巨人Intelに挑め! - 自作PCユーザーを歓喜させたK6シリーズ (5) [番外編]海外出張の思い出 - 2回目の出張は、なんとビバリーヒルズ
というわけで、1986年1月にAMD日本支社に入社した私には、非常に具体的かつ喫緊の課題が与えられていた。1つ目は、AMDがそれまでUSでやっていた広告を日本の専門誌に日本流にアレンジして出すこと(これに関しては裏話があって、私が入社する前にUSの広告代理店に作らせてそのまま出稿した広告が顧客から大不評を買ったらしい…この辺については別途触れてみたい)、2つ目は、それまで英語でしか存在しなかった製品カタログ、データシートの類を日本語化することであった。
私がAMDに入社した1986年の時期は米国以外の半導体市場では日本が突出して成長していた(ちょうど今の中国市場のようなものである)。それで、USの半導体各社は"Japan Focus"を次々に打ち出していた。AMDも例外ではなかった。そのために、日本支社の人員を急激に増やしていたのだ。私もその恩恵にあずかったということだ。確かに、その時期に採用されたエンジニア達は非常に優秀な人たちばかりで、日本の大手半導体メーカーから引き抜かれた人たちばかりだった。
その時期、US半導体メーカーにとって日本市場は非常に魅力的であったが厄介な問題があった。