け取りペコリとお辞儀しました。Upload By シュウママしっかりと卒業証書を手に持ち階段を降りて行きます。長時間の緊張で顔がこわばっています。定型発達の子どもなら簡単にできることかもしれません。けれどこの一連の流れが発達障害のある長男にはどれほど大変なことか。そしてここに至らせるまで先生方がどれほど努力されたことか。涙をこらえることができませんでした。そして同じように泣いておられる保護者も大勢いらっしゃいました。その道のりの大変さを知っているからこそ、思いはみな同じだったんだと思います。走馬灯のように駆け巡る幼いころの記憶入学式の日はまっすぐ歩くことはできませんでした。運動会では帰る!と言って泣き出したこともありました。学校のイベントのときには、私の顔を見つけると走って駆け寄ってきました。でも今は私の姿を見ていても、そばに寄ろうとせず、きちんと椅子に座っています。ここは大事な式典の場なんだと認識しているのです。大きな大きな成長です。私は卒業式当日にはじめて、長男が6年間の間にどれほどいろんなことを獲得してきたのかを知ることができました。Upload By シュウママ最後の写真撮影。どれほどの人が長男の成長に力を貸してくれていたのか改めて知りました卒業証書授与式が終わると、最後の写真撮影でした。クラスのみんなと。保護者と。先生と。支援学校の6年生は1クラス6人の3クラス。全体で20人でも満たない子どもたちを保護者はみんな覚えています。そしてすべての先生方が長男のことをよく知っています。「シュウちゃん、卒業おめでとう!」たくさんの先生から言葉をかけられました。Upload By シュウママその言葉は本当に芯から温かいものでした。私はどれほどの人たちが長男に力を貸してくれていたのかを改めて知ったのです。もっともっとそのことに感謝すべきだった。長男が一人で勝手に成長したわけじゃないんだと気づかされました。そのことにまた涙がこぼれました。花束を胸に抱き、花道を通り抜けて学校を後にするとき嬉しいような寂しいような複雑な気持ちでした。卒業は子どもが成長していくときの大事な通過点。でもそこを通過するときには、決して喜びだけではないのだと、せつなさも伴うんだと知りました。ただ思うのです。私はこの心づくしの卒業式を一生忘れないだろうと。
2021年04月19日福祉とアートが同居する美術展「(た)よりあい、(た)よりあう。」開催!Upload By 発達ナビニュース福島県にあるはじまりの美術館では、4月17日より企画展「(た)よりあい、(た)よりあう。」を開催します。福祉とアートが同居する本展では「頼る」「頼りあう」をテーマに、6組の出展作家による表現や取り組みが紹介されます。「自立」という言葉を聞くと、「全てのことを自分一人でやること」をイメージする人が多いかもしれません。しかし、実際は大人になっても、身近な人や物、思い出に頼って暮らしているのではないでしょうか。そのように、さまざまなものが寄り合って、支えられている状態として「自立」を捉え、「頼る」ことを切り口に作品を紹介するのが本展です。展示を通して、お互いの存在を認め合い、新しい関係性をつくり出すきっかけになることを目指しています。絵画、ドローイング、漆器、映像、プロジェクトなど、さまざまな取り組みがはじまりの美術館に集まります。さまざまな作家や関係者、プロジェクトが関わり合い、この展覧会自体もさまざまな方たちに頼ることで実現されています。【期間】:2021年4月17日 - 2021年7月11日【開館時間】:10:00~18:00※5月22日(土)17時閉館【会場】:はじまりの美術館(福島県耶麻郡猪苗代町新町4873)【料金】:一般500円、65歳以上250円、高校生以下・障がい者手帳をお持ちの方および付添いの方(1名まで)無料一般社団法人こども発達支援研究会が主催する、こども発達支援研修会(4/24実施)Upload By 発達ナビニュース4/24(土・夜)21:00からオンラインで第22回こども発達支援研修会が開かれます。講師は一般社団法人こども発達支援研究会理事の前田智行先生で、放課後等デイサービス、児童発達支援事業所、公立小学校にて500名以上の支援に関わっています。また、小学校、放課後等デイサービス、少年院等にて、研修講師を担当しており、ご自身もADHDとASDの当事者であり、当事者経験と専門知識に基づく実用性の高い研修を実施しています。今回の第22回は、「LDを抱える子への漢字学習支援」がテーマです。具体的に現場臨床で活用できる「漢字学習支援」を紹介していきます。【日時】:4月24日(土・夜)21:00〜23:00【場所】:ZOOMによるオンライン開催※カメラのオンとオフは自由です(ご自宅からの参加者が多いため)【参加費】:1100円(税込)※オンラインスクール会員は半額550円LITALICO発達ナビ無料会員は発達障害コラムが読み放題!
2021年04月18日学校のルールが理解できず、独自路線で突き進むコミックエッセイ『毎日やらかしてます。』シリーズや、ドラマ化もされた『透明なゆりかご』などの作品が人気の漫画家、沖田×華さん。『毎日やらかしてます。』シリーズでも公表している通り、沖田さんにはADHD、ASD、LD(学習障害)のトリプル発達障害があります。「漫画家になってからは、別の世界に転生してきたみたいだ」と語る沖田さんに、現在の仕事に至るまでのお話をお聞きしました。――沖田さんは幼少期、どのようなお子さんだったのでしょうか?沖田×華さん(以下、沖田):小学校入学前は、漢字を読むことが得意で、通っていた公文式では算数で満点をとっていました。だから、親は「頭がいい子どもだ、きっと小学校でもうまくいくだろう」と思っていたらしいのですが、実際は入学式のときから浮いていましたね。Upload By 姫野桂沖田:入学式当日、靴下も上履きも忘れて、集合写真は1人だけスリッパを履いて写っていて(笑)。周りはきちっとした姿勢なのに、自分だけ姿勢もふにゃんとしてて、じっとしていられない感が写真にもあらわれていました。入学式の日って、自己紹介があって、仲良くなった子と一緒に帰ったりしますよね。わたしは、そのとき一緒に帰った友達が「一生一緒に帰る友達」なんだと思い込んで、毎日同じ子に声をかけていました。一度起こったことが、ずっとそのまま再現されるわけではないと理解できないことがよくありました。――そうだったんですね。他にも、何か周りの子と違う行動をとっていたことはありましたか?沖田:ハサミやノリなどが入った「お道具箱」の扱いで先生に叱られて、納得できずに意見を曲げなかったこともありましたね。わたしはお道具箱を大変気に入って、家に持ち帰り、中身を1つも学校に持って来なかったんです(笑)。それを見た同級生たちが代わりのお道具箱を作ってくれたんですが、喜んでいたら先生に取り上げられてしまって。先生からは「なんで自分のお道具箱があるのに家から持ってこないんだ」と言われましたが、「だってこのお道具箱はわたしのものなんですよね?だからわたしがどういう使い方をしてもいいんですよね」と答えて、納得しないことには絶対に謝らなかったらしく…。何かこだわりがあって、クラスの中でわたし1人だけが止まってしまうことも多々ありました。あとは、「テスト」というものの意味を理解していませんでした。例えば、学校の算数のテストだとランダムに足し算が出てきますが、わたしは丸暗記していた公文式のテストの答えをそのまま書いていたんです。母親には「これは公文式の問題じゃないんだから、問題文をちゃんと見ろ」と何度も言われましたが、まったく理解していなかったらしいです。Upload By 姫野桂――となると、自然とテストの点数は低くなりそうです。沖田:そうですね。算数はよく0点をとっていました。でも、全部の教科が悪いのではなく、算数だけが異常に悪くて国語は答えをすごく暗記できる、みたいな、凸凹のある子でした。成績が悪いと親に怒られるので、小・中学校ではいつも成績を改ざんすることを考えていましたね。数学のテストで200点満点中30点しかとれていないのを、数字の「1」を加えて130点にしたり、通知表の「1」に線を付け加えて「4」にしたりとか(笑)。結局バレて怒られるんですが、勉強どうこうというよりも、どうしたら親に怒られずに済むかで頭がいっぱいでした。家に帰ると「学校モード」ではなくなってしまうので、そこからうまく切り替えられず、宿題をするのも苦手だったんですよ。「どうしたらこれをちゃんとできるのかな?」と考えて、町内で勉強のできる同級生のところへ「勉強教えてー」とお菓子を持って行き、やってもらっていました。友達がほしくて入っていた文通部でも、わたしは字がキレイに書けなかったので、友達に「50円あげるから書いてくれ」って頼んで文面を言ったりして(笑)。そんな風に、お菓子やお金を渡して等価交換みたいなつもりで、できないことを人に代わりにやってもらっていました。人と関わろうと思ってはいるのですが、どこかやり方が間違っているというか、子どもらしくないというか…。そんなことばかりしていましたね。Upload By 姫野桂発達障害の自覚がないまま過ごした思春期――沖田さんは、発達障害の診断を小学生のときにすでに受けていたと漫画にも描いてらっしゃいますよね。Upload By 姫野桂沖田:はい。小学4年生のときにADHDとLDの疑いがあるとの診断を受け、ASDの診断は中学生のときに受けました。でも、発達障害の自覚はまったくなくて、「前ならえ」のような集団行動をこなしたり、おとなしく授業を受けたりしている同級生を見て、「この子たちは全員ロボットで、わたしこそが人間」と思っていましたね。「こっち来て」の一言で言うことを聞く人たちが人間に見えなくて。パッと顔を上げると、わたしが1つのことを続けているうちに、全然世界が変わっているんです。昼休みが終わって席に戻ってきたら、みんなが席についてわたしを見ていたこともありました。なんだろうと思ったら、給食が終わった瞬間に、わたしが「ごちそうさま」を言い忘れて教室を飛び出していったから、連帯責任で全員の昼休みがなくなってしまったらしいんです。でも、肝心のわたしは「みんな戻るの早いな」と思っていて、一切その罰がこたえていなかったので、先生は悩んでいたようです。――連帯責任や根性論の時代だったんですね。沖田:そうですね。忘れ物をしたときは「なんで忘れるのか」と理由を問い詰められましたが、「忘れました」以外に答えようがなくて。「忘れた」という言葉が通用しないなら、もう何も言えないなと、小学3年生のころには、場面緘黙症になってしまいました。担任にもひどくいじめられていたのですが、「一生は続かないだろう」「これさえ耐えれば、わたしはもう自由!」と思っていましたね。でも、中学ではもっと地獄を見ました(笑)。Upload By 姫野桂参考: LITALICO発達ナビ「場面緘黙(かんもく)の原因とは?声が出ない要因、子どもの緘黙はなぜ起こる?大人の場合は?について解説」――中学校ではどのようなことがあったのでしょうか?沖田:特に中学1年生のときは、担任との相性が最悪でした。わたしが生まれた時代は第二次ベビーブームの終わりごろだったので、中学は1学年330人ぐらいだったんです。その中で、わたしは成績が330人中280番ぐらいで。「あ、良かった、わたしの下にこんなにいっぱいダメなやつがいる」と思っていたら、成績が悪いのは男子ばかりで女子はわたしだけ。それで目をつけられてしまって…。体罰自体は小学生のころもあったのですが、中学からは胸をつねるような性的な体罰もありました。良くないことですが、当時はそういうことが学校でまかり通っていた時代で、私自身もまだ中学生のころは、体罰と性的な加害の区別が難しかった気がしますね。他には、生理に対する嫌悪感も強かったです。生理が始まってからは、感覚過敏で、とにかく下着をつけるのが苦痛でした。スポーツブラのゴムでかゆくなってしまったり、生理用の小さいショーツそのものや、ナプキンに経血のつく感じがすごく嫌だったり。自分がにおいに敏感だったからかもしれませんが、生理中は周りにバレないかとすごく気にしていました。今は下着や生理用品の選択肢も増えましたが、そこで大変な思いをしている女の子はいると思います。親のすすめで看護師になるも、人と働くことの複雑さに悩む――高校では看護のコースに進み、その後専門学校を卒業して看護師として働き始めたとお聞きしました。なぜ看護師になろうと思ったのですか?沖田:これはもう親の刷り込みですね。家は自営業のラーメン屋、母親は「とにかく手に職をつけろ、看護師がええ」「とりあえず女は免許を取ったら一生食いっぱぐれないし幸せになれる」ということを口癖のように言っていました。わたしは一生一人でいいやと思っていたし、特になりたいものもなかったので、親がやれっていうならやったほうがいいのかなあと受け身で選択しました。結果、大失敗でしたけど(笑)。Upload By 姫野桂――大失敗ということは、看護師の仕事はうまくいかなかったのでしょうか。沖田:看護師に限らないと思いますが、まず社会に出たときの人間関係の複雑さには困りましたね。はっきりした役割もないし、「この人はフレンドリーに話しかけてくれるけど内心は違う」とか、「実はこの人たちは敵対しているから、聞いた悪口をそのまま伝えちゃいけない」とか、そういう暗黙のルールが全くわからなくて。わたしが入ってきたことにより、職場の人間関係がめちゃくちゃになってしまうこともありました。聞かれたことに答えていただけなので、どうしてわたしのせいだと言われるのかもわかりませんでしたが、気がついたら自分が嫌われてしまっていたという…。日によって相手のテンションが変わることにも対応できませんでした。昨日同じことをやって「うん」と言っていても、翌日は機嫌次第で「ダメ」となることもある。そうなると、もう何もできなくなってしまいました。わたしの場合は、最初に教えてもらったことが一生のマニュアルになってしまって、新しいルールが加わってもアップデートできないんです。「タオルを畳む」という作業ひとつとっても、前に勤めていたところで覚えた畳み方を、いくら注意されても繰り返してしまって。自分としては丁寧に畳んでいたつもりでも、職場の人にとっては使い勝手が悪くて迷惑だったみたいです。そういう認識のズレを、当事者はわかっていない。就職しても、そういうところでつまずいてすぐに辞めてしまう人もいると思うので、できれば学生のうちに、コミュニケーションのとり方の基礎を教えてほしかったです。学校でSST(ソーシャル・スキル・トレーニング)も受けられたらよかったんですが、当時は先生たちも知らなかったんだろうと思います。参考: LITALICO発達ナビ「ソーシャルスキルトレーニング(SST)とは?支援の対象、方法、気をつけたいポイントについて」 By 姫野桂22歳ではっきりと「人と違う」ことを自覚する――沖田さんは、漫画家になる前に性風俗で働いた経験についても、コミックエッセイで描かれています。沖田:看護師として働いている途中から、昼は病院、夜はおっぱいパブという働き方をしていました。看護師時代はワーカホリックで、「働いていないと生きている意味がない」と感じることもあったんです。当時はお金を貯めることが唯一の生きがいになっていましたし、肉体労働としての共通点も感じていたので、あまり抵抗もなくおっぱいパブで働き始めました。それまではあまりにも人のことに興味がなかったので、わたしなりに「人間を知りたい」とも思っていたんです。お客さんには「明日結婚するから最後に遊びに来た」「嫁さんがもうすぐ出産で、しばらく性的なことはできないから来た」などと話す人がいたり、社会的地位は高いけれどマナーの悪いお客さんもいたりして、「人って、普段外から見える部分だけではないんだ、いろんな要素が固まって人格になっているんだな」ということを知りました。これは、後々漫画をつくるにあたって非常に役立つ考察になりましたね。Upload By 姫野桂沖田:風俗の仕事は、中身のある会話をしなくていいところも息抜きになりました。60分チヤホヤしたら対価がもらえるというのが、シンプルですごく性に合っていたんです。同僚の女の子たちとの希薄な関係も好きでしたね。仮の名前や性格でも通用する世界は、とても気が楽でした。それでも、当時は看護師をメインの仕事に据えていました。本当は看護師の仕事に一生を捧げたかったんですが、正看護師として美容整形科で仕事を初めて3日目ぐらいで、初めて「人と違う」という自覚が出てきたんです。22歳のときでした。――「人と違う」というのは、どういう感覚ですか?小学生での、周りがロボットに思えるという感覚とは違うものでしょうか。沖田:日本語はわかるのに、相手が何を言っているかわからないことが多々あったんです。みんなが何か一言言われるだけで動けているときに、自分だけわからないという問題が、すごくはっきり出てきました。学生時代は「わたしはいいかげんな性格だから」とすませていましたが、国家試験にも受かって准看護師から正看護師になっている今回は、「あれ?」と思いました。そのとき、自分の頭にはごそっと何かが足りなくて、それが補えずに苦しんでいるんだなとぼんやりわかったんです。それでも、具体的にどんな風に困っているのかはどうしても説明できませんでした。――すでに診断されていた発達障害とは、沖田さんの中で結びついていなかったのですね。沖田:今になってみれば、それが発達障害を自覚したときだったと思うのですが、当時は自分に発達障害があるということも全部頭から抜けてしまっていましたね。わたしには、自分と特性の似た、不登校経験のある弟がいて。彼みたいな状態こそが「発達障害」なのだと思っていたんです。弟とは似ているところも多い分、昔はすごく嫌っていたので、かえって発達障害フォビア(憎悪)のようになっていた面もあると思います。そうやって、原因はわからないながらも自分は人と違うんだと思っていたころ、同い年の看護師の先輩に「本当に役に立たないね」と言われたんです。同い年だから余計につらくて。その人に「死ね!ハゲ!」などと言われたときに、「もう死んじゃおう」と、一度自殺未遂をしてしまいました。ロープが切れて自殺には失敗し、「ああ、今日死ぬ予定だったのに死ねなかった」とがっくりしました。でも「とりあえずルーティーンをしよう」と、いつも通り病院に行ったんです。上司に怒られながら仕事をして、家に帰ってからはめちゃくちゃになった部屋を片付けていたら、なんか、やっと…「わたし、病院以外のところでも生きていけるかもしれない」と思い始めました。その日からが、おまけの人生みたいな感じになったのかな。トーン貼りにハマり、4コマを描いたのがきっかけで漫画家に――その後はどうされたのですか?沖田:これをきっかけに本格的にリセットし、親の手の届かない、知らない土地でイチからやり直そうと、看護師を辞めて名古屋へ向かいました。23歳のときです。しばらくはまた性風俗業で働いていたのですが、当時の彼氏が漫画が好きで。彼の持ってきたルポ漫画がものすごく面白くて、ファンレターを送ったのが、現在の夫との出会いでした。電話をしたり、会って話したりする中で、夫がわたしを面白いと気に入ってくれたようで。東京に来ないかと誘われたときは一瞬考えましたが、そのほうが面白そうだと思って行くことを決めました。そのときはまだ、漫画は何もやっていません。夫と一緒に暮らすようになったときに、初めて漫画のトーン貼りを手伝って、「もっとない?」「わたし一生これで生きていく!」と言うぐらいハマってしまいました(笑)。Upload By 姫野桂――トーン貼りを手伝っていたところから、どのようにしてご自身も漫画家になろうと思ったのでしょうか。沖田:ある日、わたしがあまりにも「暇だ」と言うので、彼が4コマの枠だけを出して「これで何か描いてみてよ」って言ったんです。そうしたら、わたしは5分で書き上げたらしくて。それを見た彼が「お前、漫画家になれ」って。そのたった一言で漫画家になりました。わたしはコマが4つしかないからラッキーと思ったのですが、4コマ漫画って描くのが難しいらしいんですね。その時点で、漫画の基礎ができていたみたいです。ただ、絵は全然ダメで。4コママンガの中でキャラクターがどんどん痩せていって、4コマ目には別人になっているんです。左右の区別がつかないので、指の位置を逆に描いてしまうこともありますし。書けない文字がたくさんあることにも、漫画を描き始めてから気づきました。自分で漫画にセリフを書き込んだら、4コマ漫画なのに30個も赤字で修正が入っていたんです(笑)。とくに横の線は苦手で、ペンネームである沖田×華の「華」の字も3年ぐらい間違っていました。同じ字を何度も修正しているうちに、「見え方が他の人と違っているようだ」ということにもやっと気づきました。横線が動いたり、滲んだり、広がったりして見えるんですよ。どうも明朝体はダメらしくて。学習障害の一種であるディスレクシアも、そこで初めて自覚することになりました。ゴシック体だと理解できることは、最近わかりましたね。Upload By 姫野桂漫画家になったのは、「異世界転生」レベルの変化。湧いてくるアイデアをすくい、編集者と仕分けして漫画をつくる――他のお仕事も経験した上で漫画家になった沖田さんですが、漫画家という働き方はいかがでしたか?沖田:まったく怒られなくなったのには驚きましたね。締め切りを守るのは大前提ですが、わたしが出したものに対して、基本的に誰も文句を言わないんですよ。本当は不満もあるのかもしれませんが(笑)、言ってはこない。それがすごく新鮮で、別の世界に転生してきたようなレベルでしたね。どの仕事も、つまずくときは仕事内容そのものというより人間関係ですよ。漫画家のすごくいいところは、上司も部下もいないところですが、代わりにアシスタントや編集者との関わりがあります。わたしの場合、デビュー時に、同業者である夫が、アシスタントや編集者とのコミュニケーションの仕方を教えてくれました。わたし、アシスタントのことを友達みたいに思っちゃうんですよね。「疲れました」と言われたら「あ、いいよ、それやっておくよ」と言うような、なあなあの関係になってしまう。仕事をしてくれるのが嬉しくて、アシスタントの言うことをどんどん聞いてしまうんですが、本当はそういうのはよくないんですよね。仕事上の立ち位置を理解するのは、少し難しいです。漫画をよいものにしていく中で、修正を編集者から頼まれることもあります。「ここはこういう風に直してほしい」と言われた際、最初に思ってしまうのは、「この人はわたしのことが嫌いだからこんなことを言うんだ」ということなんです。そういう考え方のクセがあるんですね。でも、そうやって友達みたいな関係として捉えていると、「じゃあわたしも嫌いになってやる!」となってしまうので、作品をつくる上でよろしくない。そういうときは、夫が「編集者は友達じゃありませんよ」「仕事だから仕方なく!」って教えてくれるんです。そう言われると、編集さんが調子の良くない日もニコニコしたり、ご飯を一緒に食べたりするのも理解できて、関係性をとらえ直せます。そして、「そっか、これは仕事なんだ」「漫画をよくするための直しの要求なんだ」と納得して、うまく仕事のやり取りができるようになるんです。夫はいつも、自身の昔のしくじりを元に、怒鳴らずいろんな方向から説明してくれますね。Upload By 姫野桂――漫画を描くときに、どんなことを考えているのかもぜひお聞きしたいです。最近では、4コマやコミックエッセイだけでなく、ストーリーものの漫画も描かれていますよね。沖田:ストーリー漫画を描くことになったときは、どうやって描けばいいんだろうと途方に暮れましたね。編集担当さんが、ものすごく根気よく教えてくれました。先日、最終回を迎えた『透明なゆりかご』は、ネームにすごく時間がかかっていました。わたしは、そのコマ1つに一点集中型。今どんな話が広がっているのか、描いている最中はまったくわからないんです。それを見て、編集さんが「あ、見えてきました」とか言うので、わたしは「何も見えないじゃない」と思うんですが(笑)。これで話が繋がっているのかなと半信半疑で描いて、いざ掲載されたものを見ると、ちゃんと漫画になっているんですよ。そういうズレみたいなものがあります。だから、わたしは編集さんに「直して」と言われたら、「はい」と直すんです。多くの漫画家さんは、自分の作品への愛ゆえにこだわりがあって、編集者と衝突することも多いと聞きますが、わたしはまったくそういうことはなく。その道のプロである編集さんのほうが正しいだろうと思うんですよね。――そこを割り切っているのはすごいですね。沖田:ADHDの特性なのか、自分が描いたキャラクターや、その名前も忘れちゃうんですよ。キャラクターが5人程度でも、過去の単行本を引っ張り出してキャラを確認しています。『透明なゆりかご』については、読者さんから「泣いた」という感想をよくいただきますが、自分は泣いたことがなくて。他人のことが描かれているのに、なぜ泣くのかは不思議なのですが…きっと何か、思うことがあるんですよね。わたしはそういった共感がなく、看護師としての経験があるとはいえ、妊娠・中絶は経験していませんが、「それでも描けるんだ!」と今回わかりました。だからといって、適当に描いているわけではないんです。ADHDの脳みその特徴のようなものだと思うのですが、常にアイデアがポコポコとあぶくみたいに出ている状態で。それをすくってポイッと出し、編集さんと一緒に仕分けするのが、わたしの漫画の描き方です。今は、20ページぐらいの漫画であれば半日ほどでストーリーの構成ができるようになりました。Upload By 姫野桂自分よりも大切なものができて、仕事に「全て」を賭けなくなった――働く中で発達障害だと自覚し、仕事も変えて年を重ねてきた沖田さんですが、最近新たに気づいたことや変化したことはありますか?沖田:40歳に近くなって、性格がいい意味ですごく変わりましたね。昔は弁当に柴漬けが入ってなかったとか、そういうちょっとしたことで「わたしの今日1日を返せ!」ぐらいに怒っていたんですが、丸くなったというか。上京して夫と一緒に住み始めてからは、心のざわつきがあまりなくなりました。また、以前は「他人のことはわからなくて当たり前、それで相手に不快な思いをさせても仕方がない」と思っていましたが、最近は「向こうの心を知ろうとしたほうが、もうちょっと楽にコミュニケーションが取れる」というふうに考え方が変わってきました。歩み寄りが生まれているような気がします。それはきっと、自分よりも大切なものができたからなんでしょうね。昔は「若くて元気で整形もしていて、いっぱいお金を貯めている自分大好き!」だったのが、今はパートナーだったり親だったりを大事にしたいという気持ちが出始めていて、自分のことは別にいいかなと。好きなことをやり尽くした感じがあるからかもしれません。Upload By 姫野桂――では、仕事についての考え方も変わったのでしょうか。以前はお金を貯めることが生きがいで、「働いていないと意味がない」と思っている時期もありましたよね。沖田:今は、あまり仕事に人生を賭けないほうがいいと思っています。あくまでも仕事は仕事で、人生の一部。あまりにも仕事だけに集中していると、うまくいかなくなったときに墓穴を掘って爆発しちゃうこともあるので、やりたいことや趣味をいっぱい見つけたほうがいいかな、と思います。たしかに仕事はお金を稼ぐ上で大切なのですが、わたしにとってのおっぱいパブのように、ちょっと副業をかじってみたり、息抜きになるものがあったりしてもいいと思うんです。――ありがとうございます。先ほど自分の好きなことはやり尽くしたというお話がありましたが、何か今後やってみたいことはありますか?沖田:『透明なゆりかご』でも描きましたが、最近はコロナ禍の妊婦さんに取材をしていて。ある方は仕事を切られてしまい、車に1人で暮らしながら、大きなお腹を隠して臨月までUberEatsの配達員をやっていたんですよ。そういった行き場のない妊婦さんに住まいをつくるプロジェクトは、クラウドファンディングなどでもいくつかあるものの、数が圧倒的に足りていない。その方を少し支援しながらこの状況を見て、もっと手軽に困っている妊婦さんを支援できないか、滞在できるような施設をつくれないか、と思い始めているところです。また、話に出てきた弟は今、グループホームに入っているのですが、そういった施設やその住人は、社会から排除されやすいところがあります。開設に反対する近隣住民に、職員が菓子折りを持って回ったという話も聞いたことがあって。何も悪いことをしていないのに、なんでそんなに嫌がるものなんだろうと不思議なんです。だから、そういったことを『毎日やらかしてます。』シリーズで描いたり、グループホームを兼ねた何か大きなところをつくったりして、発達障害のある人が困らないような場所をつくりたいなと漠然と考えています。――最後に、進路について考えている読者にメッセージがあれば、お願いします。沖田:学生なら、親と先生、先生と子ども、みたいに、1対1でやりとりをするとスムーズなんじゃないかと思います。小さいときから自分を知っている親って、近すぎるんですよね。話し合いや進路の相談のときに、自分からしたら関係ないような昔の話も引っ張り出されることがありますし。わたしもマザコンなんですが、あんまり親の言うことは聞かんでもいいかなって思います(笑)。親だけに頼らず、できれば仲のいい先生をつくっておくのもいいかもしれません。わたしの場合は、同性のおばあちゃん先生が話しやすかったです。保健の先生も仲良くなっておくといいかな。わたしは専門学校卒ですが、金銭的に余裕があれば大学に行くのがおすすめですね。大学に入ることで、もっと選択肢が広がって、社会的にも学べる気がするので。学生のときって、自分のやりたいことをすごく集中してやってみたいときもあるじゃないですか。悪いことでなければ、それに没頭するのもいいと思います。Upload By 姫野桂明るく軽快に話してくれた沖田さん。仕事以外で趣味や好きなことを見つけたほうがいいという点には、個人的に「自分には何があるのだろう」と考えさせられてしまいました。しかし、年を重ねるにつれて、その回答がちょっとずつでも見えてくるのかもしれません。取材・文:姫野桂編集:佐藤はるか撮影:鈴木江実子
2021年04月18日『保育所等訪問支援』って何?保育所等訪問支援とは児童福祉法に基づくサービスのことです。保育園や幼稚園、認定こども園、学校、放課後児童クラブなど、子どもが日常的に通い、集団生活を営む施設を専門の支援員が訪問して、子どもの特性に周囲の環境や活動の手順などを合わせていくことで保育や教育の効果を最大限に引き出すサポート体制の構築を目的としています。担任の先生などと意見交換や情報共有なども行ってもらえたり、保護者にも適切なかかわりや支援方法などの情報共有もしてもらえます。料金は事業所への報酬の1割(1回あたり1000~2000円)が保護者負担となります。ただし2019年の法令変更により、満3歳になって初めての4月1日から3年間は無償で利用できるそうです。参考:厚生労働省,保育所等訪問支援の効果的な実施を図るための手引書Upload By ウチノコ保育園の未満児クラスに所属していた3歳のときに、むっくんはADHDと自閉症スペクトラムの診断を受けました。私にとってむっくんの保育園生活は順調とは言えず、担任の先生と相談し合うことも度々。何をしたらいいのかもわからないまま、手のかかるむっくんが年少さんになる…私の不安は膨らむ一方でした。わが家の利用のきっかけUpload By ウチノコUpload By ウチノコそんな時、主治医から「保育所等訪問支援事業」という制度を教えてもらいました。悩みの突破口が見つかるかもしれない…!そんな気持ちで保育所等訪問支援をお願いすることに決めたのです。Upload By ウチノコどうやって受けるの?住んでいる地域や発達支援施設などによって、細かい手順は異なるかもしれませんが、参考までに私の場合として記載します。この手続きはなかなか大変でした!むっくんは3歳から6歳の間に何度か保育所等訪問支援を利用しています。初回は主治医からの勧めで利用しましたが、二回目以降は事前に保育園に相談、更にむっくんにも伝えて本人の同意をもらってから、主治医や発達支援施設に相談し利用しました。保育所等訪問支援では、通っている施設(むっくんの場合は保育園)に専門の支援員が派遣されることから施設側にも負担が発生します。そのため、利用にあたり施設側の理解と協力が必須です。この協力体制を作ることが私の大切な役割だったように感じています。私はまず保育園の園長先生と担任の先生に、保育所等訪問支援を利用したいことを伝えました。幸い私の場合はむっくんに理解のある先生方に恵まれており、私の不安や保育園側の困り感も共有できていたため、利用をとても好意的に受け止めてもらえました。Upload By ウチノコ地域の役所へ行き、手続きの説明を受けました。保育所等訪問支援事業を受けるには、療育手帳や発達支援サービスの受給者証、もしくは主治医の意見書が必要です。むっくんの診断では療育手帳を取得できないので、発達支援サービスの受給者証の取得手続きも並行して行いました。保育所等訪問支援の利用開始のためには●役所に提出する「障害児支援利用計画案」●集団生活を営む施設(むっくんの場合は保育園)にて作成の「意見書」●発達支援施設にて作成の「保育所等訪問支援実施計画」といろいろな書類が必要で、正直少し戸惑いました。Upload By ウチノコ保育園に面談をお願いし、支援の必要性や現在の状況を記載する保育園からの意見書を依頼しました。また、役所に提出する障害児支援利用計画案作成に必要な情報を聞き取り、今後の発達支援施設との面談のためにむっくんの集団生活の様子なども詳しく教えていただきました。発達支援施設へ行き、担当の訪問支援員さんにむっくんの普段の様子を詳しくお伝えしました。この聞き取り内容を元に、発達支援施設と保育園が連絡を取り合い協議の上、保育所等訪問支援事業計画書を作成するそうです。Upload By ウチノコこれでようやく訪問日を調整するところまでたどり着きました。ご覧の通り、保育所等訪問支援を受けるために初回は特にたくさんの手続きに追われます。診断直後の動揺の中、保育園と発達支援施設と役所の間に立ってやり取りすることはとても大変で…くじけそうな気持ちにもなりました。でも振り返ってみると、あの時期に保育所等訪問支援を受けたことが、私と保育園の関係をより良好にしてくれました。また、むっくんにも集団生活を送る上で強い支えになったと感じており、本当に利用してよかったと思っています。次回は初回保育所等訪問支援で学ばせてもらった、今でも「私が大切にしていること」をお届けします。Upload By ウチノコLITALICO発達ナビ無料会員は発達障害コラムが読み放題!
2021年04月17日服も靴も帽子も...赤ちゃんのころから限られたものしか着られなかったコト子Upload By koto小さなころは靴選びに苦労しました。娘はスリッポンタイプの靴が苦手で、療育園の上履きも2歳ころまで履くことができませんでした。療育の先生と二人がかりでも、履かせることができなかったのを覚えています。また、筋肉の緊張が強いタイプだったので、爪先の力を抜くことが難しく、長靴も途中でつま先が引っかかってしまい、履くことができませんでした。小さな子が長靴を履いている姿はとても可愛く、わが子の長靴姿を見たかったなぁと今でも思います。洋服も、タイトなものは嫌がってなかなか着てくれないので、ゆったりとした物ばかり着せていました。赤ちゃんのころは前開きのロンパースしか着せることができず、頭からかぶるタイプの服は暴れて嫌がるので、着せることができませんでした。帽子などの頭に乗せるものも極端に嫌がっていたので、きっと頭や顔まわりに服が触れる感覚が嫌だったのかもしれませんが、当時はまだ感覚過敏などの知識はなかったので、頭からかぶるタイプの赤ちゃん用の洋服は皆どうやって着せているのか、ただ疑問に思っていただけでした。「着替えやすさ」もポイントに加わって...服探しと、工夫の日々Upload By koto一人で園に通うようになると、洋服選びにはより一層気をつかうように。自分で着脱しないといけなくなったので、少しでも着替えがしやすいように、洋服はゆったりとしたものばかりになりました。首元がゴムだったり、袖もゆったりとしているスモックのような服がよかったのですが、ちょうどよいものを探すのは大変でした。ボトムも着替えやすいように、サルエルパンツのようにダボっとしたものを履かせていました。他の子たちはスリムジーンズなどを履いていたので違いを感じました。また、一人で着脱するにあたり、洋服の前と後ろを認識させる必要があったのですが、スモックのような服は前にイラストや目印が付いてないものが多く、娘が前後を間違わずに着ることは困難。そのため、上下の服にそれぞれリボンなどを私が縫い付けていました。そのリボンを目印に付けたことで、前後間違えて着ることは少しずつ減っていきました。ただ、スモックばかり着ていたので、担任の先生に「コト子ちゃんはスモックが好きなのですか?」と聞かれ、そういう形の服しか選択肢が無い事を説明したことも。幸い、今の園は服装が自由なので助かっていますが、毎日制服を着る幼稚園のような場所での生活は、3歳ごろまでの娘には難しかっただろうと思います。一人で脱いだり着たりができるようになっても、相変わらずタイトな服は嫌がることが多かったですが、一度着てしまうと平気な様子だったので、休日は私が着替えを手伝うことで、少しタイトな洋服も着て過ごすことができるようになっていきました。また、注意力のなさや多動の特性があり、洋服がかなり汚れたり、破れたりすることが多かったので、とにかく素材が丈夫で動きやすいつくりであることも洋服選びのポイントの1つでした。なので、丈夫で動きやすいつくりの物が多い男児向けの服もよく着ていました。当時コト子は恐竜やゾウ、ライオンなどの動物が好きだったのもあり、男児向けの服も気に入って着てくれたので助かりました。感覚過敏が和らぎ、お洒落を楽しむ子に!Upload By koto今でもタイトな服は一人で着るのが難しいようですが、4歳半ごろからお洒落に目覚めたコト子!多少着心地の悪い服でも、デザインが気に入った物は好んで着るようになり、難しい着替えも努力して1人でこなすように。まだ、何かに夢中になると注意力が散漫になるため、服を汚したりダメにしてしまうこともときどきありますが、以前と比べると「服を大事にする」という意識は芽生えているようです。感覚の過敏さについても、今でも自転車のヘルメットなどは多少嫌がるものの、療育園や公園で泥遊びや砂遊び、水や粘土を使った感覚遊びを積極的に行っている内に、少しずつ薄れてきたように感じます。お洒落が大好きな娘、以前は髪を触られるのも極度に嫌がっていましたが、「可愛い髪型にしてあげる」と言うとじっと座って我慢していたり、自分で服をコーディネートしては私にアドバイスを求めてきたり、本人のセンスで楽しんでいるようです。これからも本人と相談しながら、着るものを選んでいきたいと思います。
2021年04月16日園から30分間、帰れないこともASDの長男ミミは、生後7ヶ月から会社の提携保育園に入園し、1歳3ヶ月で自宅から自転車で5分ほどの保育園に転園しました。2歳くらいになると毎朝のように登園を嫌がるようになりました。直前までご機嫌だったのに「行くよ~」と声をかけると、部屋の隅に行って「行かない!!」となり、家を出るまで10分以上かかることもよくありました。逆に保育園を出るのも大変で、30分以上かかるときもありました。翌日の服やオムツなどの支度が終わって一緒に階段を降りると、また階段を登り、降りては登るを繰り返す。他の親子はスムーズに見えるし、「大変ですね」と言われることもありました。すると通りかかる先生方がミミにニコニコ声をかけてくれ、やっと靴を履けたときは先生方が神様に見えたものです!やっとの思いで自転車まで行くと、今度はペダルをカラカラ回さないと気が済まない。難関をいくつも突破しないと帰れませんでした。せっかく会社から早く帰ってきたのに…とイライラ。ミミは保育園が大好きでもっといたかったのかも。時間に余裕を持ち、「1時間で帰れれば良いや」ぐらいに思えたらイライラしなかったかもしれないです。Upload By taeko園での教室と先生が変わって保育園から療育を勧められる前後のころのことです。早生まれのミミは3歳2ヶ月で進級。園での部屋が変わり、先生も前年度の先生が2人とも退園してしまい、ミミにとってはものすごい変化でした。新しい先生や新しい環境のなか、ミミはおもちゃを投げることが増えました。家でも園でも投げてしまうので、その都度「おもちゃがこわれる、おもちゃがかわいそうだよ」と伝えました。周りからすると、あまりに唐突に投げるので何が何だか分からず、頭に???が浮かびます。もしかしたらミミは投げてみたかっただけかもしれないけど、周りの人に当たったら危ないので投げる行動を減らしてほしい一心でした。園で木製のおもちゃを投げたら自分の顔にぶつかって、鼻血が出たこともありました。Upload By taekoお友達を噛んでしまった園から療育を勧められ、最初の面談を半年待つことに。初めて聞いた「発達障害」について知るために本を読み始めたころ、ミミが園でお友達を噛んでしまいました。先生はとても丁寧に状況を説明してくれました。ミミが絵本に夢中になっていたときにA君が話しかけてきて、ミミは「待っててね」と言ったけれど繰り返し話しかけられて噛んでしまったとのこと。先生はミミの気持ちを代弁しながらも、「噛むことはいけない」と伝えてくれたそうです。その日の帰り道は、頭が真っ白になりました。療育本には、一度注意すれば良いとありました。その場で注意しないと、後から言われても本人は覚えていないのでなぜ怒られているのか分からないそうです。それでも私は言わずにいられず、帰宅途中に立ち止まり「噛んではいけません」と低い声で言い、その後は無言のまま帰宅。ミミと関わりたくない、関わり方がわからないと思い少し離れて歩いていましたが、ケロッとしているミミを見ると怒りがわいてしまいました。この年頃の子どもは言葉でうまく伝えられず、噛んでしまうことがある。成長とともに、数年で落ち着く。そう今なら分かるけれど、当時の私は毎日お迎え時に先生に「今日は何もなかったか。噛まなかったか」を確認して、安堵したり溜息をついたりしてばかりいました。Upload By taekoゆっくりと成長を見守ろう月1回の療育と週1回の民間療育に、卒園まで2年半通いました。その間に噛む、叩くなどの他害はたくさんありました。その都度、「同じ対応を繰り返し続ける」ことを心がけました。私は療育と出合って、ミミの特性について調べたり、さまざまな人に相談しサポートしていただいたりして前向きになることができました。そして、親が笑顔でいることが大事だと気づきました。このコラムを描きながら保育園時の連絡ノートを見返していて、こんなこともあったなと大変だったことを懐かしく思い出しました。Upload By taeko
2021年04月15日注意するときは、絵カードで。広汎性発達障害の娘は、現在小学5年生。小さいころは言葉のコミュニケーションが苦手で、言葉でなかなか伝わらないときは絵カードをよく活用していました。3歳~4歳ぐらいのころは、買い物に行くとき、スーパーに入る前に…Upload By SAKURA『お菓子は、買いません』『ママから離れません』『走りません』の絵カードを見せてから、中に入るようにしていました。視覚優位な娘は、言葉で説明するより、絵で見せる方が理解も早く、しっかり守ることもできました。そんな娘が、幼稚園に通っているときのお話です。先生の指示に、反応できない。幼稚園に娘のお迎えに行ったとき、先生から、「おやつ、着替え、移動などの声かけ時に、一人、その場から動かず、みんなが移動した後に、先生が迎えに行ったり、お友達から手を引かれて行動したりしている…」という話を聞きました。Upload By SAKURA娘は、先生のいうことを無視していたわけではなく、先生が言ったことの意味がわからなかったのでしょう。みんなが動いたら、一緒に動く…という周りの行動を見て考えることも苦手だったので、どうしていいかわからず、その場に残っていたのだと思います。娘の特性がわかっている私には想定内だったのですが、園の中では、やはり一人先生の言うことを聞かない子として映ります。私はそのことで、娘が周りに輪を乱すと思われたり、孤立したりしてしまうことが心配でした。絵カードをつくり、持たせてみた。私たちは、幼稚園に入園するときに、言葉でのコミュニケーションが苦手なこと、絵で描くとわかりやすいことは伝えていたのですが…Upload By SAKURA娘一人のために、『絵を描いて説明してください』というのは、なかなか言いづらい…。そこで私は、先生から聞いた話から、園生活の1日の中で指示されるだろう言葉を絵にしたカードをつくり、娘のリュックの中に入れました。使われた様子はなし…翌日、早速先生に、絵カードのことを説明しました。しかし数日経っても、使ってみたという報告はない…。Upload By SAKURA出過ぎた真似だっただろうか…使ったかどうか確認したり、何度もお願いしたりするのも気が引ける…先生も忙しいから、わざわざ見せる時間がないよね…と自分を納得させ、そのままリュックの中に入れ続けました。いつの間にか、娘が…しばらくすると、娘がリュックの中のカードに気がつきました。当時、少しずつしゃべれるようになっていたこともあって、自分でカードを見ながら、一つひとつ確認するようになりました。Upload By SAKURAそれ以降、先生の指示に固まっているという幼稚園からの報告はなく、どうなったのかなと気になりつつ、そのままにしていました。遅れてはいるけれど、先生からの指示に反応できるように!それからしばらく経ったころ、幼稚園に早めに迎えに行き、帰りの会をいつもより長い時間みていると…Upload By SAKURA先生の指示にワンテンポ遅れるものの、なんとかついていこうとしている娘の姿を見ることができました。園でカードを使用してもらった訳ではありませんでしたが、つくったカードを見てことばを確認していたことで、娘自身がその言葉に反応できるようになっていたようでした。意図せぬところで、効果を発揮した絵カード。私の場合、先生が使うことはありませんでしたが、言葉での指示を聞くのが苦手だという子は、絵カードを持参していくのもいいかも!わが家のように、意外なところで効果を発揮するかもしれません。
2021年04月14日赤ちゃんよりも大変(ほぺろう当時3歳)。慣れるのに1年かかった母子分離自閉症と知的障害のあるほぺろうは5歳の今でも発語なし。そんなほぺろうが保育園に入園した当時は まだまだ癇癪が激しい時期で、園生活には不安しかありませんでした。通常は「保育園は安全」「ママはちゃんと迎えに来る」と理解すると少しの期間で園に慣れていくものですが、自閉症のほぺろうは適応が苦手、また知的障害もあるため3歳だと言うのに「入園」の意味を全く理解していませんでした。そのために、場所見知り、人見知りも激しく、母子分離がなかなかできませんでした。同じ保育園に預けられている乳児クラスの赤ちゃんよりも大変だったのではないかと思うほどです。結果、泣かずに当園できるようになったのは1年経った年中からでした。Upload By ぼさ子ほぺろうは「加配希望」の為、専属の先生が付きっきりで面倒を見てくれました。クラス活動中もほぺろうが癇癪を起こせば別室に連れて行き、落ち着くまで付き合ってくださったり、精神安定剤になるオモチャを自宅から持ち込ませてもらうという特例措置を取ってくださったりといろいろ対策を考えてくれました。すぐに癇癪を起こすほぺろうは クラス活動の妨げになったり、先生を休む間もなく付き合わせたり、指示も通らないし、泣き声の爆音で園全体に迷惑を掛けていることは明らかでした。覚悟しての入園とは言え、私は大変な罪悪感を持っていました。Upload By ぼさ子偏食がもたらす苦労偏食が激しいほぺろう。食べられる食品は数えられるほどで、基本的に茶色いものしか受け付けません。なので、せっかくの給食も食べてくれるものは少なく、そうなると空腹で余計に機嫌が悪くなっていました。お腹が空いているせいでお昼寝もままならず、みんなが眠りたいのにギャーギャーと騒ぎ立てていただろうと想像できます。Upload By ぼさ子あと、遠足の日は手づくりのお弁当なのですが、周りの子はみんなカラフルで可愛いお弁当なのに対し、ほぺろうだけ「茶色一色弁当」でチョット恥ずかしかったです。園生活を助けてくれたのは、情報共有と動じない先生入園するにあたり、私は「ほぺろうの特性・癇癪対策・発達クリニックでの診断」を記入したノートをつくって保育園の先生と情報共有しています。最初は書くことがたくさんでノート作成が大変でしたが、「こうするとほぺろうが心を開きやすい」などの対策に保育園側も協力してくださったおかげで、ほぺろうも次第に加配の先生に懐くようになりました。保育園で心を許せる大人ができたのはとても大きいことでした。Upload By ぼさ子こちらの保育園は障害児受け入れの経験が多い為か、ほぺろうの行動に対しても動じない先生たち。そのおかげで先生たちへの信頼は最初から持つことができていました。私が良いなと思ったのは「ほぺろう君は“障害があるので“優しくしましょう」みたいな雰囲気がなかったこと。甘えさせるのも叱るのも他の子と同じ!特別扱いがないからこそ周りの子も動じることなく ほぺろうに接してくれていたと感じます。『人に頼る』ことを学んだおかげで年少時代を乗り切れた最初のころは ほぺろうの扱いにくさに罪悪感いっぱいで、毎日先生に謝ってばかりいました。でも、先生の懐の深さに甘えさせてもらっているうちに「母一人で解決しようとしてもどうにもならない。ほぺろうの育児は人の助けが必要」と割り切れるようになってきました。それからは、ほぺろうの躾に躍起になるより『気持ち良く人の手を借りられるにはどうしたら良いか?』という意識になってきた気がします。ほぺろうが他の子より手を焼く事実は変わりませんが、先生や周りの方々には謝罪より『感謝』することの方が多くなりました。保育園生活は、ほぺろうだけでなく私のことも成長させてくれています。Upload By ぼさ子ようやく母子分離に慣れてきたけど…喋れないほぺろうの代わりに 毎日保育園でのできごとを話してくれる先生。楽しいことも困りごともきちんと教えてくれる先生のおかげで、初期は罪悪感で緊張していたお迎え時間も、ときが経つごとに母のお楽しみタイムに。入園したてのときと比べたら、私自身も大分、肝が据わってきたかも?と感じます。Upload By ぼさ子ようやく慣れてきたと思ったら、もう年少の年度末になっていました。進級による教室替え・加配の先生の担当替えの不安を抱えつつ、『年中さん編』を来月のコラムで紹介したいと思います。
2021年04月13日他の生徒からの「えこひいき」発言ににうまく返答できなかった私は3年前まで学習塾で指導をしていました。2年生のクラスを担当していたとき、おそらく学習障害があると思われる生徒に特別メニューで課題を与えていたところ、ほかの生徒たちから意見が出ました。問題は、1年生学習範囲の「9+3」などの一桁同士の繰り上がりの問題など易しくし、宿題量も減らしていました。するとほかの生徒から「問題も簡単だし、宿題も少ない。立石先生はえこひいきしている、ずるい」と。さらに「あの子はバカだ。頭悪い」とほかの子たちは囁きました。言われた子はその場で周りに気づかれないようにシクシク泣き出しました。算数のプリントが涙で濡れました。私は囁いた子を別室へ連れて行き叱りました。どういう言葉で叱ったか忘れてしまいましたが、「それは言ってはならないことだよ」ともし言っていたとしたら、子どもたちは口には出さなくても、ますます、その子のことをバカにしたでしょう。違う課題を与えていたことをうまく説明が出来なかったことだけは記憶しています。幼児クラスでも同様幼児のクラスでも同様のことが起りました。発達障害特性がある子どもで、落ち着きがなく教室内を立ち歩くことがありました。私が「皆と同じ」を強要することなく許していたら、家に帰って「先生はえこひいきしている」と保護者に訴える子が出てきてしまいました。そこで次のように言いました。「背が高い子、低い子、走るのが速い子、遅い子、給食をお替りする子、しない子。眼鏡をかけている人、いない人、人間はみんな一人一人違います。うまくできることとできないことがそれぞれあります。椅子に座るのが得意な子も苦手な子もいます。○○君はじっと座っていることが苦手だけれども走るのが得意です。だから立ち歩いてしまっても、○○君は走りたいのをグッとこらえて頑張っているのだから先生は叱っていないのよ」ですが、子ども達が納得できたかどうかは定かではありません。マザーテレサの言葉に「できないのではありません。できることが違うだけです」とあります。もしかしたら、この言葉を入れたら納得したのでしょうか。難しい問題です。合理的配慮はずるいのかあるテレビ番組で見た光景です。クラスに学習障害(LD)のあるA君がいました。文字が読めないので、担任はテストの時間はその子だけ教卓の横に座らせ、先生が問題を読み、答えを口頭で聞いて○×を付けていました。するとほかの生徒たちから「ずるい!僕も先生の横に座りたい!」と文句が出ました。困り果てた担任は「この子だけ特別扱いはできない。えこひいきになってしまう、そうしたらいじめにあってしまうかもしれない」と感じ、個別対応を諦めました。近視の子に眼鏡を禁止して「気合を入れて黒板の字を写しなさい」とは言いません。眼鏡だけでなく黒板の近くの席にする配慮をするでしょう。ところが、発達障害についてはほかの子と同じ学習のさせ方をしてしまうという例としてとりあげられていました。障害がある人の不当な取扱いを禁じ、個々のニーズに合った合理的配慮の提供を求めることによって、差別を解消しようとする障害者差別解消法があります。これに沿って対応しなくてはならないのに、ほかの児童のクレームに押し切られてしまった担任の先生でした。A君はこの経験から「僕は周りに助けを求めてはいけないんだ。何もかも自分の努力でこれからの人生を歩んでいかなくてはならないんだ」と思ったでしょう。ツールの活用学習障害のある生徒には先生が読んでやる、または音声ソフトを使わせればよいと思います。例えば、マルチメデア教科書(デイジー教科書)という音声ソフトもあります。参考:マルチメデアデイジー教科書について背景と文字の境界が混ざってしまい、行を飛ばしたり、読めなかったりすることもあるので、こんなときはリーデングスリットを使わせればよいのです。また、黒板の文字を写せないのならば、タブレットで写真を撮らせればよいのです。子どもの特性に合わせてツールを上手に活用することで、学びの困難を少しでも軽くすることができます。Upload By 立石美津子高い壁の向こうで行われているスポーツの試合…背が低い子に「背を高くして観戦しなさい!」と言っても無理です。ですが、踏み台を使えば平等に楽しむことができます。学習も同じで、合理的配慮とは、同じ土俵でチャレンジするためのサポートの形で、この踏み台がリーデングスリットやデイジー教科書、タブレットなのです。共に学ばせながら、ときには定型発達の子どもと障害のある子どもの教育環境を変えたり、特性を踏まえて違う課題を与えたりするのが本当のインクルーシブ教育ではないでしょうか。とはいえ、私自身も、他の児童が納得できる説明の仕方を未だに見つけられないでいます。
2021年04月12日配信するための条件をきちんと決めたことUpload By スガカズわが家の発達凸凹の長男と次男は、半年ほど前からパパの管理の元YouTube配信をしています。 私は「子どもたちが余計なひとことを話すのでは」と心配で仕方がありませんでした。そこで、前回のコラムでお話したように、発達凸凹の息子たちがYouTube配信を始める前に「配信するためのルール」をきちんと決めることにしました。親子で決めたルール・親が必ず配信を管理、同伴・ゲームの前は必ず勉強(習い事もがんばる)・配信、ゲームに使う時間を守る・言葉遣いや個人情報に気をつける・親子で継続する保護者として「やらなければいけないこと」がおざなりにならないようにしてほしかったからです。いよいよ配信スタート!最初は心配していたけれど…Upload By スガカズUpload By スガカズADHDとLDのある小4次男はゲームとYouTubeが何より大好き。そんな彼は配信を始めてから帰宅してすぐ宿題に取り掛かったり、習い事にもすんなり行くようになりました。もともと小2のころから、「将来YouTuberになりたい!」と強く思っていたため、配信できることが本当にうれしかったようです。今まであんなに苦手なこと(主に勉強)に対して気持ちがのらなかったのに…あんなに私が苦労して行動を促していたのに…。「本当にこの子はうちの子なの?」と思うほどの変化に、私は非常に驚きました。一方、ADHDとASDのある中一長男はというと、YouTube配信は少し気になっていた程度だったので、分かりやすい行動の変化はありませんでした。ですが、YouTube配信を続けるうちに、長男・次男にやらせて良かったと思える機会ががたくさんありました。SNS(YouTube)で得られた3つのことUpload By スガカズ最初のうちは視聴者がいなかったので親子でなにげないトークをしていましたが、続けていくうちに初めての人や常連さんも来るようになりました。気に入ったらチャンネル登録してくれるので、継続していくうちにライブ配信のチャット上で常連同士の会話が繰り広げられます。配信者(パパと子どもたち)は、ゲームをしながらチャットの内容を確認し、視聴者と会話することが多いです。管理者のパパが率先して話しているのですが、その様子を見て「知らない人と話すことの難しさ」と「わざわざ見に来てくれることへのうれしさ」を感じ、「これからも見に来てほしいから頑張って喋りたい」という意欲につながっていました。Upload By スガカズ投稿された動画を確認すると、自分自身の話し方や場の雰囲気を振り返れたり、そのとき取った行動の理由を私に説明する機会が増えます。うまく喋れなかったとしても、保護者が管理しているためパパがフォローしてくれますし、本人も「人が嫌な気持ちになる発言はしない」というルールを意識するため、初めての人との会話をするにはちょうど良い環境でした。Upload By スガカズYouTubeに限らず、SNSでは時々、「会ったことがない相手にいじわるをする人」に遭遇することもあります。そういった場面は子どもたちは直接経験しませんでしたが、パパが経験したときの様子を後日動画を見せて説明し、対処方法を教えることもできました。子どもたちは、「こんな人もいるんだ」と理解できます。この先子ども1人でSNSを利用する前に指導できたことは良かったのだろうと思います。配信を半年以上続けて現在は…Upload By スガカズ半年以上続けて現在は、親子で違うゲームをする機会が増えたり、タイミングが合わないこともあって、可能なときに配信している状況です。当初頻繁に配信していた次男よりも長男が細く長く継続しています。今回の経験で、発達凸凹の子どもたちは、ゲームやYouTubeに行動を妨げられやすいからこそ、教育に利用しやすいのかもと思いました。特に、わが家の次男のように、YouTuberにあこがれているお子さんには合っているのかもしれません。ですが、そもそも配信を始めるのが難しいという家庭も多いのではないかと思います。そんな場合でも、配信者ではなく視聴者側として…例えばYouTube(SNS)のチャットで知らないだれかとつながって会話するのも立派なSSTになると思いました。
2021年04月10日「会話」ではなく「独演会」をしがちなコウでしたが…?Upload By 丸山さとこ今はかなりのおしゃべり好きで、家に帰ったと同時に「今日学校でねー」と話し出すようなコウですが、4歳までは無言でいることが多い子どもでした。5歳になると少しずつ話すことは増えたものの独り言のように話していることも多く、こちらから話しかけても「うん」「ううん」「そう」と短く返ってくることが殆どでした。そんな調子のコウでしたが、6歳になると今度は打って変わり自分からよく話すようになりました。よく話すけれど一方的だったコウ小学校に入学したコウは、無口だった園児のころに比べたらグッと話す量が増えました。先生からのお話によると学校でも元気よくおしゃべりしていたそうです。ただ、理科の授業でオジギソウの観察をしているときに「おじぎをするのは中で水分が移動するからなんだよ」と説明するなど、”知識だけを羅列する話し方”が多かったようです。今思い返すと、知識披露系以外のおしゃべりも「なぜ?なに?」系の質問など、知識を得るためのものが殆どだったと思います。「〇〇していい?」「□□が欲しい」などの要求に関する言葉も多く、会話を楽しむためのおしゃべりはまだ殆ど見られませんでした。9歳になったコウは、”今日学校であったこと”や”何かに対して感じたことや考えたこと”など、自分の体験や内面についてのエピソードを話してくれるようになりました。Upload By 丸山さとこセリフ集をもって学校へ!オウム返しだったASD息子との「言いたいことを伝える」ための会話練習とは?11歳のときに過去の自分を振り返ったコウは「離れていた間の楽しかった話を聞いてほしいと思うようになったのが9歳ごろだった」と言っていました。それまでは”こちらから質問をすれば学校であったことを話してくれる”状態だったので、コウの方から「こんなことがあったんだよ!」と話してくれるのは新鮮な感じでした。11歳になった現在のコウそして11歳の今、彼の”親へのおしゃべりのピーク”は過ぎたような気がします。友人と公園で集まるときなど「ゲームの話とかしてるよー」と言う最近のコウは、そんな友人との会話内容を詳細に親へ話すことは無くなってきました。Upload By 丸山さとこ”頭の中にある情報を何でもかんでも話すような話し方”が減ってきた一方で、”相手の内面に興味を持っている質問”は増えてきました。「今学校で〇〇が流行っててるんだけど、お母さんはどのキャラが好き?」とコウの方から私に聞くこともあり、『何だか今、すごく雑談っぽい会話をしてるな~』と感じたりしています。一方的に「僕の興味があるものの話」をするだけだったコウが「あなたは何が好き?」と聞くようになったということの変化の大きさに、10年の長さを感じるこのごろです。ここで「あのころのコウのおしゃべりが懐かしいな~…」と振り返ることができたら成長ものがたりとしてはまとまりが良いのですが、実際のところは「○○って□□なんだって」系の知識の自動再生(?)や事実の羅列は、今でもばっちり続いています。Upload By 丸山さとこそれは多分友人としている会話の中でも同じなのだろうなと思います。けれど、”相手も好きなゲームの”知識や出来事を話すようになったところが以前とは違っています。『相手が好きなものの話であれば、知識や事実の羅列であっても楽しく会話が続くこともある』…と知ったことが、最近のコウが得た財産のひとつなのだろうと思います。Upload By 丸山さとこ”話し方を変えること”がひとつの解決方法であると同時に、”話す相手によってテーマを変えること”もまた解決方法であるということを、コウを通して改めて学んだ気がする私でした。
2021年04月09日精神科医・田中康雄先生、ファザ―リング・ジャパン・橋謙太氏、発達ナビ編集長によるオンライン座談会開催2021年3月14日(日)、映画『旅立つ息子へ』×LITALICO発達ナビ協働企画のオンライン座談会を開催しました。映画『旅立つ息子へ』は、イスラエル映画。自閉症スペクトラムのある一人息子・ウリと、妻と別居し息子と二人で暮らす父親のアハロンの、自立と子離れの物語です。座談会には、精神科医の田中康雄先生、ファザーリング・ジャパンの橋謙太さん、そして発達ナビ編集長・牟田が登壇。映画で描かれる、障害があるわが子の自立にまつわる思いや不安、保護者のキャリアと子育ての関係などについて語り合いました。田中先生は臨床の中で数多くの親子を診てきた専門家として、そして橋さんは障害のある子どもを育てる保護者としてお話をしてくださいました。Upload By 発達ナビニュース障害がある子どもの自立と保護者の不安座談会に際し、発達ナビユーザーにもアンケートの協力をいただきました。座談会では、映画のメインテーマでもある「障害のある子どもの自立」について、どんなことが不安なのかをたずねたアンケート結果を紹介しました。Upload By 発達ナビニュース2021年3月で学校を卒業し、4月から就労するお子さんの保護者でもある橋さんは「本人が学校に笑顔で通えているか。通えていれば、自己肯定感が高い状態で成人してからも生活ができると思う。無理させると自己肯定感が下がり、良い結果をうまないのじゃないかと思う」「就労を目的に学校生活を送るのではなく、笑顔で過ごせた学校生活の結果として就労があると思う」と、「子どもの今」を大事にしたいと話します。田中先生は、「保護者の皆さんは、就労していけるかどうかは不安だろうと思う」そして、親なきあとも支援の網の目からこぼれ落ちないように「保護者以外の相談相手が欲しい、精神面でも経済面でも相談できる相手が欲しいということだろうと思う」とアンケート結果を読み解きながらも、「子どもの今このとき」の重要性について言及。将来のことはもちろん不安であり、支援につながってほしいという思いをくみながらも、橋さんと同様「就労はゴールではない」と言います。学校生活をどれだけ楽しめたかが糧になるし、働きたい意欲をつぶさない条件づくりが大切であると言います。そして、就労したときに合わなかったのなら向いていなかったとシフトチェンジできる柔軟さも必要だとも。保護者のキャリアと子育てUpload By 発達ナビニュース映画では、売れっ子デザイナーだった父親が、キャリアを捨て、息子と二人での暮らしを営んでいます。それを受けて保護者のキャリアと障害のある子どもの子育ての両立についてもアンケート結果を参照しながら語り合いました。詳しくは、youtubeで公開中の動画をご視聴ください。映画上映情報Upload By 発達ナビニュース映画『旅立つ息子へ』は、TOHOシネマズ シャンテをはじめ、全国公開中。『旅立つ息子へ』公式サイト参考:自閉症啓発デーに合わせたオンライン座談会も開催(障害者ドットコム編集長らが登壇)
2021年04月08日娘が幼稚園に通うころ、苦戦したのは…広汎性発達障害の娘は、4月から小学5年生。苦手なことはまだ多くありますが、頼れるお姉ちゃんで、今では私のサポートをしてくれる頼もしい存在になりました。Upload By SAKURAしかし、そんな娘が長く苦労したことがありました。それは…トイレトレーニング。3歳、トイレトレーニングは失敗続き。娘が本格的にトイレトレーニングを始めたのは、3歳になったばかりのころ。入園した幼稚園がオムツ禁止だったため、そこから強制的なパンツ生活になりました。当時の娘は、言葉でのコミュニケーションがほとんど取れない状態。幼稚園に迷惑をかけてしまうことは、目に見えていました。実際始まった幼稚園生活で、娘は何度も何度もお漏らしをし、帰るときはいつも大量の着替え…。Upload By SAKURA娘は、トイレの事前報告どころか、事後報告もできず、パンツが濡れた状態でもまったく気にならないようで、漏らしたまま遊び続けていました。お漏らしのたびに、先生に着替えさせてもらっていることを想像すると、私はいつも申し訳なくなっていました。このままでは、先生に悪い…家でもちゃんとトイレトレーニング頑張らなければ!と思いました。Upload By SAKURAまったく進まないトイレトレーニングに、幼稚園の先生は…しかし、言葉が通じない娘相手のトイレトレーニングは全くうまくいかず、いろんな人からアドバイスしてもらった方法も、娘にはことごとく効果なし…。私はトイレトレーニングに常に頭を抱えていました。Upload By SAKURAクラスの子から、漏らしていることをからかわれたりする姿も見かけました。娘は言葉が分からないのでニコニコしていましたが、私はその様子を見てかなしい気持ちになっていました。Upload By SAKURA園のお迎え時も、先生から大量の着替えを受け取るたび、こんなに頑張っているのに…またこんなに漏らしたのか…と思ってしまい、落ち込んでいました。先生にも申し訳なく、毎回、「迷惑をかけてすみません…ごめんなさい…」と言っていました。しかし、担任の先生はいつも笑顔でした。Upload By SAKURA正直、トイレトレーニングに疲れていた私。その言葉で、肩の荷が降りた気がしました。温かく見守ってくれた先生。その後、トイレトレーニングが終わったのは、4歳2ヶ月(年中さん)のとき。実に1年以上も幼稚園に迷惑をかけ続けましたが、先生はその間、トイレを失敗してしまった娘を一切責めず、私にプレッシャーを一度も与えることなく、対応してくれました。トイレトレーニングが無事完了したときは、自分のことのように喜んでくれたことを今でも覚えています。Upload By SAKURA今だから言えることですが、子どもの『できる』にはタイミングがあり、親がどんなに頑張っても、どうしてもうまくいかないときもあります。同じクラスの子はほとんどみんな自分でトイレに行けている中で不安も感じましたが、先生は私が焦らないように何も言わず、娘のタイミングを待ってくれていたのだと感じます。Upload By SAKURA初めてで、何もかも不安な幼稚園生活。親もひっくるめてみてくれる先生で、心から安心できました。娘のトイレトレーニングが、無事終わったのも、幼稚園の協力が不可欠でした。今でも、幼稚園の先生には感謝しています。
2021年04月07日被害者から加害者へ… 視点がくるりと反転した記念日反応による心身の不安定から半月ほどたったころのことです。最悪の心身状態からは脱したものの、まだどこか不安定で過敏になっていた私は、夫のちょっとした言動にピリピリしていました。その日、疲れて帰ってきた夫にささいなことで喧嘩を吹っかけた私は、夫から「疲れている、今日はもう話したくない」と拒否されてしまいます。それでも引き下がらなかった私は、自室に引っ込もうとする夫の背中に向かって一方的に言葉を投げつけました。まるで小学校の卒業式の呼びかけみたいな感じです。もちろん夫は苦しそうな顔でよりいっそう強く拒否の態度をとります。そのときふと、奇妙な感覚が起こりました。「自分が母に憑依する」ような感覚です。自分が母の身体に入り込んで、母の感じる不安な身体感覚を感じながら、当時の私自身≒いまの夫の背中に向かって言葉を投げつけている。私は31歳まで実家で母と暮らしていて、母からずっと精神的な加害を受けていました。母は自分が何かのきっかけで不安になると自分でそれをどうにもできずに私に絡んできて、ときに声を荒げることもありました。彼女は疲れて帰ってきた私に「いま聞いてほしい、いま私が満足するまで聞いてほしい、私がこんなに聞いてほしいのに聞いてくれないなんてなんてひどい」という論理で私を毎日24時間レベルで追い詰めていたのです。…あれ? 私は今、そんな母に憑依して、実家時代の自分≒いまの夫を追い詰めている、ということは…そこまで考えたところで心身の疲労の限界が来てその日は眠ったのですが、翌朝起きたときには考えがまとまっていました。私は夫に加害していた。実家時代に母が私に加害していたのと全く同じ方法で。母も私も、自分は被害者なのだと思い込みながら、相手に加害していたんだ。私は「しばらく内省して、たいへんに反省した。自分がしていたことがどんなことだったか気づいた、私は母が私にしていたのと同じことをあなたにしていた、本当に申し訳なかった」と謝りました。夫は「うん、うん」と聞いてくれました。身体指向のトラウマ治療が私を危機から助け出してくれた私が夫との間で抱えてきた「くすぶり続ける爆弾」は、母との関係性で経験したことの立場を逆転した再演の傾向でした。今回私が自分のそうした傾向に気づけたのは、明らかに「自分が母に憑依する」あの奇妙な身体感覚のおかげです。そして自分があの身体感覚にはっきりと気づいたうえで、この感覚には重要な意味があると考えて自分を掘り下げることができたのは、私が最近熱心に進めていた身体指向のトラウマ治療のおかげでした。身体指向のトラウマ治療にはいろいろありますが、自分のトラウマティックな反応に向き合うときに身体感覚に注視していくところに共通点があります。最新の研究では、PTSDの主要な症状である「フラッシュバック」は頭の中で映像や画像が再生されるものだけでなく、言語化できない感情の起伏もあるし、なんとなく胸や手足がざわざわした感じ、足が地面につかないような感じなど、身体感覚だけのものもあることがわかってきているのです。身体感覚のフラッシュバックは耐え難い苦痛をもたらすため、患者はアルコールや薬物などの物質、ギャンブルや自傷などの行動に依存したり、再演を行ったりすることでこのフラッシュバックの苦痛から逃れようとします。しかしこうした対処の繰り返しは人生を壊してしまうことがあります。母がはまりこんでいたのも、私がはまりこみつつあったのも、こうした悪循環でした。身体指向のトラウマ治療では、フラッシュバックに圧倒されて物質や行動に依存したり再演を行ったりする逃れようとするのではなく、落ち着いてどんな身体感覚が起きているのかにしっかり気づきながら、自分の中に「私は自分で自分を安心させることができる」というリソース、自信や技術を作っていきます。自分で自分を安心させることができれば、ものや行為、人に依存する必要がありません。私はいろいろなトラウマ治療を受けてきました。どの治療にもそれぞれ良さがありますが、最終的に私をきちんとした精神的自立に導くのは身体指向のトラウマ治療なのではないかと思っています。また今回、「自分が母に憑依する」感覚を体験したことで、私に加害しつづけていた時期の母がどれほどの苦しみに身を浸していたのかを初めて本当に理解できたように思います。これは母との関係性に苦しみつづけ、母を恨んできた私にとってもう一つの大きな収穫でした。人生上の人間関係でついつい望まぬトラブルを繰り返してしまう人は、トラウマ治療、特に身体指向のトラウマ治療を試してみるのも一つの手かもしれません。身体指向を英語で言うと「ソマティック」です。興味のある方は、「ソマティック トラウマ治療」「身体指向 トラウマ治療」などをキーワードに調べてみてください。こうした療法は発展途上で玉石混交ですし、人によって合う合わないがあるので、どの治療も過信せず、慎重に試していってみることをおすすめします。
2021年04月06日つらい思いを抱えている人にーー『明日、学校へ行きたくない言葉にならない思いを抱える君へ』子どもの自死が一番多いのは夏休み明けの9月1日…この本はそんな「9月1日問題」から子どもたちの命を守るための取り組みのひとつ、ニコニコ生放送番組『明日、学校へ行きたくない』をもとに書籍化された本です。本書では、不登校、DV被害、いじめ、将来のことなど、当事者の子どもたちや保護者、かつてそうだった大人たちの投稿を元に、「こども六法」を出版し、法教育を通じたいじめ問題の解決を目指している山崎聡一郎さん、カウンセラーとして多くの人の悩みや不安を聞いてきた公認心理士、臨床心理士信田さよ子さん、脳と心の関係を探求し、子どもの脳の発達や個性を発揮する学びについて社会に発信している脳科学者茂木健一郎さんの三人の専門家とともに一緒に考え、語る形で進んでいきます。山崎さんの「まず生の声をていねいに聞いていきたい」という言葉通り、寄せられた投稿に対して解決方法を提示するだけではなく、ひとりひとりの声に真摯に耳を傾けて寄り添うようなアドバイスが印象的な本書。学校へ行きたくない、生きづらいなど、うまく言葉にできないモヤモヤにそっと寄り添う『居場所』になってくれそうな一冊です。発達障害のある子どもとゲームの関わり方を解説『ゲーム・ネットの世界から離れられない子どもたち』ICTとはどんなもの?という基本的な説明から、発達障害のある子どもとICTの関係、子どもの特性別のネットやゲームとの関係、ICTと付き合っていくために必要不可欠なリテラシー問題などを詳しく解説しています。「ゲームがうまくいかず暴言を吐く」「スマホばかりで昼夜逆転、朝起きられない」など『わが子はゲーム依存?』と悩んでいる家庭が増えています。まずは大人が子どもの世界を知り、親子でICTとうまく付きあっていくきっかけを考えてみてはいかがでしょうか。「依存かな?」と思ったときに親ができること、適切な支援方法など、これから欠かせない存在となっていくICTを前向きにとらえていくための参考になりますので、子育て中の方、学校の先生、福祉関係者の方など様々な方に読んで頂きたい一冊です。その就職活動、「得意」を活かせてますか?『ちょっとしたコツでうまくいく!発達障害の人のための就活ハック』発達障害特性のある人は就職活動においてもその特性ゆえにうまくいかないことが往々にしてあります。この本には、発達障害のある人や働きづらさを抱えた人の就職活動を支援し、発達障害支援や障害者雇用に関わるセミナーやコンサルティングを多数手がけてきた、就職のプロたちが教える就職活動をうまく進める知識や工夫、『就活ハック』が詰まっています。自分の強み、発達特性を知るところから始まり、エントリー方法や見出しなみやマナー、面接の対策など就職活動の流れを表やイラストを使い分かりやすく説明。今急増しているオンライン面接についての対策も紹介されています。発達特性別の向いている仕事一覧などもあるので、特性の苦手をカバーしながら得意を活かせる『就職ハック』が見つかる一冊です。今日からすぐにチャレンジできる!『1日5分で運動能力と集中力が劇的アップ 5歳からの最新!キッズ・トレーニング』運動能力の発達は脳の発達にもつながると言われています。子どもにとって、基本的な運動は野球やサッカーなどのスポーツにつながる運動能力をアップさせるのはもちろん、脳を適度に刺激して集中力(学力)を上げることに役立ちます。子どもからトップアスリートまでの競技サポートをするトレーナーが紹介するキッズトレーニングは、身体感覚を育てる9つのパーツ別体操、全身を協調して動かす6つの運動感覚、運動能力を上げるための12の運動機会と段階別に紹介されているので、子どもの発達状態に合った体操を始めることができます。科学的な研究結果をベースに作られたトレーニング内容は未就学児~小学生のこどもにぴったり。簡単にできて、運動能力が伸びるコツが盛りだくさんです。すべてのワークは図解はもちろん、動画(QRコード)もついているのでとてもわかりやすく、今日からすぐにチャレンジできる一冊です。性への教育と介入を伝える『性の教育ユニバーサルデザイン 配慮を必要とする人への支援と対応』人の性体験には大きな自由度と多様性があります。この本では配慮を必要とする人たちへの支援と対応、教育などを解説しています。本書は4部に分かれており、1部は性体験の自由度と多様性を各世代の人々の語りを通して紹介する『いっぱいあってな』、2部は配慮を必要とする人たちが持っている知識の現状や教え方、教材などを使った実践方法などを紹介する『教育』、3部は男性、女性それぞれの性的逸脱行動の事例とその対応を解説した『介入』、そして4部ではLGBTの人との面接などで留意すべき事項を中心にその対応の道筋などを提示していく『LGBT』で構成されています。研修会や講習会などで、実際に保護者や教員のかたから受けた質問など、気になるけど聞きづらい性の問題に対する答えがたくさん詰まっています。従来の性に関する支援書とは一味も二味も違う、性の学習法と性への介入法、そのすべてを伝える一冊です。
2021年04月03日まわりの音がすべて音符で聴こえる。不協和音にならないように気をつけながらしゃべる子どもだったUpload By 発達ナビ編集部数々のヒット曲を産み出してきた、音楽家・作曲家の広瀬香美さん。最近ではYouTubeオフィシャルチャンネルでの「歌ってみた」シリーズが大きな話題を呼んでいます。音楽の天賦の才をもつと同時に、生きづらさも感じていた思春期を経て、才能あふれた明るい「広瀬香美」が誕生するまでを、LITALICO発達ナビ編集長・牟田暁子がインタビューしました。牟田暁子LITALICO発達ナビ編集長(以下――)広瀬香美さんご自身の、音楽的な感受性の強さを表すエピソードをぜひ教えてください。子ども時代、どんなお子さんでしたか?広瀬香美さん(以下広瀬)「ええと~、ええっと~…」って、言うでしょう。すると、それが私には、「ド ミ~、ド ミ~」って、音符で聴こえるんです。空気の音は和音に聴こえます。たぶん電気や電磁波みたいなものの音だと思うけれど、Eフラットの和音に聴こえるんです。だから、どんな静かな場所でもベースに和音があって、そこに自分が話す声をメロディーとして乗せようとしちゃうんです。そうしないと不協和音になってしまうから。具合が悪いときには、聴こえている和音には反抗するように全然違う音で喋りたいけれど、そうすると不協和音になってしまうので、黙り込んでしまう習性がありました。今だったら、生活音が全部音楽になってしまうということは、なんて素晴らしいと思えますが、昔は、「うるさいよね、人生って」と思っていました。ただ、いつもオーケストラみたいに音が鳴っているのは、食べたり眠ったりと同じ当たり前のことだと思っていたから、誰かに悩みを打ち明けるということもありませんでした。だって、お父さんもお母さんも友達もみんなそうだって思っていたから。――それが自分だけにあることだと気づいたのは何歳ごろでしたか?広瀬「私っておかしいの?」と思ったのは、仲間意識ができたりする小学校3~4年ごろかな。「あの子、なんかちょっと言うことがおかしいよね」と言われるようになったんです。たとえば、「なおこちゃん」と呼びかけるとき、「ミレドちゃん」と聴こえたままに言ってしまったりすることがあって、「ミレドじゃない!」となおこちゃんから言われてしまう。私としては「あれ?私ミレドちゃんて言った?」というようなことがありました。だから、学校のクラスメートから「あの子は変なこと言う」と言われて、ちょっとした仲間はずれのような、いじめみたいなことになってきたころから、「みんなの世界はオーケストラのような音の世界ではないの?もしかして私だけ?」と、だんだんわかり始めたんです。小学校の高学年のころからだんだんと、そのことが自分の中で処理できなくなってきて、微熱が出るようになり、学校を休むようになりました。実際、37度7分くらいあったので、親も学校を休ませてくれるわけです。親はとても心配していろいろな病院に連れて行ってくれました。精神科、思春期内科、東京から九州から、ありとあらゆる心の病気の先生のところに連れて行ってくれたし、自分でも治したいと思っていましたよ。薬もね、こんなに(両手ですくうようにして)飲んでいました。ただ、「私は病気じゃないのに、なんでこんな薬を飲むんだろう」と思っていたので、途中から薬は飲んだふりをして、親には隠すようになりました。ゴミ箱に捨てるとバレちゃうから、ソファの隅に押し込んだりしてね。ほかにも、過呼吸症候群や脳貧血を起こして、一度発作が起こると20分くらいしないと収まらないので、寝込むこともありました。不登校時代を経て、高校を卒業。「私だけじゃない!」と分かる環境になったら、スパッと元気になった!――大変でしたね。ずっと学校には行かなかったんですか?広瀬そんな日々が高校2年生くらいまで続いて…けっこう長かったですね。小学校は日数が足らなくてもなんとか卒業して、中学高校は私立でしたが、調子がいいときは行けるんですけど、行けない日もありました。高2のときは3分の1くらいの日数しか登校できなくて、最後の期末テストだけはなんとか受けて、留年ギリギリまでいったんですが、なんとか高3になれました。でも、体調もすごく悪かったんですよね。――そんな元気のない様子は今からは想像もできませんが、今のように元気な広瀬さんになったのはいつごろから?広瀬大学に入ってから、そういう体調の悪さは、スパッとなくなりました!東京の音楽大学に通うようになったら、周りに変な人がいっぱいいたんですよ(笑)。感受性が強い人たちね。私よりも変な人がいて、なんだかほっとしました。そしてラッキーなことに、大学1年生の夏休みに、ロサンゼルスに行けたんです。ロスに行ったら、「私が一番まとも?」と思うくらい、周りの人たちが変だったんですよ。言うことも変だし、全然平気で約束破るし、「この人たちが普通なの? この国!」と思ったときに、苦しかった部分が、サーッと溶けたようになって、すっごく楽になりました。自分たちが変わっているだけでなく、私がわがままや変なことを言っても、「お~!いいね」なんて言ってくれる人たち。私が「生活音もすべての音が、音階になるの」と話すと、「すごいね! 天才じゃん!」と、全部肯定してくれるんですよ。ここが私の住みかかもしれないと思った瞬間に、何の症状も出なくなりました。とはいえ、せっかく音楽大学に入ったし、親からはとにかく卒業だけはしてほしいと言われ、卒業証書だけはもらう約束をしました。大学側にも、アメリカと日本を行ったり来たりするけれど、卒業はしたいと直接交渉しました。もうとにかく必死で、最初の2年間で、4年分の必須の単位をとりました。3~4年生はとにかく作品だけ提出すればいいようにしてもらったのです。課題も、ほかの人が1曲のところ2曲アメリカから送るから、と。しょうがないな、OKと言ってくれる理解ある先生に出会えて、ほんとによかったです。卒業に必要なギリギリの単位だけとって、一応卒業証書はもらいました。――すごいですね。たしかに恵まれた環境なのかもしれないけれど、広瀬さんの人柄もあるかと思います。広瀬いえいえ! アメリカが私をこういう人柄にしてくれたんです。思春期の私はずっと、暗くて、泣き虫で、自分のことを何も言わない子でしたから。だってしゃべると不協和音になっちゃうから。大声で泣けない、自己主張もしない、自分の悩みを打ち明けられない、友だちもいない。その当時の写真を見ると、笑顔は1枚もないんです。笑顔の作り方、知らなかったんですよね。聴こえてしまう音をコントロールする方法を教えてくれた仲間に出会えたUpload By 発達ナビ編集部――すべてが和音になってうるさくて、というのは、今も続いていますか?こうして話していて、大丈夫ですか?広瀬今はね、大丈夫です。自分でボリュームを上げ下げできる技を覚えたんです。アメリカに行ったら、同じような感性をもった友だちがたくさんいたので、どんなふうに対応しているの?と聞いてみたら、「ボリュームが変えられるんだよ、ちょっと訓練したらできるよ」と教えてくれたんです。それでコントロールできるようになりました。今は、もうずっとボリュームはゼロにしています。最近は鈍感になってきたのか、ものすごく頑張って聴こうと思わない限り、聴こえなくなりました。たまに、スタッフやメディアの人が面白がって「今、何の音が聴こえる?」と聞かれたら答えられるけれど。自分の特性を仕事に活かして、ポップス作曲家・広瀬香美が誕生するまで――そうした感覚、感性を、今のお仕事に活かせるようになったのはいつごろから?広瀬音楽しか教育されなかったし、親は音楽家にしたかったんだと思うんですよね。センスがあると思うからこそ、音楽のレッスンや、いい先生を見つけてくれたりして、音楽の才能を伸ばそうとしてくれました。私自身も、音楽の勉強しかしませんでした。自分でも音楽のセンスがあると思っていました。音楽を分析して、直す能力が自分にはあるんだな、って。子ども時代、テレビからや街で聴こえてくる音楽を、「自分ならもっといいメロディーにするのにな~」「そこ、ちょっと違うんだよな~」なんて考えていました。ただ、親が勉強させようとしたクラシックの音楽は自分の中ではしっくりこなくて、変なの!暗い音楽だなと思っていて、学ばせられる音楽にはまったく共感しませんでした。とはいえ、これは違うとは思っても、どうしていいか分からなくて……。その当時、ポップス音楽大学のようなものも、コンピューターミュージック科といったものもなかったし。だから、好きじゃなくてもクラシック音楽の勉強をするしかなかったわけです。どの科に行くかについても、行くなら作曲学科かな、というところでした。そこで、大学1年で行ったロスで聴こえてきた音楽に「ああ、この音楽がいい!」って思ったんです。マイケル・ジャクソン、セリーヌ・ディオン、ボビー・ブラウン、そうした人たちの音楽を聴いて、「すごい!そうそう、これよ!!」って、思いましたよね。じゃあ、こういう音楽を勉強するにはどうしたらいい?というところから、先生を探しました。ポップスの勉強を始めて、やっぱりこういう音楽を作るには技術が要るし、クラシックとは書き方、作り方が全然違うんだなと知りました。好きなことだから、がむしゃらに勉強しました。そうこうするうちに曲が書けるようになったけれど、お金が足りないんですよ!ロスでのアパート代だけは親に出してもらっていましたが、勉強を続けるお金が足りなくて、曲を買ってもらうことはできないか、と考えたんです。その当時はバブルで、予算がたっぷりあった日本のレコード会社さんたちが、ロスにレコーディングのために来ていました。そこで、日本語ができる現地のアシスタントとなり、自分の楽曲をレコーディングクルーに売り込んでみたんです。そしたら、曲も褒めてもらえたけど、仮歌で入っていた私の声が気に入られて、歌の仕事をするようになりました。結局そのときは、曲はあんまり買ってもらえなかったんですけどね。そのうち、日本に帰国したときに、スタジオに行って歌うようにもなりました。ただ歌うだけでなく、音楽大学の頃の技術が重宝されました。譜面をパッと見てすぐに歌えたり、アレンジャーさんから「コーラスの和音が濁るので、ハーモナイズを直してください」と言われたり。どんどん仕事が入って、日本にいる間に1年分の家賃稼げちゃう、というくらいでした。日本で稼いで、アメリカで3ヶ月勉強して、それでまた日本に戻って…という生活。そこから私の遊牧民生活が始まりました!(笑)。気がついたら、アメリカと日本を行ったり来たりの人生ですね。ようやく、自分の話をできるときがきた!Upload By 発達ナビ編集部――最近、こうして自分のことを発信するようになったきっかけは?広瀬自分のことを、発信したいという気持ちはずっとあったんですが、「広瀬香美」という人格は、私だけのものではないんですよね。レコード会社の人のものであり、事務所のものであり、ファンの方々のものなんです、ありがたいことに。だから、自分の個人的な話や悩みを、そうそう話すわけにはいかなかったんです。元気に明るく楽しく、「冬の女王」として突っ走っていくということで、最初の15年ぐらいはトークもしてこなかったんです。歌声だけを、冬の時期に元気に届ける人として生きてきたのが、「広瀬香美」でした。その後、ちょっと病気をしたこともあって少しお休みしたあと、第2期として復活したころに、ちょうどTwitterなどのSNSが流行り始めました。当時、事務所はそういう発信を絶対許してくれなかったんです。だって冬の女王様のはずなのに、「寒いのはちょっと苦手」なんて絶対言えないじゃない?(笑)そんな制約もあって、個人的につぶやくことが咎められた時代だったんですよね。だけど、何度も事務所に呼び出しをくらいながらも、やめなかった(笑)。そのうち、広瀬香美のSNS面白いよねと言われるようになり、それがYouTube配信へとつながっています。その間に、オールナイトニッポンやUstreamでの発信もありました。私みたいな人たちが、たくさんいることを知ってほしい!Upload By 発達ナビ編集部――そのYouTubeの配信が、オフィシャルチャンネルで人気の「歌ってみた」シリーズですね。広瀬曲の解説は、子どものころから有名な曲をああだこうだ言っていたわけで(笑)、得意だから、弾いた曲を自分なりに解説をして、自分のキャラクターを発信するようになりました。それがちょうど、あの自粛生活の時期で、なかなか外に出られないときだったので、皆さんがたくさん聴いてくださることになり、楽しいねと評価されて今に至ります。そして、メインチャンネル以外に「バックヤードチャンネル」を開設して、自分の思いや演奏以外のことをお話するようになったんです。そこで話しているうちに、ふっと昔のことがフラッシュバックしてしまって、話が止まらなくなっちゃったときがあって。そのときは、これはどうせボツだからいいやと思って、泣きながら喋ったんです。そしたら、そのボツだと思ったほうの内容をスタッフが選んだんですよ。【広瀬香美】浜崎あゆみ/Mを歌い終えて…まさかの号泣【今だから言える】――こうした発信は、生きにくさを感じているお子さんとその保護者の希望になると思います。広瀬ありがとうございます。そう言ってもらえると本当に嬉しいです。私は、この国の仕組みに弾圧されたと思っているんです。弾圧のおかげで今があると思っているから、あえて弾圧という言葉を使うけれど、弾圧されてギューって抑え込まれたからこそ、パーン!とはじけることができました。日本には、パーンとはじけられないまま一生を終えてしまう人たちだってたくさんいるし、苦しんでる人たちが今もたくさんいると思います。だからといって、そういう方たちに、「あなたたちもはじけてごらん!」なんて言う気持ちは全然ないです。だけど、私が自分のこういうお話をすることによって、皆さんが何か考えるきっかけのひとつになったら嬉しいです。こういう、私みたいな人たちがたくさんいるということを、ある一部の特別な人たちではないということを、みなさんを代表として世の中に伝える広報になりたいと、心から思っています。――最後に、「発達ナビ」読者の皆さんへひとことお願いします。そういう子どもに、親はどう関わったら、いいでしょうか。広瀬私の親も、いろいろな病院に連れていってくれたり、勉強させてくれたりしました。ただ、私にとっては、別にありがたいことだったかといえば、そうではありませんでした。でも、子を思う親の気持ちは、みんな同じで、よかれと思っているわけですよね。こうした方がいいですよ、ということは私には言えません。私からの「こうしたら」という回答はないけれど、ひとつの例として、今していることをそのまま続けていったら、私みたいにはじけるときがくるかもしれません。こういう実例があるということを私がお話することによって、誰かの救いになればいいなと思っています。Upload By 発達ナビ編集部広瀬香美 Backyard channel広瀬 香美 Official YouTube channel
2021年04月01日はじめまして!ぐうたらこです趣味のブログを書きながら、デザイナーをしている42歳です!家族も、そして自分自身にも特性ありで、日々ドタバタしています。これから「凸凹一家のちょっとした日常」を書いていこうと思います。まずは家族のご紹介。いままでブログで書いてきたデザインから、すこし姿が変わりました。Upload By ぐうたらこ娘(おチャボちゃん)は4月から小学1年生。支援クラス(情緒)です。優しくて真面目、ルールを大事にするファンシー乙女です。Upload By ぐうたらこそしてダンナ。子どもを溺愛する、本人も子どものような42歳の陽気なサラリーマンです。Upload By ぐうたらこ保育園児の息子(コッコちゃん)は、とにかくお元気!自慢のバイクで毎日リビングを爆走しています。誰にでも手を振る、産まれながらのアイドル気質。Upload By ぐうたらこそして、私!!!不妊ブログ→育児ブログと、日記を書いてきました。娘のASD診断から、自分自身にも特性があると自覚し、病院に行き向き合いはじめました。ADHDの診断がでて、困り感を解消すべく投薬中です。薬は飲み忘れるし、予約日も忘れるし、「どうすりゃいいんだよ!」と叫びながら忘れっぽい人生を生きています。これはある日の我が家の日常娘を園に送ろうと車のカギを探しUpload By ぐうたらこしかしご安心ください。便利なものがあります!説明しよう。なくし物キング、いやクイーンの私が息をするように物をなくすために購入したアイテム「さがし物キーホルダー!」(商品名ではございません)コレがあれば、物をなくしても大丈夫。Upload By ぐうたらこ…って、Upload By ぐうたらこでも、大丈夫。流石の私もね。電池をね。しまう場所を決めてるしね。アレ?アレレ?どこ?Upload By ぐうたらこな…ないな。Upload By ぐうたらこあったあった!!!へそのおが!!!ずっと探してたの~~~~Upload By ぐうたらここうして「へそのお」「アルバム」「文集」などを次々楽しく見つけて夢中になるのが私の悪い所です。それにしても、「へそのお」って、いつも消えて、突然現れません?ほんとビックリしますよ。Upload By ぐうたらこそんなこんなでドタバタ遅れそうになっていると、おチャボちゃんはいつも涙目になってしまいます。Upload By ぐうたらこおお、ごめんよ。でも大丈夫、ほらリモコンに電池を入れたからね!Upload By ぐうたらこシーーーーーーーーーーンって、Upload By ぐうたらこそもそも、電池ってなんなの!!??Upload By ぐうたらこスペアキーすらない!!!………Upload By ぐうたらこおチャボちゃんは「ルールを守りたい」という素晴らしい子どもなので遅刻しそうになるとポロポロと真珠のような美しい涙を流します。こんなに美しいものがあるのかああ、物をなくす才能にあふれた自分が憎い。というか、カギって必要なんですか?そもそも、世の中に泥棒さえいなければ、カギなんかなくても生きていけるのに!!!犯罪が憎い!!!悪が憎い!!!Upload By ぐうたらこ罪を憎んでいるうちに、娘は無事ダンナが園に連れて行ってくれました。そんなこんなで娘の特性と、私の特性の相性が悪いことが悩みの一つです。PS、車のカギは車屋さんで再度作ってもらいました。電子キーはつくると1万近くかかるから、みんなも気をつけてね!!!!LITALICO発達ナビ無料会員は発達障害コラムが読み放題!
2021年03月31日【アンケート】21アイテムから「ほしい!あったらいいな」を教えてください!発達ナビ×フェリシモの、発達が気になるお子さまや保護者さまが快適に過ごせるためのグッズづくり第3弾がスタート。第2弾企画で、グッズ開発の参考にするためにユーザーの皆さまから「普段どんなことに困っているのか」を伺ったアンケートや、これまでの開発商品へのお声から「ほしいグッズ」をピックアップしました。あなたの「ほしい!あったらいいな」と思われるアイテムはどれでしょうか。21アイテムからどれがほしいかを選び、その理由や、具体的なイメージ、さらにあったらいいなという機能なども書いてください。さまざまなご意見を参考にして、「みんなが暮らしやすい日々」を目指していきます!・1度の回答で、1つお選びいただけます・複数回、ご回答いただくことができますアンケートでお選びいただく、21アイテムをご紹介します。クッション1.椅子の姿勢くずれを防ぐ!おしゃれな「両面滑り止めつきクッション」マスク2.感覚過敏さんのための快適「マスクカバー」3.感覚過敏さんのための快適「布マスク」4.感覚過敏さんのための快適「マスクインナー」衣服・靴下5.ぬぎっぱなしOK!「裏表のないカットソーパジャマ」6.ぬぎっぱなしOK!「裏表のない靴下」カバー・ホルダー7.水筒やネームホルダー苦手さんの首元にやさしい「ふわふわネックホルダーカバー」8.荷物が増えても忘れない!「バッグの持ち手おまとめホルダー」収納・ケース9.勉強道具もゲームセットもひとまとめで持ち運び簡単!「おかたづけ収納ラック」10.玄関で忘れ物防止!マスクも鍵もティッシュも入る「玄関ドアラック」11.障害者手帳も小銭もカードも全部入って提示が楽な「マルチ手帳ケース 」食器12.おっちょこちょいさんのための「倒れないおしゃれな食器」13.不器用さんのための「すくいやすくてこぼさないおしゃれな器」タスク管理14.めくるのが楽しみ!アドベントカレンダーみたいな「服薬カレンダー」15.乱しがちな曜日ごとのルーティンワークが一目瞭然!「1日todoリスト」16.部屋においても恥ずかしくない!おしゃれな「タイムスケジュール」17.マグネットで管理。家族で共有「やったかどうかチェックボード 」18.大人もさりげなく使える「タスクチェッカー シンプルバージョン」感情・空間19.感情コントロール苦手さんのための「怒りを描いて流してスッキリ!水に溶けるカード」20.感情コントロール苦手さんのための「感情コントロールレッスン キット」21.一人になりたい!が叶う。もう一つの部屋がつくれる「室内テント」第2弾企画では6商品がデビュー!2020年度に行った第2弾のコラボ企画では、6商品がデビューしました。第3弾も、発達ナビユーザーの皆さんと一緒にグッズをつくっていきます!
2021年03月30日「将来YouTuberになりたい!」ADHD次男の夢。だけど…Upload By スガカズわが家にとってYouTubeは、気軽に情報を得たり、ケンカなどのトラブルを減らせる一方で、子どもたちの行動の妨げになってしまう、悩みのタネになる面もありました。ですが、子どもの成長に大きな影響を与える出来事がありました。今回は、そのyoutubeをめぐるエピソードを紹介したいと思います。もともと私は次男が小2の時から、「将来YouTuberになりたい!」と聞かされていました。「YouTuberは楽しいお仕事に見えるけど、毎日働いているのと同じで、大変なお仕事だよ」「でも次男が本気でなりたいんだったら大きくなって挑戦してみても良いのかもね」とは言っていたものの、その時のわが子の状況を考えると、「マナー」「自己管理」「知識」などの課題をクリアするには相当な時間が必要でしょうし、できないことも充分にありえます。次男がどんな大人になるのか全く想像できないため、複雑な気持ちでした。Upload By スガカズそうこうしている内に2年近く経過。小3の終わりごろから情緒の面が成長していると感じる機会が増え、物事の理屈も理解できるようになり始めてきました。パパの思いつきで実際にYouTubeデビューすることに!Upload By スガカズ始めたのは昨年の夏頃。新型コロナウイルスの影響で不要不急の外出を控えていた頃、パパが「家での時間を有意義にしたい」「見る側だけじゃなく作る側の経験もしてほしい」と考え、中1の長男と小4の次男に「一緒にYouTubeを始めないか」と言ったのが発端です。長男は1人で取り組むことが好きなタイプなので、少し喜んだ程度なのですが、次男は念願だったYouTubeデビューに大喜びしました。子どもたちが気軽に続けられるように、まずは親子で一緒にゲームをプレイしながらトークする、「ライブ実況」をすることにしました。ゲーム画面と音声のみで、顔出しはしません。私は正直いうと、この話をパパから聞いた際に「子どもが余計なひとことを喋るのでは」と心配になりました。ですが、3人とも意気込んでいる様子を見て、「まず経験させてみるのもよいのかもしれない」とも思いました。始めるにあたって、パパにしつこく「子どもたちの言動には重々気を配って」と言いました。未成年の子どもが安全に始めるためのルール作りUpload By スガカズパパはYouTubeの管理役をし、私は長男と次男の勉強を見たり、配信している間に下の子たちと遊んだりする調整役です。YouTubeは未成年が投稿、配信する場合は、親の管理、同伴が必ず必要です。始めるにあたって配信するためのルールをしっかり決めることにしました。「誰が見ているのか分からないから、人が嫌な気持ちになる言葉や、個人情報が分かるような発言はしない」「自分で決めたことだから、続けることが大事」「配信する前は必ず勉強をする」など、言い聞かせました。勉強が苦手な小4の次男は、目を輝かせながら「がんばる!」と、張り切っていました。保護者がやるべき事Upload By スガカズルールを守って続けるのと同じく大事なのは、保護者がやるべきこと(環境調整)です。実際に始めてみて一番重要なのは、配信のための時間を確保することと、家族の協力だと気づきました。ゲームのライブ実況をするにはPS4(もしくはPS5)があれば最低限配信が可能です。YouTubeにはチャット機能があり、視聴者と会話したい場合やゲーム中に親子でトークしたい場合にはヘッドセットが必要です。Switchでのゲームを画面を録画したい場合は、キャプチャボードという機材とPCがあれば大丈夫です。突き詰めると必要な機材は山ほどあるのですが、始めたころは先ほどの機材で事足りました。環境もルールも準備万端!さっそくYouTubeデビュー!こうして親子でYouTube配信がスタートしました。私は最初のころは心配で心配で…3人の周りをウロウロしていましたが、今ではやらせてよかったと心から思っています。実際に始めて見ると、発達凸凹男子たちに驚きの変化がみられたのです。次回のコラムで、配信の様子や息子たちの成長について詳しくお話しようと思います。
2021年03月30日自閉症啓発デーって?2007年、国連総会により「4月2日は世界自閉症啓発デー」にすることが決議されました。この日には、それぞれの加盟国が、自閉症についての理解が進むように意識啓発の取り組みを行うことなどが求められています。世界自閉症啓発デーは、自閉症に関する理解を深めたり、自閉症のことについて知ったりすることで、自閉症のある人を含めたすべての人が過ごしやすい世界を実現していくための日です。例年、日本では東京タワーなどのランドマークが青く染まるほか、NYやパリ、ロンドンなどさまざまな都市のランドマークも同様に青く染められ、イベントが行われます。2018年、2019年も、発達ナビではその様子をリポートしています。青く染まる日本!自宅から参加できる、オンライン上でのイベント「Warm Blue 2021」を開催Upload By 発達ナビニュース2021年の自閉症啓発デーは、新型コロナウイルスの影響により、リアルイベントの開催は中止となりました。そこで、特設スタジオより、パフォーマンスや応援メッセージのライブ配信、自閉症のテーマカラー「ブルー」でタイムラインを染め上げようというイベントが開催されます。4月2日(金)の17:00~特設スタジオより、パフォーマンスや応援メッセージをライブ配信予定です。下記のリンクからYoutubeでのライブ配信に参加できます。タイムスケジュール17:00~「オンラインイベント」/ダンス・歌・キャラバン隊・応援メッセージetc17:50~「青でつながる日本」/全国各地の自閉症協会から生リポート!18:10~「青く染まる東京タワー」「私たちの4月2日」「青いものを身につけた写真」「青をテーマにした写真」「自閉症啓発デーを応援する活動・パフォーマンスの動画」などを投稿してください。投稿の仕方は以下2つです。1、直接以下の公式アカウントに投稿 Blue キャンペーンFacebook 公式ページ Blue キャンペーンTwitter 公式ページ2、みなさんご自身のTwitterやFacebookなどで発信青いものを身につけた姿や、青いグッズを撮影して、SNSに投稿しましょう。その際、以下のハッシュタグを使用すると、Warm Blue実行委員会が公式FBとTwitterでシェアをします。#WB_2021#2021TT#LIUB#MAZEKOZE皆さんの投稿で、タイムラインを青く染め上げましょう!「世界自閉症啓発デーを知っている?」アンケートの結果はUpload By 発達ナビニュース4月2日の「世界自閉症啓発デー」について、3月16日から3月24日までの間、発達ナビの「みんなのアンケート」にて、「4月2日の『世界自閉症啓発デー』を知っている?」というテーマでアンケートを行いました。みんなのアンケート762人の方から回答をいただき、以下のような結果になりました。Yes…67%No…33%「Yes」が67%で「No」より高い結果となりました。その中には去年、Twitterで青い物の写真付きのツイートをしたことを覚えている方も少なくなかったかと思います。また、東京タワーがブルーにライトアップされるのを知っている方もいました。ご協力いただいたユーザーのみなさま、ありがとうございました!世界自閉症啓発デーは、3月21日の世界ダウン症の日とともに、国連が定めた世界的な啓発デーです。そのため、毎年日本国内でも各地でさまざまな取り組みが展開されています。
2021年03月29日放課後児童クラブ(放課後児童健全育成事業)とは?保護者が労働等により昼間家庭にいない小学校に就学している児童に対し、授業の終了後等に小学校の余裕教室や児童館等を利用して適切な遊び及び生活の場を与え、その健全な育成を図るものです。該当施設は「放課後児童クラブ」「学童クラブ」などと呼ばれ、子どもたちが放課後や長期休みを過ごします。子どもたちは遊びや保育の知識のある支援員に見守られ、友達と遊んだり宿題をしたり、おやつを食べたりして生活します。施設によっては、ものづくりや料理、ハイキングなどさまざまなイベントを行うところもあります。全国に26,625か所あり、登録児童数は1,311,008人(令和元2年7月1日時点)です。公営の施設と民営の施設があり、具体的なサービス内容や過ごし方は施設によって異なります。放課後児童健全育成事業について(厚生労働省)令和2年(2020年) 放課後児童健全育成事業(放課後児童クラブ)の実施状況(厚生労働省)放課後児童クラブ(学童クラブ)を利用できる人は?出典 : 児童福祉法第6条では「小学校に就学している児童」であって、「保護者が労働等により昼間家庭にいないもの」が、放課後児童クラブ(学童クラブ)を利用できると定められています。学年については、平成27年度から対象児童が6年生まで拡大されたことにより、小学校1〜6年生まで利用することができます。具体的な利用条件については各市町村が定めているので、お住まいの自治体のHPで確認する必要があります。例えば広島県広島市の場合、HPに以下のように細かく記載しています。次の(1)~(3)までの条件を全て満たす場合に対象となります。(1)広島市内に住所を有している児童(2)小学校に在学している児童(3)保護者及び同居する親族(18歳未満の者を除く。以下「保護者等」という。)が次のいずれかの事由に該当することで、家庭において適切な保護を受けられないことが常態であると認められる児童ア保護者等が、就労のため、1週間のうち概ね4日以上(月16日以上)、午後5時頃まで家庭にいないこと。イ保護者等が、疾病又は負傷の状態にあるか障害があること。ウ保護者等が、疾病又は負傷の状態にあるか障害がある親族等を、常時介護していること。エ保護者等が、出産予定日前8週間(多胎妊娠の場合は14週間)に当たる日から出産日後8週間に当たる日までの間(以下「産前産後期間中」という。)であること。オ保護者等が、大学・専門学校等へ通学中であること。カその他児童を保護できない特別の事由があること市町村によってはHPに利用条件の詳細を記載していない場合もあり、また、民間学童では独自の基準を設けている場合もあります。放課後児童クラブ(学童クラブ)の利用対象にあたるかどうかは、ご自分の市町村や周辺のクラブに問い合わせてみると良いでしょう。放課後児童クラブ(学童クラブ)の利用方法出典 : ①問い合わせ概ね9月か10月ごろ、市町村や各施設で次年度の入室希望者の募集が始まります。募集開始時期は市町村によって異なるので、HPなどで情報をチェックしておく必要があります。市町村によっては年度途中からの入室申し込みを受け付けている場合もあります。申し込みをする際、まずは市町村、もしくは利用する可能性のある放課後児童クラブ(学童クラブ)に直接問い合わせて、空き状況や必要な手続きを確認しましょう。地域の放課後児童クラブ(学童クラブ)一覧や問い合わせ先は、市町村のHPにまとめられていることがほとんどです。②入室申し込み・選考入室申込書や保護者の勤務証明書等、放課後児童クラブ(学童クラブ)から指定された書類を期限までに提出します。施設によっては、入室説明会を行うこともあります。定員を超えると選考が行われる場合もあり、その選考基準も市町村によって異なります。また、学年があがるときの継続手続きや退室手続きも施設によって異なるため、直接確認する必要があります。③利用決定・手続き利用が決定した方向けに、説明会への出席や書類の提出が案内されます。開所時間は施設によって異なりますが、概ね、平日は学校が終わったあと(14時や15時ごろ)から19時ごろまで、長期休み等は朝8時や9時ごろから19時ごろまで開室しているところが多いようです。小学校から放課後児童クラブ(学童クラブ)までの送迎を行うところもあれば、子どもたちが自分で下校・登室するところもあります。施設によって方針が異なるため、気になる方は問い合わせの際に確認すると良いでしょう。放課後児童クラブ(学童クラブ)から自宅までは保護者が送迎を行うことが多いですが、保護者の希望があれば子どもが一人で登帰室できる場合もあります。放課後児童クラブの利用料は市町村や施設によって異なりますが、数千円の月額を徴収しているところが多いようです。利用料と別でおやつ代などが必要な場合もあります。例えば東京都港区の場合、学童クラブ育成料として月額3,000円と、おやつ代・お楽しみ会費月額2,000円を徴収しています(令和3年時点)。多くの場合、家庭の状況に応じた利用料の減免制度も取り入れられています。東京都港区の場合には、対象を以下のように定めています。・生活保護世帯・区市町村民税非課税世帯・生活保護に準ずる世帯(生活保護基準額の1.2倍以下の世帯、18歳未満の子どもが3人以上の場合は1.31倍以下の世帯)・低所得のひとり親世帯(児童扶養手当受給世帯)・兄弟・姉妹で学童クラブに入会している児童の第2子以降学童クラブ育成料について発達障害のある子どもが放課後児童クラブ(学童クラブ)を利用するには?日本放課後児童支援員協会による「放課後児童クラブ運営指針」では、障害を理由として受け入れを拒否せずに、受け入れに伴う負担が過重でない限りにおいて、当人の状態に合わせた必要かつ合理的な配慮をするよう記載があります。・障害のある子どもについては、地域社会で生活する平等の権利の享受と、包容・参加(インクルージョン)の考え方に立ち、子ども同士が生活を通してともに成長できるよう、障害のある子どもも放課後児童クラブを利用する機会が確保されるための適切な配慮および環境整備を行い、可能な限り受け入れに努める。・放課後児童クラブによっては、新たな環境整備が必要となる場合なども考えられるため、受け入れの判断については、子ども本人及び保護者の立場に立ち、公平性を保って行われるように判断の基準や手続き等を定めることが求められる。また、厚生労働省による「障害児受入強化推進事業」「障害者受入強化推進事業」では、障害児の受入に必要となる、専門的知識を有する「放課後児童支援員」等を配置するための人件費・研修費等を市町村が負担すると定められています。実際の支援体制は、市町村や施設、タイミングなどによっても大きく異なります。発達障害やその傾向のある子どもが利用できるかどうか、個別の配慮を受けられるかどうかは問い合わせて確認する必要があります。すでに障害児の受入れをしたことのあるクラブであれば、それまでにどのような体制でサポートしていたのか確認してみると良いでしょう。「放課後児童クラブ運営指針」では、家庭や地域の関係機関・学校との連携を密に行うよう書かれています。・障害のある子どもの受け入れに当たっては、子どもや保護者と面談の機会を持つなどして、子どもの健康状態、発達の状況、家庭の状況、保護者の意向等を個別に把握する。・地域社会における障害のある子どもの放課後の生活が保障されるように、放課後等デイサービス等と連携および協力を図る。例えば施設によっては、以下のような連携を行ってもらえる場合があります。▼例・相談支援員や放課後等デイサービスの職員、保護者をまじえてケース会議を行い、特性や困りごと、個別支援計画について共有する・特別支援学級の先生や担任の先生と、学校と放課後児童クラブそれぞれの様子を共有する・保護者と面談を行い、家庭の様子や学童の様子を共有したり、相談に乗ったりする放課後児童クラブ(学童クラブ)と、放課後等デイサービスの違いは?併用はできる?出典 : 障害のある子どもが放課後に利用できる施設として、放課後児童クラブ(学童クラブ)のほかに「放課後等デイサービス」があります。両者にはどのような違いがあるのでしょうか。●対象放課後児童クラブ(学童クラブ)の利用対象者は、「小学校に就学している」かつ「保護者が労働等により昼間家庭にいない」児童です。放課後等デイサービスの利用対象者は、「身体に障害のある児童、知的障害のある児童又は精神に障害のある児童(発達障害児を含む)」かつ「就学児童」(小学校、中学校、高等学校に通っている児童)で、障害のある児童のみを対象としているのが放課後等デイサービスです。●支援の内容放課後児童クラブの支援内容はクラブによって異なりますが、大きな役割としては、子どもたちがおやつを食べたり遊んだり、宿題をしたりするのを見守る、遊びと生活の場です。民間の学童クラブでは、イベントや習い事などを提供するところもあります。利用者20名につき1〜2名程度の支援員がつきます。一方放課後等デイサービスでは、個別支援計画に基づいて、子どもの特性や困りごとに応じた支援が行われます。その内容は預かり型や療育型、習い事型などさまざまで、利用者5名に対して1〜2名程度の支援員がつきます。施設の空き状況にもよりますが、制度のうえでは放課後児童クラブ(学童クラブ)と放課後等デイサービスの併用は可能です。また、相談支援員や各施設の職員に連携を依頼することもできます。放課後児童クラブに通所しつつ、週1日は放課後等デイサービスで、少人数で特性に合わせた療育の支援を受けるなど、併用するケースもあります。まとめ出典 : 「放課後児童クラブ」(学童クラブ)は、保護者が労働等により昼間家庭にいない小学校に就学している児童に対し、授業の終了後等に小学校の余裕教室や児童館等を利用して適切な遊び及び生活の場を与え、その健全な育成を図るものです。障害のある子どもの受け入れも行いますが、実際の支援体制は、市町村や各施設、タイミングなどによっても大きく異なります。発達障害やその傾向のある子どもが利用できるかどうか、個別の配慮を受けられるかどうかは問い合わせて確認してみましょう。
2021年03月29日