神木隆之介の出演が明らかになり、さらに注目を集める映画『妖怪大戦争 ガーディアンズ』。この度新たに、大沢たかお演じる狸の大妖怪・隠神刑部の登場シーンが公開された。突如出現した妖怪獣によって、未曽有の危機が訪れる中、世界を救う勇者に選ばれた少年ケイ(寺田心)と妖怪たちの大冒険を描く本作。豪華キャスト陣が本格的すぎる特殊メイクで妖怪を熱演し話題となっている本作だが、今回到着した映像は、中でもひときわ孤高の存在、隠神刑部の登場場面。敵でも味方でもない独特の立ち位置で、ケイの前に立ちはだかる存在だ。808匹の狸を引き連れ、炎を纏ったバイクを飛ばし、ケイたちのもとへド派手に登場する隠神刑部。あまりの豪傑っぷりにケイも唖然…。また雪女(大島優子)が隠神刑部への恋心から思わず頬を赤らめる場面も。そして、隠神刑部は人間嫌いなため、妖怪獣を食い止めようとするケイや日本妖怪たちのリーダー・ぬらりひょん(大森南朋)と真っ向から対立。ケイに近づき忠告するシーンでは、その迫力に圧倒されてしまう。隠神刑部の圧倒的なスケール感が伝わってくる映像となっている。そんな隠神刑部について、三池崇史監督は「人間が支配しているように見える地球のその先を見据えて、その視点から人間と対峙している存在」と言い、「スケールのでかい孤高の野獣、男なので、やっぱり大沢さんが一番ふさわしいと思った」と起用理由を明かしている。『妖怪大戦争 ガーディアンズ』は8月13日(金)より全国にて公開。(cinemacafe.net)■関連作品:妖怪大戦争 ガーディアンズ 2021年8月13日より全国にて公開©2021『妖怪大戦争』ガーディアンズ
2021年07月20日Twitterやnoteで子育てに関する『気付き』を発信している、保育者のきしもとたかひろさん。連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』では、子育てにまつわる悩みや子供の温かいエピソードなど、親や保育者をはじめ多くの人の心を癒します。第14回は、つい他人と比べてしまうことについて、きしもとさんが持論を展開します。第14回『みんな頑張ってて、みんな怠けてる。』梅雨なのに何日か気持ちのいい晴れた日が続くことを梅雨の中休みというらしい。カラッといい天気だったので、7歳の友人を誘って少し遠い普段行かない公園に行くことにした。宿題を持ってきたので公園へ行く前に済ませることに。二桁の足し算をする横で応援しながら、学校楽しい?なんの授業が好き?と、邪魔もしていた。邪魔されているのに律儀に「国語と道徳が嫌いかなー」と答えてくれたので理由を聞いてみると、道徳の授業で聞いたらしい物語を話してくれた。サルくんがロボットを作って学校に持ってきました。みんなが「すごーい」と言ってサルくんの周りに集まってるのを見て、クマくんは「僕も作ったことがあるよ」と言いました。そしたら、みんなから「持ってきて見せてよ」と言われました。クマくんは急にお腹が痛いと言ってどっかに行ってしまいました。クマくんの気持ちはどんなだったでしょうか?伝聞調ではあるけれど、しっかり話を聞いて理解しているのが分かる。伝わるように話をしてくれたのを聞いて、むしろ国語得意なんじゃないかと思ったが、得意だからといって好きだとは限らないか、と思い直す。ほんでほんで?って続きを聞くと、「どう思うか聞かれてんけど、うまく答えれへんかってん」と、その時のことを思い出すのかしょんぼりしている。「どう思ったの?」と尋ねると「ズルイと思ったって思ってん」と小さな声で自信なさげに応えてくれた。的外れな答えとは思わない。「みんなにすごいなーって言われてるサルくんをクマくんはズルいって思ったんか」と、言葉を補足しながらその「ズルい」の意味を汲み取ろうとしてみる。自身が友達をみて「ズルい」と思うことがあるのかもしれないな、と学校生活を想像する。その「ズルい」が、羨ましいなのか妬ましいなのかは分からないけれど、自分にとって知っている感情で、それがその言葉なのだろう。「あの子だけズルいなーって思うことあるもんなあ。クマくんもサルくんみたいにみんなからすごいって思ってもらいたかったんかもしれへんなあ」と、何かの答えに誘導するわけではなく、例えば映画を観ながらヒロインの心情を考察するくらいの気軽さで、話してみた。「うんうん、そやろそやろ」と頷いてくれる。「けど、みんなの答えは違っててな」と、また急にトーンが下がる。「自分だけ間違えてると思って泣きそうになってん」と。発表してみんなから非難を浴びたんだろうか。発表する前にみんなの答えを聞いて自分は間違っていると思って自信をなくしたんだろうか。「それは辛いなあ、けど間違ってないと思うで」と伝えると、「あ、泣きそうになったってのは言い過ぎやったわ!」と急にケロっとするので、思わず吹き出してしまった。泣きそうになってないんかい!とツッコミながら、けれど、と思う。具体的な辛さは分からないけれど、その泣きそうになるっていう気持ちは分かるような気がする。僕も同じような思いになったことが、いつかあったかもしれない。自分の感じたことや考えたことは間違っているかもしれない。みんなとは違うかもしれない。みんなは分かっているはずなのに自分は分かってないかもしれない。そんな漠然とした不安で苦しくなることがある。答えのないものを答えられるか試されているような、自分の考えがあるのか試されているような。正解がないというのなら答えさせないでおくれよ、と愚痴りたくなる。夕方18時前に電話がなる。僕が体調を崩してから、ドイツにいる友人がほぼ毎日同じ時間に電話をかけてきてくれる。少しだけ世間話をした後で将棋のネット対戦を3局だけ楽しんで、ではまたと電話を切る。だいたい僕がうっかり飛車を取られてそのまま負ける。心配してくれているのと、息抜きなのと、将棋で僕をぶちのめしたいのと3:3:3くらいの割合だろう。残りの1割はなんだろうな。その日電話に出ると、開口一番「よくない話があったんだけど聞いてくれる?」と、尋ねられた。海外映画では「いい話と悪い話どっちが先に聞きたい?」というような台詞を聞くけれど、日本では先に断ることってあまりないよなあと、どうでもいいことを思いながら「聞こうか」とそれっぽい返事をする。「ドラッグストアに石鹸とスマホ用のプリペイドカードを買いに行ったんだけど、買うもの2つだけだからメモせずに行ったのね」ドイツのドラッグストアはコンビニみたいな感じなのかな、と想像する。「で、プリペイドカードはすぐ見つかって、あと、最近おじさんになってきたからか肌荒れひどいしYouTubeでビタミン入りの美容液がいいって見たのを思い出して、せっかくドラッグストアに来たからと思って買ったんだよね」急におじさんのお肌事情の話に飛ぶ。お肌にはビタミンがいいのか。ビタミンてのは何にでも効くんだな、YouTubeはなんでも教えてくれるんだなと、またどうでもいいことを考える。「買うもの2つだから満足して帰ってきたんだけど、家に着いて手を洗おうとした時にさ」と話したところで、「あ、石鹸」と、思わずオチを言い当ててしまった。これもまた映画っぽいやりとりだなとくだらないことを考えていると「ほんま自分が嫌になるわ〜」と、オチを横取りされたことを気に留めずに自身の失態に落ち込んでいる。「あるよなあ」と共感する。「あるんや」と意外そうだったので、そんなきっちりしてるように見えるのかな?と思いながら「うん、毎日のようにあるで。毎日というか、1日に何度も」と返すと、「俺はたまにでこれだけ落ち込んでるのに、それが毎日なんて、生きてるの嫌になれへん?」と心配された。ものすごい勢いで失礼なことを言うな。「けど安心したわ」と続けたので、失礼には目を瞑ることにした。ダメな自分と同じような姿を他の人にも見えたら安心する、その気持ちはとても分かる。それは、蔑んだり見下したりするという意味ではなくて、この人も完璧じゃないんだと思えて、同じ人間なんだと思えるからだ。自分は人と比べてできていないなあ、と思うことはよくある。僕はとくに、よく忘れ物をするし、優柔不断だし、うっかりミスもする。大人になってもできないことだらけだ。だから、きっちりしてる人と話す時はいつも心なしか緊張する。ズボラだとか雑だとかダメなやつだとか思われてるんじゃないかと不安になる。逆に、きっちりしている人からすれば、ゆるい人と話すときには、「柔軟で臨機応変に対応できる人との会話は緊張する」と思っているかもしれない。いや、それは都合よく考えすぎか。僕はいつもどこかで、自分はダメだなあと思っている気がする。ただ人と比べてダメだなあと思うだけならいいんだけど、しんどいのは自分が頑張りたいのに頑張れない時だ。これじゃダメだと分かっているのにできなくて情けなくて、でもどうしたらいいか分からなくて頑張れない自分を責めてしまう。こんな風にできたらいいなって前向きに思えたらいいけれど、それじゃダメだぞ、としっかり後ろ向きに考えてしまう。几帳面できっちりしているのと、ズボラで優柔不断なのとだったら、どっちがいいだろう。感情的な人と理性的な人とどっちがいいだろう。自分がなれない「それ」になろうとすることはいいことかもしれないけれど、その前に「それになれない自分」を責めてしまって潰れてしまいそうになる。「自分を責めちゃダメだよ、自分はそのままでいいって思おうよ」って言葉で、さらに自分を責めて抜け出せなくなっていく。どちらが善くて、どちらが悪いって思ってしまうけど、きっと本当はどちらも悪くない。その人はたまたまきっちりしていて、僕はたまたま忘れっぽいだけ。ズボラなことで誰かに迷惑をかけることもあれば、きっちりしていることで誰かを傷つけることもあるかもしれない。几帳面なことで助かる人がいるかもしれないし、ゆるいからこそ救われる人もいるかもしれない。都合よく考えすぎかもしれないけれど、そういうことにしようと思う。できている人とできていない人を分けて「できている人が正しくて、できていない人が間違ってる」ってしてしまうのは、とってもしんどいもの。こんな人間でいたいな、と思うことがある。子どもと関わる時にこんなことに気をつけたいな。と思うことがある。けれどできなくて、自分はできないなあって思ってしまう。もしかしたら、みんなが「自分はダメだなあ」と思っているかもしれない。そんなふうに思ってみると、少し気持ちが楽になる。みんな頑張ってて、みんな怠けてて、みんな自分はこんなんじゃダメだって思ってて、頑張りたいけど頑張れなくて、みんな怠けてて、みんな頑張ってる。やっぱりそれも都合よく考えすぎかもしれないけれど、そういうことにする。余談ですが無事宿題を終わらせて、少し離れた広い公園へ来た。芝が傾斜になっていて、その芝を上下に挟むように細い歩道がある。子ども連れが数組レジャーシートを広げている。「そういえば小さい頃ここで転けたことあるねんで」と、芝を指差し、スマホに保存されている動画を見せてあげる。当時2歳の友人の手を握って芝の坂道を登っているときに、僕の方が足を滑らせて転んでしまい、その勢いで一緒に転んで大泣きしてしまったのだ。大の大人がひっくり返る動画を見て声を出して笑ってくれたので、どさくさに紛れて「ごめんね泣かして」と7歳になった本人に改めて謝罪した。「悪くないよ!」と返ってきた。「でも、巻き込んじゃったからさ、悪いのは悪いねん」と説明しても、「悪くないってば!」と強めに返してくる。気を遣わせてしまったかなと思いながら、身軽に大型遊具を登るのを離されないように追いかける。なんて言えばいいか分からないから「許してくれてありがとね」と伝えた。すると「好きな人のこと悪いって言いたくないし、自分が悪いんやって思ってほしくないもん」と小さな声で言うのが聞こえた。大事な人のことを悪いって言いたくないし、大事な人には自分が悪いって思ってほしくない。こんなにシンプルなことを、僕は言葉にされてようやくなにより大切なことだと気づく。優しさとか慈しみとか凡庸な言葉しか浮かばない。分かっているのに、僕はあなたに自分が悪いって思わせているかもしれない。分かっているのに、僕は自分で自分のことを悪いって思ってしまっているかもしれない。また自分はダメだなあって思いそうになっている。けれど、君がそう言ってくれるなら、自分で自分のことを悪いって思わないことにするよ。長いローラーすべり台を滑り降りながらそんなことを思って泣きそうになった。いや、泣きそうになったってのは言い過ぎやったわ。きしもとたかひろ連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』[文・構成/きしもとたかひろ]きしもとたかひろ兵庫県在住の保育者。保育論や保育業界の改善について実践・研究し、文章と絵で解説。Twitterやnoteに投稿している。⇒きしもとたかひろnote⇒きしもとたかひろTwitter
2021年06月27日今年も登場!人気のギフトチケット株式会社不二ビューティは、展開するエステティックサロン「たかの友梨ビューティクリニック」とエステティシャンコスメ通販「たかの友梨ビューティショッピング」において、『2021たかの友梨サマーギフトチケット』の数量限定販売を開始した。『2021たかの友梨サマーギフトチケット』は、夏季限定のチケットであり、美と癒やしのひとときを楽しめるプレミアムな体験型ギフトとなっている。ボディまたはフェイシャルコースのどちらか1コースを利用できる。チケット価格は、お得な10,000円(税込み)である。数量限定販売のため、早めの申し込みをギフトチケットで利用できるボディコースは、“インド伝統デトックトリートメント”インド式アーユルボディ(約60分)。今年登場した新コースを体験できる。人肌に温めたセサミオイルをたっぷり使用し、手技で全身を流れるようにトリートメントする。通常ビジター価格は、25,300円(税込み)。フェイシャルコースは、“艶色美肌フェイシャル”速攻ビタミントリートメント(約60分)。肌の状態に合わせてビタミンエッセンスを選んで補給。ハンドテクで顔~デコルテ~背中までトリートメントする。海藻ミネラル成分配合のパックで引き締めて、ハリと艶のあふれる若見え肌へ導く。通常ビジター価格は、19,250円。有効期限は、発行日から6か月間。「たかの友梨ビューティクリニック」の全サロンで利用が可能となっている。販売期間は、8月31日まで。4,000枚の数量限定販売であり、なくなり次第終了となる。(画像はプレスリリースより)【参考】※プレスリリース株式会社不二ビューティ※サマーギフトチケット
2021年05月18日フレンズが4月30日、昨年末より活動休止をしていたメンバー・ひろせひろせ(MC / Key)の脱退を発表した。配信がスタートした新曲「急上昇あたしの人生」のミュージックビデオも公開されている。この脱退の発表により、今後はえみそん(Vo)、三浦太郎(Cho/Gt)、長島涼平(Ba)、関口塁(Dr)の4人でバンドは継続。そして新体制となったフレンズの初の新曲となる本MVでは、えみそんが初めてMVの監督を務めている。自らが企画立案しアイデアに溢れた演出で、疾走感ある楽曲の世界観を見事に表現。音楽のみならず多彩な才能を発揮し、これからのバンド活動に期待が膨らむ見応えのある内容だ。楽曲自体は、ひかりTVオリジナルドラマ『取り立て屋ハニーズ』の主題歌として好評配信中。新ビジュアルも、これからも様々な形で楽しませてくれる予感のする、爽快なメンバーの姿が印象的なものだ。新たなフェイズを迎えたフレンズの今後の更なる飛躍を期待しよう。■リリース情報『急上昇あたしの人生』4月30日(金)配信リリース■公演情報「フレンズワンマンツアー “UNO!”」5月29日(土)会場:愛知・THE BOTTOM LINE1部:開場15:30 / 開演16:002部:開場18:00 / 開演18:305月30日(日)会場:大阪・Banana Hall1部:開場15:30 / 開演16:002部:開場18:00 / 開演18:306月5日(土)会場:東京・duo MUSIC EXCHANGE1部:開場15:30 / 開演16:002部:開場18:00 / 開演18:30※各回90分程度の公演を予定。料金(税込):全自由¥5,000※未就学児入場不可※お一人様2枚まで※ドリンク代別途必要※政府指定のガイドラインに沿った形での開催。※オンライン配信の予定なし
2021年04月30日女優の前田敦子が23日、自身のインスタグラムを更新し、俳優の勝地涼と離婚したことを報告。勝地も公式サイトで報告した。前田は「私事ですが、私、前田敦子は、勝地涼さんと何度も話し合いを重ね、過日、離婚届けを提出したことをご報告いたします」と報告。「3年間の結婚生活において生活スタイルや価値観の違いで、少しずつ、お互いの歩幅や方向が変わり、別々の道を歩くことになりました。夫婦ではなくなりましたが、一人息子にとっては永遠に父親であり、母親でありますので、今後も力を合わせて育てていきます」とつづり、「これまでの経験を生かしこれからの前田敦子も役者業を精進して参りますので、勝地涼さんともども、よろしくお願いいたします」と呼びかけた。勝地も「前田敦子さんと時間をかけて協議を重ねて来ましたが離婚という選択になりました事をここに報告させて頂きます。このような結果になったのは、自分の至らなさによるものだと思っています」と報告。「息子に対しては、父親として立場は変わる事はありません。息子としっかり向き合い、今後も引き続き協力して子育てして参りたいと思っています」とし、「今後とも前田敦子さん共々、御指導の程よろしくお願い致します」と締めくくった。2人は2018年7月に結婚し、2019年3月には第1子となる男児の誕生した。
2021年04月23日Twitterやnoteで子育てに関する『気付き』を発信している、保育者のきしもとたかひろさん。連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』では、子育てにまつわる悩みや子供の温かいエピソードなど、親や保育者をはじめ多くの人の心を癒します。子供の成長は、とても喜ばしいもの。ですが結果だけに目がいってしまい、大切なものを見落としてしまっているかもしれません。第13回『すこしずつ、変わっていくだけ。』こないだ、ピーマンを生で食べた。7歳になった友人と食事をしている時に、学校の給食でピーマンが出るとテンションが下がるという話になった。面白半分で「そういえば、こないだピーマンを生で食べてんけど、意外とこれが美味しくて」と話をすると「食べてみたい!」と言い出した。間違いなく好奇心だけで言っている。その好奇心を取りこぼさないように冷蔵庫からピーマンを取り出し、手渡して種をとる方法を教えてあげた。流水で洗って塩をかけると、嫌いだと言っていたのに好奇心の方が勝ったのか勢いよくかぶりついた。パリッと“美味しそうな”音が鳴る。もぐもぐと味わいながら笑顔になったので「おいしい?」と尋ねると、表情を歪ませてお皿に吐き出した。美味しいのは音だけだったらしい。苦い後味を紛らわすために白米を口いっぱいに含む。「出しちゃったけどさ、学校のみんなには食べたって言おう」と笑っていた。「味はどうでしたか?」という質問には「まずかったです!」と元気に答えたのに、しばらくしてから「もう一回食べてみる」と言い出した。クセになるのだろうか。せっかくなので次はマヨネーズをかけてみることにした。すると、さっきより苦味が少ないのか、一口食べて「これはイケる」とばかりに追いマヨネーズ。二口三口と食べ進め、「食べてみて?美味しいわ」と嬉しそうに勧めてきた。それから面白くなって、ケチャップやソースでも試してみた。「ケチャップが美味しいって思ったけど、やっぱりマヨネーズが一番やわ。そのままで食べるのは苦いので0点です!」と、ゲラゲラと笑いながら、結局1人でまるまる一個食べてしまった。僕はピーマンを見るたびにその時のことを思い出しては、パリパリッという心地いい音とゲラゲラと笑う声が耳に蘇ってつい口元が緩む。ピーマンは子どもの嫌いな食べ物の代表格だ。子どもの舌は苦味を感じやすいから無理に食べさせることはないと聞いたことがある。好き嫌いが多くて不安だという子育て中の悩みはよく聞くけれど、ピーマンに限らず嫌いなものを無理に食べることはない。好き嫌いはよくない、という価値観は根強いけれど、無理に食べさせようとすることで、逆に食べること自体が嫌いになっては元も子もない。まず食べることを楽しむことができたら、いつか食べられるようになるかもしれない。もちろん食べられるようにならないかもしれないけれど、ピーマンを食べられなくても生きてはいける。嫌いなものを克服できた。それはきっと本人にとって喜びだろうし、大人にとっても何か成長の瞬間に立ち会ったようで嬉しく感じる。だけどなぜだか、この生ピーマンを食べた話を「苦手を克服した話」にすると、違和感がある。なんでだろうと考えて出た答えは単純明快で、僕が伝えたいと思ったのはその子が苦手を克服したことではなくて、まずそうな顔をしたり美味しそうな顔をしたりして笑い合ったその時間なのだ。ただ楽しく食事をした。いろんな調味料を出してきて、半分遊びみたいだから行儀が悪いかもしれないけれど、とにかく楽しかった。それを伝えたいのに「苦手を克服した」というレンズ越しに見ると、途端にそのおもしろさが見えなくなる。できなかったことができるようになった。それがとてもいいことのように感じる。もちろん、いいことなんだろうけれど、そればかりに目がいってしまって大切なものを見落としてしまっている。そんなことって意外と多くあるかもしれない。同僚が「去年やんちゃだった子が、今年に入ってから落ち着いて過ごしているんです」と話していた。何気なく「成長ですね」と答えた。すると「本当にそれが成長なんですかね」と返ってきた。僕の言葉への批判という感じではなかった。自問するように「大人しく過ごせるようになった、トラブルを起こさなくなったということが成長なんですかね」と考えを巡らせているようだった。何年か前に訪問した保育園での出来事を思い出す。子どもたちが整列して朝の会をしていた。その横で、ひとり、でんぐり返りをしている子がいた。僕が笑って見ていると、それに気づいて嬉しそうにまたでんぐり返しを見せてくれた。周りの子どもたちがその子に「ちゃんと並びや!」と注意をしているのを聞いて、僕も空気を読んで、みんなと一緒に並ぶよう促した。その後も何度かそんな場面があり、その子はじっとしていたりみんなと同じ行動をすることが苦手なんだろうということが見て取れた。別の日に、体育館のようなところで音楽会の予行演習があった。本番を想定して舞台に上がって演奏していて、緊迫した雰囲気が漂っていた。その子はというと、でんぐり返しはしていなかった。普段の姿とは別人のように、かしこまって楽器を演奏していた。その時の僕は、どんなことを感じたんだっけ。「やればできる子なんだ」とか、その子の良い姿を見たような気がしたのだと思う。演奏の途中でその子がトイレに行きたいと言ったので僕が付き添った。手を洗うその子に、僕は「上手に演奏してたね、楽しかった?」と尋ねた。するとその子は、少しムッとしたような顔で「楽しいとかちゃうねん」と答えた。予想もしない返事で戸惑ってしまった。「頑張ってんねんから、楽しいとか言わんといて」と言われた。この言葉を聞いて、「協調性が育まれている」とか「責任感を持っている」なんて的外れなことを思いたくなったけれど、それはさすがに自分のエゴだと思い直す。僕は「やればできる子」なんて言葉を使って、その子のしんどさを見ようとすらしていなかった。自由奔放に見えていたその子は、みんなの中で普通になるために頑張っていたのだ。やればできるのではなく、やるしかなかったのだ。成長したように見えるその姿は、追い込まれて苦しみながらギリギリで頑張っていることなのかもしれない。逃げ道を無くして克服することは成長ではない。ましてやその頑張りを求めて喜ぶなんて、なんだかおかしいような気がしたのだった。毎日わがままを言っていた子が、ある日を境に何も要求をしなくなったとして、そんな時に僕は、聞き分けが良くなったとか自制が効くようになったとか、勝手に成長だと思ってしまう。けれど、その実は「言っても無駄だと悟ったから」かもしれない。自分の思いを伝えるエネルギーがなくなったからかもしれない。社会では、言っても無駄だからと諦めて黙ることを、「大人になる」と表現する。けれど、それは成長して大人になったのではなくて、身を守る術を身につけただけだ。僕は子どもの何を見ているんだろう。できているように見えるその姿は、みんなから外れないように、こぼれないように、少しでも普通になるために必死にしがみついているのかもしれない。僕自身がまさにそれで苦しんでいるのに、子どもの姿となると、みんなと同じようにできて、トラブルを起こさないでいられるようになったそれを、成長だと感じてしまう。学校に行けるようになった。ピーマンが食べられるようになった。友達と仲良く過ごせるようになった。落ち着いて話が聞けるようになった。聞き分けが良くなった。じゃあそれで、その子は生きやすくなったんだろうか。それで一つ問題が解決したように感じるけれど、その子のしんどさは「できなかったことができるようになった」という姿に隠れただけで、ずっと深くに残ったままかもしれない。子どもの育ちを見守って、その育ちに喜びを感じる立場だからこそ、その成長した姿に喜びを感じる。それは悪いことではないけれど、それと同時に、無理していないだろうか、しんどさを抱えさせていないだろうかと、見えない部分にも目を向けていられたらと思う。できなかったことができるようになって生きやすくなることもあれば、しんどくなることもきっとある。僕がほんとうに大切にしたいことは、できなかったことができるようになることではない、もっとほかの何かだ。見栄えのするものに覆われてしまってその大切にしたいことが見えなくなる前に、ちゃんとそれに気づけるようにしていたいな。去年と今年を比べて、先月と今月を比べて、昨日と今日を比べて、子どもができるようになったことは、きっとたくさんある。その分、サボるようになったとか片付けをしなくなったとか、やらなくなったこともきっとある。その度に、一喜一憂する。「成長というよりも、変化しているだけなんですよね」とその同僚は言った。昨日と比べてしまうけれど、日々の姿がその子の姿で、それは成長でもなく後退でもない。ただ、移り変わっているだけなのだと。僕はどこかで、子どもの育ちは右肩上がりで、多少の浮き沈みがあったとしても、伸びていくもの。そんな風に思っていたのかもしれない。できるようになることも、できなくなることもある。その変化の中で、その時のその子が生きやすくなる方法を、その都度見つけていけたら。それは、見栄えしなくて不安になるかもしれないけれど、そうやってとどまることなく心配事が見えている方が、いいのかもしれない。子どものしんどさに気づけなくなるよりかは、もしかしたらその方がいいのかもしれない、なんて思う。余談ですが手巻き寿司の正解ってなんだろう。シンプルに刺身だけを巻くのもいいし、胡瓜や大根を添えて巻くのも飽きない。何も考えずに目についたものを乗せて、巻ききれず溢れそうになったのにかぶりつくのも、何味かわからないけれど美味しい。大葉なんか入れると最高だ。そういえば、僕は子どもの頃から、シソ(いわゆる大葉)が嫌いだった。独特の香りが苦手で、素麺つゆに間違え入れて勢いよくすすってしまい、勢いよく吐き出したことがある。シソはシソでも、ばあちゃんが作るシソジュースだけ飲めた。原液を水で薄めて飲むんだけれど、きれいな薄い紫色でシソ独特の香りがしない。大人になっても嫌いだったんだけれど、いつからか食べられるようになっていて、気づいたら好物になっていた。今では素麺にも手巻き寿司にも欠かせない。僕はシソのことを好きになってよかったって思うけど、だからと言ってシソが苦手な人に勧めたりはきっとしない。苦手なものは、苦手なままでいい。もし、いつかそれを好きになったなら、それは「克服した」のではなくて、ただ「きらい」が「すき」に変わっただけなんだろうなって思う。苦手なままなら、それは成長していないのではなくて、ただ、そのままなだけ。克服するのではなくて、おもしろそうだから試してみる、そんな感じで楽しめるのなら、嫌いなものも試してみようかなって思えるのかもしれない。例えばやったことない組み合わせで手巻き寿司にしてみて、色んな味を試してみるように、あんまり美味しくなくても食べられるようにならなくても、それでもいいかって思えるような気がする。きしもとさんの記事やこれまでの連載コラムはこちら[文・構成/きしもとたかひろ]きしもとたかひろ兵庫県在住の保育者。保育論や保育業界の改善について実践・研究し、文章と絵で解説。Twitterやnoteに投稿している。⇒きしもとたかひろnote⇒きしもとたかひろTwitter
2021年04月09日オイルをたっぷりと使用する温活エステ株式会社不二ビューティは、展開するエステティックサロン「たかの友梨ビューティクリニック」において、3月18日から新しいコースとして「インド式アーユルボディ」と「カティバスティ」を一般の利用者に向けて公開した。新コースは、たかの友梨が40年近く研究を続けるインド伝統美容に着想を得た2つのボディケアである。人肌に温めたオイルを使用して、温熱効果より心身のコンディションを健やかに整える。オイルは、セサミオイルをベースとして、生姜エキス・唐辛子エキス・ビタミンE(製品の抗酸化剤)を配合した。温熱効果で体も心もぽかぽかに「インド式アーユルボディ」では、人肌に温めたオイルを注ぎながら流れるようにトリートメントする。頭のてっぺんから足先まで、ダイナミックかつやわらかにリンパの流れに沿って密着した手技でケアする。施術時間は約60分、通常ビジター価格は、25,300円(税込み)「カティバスティ」は、腰の仙骨上に温めた「バスティドーナツ」というドーナツ状の土手を置き、オイルで温める。オイルで腰まわりを中心に背中全体までトリートメント。脚背面は、タオルの上から揉みあげるのですっきりする。施術時間は約30分、通常ビジター価格は、11,000円(税込み)。今回、新コース誕生記念体験キャンペーンとして、同クリニックの初回利用者を対象に「新インドエステ セット体験」約90分 11,000 円(税込み)にて提供している。詳細はウェブサイトで確認を。(画像はプレスリリースより)【参考】※プレスリリース株式会社不二ビューティ※インド式アーユルボディ
2021年03月24日ホワイトデーシーズン限定のプレミアムなチケット2月15日、株式会社不二ビューティは、同社が展開するエステティックサロンの「たかの友梨ビューティクリニック」とエステティシャンコスメ通販の「たかの友梨ビューティショッピング」において、『2021たかの友梨ホワイトデーギフトチケット』を発売した。ギフトチケットの内容は、フェイシャルまたはボディコースのいずれか1コースの利用ができる。ギフトチケットは、ホワイトデー特別価格の10,000円。バレンタインデーのお返しとしてだけではなく、春に向けての自分磨きにもオススメのチケットである。1,500枚の数量限定販売利用できるフェイシャルコースは、進化系エイジングケア 造形美顔(約60分)。“人臍帯血幹細胞”由来のクリーム使用した強力な手技と先端マシンで年齢サインにアプローチする。目元や口元の気になる部分にハリが出て活き活きとした肌に整える。通常ビジター価格は、税込み30,800円。ボディコースは、“ニューヨーク発ヘンプトリートメント CBDオイルトリートメント(約60分)。麻(ヘンプ)由来の“CBD オイル”とハンドテクニックで全身をトリートメントする。体も心も癒されて気分もスッキリする。“通常ビジター価格は、税込み23,100円。販売期間は、3月14日まで。1,500枚の数量限定販売であり、なくなり次第終了となる。チケットの有効期限は、発行日から6か月間。「たかの友梨ビューティクリニック」の全サロンで利用が可能である。(画像はプレスリリースより)【参考】※プレスリリース株式会社不二ビューティ※ホワイトデーギフトチケット
2021年02月16日Twitterやnoteで子育てに関する『気付き』を発信している、保育者のきしもとたかひろさん。連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』では、子育てにまつわる悩みや子供の温かいエピソードなど、親や保育者をはじめ多くの人の心を癒します。「つらい環境でも耐え忍べば報われる」という意味を持つ『石の上にも三年』という、ことわざ。ですが、長く続けることよりも難しいのは…。第12回『石の上にも、三日坊主。』始めることと続けることって、どちらが難しいんだろう。興味を示したけれど輪に入らずに、あそびに参加しない子がいる。そのあそびに興味がないのかといえばそうではなく、観戦しながら一緒に楽しんでいるので仲が悪いというわけでもない。むしろやりたそうにはしているけれど、誘ってみると「やったことないから」と断られる。「教えるよ」と声をかけても頑(かたく)なで、あまりしつこく誘うと逆に離れてしまうので、一歩を踏み出すきっかけを見逃さないように見守るくらいしかできない。保護者の方にお話しすると、家では興味深げにそのあそびについて話しているらしい。やってみたい気持ちはあるようだ。じゃあ、なんでやらないんだろう。やってみたいのにやらない。どうしてだろうって考えてみる。無理にそのあそびをさせたいわけではない。したいならしたらいいし、したくないならしなくていい。「見ているだけ」も、その人の楽しみ方だ。サッカーをしたことがなくても観戦は楽しめるし、経験者よりも劣っているということもない。実際にプレーしている人と見ている人、そこに優劣はないのだから。ただ、なにかが足枷になっていて一歩を踏み出せないのであれば、その足枷を外してあげたいなと思う。もちろん、その子と自分は違う人間だし場面も違うから、正しい答えが出るとは限らない。けれど、分かるわけないからといって開き直ってしまったら、分からないままだ。想像したり思いを馳せたりしていれば、すこしでもなにかのヒントが見つかるかもしれない。5年くらい前、友人に誘われてボルダリングを始めた。室内の壁に打ち付けられた、岩のでっぱりやくぼみを模した“ホールド”というものを登っていくスポーツクライミングと呼ばれるものだ。初日はペットボトルの蓋も開けられないくらい腕がパンパンになったんだけど、何度か通っていると筋肉痛も心地よく感じるようになり、日ごとに登れるようになっていった。競技自体も楽しいんだけれど、目に見えて自分の成長が感じられるのも嬉しかった。大人になってのびしろを感じる機会って少ないもんね。ある程度技術がついてきたあたりから、初めは見えなかった面白さを感じるようになってきて、一層楽しめるようになった。そのものの本質的な面白さがわかるまでには時間かかる。あそびもスポーツも仕事も同様だろう。時間をかけてこそ見えてくるものは確かにあるよね。三日坊主という言葉がある。物事が続かないことを揶揄(やゆ)する言葉だ。逆に、辛抱強くいればうまくいくかもしれないという意味として、石の上にも三年ということわざがある。初めは冷たい石の上でも、長く座り続ければいずれ温かくなるということだ。継続は力なりというように、三日で辞めるより続けられた方がきっといい。途中で投げ出さずに粘り強くやり抜くことって、何かを成し遂げるためだけではなく、楽しむためにもとても大切なことだろう。子どもたちにも、やり始めたことは途中で投げ出さずにやり抜いてほしいと思う。今は面白さを感じなくても、続けていれば楽しくなってくるよって。根気強く続けた先に見える面白さや追求することの楽しさを知ってほしい。壁にぶち当たっても乗り越えてほしい。そのときに味わう達成感は格別だ。けれど、と少し考えてみる。何気なく腰掛けて、なんとなく座っていただけなら三年座っていられるかもしれない。けれど、あらかじめ石が温かくなるまでは何年もかかりますよ、と言われていたら、そんな石には座らないんじゃないだろうか。どうしても座らなきゃいけない状況はあるかもしれない。そんな人にとっては、「いつか温かくなるかもしれない」という見通しがあれば安心する。だけど、それは座り続けるための理由ではなく、あくまでも我慢を続けるための慰めだ。そうやってやっとのことで温まったお尻に感じるのは、きっと達成感ではなく、辛かったことから解放された安堵だろう。少し走ってみようかなと思ったときに、遠くにあるゴールにたどり着くまで走り続けないといけないとしたら、ましてや、周りのみんなはその道のりを悠々と走っているのを見たら「今回はやめておこうかな」と、スタートを切ることさえしないんじゃないか。そうしたら、そのまま「興味はあるけれどやっていないリスト」に追加されることになる。続けたら花が咲き、実がなるかもしれないけれど、そもそも始めなかったら芽さえも出ない。なんとなく始めてみて、一歩ずつ進んで、気づいたら遠くまで来ていた。座っていたらいつの間にか温くなっていた。それくらいでいいのなら、最初の一歩も気軽に踏み出せそうな気がする。どうして僕はその面白さを知れるくらい続けられたんだろう、と考えた時に思うのは、同じように下手くそな友人がいたからではないだろうか、ということ。もちろん、上手い人に憧れて鍛錬して上達する人もいるだろうけれど、自尊心の低い僕の場合は、周りの人たちが板チョコのような薄さのホールドを掴んで身軽に登っているのを見て、憧れよりも惨めさを感じた。僕だけが、バナナみたいなデカいホールドに不格好にしがみ付いている。身軽さなんて微塵もなく、ナマケモノのように壁にへばりついて腕をプルプルさせたあげく引力に負けてマットの上に落下する。初心者なんだから当たり前だし、恥ずかしがって楽しめないのはもったいない。そんなこと分かっているけれど、やはり恥ずかしいものは恥ずかしいのだ。だから僕は、慣れるまではひとりで行けなかった。一緒に通う、同じタイミングで始めた同じように下手くそな友人がいたから、その恥ずかしさが紛れていた。自分より下手だから安心できるのではない。「失敗しても大丈夫だ」と思えるから安心できるのだ。持つべきものは偉そうに教えてくれる熟練の友ではなく、共に失敗する未熟な友だった。そんなことを思い出しながら思う。興味を持ったあそびに参加しないその子は、新しいことに挑戦することが嫌というよりは、「みんなができていて自分だけできない」のが嫌なんじゃないだろうか。「失敗するかもしれない」という気持ちが足枷となっているんじゃないだろうか。なんとなく始めて、なんとなく覚えて楽しんでいる間に上達することってある。特に幼少期はそういうことが多いだろう。自分が人よりも劣っているかも、そんなことを思うとはじめの一歩は踏み出せない。大人なら子どもよりも上手にこなして「やってみなよ、教えてあげるよ」って、色んなことを教えてあげたい。けれど、未熟な友として共に失敗しながら成長していくのも良いのかもしれない。簡単に投げ出したり、逃げ出したりしないでほしい。けれど、途中で辞めることを「悪いこと」にしてしまっては、その経験はきっと「あの時も投げ出してしまったし、今回もどうせ続かないからやめておこう」になる。投げ出さないように嫌なことに耐えて育つのは、根気強さではなく我慢強さだ。根気強さや粘り強さはきっと、「もう少し続けたら面白くなるんじゃないかな」という期待のもとにあるんじゃないかな。それはきっと、与えられるものではなく、気軽に始めてたまたま続いた、そんな経験の積み重ねから生まれるんだろう。だから、途中で投げ出さずに続けてほしいなら、途中で辞めても大丈夫って思いたい。いつ立ってもいいからこそ、気負わずに安心して座り続けられるのだ。身になりかけたものを途中でやめそうになったときに「もったいないな」って思ったりもする。こんなに勉強してきたのに生かせないのはもったいないな。この資格取ったのに、別の仕事するなんてもったいないな。ここまで原稿書いたのに、ボツにするのはもったいないな。そんなことを大人になっても、いや、大人になったからこそ思ったりする。きっと、これまでそれに注いできた時間が無駄になるようで嫌なんだと思う。けれど、これまでの時間はこれまでの時間で、これからの時間はこれからの時間だ。ちなみに、これまで注ぎ込んだものを無駄にしたくない!という思いで損をすることが分かっていてもそれを続けてしまうことを、コンコルド効果っていうらしい。博打好きの同僚が教えてくれた。博打と一緒にするなよ、と思うけれど、同時に納得もしてしまう。未来のためにやってきたことを間違いにしないために、これからを犠牲にしているならそれは、未来ではなく過去のために生きているということになる。きっと誰だって、失敗するのは嫌だ。けれど、それが失敗じゃないとしたらどうだろう。「やるなら途中で投げ出しちゃダメだよ」「どうせ続かないんだからやめときなよ」って言葉は減るかもしれない。飽きたなら途中で辞めればいい。しんどければ逃げればいい。簡単に投げ出せばいい。そんなことを言葉にするのは憚られるけれど、それが許されるなら、大人も子どもも、少し肩の荷が降りるような気がする。甘いんじゃないだろうか。その子のためにならないんじゃないだろうか、と思ってしまうかもしれない。途中で辞めてしまう子を見て、歯痒い気持ちになるかもしれない。けれどそれは失敗じゃないし、無駄なんかじゃないとすれば、育んでいるものに目を向けられる。新しいことに挑戦できた。別のことに興味を持てた。できない自分を受け入れられた。全部大成功だ。何にも見つからなくても、自分の気持ちに正直になれた、無理しなかった、だけでも十分だ。それを失敗にしなければ、次の挑戦ができるかもしれない。気軽に、なんとなく興味を持って、なんとなく始められるかもしれない。そんな一歩が積み重なって、気づいた頃にどこか遠くまで来ているかもしれない。もちろん、どこにも辿り着かないかもしれないけれど、それはそれでいいじゃない。活発な子に育ってほしいなら、元気がなくてもいいよって言ってみる。なんでも食べる子に育ってほしいなら、無理して食べなくてもいいよって言ってみる。強い子になって欲しいなら、泣いてもいいよって言ってみる。今と未来は地続きだけれど、今のこの時間を、未来の何かにつなげるために無理しなくていい。「こんなんじゃダメだ」ではなく、「できなくても大丈夫」って安心できたなら、どこかの何かのきっかけでなんとなく「もう一歩踏み込んでみようかな」って思えるのかもしれない。余談ですがこの連載コラムは、月2本くらい書くつもりでスタートした。次第に月1本くらいのペースになっていった。1月から始まり12月にちょうど第12回の原稿を書き始めた。三日坊主の自分が月一を継続したと喜んでいたら、八割方書けたくらいで手が止まってしまい、結局予定より2ヶ月遅れた。初めは、「続けられるか分からないけれどとりあえずこの一本を」と書いていたのに、過去に積み上げたものや達成しそうな何かを見た途端、身動きが取れなくなったのだ。けれど、書いた。今までのものなんて忘れて、次のことも考えないで、目の前のことだけ考えて、ちゃんとできた。えらいな、自分。結局、ボルダリングは2年ほど続けたけれど、引っ越してアクセスが悪くなったことで足が遠のき、そのまま辞めることになった。せっかく鍛えたのだから衰えないようにと通い始めたフィットネスジムは、2、3回通って飽きてしまった。かと言って一度始めたのに途中で辞めるのもなんだかやはりダメな気がして「今月は月謝も払ったし…」と先延ばしにし続けていたら、結局1年間ほとんど通わないのに毎月月謝が引き落とされていた。これがコンコルド効果か、と無表情で納得した。始めたいけれどきっかけがない、ということもあれば、続けたいけれど途切れてしまうこともある。やめたいのにダラダラと続けていることもある。三日坊主が石の上に座っているのを想像してみる。ただの坊主なら修行っぽいけれど、三日坊主が座り続けているのならば、よほど居心地のいい石だろう。そんな石が見つかればいいなって思う。いつか見つかるかもしれないから、そんな石が見つかるまでは、少し冷たいお尻ももう少し我慢してみようかな、なんて誤魔化してみたりする。座っているのがしんどいならば、寝転んででもへばりついてでも居心地いい姿勢を見つけてやろうか。きしもとさんの記事やこれまでの連載コラムはこちら[文・構成/きしもとたかひろ]きしもとたかひろ兵庫県在住の保育者。保育論や保育業界の改善について実践・研究し、文章と絵で解説。Twitterやnoteに投稿している。⇒きしもとたかひろnote⇒きしもとたかひろTwitter
2021年02月06日元AKB48で女優の前田敦子さん(29)と俳優で夫の勝地涼さん(34)が離婚協議に入ったことがサンケイスポーツで報じられ、世間を賑わせています。前田さんといえば“不動のセンター”と呼ばれ、”神7”の中で1番早くに結婚と妊娠を発表した人物でもあります。常にAKBのアイコン的な存在であり、アイドルとしての先陣を切り続けてきた前田さん。離婚というチャレンジも1番最初にするとは……。とはいえ、ニュースを読んだ人のリアクションの多くは「すると思っていた」「逆にやっとなんだ」「2年は持ちこたえたほうだと思う」と比較的想定内といった声が大きいのも特徴です。正直筆者も結婚当初から不穏な未来を若干予想していましたが、そもそもプライベートをまったく知らない一般人の外野すら離婚を予想する夫婦ってそういません。人は一体どこに、離婚しそうな空気を感じるのでしょう。■スピード婚×情緒×実家関係そもそもスピード婚と離婚率は連動しているとのこと。交際1年未満で結婚したカップルは3年以上交際した上で結婚したカップルよりも離婚率は39%高く、交際1~2年のカップルよりも20%高いことがアメリカのエモリー大学の研究で明らかになっています。前田さんと勝地さんは交際期間4カ月ということで、そもそも結婚報道時から「早すぎでは」という声が漏れていました。その上で他の要素をみていくと、前田さんのイメージや前評判にも離婚を想起させる要素が2つほどあったのかもしれません。・情緒的なイメージ前田さんといえば、AKB在籍時代からやや感情的で情緒的な性格であることが報じられていました。たとえば卒業直後に泥酔して泣きじゃくり、俳優の佐藤健さんにお姫様だっこをされたこと。昨年夏には前田さんが自宅近くで癇癪を起こし、勝地さんがなだめるといったシーンがスクープされています。それぞれ起きた原因はどうあれ、前田さんは気持ちが高まると感情的になるというイメージは周知されていました。この感情のアップダウンと子育ての大変さが相まって、「離婚を決めてしまうのでは……」と当初から多くの人に思わせていたかもしれません。・母親と仲良しすぎる前田さんは母親と非常に仲が良いと言われていました。出産後も一時期は同じマンションに家族を呼び寄せ、サポートを頼むなどの濃い関係性が築かれていたようです。一般的に、育児を実家がサポートしてくれる体制はありがたいこと。しかし同時に実家が子ども(今回であれば前田さん)と近すぎると、家の中には夫婦と実家という2つの判断軸が生まれることに。今回であれば、勝地さん側は難しい立場に置かれることとなります。常に2つの判断軸があると例えば何か意見が別れた際、多数決で実家側の意見が通ることが多くなりがち。その結果、夫婦の関係がギクシャクすることもあるのです。前田さんと勝地さんの実際の関係はわかりませんが、報道によると勝地さんが前田さんに合わせる形で生活が成り立っていたようです。その苦労も、かなりのものだったのかもしれません。現時点では協議に入ったとの報道ですし、記事内で前田さんの事務所は「事実ではありません」と否定。勝地さんの事務所は「聞いていない」と答えているとのこと。まだ離婚が成立しているわけでもありません。果たして、これからどうなるのでしょうか。■離婚してもイメージダウンのない不思議さそんな「離婚しても仕方ないかもね~」というイメージを抱かせている前田さん。興味深いのは今回の離婚協議報道やその前の夫婦不仲報道が出ても、前田さんのイメージがあまり落ちていない点です。なぜだろうと考えてみると、そもそもアイドル時代からあっちゃんのセンターとしての魅力は“今にも倒れそうな必死さや危うさ”。めちゃくちゃ輝いているのに、どこか影を感じる奥深さだったからかもしれません。今後も主演映画が控えている前田さん。離婚してもしなくても、らしさをより輝かせてほしいもの。でも同時に、情緒の激しさはちょっと心配もしちゃう……。ただ結局、この心配させちゃうほどの要素が“あっちゃんの魅力”なのかもしれません。(文:おおしまりえ)
2021年01月31日毎年大好評!自分へのご褒美にも株式会社不二ビューティは、同社が展開するエステティックサロンの「たかの友梨ビューティクリニック」とエステティシャンコスメ通販の「たかの友梨ビューティショッピング」において、『2021たかの友梨バレンタインギフトチケット』を販売中である。今回のギフトチケットの内容は、 ココバター(約80分)のコース。ココアバターの甘い香りの中、エステティシャンのハンドテクニックだけでボディを磨き上げるチョコレートエステとなっている。とろけるような甘い時間を楽しむチョコレートエステは、美容成分カカオマスポリフェノール配合のココアバターを体にたっぷりと塗り、オールハンドでトリートメントを行う。多彩なテクニックで足の裏からデコルテまで、全身をケアするリッチなコースとなっている。通常ビジター価格は、28,600円(税込み)だが、『バレンタインギフトチケット』は、特別価格の10,000円(税込み)で体験できる。販売期間は、2月14日まで。1,900枚の数量限定販売であり、なくなり次第終了となる。有効期限は、発行日から6か月間。「たかの友梨ビューティクリニック」の全サロンで利用が可能である。(画像はプレスリリースより)【参考】※プレスリリース株式会社不二ビューティ※バレンタインギフトチケット
2021年01月17日「私、本当は何がしたいのかな?」働いていれば誰だって、一度は考えたことがあるはず。アナウンサーとして活躍していた前田有紀さんも悩みを抱える一人だった。「仕事はやりがいもありましたが、5年ほど過ぎてから迷いが生じてきて。自分が夢中になれることを見つけようと必死でした」彼女を変えたのは、スーパーのレジ横で何気なく購入した花。「玄関に花を飾ったら、空間がパッと明るくなり、疲れて帰った時にすごく癒されて。もっと植物と触れ合う時間が持てたらと考えるようになりました。その気持ちが強くなり、花にまつわる仕事がしたいと思うように。会社を辞めることは人生のレールから外れる気がしてなかなか決断できませんでしたが、不安よりも好奇心が上回り、転職を決意したんです」会社を辞め、イギリスのガーデナーの下でインターンを経験。「想像以上に重労働で、毎日泥だらけになっていました。少し前までは身なりをきちんと整えて、カメラの前に立っていたのに、すごい変わりようですよね」周りの目も気にせず、植物に触れていると心が満たされていたという。修業を経て、帰国後は自由が丘にある生花店に就職した。「会社員を10年間やっていたので、世の中のことを知っているつもりでしたが、レジ打ちも梱包もまともにできなくて。でも、日々植物に囲まれ、気持ちはとても前向きでした。また、店に立っていると、想像以上に、限られた人しか花を買わないということもわかって。特別な日だけじゃなく、もっと日常で自然の息遣いを感じられる暮らしを多くの人に楽しんでもらいたいと思うようになりました」約2年半、勤務した後、独立。“都会の暮らしをもっと花と緑に溢れたものにすること”をテーマにオリジナルブランド『gui』を立ち上げた。店舗は持たず、オンラインで注文を受け、フラワーロスを抑えながら、花や緑のある暮らしを提案。また、カフェやアパレルブランドなどに積極的にポップアップショップを出店するなど、植物と触れる機会の少ない人にも出合いの場を創出している。転職後、着実にキャリアを進めてきた前田さんだが、起業する時には大きな葛藤もあった。「当時、妊娠していたので、“子育てしながら会社の経営なんて難しいんじゃない?”と、周囲から心配されました。でも、やってみなきゃわからないと思ったし、事実、大変なことはあったけれど、周りに助けてもらいながらできたこともたくさんありました」やりたいことを叶えるためには、周りの人に助けを求める姿勢も大切だと気づいたという。「昔は“できない”と言えなかったんです。今思えば、会社員の時は受け身で仕事をしていたし、周りの目が気になって、選択肢も消極的になっていたと思います。でも、好きなことを見つけてからは、人生の舵を切るのは自分しかいないと思えるようになり、やりたいことがクリアになって、すごく強くなったと思います」順調に仕事も増えていったが、コロナ禍の影響も受けたという。「イベントの装花の案件はほぼなくなってしまいました。そんな時、花を出荷しても値段がつかないと困っている農家さんもいると知って。もともと関心があった“農家さんの花の直送サービス”をスタートすることに。購入してくださる方が徐々に増え、新たな手応えを感じました」また、花の農家を取材し、記事を執筆したり、農園の人とインスタライブをして、花作りの現場を伝える取り組みも行っている。「どういう人がどういう環境で育てているのか、フラワーロスの実情など、知られていないことがこの業界にはたくさんあって。メディアの世界にいた私だからできることがあると思っています」花を飾る提案以外にも、花を使ったアクセサリーを作ったり、廃棄寸前の植物を活用してドレスを製作するなど表現の幅も広げる。「全く違う業界から入ってきたので、“花屋さんってこうだよね”っていう常識に縛られずに活動していきたいなと思います」HISTORY22歳:テレビ局入社。アナウンサーとして多くの番組で活躍。スポーツ番組を中心に担当。現場に出向いて、直接話を聞き、感じたことを自分の言葉で伝える大切さを学んだ。25歳:家に花を飾り、植物のある暮らしの心地よさに開眼。深夜に帰宅することも多く、不規則だった会社員時代。スーパーで購入した花に癒されている自分に気づく。32歳:会社を退職後、イギリスのガーデナーの下で修業。コッツウォルズでホームステイをしながら、中世の古城で庭を管理するガーデナーの下で下働き。泥だらけになりながらも花の仕事が好きだと再確認。33歳:自由が丘の生花店に勤務。店舗に立ちつつ基礎を学ぶ。店頭に立ち、花屋の仕事を基礎から学ぶ。「不慣れなため、怒られることもありましたが(笑)、できることが一つずつ増えていき、充実していました」34歳:花屋の仕事を応援してくれていた彼と結婚。大学の同級生とパートナーとして歩むことに。36歳:初めての子供を妊娠。生花店を退職し、独立。妊娠がわかり、花屋を退職して独立。起業し、ブーケや祝い花など個人向けのオーダーを中心に受ける。37歳:オリジナルフラワーブランド『gui』を立ち上げる。自身のフラワーブランドをスタート。育児と両立しながら商業施設のイベントの作品提供や企業コラボなどを行う。39歳:オンラインサイトで農家の花の直送サービスを強化。コロナ禍の影響で花を出荷できない農家を支援するため、直送サービスを強化。全国から多くのオーダーを受ける。まえだ・ゆき1981年生まれ、神奈川県出身。2003年、テレビ朝日入局。2013年に退社し、イギリスで見習いガーデナーとして修業。帰国後、都内の生花店に勤務し、独立。オリジナルブランド『gui』を立ち上げ、草花の魅力をさまざまな角度から発信中。※『anan』2021年1月13日号より。写真・大内香織取材、文・浦本真梨子(by anan編集部)
2021年01月07日お笑いコンビ・キャイ~ンの天野ひろゆきが30日、一般女性との結婚を発表した草なぎ剛をツイッターで祝福した。草なぎはこの日、婚姻届を提出。所属事務所を通じ、「これからも、今までと変わらぬスタンスで仕事を続けていきたいと思っておりますので、皆様にも応援していただけるよう、日々精進してまいります」とコメントを発表した。天野は相方・ウド鈴木と共に撮った思い出のスリーショットをアップし、「うぉー、今つよぽん結婚!」と興奮。「こんな嬉しいサプライズは、なんぼあってもいいですからね」と喜び、「本当におめでとう」とメッセージを送った。天野が投稿した写真は、昨年11月に草なぎが行ったライブイベント「草なぎ剛のはっぴょう会」後の一枚。当時のブログでは会場まで足を運んだことを明かし、「歳をとると、失敗を恐れたり、なるべく恥をかきたくないという気持ちが強くなり、次第に自分で挑戦を諦めたり、限界を決めたりしてしまうものだ」「しかし、つよぽんにはそれがない」「その姿を見ていたら人生を楽しんで生きてるかい?とお尻を叩かれたような気持ちになったりした」と感想をつづっていた。
2020年12月30日「36でしょ、今?俺も36のときは、誰も俺のこと知らなかったから。俺は39歳でデビューだからーー」武井壮(47)は、みんなのたかみち(36)にこう語りかけた。「世の中には(人を楽しませる力があるのに)知られてなくて力を発揮できていない人っている。俺も実際そうだったからーー。たかみちの明るいキャラクターだったら、番組に出ればぜったい認知されるし、いまそういうお仕事している人と遜色ないことができると俺は思っている」尊敬する人からそんな言葉を贈られて、たかみちは大きな体を震わせ号泣した――。■NHKの子供向け番組、初の“マスター”みんなのたかみちという芸人がいる。185センチの長身に、アフロっぽい髪型とオーバーオールがトレードマーク。芸歴は15年目。最近はピン芸人として活動することが増えたが、「プリンセス金魚」というコンビを組んでいる。全国区の番組に出たこともあるが、けっして知名度は高くない。だが、ひとたび“舞台”に上がれば、観客たちは腹を抱えて笑い、万雷の拍手をたかみちにおくる。今を時めく芸人も人気ユーチューバーでも、これほどの笑い声は集められないかもしれない。小さなお客さんたちを前にした舞台ではーー。みんなのたかみちは子供の前で抜群の強さを誇る芸人だ。今年8月には、2組の芸人がネタを披露して子供の投票で勝敗を決める「わらたまドッカ〜ン」(NHK Eテレ)という番組で、番組史上初の「わらたま芸人マスター」に輝いた。4勝した者に与えられる「マスター」の称号。4回以上出演した者のなかには、テツandトモやアンガールズ、小島よしお、ジャングルポケット、オジンオズボーンなど、たかみちよりもずっと知名度のある芸人も含まれている。だが、4戦4勝で誰よりも早くこの称号にたどり着いたのは、たかみちだった。「子供は自分が好きなものが好き。知名度がなくても『誰やねん』てならずに、おもしろいと思えば笑ってくれますから」コテコテの関西弁で、そう語るたかみち。子供に愛され、武井壮も手放しで褒めるたかみちだが、もともとはまったく違うタイプの芸人だった。プリンセス金魚は、たかみちと大前りょうすけ(36)の、京都の中学の同級生によって2005年に結成されたコンビだ。端正の顔立ちの大前が妄想ぎみにボケて、たかみちがハイテンションにツッコむというのが得意のスタイル。デビュー3年目の2008年にはNHK新人演芸大賞の決勝に進出。ナイツやオリエンタルラジオ、天竺鼠など、そうそうたる顔ぶれと競っている。すぐに関西お笑い界の期待の星として注目を集めた。「いちばん多いときは関西ローカルの番組で5、6本レギュラーがあったと思います。バイトせんでも食うていけるようになりましたし、街を歩いてたら、女の子に声かけられたり、劇場の前で出待ちしてもらえたり(笑)。でも、ずっと悔しい気持ちが消えへんかった。ご飯とか食べてても、隣のテーブルから聞こえてくるのは、やっぱり全国放送のお笑い番組の話が多いやないですか。いつか東京で勝負せなあかんという気持ちがあったんです」2013年、満を持して東京に進出する。「ロンドンハーツ」(テレビ朝日)や「『ぷっ』すま」(テレビ朝日)などの人気番組に出演する機会にも恵まれたが、ブレイクには至らない。ほどなくして、バイトも始めた。上京して4年目、“お笑い第7世代”たちが頭角を現しつつあった2016年。浮上のきっかけが見つからないなか、相方の大前が東海地方のラジオ番組のパーソナリティに抜擢された。月曜から金曜まで毎朝7時からの生放送。大前は名古屋に拠点を移すことに。一緒に名古屋に行けば、プリンセス金魚としての仕事も得られたかもしれないが……。「相方はちゃんと現実を見てたと思います。僕は“夢見る夢子ちゃん”なんかもしれませんね。まだ東京でやり残したことがあると思った。ピンネタもやってないし、ロケ芸人とか何かしら可能性が残ってるんちゃうかって」たかみちは1人東京に残ることを選んだ。2016年10月、プリンセス金魚は“遠距離コンビ”になった。定期的にコンビで漫才を行う機会はあるが、普段の舞台には1人で立たなくてはならない。「地獄みたいでしたよ(笑)。もうずっとスベってたんで。漫才にはツッコミがあるけど、ピンの芸だとボケだけで笑わせないといけない。漫才とはぜんぜん違った……。コントやったり、歌ネタや漫談やったり、1年ぐらい迷走していましたね」ピンで舞台に立つようになっておよそ1年、道が見つかった。お笑いコンビ・土佐兄弟の“弟の方”、有輝(26)と喫茶店で話しているときに「たかみちさんは“切ない系”のネタが合うと思いますよ」と言われた。「“切ない”ことって何かなと考えたんです。昔、ファミレスで、相方が『トイレ行ってくるわ』と立って、30分くらい帰ってこなかった。不思議に思って『いまどこおんの?』と電話したら『家』って言われて、こっちは『帰ったん!?』となったことを思い出しました。それと、幼稚園ぐらいのころ、遊園地で両親がふざけて僕から離れて物陰に隠れたことがあった。置いていかれたと思ったときの、あの心細さを思い出したんです」そこから生まれたのが「帰ったん?」という異色のネタだ。一緒にいたのに、いつの間にか帰られてしまう。あり得そうなシチュエーションから始まり、とんでもないタイミングでも置いていかれる。残されたたかみちはそのたびに「帰ったん?」と切ない顔をする。これを舞台でやったら、ピンで芸をするようになって初めてウケた。「寝てたん?」「食べたん?」など、「帰ったん?」から派生した“切ない瞬間”シリーズは十八番のネタとなった。そんなとき、このネタを観た番組スタッフから「わらたまドッカ〜ン」のオファーがきた。「『帰ったん?』は子供にウケるネタだと思ってなかったんですが、めちゃくちゃウケたんです。 2回目出たときにも、ウケて。このときはじめて『自分は子供にもいけるんや』と気付きました」だが、その自信はすぐにくじかれることになる。知り合いのすすめで、保育園でネタを披露する機会を得たが……。「ぜんぜんダメでした(笑)。『わらたま』の子らは小学生が多い。保育園の子はもっと小さかった。甘く考えてたんですよ。“子供ってなんでも笑うやろ”と思ってたから。ちゃんと向き合わなあかんと思いました」セリフが聞きとりづらくても、ネタがわかりにくくても、大人は想像力で補ってくれる。だが、小さな子供はそんなことはしてくれない。声の大きさに、話すスピード、身振り手振りまで、すべて見直した。そうして挑んだ“リベンジ戦”は子供たちの笑顔であふれた。たかみちは頻繁に保育園や幼稚園に呼ばれるようになった。仲のいい芸人仲間と、子供向けのイベントも開催するように。飽きさせないように、ゲームを考案したり、歌も作ったりした。「ほかの芸人に『もっと大人を笑かしていきましょうよ』みたいに言われることもあります。でも、子供を笑かすってめっちゃ深い。学ぶことは多いんです。それに、子供だけを笑かしても、実はあかん。子供たちの後ろではお父さんやお母さん、先生とかが見てますから。子供たちだけ喜んでも、大人もおもしろくないと、次は呼ばれません」子供を笑わせられるようになると、大人向けの舞台でも笑い声が増えた。自分がおろそかにしていたものが改善され、ネタの完成度は上がっていった。小さな観客たちの舞台から学んだことは多かった。自分のネタに自信を深めつつあったなか、コロナがきた。多くのイベントが中止になった。ライブやイベントを主戦場とするたかみちにとって、死活問題だ。なにより、ネタを人に見てもらう機会がなくなった。「どうしようと思って、インスタライブの配信を毎日することにしました。夕方、ご飯を食べたタイミングでお母さんとかと一緒に観てもらえるように、子供向けに自分で作った歌を配信することにしたんです」だが、なかなか再生数は伸びない。ライブ視聴者が一桁のときもあった。そんななか、武井壮が自分のYouTubeチャンネルにたかみちを出演させてくれた。そこでかけられたのが冒頭の言葉だ。武井はたかみちのやっていることをずっと見守り、おもしろいと評価してくれていた。涙が止まらなくなった。「ほんまありがたいですよ。武井さんは少しでも宣伝になればって、僕の名前と写真がラッピングされた原付スクーターをプレゼントしてくれて。今後コロナがどうなるかわかりませんが、頑張るしかないですよね。1月3日の『わらたま』のスペシャルで僕のこと取り上げてくれるそうです。とにかく、いろんな人にネタをみてもらいたい。来年2月15日には『ワタナベお笑いNo.1決定戦 2021』の決勝もありますから、予選を勝ち抜いて出たいですね。最終的には常にテレビに出ているような芸人になりたい。まだまだ道は遠いですけど」相方のラジオは好評を博し、今や大前は東海地方で複数のラジオ番組のパーソナリティを務める売れっ子だ。地元テレビの出演機会も増え、東海地方では誰もが知る顔になりつつある。一方、みんなのたかみちは……まだまだ道を模索中。「36のときは誰も俺のこと知らなかったから」。いつか笑いながらそう言える日がくることを信じて、夢を追いかけている。【PROFILE】みんなのたかみち(プリンセス金魚)ワタナベエンターテインメント所属。本名・高道淳史。1984年5月30日、京都生まれ。京都産業大学在学中に、大前りょうすけとプリンセス金魚を結成。趣味は少女漫画鑑賞で、蔵書は1千冊を超える。自分のYouTubeチャンネルで2020年内に登録者3,070(みんなの)人に届かなければ3,070kmマラソンを走るという企画にチャレンジ中。
2020年12月18日2021年3月4日(木)~3月14日(日)に、東京・大手町三井ホールにて上演される舞台「元号男子」のメインビジュアルが公開された。本作は、志島とひろによる元号を擬人化した作品を舞台化したもの。時代とともに生まれた大正、昭和、平成、令和の4人の元号男子が一つ屋根の下で暮らす模様を描いている。脚本・総合演出を川尻恵太、演出を白鳥雄介が担当。大正役の和合真一、昭和役の校條拳太朗、平成役の平賀勇成、令和役の大薮丘を中心に、若手俳優たちが活躍する。今回公開されたビジュアルのイラストは、原作者の志島が手がけた。背景はイラストレーターの村カルキによるもの。魅力的なキャラクターはもちろん、美しく描かれた背景も注目してほしい。なお、和合、校條、平賀、大薮のキャスト4名のサイトにて、チケット先行受付を実施中。申し込み締め切りは12月7日(月)23:59となっている。【公演概要】舞台「元号男子」公演日:2021年3月4日(木)~3月14日(日) / 全15公演会場:大手町三井ホール(東京都千代田区大手町 1-2-1 Otemachi One 3F)チケット代:全席指定9,800円(特製 A4 タペストリーつき / ランダム)※本公演のチケットは電子チケットとなります。ご注意ください。キャスト先行:2020年11月20日(金)10:00~12月7日(月)23:59大正役・和合真一 FC: 昭和役・校條拳太朗 FC: 平成役・平賀勇成 ニコニコチャンネル: 令和役・大薮丘 FC: ※詳細は各サイトでご確認ください。公演に関するお問い合わせ:サンライズプロモーション東京 0570-00-3337(平日12:00〜15:00)公式サイト:
2020年11月27日自分へのご褒美にもオススメ株式会社不二ビューティは、同社が展開するエステティックサロンの「たかの友梨ビューティクリニック」とエステティシャンコスメ通販の「たかの友梨ビューティショッピング」において、『2020たかの友梨クリスマスギフトチケット』を販売中である。ギフトチケットの内容は、フェイシャルまたはボディコースのいずれか1コースの利用、自宅で使用できるオリジナルのミニコスメセットとなっている。ギフトチケットは、特別価格の10,000円。毎年好評のギフトチケットであり、パートナーや大切な人への贈り物だけではなく、今年一年頑張った「自分へのご褒美」としても利用することができる。至福のエステとプレミアムコスメがセットに利用できるフェイシャルコースは、“プレミアムエイジングケアフェイシャル エクセルシオールビオトナス(約90分)。贅沢な美顔コースであり、多彩な技術をフルコースで堪能できる。通常ビジター価格は、26,950円(税込み)。ボディコースは、“アクティブアロマリラクゼーション KAMPOアロマボディ(約60分)。悩みにあわせてアロマオイル「漢本草精油」を選び、全身をしっかりと揉みあげて深い癒やしの時間を味わうことができる。通常ビジター価格は、23,100円(税込み)。ミニコスメのセットは、たかの友梨エステファクトV1シリーズの3点。ファーストミルク V1(30ml)、エッセンス V1(20ml)、ディープモイストV1(10g)がセットになっている。オリジナルポーチも付属するので旅行や出張にも活用できる。通常価格の合計は10,186円(税込み)。販売期間は、12月25日まで。3,000枚の数量限定販売であり、なくなり次第終了となる。チケットの有効期限は、発行日から6か月間。「たかの友梨ビューティクリニック」の全サロンで利用が可能である。(画像はプレスリリースより)【参考】※プレスリリース株式会社不二ビューティ※たかの友梨BEAUTY SHOPPING
2020年11月11日Twitterやnoteで子育てに関する『気付き』を発信している、保育者のきしもとたかひろさん。連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』では、子育てにまつわる悩みや子供の温かいエピソードなど、親や保育者をはじめ多くの人の心を癒します。まだ感情のコントロールが苦手で、癇癪(かんしゃく)を起こしてしまう子どもたち。他人の苦しみや欲求は、どうすれば理解できるのでしょうか。第10回『同情するならお湯をくれ。』「怒りたくて怒ってるんじゃないよ」と言われて「なら怒らなければいいじゃないか」と思ったことがあるのは僕だけではないだろう。学校からの帰り道、歩きながらノートを広げている子がいた。「危ないからノートしまって歩きなよ」と声をかけると「だってー」と返してきた。「危ないことは危ないからやめてね」と口答えを制した。理由があろうと危ないことは危ないのだ。しばらく歩いたところでお茶を飲みながら、またノートを広げていた。「しまっときって言うたやろー!」と少し語調を強めると、注意されて落ち込むというよりも楽しみを邪魔されたというような表情をした。心配していることを伝えるつもりで言い訳のように「怪我したらあかんからな。ほんで、暑いから水分しっかり取ってな」と言うと「だから飲んでてんやん」と言い返してきた。なんだかやけに反抗的だなと思いながら視線を落とすと、広げたノートに地図のようなものが書かれているのが見えた。スタートらしき場所には「がっこう」と記されており、路線図のようにいくつかの四角を線で繋げていて、ところどころに手書きの星マークがつけられていた。双六のようにも見える。「なに見てたの?」と、指摘としてではなく興味本位で尋ねた。「帰り道に暑くてお茶飲まなあかんから、飲むポイントを書いてんねん、いまここ」と言って[学校]と[学童]の間にあるチェックポイントの一つを指した。「真夏の水分補給」も子ども達に指導している交通ルールと同じく大切なことだ。それを自分たちで工夫して実践できるようにしていることに感心しながらも「いいことやけど、危ないからノート広げて歩くのはやめような」と伝えた。しばらくしてから、「おもろいなあ」とそのノートのことを思い出していた。自分たちで相談して書いたんだろうか。決められためんどくさいことも、あそびに昇華してるなんてすごいじゃないか。「いいことやけど」ってなんやねん。ただただめっちゃおもしろいやん。「いいことや」って取ってつけたように言ったけど、あの子たちには「怒られた」ってことだけが残っているんじゃないかと少し後悔した。自分で自分に「怒りたくて怒ったんちゃうねん」と言い訳した。「なら怒らなければいいじゃないか」と子どもの頃のぼくが顔を出す。危ないことは危ないからやめてもらわなきゃいけない。けれど、もっとほかに伝え方があったんじゃないか、間違いを指摘することをそんなに焦らなくてもいったん話を聞くことくらいはできたんじゃないか、と何度も考えていた。思い通りにいかないときに癇癪を起こしてしまう子がいる。諭すように話したり、思いに寄り添うように声をかけたりしてみても全く応じることはなく、言葉をかければかけるほど興奮したり、脱力して床に寝そべり駄々をこねたりする。腫れものを触るように接していき、癇癪玉が爆発したら最後「鎮まりたまえ!」と災難が過ぎ去るのを待つようになだめ、根負けして思い通りにさせるか、そうでなければ開き直って強引に言うことを聞かせるしかない。その子は好きなあそびを中断されるたびに駄々をこねた。みんなで遊んでいるときには機嫌よく過ごしているけれど、終わってしまったり中断されると手をつけられなくなっていた。ある日、その子は好きなあそびをせずに一人で過ごしていた。ひとりでのんびり過ごしているのかといえばそうではなく、かと言って別のあそびに夢中になっている訳でもなさそうで、あえてそのあそびから離れているように見えた。何かあったのか尋ねてみると、その子は少し黙ってから「もう、ああなるの嫌やねん」と小さく言った。「ああなるの」とは「キーーーッ!」ってなること、つまり「癇癪を起こしてしまうこと」だ。「思い通りにいかないことがあったら癇癪を起こす子」ぼくはそんな風にその子のことを見ていた。思い通りにいかないことを押し通そうとする姿は、半ばわがままにも見えた。その子にも制御ができないのだ、とそのときに初めて気が付いた。本人が苦しんでいるなんて思ってもいなかった。癇癪を起こさないようにしたり、それを鎮める方法を話し合いもした。けれど、それは「その子がしんどいから」ではなく、「僕たちがしんどいから」やっていた。その子が癇癪と戦っているのに、僕とも戦わなきゃいけないなんてそりゃあしんどい。僕には見守るか支えるしかできなかったのだ。もしかしたら、わがままな姿や怠慢に見える姿が、ただ気に食わなかったのかもしれない。誰も困りはしないのに何故だか許せない、そんな感情ってあるんだよね。その子が感情をコントロールできなくて、うまく表現できなくて苦しんでいるかもしれない。それを分かっていても、それでもやっぱり「自分の言う通りにしたいだけじゃないか」とか「ただのわがままなのではないか?」と感じてしまう自分がいる。考えてみれば、その子が癇癪を起こさずに言うことを聞いて欲しい、と望んでいる僕の考えも、自分の思い通りにしたいというわがままだよね。僕たちはなんで、人がわがままに振る舞っていたりサボっているように見えたりするのが許せないんだろう。たとえば危険があるとか誰かの迷惑になるとかなら分かるけれど、誰に迷惑をかけるわけでもないのに、手を抜いていたりサボっていたりズルをしていたりすると許せない。気に食わないな、と思うだけなら勝手だけれど、「その子のためにならない」というもっともらしい理由をつけて厳しくしてしまうこともある。親を甘やかしたらいけないという価値観も、保育や教育の業界から聞こえてきたりする。「気に食わない」だけで批判するのは理不尽だって誰でも分かるけれど、それが「教育」とか「当たり前」という仮面を被ってたら、そういうものなのかもと思ってしまう。しんどい人は救われるどころかさらに追い込まれていく。しんどいのなら、甘えてもいいんじゃないのかな。なんで、甘えたり手を抜いたりすることが許せなくなってしまうんだろう。あ、例えば、狩りで生きてきた時代には、サボってしまったら生死に関わるから本能的に「サボるのは許せない」と感じるのかもしれないな。とか適当なことを考えてみたけれど、「サボりたい」「休みたい」も生きるために必要な心の声じゃないか。「何個しんどかったら帰れるんですか?」中学校に勤めている友人が、保健室で生徒に聞かれたらしい。熱は無いけれどアトピーの調子が悪いし具合もよくないので帰りたい。けれど、サボりだと思われて帰らせてもらえないとのこと。甘やかしてクセになってもいけないし、だからって子どものしんどさに寄り添えないのもつらいものだ。僕は子どもの頃からアトピーなんだけれど、痒いとか痛いとかだけでなく、向けられる視線やかけられる言葉に傷付いたり、自分は頑張りたいのに頑張れないしんどさもある。学童でも身体が痒くて目の前の宿題に集中できない子がいて、それを見て「集中力がないな」と思ってしまいそうになる。けれど、絶対に「集中しなよ」と声をかけることはしない。だって、集中できるならしてるもんね。痒いから集中できなくて、集中できないからまたイライラして掻いちゃって、終わりが見えなくてボーッとしてしまうんだ。荒れた肌は見た目も良くないし、フケが服についたりするから清潔感がないとか言われる。清潔にしていないとすぐに悪化するから、一度来た服を洗わずに着ることはないしシーツだってしょっちゅう洗う。その辺の清潔感のあるイケメンよりも、きっと清潔であることを心がけているけれど、見た目の清潔感は伴わない。食生活が良くないんじゃないかとか生活習慣が悪いんだよって言われることもある。怠慢だから、サボっているからだよと病気をその人のせいにしたがる。しんどくてエネルギーを使いすぎて、いつもなら容易にできることが、ガス欠でできないこともある。当たり前にできるべきことができていないから、またやっぱりサボってるって思われる。その人のしんどさはその人にしか分からない。同じ痛みでも、平気な人もいれば、動けないくらい苦しむ人もいる。その人にしかその苦しみはわからない、という至極当たり前のことを忘れて、苦しむ人が弱いのだと、それを悪いことのようにしてしまう。忍耐力が足りない?みんな我慢してる?その事実があったとしても、それでしんどさはなくならないのに。病気に限らない。健康でも、その時の環境や状況でしんどい人はきっとたくさんいる。家族がケガをしたり、飼っている猫が病気だったり、失恋したり、推しが引退したり。病気だからとか障害だからとかではなくて、なにもなくてもそのしんどさに目を向けていたい。「そんなことくらいで」なんて他人が言っちゃいけないんだよね。みんなは大丈夫なのに自分がしんどくても、「そんなことくらいで」って自分で思ってしまうことも、もうやめたい。みんなしんどいことは嫌なはずだよ。そのしんどさから逃げたり解放されることを望んだりするのって悪いことじゃないはず。みんながしんどくなくて、みんながサボれる社会の方が断然生きやすいやんか。「なぜしんどいか」なんて関係なくて、そこにしんどさがあるのなら、それをまずは解消したい。甘えてなにがいけないんだろう。弱くてなにがいけないんだろう。教育というモノを言い訳に、育てるという名目のもとに、その子のしんどさを否定してはいないだろうか。まっとうに生きる。勤勉に生きる。それが幸せになるためではなく、ちゃんとした大人として見られるためなのであれば、もうそれにならなくてもいいやって思うの。ちゃんとした大人、を目指すなら、人のしんどさを自分の尺度で測らずに、想像したり寄り添える大人でありたいと思う。「正しいこと」よりも先に「生きやすいこと」を大事にしてみようよって思う。他人が大切にしているものを否定しないのと同じように、他人のしんどさを否定しない。それができたならきっと、自分の大切にしているものもしんどいことも、自分で否定しないでよくなるんだと思う。子どもの育ちを見守る立場である僕が、こんな風にサボることを肯定したら、それで不安になる人もいるかもしれない。けれど、ぼくははっきりと言いたい。一個でも十分しんどいよ。みんながしんどくないことでも君がしんどいのならしんどいんだよ。休んでいいんだよ。手を抜いていいんだよ。苦しみを我慢して厳しくされた分だけ辛抱強くはなるかもしれない。けれど、その分相手にもその強さを求めてしまうのであれば、自分のしんどさに気づいて誰かに甘えられるほうが、その誰かもまた誰かに甘えていけるほうが、みんながしんどくないんじゃないかな。少なくとも、相手には相手のしんどさがあることを知れるから、強さを求めて追い込んだり傷付けたりすることは減るだろう。みんなが強いことを望んで傷つけ合うよりも、弱さを認め合って支え合えたら。甘いと言われようと、僕はそうありたいと思うのだ。余談ですが別の日の帰り道に、「泥棒って、ご飯食べてるんかなあ」と尋ねてきた。不意に問われたその意図が分からなかったので、なるべく断定するような答えにならないように「どうやろうなあ」と返すと「食べてないんやったら、カップラーメンにお湯入れてあげたいわ」とその子は言った。ただカップラーメンをあげたい、ではなく「お湯入れてあげたい」という具体的な優しさが、哀れみとか同情ではなくその子の本当の思いであることを感じさせた。「泥棒ってお金ないんやろ、だからカップラーメンに」と繰り返す。生まれながらに悪い人、ではなく、お金がないから悪いことをしてしまう。そんなふうに考えられる人がどれだけいるだろう。悪い人の代名詞である泥棒だけれど、その子にとっての泥棒は悪い人ではなく困っている人なのだ。犯罪を犯すのはその人のせいで、貧乏なのは自己責任だと叩かれるこの社会で、この子は泥棒のカップラーメンにお湯を入れてあげたいと言っている。それを聞いてぼくが抱いた感情を、なぜだろう、うまく言い表せられない。考えを巡らせすぎたのだろうか、「あーーー」と叫んで「あかん、ほんまに泥棒にお金配りたくなってきた」と泣きそうな顔で呟いた。もしぼくが泥棒なら、って少し想像したら、泥棒でもないぼくが何故か救われたような気持ちになった理由が分かった気がした。ぼくが泥棒だったなら。きっと、そのもらったお金でカップラーメンを買うだろう。ビールを飲んだり美味しいお肉も食べたいけれど、餃子やお寿司も食べに行きたいけれど、でもきっとカップラーメンを買うだろう。そして、その子がお湯を入れてくれるのを待つのだ。きしもとさんの記事やこれまでの連載コラムはこちら[文・構成/きしもとたかひろ]きしもとたかひろ兵庫県在住の保育者。保育論や保育業界の改善について実践・研究し、文章と絵で解説。Twitterやnoteに投稿している。⇒きしもとたかひろnote⇒きしもとたかひろTwitter
2020年10月27日Twitterやnoteで子育てに関する『気付き』を発信している、保育者のきしもとたかひろさん。連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』では、子育てにまつわる悩みや子供の温かいエピソードなど、親や保育者をはじめ多くの人の心を癒します。保育の授業である質問をされた、きしもとさん。これを読んでいるあなたにとって『子供』とはなんですか?第9回『ちょっとずつやさしくて、ちょっとずつかなしい。』「子ども」を一言であらわすとなんという言葉を思い浮かべますか?保育の授業でそんな質問をされた。はしの席から一人ずつ「かわいい」とか「純粋」とか答えている中で、ある男が「邪悪」と答えた。その言葉は一際目立っていて、ぼくは「たしかに子どもには邪悪な一面もあるかもしれないな、おもしろい視点だなあ」と感心していた。一方、教壇でその質問をした先生は憤怒していた。憤怒なんて言葉を初めて使ったけれど、大げさではなく噴火する勢いで声を荒げて怒っていた。「子どもに悪の心なんてありません!」と。その男の言葉が宙ぶらりんになっていた。なんで「邪悪」と言ったのか、どんな想いや考えがあるのか聞こうとしないその姿勢はいかがなものかと思ったが、必要以上に怒られている当の本人は言い返すことはなく「そんな変なこと言った?」と困惑していた。どこかに隠れてしまったその男の本心を知りたくて、授業が終わってからどういう意味でその言葉を使ったのかを尋ねた。「子どもって悪気なく嫌なこととかするやん?人叩いたり悪口言ったりさ」と、いまだ怒られたことに納得しない表情で話してくれた。「それ、無邪気ちゃうん」と尋ねると「あ、それやわ!」と合点がいったようだった。まわりが子どものキラキラしている姿ばかりを言っている中でその視点を提起したのは素晴らしいなという尊敬の気持ちと、どんな言い間違いしてんねんアホやなという気持ちが入り混じり、「じぶん邪悪やな」と返すと、どう受け取ったかわからないけれど「ほんまや、邪悪やわー」と笑っていた。子どもの言葉と向き合うときに「子どもの言動をどこまで注意したらいいかわからない」という相談を受けることがある。小学生にもなると、どこで覚えたのか耳を塞ぎたくなるような暴言を、たとえば「しね」とか「ころすぞ」とか言うような言葉を軽はずみに使うようになる。そんな言葉を子どもから聞くと、ヒヤリとする。純粋無垢だったはずのその子が、悪に染まっていくようで不安になる。純粋なまま育ってほしい一心でその言葉を禁止したり、その言葉を使ったその子を咎めたりしてしまうけれど、子どもが本当に殺意を持ってその言葉を使っているのかと言えばきっと大体がそうではない。「きらい!」であるとか「むかつく!」であるとか、関西人の使う「あほか!」くらいの軽いノリの時もあるのかもしれない。どこで覚えたのかと書いたけれど、思い当たる節はいくつもある。テレビやネット動画だけでなく、日常で大人も使っていたりする。それこそ軽いノリで。自分の思いを言葉にしようとしたというよりは、まだ語彙の少ない中で相手を攻撃したり、自分のイライラする感情を表す言葉として、どこかで見聞きしたその乱暴な言葉を使うこともあるだろう。ぼくはそんなとき、自分が嫌だなって思ったことなら、それをそのまま伝えるようにしている。子どもの育ちのために、とか躾のためにとかは考えず、ひとりの人としてどう感じたかをそのまま伝える。言われたことが嫌だったなら、「傷ついたよ」と伝えればいい。誰かを傷つけるようなことをしていたら「見ていて気分が悪いよ」と自分の気持ちを話せばいい。必要以上に断罪はしない。表現の方法を間違えているだけだから、その言葉を肯定はしなくても否定もしない。否定したり禁止するということは、その子の感情に蓋をするということかもしれないからね。整理できない思いがあるのならそれを使わないようにするのではなく、その思いを表す言葉を知ることや、その感情との向き合い方を知ることの方が必要だろう。あわせて、その言葉の本心を理解しようとしてくれる存在と、受け止めてもらう経験も。それでもやっぱり根っこの感情が本当に「殺したい」のであれば「死ね」という言葉で正しいんだろうし、もしそうならば、その言葉を他人が否定することはできない。僕たち大人も自分の思いや感情を普段からちゃんと言葉にしているだろうか。そう考えたら、できていることの方が少ない気がする。「仕事いきたくなーい」ってよくいうけど、みんなは言わないかもしれないけど僕は言うんだけど、本当に仕事に行きたくないかといえば実はそうではなく「もうちょっとゆっくり寝たーい」とか「のんびり映画見てすごしたーい」とかだったりする。「細かい雑務がめんどくさーい」とか「あの上司と顔合わせたくなーい」とかかもしれないし、言葉にできなくてなんとなく言っていることだってきっとある。その感情をそのまま言葉にするのって実は難しくって、複雑に絡み合った感情を何か言葉にしたくて目の前のことにそのまま表出したりする。自分の感情をうまく言葉にできないだけでなく、自分の感情自体を正確に理解することもままならないときもある。子どもに「あっちいって!」とか「きらい!」とか「死ね!」と理不尽に言われたときに、本当はチクっと傷ついているのに、どうしてか怒ってしまったり。そもそも、感情を正確に言葉にすることなんかできるのかな。なんだかルンルンしている気持ちを「楽しい」という言葉にするから「楽しい」になる。そもそもルンルンってなんの音かわからないけれど、楽しいという言葉よりもルンルンの方が伝わることもあるかもしれない。もやもやしている気持ちを「悔しい」とか「むかつく」とかいう言葉にするからその感情が形になる。どの言葉にするのか適切な言葉をまだ知らないから、その感情からまっすぐ「死ね」とか「きらい」いう過激な言葉になるんじゃないか。その「死ね」や「きらい」は、「悲しい」かもしれないし「寂しい」かも「痛い」かも「虚しい」かもしれないし、「もやもや」とか「いらいら」とかかもしれないし、この世界の言葉にはない感情なのかもしれない。そんなときに、あなたはそんなこと言う子じゃないって言われたら、そんな思いを持つことはいけないことだって否定されてその思いに蓋をされたら、ぎゅーっと苦しくなる。それはきっと大人も同じだ。たとえばなにかお願い事をされたときにも、大人だから付き合ってあげないとって思わなくても、自分がそれをしたくないのなら断ってもいいのだ。ぼくは仕事だから子どもにお願いされたらよほど無理なことじゃなければ断らないようにしているけれど、仕事じゃないならその断る理由が「疲れた」とか「めんどくさい」でも悪いことではないと思う。ただ、そのときに「断られることも覚えないと」だとか「思い通りにいかないときの折り合いの付け方を学ぶ」とか、その子の育ちのためになりそうな理由を探しそうになるんだけれど、それは必要はない。むしろ、「相手のため」という言い訳は本質を隠すし、本心でもない。自分を守るために相手を引き合いに出す必要はない。相手のためではなく、自分のために自分を守ればいい。「いまは私が使っているから貸したくない」「疲れているから応えられない」ときちんと伝えればいい。「それはやめてね」「傷つくからね」そうやって伝えるだけでいいんだと思う。それでその子のなにかが育つとか考えるのは少し傲慢なんだ。意見の表明をして相手はそれを受け止めた。できる限り自分の本心に近い部分を伝えて、できる限り相手の本心に近い部分を受け取る努力をした。ただそのやりとりが人と人との関係なんだと思う。優しい人だねと言われたら、「そうなのかな」と思うと同時に、期待に応えようと思う。強い人だねと言われたら、弱音を吐いてはいけないような気がする。本が好きだもんね、勉強好きだもんね、優しいもんね、子どもが好きだもんね。その言葉に励まされることもあるし、道を踏み外しそうになるのを踏みとどまらせてくれることもある。けれど、その言葉が呪いとなることもきっとあるんだろう。期待に応えたいという思いとあわせて「そうある自分に価値がある」と思ってしまっていたりもする。言いかえればそれは、期待を裏切らないように、価値がないと思われないように、ということ。自分の役割に徹していると、自分の気持ちが疎かになる。そんな自分の気持ちをなおざりにしていることに気づいていなかったりもする。大人だから、子どもの言うことには傷ついたりしない。親だから、めんどくさいこともきちんとやる。長男だから下の子に優しくする。上司だから、部下だから…それぞれの立場でそれぞれの役割を演じるために、ときに頑張りすぎたりする。それってやっぱりしんどい。だから、優しくない自分もいて良いんじゃないかな。頑張れない自分も、意地悪な自分も、ネガティブな自分も、期待を裏切る自分も。「相手はどんな言葉を望んでいるんだろう」それを考えることはきっと優しさなんだけれど、本当の思いを伝えることでお互いが救われることもきっとある。それは、自分を大切にするということでも、相手を大切にすると言うことでもあるよね。子どもも同じだ。ぼくたちが抱く「子どもは純粋であってほしい」とか「子どもに邪悪なところなんてない」という期待が、子どもも大人もおいつめてしまう。自分にどんな役割があったとしても、自分がしたくないことやできないことは「したくない」と言っていい。それは、自分もひとりの人間であるという、自分が自分であるということ。命を危険に晒すとか突き放すのでなければ、相手を故意に傷つけたりするのでなければ、大人も子どもも一人の人間だ。子どもに対してだけでなく家族にでも友人にでも職場でもそうなんだと思う。当たり前にそれを我慢する必要はない。そんなこと言ったらできる人にしわ寄せがいくとか、みんなわがままになってしまう、と言われるかもしれない。「それはしたくないな、嫌だな」と思っても、それを伝えても、結局はやらなきゃいけないことはある。けど、だからって黙ってなきゃいけないとは思わない。部屋の掃除をしたくないし、洗い物がめんどくさい。だからって「掃除めんどくさーい!やりたくなーい!」と言っちゃダメかといえばそんなことないはずなんだよ。いい大人なんだから掃除するの当たり前でしょう。文句なんか言わずにやれよ。なんて言わないでほしいし、自分が自分をそうやって追い込むのももうやめたい。「めんどくさいよね、明日にしよっか」「まあでもやろっか」「だれかにたのもっか」でいいんじゃないかな。絶対に手を抜けない消毒とかもさ、やるのが当たり前でしょうではなく「めんどくさいよね、けどやらなきゃね」って自分で自分を慰めながらやってる。伝えることって立場によってはとても勇気のいることだから、言えないことが悪いことだということではなくて、自分を大切にするために、自分を追い込む必要なんてないってこと。近しい人に話したり、帰って独り言でも、SNSに吐いてもいい。「ほんとは嫌だったんだよね」「悲しかったんだよね」「むかつくんだよね」とほんとの気持ちを言葉にするだけで、自分の気持ちを大切にできるような気がする。その言葉が少し乱暴でもいいのかもしれない。もしかしたら相手も自分の感情を正確に言葉にはできていなくて、悲しませるつもりはなくて、まっすぐ正確に言葉にすれば関係が良くなることだってきっとあるんだろう。もちろんそんな簡単なことではなくて悪化することだってあるけどね。自分が誰かのその心の言葉を聞いたときに、「なら代わりにぼくがやりますね」って言うかもしれないし、「キツイですよね」って共感するだけかもしれない。けれど「あなたはこうなんだから」「あなたの役割なんだから」「あなたが言ったんだから」って、その思い自体を批判して突き放さなしたりしないように気をつけていたいなと思う。自分の思いや価値観は、人を叩くためのものではなく自分を守るためのものだ。そうやって考えるだけで、少なくとも自分の言葉で誰かが傷つくことはあっても攻撃するという事は減るのかもしれない。僕の文章も、誰かの心に突き刺さる言葉としてではなく、そこらに生えている草花を眺めるような、たまに気になったら摘むような、そんな感覚で読んでもらえていたら嬉しいなと思う。余談ですが子どものころ、たまに会いに来てくれるじいちゃんは、いつもアンパンを買ってきた。ぼくの2つ上の兄の好物だったからだ。じいちゃんがアンパンを買ってくるたびに、ぼくの中でアンパン好きの兄ちゃんというイメージが確立されていき、兄のなかでも「自分はアンパンが好きだ」という意識が強化されているようだった。兄の喜ぶ姿を見てじいちゃんは「やっぱり好きなんだな」と満足げにまたアンパンを買ってきた。そのままいけば相当なアンパン好きになるんだろうと期待できたが、意外にもそうはならなかった。ある日当たり前のようにアンパンを取ってあげたら、「おれ、あんまりアンパン好きちゃうかも」と遠慮気味に兄は言ったのだ。「自分は本当にアンパンが好きなのか、君はアンパンが好きだねと周りに言われるからそんな気がしていたのか、本当は好きじゃないんじゃないか」そんな葛藤があったかは知らない。自分が本当に好きなのはアンパンではなくアンパンが好きな自分なんじゃないかなんて悩む姿を想像すると微笑ましいけれど、当時の幼いぼくはなにか不安な気持ちになった。たしかに好きだったはずなのに飽きてしまったんだろうか、もともと好きじゃなかったんだろうか、じいちゃんはどんな気持ちになるんだろうかと、誰も悪くないのに、寂しいような切ないような言葉にできない気持ちになっていた。その事実がじいちゃんの耳に入ったのかはわからない。そのあとじいちゃんが変わらずアンパンを買ってきていたか、買ってこなくなったのかも覚えてないくらい曖昧な記憶だ。けれどたまに、嬉しそうにアンパンを買ってきたじいちゃんと、突如アンパンに別れを告げた兄を思い出す。みんなが優しいのになぜか悲しい。なんだか少し切ないけれど、誰かひとりがしんどいではなく、みんなが優しいからみんなが少しずつ悲しいのなら、そのほうがいいのかもしれない。きしもとさんの記事やこれまでの連載コラムはこちら[文・構成/きしもとたかひろ]きしもとたかひろ兵庫県在住の保育者。保育論や保育業界の改善について実践・研究し、文章と絵で解説。Twitterやnoteに投稿している。⇒きしもとたかひろnote⇒きしもとたかひろTwitter
2020年09月13日元AKB48の前田亜美が、10月7日に『前田亜美1stフォトブック AMI』を発売する。11歳から芸能活動をはじめ、2016年にAKB48を卒業。女優やタレントとして活動する中、以前よりファンから「写真集を出してほしい」と熱望されてきたことから、今年25歳を迎えた節目のタイミングで初のフォトブック発売を決意した。タイトル、表紙から中面まですべての写真セレクト、配色から構成に至るまですべて自らプロデュース。様々な表情を見せながらすべてのシーンにおいて好きな花を添え、「最初で最後」というランジェリーカットにも挑んだ。また、これまで語ることのなかった「AKB48時代の葛藤やつらさ」「ファンや家族に対する思い」などを、「孤独」「悲しみ」「愛」「家族」「夢」という5つのエッセイに込めた。前田は、「11歳から芸能活動を始めて、今年で25歳。1stフォトブックで、産まれてから今に至るまでの過去や未来を赤裸々にお話します。華やかな世界にいながらも、誰にも言えなかったあんなことやこんなこと。花が好きなので花と共に作り上げた1冊になっております」とアピール。帯にはAKB48時代から前田をかわいがっていたという篠田麻里子が、「すっかり大人の色気も出てきた25歳の前田亜美ちゃん。様々なお花のような可愛らしさ・美しさ・儚さ・・・芯が強く魅力的な少女から大人になった渾身の一冊です」と絶賛コメントを寄せている。(C)KADOKAWA PHOTO/MAKINO SHOTA
2020年09月07日2020年9月5日に、俳優の前田敦子さんがInstagramを更新。いきすぎた取材や報道の在り方について、苦言を呈しました。前田敦子「面白おかしく物語を作らないで」「真剣な内容を失礼します」という1文とともに、前田さんは同日起きた出来事について投稿。幼い我が子を連れてスーパーマーケットへ行く道中、記者に後ろから突然声をかけられたといいます。取材を断っても記者はついてきて、前田さんの行く先にはカメラを持った人が待ち構えていました。今朝子供を抱っこしながらスーパーに向かって歩いていたら、記者の方に声をかけられました。後から突然でびっくりしましたし、お断りしてエスカレーターに乗っている間もずっとで、エスカレーターを降りた先にはカメラを構えた方がいて。。子供が一緒だったのでとにかく危ないなと冷や冷やしました。子供との写真はもちろんやめてほしいです。atsuko_maeda_officialーより引用 この投稿をInstagramで見る 前田敦子(@atsuko_maeda_official)がシェアした投稿 - 2020年 9月月5日午前1時27分PDT前田さんは、生活をおびやかされるような取材の在り方について、胸の内をつづっています。スーパーもコンビニもいきますし、毎日普通に生活しています。面白おかしく物語をつくらないでほしいな。。切実に思います。自分の心の奥の気持ちは言ったり書いたりしたことはありませんでしたが、、今日はとにかく悲しかったですし、危ない目に遭いかねないと危機感を感じましたので、今まで思っていた事を含めて初めて書きました。毎日安全に穏やかに過ごせますように。atsuko_maeda_officialーより引用前田さんはいきすぎた取材に対し「面白おかしく物語を作らないでほしい」「悲しいし、危ない目に遭いかねないと危機感を抱いた」と訴えました。切実な呼びかけに対し、ネット上では労わりの声が上がっています。・子供が一緒にいる時に、そういう取材は本当に控えるべき。・最低限の配慮は持ってほしい。プライベートはそっとしてあげて…。・ほかの芸能人も同じような被害に遭っていそうなので、前田さんが声を上げてくれてよかったと思う。いうまでもなく、芸能人も私たちと同じ人間です。プライベートな領域を侵すような過度の取材に、不安や恐れを抱くこともあるでしょう。この呼びかけが然るべき相手のもとに届き、芸能人を取り巻く状況が少しでも改善されることを願います。[文・構成/grape編集部]
2020年09月06日元AKB48で女優の前田敦子が5日、インスタグラムを更新し、過度な取材を控えるよう訴えた。前田は、「真剣な内容を失礼します」と切り出し、「今朝子供を抱っこしながらスーパーに向かって歩いていたら、記者の方に声をかけられました」と説明。「後から突然でびっくりしましたし、お断りしてエスカレーターに乗っている間もずっとで、エスカレーターを降りた先にはカメラを構えた方がいて。。子供が一緒だったのでとにかく危ないなと冷や冷やしました」とその状況を伝えた。「子供との写真はもちろんやめてほしいです。スーパーもコンビニもいきますし、毎日普通に生活しています。面白おかしく物語をつくらないでほしいな。。切実に思います」と吐露する前田。「自分の心の奥の気持ちは言ったり書いたりしたことはありませんでしたが、、今日はとにかく悲しかったですし、危ない目に遭いかねないと危機感を感じましたので、今まで思っていた事を含めて初めて書きました」と今回の投稿の経緯に触れ、「毎日安全に穏やかに過ごせますように」とつづっている。
2020年09月05日お笑いジャーナリストのたかまつななが29日、都内で開催された「ジャパンSDGsアクション」記者発表会に出席した。「ジャパンSDGsアクション」とは、日本におけるSDGs(持続可能な開発目標)のアクションを推進する官民連携プロジェクト。記者発表会では、コロナ禍と今後の社会におけるSDGsの行動などについて、トークセッションを実施した。たかまつは「みなさん、ごきげんよう!」とあいさつ。「私は、距離を置いてしまいがちな社会問題に対して、お笑いの力で敷居を下げたいと考えて活動しております。現在、お笑いジャーナリストとして、お笑い芸人・ジャーナリストとして取材活動をしています。そして時事YouTuberとして、YouTubeを通して若い世代にどうすればSDGsなど社会問題を身近に伝えられるかということに挑戦しております」と自身の活動を紹介した。続けて、「SDGsについては大学生のころから、伝えるという活動をしていまして、ネパール、マダガスカル、フィリピンとか、いろんな国に取材に行き、『笑って学ぶSDGs』という教材を作りまして、今、いろんなお笑い芸人さんを巻き込んで全国の学校に出張授業に行くという活動をしております」と説明。「ババ抜きを通してSDGsをわかりやすく伝えるという『SDGsババ抜きカードゲーム』を作り、その教材を販売したり、自治体で活用していただいたりしています」と語った。そして、「本日はみなさんと一緒にSDGsについて、どうすればコロナ禍において、行動していけるのかということを考えていければと思います」と述べ、ジャパンSDGsアクション推進協議会会長の蟹江憲史氏、外務省国際協力局地球規模課題総括課長の吉田綾氏、SDGs-SWY共同代表の和田恵氏、ジャパンSDGsアクション推進協議会事務局長の山口健太郎氏ともに、withコロナ時代におけるSDGsの意義などについてトークを繰り広げた。たかまつは2018年4月にNHKにディレクター職で入局し、今月14日にツイッターで、同局を退職することを発表。その際に、「今後は、時事YouTuberとして『社会問題解決型』の番組を作っていきます」と説明していた。発表会には、神奈川県知事の黒岩祐治氏らも出席。また、女優・のんもリモートで参加した。
2020年07月29日元AKB48で現在女優の前田敦子さん(28)と夫で俳優の勝地涼さん(33)が別居中であると、7月1日発売の週刊文春が報じました。前田さんは2019年3月に第一子を出産。現在は子育てをしながら女優として復帰していますが、国民的アイドルの元センターは子どもを生んでも人気健在のようです。そんな彼女の尻に敷かれていることが夫の別居原因……と記事では書かれていましたが、個人的に1つ気になることがあります。それは前田さんと前田さんのお母さまがすごく仲良しで、ご実家が同じマンションの別フロアに住まうほどであるという点です。結婚後の実家との距離感は、一般的に両者の物理的な距離に比例する傾向があります。今回のように意図的に自分の親と距離を詰め、夫婦関係が悪くなるというのは、そこに何かしらの弊害が起きることもあります。母親と娘の距離感というのは、いくつになっても難しいものです。とさらりと書きましたが、ここで言う「難しい」に納得した方は今現在で自分の母親との関係にネガティブなモノを感じているか、はたまた好きすぎて依存的になっているかもしれません。前田さんのご家庭がどうか、記事には詳細は書かれていませんでした。ただ一般的に必要以上に実の母親と近すぎる距離に住もうとする場合、両者の間には共依存的な愛情のつながりが続いている可能性があります。いつまでも母娘が仲良しといった表現は一見すると微笑ましく思えますが、それも程度問題。本来、結婚したら妻が1番に優先していくべきは、夫との家族を築くことです。しかしここで母娘の距離が近すぎると、夫婦の関係性に母の存在が割って入ることになり、パワーバランスが崩れます。例えば夫と妻が話し合って決めるというシーンにおいて、母親が横から「こうした方がいいんじゃない?」と口出ししたとしましょう。その結果として夫の意見が不本意に押し込められるというのは、よくないやり取りの代表です。はたまた物理的な干渉が母親側になくとも、妻が何かと実家にばかり寄り付いているような関係は夫からすれば面白くない部分があるものです。三者でのやり取りが基本となると、夫は2人の依存関係を壊す要因になる。そうするとだんだんと関係性から排除されていくか、夫側が強引に抵抗してきます。具体的には空気のように扱われたり、いつも言いなり的な役割になったり……。逆に夫が妻に対して、モラハラにも似た強引な態度で自分をアピールしてくるなどもあるでしょう。どちらにせよ、母親が過剰に間に入った関係は健康的な夫婦円満とはなりにくいのです。母と娘の関係がべったりで、夫は傍観者としてそれを眺めている。それを「バランスが取れているんだし、良いのでは?」と思う方もいるかもしれません。しかし、人間関係に近すぎて良いことはありません。ここでの本当の問題は、母も娘も相手を求め続けるあまり、いつまでも心の隙間が埋まらないことが問題です。例えば娘の中には、いつまでも母親からの愛への渇望があります。「母親にべったりなのに?」と疑問に思うかもしれませんが、ありのままに母から愛されている感覚がないため、それを欲して母親にいつまでも執着するのです。その根底には母親の期待に答えられない自分への罪悪感や、長年愛されてこなかったという感覚への後ろめたさなど、いろんなものが蓄積されています。べったりすればするほど心の穴が満たされるわけでもないから、娘としては辛い状態が続きます。ではそんな不憫に見える娘に対して母親はどうなのかというと、実は母親も心のどこかでは同じようにありのままに愛されることを渇望しています。つまり母と娘、お互いがお互いの目線で「私を愛して」というメッセージを発し続け、そして見当違いのエネルギーを出しまくっている。なので、いつまでも関係は発展しません。ああ辛い。前田さんと勝地さんご夫婦がどういう関係性で成り立っているかは、これから明らかになっていくのでしょう。現在、夫婦は別居中とのこと。ただ今回ご紹介したような母娘の依存関係が根っこにある場合、別居を続けても根本的な解決にはなりにくいものです。AKB48の“神7”としては初めて結婚したあっちゃん。神7で初の離婚も、やはりあっちゃんなのか……。それだけは、避けて欲しいところです。(文:おおしまりえ)
2020年07月08日お笑いコンビ・キャイ~ンの天野ひろゆきが8日、オフィシャルブログを更新し、香取慎吾の感動エピソードを明かした。日本テレビ系『天声慎吾』共演以降も香取のことを「王子」と呼ぶなど、親しい間柄で知られる天野。8日付のブログでは、「昨日のななにーも、近くにはいたけど、リモート状態で会えずかと思ったら、ライブへの移動で少しだけ王子と話せた(これはもはや出待ちするファンだ(笑))」と直接の会話が久しぶりだったことを明かした。香取に会いに行った天野が「ドラマ宣伝してくれてありがとう」「おかげで好評うちに完走出来たよ!!」と伝えたところ、香取から「僕の宣伝のおかげだなんて」「じゃなくて楽しく面白く沢山の人が観たくなる作品だったんだよ。楽しい時間をありがとう!」と逆に感謝されてしまったのだそう。「久しぶりに王子に会えた」と題したこの日のブログは、「泣けるじゃねぇか王子」と天野の感情がにじみ出る一文で結ばれている。「ドラマ宣伝」というのは、天野が出演したドラマ『隕石家族』(東海テレビ・フジテレビ系)を、香取がTwitterなどで告知していたこと。先月30日、香取の「いよいよこの後23時40分から隕石家族 最終回!!」に対して天野はTwitterで「おい!ついに俺を経由しないで直接ツイートしとるやないかいっ!!(笑)」「気付かないでメール待ってたよ」「ありがとう王子!!」と反応。ブログでは度々感想メールが送られてきたことを明かし、最終回後にも届いたようで、翌日には「王子からのメールが『STAY HOMEに楽しい時間をありがとう!諦めたら人生そこで終わり 明日の人生に懸けてみるか どんとこいだね!!』その通りだよ!! 王子~!! ありがとう」と感謝のメッセージを送っていた。
2020年06月10日映画『AI崩壊』のブルーレイ&DVDリリース オンライントークライブが19日に行われ、大沢たかお、賀来賢人、岩田剛典、入江悠監督が登場した。同作は2030年を舞台に、天才科学者・桐生浩介(大沢)が開発したAIが突如として暴走し、日本中がパニックに陥る様子を描く。年齢、年収、家族構成、病歴、犯罪歴などの国民の個人情報を完全に掌握したAIが人間の生きる価値を選別し、殺戮を始める。20日のブルーレイ&DVDリリースを控え、新型コロナウイルス感染防止の観点から4人はリモートで集結。さらに、抽選で当たった100名の一般参加者も加えて質問を募るなど、オンラインならではの距離の近さでトークライブが行われた。キャスト陣も1月末の劇場公開以来久々の再会となり、「まさかこういう形で会うとは……」(大沢)、「本当ですね。緊張します」(岩田)と普段と違う様子を見せる。「僕だけ背景が違う」という賀来には、大沢が「賀来君はYouTuberなので大丈夫」といじってみせるなど、和気藹々と始まった。"おうち時間"を過ごしているという現状についても、岩田が「ずっと家にいますね。常に掃除しちゃうので、部屋がずっときれいですね。もうタンスの奥とか普段しないところまで整理整頓がピカピカです」と明かし、入江監督の「僕はシソを育ててます」という告白にも大盛り上がり。質問コーナーでは、一般視聴者がZoomに参加することとなり、興奮を抑えられない様子にキャスト陣が笑みをこぼす場面もあった。撮影中のエピソードに話が及ぶと、他キャストとのシーンがあまりなかった岩田について、大沢は「岩田君に最初に会ったのがクランクインの時で、次に会ったのがほとんどクランクアップだったので、その間どういう風に気持ちを維持してたのかなと思って」と、岩田の様子を見にいったことを明かす。「距離のある役だし、物凄い難しいシーンで、岩田君が決めないといけない日だったので、スタッフも過度な期待をして。岩田君が一人端っこで集中してるのを見に行って、嬉しかったですね。プレッシャーに負けないんだなって感心してました」と称賛すると、岩田は「どんどん日が暮れて焦ってました」と照れる。また、「初日に賀来君と岩田君と同じシーンで。初対面で世間話もしないうちにテストが始まっちゃったので、そこは緊張しました。賀来君も緊張して、顔に出てて、またそれで緊張した」と苦笑。賀来は「これは監督にものを申したいんですけど、いきなり僕が会社の説明を3ページくらいにわたってしなきゃいけないシーンだったんです。緊張もあってつっかえちゃう感じもありつつ、『1発で決めてくれんだろうなあ』みたいな空気で、座長の大沢さんもニヤニヤしながらこちらを見てくるし、緊張がマックスになった」と抗議していた。最後に、オンライントークの感想を聞かれると、入江監督は全国で撮影できたことに感謝しつつ「触れ合うということで演技が生まれてくると思ってるので。またこういう撮影ができる日々が戻ってくることを願っています」としみじみ。岩田は「こういう状況だからこそ距離感の近い感じでオンライントークライブという形で、皆さんに聞いていただけるという機会がすごく楽しかったです。今回の現状とこの映画がリンクしてるなと個人的に思っていて、是非とも今皆さんおうち時間でご覧いただきたいなと思います」と現実とのリンクについての心境も語った。通常のトークや舞台挨拶等ではキャストが横並びになることが多いため、「実際、正面で向き合って話すことがないので、意外と楽しかった」と振り返った大沢。「あるパニックが起きた世の中で自分がどうやって生きてくか考えさせられる映画なので、見てもらえたら本当に嬉しいと思います」と作品をアピールした。
2020年05月19日大沢たかお主演映画『AI崩壊』のBlu-ray&DVDがリリース。これに先駆け、プレミアム・エディションに収録される特典映像の一部が到着した。AIが人間の生活に欠かせない存在となった10年後の日本を舞台に、国民の個人データを掌握したAIが人間の価値を選別し、殺戮を始めるという衝撃のストーリーが展開する本作。今回到着したのは、特典映像【メイキング・オブ“AI 崩壊”】の一部。主人公の天才科学者・桐生浩介を演じた大沢さんが、松嶋菜々子演じる妻・望という存在を語っている。医療AI「のぞみ」は、桐生が末期ガンにおかされた妻を救うために開発したという設定。今作で松嶋さんは、過去の風景の中に登場し、またAI「のぞみ」の声も担当している。これまでも共演経験のある2人だが、夫婦役は本作が初めて。まず大沢さんは「彼女はたくさんの経験をしてきているし、僕が最初に知り合った頃からご結婚もされ、子供も育ててと、いろんな人生経験を踏んでいるので、会うたびに別の顔をされている」 と松嶋さんの印象を明かす。「あんなにシーンが少ないことはないんじゃないかな、ひとつの作品で」と言う通り、望の登場シーンは少ないものの、象徴的な存在。「とっても大事な役です。娘の“心”にとっても頼みの存在で、見えないけれどいつもそばにいる」と桐生にとって大切な望の存在を語っている。一方、松嶋さんは「“私のこと好きで指名してるでしょ”“そうだよー”なんて言いあえる仲です」と共演を重ねてきたからこその仲の良さを披露。また「すごくストイックな方なので、この作品も大沢さんの味を出しながら作り上げていくんだろうなと」コメントしている。また映像には、望と一緒に働いている様子や、望と心と3人が過ごす穏やかな海辺のシーンといった、桐生にとって幸せだった過去の風景の撮影のメイキングシーンが映し出されている。ほかにもプレミアム・エディションには、撮り下ろしとなる大沢さん、賀来賢人、岩田剛典、入江悠監督によるシーンセレクション・ビジュアルコメンタリー、メイキング映像、イベント映像集、VFXプロデューサーによるCG制作の舞台裏など、3時間を超える映像特典を収録している。『AI崩壊』Blu-ray&DVDは5月20日(水)リリース。(cinemacafe.net)■関連作品:AI崩壊 2020年1月31日より全国にて公開©2020「AI 崩壊」製作委員会
2020年05月04日Twitterやnoteで子育てに関する『気付き』を発信している、保育者のきしもとたかひろさん。連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』では、子育てにまつわる悩みや子供の温かいエピソードなど、親や保育者をはじめ多くの人の心を癒します。第5回は、きしもとさんが人それぞれ異なる子育ての価値観について考えます。第5回『知らないからこそ、間違うからこそ。』年度の変わり目、一年が過ぎようとしているこの時期にようやく気づく子どもの姿がある。3月の初め、ある高学年の男の子と公園で遊んでいるのを見て「楽しそうですね」と同僚から声をかけられた。その子を見ると、いつにない笑顔ではしゃいでいた。「いつにない?」本当かなとふと思った。自分が気づけていなかっただけでいつもこんな風に楽しんでいたんじゃないか。高学年の男の子たちは、大人にはあまり依存せず自分たちの世界であそびを楽しんでいる。家でゲームをしたり公園で同年代の子達と遊ぶ方が楽しいんじゃないかと感じることもある。もちろん一緒に遊ぶことはあるけれど、低学年のようにずっとくっついてくるようなことはほとんどない。すると、自然とこちらから声をかけるのが、危険なことやよくないことをしたときに偏ってしまう。楽しんでいる中で「注意してくる人」とだけ認識されたら、話もまともに聞いてくれない。危険なことなら聞いてもらわないといけないから遠慮なく伝えるのだけれど、ふてくされた態度や反論があるとこちらもつい強い語調になってしまう。そんなやりとりが多い男の子だった。あんなに毎日会っていて、この楽しそうにしている姿にぼくはどれだけ目を向けていたのだろう、と思った。全然見れていなかったかもしれないな、と。荒い口調で怒ってしまったり否定するような言い方をしたりした、思い出したくない記憶が蘇り、後悔した。「もう少し優しく接したらよかったなあ」と同僚にこぼすと、「まだありますよ、接する時間」と返された。うんそうだよなと思った。あと一ヶ月、できなかったことを嘆くにはまだ早い。いまからでもできることをしよう、と気持ちを立て直した。子どもとの関わりや子育てについての発信をしていると、共感してくれる人や参考にしてくれる方たちがたくさんいる。ありがたいことに、すごいねと言ってもらえることもある。けれど、その度に自分はそんな人間じゃないんだと逃げだしたくなる。「よく綺麗事が言えるよね、そんな清廉潔白な人間じゃないだろう。今までの失敗が無かったことにはならないぞ」ともう一人の自分が責めてくる。「あの人は間違っている」というような誰かを批判する言葉を聞くと、他人事ではなくその言葉はそのまま自分にも突き刺さる。浅はかな偏見で人を差別したことや傷つけたことがある。保育でも、強い言い方をしたり怒鳴ったり、言うことを聞かせようとしたり、そういった「適切ではない関わり」をしたことがある。体罰を与えて大怪我を負わせたことはなくても、そうなっていたかもしれない状況はいくらでもあったと思う。思い出すだけでこの仕事から離れたくなる。ぼくが今どんな人間になっていても、そのときのその人の傷はきっとそのままだ。なかったことにはできない。たまたまなのだ、いま何もない顔をして保育を語れているのは。当たり前のように子どもたちと毎日関わることができているのは。ぼくの知っているそれと、違うものたちぼくが育った家庭は、父がお茶をくれと言えば母はお茶を淹れる。返事をする母は、どちらかといえば嫌そうな顔をしているので、それはそれで嫌だろうから自分で淹れれば良いものを、父は半ば意地のように自分では淹れない。それについての是非は語れないし語るつもりもない。それは本人たちにしか分かり得ない二人だけの関係だ。ただそういう環境で育ったということは、ぼくも「それがふつう」という感覚を少なからず持っているということだ。良いとか悪いとかではなく、そこから自分の偏見が生まれていたりする。そう自覚しだしたのは成人してからだった。友人の母親が好きな歌手のライブに一人で行くというのを聞いて、不思議に思った。「母親が夜一人であそびにいくの?」と否定的な感情を僅かながら持った。恥ずかいしいことに、その時のぼくはまだ未熟で思慮が浅く世間知らずだった。なにも変なことじゃないのに、自分の知っているそれと違うというだけで違和感を感じてしまったのだ。保育や保護者支援について学んでいたし、実習にも行っていたけれど、自分の偏見や世の中の当たり前と向き合う機会はあまり持たなかったのだろう。ぼくの実家のおでんにはニンジンが入っている。小学校の頃に他の家ではニンジンが入っていないことに衝撃を受けた。そして、大人になってからタケノコのおでんを食べてさらなる衝撃を受けた。自分の経験がすべてで、それが当たり前だと思い込んでしまう。食事は手作りで手間をかければかけるほどよくて、共働き家庭もあるけれど父親が養って母親は家にいるのが普通で、子どもには両親がいて、休日は家族と過ごして、おでんにはニンジンが入っていて。なんとなくそれが当たり前だと思っていた。けれど、こういった「自分の当たり前」って、いろんなことを見て考察して考え抜いた先に見つけた揺るぎない価値観とか考え方ではなく、ただ「ぼくが知っているそれ」ってだけなんだよね。だから、そんな中で感じる他人の「間違い」は「ぼくが知っているそれではない」というだけなんだ。それは、偏見にまみれたものに限らず逆も然りなんだろう。ジェンダー意識が高くて多様性を尊重する環境で育ったとしても、そうでない人を見て「あの人は間違っている」と感じてしまうなら。「自分の知っているそれではない」という、ただそれだけの感覚が偏見となり、気づかぬうちに誰かを追い込んでしまっていたりする。だから、自分の当たり前で人を潰してしまわないように、人の当たり前で自分が潰れてしまわないように気をつけていたいと思うのだ。いろんな方法を、いろんな人がいることを、いろんな考えがあることを、完璧じゃなくていいことを、自分が知らないことがたくさんあることを、まず知ることができたら。多くのことを知るたびに知らないことがどんどん増えて、自分が知っていることは米びつの中にある米粒一粒くらいなのだと知れたら、きっと他の米粒を見て簡単に批判はできなくなる。当たり前だと思っているものに潰されそうになった時に、実はそれは当たり前ではないのかもしれないと知れたら、少し気持ちが楽になる。もし間違っていると感じる言説に触れて許せなかったり、自分は間違ってばかりだと感じて落ち込みそうになったら、「まだ知らないのだ」と思えたらいいな。その人がまだ知らないのかも知れないし、自分がまだ知らないのかもしれない。それは、卑下するという意味ではなくて。「タコは食べものではない」と言う人に「タコを食べないなんておかしい!」なんて怒ったりしないように。ただ、文化が違うのかな、食べたことないのかな、おいしさを知らないだけなんだろうなと思うように。そこでもし、食べてみてほしいなって思ったら、あなたは間違っていますよ、とはきっと言わずに「タコパしようよ」って誘うよねきっと。他のもの入れても美味しいから、一回やってみて気が向いたらタコ焼き食べてみようよって。あ、おでんにしても美味しいよね。生まれたばかりの、まだ価値観とも呼べない感覚を正面から否定されたら、自分の全てを否定されたと感じて防御反応としてその「なんとなくの価値観」に固執してしまうんじゃないかな。いろんなものを見て考えて価値観を作り上げていくのはやめて、自分が「間違い」にならないように「ぼくが知っているそれ」を正解にするための答えを探していくんじゃないのかな。そうなったらきっと、永久に考えが変わることはないんだろう。だから、批判をするなら丁寧にしたい。なんのために、どこに向いてそれを批判するのかをちゃんと考えたい。それは、いい人でありたいからではなく、間違っている自分と、これから間違うかも知れない自分のために。もし「許せない」と思いそうになったら、タコパに誘ってみれたらいいなと思う。いまの自分が10年前のぼくを思い出してそう思うように、これを書いている現在の自分もまた10年後の自分から見たら未熟で、やはり気づかぬうちに自分の当たり前で誰かを傷つけたり追い詰めてしまったりしているのだと思う。自分がもともとどんな人間かを気にしてしまったらもう人生を諦めてしまいそうになる。だから、どんな人間でありたいか、そのために今から何ができるのかを考えることにする。子どもたちを大切にできる保育者でありたいし、みんながしんどくないようになればいいなと思っている。うまくできなくても、その思いは本当なんだ。自分がした言動を変えることはできないけれど、だからこそ何度も間違う自分とともに、埋まることはない穴を自己満足で埋めることはなく、愚直にユーモラスに、できることを重ねていきたいな。いい親でいることはできないかもしれない。いい保育者であることはできないかもしれない。けれど、それでもいいじゃないか。完璧にできないし、100点を取ることはできないけれど、その時その時に最善だと思うほうを選んでいければ。その方法をみんなで出し合えたら。その中から選ぶのは、自分を追い詰めるためのものではなく、追い込んでしまう自分を救うためのものであればいいなと思う。余談ですが冒頭の話から一ヶ月経った3月の末のある日の夕方、公園から学童に戻るときにその子が「まだ遊びたい」と伝えてきた。幸い人手があったので小一時間その子と走り回った。二人で遊ぶこと自体はそんなに楽しくないはずなのに、ゲラゲラと笑っていた。「帰りの匂いがするわ」公園を出た時に、その子がふと呟いた。わかるような、わからないような、けれどその子のそのままの言葉なんだろうな、ああ、いいなあと素直に思った。意味を聞くのは野暮だとわかっていながらも、やっぱりどうしても聞きたくなって尋ねてみた。「終わったなあー寂しいなあーけどまあ明日も学童あるしなあって感じの匂いやな」と返ってきた。ぼくの目に写っているのは生意気なその子ではなく、今日を思いきり楽しんで明日に期待して充たされているような、そんな顔だった。「まだありますよ、その子と接する時間」一ヶ月前に同僚からかけられた言葉を思い出した。穴は埋まっていないかもしれないけれど、救われた気がした。ふいになにかが溢れ出しそうになり、それがこぼれないように、その「帰りの匂い」を思いきり鼻から吸いこんだ。「金曜日の夕方と日曜日の夕方、どっちが好き?」と続けるその子に、そりゃあ金曜の夕方やな。とだけ答えた。君たちのおかげで日曜の夕方が憂鬱になることはほとんどないけどね。【コラム第1回】子育てで『正解』に苦しめられたら保育者が大切にしたいこと【きしもとたかひろ連載コラム】【コラム第2回】子供を注意して「しまった!」保育者が気を付けていることは…【きしもとたかひろ連載コラム】【コラム第3回】「ヘタだからやらない」という子供その理由に考えさせられる【きしもとたかひろ連載コラム】【コラム第4回】子育ての『手抜き』で大切なこと「手を抜いてもいい」ではなく…【きしもとたかひろ連載コラム】[文・構成/きしもとたかひろ]きしもとたかひろ兵庫県在住の保育者。保育論や保育業界の改善について実践・研究し、文章と絵で解説。Twitterやnoteに投稿している。⇒きしもとたかひろnote⇒きしもとたかひろTwitter
2020年04月16日「僕はいつもニコニコ笑うようにしてるんだよね―」山田たかおさん(63)は子供のときからそうだった。のど自慢に飛び入り参加で大ウケ。番組のご褒美で作ったグループ「ずうとるび」が大人気。そして、ご存じ『笑点』の座布団運びまで、笑いを振りまき、家族やファン、視聴者といった周囲の人たちを楽しませてきた。五代目・三遊亭圓楽(70)や桂歌丸(享年81)からもかわいがられ、一目置かれたのもこの笑顔があったからこそ。そんな彼が直面した危機。ずうとるび脱退と離婚を経て無一文になった山田くんを救ったのは、一本の電話だったという。ずうとるび結成から今までの、山田くんの人生を辿ろう。幼少期に、「劇団ひまわり」に入団。その後中学2年生のとき、日本テレビからオファーが届く。じつは座布団運びよりもずっと前、これが山田くんと『笑点』との出合いだった。「幼いころから落語が好きで、本を読んだりして勉強もしてました。それで、ある番組で落語『寿限無』を披露したところ、それを見たある放送作家さんが『こいつだ!』ってひらめいたようで。僕と、それに同世代の子供を集めた『ちびっ子大喜利』が始まったんです」当時、『笑点』の司会は三波伸介(享年52)。当初のちびっ子大喜利のメンバーには山田くんのほか、キャロライン洋子(57)や林寛子(60)の姿も。「それから、ドラマで仲よくなった郷ひろみくん(64)にお願いして『紅白歌のベストテン』という歌番組の収録現場を見学させてもらったことがあって。『キャーッ、ひろみく~ん』って、すごい熱狂ぶり。それ見てたら『いいな、俺もこれやろう、アイドルになろう』って思っちゃったんですよね」ちびっ子大喜利も、座布団が10枚たまるとご褒美がもらえる仕組み。山田くんは「レコードを出したい」とリクエストし、見事10枚の座布団を獲得した。「アイドル全盛時代でしたから。どうせなら、ちびっ子大喜利の男子でグループを組もう、ってことになったんです」こうして生まれたのが、4人組のアイドルグループ「ずうとるび」だった。デビュー曲は山田くん作詞・作曲の『透明人間』。当初から、ずうとるび人気はものすごかった。各局の歌番組、バラエティ番組で重宝され、週11本のレギュラーを抱えるまでに。「紅白?出られるなんて夢にも思ってませんでした。自分以上に両親が喜んでくれたのが、とってもうれしかった」しかし、ずうとるびブームのピークは、まさにその紅白だった。彼らの人気は徐々に停滞気味に。同時期、山田くんには私生活でも大きな変化が……。それは人生最初の結婚。1977年、山田くん21歳のときだ。また、メンバー間には音楽性の違いによる軋轢も生じ始め、コミック路線を進みたい山田くんと、歌って踊れるアイドルを目指したいほかのメンバー。そこで、山田くんは脱退を決意。「やっぱり僕は、どこまでも人を楽しくさせたい、明るくさせたい、笑顔にしたいっていう思いが強くてね。普通のアイドルじゃ、面白いと思えなかった。それに、当時の奥さんの親類とも、どうにも折り合いが悪くて。芸能界引退まで迫られてしまって……離婚することになったんです」慰謝料と養育費を払い、無一文に。家族を失うと同時に、仕事もどんどんなくなっていった。そんな窮地に1本の電話が入る。かけてきたのは旧知の『笑点』のプロデューサー。用件はただ1つ。「山田、お前、座布団運びやるか?」即答した。「やります、やらせてください。なんでもやりますから」こうして1984年。「座布団運びの山田くん」は誕生した。その日から36年間、山田くんは家庭用よりはふた回りも大きく重い座布団を運び続けている。「最初の座布団を誰に持っていったかは、もう忘れちゃった(苦笑)。これまでに何枚、運んだかも……、まあ、申請さえすれば、間違いなくギネス記録だと思いますよ」山あり谷ありの中で縁が繋いだ“座布団運び”を、これからも笑顔でまっとうすることだろう。「女性自身」2020年4月7日号 掲載
2020年03月29日今年も母の日ギフトが登場株式会社不二ビューティは、同社が展開するエステティックサロンの「たかの友梨ビューティクリニック」とエステティシャンコスメ通販の「たかの友梨ビューティショッピング」において、『2020たかの友梨 母の日エステギフトセット』を販売中である。チケットの内容は、フェイシャルまたはボディコースのいずれか1コースの利用、3種類から選べるフラワーギフト、オリジナルのミニコスメセットとなっている。チケットは、特別価格の10,000円。指定住所に配送が可能で、配達期間は、5月8日から10日まで。サロンでの申し込みは4月23日まで、ウェブサイトでの申し込みは4月29日まで。販売期間・販売個数には限りがあり、なくなり次第終了となる。新コース“マンハッタンエステ”が登場利用できるフェイシャルコースは、“集中美白・フェイシャル(ホワイトトリートメント)”(約60分)。「たかの友梨 薬用ホワイトライン(医薬部外品)」を使用した、集中美白ケアのコース。独自の手技とシトラスフローラルのコスメの香りに癒されながら、みずみずしさのある美肌へ導いてくれる。通常ビジター価格は、税込み25,300円相当。ボディコースは、2月に誕生した“マンハッタンエステ”(約60分)であり、CBDオイルを使用したボディトリートメント。繊細でダイナミックな手技を組み合わせた、オールハンドで心身を癒してくれるコースである。通常ビジター価格は、税抜み23,100円。ミニコスメのセットは、たかの友梨 ホワイトミニ3点セットであり、ホワイトエッセンス ミルク ミニ(20ml)、ホワイトエッセンス ローション ミニ(20ml)、ホワイトエッセンス クリーム ミニ(8g)となっている。チケットの有効期限は、2020年10月20日(火)まで。たかの友梨ビューティクリニック全サロンで利用が可能である。(画像はプレスリリースより)【参考】※プレスリリース株式会社不二ビューティ※たかの友梨母の日ギフト
2020年03月22日川下大洋・三上市朗・後藤ひろひとが大阪で活動してきたユニット「大田王」が、東京では初となる公演「TOKYO大田王 2020~THAT’S GOING TOO FAR ~」を、4月2日(水)から赤坂レッドシアターにて上演する。川下、三上、後藤に話を聞いた。【チケット情報はこちら】三上が「僕らは元々、イギリスのコメディグループ『モンティ・パイソン』とか、アメリカのコメディ番組『サタデー・ナイト・ライブ』で育ってきた世代で。僕自身、今でも海外のコメディアンに憧れているところがあるのですが、そういうことをやりたくて始めたユニットです」という「大田王」。’96年に川下大洋と三上市朗が「田王」として活動スタートし、翌年、後藤ひろひとも加わったコントオムニバス公演のユニットだ。川下が「コントと言ってもあくまで演劇の一貫。その中でパワーのある笑いが生まれます。これだけ舞台で遊べるんだ、というものを観ていただけると思いますよ」と話すように、所謂お笑い芸人のコントとは違う笑いが生み出される公演だ。後藤が「『大田王やるよ』って言われると毎回ちょっとうんざりするんだけど(笑)、会っちゃうと楽しくてしょうがないんだよな」と笑う3人は、もう30年ほどの付き合い。作品づくりは3人全員でやるといい、「本番2週間前に集まって、『さあ、なにしよう』というところから始めます。それぞれが台本も書くし、演出もします」(後藤)。モチーフになるのは、『スター・トレック』や『スター・ウォーズ』など誰もが知る映画作品。その作品選びの基準は三上で、「三上の『あのコスプレをしたい』がスタートです(笑)。熱意がすごいんですよ」(川下)。今回のモチーフは『男はつらいよ』だが、それも三上が「寅さんの恰好ってできそうでしないじゃないですか」と熱く語る。劇場で観る三上からはちょっとイメージできない姿だ。長く大阪での上演にこだわってきたが、東京での公演を望む熱い声も多く、今回の上演に至った。初めての東京公演だが「どれだけ期待してもらっても、それより上のものをお見せします!」(後藤)とキッパリ。ちなみに「僕らは汚い笑いの取り方はしないですよ」(三上)と、カッコいい大人たちの掌で転がされる、楽しい時間になりそうだ。三人に加え石丸謙二郎(青年座)、多田野曜平(テアトル・エコー)、久保田浩(遊気舎)ら個性豊かな面々が集い、「早めに来ていただくと、楽しいことが待っているかもしれません」(川下)という本作は、4月2日(水)から5日(日)まで東京・赤坂レッドシアターにて上演。取材・文:中川實穗
2020年03月13日