2019年8月16日 07:00
「女性である」基準が分からない――子ども時代から感じた違和感。「私は私である」と受け止められるようになって
があるということと、Xジェンダー、クエスチョニングという概念を知ったのだった。他者に判断された性別でも、男性でも女性でもないあり方を選ぶもの
『百合のリアル』(牧村朝子著/星海社)P59より
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性に対するあり方をまだ決めていない。もしくはあえて決めない。
『百合のリアル』(牧村朝子著/星海社)星海社P108より
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衝撃を受けたのと同時に、深く安堵した。男性か女性のいずれでなくてもいいし、無理に決めなくてもいいのだ、と。
そして『百合のリアル』には、私が何十年も抱えてきた思いと似た、牧村さんの言葉もつづられていた。
わたしの場合、「未知への恐れ」は自分自身に向いていました。自分の中の同性愛を嫌悪し、「よくわからないもの」として恐怖していたのです。
(中略)
この「自分が何者かわからない恐怖感」を解決するために、わたしは「同性愛者」とか「レズビアン」という言葉を欲しがったのだと思います。「男としか付き合ったことがない自分は同性愛者じゃない」とか、「女と寝たことがない自分はまだレズビアンになれていない」とか、そんなの誰が決めたのかしらっていう謎の思い込みに苦しめられながら。わたしはこの「自分の中の未知への恐怖」に、色んな名前をあてがうことで、解決を試みました。
(中略)
色んな言葉で説明しようとしたなあ、って思います。レズビアンとか、ファッションレズとか、バイセクシュアルとか、性同一性障害、アライだとか。けれど、どんな言葉で説明しても、結局自分は自分だったのです。
『百合のリアル』(牧村朝子著/星海社)P243-246より
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自分を男性だとも、女性の体を持って生まれてきたにも関わらず、女性だとも自認できない状態は、正直に申し上げて恐怖だった。だからこそXジェンダー、クエスチョニングという概念を知ることで救われた。
許されたような気がした。
現在の私は、性自認について問われた場合、「FtX(Female to X-gender、女性からXジェンダー)」もしくは「FtQ(Female to Questioning、女性からクエスチョニング)」