元ひめゆり学徒・島袋淑子さん「“戦争は絶対ダメ”と言えるように」
5月25日、米軍が迫ってきたので、さらに南に下れ、という命令が。民間人を犠牲にしても、時間を稼いで本土決戦を遅らせようという日本軍の戦略だった。
「自力で歩けない患者は置き去りでした。青酸カリ入りのミルクが配られたという話も、戦後、生き残った兵士から聞きました」
島袋さんらも壕を出て、敵の攻撃をくぐり抜けて、沖縄本島の南にある伊原第一外科壕に移った。現在のひめゆり平和祈念資料館から歩いて5~6分の距離だ。
6月17日、島袋さんらがいる伊原第一外科壕の入口に大きな爆弾が落とされた。島袋さんは、食料調達のため外に出ていて免れたが、壕の中にいた学友の多くが犠牲になった。「昨日まで一緒に働いていた学友の一人が、おなかをやられて腸が飛び出していました。
みー、みー、と言って水を欲しがって……。先輩が、ガーゼに浸した水をあげたら、しばらくして『天皇陛下万歳』と言って亡くなったんです。当時の教育の力なんですね」
6月18日、アメリカ軍が間近に迫り、ひめゆり学徒隊に解散命令が下った。壕から追い出された女学生にとって、ここからが本当の地獄だった。
「重傷で歩けない人は置いていくから、君たちは黙って出ていけ。