ウクライナから決死の脱出 ソ連で生きてきた日本人男性の平和への願い
控えめですがこのときは彼女のほうから『知り合いになりたい』と意思表示をしてくれて。それですぐに学生結婚です」
結婚の翌68年に長男ヴィクトルさんが誕生。夫婦ともに無事に大学を卒業し、サハリンのポロナイスクに戻り一家3人の生活が始まった。しかし気候の温暖なウクライナで育ったリュドミラさんにとって、厳寒のポロナイスクで過ごす冬は厳しいものだった。
「その後ウクライナへの移住を決めたのは、妻の希望でもありました」
■妻や親戚とともに野菜を作りながら平穏な余生を送るつもりだったが……
英捷さんは、優秀な技師としてフレキシブルに職場を渡り歩いた。工場長や管理職というポストが与えられ奮闘した時期もある。
ひとりの技術者として、家族とともに異国の地で懸命に生きた英捷さん。ウクライナ在住は’71年から’22年までの半世紀に及んだ。
しかし、ゴルバチョフが80年代後半に始めたペレストロイカにより社会が激変する。91年のソ連崩壊後、英捷さんはウクライナ国籍となった。
「ペレストロイカ前後のことは語り尽くせません。社会が混乱し、給料が現物支給されるなど、行き詰まった時期もありました」
そしてこのころから、閉ざされていた日本への帰国支援事業が始まっていた。