羽生結弦が語った夢「3年後に日本のスケート界を変える」
『待って。もう少しやらせてあげて。パートの仕事を増やすから』と――」
当時、由美さんはスーパーの紳士服売場で、主任待遇で働いていた。そのパート時間を増やすと同時に、遠くなったリンクまでの送り迎えも始めている。そのころのことを由美さんは、地元紙にこう答えている。
《結弦は、小さいときはのんびりしていて、コーチに怒られて、泣いていたこともありました。でも(リンクの閉鎖で)練習できないつらさを味わい『自分がやらなきゃ』という自覚が出てきました》
ホームリンクの閉鎖は、羽生のスケートを人生で初めての試練だったが、彼はそれを成長の契機にした。ソチ五輪金メダル、世界選手権は2度、優勝。
GP(グランプリ)ファイナル4連覇と、次々に記録を塗り替え、世界歴代最高点をも更新し続けてきた。
’94年12月7日、羽生は宮城県仙台市で生まれた。父・秀利さんは中学校教師。住まいは、仙台市北部の県営アパートだった。4歳のとき、姉が通っていたスケート教室についていき、フィギュアスケートと出合う。羽生が通った泉DOSCは、トリノ五輪金メダルの荒川静香、世界選手権で2度の銅メダルを獲得した本田武史を輩出した名門リンクだ。