中村屋はこのほど、「スパイスデリ 新宿中村屋 純カリー粉」を発売した。同商品は、1927(昭和2)年に、日本で初めて純印度式カリーを発売したという中村屋本店のレストランで使用しているオリジナルブレンドのカレー粉。オリジナルブレンドのスパイスは、高温で焙煎(ばいせん)した後に、石壷でスタンピング(型押しのように上から突くこと)した。さらにスパイスを熟成させることで、深い香りとコクが引き出されるという。しっかりとした熟成感がありながら、コリアンダーとカルダモンの清涼感ある香りが楽しめるとのこと。カレーだけではなく、様々な料理にも使用可能。なお、本店のレストランではこのカリー粉以外も使用しているという。価格は430円(税別)。
2015年02月19日●5年間の時を経て、再び金星に挑む「あかつき」宇宙航空研究開発機構(JAXA)は2月6日、金星探査機「あかつき」に関する記者会見を開催し、今年12月7日に金星周回軌道へ投入する計画であることを明らかにした。あかつきは日本初の金星探査機。2010年5月21日に打ち上げられ、同年12月7日に金星に最接近したが、推進系のトラブルにより周回軌道への投入に失敗していた。○ぴったり5年後の再挑戦あかつきの目的は、金星の大気の運動を観測することである。特に、金星最大の謎として、「スーパーローテーション」と呼ばれる現象がある。金星の自転速度は非常に遅いのだが(自転周期は243日)、大気上層では秒速100mにも達する暴風が吹き荒れている。これは自転速度の60倍もの速さで、なぜこんな風速が出るのか、原因が分かっていなかった。こういった謎を解明するため、あかつきは近金点300km、遠金点8万kmという、非常に細長い楕円軌道に投入する計画だった。だが、周回軌道に投入するため、軌道制御エンジン(OME)を噴射したところ、機体の姿勢に異常が発生し、燃焼を自動的に中断。減速が足らずに、金星を通過してしまい、そのまま太陽を周回する軌道に入っていた。事故後の検証で、燃料を加圧するための配管にあるバルブに塩(えん)が生成し、閉塞したことが原因だと特定された。ここが閉塞したことで、燃焼中に燃料の供給量が減少し、酸化剤の割合が相対的に増え、正常な燃焼条件を逸脱。温度の異常上昇を引き起こし、その結果、ノズルが破損したと見られている。その後、OMEの試験噴射を行ったところ、完全に壊れていることが分かり、使用を断念。以降の軌道制御については、小型の姿勢制御エンジン(RCS)を使うことになった。この経緯については過去記事が詳しいので参照して欲しい。【レポート】「あかつき」の軌道制御エンジンは使用断念 - 当初の観測軌道投入は困難に2011年11月には、最初の軌道制御を実施。近日点で減速を行い、遠日点の高度を下げ、2015年11月に金星に再会合する軌道への投入に成功した。それから現在まで軌道制御は行っていないが、今後、今年7月の軌道修正で再会合を12月7日にずらし、同日、最接近時にRCSを20分ほど噴射して、金星周回軌道に投入する計画だ。投入日が5年前と同じ「12月7日」になったのは「たまたま」とのことだが、中村正人・あかつきプロジェクトマネージャは「本来なら5年前に成功して当然のミッション。幸いにして再びチャンスが与えられたので、粛々と責任を果たしたい。感傷的にならず、冷静に事を進めたい」と、現在の心境を語る。ちなみに再会合を当初予定していた11月から遅らせたのは、11月投入の軌道だと安定性が悪く、太陽重力の影響によって、すぐに金星に落ちてしまうリスクがあったからだ。12月投入の軌道であれば、このリスクが小さい。あかつきは非常に長い楕円軌道を飛行するため、太陽重力の影響を受けやすい。近金点の高度はいつも300kmというわけではなく、この影響のせいで、1,000km以上になることもあるそうだ。12月投入の軌道でも、近金点が大きく変動することは変わらないものの、すぐに落ちてしまうようなことにはならないという。●当初の計画から大幅に変更される観測軌道○現在の機体の状態は?あかつきの打ち上げから、もうすぐ5年が経過しようとしている。現在、もっとも懸念されているのは、搭載機器の劣化だ。あかつきの設計寿命は4.5年。これをすでに超えてしまっている。もっとも、設計寿命を過ぎてもすぐに壊れるというわけではないが、逆に、いつ壊れても不思議ではないとも言える。特に大きな問題は熱だ。あかつきは元々、金星を周回するための探査機であるので、金星(太陽から約0.7AU)での熱環境に耐えられるよう設計されていた。だが、周回軌道への投入に失敗したことで、あかつきは太陽を回る人工惑星となり、近日点では太陽に約0.6AUにまで接近。想定以上の熱を受けることになってしまった。あかつきはこれまでに7回、近日点を通過しており、今ちょうど8回目を迎えているところだ。金星軌道では、太陽からの熱入力は2,649W/m2であるが、近日点では最大3,655W/m2にもなる。これは、2,800W/m2以下という設計条件を大きく超えており、冷却能力が不足した結果、機器の温度が上昇することになる。探査機各部の温度履歴を見ると、近日点を通過する度に、全体的に温度が上がってきていることが分かる。探査機の周囲は金色の多層断熱材(MLI)に覆われているのだが、この劣化が進行しているために、温度が上昇しているものと推測される。一部の機器では、設計マージンを超えており、「油断はできない状況」(同)だ。金星に再会合するまでには、あと1回、今年8月に近日点を通過する。最後の試練を乗り越えて、無事な状態で何とか金星まで辿り着いて欲しいところだ。一方、気になるのは事故を起こした推進系であるが、RCSは今のところ、問題は無い模様だ。加圧側のバルブは依然としてほぼ閉塞しており、燃焼を続けると徐々に推力が低下してしまうものの、20分程度であれば問題ない見通し。石井信明・あかつきプロジェクトエンジニアは「必ず投入できると思う」と自信を見せる。なお、RCSは探査機のOME側に4基、反対のハイゲインアンテナ側に4基搭載されているが、どちらの面のRCSを使うかは、現時点では未定だという。噴射時の姿勢で各部の温度がどうなるか、あるいは各エンジンの信頼性など、様々なメリット・デメリットを総合的に検討し、今後決定していく。○観測軌道は大きく変更に現在、あかつきは金星軌道の内側を回っているが、再会合前に一旦外側に出て、外側から金星に接近する形になる。金星の公転速度の方が速いため、先行していたあかつきに、後ろから金星が追いついてくる。あかつきはスイングバイのように金星の後方を通過するので、最接近時にRCSを噴射して、公転とは逆向きの西回りの周回軌道に投入する。これは、金星の自転が西回りであるためだ。スーパーローテーションの流れも同方向であるので、あかつきも西回りで観測する必要があるわけだ。ただし観測軌道は、当初の計画からは大幅に変わってしまう。12月7日の噴射で、一旦、遠金点が50万kmの軌道に投入。初期チェックアウト中の2016年春に再び軌道修正を行い、遠金点を32万kmまで下げるが、当初予定の8万kmに比べると、4倍も遠い。旧軌道の周期は30時間だったが、新軌道では8~9日になる。当然、科学観測には大きな影響が出るのだが、この軌道で妥協せざるを得ないのは、燃料が足らないからだ。1液式のRCSは2液式のOMEよりも燃費が悪く、同じだけ軌道を変更するにも、より多くの燃料を消費する。しかも5年前の投入失敗で消費した分もある。現時点で残っている燃料は60kg程度。打ち上げ時の117kgから、すでに半減している。探査機の姿勢を維持するのにも、燃料は必要になる。軌道投入で全部使ってしまうわけにはいかないのだ。あかつきの目的は、あくまでも金星の観測。今後、最低2年の観測を行うために必要な燃料を確保すると、残りの燃料では、このくらいまでしか近づけないというわけだ。観測期間は最短2年で、最長でも4年程度と見られている。あかつきの軌道は楕円。金星からの距離が周回中に大きく変わるので、これを利用し、距離に応じた様々な観測を計画していた。このうち、近距離での観測はほぼ同等の内容を実施できると見られているが、問題は遠距離での観測だ。ただ、分解能が低くなるというデメリットがある反面、より長期のグローバル観測が行えるというメリットもある。新軌道での観測について、今村剛・あかつきプロジェクトサイエンティストは「4年前の時点では、赤道周回軌道か極軌道かという選択肢があった。しかし、赤道周回でないと、長時間連続的な気象データを得るという目的は絶対に果たせない。この条件が満たされた時点で展望が開けた」と述べる。金星からの距離が遠くなることで「より頭を使う必要が出てきた」(同)ものの、遠距離での長期間観測と近距離での高分解能観測を連携させるなどして、「やろうとしていた観測の大部分はリカバーできるのではないか」との見通しを示した。なお観測機器の状態であるが、現時点では確認できていない。確認のために電源を入れれば温度が上がってしまう。データを地球に送るため、ハイゲインアンテナを地球に向けると、太陽側になった部分の温度が上がってしまう。それで壊れてしまっては本末転倒なので、観測機器のチェックは金星到着後に実施する予定だ。ただ観測機器については、「悲観する材料はあまりない」(同)という。観測機器は元々、探査機の放熱面付近に搭載されており、ここは「温度的には涼しくて快適な場所」(同)だ。放射線による劣化は考えられるものの、それについても「想定内」とのことで、大きな問題は無い模様だ。
2015年02月10日俳優の中村雅俊と五十嵐淳子夫妻の三女でモデルの中村里砂が、芸能界デビュー1周年を迎えた。2010年にモデルデビューを果たし、女性誌『LARME』(徳間書店)のレギュラーモデルを務めるなど、ガーリー系女子の間で高い人気を誇っているが“2世”であることを公表したのはタレント活動を始めた1年前から。活動の場を広げたのも自らの意思で、「テレビに出演することも全部決まってから報告した」という。「最初は両親とも、すごく驚いていました」と話す中村が、芸能界デビュー後の変化や両親への思いを語った。<全身ショット>中村里砂、キュートなミニスカ&バニー風衣装2014年、両親の結婚記念日でもある2月1日から本格的にタレント活動をスタートさせた中村。1年間を振り返り「改めてデビューと言われると恥ずかしいですね」と照れ笑いを浮かべる。自身としては「モデル業に加えて、テレビという活動の場がひとつ増えた程度にしか捉えていなかった」というが、テレビ露出が増えることでファン層の変化や広がりを実感。「これまでのわたしを知らない人にも、常に新しいわたしを発信していけたら」という思いと旺盛なサービス精神から、最近ではバラエティ番組で家族とのエピソードやプライベートを明かして注目を集めている。「仕事が忙しい時には、お母さんが作るあたたかいごはんは、やっぱり嬉しいですね」と良好な親子関係を明かした中村。「すごく料理が上手なんですよ。ごはんも土鍋で炊くなどしてこだわっていて。特に和食がおいしいんです」と、母・五十嵐淳子の料理を絶賛した。また、2月1日は父・中村雅俊の誕生日だが、「プレゼントってあげたことがなくて…」とポツリ。「何をあげればいいかわからないんです。今年は渡せたらいいなと思います」と、娘としての顔ものぞかせる。家族のエピソードを語ることが増えたが、ここまで両親の力を借りることなく自らで道を切り開いてきた。“2世タレント”という言葉の裏に“親の七光り”という特権を見る視聴者は多いが、「自分のやっていることには責任を持ちたいし、やるからには1ミリも妥協したくない」と力を込める。もともと自立心は旺盛で、「(幼少の頃から)なんでも自分で決めたいタイプ。両親がダメといっても聞かない子だった」という中村。「小さい頃から舞台などは連れられて観に行く機会も多くて、役者の仕事をやってみたら、と言われたこともあった」というが、自らの意思でモデル業からスタート。「みんなでひとつのものを作り上げる作業が好き」だったこともあり、モデルの仕事を続けているうちに、俳優業にも自然と興味を抱くようになった。「両親とは進んできた道が違うから、自分はマイペースに」と語る中村。その大きな瞳からは、持ち前の自立心と、芸能生活2年目に挑む決意が感じられた。
2015年02月01日先頃、「N.ハリウッド(N.HOOLYWOOD)」が通販サイトを解禁した。その裏には、デザイナー・尾花大輔のいかなる思いがあったのか。デジタルの進化がファッションに、そしてマネジメントにも影響を与えている現代。同ブランドを取り扱っているという立場にあるだけでなく、尾花にとって朋友とも呼べるほどの間柄にある、「ステュディオス(STUDIOUS)」代表取締役CEO・谷正人と共に、ウェブとファッションの関係性について語ってもらった。谷(以下T):ちょうど今年の東コレが幕を閉じたばかりですが、最近の東コレってそれぞれの店の顧客が観覧してて賛否両論ありますけど、個人的にはすごくいいと思ってるんです。何でかっていうと、そのブランドの洋服が好きで買ってて、一番感動してくれる人達だと思うから。尾花(以下O):うん。そもそもファッションショーの目的自体が変わってきてるよね。コレクション経験者からしてみたら、ロケーションも選ばずにずっと同じライティングでやるってどうなの?とかあるけどそれは置いといて、日本はそこまでインフルエンサーは成長してはいないけど、多かれ少なかれ人気ブロガーがいて、そういう人達が支持したことによって市場につながるっていう、全く違うシステムに変わってきてるってのはあるからね。T:ですね。そういえば、こないだの東コレでびっくりしたんですけど、フロントローに座ってるブロガー達の中に中学1年生の女の子がいたんですよ。時代は本当に変わってきたなって感じましたね。O:海外だとそのブロガー達にスポンサーがついてて、ブロガー1人ひとりにお金が落ちてくる仕組みができあがってて、誌面にも登場させてお金に換えていくんだけど、日本ってそういうことがビジネスにまで昇華されてないよね。できればその中学生にも高校に入った時点で起業してほしいくらい。オフラインがオフラインのままで終わっちゃってるもんね。T:オフライン・オンラインでいうなら、最近ファッション業界もフェイスブック、ツイッター、タンブラーなどオンラインに力入れてるイメージはありますよね。O:やっぱり情報の見やすさとか速さとかに気を配ることは大切なことで、それは僕らコレクションブランドにもできることかなって思ってる。日本人もスマホ持つようになってきたからそんなに気にしなくていいとはいえ、地方に行ったら未だにガラケー率がすごく高くて、その人たちとの差を埋めるにはどうすればいいかってことを考えるよね。一昔前だと、NIGO(R)さんがやってた頃のベイプ(ア ベイシング エイプ)のホームページなんてすごかったんだよ。クリックするとメニューの表示なんかも全部ベイプのキャラクターに変わって、あっという間に画面全体がキャラクターに埋め尽くされちゃうみたいな。ウェブの専門家が見ても驚くような仕掛けがあった。反面、Macが「Performer」のころくらいのフォントで書かれたメニューをクリックして、ただ内容を見るだけっていう、マルタンマルジェラの(当時の)ホームページみたいなのもあって、それはそれでそういうスタイルだったんだけど。でも今って、「いかに速くて便利か」ってことが最も重要で、情報も生っぽいものが速く伝わるほどいいじゃない?多分あともう1年くらいしたら、ウェブ制作会社とか存続が危うくなると思うんだよね。俺とか谷君でも、「これとこれコピペしてここ書き換えたらたらこうなる」って感じで簡単にホームページ作れちゃうと思うし、コーディングの知識なんて必要ない時代がくるんじゃないかって。既に海外のアグレッシブなブランドなんかだと自分達でタンブラーレベルで情報出してるけど、それで十分かっこいいんだし。エヌハリ尾花大輔×STUDIOUS谷正人が語るファッションデジタルマネジメント--2/2【対談】に続く。
2014年10月31日1世紀に渡り親しまれてきた新宿の老舗食品メーカー「中村屋」が、新宿本店ビルの建て替えにあたり、新たに「中村屋サロン美術館」を開館する。10月29日のグランドオープンに先駆けた内覧会では、開館記念特別展「中村屋サロン―ここで生まれた、ここから生まれた―」がお披露目された。新宿中村屋ビル3階に設えられた中村屋サロン美術館は、展示室と多目的スペースを備えた約240平方メートルの文化芸術施設としてオープンする。白と赤の壁、木製の什器とレトロなランプが落ち着いた雰囲気。開館記念展は、中村屋から広まった近代日本の芸術潮流であり、また館名の由来ともなった「中村屋サロン」にスポットを当てる。荻原守衛、中村彝、高村光太郎、會津八一、中原悌二郎ら関連する作家による絵画、彫刻および書など約50点を集め、明治から昭和に掛けての芸術家達の文化交流の様相を提示した。中村屋の創業者である相馬愛蔵・黒光夫妻は芸術に深い理解を示した文化人である。愛蔵と同郷の彫刻家・荻原守衛(碌山)を中心に、中村屋には多くの芸術家達が自然と集い、その様子がさながらヨーロッパのサロンのようであったことから、夫妻のもとに開花した芸術潮流は「中村屋サロン」と呼ばれた。同館の染谷省三館長は、「ここ新宿中村屋で生まれ、発信された芸術文化は中村屋のアイデンティティーである。それを後世に伝え、また人々の文化的集いの場“サロン”となる美術館にしたい」と話す。本展の目玉となる作品が、萩原守衛によるブロンズ彫像『女』だ。不安定な膝立ちのポーズに秘められた躍動感を感じる一作であり、その造形美は必見である。同館の太田美喜子学芸員は、「美術史上ではよく知られた“中村屋サロン”の一般認知度の低下を食い止めるとともに、若者にその存在をもっと知ってもらいたい」と言い、若い世代の鑑賞者に向けて、出品作の中から中村彝の油彩画『小女』を推薦した。相馬夫妻の長女・俊子をモデルに制作された本作は、肺病に侵された画家とモデルの恋のエピソードで有名。俊子の強いまなざしときりりとした太い眉、頬にさす紅色の生命感が鮮烈で、どこか現代にも通ずる魅力を持った作品だ。その他、高村光太郎の『自画像』や、鶴田吾郎の『盲目のエロシェンコ』など有名作が出展され、コンパクトながら見どころの多い展覧会にまとめられた。かつて多くの企業美術館が立ち並んだ新宿。新たな新宿の芸術サロンとしての同館の今後に注目したい。【イベント情報】中村屋サロン美術館 開館記念特別展「中村屋サロン―ここで生まれた、ここから生まれた―」会場:中村屋サロン美術館住所:東京都新宿区新宿3-26-13 新宿中村屋ビル3階会期:2014年10月29日から2015年2月15日時間:10:30から19:00休館日:火曜日、1月1日(火曜が祝祭日の場合は開館、翌日休館)入館料:300円
2014年10月22日「ケイタ マルヤマ(KEITA MARUYAMA)」の20周年と、デザイナー・丸山敬太が手掛けた全集大成作品集『丸山景観』(六耀社刊)の出版を記念して、代官山蔦屋書店2号館1階のフェアスペースにて『丸山景観』フェアを10月23日まで開催中だ。『丸山景観』作品集や関連書籍以外にも、繊細な植物や日本の伝統的な図柄をモチーフとしたオリジナルプリントのノートやクリアファイル、ポストカード、Tシャツを始めとする限定商品を販売。本書のアートディレクターを務めた森本千絵がフェアのために作成したポスターのオリジナル原画も展示し、B2サイズを販売予定。10月3日の19時より、丸山と森本によるトークショーを代官山蔦屋書店3号館2階の音楽フロアにて開催。参加券もしくはフェア対象商品購入者先着50名が参加できる。トーク終了後にはミニサイン会も実施予定。『丸山景観』は、丸山の20年間の軌跡をまとめた作品集。24年間手掛けてきた「ドリームズカムトゥルー(DREAMS COME TRUE)」のステージ衣装も18ページにわたり特集し、吉田美和と中村正人との対談も収録。8月には表参道ヒルズで『丸山景観』全集大成展が開催され、浜崎あゆみや一青窈の舞台衣装などコレクション約200点が出品された。
2014年09月26日中村アン 秋冬イベント出演抜群のプロポーションにストレートな発言で人気急上昇中の中村アンさん。バラエティ番組にひっぱりだこの彼女はタレントとして活躍の幅を広げています。もちろん、本業ともいえるモデルのお仕事もノリにのっていて、彼女のオフィシャルブログによれば、8月~10月にかけて複数のファッションイベントに出演が決まっています。ヘビロテアイテムは?同ブログでは、彼女のプライベートをのぞき見ることができ、7月23日付けの記事ではヘビロテアイテムを紹介。「カシウエアの触りに病みつきです」と愛用品を大絶賛しています。また、私服も公開されており、同ブログ7月26日付け記事では、オーシャンパシフィックの水着写真が載せられています。「かわいいし 形がキレイだししっかりしてる」とモデルらしいコメントも。もう秋物ですトレンドの先取りがモデルの宿命。同ブログ7月27日付けの記事では、「and GIRL」の撮影で秋物の撮影をしたことを明かしました。スタッフが半袖のなか、長袖のトップスや厚手のパンツをスマートに着こなす姿はさすがプロ!モノトーンのシックなコーディネイトが秋らしさを誘っています。しかし、同日の私服はスイカ柄のワンピース。スタバのドリンクを片手にまだまだ夏を楽しんでいる写真がアップされています。【参考】・中村アン オフィシャルブログ
2014年07月29日資生堂ギャラリーは、昨年永眠したグラフィックデザイナー兼アートディレクターの中村真の没後初となる回顧展「中村誠の資生堂 美人を創る」を開催している。6月29日まで。本展では、資生堂のイラスト広告を写真広告へと転換させた中村の創作プロセスを、自宅に遺されていた記録写真や校正刷りポスターなどの未公開資料を交えながら展示。モデルに山口小夜子を起用した香水の広告など、数々のポスターも紹介する。デザイン評論家の柏木博、グラフィックデザイナーの佐藤卓と松永真を迎えてのトークショーも6月22日の14時より資生堂銀座ビル3階の花椿ホールにて実施(申し込み制)。中村は1926年岩手生まれ。東京美術学校(現・東京藝術大学)を卒業後し、49年に資生堂に入社。写真を用いた写真表現で頭角を表し、50年代半ばから80年代まで多くの広告を製作した。資生堂の宣伝部政策室長から顧問までを務め、国際グラフィック連盟などで幅広く活動し、93年に紫綬褒章受章。2013年6月永眠。【イベント情報】「中村誠の資生堂 美人を創る」展会場:資生堂ギャラリー住所:東京都中央区銀座8-8-3東京銀座資生堂ビル地下1階会期:6月3日から6月29日時間:11:00から19:00(日曜日は18:00まで)休館日:月曜日入場無料
2014年06月10日戦前のイラスト広告を写真へ資生堂ギャラリー(東京都中央区)で昨年永眠した中村誠氏の回顧展「中村誠の資生堂 美人を創る」が開催される。中村誠氏は資生堂の広告を数多く手がけてきたグラフィックデザイナーでアートディレクター。1949年に資生堂に入社してから戦前の資生堂のイラスト広告を写真広告へ転換させた人物として知られている。ただ単にイラストから写真へ変えただけでなく、その仕事内容は実に繊細なもの。中村氏は生前「計数に表現することのできない表情とか、雰囲気、空気感を大切にしてきた」と語っていた。資生堂が確立していた独自のイラスト広告の伝統を受け継ぎながら、製版の工夫、大胆なトリミングといった手法により広告を進化させていった。(画像はプレスリリースより)「一業、一社、一生、一広告」中村氏が築いたスタイルは他の人ではできなかったということは、こんなエピソードからうかがえる。「一業、一社、一生、一広告」、これは中村氏が企業デザイナーとして掲げていたモットー。「企業のアイデンティティーをビジュアライズするのがアートディレクターの仕事」と語っており、生涯、企業イメージの創出に力を注いだ。そんな実直な意識のもと生み出された広告だからこそ、見る人に深い印象を与えるものになったのだろう。中村氏の広告は国内だけでなく海外でも賞を得るなど世界的に高く評価されている。回顧展は2014年6月3日(火)~6月29日(日)11:00-19:00 (日曜のみ11:00-18:00) 開催される。【参考】・株式会社資生堂 プレスリリース(PRTIME)
2014年05月30日2月より六代目中村勘九郎襲名披露興行を行う中村勘太郎が都内で取材会を行い、現在の心境を語った。襲名興行は2月に東京・新橋演舞場にて、3月に東京・浅草の平成中村座で上演後、主要都市を回る。新橋演舞場二月大歌舞伎<中村勘太郎改め六代目中村勘九郎襲名披露>チケット情報「演舞場と中村座で襲名興行ができるのは、なんだか勘九郎らしいですね。父が19歳の時から夢見て建てた中村座で初の襲名ができる。うれしいですね」と勘太郎。父・勘三郎が勘九郎時代に築いてきた功績は数限りない。1994年よりほぼ毎年、若者の街渋谷で『コクーン歌舞伎』を上演。また、現代の作家に新作歌舞伎を創って欲しいという思いから、串田和美、野田秀樹、渡辺えり、宮藤官九郎などに演出や執筆を依頼し新たなファンを掘り起こした。2000年には中村座にゆかりある浅草に仮設劇場を建て、“平成中村座”として公演を行った。その後この一座は日本国内のみならず、世界各地で上演を行っている。そんな勘九郎の名を継ぐ重責については「とりあえず怖い」と話す。「やっぱり戦ってきた名前ですから。(中村座やコクーンでの上演は)歌舞伎を愛してもらいたい、色々な人に知ってもらいたいって。危機感をずっと持っていたんでしょうね。お客様が入ってくれなきゃ話にならないですし。ただ、新しいことをするとよく思わない人もいますよ。いいものをすることによって戦うというか。熱い魂を持って戦ってきた名前ですね」12月の中村座は勘太郎として最後の舞台出演になる。「今月はいい最後を迎える事ができるんじゃないかな。『積恋雪関扉』の関兵衛は今までの役者人生の中で一番苦心した役ですね。演じた者にしかわからない苦しみや疲れがあります。勘太郎という名前で関兵衛をやらせてもらい、偉大なる先輩方が愛した役で、同じ疲れを自分自身で体感でき、歌舞伎ってこういう楽しさもあるんだなと思いました」今年は震災はもちろん、長男の誕生、父の病気、祖父(七代目中村芝翫)の逝去と勘太郎にとっても大きな出来事が続いた。「すごい年になっちゃいましたね。(父の代役を務めた際)命を削ってでもやりますと言ってたら、本当にそれぐらい大変でした(笑)」2月興行では『土蜘』の僧智籌と、『河内山』松江出雲守、『春興鏡獅子』の弥生での出演が決定している。「『土蜘』は、今まで中村屋にあまり縁のなかった役ですが楽しいです。弥生は、祖父(七代目中村芝翫)と1対1でずっと稽古をやってました。父も祖父もすごく大事にしています。おじいちゃま(十七代目中村勘三郎)も。全員の血が入っているから大切にしなければと思いますね。3人とは体型が違うので、当時振り付けられた踊りをどうこの身長で踊るかですね」襲名興行まであと僅か。「今月の“勘太郎”最後をまずは楽しみたいです。襲名はお祭りですからね。お客様にも楽しんで頂いて、一緒に祝って欲しいです」。公演は2月2日(木)から26日(日)まで新橋演舞場で上演。その後、3月平成中村座、9月に大阪・松竹座、10月に名古屋・御園座、12月に京都・南座、2013年2月に博多・博多座で上演される。
2011年12月22日歌舞伎俳優の中村勘太郎が、来年2月に六代目中村勘九郎襲名披露の成功を祈願して11月27日、東京・浅草寺でお練りを行った。父、中村勘三郎と弟の中村七之助らとともに雷門前を出発し、ゆっくりと本堂までお練りを開始。晴天となったこの日、人気役者を一目見ようと2万5千人が集まり、「中村屋!」と声がかかると笑顔で応えていた。新橋演舞場二月大歌舞伎<中村勘太郎改め六代目中村勘九郎襲名披露>チケット情報勘太郎は「勘九郎という、父が46年間名乗っていた名前を継ぐプレッシャーはあります。みなさまからの笑顔とご声援を胸に、1年間しっかり務めたいと思います」と挨拶。また勘三郎は「勘九郎っていい名前ですけど大した事ありません。(自分が)勘三郎を継いだ時のほうがプレッシャーがありました。気楽にいい勘九郎にしてもらいたい」とエールを送った。勘九郎を名乗る実感がまだ湧かないという勘太郎だが、「謙虚な気持ちと向上心と、ハングリー精神を忘れないように務めたい」と話し、気持ちを引き締めていた。なお、勘太郎としての出演は今年12月の『平成中村座』(東京・浅草)が最後となる。襲名披露は、来年2月2日(木)から26日(日)まで東京・新橋演舞場にて興行を行い、その後、3月に平成中村座、9月に大阪・松竹座、10月に名古屋・御園座、12月に京都・南座、2013年2月に福岡・博多座と各地を回る。新橋演舞場のチケットは12月23日(金)より発売。
2011年11月28日今年9月、東京・新橋演舞場『秀山祭九月大歌舞伎』興行で、三代目中村又五郎、四代目中村歌昇をそれぞれ襲名する歌舞伎俳優の中村歌昇と長男の中村種太郎が、中村吉右衛門、中村歌六らとともに8月22日、東京・浅草寺で「お練り」を行った。チケット情報鳴物の山車と木遣り(きやり)に先導され、雷門を盛大に出発。1万人の人で賑わう仲見世を経て、「播磨屋!」、「又播磨!」などの掛け声が飛び交う中、本堂に向かい成功を祈願した。朝から激しく降っていた雨も「お練り」が始まるとすっかり止み、天さえも味方につけているかのよう。なお、浅草寺での「お練り」は2005年1月の中村勘三郎以来6年7か月ぶり。三代目又五郎を襲名する中村歌昇は、「本日は本当にありがとうございます。お天気の悪い中、木遣りの方々、お囃子のあやめ連の方々、浅草の芸子の皆様、ありがとうございます。皆様のご声援に応えるべく、この道一層の精進をいたし、ひとかどの役者になることが、皆様へのご恩返しだと思っております」とコメント。また、四代目歌昇を襲名する中村種太郎は「このようにお練りをさせていただくことは、色々な方々のお力があってのことだと思っております。感謝の気持ちを持って、一所懸命舞台を勤めることが一番の恩返しだと思ってております」と抱負を語った。播磨屋一門の長である中村吉右衛門は「本日はお足元の悪いなか、かくも賑々しくお運びいただき誠にありがとうございます。皆様方のお力によって、舞台で力を発揮できることと思います。ぜひとも又五郎、歌昇をどうぞ宜しくお願いいたします」と締めた。公演は同劇場にて9月1日(木)から25日(日)まで上演。チケットは発売中。
2011年08月23日