小さなシャトーホテルに宿を取り、ゴッホが生きた街でカフェを飲み、ゴッホの跳ね橋の前で、しばし佇んでみた。
徐々に日が長くなり、夜はいつまでも白々と明るい夏への日々。まだ明るい通りのカフェでワインを飲み、ボーっとしていると、これまでの心の中に溜まった澱が、ゆるゆると溶け出していくようだった。
「おい、あんた」
突然かけられた日本語に、一瞬反応が遅れた。
「・・・・・・?」
咄嗟に、何語で返していいか思考がもつれて、振り返った時には、その背の高い男に腕をつかまれて、椅子から引きずり上げられていた。「バッグどうした?やられてないか?」
親指でくいっと後ろを指す。見れば、椅子の背に引っかけてあったハンドバッグがない。
「あーーっ!」
驚いて、周りを見回したが、和紗のハンドバッグは煙のように消え失せていた。
和紗の腕をつかんだまま男は、呆れたようにため息をついた。
「あんた、日本の旅行者か。いくら田舎だって、背中にバッグ引っかけておく馬鹿がどこにいる?持ってってくださいって言ってるようなもんだろ」
背が、ずいぶん高い。浅黒い肌に漆黒の髪。でも、その口から滑り落ちるのは、耳になじむ数か月ぶりの日本語だ。