2022年5月8日 06:00
岩下志麻が語る北条政子像 多くの女性を庇護した“哀しい母親”
鎌倉歴史文化交流館学芸員の山本みなみさん(32)は、
「政子は、(頼朝のいとこで、深い対立関係にあった)義仲の妹の宮菊を養女にまでして経済的支援を続けました。義経の愛妾の静御前も頼朝の怒りからかばいました。さらに親族の女性たちの縁談や養子縁組も面倒を見たり。御台所としての役割でもあったでしょうが、持って生まれた慈悲深さも感じます。
一方で、夫の頼朝は多くの殺生を行っています。それを間近で見ていて、自分には何ができるかをいつも考えていた人だと思うのです」
1219年、右大臣の拝賀式の日のこと、政子の子供のうち唯一生き残っていた実朝が、頼家の次男・公暁により「親の仇」として暗殺される。政子にとって、命を懸け産んだ実朝の死は同時に、4人のわが子すべてを失うことだった。
しかし、この政治家としての最大の難局において、政子は自ら動いた。
朝廷との交渉の末に、源氏と血縁にあるまだ2歳の三寅を連れてきて4代将軍とし、自分がいわゆる中継ぎをして、政権の移行を無事に成し遂げたのだ。
続いて、その朝廷との戦となった承久の乱では、
「(頼朝の)恩は山よりも高く、海よりも深い」
という尼将軍政子の「大演説」