ウクライナから決死の脱出 ソ連で生きてきた日本人男性の平和への願い
2部屋しかないバラックが与えられるだけで父は懸命に働いても、最低限の賃金しかもらえませんでした。しかし、このときから昇給も年金も望めるようになりました」
高校卒業後、英捷さんは父と兄の信捷さんが働くポロナイスクの製紙工場に職を得た。そして持ち前の向学心により、工場から派遣される形で製紙業の専門科目のあるレニングラード(現・サンクトペテルブルク)工業大学への入学切符を手に入れた。
「志願者が現地へ赴き、正規の試験を受けて選抜されます。職場からは奨学金が支給されましたが、成績が悪いと打ち切られ故郷に戻る人もいた。卒業後、企業に戻り3年はお礼奉公がありました」
大学では英捷さんの人生を好転させる学びと出会いに恵まれた。
「家族と遠く離れた寂しさもありましたが、寮生活では私を異端者として扱わない生涯の友人たちもでき、さらに伴侶となる女性との出会いもありました」
妻となるリュドミラさんも向学心旺盛な女性だった。当時のソ連では20歳前に結婚する女性も多いなか、一度就職をしたあと、大学に再入学していたため英捷さんより3つ年上。
清楚で控えめながら信念を感じさせる女性だった。
「物静かな性格も私と似ていて気が合いました。