ウクライナから決死の脱出 ソ連で生きてきた日本人男性の平和への願い
を爆撃したのは22日のこと。ソ連軍は一般市民にも容赦なく機銃掃射の追い討ちをかけ、日本人5千〜6千人が犠牲になったともいわれている。
戦後、樺太はソ連領となり父は魚の加工場で仕事を得たが、食うや食わず。降簱家の生活は貧窮を極めていく。
「引揚げ船に乗って帰還するチャンスを逃したのは、兄の信捷が荷馬車の車輪に足を巻き込まれ大けがをして半年寝たきりだったことが大きかった」
さらに48年の冬に生まれた妹タカ子さんが生後3カ月で急死してしまう不幸も重なった。引揚げ船は49年で完全に途絶えた。
53年、最高指導者だったスターリンが逝去したこの年、一家は350キロ北に離れたポロナイスク(旧名・敷香)へ転居することに。
「父がコルサコフ市役所に呼ばれ、転居を命じられたのです」
英捷さんが9歳のときのことだ。
この地では妹たちが生まれ8人家族に。
日本に戻れる可能性が少なくなり、父が製紙工場で働くために住民登録が必要となったので、ソ連人として生きていく決断をした。一家がソ連国籍を取得したことは降簱家にとって転機となった。
「それまでは住民登録もできないし、ないと就職が難しくなる労働手帳ももらえない。