元ひめゆり学徒・島袋淑子さん「“戦争は絶対ダメ”と言えるように」
島袋さんは1928年(昭和3年)、沖縄県北部の本部町伊豆味に生まれる。両親の愛情を一身に受けて育った島袋さんの将来の夢は、学校の先生になることだった。島袋さんは勉強に励み、沖縄師範学校女子部に合格。太平洋戦争が勃発した翌年の’42年(昭和17年)4月、14歳で晴れて師範学校の女学生となる。
「憧れていたテニス部に入部したけど、1年生は球拾いばかりだったから、すぐにやめてしまったの。楽しかったのは英語の授業。先生が大好きで、授業がある日は、前日から楽しみにしていました」
青春を謳歌していた師範学校時代。しかし、戦争の影は、学生生活に色濃く影を落としていた。
「セーラー服は、布がたくさんいるからという理由で、私が入学した’42年から“へちま襟”の制服に変わりました。自由だった髪形も、1年生は二つ分けのおさげ、2年生は三つ編み、と厳しく決められて。大好きだった英語の先生は、出征してしまわれ、やがて、英語授業も『敵国の言葉だから』と廃止されました。でも、すべて“お国のため”と信じて疑いもしなかった……」
天皇は神様で日本国民はその子ども。日本は特別な国なのだから、そのために命をささげるのは名誉なことだ、という“軍国教育”をたたき込まれ、島袋さんも“軍国少女”になっていたからだ。