ウクライナから決死の脱出 ソ連で生きてきた日本人男性の平和への願い
07年8月、英捷さんは64歳にして一時帰国団の一員として初めて日本の地を踏んだ。
印象に残るのは、同行した息子が「日本はなんてきれいな国なのだろう」と楽しそうにしていたこと。
「帰国支援事業を担っていた日本サハリン同胞交流協会(現・日本サハリン協会)の当時の会長が東京観光に連れていってくれました。私自身は本格的な日本料理を食べて感激し、きれいな道路に感嘆し、日本人の礼儀正しさ、北海道の自然の美しさに感動しました」
兄の信捷さんや五女のレイ子さんら、英捷さん以外のきょうだいは’09年までに配偶者らとともに永住帰国を果たしていた。
英捷さんは息子や妻を伴い合計3度の一時帰国を経験するなか、日本への「永住帰国」を考えることもあった。しかし結局は「いまから異国で暮らすことは難しい」という妻の意思を尊重した。
ジトーミルに、心のよりどころとなる900平方mのダーチャ(菜園付き別荘)も手に入れ、週末には妻の親戚たちと集い、彼らとも固い絆で結ばれていることを感じていた。
このままウクライナで妻とともに余生を送っていくのだと信じていた英捷さんに、突然の別れが訪れた。
19年、股関節の手術で入院していたリュドミラさんが術後、心筋梗塞を起こし急逝してしまったのだ。