『生誕130年記念 北川民次展―メキシコから日本へ』レポート 約30年ぶりの大回顧展が世田谷美術館で開幕
という答え。確かに主流や時流から距離を置き、よく世界を観察していたように思われる。
《岩山に茂る》1940年個人蔵提供:世田谷美術館
妻の故郷・愛知県瀬戸市に疎開後は気に入って終の住処となった。第4章「都市と機械文明」では、産業のまち「瀬戸」を描いた作品なども。「当初は、機械化による良いものづくりが社会にもたらす豊かさへの期待があったと思うんです。それが60年代以降は公害の問題などもあり、両義的な絵を描くようになります」(塚田)。
第4章「都市と機械文明」展示風景
また、北川は、メキシコと日本で庶民への美術教育にも取り組んだ。第5章「美術教育と絵本の仕事」では、まずメキシコ市南部のトラルパンと市から約170キロ離れたタスコの野外美術学校での教師としての活動を紹介。同展のキービジュアルにもなったロバの絵は、現地の雑誌で大きく掲載された作品。「メキシコでは革命で国が疲弊した後、とりわけアメリカから多くの観光客を招いて活性化させようとしました。野外美術学校で同僚の画家が書いた同記事では、土産物屋や風光明媚な場所にだけ行ってわかったような顔をして帰る観光客が多いなか、北川は先住民の暮らしに分け入って絵を描いている人。