6月から記録的な猛暑が続いています。暑さとともに気になるのが、強い日差し。UVクリームとあわせて使いたいのが、日差しを大きく遮ってくれるつば広のハットです。Qoo10で人気のつば広ハットと、個性派におすすめのハットをご紹介します。Qoo10「ハット」人気ランキング■【帽子屋Loo&c】UVシャルマンハットワイヤーなしの柔らかシルエットながら、大きめのつばは折り曲げ自由自在&遮光100%生地。裏側は接触冷感素材で快適。■【mirax】UVカット 帽子程よいつば広シルエットで、飽きのこないデザイン。UVカット・サイズ調整仕様・あご紐付き・洗濯可能で機能性も抜群。■【HKCHEN】UVカット バケットハット人気のバケットハットにUVカット機能がプラス。お揃いコーデも楽しめる男女兼用デザインで、豊富な12色展開は遊び心もたっぷり。個性的な帽子で、夏コーデをワンランクアップ!男女共に人気のバケットハットですが、人と被らないようなワンエッセンス効かせたデザインを合わせることで、夏のカジュアルコーデにアクセントが生まれます。■【COREMO+】 フリンジ バケットハット切りっぱなしデザインのバケットハット。ラフな感じとキレイめに見えるリバーシブルで、その日のコーデによって使い分ける楽しさも。■【Halo Zone】 絞り染め バケットハットリゾート気分も堪能できそうなタイダイ柄と無地のリバーシブル仕様のバケットハット。夏のレジャーシーンで映える個性的なデザイン。■【WHITESANDS】 ストリング ボンネットハット紙素材で真夏でも軽く涼しいクラシカルなボンネットハット。両サイドのストラップとワンポイントのゴールドロゴが大人可愛さをプラス。コーデのワンポイントになったり、ヘアスタイルをまとめてくれたり、日差しを遮ってくれたりと、女性にとっては非常に使い勝手の良いつば広ハット。手洗いや折りたたみ可能なもの、サイズ調整可能なものも多いので、お好みの一品を探してみてくださいね!【参考】※UVシャルマンハット※mirax UVカット 帽子※HKCHEN UVカット バケットハット
2022年07月01日『久原本家 茅乃舎 presents 葉加瀬太郎 音楽祭 2022』が6月11日・12日、京都・上賀茂神社で開催された。『葉加瀬太郎 音楽祭』は、これまで葉加瀬太郎が行ってきた野外フェス『情熱大陸ライブ』『葉加瀬太郎 サマーフェス』を引き継ぎ、2019年に上賀茂神社で初開催。2020年、2021年はコロナ禍の影響により中止となったものの、今年は6月4日・5日の東京・明治神宮での初開催を経て、上賀茂神社でも2度目の開催が実現した。――6月11日(土)――あいにくの雨模様ながら、朗らかな歌声で冒頭の「10 years」から盛り上げたのは渡辺美里。「3年ぶり、延び延びになっていました上賀茂神社でのコンサート、ついに実現することになりました。たくさんお集まりいただき、心から感謝いたします!」と葉加瀬の思いを代弁するような開幕宣言の後も、「Believe」「My Revolution」と代表曲を惜しみなく届け、「サマータイム ブルース」では彼女の声と葉加瀬のバイオリンが溶け合う極上のセッションを展開。「こうして集うということ、大好きな歌を届けられるのは当たり前じゃないんだな、奇跡みたいなことの連続でここまで走ってきたんだなと思います」とかみ締めた、「オーディナリー・ライフ」まで全5曲。3年ぶりの『葉加瀬太郎 音楽祭』の開催を祝う、これ以上ない幕開けとなった。ここで音楽祭のハウスバンドの一員でもある羽毛田丈史が、「地球に乾杯」のピアノ演奏&ごあいさつ。盟友の葉加瀬と日頃の仲の良さがうかがえる、ユーモアに溢れたやりとりでも場をにぎわせる。「Fragrant Woods」でも息の合ったプレイを見せ、終始和やかな空気が上賀茂神社を包み込む。それに続き葉加瀬が、「僕の曲にイタリア語の歌詞を付けて歌ってくれたりもして。素晴らしいテノール歌手です!」と大瀧賢一郎を紹介。大瀧が映画『グラディエーター』から「Nelle tue mani」を見事な歌唱で聴かせ、音楽祭に花を添えた。初っぱなから「すいません、雨の中。お願い、やんで~!本当に風邪をひかないように。寒くなったらどうぞお帰りください(笑)」と観衆をねぎらい和ませたのは、大竹しのぶ。「歌だったら男にも女にもなれる」とRADWIMPSの「オーダーメイド」をまるで目の前で舞台を繰り広げるように情感たっぷりに歌い、演じてみせる彼女。谷川俊太郎作詞、武満徹作曲による反戦歌「死んだ男の残したものは」でも、脈々と歌い継がれてきた言葉を、今こそ改めて伝えたいという意思を歌に宿すかのよう。フランスの国民的シャンソン歌手、エディット・ピアフの「バラ色の人生」や「愛の讃歌」では葉加瀬と共に、ひときわロマンチックにその歌声を響かせる。さらには、昭和歌謡の名曲「黄昏のビギン」では、山崎まさよしとの豪華デュエットも。「歌手・大竹しのぶ」を存分に堪能できた豊潤な時間となった。「また出てきてしまいました(笑)」と登場した山崎まさよしが、「メヌエット」でワイルドにアコースティックギターをかき鳴らしたかと思えば、早速、「普段は帽子なんてかぶらないんだから!」と麦わら帽をかぶった葉加瀬が合流。各出演者のテイストに合わせた衣装でももてなした葉加瀬が、「僕はここにいる」、そして「One more time, One more chance」と、名曲めじろ押しのセットリストをバイオリンの調べで彩っていく。その後も、SMAPがカバーしたことでも有名な「セロリ」、昨年のデビュー25周年に書かれた「Updraft」と、山崎まさよしのキャリアを凝縮したような濃厚なライブに。藤井フミヤは、1300年間にわたり20年に一度行われてきた「式年遷宮」のイメージソングとして伊勢神宮に奉納した「鎮守の里」からスタート。上賀茂神社の厳かなムードともマッチした同曲から葉加瀬が参加し、「今日は皆さんの心の中の青空に向かって歌いたいと思います」とはフミヤ。大ヒット曲「TRUE LOVE」、続く新曲「水色と空色」の美しくもはかないメロディ、それに寄り添う葉加瀬の旋律に、グッと引き込まれる会場。葉加瀬と入れ替わりで実弟の藤井尚之が現れ、猿岩石に楽曲提供した「白い雲のように」に続いて、チェッカーズ時代の「ジュリアに傷心」では華麗なステップでも魅了。世界の平和を願ったバラード「夜明けのブレス」で、後に控える葉加瀬へとバトンをつないだ。初日のトリはもちろん、葉加瀬太郎。白いスーツを身にまとい、NHK連続テレビ小説『てっぱん』のオープニングテーマとしても知られる「ひまわり」を奏でた後は、「今日は心から感謝を申し上げます、本当にどうもありがとう!」と、満員御礼の景色を前に礼を述べる。「風の向こうに」の力強いサウンドに身を委ねる頃には雨もすっかり弱まり、「明日は晴れるだろう!」と葉加瀬。バラエティ番組『サンドウィッチマン&芦田愛菜の博士ちゃん』のために書き下ろした「博士ちゃん」の躍動感もそのままに、ラストは待ってましたの「情熱大陸」!総立ちで手拍子が巻き起こる中、1日目を締めくくった。――6月12日(日)――前日の雨がうそのような晴天に恵まれた2日目のトップバッターは倖田來未。客席の後方にまで手を振り「WIND」を歌い上げ、「晴れましたね~!すごい天気」と思わず漏らすほどの野外ライブ日和に、松田聖子のカバー「SWEET MEMORIES」も映える。続く「100のコドク達へ」でコラボした葉加瀬も、「あんたのコンサートになってるやん!(笑)」と認めるほど、京都出身というパーソナリティと親しみやすいトークでも初見のオーディエンスをあっという間に笑顔にしていた。代表曲「愛のうた」や「You’re So Beautiful」に加え、ラッツ&スターの「め組のひと」でも大いに沸いた2日目のオープニングとなった。Vaundyと葉加瀬はおそろいのイエローのパーカー姿で、髪型までそっくり(笑)。1曲目の「恋風邪にのせて」から2人の相性の良さが際立つコラボレーションで、まだ22歳とこの日の最年少出演者ながらラインアップに名を連ねる理由を、「踊り子」でもこれでもかと曲で証明していく。「2~3年前にたまたまYouTubeで聴いて、ほれて、ラブコールしました!」と葉加瀬が熱く語る才能は、壮大なスケールで圧倒した「しわあわせ」でも明白。それに全幅の信頼をもって並走する葉加瀬のバイオリンの音色が、「花占い」でも冴えわたる。葉加瀬も舞台に出ずっぱりでサポートする期待に十二分に応えた、次世代のポップスターたるパフォーマンスだった。アカペラの「もらい泣き」から、一気に歌の世界観にいざなったのは一青窈。鮮やかなピンクのオーバーオールもキュートで、時にステージに腰掛け、語り掛けるようなアットホームなライブ。ジャズのスタンダードナンバーであり美空ひばりも愛した「LOVE」、敬愛する台湾のR&Bシンガー・陶喆(デヴィッド・タオ)の「飛機場的10:30」と、どの国の誰の歌でも自分色に染め上げ、MCでは「20年歌ってきて、今日、初めてスニーカーを履いて歌いました(笑)」というエピソードも。葉加瀬を迎えた昭和チックな「江戸ポルカ」では、バイオリンが楽曲のスリルを増幅。「あなたと、あなたの好きな人が、百年続きますように」の一言に自ずと拍手が起きた名曲「ハナミズキ」まで、歌い手としての唯一無二の存在感を改めて放っていた。桐谷健太は、ド頭の「喜びの歌」から俳優のみならずボーカリストとしての可能性をひしひしと感じさせる。葉加瀬のバイオリンとの絡みも絶妙だ。「僕、あと2曲なんです。すぐ帰るんです(笑)。全身全霊で歌うんで、皆さんも最後まで楽しんで帰ってください!」と告げた後は、ミドルバラードの「遣らずの雨と、光」をじっくり聴かせ、CMソングとしても耳慣れた「海の声」では、三線を弾きながら真っすぐで温かなボーカルを披露。わずか3曲ながら、見る者をきっちり虜にしたのはさすがだ。「春一番」「その気にさせないで」と、コーラスを従えキャンディーズ時代のヒット曲を連発し、いきなり歓喜の渦を生み出したのは伊藤蘭。昨年リリースしたアルバム『Beside you』からチョイスした「shalala ♪ Happy Birthday」「ICE ON FIRE」も、いつまでもみずみずしさが失われない魅力でいっぱいだ。後半戦も、「やさしい悪魔」「暑中お見舞い申し上げます」と日本の歌謡史に残るポップスで立て続けに魅せ、「年下の男の子」「恋するリボルバー」では葉加瀬とも共演。新旧の伊藤蘭の歩みをたどったスペシャルな30分だった。純白のスーツで徳永英明が「壊れかけのRadio」を一節歌うたび大きな拍手が。日が落ち始めた時間帯に、ハスキーで切ない歌声が胸に沁みわたる。続いても、手拍子に背中を押されるような「夢を信じて」、ドラマチックな感情が静かに押し寄せる「永遠の果てに」と緩急自在。葉加瀬も白いスーツという状況に笑い合いながら、坂本九の「上を向いて歩こう」では、歌声、バイオリン、そして不朽の名曲という三つどもえの感動が心を揺さぶる。これには徳永も「ブラボー!今でも鳥肌が立ってます」と声を上げる。クライマックスは「最後の言い訳」、そして「レイニー ブルー」。音楽に一心に身を捧げるような神懸かった光景に、とことん酔いしれた。いよいよ『葉加瀬太郎 音楽祭』もフィナーレへ。その時を脳裏に刻むように目を閉じ「ひまわり」を演奏する葉加瀬。音楽祭を支えたバンドメンバーに目線を送りながら、「昨日からたくさんの皆さんに力をお借りして、素敵な音楽祭を開催することができました。楽しかった!?いや~よかった!」と、その反応に葉加瀬の顔もほころぶ。「風の向こうに」でも「世界中を探しても、こんな幸せなバイオリニストはいない」と感無量の面持ちで、最後はアップテンポでロックな「博士ちゃん」を経由し、ご存じ「情熱大陸」!2日間にわたる幸福な宴が幕を閉じた。取材・文:奥“ボウイ”昌史(写真順不同) 詳細はこちら プレスリリース提供元:NEWSCAST
2022年06月15日三代目 J SOUL BROTHERS from EXILE TRIBEのボーカル・登坂広臣によるソロプロジェクト・ØMIが、2年ぶりのアリーナツアー『ØMI LIVE TOUR 2022 “ANSWER…”』のファイナル公演を4月28日に愛知・日本ガイシホールで開催。そのオフィシャルレポートが到着した。本ツアーは、前作アルバム『Who Are You?』での問いかけに対して答えを出した新作『ANSWER…』を携え全国9会場17公演が行われた。まずオープニングライブとして、PSYCHIC FEVERが登場し、アリーナの熱気に押されることなく、オーディエンスを盛り上げ会場を整えた。続いてカウントダウンから、ØMIがプロデュースするプロジェクト「CDL entertainment」のロゴとともにオープニング映像がスタート。何かに追われるようにして走るØMI。まるで映画を観ているかのような演出に息を飲む。そして「ANSWER...SHADOW」がモノクロ調の映像とともに披露されてライブが開幕した。しかし、まだ映像のみでステージ上にØMIの姿はない。そして炎のなかにいるØMIが映ると、ディスプレイが2つに割れて、そこから映像と同じく自身とダンサーたち「ANSWER」シリーズのMVでおなじみのアルテミス像が印象的に登場。思わず観客も立ち上がる。ØMIは黒のセットアップをまとってシックな雰囲気を漂わせながら「Can You See The Light」「Nobody Knows」を続けて響かせた。高音のヘッドボイスが冴えた「NAKED LOVE」エンディングから、ピアノのさみしげなイントロにØMIの歌が乗って始まる「OVERDOSE」はドラマティック。そしてラテン調の「BLUE SAPPHIRE」と多彩な音楽性で魅せていく。ディスプレイにはØMIの顔に滴る幾筋もの汗が映る。バックダンサーなしでパフォーマンスされた「Give up」は、海に潜ったような映像とリリックが泡になって消えていく演出が神秘的。ØMIの最後の歌も海に溶けていくと、再びダンサーを従え「Colorblind」へ。月が映る演出をバックに群舞を見せてから、アウトロで全員が退場した。映像がインタールード的に挟まれ、そのなかでØMIが突然現れた謎の存在を撃ち抜くと「Chapter2 SHINE」の文字。ここから後半戦となる。本日のサポートバンドはHIDEKI ANDO(Key)、Lorenzo Braceful(Ds)、YUMA HARA(Gt)、MARIO(Ba)。彼らの華やかでありながら堅実なプレイが本公演を支えていた。第2章はØMIがオールホワイトの衣装で再登場し「皆さん楽しんでくれていますか。ここからは『SHINE』。光の世界となります」と前置き。「SHINE」の80’sテイストなグルーヴで音楽的にも変化を付けていく。さらに「You(Prod. SUGA of BTS)」。内省的だった前チャプターとは違い、自然の映像をバックに明るく歌い上げる。オーディエンスも青いライトもさらに細かく、激しく揺れている。「ファイナルまで来ることができました。実現できるのか不安もあるなかでスタートして、ひと公演ずつ噛み締めてきて。これまでたくさんライブをしてきましたが、特に想いが詰まった内容になっています。あっという間に気付いたら最後の日。最後まで心をこめて駆け抜けたいです。この景色、会場、僕のエンタテインメントを目と心に焼き付けてください」と今の想いを語るØMI。さらに名古屋での思い出話や「僕よりもみんながMVP」とスタッフや共演者を称える場面では、会場から温かい拍手も起きた。いよいよ本編も大詰め。空の変化とともに物語が進行していく。満点の星空を「Starlight」で描き、「HEY」では全員のジャンプで会場が揺れた。夕暮れの「DIAMOND SUNSET」に続く「Just the way you are」では青空の映像とともに爽やかに歌唱。エンディングの伸びやかなフェイクを披露するØMIは、感慨深げな表情だった。恐怖や孤独がありながらも、自分を奮い立たせてきた12年だった「『ANSWER…』に伝えたい想いを楽曲に込められたと思っています。自分自身が何者なのか、という問いかけを前作『Who Are You?』でやって、その答えとして自分の光と影を見せようと『ANSWER…』を作りました。自分を見失ったり、仲間が見えなくなったり、大切なファンが敵に見えてしまったり、ステージに上がるのが怖くなったりーー恐怖や孤独がありながらも、自分を奮い立たせてきた12年だったなと思います」「今まで自信を持って言えなかったけど確信に変わったこと。それは『自分がアーティストになるためにこの世界に生まれて、ファンのみんなと出会う運命だった』ということです。あまりに簡単だけど、あまりに大切なことを気付かせてくれたツアーでした」静寂。ひと言も逃すまいと耳を傾けるオーディエンス。そして「素敵な空が笑いかけてくれることを願って」と本編最後に歌われたのは「After the rain」だった。壮大な展開とサビ終わりのØMIの《You》の高音が切なく響いた。MCの内容もあってか、涙を流しながら聞いているファンの姿も見られた。「世界中にたくさんのアーティストがいるなかで、同じ時代に出会ってくれたて皆さん、ありがとうございました」12年間走り続けてきたØMIの集大成に胸を打たれつつ、本編は終了。そして「Chapter3 UNDER THE MOONLIGHT」と題されたアンコールへ。ØMIが天使に抱かれる幻想的な映像から、切り裂くような細かいドラムのフィルが入って「UNDER THE MOONLIGHT」がパフォーマンスされる。赤いトップスにカーゴパンツという、ありのままの姿でØMI登坂は伸び伸びと延長戦を楽しんでいた。最後は「CHAIN BREAKER」「HEART of GOLD」とファンキーに盛り上げ、ファイナル公演は幕を閉じた。<公演情報>『ØMI LIVE TOUR 2022 “ANSWER…”』4月28日(木) 愛知・日本ガイシホールセットリストM01. ANSWER... SHADOWM02. Can You See The LightM03. Nobody KnowsM04. NAKED LOVEM05. OVERDOSEM06. BLUE SAPPHIREM07. Give upM08. ColorblindM09. SHINEM10. You(Prod. SUGA of BTS)M11. StarlightM12. HEYM13. DIAMOND SUNSETM14. Just the way you areM15. After the rainEncoreM16. UNDER THE MOONLIGHTM17. CHAIN BREAKERM18. HEART of GOLDセットリストプレイリスト:<リリース情報>ØMI「ANSWER ~LIVE FOREVER~」Now On Sale「ANSWER 〜LIVE FOREVER〜」配信ジャケット配信リンク:ØMI『ANSWER...』Now On Sale『ANSWER...』ジャケット ※写真は初回生産限定盤●Deluxe Edition【2CD+Blu-ray】※初回生産限定 / 三方背BOX仕様価格:7,700円(税込)封入特典:100Pオリジナルフォトブック●初回生産限定盤【2CD+Blu-ray】※スリーブケース仕様価格:5,500円(税込)●通常盤【2CD】※スリーブケース仕様価格:3,300円(税込)●EXILE TRIBE FAMILY / LDH official mobile会員限定盤【2CD+Blu-ray】※15,000SET限定 / ディフューザー付スペシャルパッケージ価格:13,200円(税込)オリジナルグッズ:ディフューザー(200ml)※封入特典:100Pオリジナルフォトブック【CD収録内容】※全形態共通■DISC-1M1. INTRO ~SHINE~M2. SHINEM3. You (Prod. SUGA of BTS)M4. StarlightM5. Just the way you areM6. Love LetterM7. After the rain■DISC-2M1. INTRO ~SHADOW~M2. ANSWER... SHADOWM3. Can You See The LightM4. Give upM5. Colorblind【Blu-ray収録内容】※2CD+Blu-ray形態のみ・ANSWER... SHADOW -Music Video-・Can You See The Light -Music Video-・Colorblind -Music Video-・You (Prod. SUGA of BTS) -Music Video-・SHINE -Music Video-・Story of “ANSWER...”購入リンク:関連リンクØMI HPØMI TwitterØMI InstagramØMI WeiboØMI YouTube entertainment YouTube
2022年05月02日三代目 J SOUL BROTHERS from EXILE TRIBEの登坂広臣が、ソロアーティスト名義のØMIとして、新曲「ANSWER 〜LIVE FOREVER〜」を3月28日に配信リリースすることを発表した。シングル「ANSWER... SHADOW」「ANSWER... SHINE」で自身の光と影の部分を赤裸々に打ち明け、2月にリリースしたばかりのアルバム『ANSWER...』で“ファンがあってこそ自分の存在意義がある”と強く謳ったØMI。現在はそのアルバムを引っ提げたソロツアー『ØMI LIVE TOUR 2022 “ANSWER...”』を開催中だ。この“ANSWER”シリーズ最新作が意味するものは何なのか、期待が高まるものとなっている。<リリース情報>ØMI「ANSWER ~LIVE FOREVER~」2022年3月28日(月) 配信リリース「ANSWER 〜LIVE FOREVER〜」配信ジャケット配信リンク:ØMI『ANSWER...』発売中『ANSWER...』ジャケット ※写真は初回生産限定盤●Deluxe Edition【2CD+Blu-ray】※初回生産限定 / 三方背BOX仕様価格:7,700円(税込)封入特典:100Pオリジナルフォトブック●初回生産限定盤【2CD+Blu-ray】※スリーブケース仕様価格:5,500円(税込)●通常盤【2CD】※スリーブケース仕様価格:3,300円(税込)●EXILE TRIBE FAMILY / LDH official mobile会員限定盤【2CD+Blu-ray】※15,000SET限定 / ディフューザー付スペシャルパッケージ価格:13,200円(税込)オリジナルグッズ:ディフューザー(200ml)※封入特典:100Pオリジナルフォトブック【CD収録内容】※全形態共通■DISC-1M1. INTRO ~SHINE~M2. SHINEM3. You (Prod. SUGA of BTS)M4. StarlightM5. Just the way you areM6. Love LetterM7. After the rain■DISC-2M1. INTRO ~SHADOW~M2. ANSWER... SHADOWM3. Can You See The LightM4. Give upM5. Colorblind【Blu-ray収録内容】※2CD+Blu-ray形態のみ・ANSWER... SHADOW -Music Video-・Can You See The Light -Music Video-・Colorblind -Music Video-・You (Prod. SUGA of BTS) -Music Video-・SHINE -Music Video-・Story of “ANSWER...”購入リンク:<ツアー情報>『ØMI LIVE TOUR 2022 “ANSWER...”』※終了分は割愛【東京公演】武蔵野の森アリーナ 総合スポーツプラザ メインアリーナ3月27日(日) 開場:14:00 / 開演:15:00【熊本公演】グランメッセ熊本4月2日(土) 開場:16:00 / 開演:17:304月3日(日) 開場:13:30 / 開演:15:00【神奈川公演】ぴあアリーナMM4月16日(土) 開場:16:00 / 開演:17:304月17日(日) 開場:13:30 / 開演:15:00【大阪公演】大阪城ホール4月23日(土) 開場:16:00 / 開演:17:304月24日(日) 開場:13:30 / 開演:15:00【愛知公演】日本ガイシホール4月27日(水) 開場:17:30 / 開演:18:304月28日(木) 開場:17:30 / 開演:18:30■チケット料金価格:11,000円(税込)ファンミ&リハ観覧付き(各日200席限定 / 全席指定):22,000円(税込)※ペンライト付き(ファンミ限定LED色)/ メモリアルパス※6歳以上有料、5歳以下入場不可、託児所無し※ファンミ付きチケットはEXILE TRIBE FAMILY会員限定販売となります。他先行、一般での販売はございません。※お申込者・同伴者ともに公演日時点で有効な会員様のみご入場いただけます。※ファンミーティング&リハーサル観覧の集合時間は開場時間の3時間前を予定しております。受付時間や場所の詳細は、公演日前日までにticketbookよりメールにてご連絡いたします。※ペンライトは公演(ライブ本番)へのご入場時にお渡しいたします。※ファンミ付きチケットはticketbookリセールサービス対象外となります。関連リンクØMI HPØMI TwitterØMI InstagramØMI WeiboØMI YouTube entertainment YouTube
2022年03月27日Twitterやnoteで子育てに関する『気付き』を発信している、保育者のきしもとたかひろさん。連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』では、子育てにまつわる悩みや子供の温かいエピソードなど、親や保育者をはじめ多くの人の心を癒します。なんらかの理由があって不満そうにする子供。大人がその気持ちを理解し、解決に導くにはどうすればいいでしょうか。第18回『あなたごととわたしごと』外食をしていると、少し離れた席で子どもの泣き叫ぶ声が聞こえた。姿は見えないけれど、保護者らしき人がどうにか静かにさせようとしているのが伝わってくる。なかなか泣き止まない声を聴きながら「周りの目も気になるだろうし大変そうだな」「自分ならどんな風に声をかけるだろうか」と思い見ていた。僕が泣き声を気にしていることを察したのか、一緒にいた友人が声の聞こえる方を一瞥しながら「なんや不満なんやろなあ」とつぶやいた。呑気なセリフに笑ってしまう。そりゃ何か不満なことがあるから泣いているのだ。なにを当たり前のことを、と思いながら、当たり前であるのになにか大事なことを言ったように感じる。さっき僕は、大人の目線で「泣きやますことが大変そうだなあ」と思っていた。当然に子どもには子どもの泣いている理由があるけれど、なぜ泣くのかを考えるときに具体的になにが嫌なんだろうかと想像することはあっても、漠然と「不満なんやなあ」と思うことはあまりない。「不満なんやろなあ」という言葉は他人事に見えながらも(実際に他人のことではあるけれど)、実はその子の気持ちにそのまま寄り添う言葉なのではないか。子どもが泣いてしまったり癇癪(かんしゃく)を起こしたりした時に真っ先にそれを鎮めようとする。何が嫌なんだろう、どうやったら泣き止んでくれるんだろう、と焦ってしまう。そんな時に一旦、無責任に「不満なんやなあ」と呟いてみるのもいいかもしれない。それで何かが分かったり解決の糸口を見つけたりするわけではないかもしれないけど、その一言で少し肩の力が抜けて向き合い方が変わるかもしれない。ある時、小学校からの帰り道に急に「学童に行きたくない」と言い出した子がいた。無理に連れて行くわけにはいかないため、休めるかどうかを確認するために保護者に連絡してみたが都合がつかず、渋々学童に向かうことになった。話を聞くと学校で嫌なことがあったらしい。施設に着くまでに気分を切り替えられるように、愚痴を聞いたりくだらない話をしたりして笑いながら到着できた。けれど、いざ室内に入ろうというところでその子は足を止めてしまった。説得しても動こうとはせず、他の子が室内で活動しているのを放っておくわけにはいかないため、別の支援員にその子を見守るようお願いして、僕は一度室内に入り用事を済ませることにした。室内から様子を見ていると、支援員はずっとその子の愚痴を聞いているようだった。埒があかないのでタイミングを見て再度室内に入るように声をかけようかと思っていると、しばらくして何事もなかったかのように部屋に入ってきた。相変わらず不貞腐れてはいるけれど、少しスッキリしているようにも見える。相手をしてくれていた支援員にありがとうございますと声をかけると、「いえ、どうしていいか分からなくて、ただ話を聞いていただけでなにもしていないです」と返ってきた。「なにもしてない」という言葉で、自分が見落としていたものに気づく。僕は玄関先で過ごされるのも困るため、その子を室内に入れることしか考えてなかった。楽しくなるようにと話したことも、その子が学童を嫌がらないようにと思ってやっていた。けれど、それは僕の思いをただ押し付けているだけだったんじゃないかと。なにもせずただ話を聞く。それはすなわちその子の話に耳を傾けるということだ。なにもしていないように見えるけれど、そのなにもしないということがその子に寄り添っているということなんだ。そうやってうまくいったから、子どもに言うことを聞いてほしいときにはまずその子の言葉を聞こう。という話ではなく、知らぬ間に自分ばかりになってしまっているかもしれないから気をつけていたいという話。「こちらの思い通りに動いてもらう」ためにその子の言葉に耳を傾けるのではないもんね。こちらがしてほしいと思っていることは、その子がしんどくならないための数あるうちの一つだ。僕にできるのは、僕が思うその“いい方法”を押し付けることではなく、その子のしんどさに目を向け耳を傾け、そのしんどさを解消できる色んな方法を一緒に見つけていくことだよね。こないだ、掌の中(たなごころのうち)という言葉を知った。文字通り「手のひらの中」のことなんだけど、転じて「手のひらの中にあるように、思いのままになること」の例えとして使われるらしい。そういえば相手を思い通りに動かそうとすることを「手のひらの上で踊らせる」と表現するな、とか、子どもの頃に読んだ西遊記という本でそんなエピソードがあったような気がするな、とか曖昧ながら思い出す。相手を思い通りに動かしたいという欲求は人類の普遍的なテーマなのかもしれないな、と大層なことを考えながら、「けれど」と思う自分もいる。そんな傲慢な思いばかりではないよなあ、と。純粋に、本当に心の底から相手のことが大切だからこそ、という思いは間違いなくあるはずなんだ。その思いを表現する方法を間違うことがあっても。本心として「その子のために」と思ったことが自分の傲慢なのかもしれないことを知ると、自分のその子を思う気持ちさえも否定されたように感じてしまう。全部が間違っている気がして前に進めなくなってしまう。そんなことを思いながらその言葉について調べていると「思いのままになることのたとえ」だけでなく「大切に育て、取り扱うことのたとえ」としても使われることがあるらしいことを知る。同じ言葉なのに反対にも捉えられる意味を持っていて、その言葉が僕と同じように葛藤しているように見えた。大切だからこそ掌の中で育ってほしい、そんな葛藤を子どもとの関わりの中では多く感じる。「その子のために」と思えば思うほど、自分があれもこれも世話をしてあげたくなるけれど、「その子のために」と思うこと自体は悪い事ではないんじゃないか。もし「思い通りにさせたい」という“傲慢な僕”が顔を出したら、そんな僕を否定したり無理に失くしたりしようとせずに「それだけ大切に思っているんだ」って思うことにしよう。そして「大切にする方法を間違えないようにね」って自分に言い聞かせながら、“傲慢な僕”を横に置いておいてあげるのだ。別の方法を見つけてみるから、君はそばにいてもいいけれど大人しくしておいてね、って優しく諭しながら。余談ですが「お腹が痛い」と訴えてきたので「大丈夫?」と声をかけると「大丈夫じゃないけど大丈夫」と返ってきた。心配するほどではないけれど痛いものは痛いということだろう。痛みが落ち着いたと思ったらまた痛みが押し返してくるようで、その度に「いたた」とこぼしている。何度も「大丈夫?」と聞くのもしつこいような気がして、なんて声をかけようかと悩んだ挙句、棒読みで「かわいそう」という言葉が出た。他人事な感じがすごい。全然心配しているように聞こえない。なんかごめん、と思っていたら案の定「ひとごとか!」と笑いながら突っ込まれた。「ほんまに心配してんねんで」と弁解しながら、その人の痛みはその人のもので、どうしたって他人事だよな、とも思ったりする。同じように、自分のことはどこまでいっても自分ごとだ、と“傲慢な僕”を思い浮かべる。そんな中でわずかにある、相手のことを思ったり心配したりする気持ちはどっちなんだろう。と考える。どちらか一方だけとは限らないか。自分ごとと他人事が重なる部分があって、その部分を自分ごとにし過ぎたら相手の領域にまで踏み込んでしまうけれど、自分ごとでなくなったなら心配することもなくなってしまうもの。突き放すでも寄せすぎるでも混ぜるでもなく、その重なったところを重ねたまま大切にする。それが寄り添うってことなのかもしれないな。それからは、僕が例えば「二日酔いか気圧のせいか、朝から頭が痛くて」と嘆いたりするたびに、棒読みで「かわいそう」と返ってくるようになった。気持ちのこもった心配ではないけれど、二人にだけ分かる符号のようなものだから、労ってくれていることが伝わってくる…なんてことはない。全然心配してもらっているようには感じない。もっと心配してくれよ!と少し寂しくなる。けれど、それでいいのだと思ったりもする。その少し素っ気なく感じるお決まりのやりとりが、お互いに踏み入れない部分があることを尊重するためのやりとりな気がして心地よかったりするのだ。きしもとたかひろ連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』[文・構成/きしもとたかひろ]きしもとたかひろ兵庫県在住の保育者。保育論や保育業界の改善について実践・研究し、文章と絵で解説。Twitterやnoteに投稿している。⇒きしもとたかひろnote⇒きしもとたかひろTwitter
2022年03月10日アイドルグループ・嵐の相葉雅紀がキャロウェイゴルフのブランドイメージキャラクターに起用され、9日より配信されるWebCM「Callaway for ALL -Episode 0-」編に出演する。今年誕生40周年のアニバーサリーイヤーを迎えたキャロウェイゴルフがタッグを組むのは、「うまくいく時もあり、うまくいかない時もある。それを全部含めて楽しいのがゴルフの魅力だと思います」と語る相葉。今後ブランドイメージキャラクターとして、WebCMやビジュアル広告、店頭POPに登場する。今回公開されたWebCMは、ゴルフ場を舞台に独自の視点で相葉がゴルフの魅力を話す「Callaway for ALL -Episode 1-」の前日談。久しぶりの友人たちとのラウンドを前にショップを訪れた相葉が、ウェア選びに夢中になる姿を描いた。撮影は実際の店舗で行われ、最新のウェアがずらりと並んだ店内の様子に相葉は興味津々。シャツを手に取りながら、ホワイトとカーキのシャツを掲げて「どっちがいいかな~」「白ね……」と自然と言葉が飛び出す場面も。監督からカットの声がかかるたびに、手に持っていたパーカーをハンガーラックにきちんと戻したり、シャツをたたみ直して棚に戻したりと心遣いを見せていた。相葉はゴルフの魅力について「いっぱいありすぎて……。とにかく楽しいですね。ラウンドしている途中から、次のラウンドに行きたいなって思うくらい楽しいです」と語り、ラウンド中の心境を「うまくいかないことの方が多いです。悔しい気持ちもあるんだけど、また行きたい! となっちゃう魅力がありますよね」と振り返る。そして「性別も年齢も問わず、真剣にできるし、わいわいもできるし、すごく不思議な魅力がたくさんありますね」と話した。
2022年03月09日「花万葉」公式ECサイトにて先着1000名限定販売株式会社Clyusが展開するオリジナル化粧品ブランド「花万葉」は、先着1000名限定で「花万葉トライアルセット」を発売。オリジナルラインを10日間試せるトライアルセットを、お得なキャンペーン価格で購入することができる。シンプルでリッチなデイリーケア「花万葉」は、肌が美しくなろうとする力をサポートし、忙しい中でも充実したケアができるアイテムを届けるブランド。基本のデイリーケアは、「クレンジング&ウォッシュ」、「ダブルローション」、「モイスチャークリーム」の全3種のオリジナルラインのみで完了し、使い方も簡単だ。オリジナルライン全てに、植物幹細胞のエキスである「ダマスクバラカルス培養エキス」、「リンゴ果実培養細胞エキス」を配合。他にも保湿成分として「アルニカ花エキス」、「ボタンエキス 」など植物由来の成分が配合されている。肌に負担をかける色素・合成香料・合成酸化防止剤などの成分は配合せず、肌の表面と同じ弱酸性処方だ。トライアルサイズの3種のオリジナルライン全てがセットで、価格は定価の51.4%オフとなる990円。約10日間使用できるサイズとなっている。(画像は花万葉公式ECサイトより)【参考】※花万葉公式ECサイト
2022年01月25日嵐の相葉雅紀が出演する、東京海上日動火災保険の新CM「My Marines『宣言』編」が、21日より放送される。新CMで相葉が演じるのは、おっちょこちょいな男性役。同社の社員や代理店を表現した小さな「My Marines」たちと相葉が息の合ったやり取りをする日常が描かれる。CM撮影は、相葉が日常のワンシーンを一つずつ真剣に演技しながら、合間の時間には共演者やスタッフと談笑するなど、やわらかな雰囲気のなかで進行。また、撮影日の1週間後が相葉の誕生日だったため、スタッフたちから誕生日ケーキがプレゼントされる場面もあった。なお同CM映像及びメイキング映像が、東京海上日動公式サイト(同日13:00〜)、YouTube公式チャンネル(同日11:00〜) で公開される。○■相葉雅紀インタビュー(一部抜粋)――「いついかなる時も」大切にしているモットーや、大切にしていることはありますか?1999年に嵐としてデビューをして、その前からもジャニーズJr.として活動をさせていただいた中で、嵐を支えてくれたり、 相葉雅紀を応援してくださった皆さんがいるからこそ今日があるので、応援してくださっている皆さんは本当に大切な存在です。――今回の新CMで特に注目してほしい見どころを教えてください。色々な日常の一面が切り取られているので、色々なシーンがたくさん入っています。My Marinesの皆さんがかわいくもあり、そして何よりも頼もしいというところが見どころだと思います。――2022年に新たに挑戦してみたいこと、初めてみたいことはありますか?アナログのレコードで音楽を聴きたいです。2022年はちょっとした大人のたしなみをしてみたいと思っています。
2022年01月21日株式会社ヒューマン・モア(所在地:広島市西区、代表:西原 梨沙、以下 ヒューマン・モア)は、広島市中区紙屋町「ひろぎんホールディングス本社ビル」の1階「トゥモロウスクエア内イベントスペース」にて開催される、地域特産品を紹介・販売するイベント「ひろしまあたり⁉」に参加致します。参加日程は12月16日(木)の午前11時から午後4時までとなっており、広島県産牡蠣を使用した万能だし「かきの極み 万能だし」を販売致します。「ひろぎんHD本社ビルトゥモロウスクエア」詳細:【 】「ヒューマン・モア」詳細: 【 】販売商品のご紹介かきの極み万能だし寒い季節の鍋物にお好み焼きもより美味しく牡蠣の濃厚な旨味がすごい!「かきの極み 万能だし」地元広島の名産である牡蠣を使用した、牡蠣の旨味たっぷりの万能だしです。健康食品で使用している湯煎抽出された牡蠣肉エキスを使用し、パックにしました。臭みも少なく味も良く、栄養も豊富と評判です。いつものお料理が簡単にますます美味しく出来上ります。かきの極み詳細ページ : 通販サイトよりのご購入ご遠方の方は通販サイトによる販売も承っております。こちらでは現在、12月25日までの期間「かきの極み」を2,000円以上(かきの極み2袋以上)お買い上げの方に、弊社製品サンプルセット1,000円相当をプレゼントいたしております。対象の購入先は下記記載の通販サイト、弊社運営の購入ページとなります。お電話でのお問い合わせも受け付けております。この機会に是非ご利用くださいませ。47club : Yahoo!ショッピング : ヒューマン・モアは、今後もより一層サービスを充実させ、お客様の食と健康をサポートしてまいります。「ひろしまあたり⁉」参加概要参加日時: 12月16日(木) 11:00~16:00会場 :ひろぎんHD本社ビルトゥモロウスクエア内イベントスペース〒730-0031 広島県広島市中区紙屋町1丁目3番8号アクセス: アストラムライン「本通」駅すぐ広島電鉄宇品線「本通」電停すぐ詳細URL :【 】会社概要社名: 株式会社ヒューマン・モア代表者 : 代表取締役 西原 梨沙所在地 : 広島市西区中広町三丁目3番21号設立 : 平成16年9月1日事業内容: 健康食品及び栄養補助食品・一般食品の製造・販売、機能性素材の研究・開発資本金 :1,000万円URL :[ ]本件に関するお客様からのお問い合わせ先株式会社ヒューマン・モアTEL : (082)295-2204お問い合せフォーム:[ ]{ } 詳細はこちら プレスリリース提供元:NEWSCAST
2021年12月14日Twitterやnoteで子育てに関する『気付き』を発信している、保育者のきしもとたかひろさん。連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』では、子育てにまつわる悩みや子供の温かいエピソードなど、親や保育者をはじめ多くの人の心を癒します。親なら一度は直面する「静かにしないといけない場所で子供が騒いでしまう」という悩み。子供と触れ合ううちに、きしもとさんはあることを感じたといいます。第17回『今できなくても、ずっとでも。』「子どもに注意するときに笑いながら怒るやつ、よくしてたでしょう?僕もあれ最近やるんです」と、同僚から言われた。「真面目な顔して言うんじゃなくて、あえてミステリアスに笑いながら注意するんです」と、丁寧に説明してくれるけれど、意味がわからない。まったくピンときていない僕をよそに、「宿題してる子の横で騒いでいる子に厳しく注意しても、またしばらくしたら騒いじゃうでしょう。で、こっちも疲れるじゃないですか。ていうか、そもそもなんでやかましくしたらあかんねんって話なんですよ」と、誰に向けているのかわからない愚痴を漏らしている。「子どもにとっては、あんな狭い部屋で静かにするってことの方が無理なんですよ」と、急に話の核心が現れた。なるほど、たしかにそうだな、と納得する。子どもがやかましいこと自体は別段悪いことではない。良く言えば快活で元気な子とも言える。その部屋が狭いから元気なことが困るだけで、べつにその子に「静かな人」に育ってほしいわけではないのだ。ただ今、その場所でそうしてほしいだけなのに、「それができない子は悪い」として怒ってしまうことって、色んな場面で起きている。もちろんルールを守れるっていうのは大事だけれど、ルールってのはお互いに気持ちよく過ごすためにあるものやもんね。静かにしなきゃいけない環境がその子にとってはしんどいことだってある。静かにできない子が悪いのではなく、「静かにしなきゃいけない環境」と「元気なその子」とが噛み合っていないのだと見ると少し見え方は変わってくる。いい気づきだなと思っていると、「だから最近は、“今だけ静かにしてほしいねん”って伝えるようにしているんです」と言うので「笑いながら怒った顔で?」と尋ねると、「そんな変なことしませんよ」と返ってきた。いや、自分が言うたんやん。通勤途中の電車で、赤ちゃんが泣いていた。抱かれて座っているうちはご機嫌だったけれど、ベビーカーに乗せようとすると泣いてしまうようだった。荷物が多いのでどうしてもベビーカーに乗ってもらわないと次の駅で降りられないらしい。泣き声が車内に響くこともあり居た堪れないようで、嘆くように「お願いだから」とこぼしながら困ったようになだめていた。もしそんな時があったら、と想定していたその時が来たと思い、勇気を出して「ベビーカー押すので抱っこしててあげてください」と声をかけた。警戒して当然なのに「お願いします」と言ってもらえたので、緊張しながらもホームに降ろした。エレベーターの近くに辿り着く前に「ここで大丈夫です」と言われて、たどたどしくベビーカーを手渡すとすぐに去っていった。出過ぎたマネだったかな、怖がらせたなら逆に申し訳なかったな、とその日は一日反省会だった。助けになりたかったけどうまくできなかった。ずいぶん前に発達支援の仕事をしていたころ、障害がある子に付き添って電車やバスに乗って出かけることがあった。小学生から中高生までそれぞれが行きたい場所へ、例えば科学館や映画館やファストフード店など、その子の“お出かけ”に付き添う。その子の特性によって、電車やバスの中で独り言を呟いていたり、急に大きな声を出してしまったりすることがあった。その度に僕は周りの目を気にして言い訳するように「静かにしようね」と声をかけた。本当はその子のことを怒る必要なんてないのに、周りの目を気にして怒らなきゃいけないように感じて半ばアピールのように怒ってしまっていた。その子は悪くないのに、静かにしなきゃいけない場所とその子とがただ噛み合わないだけなのに、もし大きな声を出してしまうにしても、出さないように工夫するにしても、その子がしんどくないようにできたかもしれないのに。電車に乗って、赤ちゃんが泣き止まなくて周りに謝っていたり、飲食店で癇癪(かんしゃく)を起こして叫んでいる子に静かにするよう怒っていたりする場面を見るたびに、その時の後悔を思い出す。本当は怒らなくていいのに怒ってしまうことって、お互いにとてもしんどいんだよね。誰も悪くないもん。迷惑かもしれないけれど、変なやつだと思われたかもしれないけれど。「大丈夫ですよ、気にしないで大丈夫だから」と伝えたかったんだよな。下手だったけど。幼児や小学生と電車に乗るとき、「静かにしていようね、大事なことだからね」と教育や躾の上で大切なことのように話していた。静かにじっとできてえらいね、と褒めてあげることもあった。けれど、よく考えたら電車のなかでは静かにすることを、その子の力による必要ってあるんだろうか。じっとしていられることって、大事なんだろうか。そもそも「静かにする力」ってなんなんだと聞かれたら答えられない。もちろん、静かにしなきゃいけない場面もあるけれど、それならどんな方法であっても「その場で静かにする」ができればいい。じっと座っていなきゃいけないのなら、どんな方法であっても「その場でじっと座っている」ができればいいんじゃないか。その時、その環境でそれをする必要があるだけなら、その子がしんどくないようにスマホで動画を見たりお菓子を食べたりして気を紛らわせたっていいんじゃないか。その環境で、自分がしんどくない方法で適応できるならそれでいいはずなのに、なにか、物に頼らずにその子の力でそれを克服することが大切なことのように思っている節があった。「その子がそれをできるようになること」ばかりを大事にしなくていいのかもしれないな。たとえば子どもがガラス窓に向けておもちゃを投げたとして、当然投げちゃいけないよと伝えるけれど、今その子が「窓に向かって物を投げない」を身に付けないといけないか、身に付けられるか、といったら、その子の発達によっても性格によっても変わってくるんだよね。ダメなことをまだ理解できなかったり、理解できても衝動を抑えられなかったりするのなら、その子に繰り返し注意して怒って怒られてを繰り返すのはとてもしんどい。それなら、「その子の力で我慢できること」にこだわらずに、投げても大丈夫な環境に変えたり、投げてもいいものを与えたりすれば、怒ることも怒られることも減ってお互いのしんどさが軽くなる。「しないでって言ったことを何回言ってもする」と悩んだ時には、今その子が身に付けなくてもいいことを、身に付けることが難しいことを、その子に求めているのかもしれないと思ってみれたら。僕たち大人は、子どもに「やらないでほしいこと」もたくさんある。「きちんとさせなきゃ」と思っている。あいさつができるようになってほしいし、ありがとうが言えるようになってほしい。廊下は走らないでほしいし、道路には飛び出さないでほしい。ガラス窓に物を投げないでほしいし、公共の場では静かにしてほしい。けれど、それは「いまできなきゃいけないこと」なんだろうか。「ちゃんとさせなきゃ」と思っていたことが、もしかしたら「いまだけ」できたらいいことかもしれないし、「いつか」できるようになってほしいことかもしれない。「やらないで」と言ったことをやって、その度に注意して、また同じことを繰り返してまた怒って、そうやってお互いにしんどくなっていくのなら、できなきゃいけないと思っていることの中から、できなくてもいいことを見つけてみたい。「できなくていいこと」は「怒らないでいいこと」だ。それを少しずつ増やしていけたら、しんどさは少しずつ減っていくんじゃないか。それは「怒っちゃいけない」と自分を責めるためのものではなく、「怒らなくて大丈夫だよ」と余裕を持つために。あわよくば、笑って見過ごせるように。高学年にもなると、「おかえり」と声をかけても無視をされることがある。お年頃、と言ったらその子に失礼だろうけれど、いわゆるそういう時期だ。無視されるのはなかなか辛いんだけれど、かといって無理にあいさつをするように怒ることはしないようにしている。子どもが言うことを聞いてくれなかったり、約束を守ってくれなかったりすると、残念な気持ちになる。それは、裏切られた悲しさというよりは、思ったように育っていないように見えて抱く不安のようなものだ。なんで言うことを聞いてくれないんだろう、なんで思ったように育ってくれないんだろう、と自分や子どもを責めてしまう。けれど、言うことを聞かなかったり思ったように育ってくれなかったりするのって、よく考えたら、その子がその子として育っているということだ。期待を裏切られたら裏切られた分だけ、その子はその子として生きていて僕の想像の外側で育っている。あいさつしないのも、ごめんねを言わないのも、ピーマンを食べないのも、その子がその子として生きている証だ。そんなふうに思えたら、返事が返ってこなくてこっそり傷つきながらも、その子の小さな意志を感じて少しだけ嬉しい気持ちになれるんだ。余談ですが電車に乗ったらおじいさんからジャズが流れていた。もちろんおじいさんから音楽が鳴るわけがないので、繋いだはずのイヤホンが外れているのだろう。おじいさんは気づいていないようだ。車内は空いているとはいえ、少し離れて座る僕にも聞こえる大音量で漏れているので誰かが指摘するかと思ったけれど、みんな気づいていないのだろうか声をかける人はいなかった。気づいたぼくが声をかけるのが親切かとも思ったけれど、そうはしなかった。そのジュークボックスおじいさんに気を遣ったというよりは店内BGMのように流れている音楽が心地よかったからだ。お裾分けしてもらう気分でそのままにした。これが、YouTube動画の音が若者のイヤホンから漏れていたらまた心境は違うのかもなと考えて、自分の身勝手さに苦笑いする。目的の駅に着く少し前でジャズの演奏は聞こえなくなった。おじいさんが自分でイヤホンのコードが繋がっていないことに気付いたようだった。最後まで聞けなかった残念さと、おじいさんが音漏れに気づいた安堵を感じながら電車を降りた。子どもたちと生活をともにしていると、子どもたちが自分の人生の一部に感じることがある。けれど、その子はその子の、僕は僕の人生を生きていて、たまたま重なり合った時間を過ごしているだけなんだよね。その子が聴く曲を僕が選べはしないけれど、漏れた音をお裾分けしてもらうような、たまにイヤホンを片方貸してもらうような、そんな関係であれたらいいなと思う。きしもとたかひろ連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』[文・構成/きしもとたかひろ]きしもとたかひろ兵庫県在住の保育者。保育論や保育業界の改善について実践・研究し、文章と絵で解説。Twitterやnoteに投稿している。⇒きしもとたかひろnote⇒きしもとたかひろTwitter
2021年12月03日Twitterやnoteで子育てに関する『気付き』を発信している、保育者のきしもとたかひろさん。連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』では、子育てにまつわる悩みや子供の温かいエピソードなど、親や保育者をはじめ多くの人の心を癒します。生きていると、後悔をするような出来事が起こることも。子供と接する上で、きしもとさんが悔やんだ出来事とは…。第16回『まっくろイヤや、まっしろがいいの。』「明日早起きをして、おいしい朝ご飯を食べに行こう」と言われて「きっと朝寝坊するよ」と、僕は答えた。夜更かしをしているからきっと早起きはできないだろうし、早起きできないままダラダラとしてしまう、いつもそうでしょうと。案の定、次の日は朝寝坊して朝食兼ねた昼食、あえておしゃれに言うならばブランチを食べることになった。食べながら「ほらやっぱり言った通りでしょう」と僕が言う前に「早起きできなかったなあ」と残念そうにしている姿を見て、昨晩のことを少し後悔した。それが叶わないと思っても、その時はただ楽しみだねって返せばよかったな。先回りなんかせずに、今の楽しみとして“明日を一緒に楽しみにすること”はできたんじゃないかなって。そして、一緒に「早起きできなかったなあ」と悔やめばよかった。学童の施設で、お泊まり会をしてみたいと言い出した子がいた。何年か前に企画した子がいたことを知って興味を持ったらしい。子どもの「今やりたい」という気持ちを尊重して、前向きに実現していくのが僕の役目だ。なんでもかんでもできるわけではないけれど、やりたいなって思った気持ちを逃さずに、大事に育ててあげたいと思っている。けれど、その時は別のことで手がいっぱいになっていて「いいね、どうやったらできるか考えてみようか」と促したまま、そのあとなにも言ってこなかったのでそのまま放ったらかしにしていた。数日後、「そういえばあの話」と切り出すと、「もういいねん」と素っ気なく返事をされた。ただ興味が薄らいだというだけでなく、友達関係も思うようにいかない時期でそんな気分じゃなくなったらしい。本当にやる気があるのなら諦めずにやり遂げるし、それができないのは本当にやりたかったわけではない…なんてことはなくて、やりたいと思ったことをやり始めて自分で走り出すためには助走が必要で、その助走をつけるための環境や支援がさらに必要だ。できるかできないかの主導権をその子が持っていないならなおさら、その子のやる気のせいにしてはいけない。その子がやめてしまったのは、単に興味が薄らいだのではなく、僕がうまく拾えなかったからかもしれない。タイミングを逸してしまったことを悔やみながら、けれど無理に引き戻すのも違う気がして、「また思いついたら言ってね」とだけ声をかけた。数ヶ月経って、友人関係も良好になっていき、学童での活動も充実してきた頃にまた、その子から「冬休みを使ってお泊まり会がしたい」と提案があった。一度失くなったチャンスがまた来たことはありがたかった。このタイミングは逃さないぞ、と張り切って企画を進めることにした。その子が友達たちと色々な案を出し合い練っている間に、僕は組織上層部に掛け合って施設利用などについての手回しをする。しかしながら、なかなか組織からはゴーサインが出なかった。過去に何度も開催しているのに、その時は色んな事情が重なり一筋縄ではいかなかった。冬休みには間に合わず、僕はその子に春休みに向けて交渉していくことを伝えた。もちろん嘘をつくわけにはいかないので、できるか分からないけれど相談しているということを伝えて、その子は「それでもいい」と楽しみにしてくれていた。そしてその春、結局お泊まり会は開催されなかった。大規模な感染症流行が原因だとその子には伝えたけれど、それは表向きの理由で、本当は“大人の事情”がクリアできないままパンデミックが起きて、そのまま有耶無耶になったのだった。多くの子どもたちが通う場所だから、すべての子どもたちの思いに応えたりやりたいことを叶えたりすることは難しいし、安全が第一なのでどちらにしてもできなかったと言えばそうだ。そうやってじぶんで自分に言い聞かせるけれど、後悔は消えない。その時にしか咲かないのに、水をやるのを怠って、目を離したすきに姿を消している。そんな風に育たなかった芽が数え切れないほどある。また新たな芽が出てきたのを見て安心してしまいそうになるけれど、気づかれずにそのまま閉じてしまった芽は間違いなくあった。すぐに気づいていたらグングンと育っていたかもしれないものさえも後回しにして枯らしてしまっていたんじゃないかと、いつも過ぎてから後悔する。その全てを拾えるわけないし、悔やんだってしょうがないのは分かっている。けれど、あの時拾えていたら、その子はワクワクできたしその楽しそうな顔を僕は見ることができたのにと思うことが数え切れないくらいある。7歳の友人が、先日「アスレチックに行ってみたい!」と言い出した。YouTubeで見て興味を持ったらしい。楽しそうだね、と話をしてネットで調べたりしたけれど、その日は時間がないからアスレチックはまた今度にして近くの公園で遊ぶことにした。たっぷり遊んで満足げに帰っていったのに、夜になってひとりビールを飲みながら、「アスレチック行きたい!」と言ったその子の姿を思い出して、「ああ、なんでちょっと無理してでも行かなかったんだろう」って後悔している自分がいる。何年か前にはアンパンマンミュージアムに行きたい!と言っていたのを思い出す。何度か行ってはこれで最後かなあ、まだ楽しめるんやなあ、と思っていたらいつの間にか言わなくなった。いつまで行きたい気持ちがあったのかな。最後に行きたいなって思った時に連れていってあげれたかなと考えてしまう。数週間後に会った時に「さあ、アスレチック行こっか!」と決定事項のように言ってくれた姿を見て、「なんで決まってるねん」と笑ってツッコミながらホッとする。まだ失くなっていなかった、間に合ったと安心する。おもちゃコーナーで大好きなアンパンマンのおもちゃをねだられたときに「また今度ね」って言って、次に行った時には「もういらない」って言われてしまう。「これ好きって言ってたよね」と、変身して戦うプリティな癒しキャラの人形を手に取ると、「もうお姉ちゃんやから好きちゃうし!」と怒られる。そんな時に、ああ過ぎてしまったのか、と大事なものを取り逃してしまった気持ちになる。その子にはその時しかないのに、「また今度ね」って言うたびに色んなものを取りこぼしてそのまま気づかずに過ぎていくのかもしれない。なんでもかんでも拾えるわけないし、その興味の移り変わりがすべて僕のせいなんて、おこがましいことを言うつもりもない。成長の中で変わっていくことも逃したことで偶然生まれる新たな関心もあるだろう。ただ何度も同じような後悔をしてしまうのは、半分はそのワクワクを拾えなかったことを申し訳なく思う気持ちと、もう半分は僕が寂しいからなんだろう。その時にしかない、その子の姿を、もしかしたら見られたかもしれないその子の姿を、もう二度と見られないんだろうなと思うと、後悔のような残念なような寂しいような切ないような、うまく言い表せられないけれど、そんな気持ちになる。ついこないだも、後悔するのを分かっているはずなのに、キックボードが欲しいと言い出したその子に「危ないからな、気をつけなあかんからな」と買う前から言ってしまった。次会った時に一緒に買いに行こう。一緒に練習して、一緒に楽しみながら、一緒に危ないから気をつけることを確認しよう。そうやって大事なものを逃さないように心の準備をしておくことにする。余談ですが何年か前、当時3歳のその友人が泊まりに来た時のことを思い出す。朝から一日中遊んでいたのに、日が落ち始めて窓の外が暗くなってくると「まっくろイヤやの!まっしろがいいの!」と、泣きながら天に向かって怒っていた。この楽しい時間が終わってほしくない!もっと遊びたい!と、つたない言葉で表す姿が、「いまを生きているんだ」と全身で語っているようで、とても愛おしかった。遊びたくて遊びたくて仕方がないのだろう、夜中になっても全然寝ずに、電気を消しても布団の中で延々としゃべり続けていた。「はよ寝えな」と半ばうんざりしながら、終わって欲しくないほど楽しい時間だと思ってくれていることを嬉しく感じた。大きくなったいまはもう、“まっくろ”になっても、寝て起きればまた“まっしろ”が来ることを知っているんだろう。夜になることを「まっくろ」なんて表現しないんだろうなって寂しくなりながら、「まっしろがいいの!」と泣いていたその姿を何度も思い出す。ずっとずっと「まっしろがいいの!」と、言えるような人生でありますように。「楽しい今日が終わってほしくない!」って、そんな毎日を送っていてほしいな。きしもとたかひろ連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』[文・構成/きしもとたかひろ]きしもとたかひろ兵庫県在住の保育者。保育論や保育業界の改善について実践・研究し、文章と絵で解説。Twitterやnoteに投稿している。⇒きしもとたかひろnote⇒きしもとたかひろTwitter
2021年10月21日実業家の堀江貴文氏(48)が10月12日、宮迫博之(51)のYouTubeチャンネルに出演。動画内で、同じく実業家の「ひろゆき」こと西村博之氏(44)について“絶縁宣言”する一幕があった。宮迫が動画後半で「聞きたいことがあってん」と切り出し、単刀直入に「ひろゆきくんと仲悪いってホンマなん?」と堀江氏に質問。すると堀江氏は「仲悪いっていうか、僕が縁を切っただけです」とキッパリ。その理由について、「去年、餃子事件でめちゃくちゃ叩かれて。あいつが最後炎上させたようなもの」と語ったのだ。また絶縁する前の様子について「(ひろゆき氏と)言い合いになりましたよ。Twitter上で」と振り返り、「これはもうちょっと無理だな」と感じたという。堀江氏は昨年、広島の餃子店を訪れた際に同行者がノーマスクだったことで入店拒否された。そのことを堀江氏がFacebookに投稿したことで、SNS上で論争に発展。堀江氏の投稿をきっかけに、餃子店にいたずら電話が殺到。結局、お店は休業に追い込まれたのだ。そんな状況を見たひろゆき氏は、Twitter上で餃子店に《クラウドファンディングとかでお金集めて、通販とかデリバリーで再開するとかどうですかね?》《サイト作る人居ないとかだったら、手伝いますよ》と呼び掛けていた。その後、餃子店がクラウドファンディングを立ち上げると、ひろゆき氏も支援したことを表明していた。■ひろゆき氏「言い争いをしたことはない」「堀江さんは当初から“自分は悪くない”のスタンスです。たしかに堀江さん自身はマスクを着用していたようですし、いたずら電話もかけていません。ですが一般人以上に影響力があるため、『少なからず非があるのでは』との声が上がっていました。餃子店が立ち上げたクラファンは、最終的に1,500万円以上もの支援金が集まりました。店側にそういった同情が広がる風潮に、堀江さんは不満げでした。Twitter上で自らの正当性を主張したり、《金儲けのネタにされてさらに居た堪れない》などと綴ったりしていました。ひろゆきさんは経営が立ち行かなくなった餃子店にアドバイスをしたにすぎず、堀江さんとは直接的な“バトル”はなかったはずです」(ITジャーナリスト)ひろゆき氏は13日にTwitterを更新し、堀江氏の“絶縁宣言”にこう疑問を呈している。《ホリエモンこと堀江さんの餃子事件はおいらが居ない所で起きたのに「あいつが炎上させたようなもんなんで」と言ってる。twitter上で堀江さんとおいらが餃子事件で言い争いをしたことはない。 堀江さんの事実認識がおかしくなってる気がするのですが、どうしちゃったのかな?》堀江氏の主張にネット上では「この件に関してはホリエモンが悪い」と批判する声が多く、共感はさほど得られなかったようだ。《餃子事件は、ひろゆきさんがいない所で 発生したのに堀江氏はひろゆきさんを恨んでいる。これは「逆恨み」ですね》《餃子の件に関してはひろゆきは悪いことしてないけどな。ホリエモンからしたら味方してほしかったんだろうけどホリエモンのせいで営業できない状態までいってた餃子屋をクラウドファンディングで救ったわけだし》《ひろゆきが炎上させたとおもってたのか自分が勝手に炎上したのを人のせいにすんのはなぁ。。。》
2021年10月15日この度、モデル・タレントの西内ひろとフォトグラファーの大島央照(オオシマチアキ)で「#PASSPORT BOOK vol.2 IN GREECE」2nd 写真展を開催。新たに、フラワーアーティストのMASSAをお迎えし、展覧会を開催いたします。また、西内ひろが初プロデュースするアパレルブランド“KIGINU”の初公開、オンラインイベントも開催いたします。URL: #PASSPORT BOOK vol.2 IN GREECE 2nd 写真展【オンラインイベント】9/18(土)17:00~18:00/出演:西内ひろ、大島央照ギリシャで大島が撮影したドキュメンタリー映像を見ながら、旅、写真、写真集の裏話などをいたします。お申し込みURL: ※取材いただける方はURLを発行いたします。オンラインイベント終了後15分間、質問を受け付けます。E-MAIL passportbook2021@gmail.com にオンラインイベント参加と書いて17日(金)21時までに、媒体名、掲載予定日、担当者名を明記し、お申し込みください。#PASSPORT BOOK vol.2 IN GREECE 2nd 写真展■女性ふたり旅。ギリシャで見た美しい景色と植物の生命力・色彩を見せる空間、旅で得たインスピレーションで作る洋服、ここにしかない初のコラボレーション!!「#PASSPORT BOOK vol.2 IN GREECE」2nd 写真展「2014年ミス・ユニバースジャパン」準グランプリの西内と、「2002年ミス・ユニバースジャパン」ファイナリストの大島がキューバの旅をスタートとして動き出した#PASSPORT BOOK vol.2 IN GREECE。今作は、西内が“一番天国”だと思ったギリシャのサントリーニ島とミコノス島の旅、第2弾。広大なエーゲ海、青い空、宝石のように輝く街、大きな太陽に照らされたピンクに染まる夕景の街etc。ギリシャで見た、ただただ美しい景色と、どんどん開放的になっていく西内のドキュメンタリーを写真と映像に収めました。今回は、ギリシャの写真を見てインスパイアされたMASSAの生命力溢れる花、そして、旅で得たインスピレーションを受けて作った西内の初ブランドとのコラボレーション展示!【#PASSPORT BOOK vol.2 IN GREECE 2nd 写真展×MASSA/at UNDER THE PALMO】Hiro Nishiuchi×MASSA×Chiaki Oshimaギリシャをより近くに感じることができるような葉山の海が目の前に見えるUNDER THE PALMOにて、モデル 西内ひろと写真家 大島央照が旅したギリシャの開放的な景色とリアルなドキュメンタリー写真・映像と、唯一無二の空間づくりを演出するフラワーアーティストMASSAが「天地人・力強さ」をコンセプトとし植物の生命力/色彩を表現。ここにしかない新たな空間を作るコラボレーションを展開。そして西内ひろが初めて監修するブランド1st Collection“KIGINU”。ヨーロッパを旅しながら得たインスピレーションで、美しい自然と共存するものづくりをテーマに、サスティナブルでエコな素材から作り出される生地を使用し洗練された大人の女性の魅力を引き立てるリラックス感あふれるブランドも展示いたします。是非ご覧ください。<西内ひろ/Hiro Nishiuchi>モデル・女優・タレント・フィリピン観光親善大使・宗像国際環境会議アンバサダー/福岡県出身1989年、福岡県生まれ。16歳でデビューしタレント、モデルとして活躍。2014年にミス・ユニバースジャパンで準グランプリを獲得。2018年にフィリピン観光大使に任命され、同国の映画『KINTSUGI(金継ぎ)』にヒロインとして出演(2021年、日本公開)。2020年フィリピンマニラで行われた第四回Pista ng pelikulang Pilipinoにおいて140本の映画ラインナップの中からBest Actressにノミネートされる。最近はSDGsに根差した環境問題への取り組みを国内外で積極的に行っている。趣味で始めた海外旅行では、これまでに40ヶ国を訪れ、そのセンスが好まれアパレル、宿泊施設など幅広くプロデュース・ディレクション業にも力を入れている。Web: 西内ひろ<Massa Nakagawa>フラワーアーティスト/ダイナミックさと繊細さを合わせ持つ独創的なスタイルと、日本的な感性を融合させたフラワーデザインが信条。世界のハイブランドのレセプション、オープニングパーティーの装花演出、雑誌、広告、ウェディングなどのデザインワークを数多く手掛ける。またコンサートのステージデザインなどのアートワークやディスプレイは既成の概念に囚われない空間デザインとして国内外で高く評価されている。2010年「Flowerアート&デザイン協会」会長就任。2012年パレスホテル東京でのWEDDING装花ブランド「MUKU」を立ち上げ、デザイン監修、同エグゼクティブアートディレクターとして就任。Web: MASSA<大島央照/Chiaki Oshima>写真家/京都府京都市出身雑誌IN ROCK, MOVIE STARにて来日ハリウッドスター、各界のセレブリティのポートレートを中心に、広告、雑誌、オフィシャル撮影、映像撮影、ディレクターなど手がける。ライフワークで人の人生の一部を追いかけたフォトドキュメンタリーを国内外で撮影、展覧会に多数参加。2016年 #PASSPORT BOOK vol.1 IN CUBAを企画・撮影・制作・出版。2002年ミス・ユニバースジャパンファイナリスト、モデル、女優として舞台、イタリア映画(TARDA ESTATE/ベネチア国際映画祭招待作品)出演など。最近は、各々のライフステージに寄り添ったChiaki Oshimaフォトプランの展開や、料理撮影のディレクション、ドレスやジュエリー撮影など幅広く行っている。Web: 大島央照【#PASSPORT BOOK vol.1 IN CUBA】60年代から止まったままのキューバの景色を残したい。アメリカとの国交が回復して変わってしまう前に今のキューバの街と、西内ひろが旅するキューバを写真集として残したいという想いのもと、キューバの旅を初めとして#PASSPORT BOOK制作を開始した。#PASSPORT BOOKとは、旅先でスタンプをおしていく様に、旅の思い出を写真と文章で綴るブック。ここにしかない自分だけの#PASSPORT BOOK。一緒に旅をした気になる、旅をしたくなるブックを写真と文章で構成。Web: #PASSPORT BOOK vol.1 IN CUBA 詳細はこちら プレスリリース提供元:@Press
2021年09月16日Twitterやnoteで子育てに関する『気付き』を発信している、保育者のきしもとたかひろさん。連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』では、子育てにまつわる悩みや子供の温かいエピソードなど、親や保育者をはじめ多くの人の心を癒します。第15回は、『素直な子供』について。また、誰もが持っている劣等感について、きしもとさんが持論を展開します。第15回『気休めだけど、持ってってや。』レジャーシートを広げてごっこ遊びをしているところに、フリスビーが飛んできた。遊んでいた女の子たちは突然飛んできたフリスビーに驚きはしたものの、特に迷惑そうにすることはなく、不安定に転がるフリスビーの行く先を見つめていた。レジャーシートから少し離れた、手を伸ばしても絶妙に届かない辺りでフリスビーが止まる。拾ってあげようかそのままにしていようか迷っている。一人の子が立ち上がりフリスビーの方へ歩いて行ったが、案の定というか、拾おうとした女の子と取りに来た見知らぬ男の子とほぼ同時にフリスビーの元に辿り着いた。お互いに気まずそうにしながらも「せっかくだから」という雰囲気で、女の子が拾って渡してあげた。男の子が「ありがとう!」と思いのほか大きな声でお礼を言ったので、素直な子だなと感心する。女の子は返事をせずに戻っていった。素っ気ないなと思う。普段はおちゃらけて僕たちを笑わせてくれるような、天真爛漫を絵に描いたような子なので不思議に思う。それでも、知らない子に親切にしてあげているのを見て嬉しかったので、僕はその子の側に行き「ありがとうって言ってもらえたなあ」と声をかけた。褒められるためにやったわけではないだろうから、偉いとかすごいとかではなく、喜んでもらえて嬉しかったねという気持ちをただ共有するつもりで、話しかけた。少し照れながら、まんざらでもない顔をする。返事をしなかったのは照れ臭かっただけなのだと思い「答えてあげたらよかったのに~」と、助言をするいうよりはどちらかというと調子付かせる感じで言った。するとその子は笑いながら「わたしの声へんやから」と答えた。思いもしない言葉だったので「ん?なんで?変じゃないで?」と間の抜けた返答をしてしまう。「こないだ友達に、笑い声が変やって言われたから声聞かれたくないねん」言う。そんな一言で声を出すことを躊躇するようになるなんて悲しすぎる。けれど、その場で「誰やそんなこと言ったん!許せへん!」と息まくことができないのは、僕自身もその一端を担っていたかもしれないと思ってしまったからだ。いつも変な顔をしながらみんなを笑わせていたその子が、笑われることに本当は傷ついていたのかもしれない。なにも知らずになにも考えずに笑っていた僕は、大きな間違いを犯していたんじゃないか。「まったく変なんかじゃないし、君の楽しく話す声も元気に笑う声も好きやで」と伝えたけれど、その言葉は不安を打ち消す魔法の言葉ではなく、ただの気休めにしかなっていないような気がした。気の弱い、控えめな女の子がいた。その子には仲のいい友達が2人いて、その日も、その2人に付いて遊んでいた。自分の意見をあまり言わずに2人の言いなりになっているように見えて、その子がひとりになったときに「嫌なら嫌って正直に言っていいんだよ」と、声をかけた。「僕はあなたの気持ちに気づいているからね」という風に、救いの言葉として伝えた。するとその子はしばらく黙ってから涙を流した。残念ながらその涙は、理解者が現れた感動からではない。「怒られた」と思って泣いていた。「嫌って言っていいんだよ」という言葉が、嫌だと言えない自分が悪いのだと思わせてしまっていた。そんなつもりじゃないんだよ、と言っても遅い。自分の思いに正直になっていいよっていう言葉で僕は、嫌と言えないその子自身を否定しまっていたのだ。その子は、仲良しの2人に付いて遊ぶことを嫌とは思わず、もしくは自分で嫌だという気持ちに気づいていない中で、外側から「嫌って言えない自分はダメなのだ」と、元々は持っていなかった不安を持たされたことになる。素直な子と聞いてどんな子を思い浮かべるだろう。気持ちよく「ありがとう!」と言えたり、悪いことをして「ごめんなさい」と言える子を見て素直だなと感じる。なにかお願いをして「うん!」とか気持ちよく返事してくれると素直ないい子だなあと思う。けれどそれは、子どもに素直になることを求めているんじゃなくて、聞き分けが良くて可愛げがあることを求めているのかもしれない。僕が求めている姿や正しいような姿だから素直だと感じているのかもしれない。以前、ある保育士さんが「子どもに注意した時、すぐにケロっとしていると馬鹿にされている気になったり、もっとしょんぼりしろよ…と思ってしまう自分がいる」と言っていたのを思い出す。言い返してきたり、嫌がったりしても、それがその子の率直な思いなら「素直」ということのはずなのに、「素直じゃない」と思ってしまう。そんな風に思ってしまう自分に気づいて、自分はダメだなあって落ち込む。じゃあ、「嫌だ」とはっきり言えることが素直なんだろうか、と考えてみる。いや、自分の気持ちを表せられたらいいけれど、表さないのもその子の表現であるなら否定しちゃいけない。自分の気持ちを真っ直ぐ表すことが素直であることならば、恥ずかしくて黙ってしまうことも、嫌って言えないのも、その子のそのままの気持ちでそのままの姿だ。その子の「素直な姿」を僕が勝手に、「自分の思いが言える子に」と理由をつけてひねくれさせているだけだ。もちろんうまく自分を表せられなくてしんどい思いをしている場合もあるだろうから、ほっとけばいいわけじゃない。素直であることを大切にしたいなら、その子の素直な気持ちを「自分の気持ちを素直に表そうよ」なんて矛盾した言葉で否定してしまわないようにしたいということ。その保育士さんは「自分が言っていた素直な子って、自分が保育しやすい子どもなんじゃないか、そこからズレた素直さが受け入れられないんだろうな」と葛藤を見せながら言った。そして「その子の素直さって「価値」ではなくて、ただ守られるべきもののはずなのに」と続けた。本当だな。素直であるかどうかを測っている時点で、その子の本当の気持ちなんて見ることができていないのかもしれない。それでも、僕は子どもに本当の意味で素直な気持ちでいてほしいから、間違えて傷つけてしまわないように向き合っていたいんだ。そのためにできることはなんだろうって考えたら、その子がどう感じているんだろうって思いを巡らせることしかないのかもしれないけれど。小学生のときに「笑い方気持ち悪いな」と言われたことがある。たったその一言だけで、それから20年以上経った今でも、自分が笑っている顔を写真で見たり、ビデオ通話をしていて視線の端に入ったりするのも嫌だ。きっと言った子は覚えてないだろうから、同じようなことを僕も誰かに言っていて、同じように僕も覚えていないんだろう。あからさまに意地悪で言っていることもあれば、全く悪気がなく言っていることもある。自分にそんなつもりがないのに相手を傷つけてしまうことも、相手にそんなつもりがないって分かっているのに自分が傷ついてしまうこともある。自分の笑顔をまじまじと観察して嫌いになったわけじゃないのに、なんとも思っていないそいつに言われたその一言で、なんで自分で自分を嫌いにならなきゃいけないんだろう。「お前に言われたないわ」と一言返せばよかったのに、と思いながら、一言返したとしてもきっと傷ついていただろうし、ずっと心に残っている。それは、人格を揺るがすような大袈裟なものだけでなく、例えば好きなお菓子なんかを「そんな味が好きなの?」と馬鹿にされたりしても、「大きなお世話じゃ」とは言えず、言えたとしても心のどこかでは「自分は変なんだろうか、劣っているんだろうか」って思ってしまうだろう。いま抱いている不安や劣等感はどこからやってきたんだろうって改めて考えてみると、もしかしたら自分で見つけたものではなく、僕じゃない誰かが作ったものを持たされているだけかもしれない。僕は頭髪が薄くおデコが後退している。いわゆるハゲだ。ただ僕がハゲていることを喜べないのは髪型でオシャレができないからではない。なぜか劣っているように感じるからだ。ただ、冷静になってみたら髪の毛が少ないだけでなんで劣ってるってことになるんだ。ならないだろう。悪口で「ハゲ!」とか言われるけど、誰が言い出したんだ。あれ悪口じゃなくてただの事実やからな。事実を言うだけやったらこっちだって言ったるわ!イケメン!ハンサム!いかん、取り乱してしまった。劣等感を刺激して、さも正しい姿があるように見せて、そうでなければ劣っている、と感じさせる物を社会の中では多く目にする。戦略的な商業広告から、普段の生活の会話まで、なにかしら「こうあるべきなんじゃない?」という感情を持たされている。小学生のまだ低学年の子でも「太ってるからおやつ食べない」とか「足の毛が濃いから見せたくない」と言う子がいる。周りと自分との違いに気づいて自分の身なりなどが気になっていくことは発達の過程で見られる育ちのひとつだ。だけどこの場合は違うだろう。その子が自分とほかの子を見て気づいた違いではなく、自分ではない誰かから持たされた劣等感だ。そしてそれはとても悲しくてしんどいことだ。「素直になろう」とか「元気でいよう」という言葉も、もしかしたらそうなっているのかもしれない。子育てでしんどいことや不安に思うことも、自分で考えて生まれた不安ではなく、周りから持たされた劣等感ということも多くあるんじゃないか。「子どもがかわいそう」「親として」「愛情が」そんな言葉なんか「大きなお世話じゃ!」と一蹴すればいいのかもしれないけれど、そう思おうとしても心の奥底では「自分はできていない」と思ってしまう。子どもたちと楽しく過ごしたいと思っていても、行儀良くさせなきゃ、好き嫌いさせない、手抜きしちゃいけない、そんなことを考えてしまうと、なぜだか楽しく過ごしているだけではダメな気がしてしまう。逆に「心の余裕があることが大切です」「楽しんだほうがいいです」なんて言葉を聞いても、楽しめていない自分がよくない気がするし、さらに余裕がなくなっていく。そのしんどさは、もしかしたら誰かに持たされているのもかもしれない。その子の姿を見て不安になっていると思っていても、どこかで聞いた正しい姿ではないから不安なのかもしれない。自分とその子の関係が苦しいように見えて、誰かが言っていた形にならないから苦しいのかもしれない。その子と自分との関係は、ふたりにしか分からないのに。色んなしんどさがあるけれど、その子と自分との関りだけで両手はいっぱいなんだから、誰かに持たされた不安はその辺に置いとけたらいいな。いや、この言葉もまた僕が誰かに不安を持たせているかもしれないから、置いておけなくてもいいなとも思えたらいいなって書き足しておこう。余談ですが「笑い声が変だと言われたから」と言っていたその子が、その後声を出さなくなったり話さなくなったりすることは、少なくとも一緒に過ごした一年程の間には、なかった。相変わらずおちゃらけている姿を見てそんな大げさに考える事ではなかった、と思いたいけれど、それはできない。もしかしたら、あれからずっと気にしているかもしれないし、忘れていたとしても何かのきっかけで思い出すかもしれない。みんな何かしら誰かから持たされた不安を抱えているのだと思う。「そんなことないよ」って言われても、きっと残念ながら、その呪いみたいなものはずっと無くならない。けれど、そのたびに「そんなことないよ」って言ってもらえたことも思い出して、どうにかやっていけるのかもしれない。「大丈夫やで」「そんなことないで」そんな言葉は気休めのように聞こえるかもしれないけれど、僕もその気休めの言葉に救われていたりする。誰かに言われたしんどい言葉を捨てられないなら、ついでに別の誰かが言った気休めもカバンにぶち込んでおくのはどうだろう。なんとなく取り出してしまったしんどい言葉に絡まって「そんなことないで〜」と出てきてくれ。僕がかけた言葉も「でも、あいつはそんなことないでって言ってくれてたよな」って、しんどい言葉に釣られて思い出してくれたらいいな。「なんて言ってたか覚えてないけど、そんなことないでって言ってくれてたような気がするな」って。「どこの誰やったか覚えてないけど」って。きしもとたかひろ連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』[文・構成/きしもとたかひろ]きしもとたかひろ兵庫県在住の保育者。保育論や保育業界の改善について実践・研究し、文章と絵で解説。Twitterやnoteに投稿している。⇒きしもとたかひろnote⇒きしもとたかひろTwitter
2021年08月14日Twitterやnoteで子育てに関する『気付き』を発信している、保育者のきしもとたかひろさん。連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』では、子育てにまつわる悩みや子供の温かいエピソードなど、親や保育者をはじめ多くの人の心を癒します。第14回は、つい他人と比べてしまうことについて、きしもとさんが持論を展開します。第14回『みんな頑張ってて、みんな怠けてる。』梅雨なのに何日か気持ちのいい晴れた日が続くことを梅雨の中休みというらしい。カラッといい天気だったので、7歳の友人を誘って少し遠い普段行かない公園に行くことにした。宿題を持ってきたので公園へ行く前に済ませることに。二桁の足し算をする横で応援しながら、学校楽しい?なんの授業が好き?と、邪魔もしていた。邪魔されているのに律儀に「国語と道徳が嫌いかなー」と答えてくれたので理由を聞いてみると、道徳の授業で聞いたらしい物語を話してくれた。サルくんがロボットを作って学校に持ってきました。みんなが「すごーい」と言ってサルくんの周りに集まってるのを見て、クマくんは「僕も作ったことがあるよ」と言いました。そしたら、みんなから「持ってきて見せてよ」と言われました。クマくんは急にお腹が痛いと言ってどっかに行ってしまいました。クマくんの気持ちはどんなだったでしょうか?伝聞調ではあるけれど、しっかり話を聞いて理解しているのが分かる。伝わるように話をしてくれたのを聞いて、むしろ国語得意なんじゃないかと思ったが、得意だからといって好きだとは限らないか、と思い直す。ほんでほんで?って続きを聞くと、「どう思うか聞かれてんけど、うまく答えれへんかってん」と、その時のことを思い出すのかしょんぼりしている。「どう思ったの?」と尋ねると「ズルイと思ったって思ってん」と小さな声で自信なさげに応えてくれた。的外れな答えとは思わない。「みんなにすごいなーって言われてるサルくんをクマくんはズルいって思ったんか」と、言葉を補足しながらその「ズルい」の意味を汲み取ろうとしてみる。自身が友達をみて「ズルい」と思うことがあるのかもしれないな、と学校生活を想像する。その「ズルい」が、羨ましいなのか妬ましいなのかは分からないけれど、自分にとって知っている感情で、それがその言葉なのだろう。「あの子だけズルいなーって思うことあるもんなあ。クマくんもサルくんみたいにみんなからすごいって思ってもらいたかったんかもしれへんなあ」と、何かの答えに誘導するわけではなく、例えば映画を観ながらヒロインの心情を考察するくらいの気軽さで、話してみた。「うんうん、そやろそやろ」と頷いてくれる。「けど、みんなの答えは違っててな」と、また急にトーンが下がる。「自分だけ間違えてると思って泣きそうになってん」と。発表してみんなから非難を浴びたんだろうか。発表する前にみんなの答えを聞いて自分は間違っていると思って自信をなくしたんだろうか。「それは辛いなあ、けど間違ってないと思うで」と伝えると、「あ、泣きそうになったってのは言い過ぎやったわ!」と急にケロっとするので、思わず吹き出してしまった。泣きそうになってないんかい!とツッコミながら、けれど、と思う。具体的な辛さは分からないけれど、その泣きそうになるっていう気持ちは分かるような気がする。僕も同じような思いになったことが、いつかあったかもしれない。自分の感じたことや考えたことは間違っているかもしれない。みんなとは違うかもしれない。みんなは分かっているはずなのに自分は分かってないかもしれない。そんな漠然とした不安で苦しくなることがある。答えのないものを答えられるか試されているような、自分の考えがあるのか試されているような。正解がないというのなら答えさせないでおくれよ、と愚痴りたくなる。夕方18時前に電話がなる。僕が体調を崩してから、ドイツにいる友人がほぼ毎日同じ時間に電話をかけてきてくれる。少しだけ世間話をした後で将棋のネット対戦を3局だけ楽しんで、ではまたと電話を切る。だいたい僕がうっかり飛車を取られてそのまま負ける。心配してくれているのと、息抜きなのと、将棋で僕をぶちのめしたいのと3:3:3くらいの割合だろう。残りの1割はなんだろうな。その日電話に出ると、開口一番「よくない話があったんだけど聞いてくれる?」と、尋ねられた。海外映画では「いい話と悪い話どっちが先に聞きたい?」というような台詞を聞くけれど、日本では先に断ることってあまりないよなあと、どうでもいいことを思いながら「聞こうか」とそれっぽい返事をする。「ドラッグストアに石鹸とスマホ用のプリペイドカードを買いに行ったんだけど、買うもの2つだけだからメモせずに行ったのね」ドイツのドラッグストアはコンビニみたいな感じなのかな、と想像する。「で、プリペイドカードはすぐ見つかって、あと、最近おじさんになってきたからか肌荒れひどいしYouTubeでビタミン入りの美容液がいいって見たのを思い出して、せっかくドラッグストアに来たからと思って買ったんだよね」急におじさんのお肌事情の話に飛ぶ。お肌にはビタミンがいいのか。ビタミンてのは何にでも効くんだな、YouTubeはなんでも教えてくれるんだなと、またどうでもいいことを考える。「買うもの2つだから満足して帰ってきたんだけど、家に着いて手を洗おうとした時にさ」と話したところで、「あ、石鹸」と、思わずオチを言い当ててしまった。これもまた映画っぽいやりとりだなとくだらないことを考えていると「ほんま自分が嫌になるわ〜」と、オチを横取りされたことを気に留めずに自身の失態に落ち込んでいる。「あるよなあ」と共感する。「あるんや」と意外そうだったので、そんなきっちりしてるように見えるのかな?と思いながら「うん、毎日のようにあるで。毎日というか、1日に何度も」と返すと、「俺はたまにでこれだけ落ち込んでるのに、それが毎日なんて、生きてるの嫌になれへん?」と心配された。ものすごい勢いで失礼なことを言うな。「けど安心したわ」と続けたので、失礼には目を瞑ることにした。ダメな自分と同じような姿を他の人にも見えたら安心する、その気持ちはとても分かる。それは、蔑んだり見下したりするという意味ではなくて、この人も完璧じゃないんだと思えて、同じ人間なんだと思えるからだ。自分は人と比べてできていないなあ、と思うことはよくある。僕はとくに、よく忘れ物をするし、優柔不断だし、うっかりミスもする。大人になってもできないことだらけだ。だから、きっちりしてる人と話す時はいつも心なしか緊張する。ズボラだとか雑だとかダメなやつだとか思われてるんじゃないかと不安になる。逆に、きっちりしている人からすれば、ゆるい人と話すときには、「柔軟で臨機応変に対応できる人との会話は緊張する」と思っているかもしれない。いや、それは都合よく考えすぎか。僕はいつもどこかで、自分はダメだなあと思っている気がする。ただ人と比べてダメだなあと思うだけならいいんだけど、しんどいのは自分が頑張りたいのに頑張れない時だ。これじゃダメだと分かっているのにできなくて情けなくて、でもどうしたらいいか分からなくて頑張れない自分を責めてしまう。こんな風にできたらいいなって前向きに思えたらいいけれど、それじゃダメだぞ、としっかり後ろ向きに考えてしまう。几帳面できっちりしているのと、ズボラで優柔不断なのとだったら、どっちがいいだろう。感情的な人と理性的な人とどっちがいいだろう。自分がなれない「それ」になろうとすることはいいことかもしれないけれど、その前に「それになれない自分」を責めてしまって潰れてしまいそうになる。「自分を責めちゃダメだよ、自分はそのままでいいって思おうよ」って言葉で、さらに自分を責めて抜け出せなくなっていく。どちらが善くて、どちらが悪いって思ってしまうけど、きっと本当はどちらも悪くない。その人はたまたまきっちりしていて、僕はたまたま忘れっぽいだけ。ズボラなことで誰かに迷惑をかけることもあれば、きっちりしていることで誰かを傷つけることもあるかもしれない。几帳面なことで助かる人がいるかもしれないし、ゆるいからこそ救われる人もいるかもしれない。都合よく考えすぎかもしれないけれど、そういうことにしようと思う。できている人とできていない人を分けて「できている人が正しくて、できていない人が間違ってる」ってしてしまうのは、とってもしんどいもの。こんな人間でいたいな、と思うことがある。子どもと関わる時にこんなことに気をつけたいな。と思うことがある。けれどできなくて、自分はできないなあって思ってしまう。もしかしたら、みんなが「自分はダメだなあ」と思っているかもしれない。そんなふうに思ってみると、少し気持ちが楽になる。みんな頑張ってて、みんな怠けてて、みんな自分はこんなんじゃダメだって思ってて、頑張りたいけど頑張れなくて、みんな怠けてて、みんな頑張ってる。やっぱりそれも都合よく考えすぎかもしれないけれど、そういうことにする。余談ですが無事宿題を終わらせて、少し離れた広い公園へ来た。芝が傾斜になっていて、その芝を上下に挟むように細い歩道がある。子ども連れが数組レジャーシートを広げている。「そういえば小さい頃ここで転けたことあるねんで」と、芝を指差し、スマホに保存されている動画を見せてあげる。当時2歳の友人の手を握って芝の坂道を登っているときに、僕の方が足を滑らせて転んでしまい、その勢いで一緒に転んで大泣きしてしまったのだ。大の大人がひっくり返る動画を見て声を出して笑ってくれたので、どさくさに紛れて「ごめんね泣かして」と7歳になった本人に改めて謝罪した。「悪くないよ!」と返ってきた。「でも、巻き込んじゃったからさ、悪いのは悪いねん」と説明しても、「悪くないってば!」と強めに返してくる。気を遣わせてしまったかなと思いながら、身軽に大型遊具を登るのを離されないように追いかける。なんて言えばいいか分からないから「許してくれてありがとね」と伝えた。すると「好きな人のこと悪いって言いたくないし、自分が悪いんやって思ってほしくないもん」と小さな声で言うのが聞こえた。大事な人のことを悪いって言いたくないし、大事な人には自分が悪いって思ってほしくない。こんなにシンプルなことを、僕は言葉にされてようやくなにより大切なことだと気づく。優しさとか慈しみとか凡庸な言葉しか浮かばない。分かっているのに、僕はあなたに自分が悪いって思わせているかもしれない。分かっているのに、僕は自分で自分のことを悪いって思ってしまっているかもしれない。また自分はダメだなあって思いそうになっている。けれど、君がそう言ってくれるなら、自分で自分のことを悪いって思わないことにするよ。長いローラーすべり台を滑り降りながらそんなことを思って泣きそうになった。いや、泣きそうになったってのは言い過ぎやったわ。きしもとたかひろ連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』[文・構成/きしもとたかひろ]きしもとたかひろ兵庫県在住の保育者。保育論や保育業界の改善について実践・研究し、文章と絵で解説。Twitterやnoteに投稿している。⇒きしもとたかひろnote⇒きしもとたかひろTwitter
2021年06月27日フレンズが4月30日、昨年末より活動休止をしていたメンバー・ひろせひろせ(MC / Key)の脱退を発表した。配信がスタートした新曲「急上昇あたしの人生」のミュージックビデオも公開されている。この脱退の発表により、今後はえみそん(Vo)、三浦太郎(Cho/Gt)、長島涼平(Ba)、関口塁(Dr)の4人でバンドは継続。そして新体制となったフレンズの初の新曲となる本MVでは、えみそんが初めてMVの監督を務めている。自らが企画立案しアイデアに溢れた演出で、疾走感ある楽曲の世界観を見事に表現。音楽のみならず多彩な才能を発揮し、これからのバンド活動に期待が膨らむ見応えのある内容だ。楽曲自体は、ひかりTVオリジナルドラマ『取り立て屋ハニーズ』の主題歌として好評配信中。新ビジュアルも、これからも様々な形で楽しませてくれる予感のする、爽快なメンバーの姿が印象的なものだ。新たなフェイズを迎えたフレンズの今後の更なる飛躍を期待しよう。■リリース情報『急上昇あたしの人生』4月30日(金)配信リリース■公演情報「フレンズワンマンツアー “UNO!”」5月29日(土)会場:愛知・THE BOTTOM LINE1部:開場15:30 / 開演16:002部:開場18:00 / 開演18:305月30日(日)会場:大阪・Banana Hall1部:開場15:30 / 開演16:002部:開場18:00 / 開演18:306月5日(土)会場:東京・duo MUSIC EXCHANGE1部:開場15:30 / 開演16:002部:開場18:00 / 開演18:30※各回90分程度の公演を予定。料金(税込):全自由¥5,000※未就学児入場不可※お一人様2枚まで※ドリンク代別途必要※政府指定のガイドラインに沿った形での開催。※オンライン配信の予定なし
2021年04月30日プラス ヴァンドーム(Plus Vendome)から“花や葉を閉じ込めた”ペンダントセットが登場。“花&葉”を閉じ込めた透明感ペンダントプラス ヴァンドームの新作は“花や葉”を閉じ込めたロマンティックなペンダントだ。チェリーと花びらをモチーフにしたクリアなパーツの中に、ピンクやブルーの“花や葉”をセット。植物の表情の違いを生かしているため、1点1点異なる唯一無二のデザインも魅力的だ。カラーは、ミントとピンクの2色。どちらのカラーも、プラス ヴァンドームのためにアレンジされたオリジナルフラワーギフトボックスが付属。なお、このジュエリーは、フラワーアーティスト前田有紀とのコラボレーションによるデザインで、プラス ヴァンドームと前田有紀がタッグを組むのは初めての試みだ。2021年4月23日(金)から5月9日(日)までは、東京・六本木蔦屋書店にて、前田有紀率いるフラワーデザインチームguiの期間限定ショップがオープンし、プラス ヴァンドームとのコラボレーションアクセサリーも展開予定だ。【詳細】プラス ヴァンドーム×gui flower design 前田有紀 ペンダントセット 全2種 各16,500円(税込)※2021年4月中旬現在発売中。カラー:スターフラワーチェリー、ローズペタル■gui POP UP for MOTHER’S DAY開催日時:2021年4月23日(金)~5月9日(日)場所:六本木蔦屋書店1階住所:東京都港区六本木6-11-1けやき坂通り 六本木ヒルズ六本木【問い合わせ先】ヴァンドームヤマダTEL:03-3470-4061
2021年04月25日Twitterやnoteで子育てに関する『気付き』を発信している、保育者のきしもとたかひろさん。連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』では、子育てにまつわる悩みや子供の温かいエピソードなど、親や保育者をはじめ多くの人の心を癒します。子供の成長は、とても喜ばしいもの。ですが結果だけに目がいってしまい、大切なものを見落としてしまっているかもしれません。第13回『すこしずつ、変わっていくだけ。』こないだ、ピーマンを生で食べた。7歳になった友人と食事をしている時に、学校の給食でピーマンが出るとテンションが下がるという話になった。面白半分で「そういえば、こないだピーマンを生で食べてんけど、意外とこれが美味しくて」と話をすると「食べてみたい!」と言い出した。間違いなく好奇心だけで言っている。その好奇心を取りこぼさないように冷蔵庫からピーマンを取り出し、手渡して種をとる方法を教えてあげた。流水で洗って塩をかけると、嫌いだと言っていたのに好奇心の方が勝ったのか勢いよくかぶりついた。パリッと“美味しそうな”音が鳴る。もぐもぐと味わいながら笑顔になったので「おいしい?」と尋ねると、表情を歪ませてお皿に吐き出した。美味しいのは音だけだったらしい。苦い後味を紛らわすために白米を口いっぱいに含む。「出しちゃったけどさ、学校のみんなには食べたって言おう」と笑っていた。「味はどうでしたか?」という質問には「まずかったです!」と元気に答えたのに、しばらくしてから「もう一回食べてみる」と言い出した。クセになるのだろうか。せっかくなので次はマヨネーズをかけてみることにした。すると、さっきより苦味が少ないのか、一口食べて「これはイケる」とばかりに追いマヨネーズ。二口三口と食べ進め、「食べてみて?美味しいわ」と嬉しそうに勧めてきた。それから面白くなって、ケチャップやソースでも試してみた。「ケチャップが美味しいって思ったけど、やっぱりマヨネーズが一番やわ。そのままで食べるのは苦いので0点です!」と、ゲラゲラと笑いながら、結局1人でまるまる一個食べてしまった。僕はピーマンを見るたびにその時のことを思い出しては、パリパリッという心地いい音とゲラゲラと笑う声が耳に蘇ってつい口元が緩む。ピーマンは子どもの嫌いな食べ物の代表格だ。子どもの舌は苦味を感じやすいから無理に食べさせることはないと聞いたことがある。好き嫌いが多くて不安だという子育て中の悩みはよく聞くけれど、ピーマンに限らず嫌いなものを無理に食べることはない。好き嫌いはよくない、という価値観は根強いけれど、無理に食べさせようとすることで、逆に食べること自体が嫌いになっては元も子もない。まず食べることを楽しむことができたら、いつか食べられるようになるかもしれない。もちろん食べられるようにならないかもしれないけれど、ピーマンを食べられなくても生きてはいける。嫌いなものを克服できた。それはきっと本人にとって喜びだろうし、大人にとっても何か成長の瞬間に立ち会ったようで嬉しく感じる。だけどなぜだか、この生ピーマンを食べた話を「苦手を克服した話」にすると、違和感がある。なんでだろうと考えて出た答えは単純明快で、僕が伝えたいと思ったのはその子が苦手を克服したことではなくて、まずそうな顔をしたり美味しそうな顔をしたりして笑い合ったその時間なのだ。ただ楽しく食事をした。いろんな調味料を出してきて、半分遊びみたいだから行儀が悪いかもしれないけれど、とにかく楽しかった。それを伝えたいのに「苦手を克服した」というレンズ越しに見ると、途端にそのおもしろさが見えなくなる。できなかったことができるようになった。それがとてもいいことのように感じる。もちろん、いいことなんだろうけれど、そればかりに目がいってしまって大切なものを見落としてしまっている。そんなことって意外と多くあるかもしれない。同僚が「去年やんちゃだった子が、今年に入ってから落ち着いて過ごしているんです」と話していた。何気なく「成長ですね」と答えた。すると「本当にそれが成長なんですかね」と返ってきた。僕の言葉への批判という感じではなかった。自問するように「大人しく過ごせるようになった、トラブルを起こさなくなったということが成長なんですかね」と考えを巡らせているようだった。何年か前に訪問した保育園での出来事を思い出す。子どもたちが整列して朝の会をしていた。その横で、ひとり、でんぐり返りをしている子がいた。僕が笑って見ていると、それに気づいて嬉しそうにまたでんぐり返しを見せてくれた。周りの子どもたちがその子に「ちゃんと並びや!」と注意をしているのを聞いて、僕も空気を読んで、みんなと一緒に並ぶよう促した。その後も何度かそんな場面があり、その子はじっとしていたりみんなと同じ行動をすることが苦手なんだろうということが見て取れた。別の日に、体育館のようなところで音楽会の予行演習があった。本番を想定して舞台に上がって演奏していて、緊迫した雰囲気が漂っていた。その子はというと、でんぐり返しはしていなかった。普段の姿とは別人のように、かしこまって楽器を演奏していた。その時の僕は、どんなことを感じたんだっけ。「やればできる子なんだ」とか、その子の良い姿を見たような気がしたのだと思う。演奏の途中でその子がトイレに行きたいと言ったので僕が付き添った。手を洗うその子に、僕は「上手に演奏してたね、楽しかった?」と尋ねた。するとその子は、少しムッとしたような顔で「楽しいとかちゃうねん」と答えた。予想もしない返事で戸惑ってしまった。「頑張ってんねんから、楽しいとか言わんといて」と言われた。この言葉を聞いて、「協調性が育まれている」とか「責任感を持っている」なんて的外れなことを思いたくなったけれど、それはさすがに自分のエゴだと思い直す。僕は「やればできる子」なんて言葉を使って、その子のしんどさを見ようとすらしていなかった。自由奔放に見えていたその子は、みんなの中で普通になるために頑張っていたのだ。やればできるのではなく、やるしかなかったのだ。成長したように見えるその姿は、追い込まれて苦しみながらギリギリで頑張っていることなのかもしれない。逃げ道を無くして克服することは成長ではない。ましてやその頑張りを求めて喜ぶなんて、なんだかおかしいような気がしたのだった。毎日わがままを言っていた子が、ある日を境に何も要求をしなくなったとして、そんな時に僕は、聞き分けが良くなったとか自制が効くようになったとか、勝手に成長だと思ってしまう。けれど、その実は「言っても無駄だと悟ったから」かもしれない。自分の思いを伝えるエネルギーがなくなったからかもしれない。社会では、言っても無駄だからと諦めて黙ることを、「大人になる」と表現する。けれど、それは成長して大人になったのではなくて、身を守る術を身につけただけだ。僕は子どもの何を見ているんだろう。できているように見えるその姿は、みんなから外れないように、こぼれないように、少しでも普通になるために必死にしがみついているのかもしれない。僕自身がまさにそれで苦しんでいるのに、子どもの姿となると、みんなと同じようにできて、トラブルを起こさないでいられるようになったそれを、成長だと感じてしまう。学校に行けるようになった。ピーマンが食べられるようになった。友達と仲良く過ごせるようになった。落ち着いて話が聞けるようになった。聞き分けが良くなった。じゃあそれで、その子は生きやすくなったんだろうか。それで一つ問題が解決したように感じるけれど、その子のしんどさは「できなかったことができるようになった」という姿に隠れただけで、ずっと深くに残ったままかもしれない。子どもの育ちを見守って、その育ちに喜びを感じる立場だからこそ、その成長した姿に喜びを感じる。それは悪いことではないけれど、それと同時に、無理していないだろうか、しんどさを抱えさせていないだろうかと、見えない部分にも目を向けていられたらと思う。できなかったことができるようになって生きやすくなることもあれば、しんどくなることもきっとある。僕がほんとうに大切にしたいことは、できなかったことができるようになることではない、もっとほかの何かだ。見栄えのするものに覆われてしまってその大切にしたいことが見えなくなる前に、ちゃんとそれに気づけるようにしていたいな。去年と今年を比べて、先月と今月を比べて、昨日と今日を比べて、子どもができるようになったことは、きっとたくさんある。その分、サボるようになったとか片付けをしなくなったとか、やらなくなったこともきっとある。その度に、一喜一憂する。「成長というよりも、変化しているだけなんですよね」とその同僚は言った。昨日と比べてしまうけれど、日々の姿がその子の姿で、それは成長でもなく後退でもない。ただ、移り変わっているだけなのだと。僕はどこかで、子どもの育ちは右肩上がりで、多少の浮き沈みがあったとしても、伸びていくもの。そんな風に思っていたのかもしれない。できるようになることも、できなくなることもある。その変化の中で、その時のその子が生きやすくなる方法を、その都度見つけていけたら。それは、見栄えしなくて不安になるかもしれないけれど、そうやってとどまることなく心配事が見えている方が、いいのかもしれない。子どものしんどさに気づけなくなるよりかは、もしかしたらその方がいいのかもしれない、なんて思う。余談ですが手巻き寿司の正解ってなんだろう。シンプルに刺身だけを巻くのもいいし、胡瓜や大根を添えて巻くのも飽きない。何も考えずに目についたものを乗せて、巻ききれず溢れそうになったのにかぶりつくのも、何味かわからないけれど美味しい。大葉なんか入れると最高だ。そういえば、僕は子どもの頃から、シソ(いわゆる大葉)が嫌いだった。独特の香りが苦手で、素麺つゆに間違え入れて勢いよくすすってしまい、勢いよく吐き出したことがある。シソはシソでも、ばあちゃんが作るシソジュースだけ飲めた。原液を水で薄めて飲むんだけれど、きれいな薄い紫色でシソ独特の香りがしない。大人になっても嫌いだったんだけれど、いつからか食べられるようになっていて、気づいたら好物になっていた。今では素麺にも手巻き寿司にも欠かせない。僕はシソのことを好きになってよかったって思うけど、だからと言ってシソが苦手な人に勧めたりはきっとしない。苦手なものは、苦手なままでいい。もし、いつかそれを好きになったなら、それは「克服した」のではなくて、ただ「きらい」が「すき」に変わっただけなんだろうなって思う。苦手なままなら、それは成長していないのではなくて、ただ、そのままなだけ。克服するのではなくて、おもしろそうだから試してみる、そんな感じで楽しめるのなら、嫌いなものも試してみようかなって思えるのかもしれない。例えばやったことない組み合わせで手巻き寿司にしてみて、色んな味を試してみるように、あんまり美味しくなくても食べられるようにならなくても、それでもいいかって思えるような気がする。きしもとさんの記事やこれまでの連載コラムはこちら[文・構成/きしもとたかひろ]きしもとたかひろ兵庫県在住の保育者。保育論や保育業界の改善について実践・研究し、文章と絵で解説。Twitterやnoteに投稿している。⇒きしもとたかひろnote⇒きしもとたかひろTwitter
2021年04月09日Twitterやnoteで子育てに関する『気付き』を発信している、保育者のきしもとたかひろさん。連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』では、子育てにまつわる悩みや子供の温かいエピソードなど、親や保育者をはじめ多くの人の心を癒します。「つらい環境でも耐え忍べば報われる」という意味を持つ『石の上にも三年』という、ことわざ。ですが、長く続けることよりも難しいのは…。第12回『石の上にも、三日坊主。』始めることと続けることって、どちらが難しいんだろう。興味を示したけれど輪に入らずに、あそびに参加しない子がいる。そのあそびに興味がないのかといえばそうではなく、観戦しながら一緒に楽しんでいるので仲が悪いというわけでもない。むしろやりたそうにはしているけれど、誘ってみると「やったことないから」と断られる。「教えるよ」と声をかけても頑(かたく)なで、あまりしつこく誘うと逆に離れてしまうので、一歩を踏み出すきっかけを見逃さないように見守るくらいしかできない。保護者の方にお話しすると、家では興味深げにそのあそびについて話しているらしい。やってみたい気持ちはあるようだ。じゃあ、なんでやらないんだろう。やってみたいのにやらない。どうしてだろうって考えてみる。無理にそのあそびをさせたいわけではない。したいならしたらいいし、したくないならしなくていい。「見ているだけ」も、その人の楽しみ方だ。サッカーをしたことがなくても観戦は楽しめるし、経験者よりも劣っているということもない。実際にプレーしている人と見ている人、そこに優劣はないのだから。ただ、なにかが足枷になっていて一歩を踏み出せないのであれば、その足枷を外してあげたいなと思う。もちろん、その子と自分は違う人間だし場面も違うから、正しい答えが出るとは限らない。けれど、分かるわけないからといって開き直ってしまったら、分からないままだ。想像したり思いを馳せたりしていれば、すこしでもなにかのヒントが見つかるかもしれない。5年くらい前、友人に誘われてボルダリングを始めた。室内の壁に打ち付けられた、岩のでっぱりやくぼみを模した“ホールド”というものを登っていくスポーツクライミングと呼ばれるものだ。初日はペットボトルの蓋も開けられないくらい腕がパンパンになったんだけど、何度か通っていると筋肉痛も心地よく感じるようになり、日ごとに登れるようになっていった。競技自体も楽しいんだけれど、目に見えて自分の成長が感じられるのも嬉しかった。大人になってのびしろを感じる機会って少ないもんね。ある程度技術がついてきたあたりから、初めは見えなかった面白さを感じるようになってきて、一層楽しめるようになった。そのものの本質的な面白さがわかるまでには時間かかる。あそびもスポーツも仕事も同様だろう。時間をかけてこそ見えてくるものは確かにあるよね。三日坊主という言葉がある。物事が続かないことを揶揄(やゆ)する言葉だ。逆に、辛抱強くいればうまくいくかもしれないという意味として、石の上にも三年ということわざがある。初めは冷たい石の上でも、長く座り続ければいずれ温かくなるということだ。継続は力なりというように、三日で辞めるより続けられた方がきっといい。途中で投げ出さずに粘り強くやり抜くことって、何かを成し遂げるためだけではなく、楽しむためにもとても大切なことだろう。子どもたちにも、やり始めたことは途中で投げ出さずにやり抜いてほしいと思う。今は面白さを感じなくても、続けていれば楽しくなってくるよって。根気強く続けた先に見える面白さや追求することの楽しさを知ってほしい。壁にぶち当たっても乗り越えてほしい。そのときに味わう達成感は格別だ。けれど、と少し考えてみる。何気なく腰掛けて、なんとなく座っていただけなら三年座っていられるかもしれない。けれど、あらかじめ石が温かくなるまでは何年もかかりますよ、と言われていたら、そんな石には座らないんじゃないだろうか。どうしても座らなきゃいけない状況はあるかもしれない。そんな人にとっては、「いつか温かくなるかもしれない」という見通しがあれば安心する。だけど、それは座り続けるための理由ではなく、あくまでも我慢を続けるための慰めだ。そうやってやっとのことで温まったお尻に感じるのは、きっと達成感ではなく、辛かったことから解放された安堵だろう。少し走ってみようかなと思ったときに、遠くにあるゴールにたどり着くまで走り続けないといけないとしたら、ましてや、周りのみんなはその道のりを悠々と走っているのを見たら「今回はやめておこうかな」と、スタートを切ることさえしないんじゃないか。そうしたら、そのまま「興味はあるけれどやっていないリスト」に追加されることになる。続けたら花が咲き、実がなるかもしれないけれど、そもそも始めなかったら芽さえも出ない。なんとなく始めてみて、一歩ずつ進んで、気づいたら遠くまで来ていた。座っていたらいつの間にか温くなっていた。それくらいでいいのなら、最初の一歩も気軽に踏み出せそうな気がする。どうして僕はその面白さを知れるくらい続けられたんだろう、と考えた時に思うのは、同じように下手くそな友人がいたからではないだろうか、ということ。もちろん、上手い人に憧れて鍛錬して上達する人もいるだろうけれど、自尊心の低い僕の場合は、周りの人たちが板チョコのような薄さのホールドを掴んで身軽に登っているのを見て、憧れよりも惨めさを感じた。僕だけが、バナナみたいなデカいホールドに不格好にしがみ付いている。身軽さなんて微塵もなく、ナマケモノのように壁にへばりついて腕をプルプルさせたあげく引力に負けてマットの上に落下する。初心者なんだから当たり前だし、恥ずかしがって楽しめないのはもったいない。そんなこと分かっているけれど、やはり恥ずかしいものは恥ずかしいのだ。だから僕は、慣れるまではひとりで行けなかった。一緒に通う、同じタイミングで始めた同じように下手くそな友人がいたから、その恥ずかしさが紛れていた。自分より下手だから安心できるのではない。「失敗しても大丈夫だ」と思えるから安心できるのだ。持つべきものは偉そうに教えてくれる熟練の友ではなく、共に失敗する未熟な友だった。そんなことを思い出しながら思う。興味を持ったあそびに参加しないその子は、新しいことに挑戦することが嫌というよりは、「みんなができていて自分だけできない」のが嫌なんじゃないだろうか。「失敗するかもしれない」という気持ちが足枷となっているんじゃないだろうか。なんとなく始めて、なんとなく覚えて楽しんでいる間に上達することってある。特に幼少期はそういうことが多いだろう。自分が人よりも劣っているかも、そんなことを思うとはじめの一歩は踏み出せない。大人なら子どもよりも上手にこなして「やってみなよ、教えてあげるよ」って、色んなことを教えてあげたい。けれど、未熟な友として共に失敗しながら成長していくのも良いのかもしれない。簡単に投げ出したり、逃げ出したりしないでほしい。けれど、途中で辞めることを「悪いこと」にしてしまっては、その経験はきっと「あの時も投げ出してしまったし、今回もどうせ続かないからやめておこう」になる。投げ出さないように嫌なことに耐えて育つのは、根気強さではなく我慢強さだ。根気強さや粘り強さはきっと、「もう少し続けたら面白くなるんじゃないかな」という期待のもとにあるんじゃないかな。それはきっと、与えられるものではなく、気軽に始めてたまたま続いた、そんな経験の積み重ねから生まれるんだろう。だから、途中で投げ出さずに続けてほしいなら、途中で辞めても大丈夫って思いたい。いつ立ってもいいからこそ、気負わずに安心して座り続けられるのだ。身になりかけたものを途中でやめそうになったときに「もったいないな」って思ったりもする。こんなに勉強してきたのに生かせないのはもったいないな。この資格取ったのに、別の仕事するなんてもったいないな。ここまで原稿書いたのに、ボツにするのはもったいないな。そんなことを大人になっても、いや、大人になったからこそ思ったりする。きっと、これまでそれに注いできた時間が無駄になるようで嫌なんだと思う。けれど、これまでの時間はこれまでの時間で、これからの時間はこれからの時間だ。ちなみに、これまで注ぎ込んだものを無駄にしたくない!という思いで損をすることが分かっていてもそれを続けてしまうことを、コンコルド効果っていうらしい。博打好きの同僚が教えてくれた。博打と一緒にするなよ、と思うけれど、同時に納得もしてしまう。未来のためにやってきたことを間違いにしないために、これからを犠牲にしているならそれは、未来ではなく過去のために生きているということになる。きっと誰だって、失敗するのは嫌だ。けれど、それが失敗じゃないとしたらどうだろう。「やるなら途中で投げ出しちゃダメだよ」「どうせ続かないんだからやめときなよ」って言葉は減るかもしれない。飽きたなら途中で辞めればいい。しんどければ逃げればいい。簡単に投げ出せばいい。そんなことを言葉にするのは憚られるけれど、それが許されるなら、大人も子どもも、少し肩の荷が降りるような気がする。甘いんじゃないだろうか。その子のためにならないんじゃないだろうか、と思ってしまうかもしれない。途中で辞めてしまう子を見て、歯痒い気持ちになるかもしれない。けれどそれは失敗じゃないし、無駄なんかじゃないとすれば、育んでいるものに目を向けられる。新しいことに挑戦できた。別のことに興味を持てた。できない自分を受け入れられた。全部大成功だ。何にも見つからなくても、自分の気持ちに正直になれた、無理しなかった、だけでも十分だ。それを失敗にしなければ、次の挑戦ができるかもしれない。気軽に、なんとなく興味を持って、なんとなく始められるかもしれない。そんな一歩が積み重なって、気づいた頃にどこか遠くまで来ているかもしれない。もちろん、どこにも辿り着かないかもしれないけれど、それはそれでいいじゃない。活発な子に育ってほしいなら、元気がなくてもいいよって言ってみる。なんでも食べる子に育ってほしいなら、無理して食べなくてもいいよって言ってみる。強い子になって欲しいなら、泣いてもいいよって言ってみる。今と未来は地続きだけれど、今のこの時間を、未来の何かにつなげるために無理しなくていい。「こんなんじゃダメだ」ではなく、「できなくても大丈夫」って安心できたなら、どこかの何かのきっかけでなんとなく「もう一歩踏み込んでみようかな」って思えるのかもしれない。余談ですがこの連載コラムは、月2本くらい書くつもりでスタートした。次第に月1本くらいのペースになっていった。1月から始まり12月にちょうど第12回の原稿を書き始めた。三日坊主の自分が月一を継続したと喜んでいたら、八割方書けたくらいで手が止まってしまい、結局予定より2ヶ月遅れた。初めは、「続けられるか分からないけれどとりあえずこの一本を」と書いていたのに、過去に積み上げたものや達成しそうな何かを見た途端、身動きが取れなくなったのだ。けれど、書いた。今までのものなんて忘れて、次のことも考えないで、目の前のことだけ考えて、ちゃんとできた。えらいな、自分。結局、ボルダリングは2年ほど続けたけれど、引っ越してアクセスが悪くなったことで足が遠のき、そのまま辞めることになった。せっかく鍛えたのだから衰えないようにと通い始めたフィットネスジムは、2、3回通って飽きてしまった。かと言って一度始めたのに途中で辞めるのもなんだかやはりダメな気がして「今月は月謝も払ったし…」と先延ばしにし続けていたら、結局1年間ほとんど通わないのに毎月月謝が引き落とされていた。これがコンコルド効果か、と無表情で納得した。始めたいけれどきっかけがない、ということもあれば、続けたいけれど途切れてしまうこともある。やめたいのにダラダラと続けていることもある。三日坊主が石の上に座っているのを想像してみる。ただの坊主なら修行っぽいけれど、三日坊主が座り続けているのならば、よほど居心地のいい石だろう。そんな石が見つかればいいなって思う。いつか見つかるかもしれないから、そんな石が見つかるまでは、少し冷たいお尻ももう少し我慢してみようかな、なんて誤魔化してみたりする。座っているのがしんどいならば、寝転んででもへばりついてでも居心地いい姿勢を見つけてやろうか。きしもとさんの記事やこれまでの連載コラムはこちら[文・構成/きしもとたかひろ]きしもとたかひろ兵庫県在住の保育者。保育論や保育業界の改善について実践・研究し、文章と絵で解説。Twitterやnoteに投稿している。⇒きしもとたかひろnote⇒きしもとたかひろTwitter
2021年02月06日本広克行監督作『ビューティフルドリーマー』のBlu-rayが3月17日(水)にリリースされることが決定。主演の小川紗良と本広監督からメッセージが到着した。日本映画界の鬼才監督による野心的な企画と若い才能たちの予測不可能なケミストリーで創造する新レーベル「シネマラボ」第1弾として製作された『ビューティフルドリーマー』は、『踊る大捜査線』シリーズや『幕が上がる』などのヒット・メーカーである本広監督が、押井守の脚本『夢みる人』の実写映像化に挑んだプロジェクト。映画は先勝美術大学の映画研究会に伝わる、“撮ろうとすると、必ず恐ろしいことが起こる”といわれる脚本の撮影を決めた映研部が舞台だ。映画を撮った経験などまったくない彼らの前に、予期せぬ困難とトラブルが次々と待ちうける。果たして彼らは、無事にクランクアップできるのか?本広監督は新たな試みとして、完全な脚本を用いず、おおよその筋だけを立て、現場で口頭の打ち合わせで芝居をまとめる“口立て”を用いた演出を取り入れたという。主演は、監督としてメンバーをリードする主人公のサラに、新人女優としてだけでなく映画監督としても長編映画監督デビュー作『海辺の金魚』の公開を控える小川紗良。カメラ担当でサラを支えるカミオに『私がモテてどうすんだ』などの神尾楓珠。助監督兼雑用係として奮闘する映研のムードメーカー、モリタに劇団ナイロン100℃所属で『カツベン!』などの森田甘路。プロデューサーのリコには、『あさひなぐ』『ドロステのはてで僕ら』で好演した藤谷理子、メイク担当のシエリに、札幌の劇団イレブンナイン出身のヒロシエリ。録音担当のウチダに、これが映画デビュー作で若手注目劇団・劇団スポーツの主宰の内田倭史。また、映研OBとしてメンバーを支えるタクミを、数々の話題作に出演しながら映画監督としてもコンスタントに作品を発表し、マルチな才能を発揮している斎藤工が演じる。さらに、確かな演技力で撮影に貢献するサヤカには、『山猫は眠らない8 暗殺者の終焉』でハリウッド・デビューも果たし、女優としても大きく飛躍中の秋元才加。本編で驚異の超絶長台詞を披露するのは舞台、テレビ、映画に幅広く活躍する名優・升毅。そのほか、『海賊戦隊ゴーカイジャー』の池田純矢、『仮面ライダー エグゼイド」の飯島寛騎、“日本発 世界で最強に活躍するコスプレーヤー“伊織もえ、 “日本一かわいい女子高生“福田愛依、“恐ろしく美しい元自衛官。“かざり、“赤ペン瀧川”こと瀧川英次、ツルきゃらとして人気のうどん脳といった個性豊かな人気者たちが出演している。小川と本広監督からのメッセージは以下の通り。小川紗良・コメントいわくつきの台本を手にした映研部員たちが奮闘する、いわくつきの映画です。稽古から撮影まで予想のつかないドタバタとした時間を過ごしましたが、コロナ禍で迎えた劇場公開時にはそんな日々さえも貴重なものに思えました。ほとんど即興芝居で作られた本作、きっと何度見ても発見があると思います。ぜひ劇場で観た方も初めての方も、お家でゆっくりお楽しみください。本広克行監督・コメント何故、映画『ビューティフル ドリーマー』を作るに至ったかというと、これまで自分はテレビの情報番組、バラエティ、ドラマ、アニメ、CM、MV、舞台、イベント、映画祭と多岐にわたり沢山の人が集まり楽しんで貰える作品を作り続け、そしてひとつの作品が完成すると、また次の作業が始まり、ずっと祭から抜け出せないでいるこの感覚を作品にしたいと考えてました。そんな中「監督絶対主義」を掲げる実写映画レーベル「Cinema Lab(シネマラボ)」プロジェクトが動きだし今までずっと考えていた演出を全部この作品で試させて貰ってます。遣り甲斐があります。何か気になった人は調べてみて解答が見えて来たら、また続きを見たくなるかもしれません。この作品はどこまでも作り続けられる作品なのです。■リリース情報『ビューティフルドリーマー』Blu-ray、3月17日(水)発売[2枚組:本編Blu-ray+特典DVD]価格:¥5,800(本体)+税収録分数:未定(本編75分+映像特典)DISC1:本編Blu-ray収録分数:未定[本編:75分+映像特典:未定]仕様:1080p High Definition/16:9LBビスタサイズ/2層音声:オリジナル(日本語)DTS-HD Master Audio 5.1chサラウンド / オリジナル(日本語)リニアPCM 2.0chステレオDISC2:特典DVD 収録分数:未定仕様:16:9LBビスタサイズ/片面・2層音声:オリジナル(日本語)Dolby Digital 2.0chステレオ<映像特典>予告編集[15秒予告 / 30秒予告 / 本予告(60秒)]映研クロストーク[PART1 / PART2]メイキング映像/イベント映像(完成披露試写 / ヒット祈願/公開記念舞台挨拶)
2021年01月28日お笑いコンビ・キャイ~ンの天野ひろゆきが30日、一般女性との結婚を発表した草なぎ剛をツイッターで祝福した。草なぎはこの日、婚姻届を提出。所属事務所を通じ、「これからも、今までと変わらぬスタンスで仕事を続けていきたいと思っておりますので、皆様にも応援していただけるよう、日々精進してまいります」とコメントを発表した。天野は相方・ウド鈴木と共に撮った思い出のスリーショットをアップし、「うぉー、今つよぽん結婚!」と興奮。「こんな嬉しいサプライズは、なんぼあってもいいですからね」と喜び、「本当におめでとう」とメッセージを送った。天野が投稿した写真は、昨年11月に草なぎが行ったライブイベント「草なぎ剛のはっぴょう会」後の一枚。当時のブログでは会場まで足を運んだことを明かし、「歳をとると、失敗を恐れたり、なるべく恥をかきたくないという気持ちが強くなり、次第に自分で挑戦を諦めたり、限界を決めたりしてしまうものだ」「しかし、つよぽんにはそれがない」「その姿を見ていたら人生を楽しんで生きてるかい?とお尻を叩かれたような気持ちになったりした」と感想をつづっていた。
2020年12月30日2021年3月4日(木)~3月14日(日)に、東京・大手町三井ホールにて上演される舞台「元号男子」のメインビジュアルが公開された。本作は、志島とひろによる元号を擬人化した作品を舞台化したもの。時代とともに生まれた大正、昭和、平成、令和の4人の元号男子が一つ屋根の下で暮らす模様を描いている。脚本・総合演出を川尻恵太、演出を白鳥雄介が担当。大正役の和合真一、昭和役の校條拳太朗、平成役の平賀勇成、令和役の大薮丘を中心に、若手俳優たちが活躍する。今回公開されたビジュアルのイラストは、原作者の志島が手がけた。背景はイラストレーターの村カルキによるもの。魅力的なキャラクターはもちろん、美しく描かれた背景も注目してほしい。なお、和合、校條、平賀、大薮のキャスト4名のサイトにて、チケット先行受付を実施中。申し込み締め切りは12月7日(月)23:59となっている。【公演概要】舞台「元号男子」公演日:2021年3月4日(木)~3月14日(日) / 全15公演会場:大手町三井ホール(東京都千代田区大手町 1-2-1 Otemachi One 3F)チケット代:全席指定9,800円(特製 A4 タペストリーつき / ランダム)※本公演のチケットは電子チケットとなります。ご注意ください。キャスト先行:2020年11月20日(金)10:00~12月7日(月)23:59大正役・和合真一 FC: 昭和役・校條拳太朗 FC: 平成役・平賀勇成 ニコニコチャンネル: 令和役・大薮丘 FC: ※詳細は各サイトでご確認ください。公演に関するお問い合わせ:サンライズプロモーション東京 0570-00-3337(平日12:00〜15:00)公式サイト:
2020年11月27日小川紗良主演、本広克行監督がメガホンをとった、映画レーベル「Cinema Lab」第1弾作品『ビューティフルドリーマー』より、冒頭から6分40秒までの本編映像が公開された。押井守の脚本「夢みる人」を映像化した本作では、劇中のセリフの半分以上が俳優たちの即興芝居で構成されているという、本広監督の前代未聞の演出方法がなされている。到着した映像では、その演出の一端が垣間見れる。古いフィルムを見つけ、面白いから自分たちで撮影してみようと提案するシーンが描かれる今回の映像に関して、本広監督は「映画研究会のメンバーと斎藤工の即興芝居は特に見ものです」と、見どころは映研OBとしてメンバーを支えるタクミの出演シーンだと明かし、「冒頭からこんなに本編映像解禁したのは、僕自身初めてです。是非劇場に行く前にご覧ください!」とコメント。また主演の小川さんは「部室で古いフィルムを見つけてみんなで映写機にかけてみるという経験を、私も映画サークル時代にしたことがあります。ひとつひとつ確かめながら映写機に触れる緊張感や、スイッチを入れた途端に聴こえるカタカタという音の高揚感など、全てが追体験のようによみがえりました」と撮影をふり返る。そして「冒頭シーンから、私たちの即興芝居で作り上げています。どこまでが芝居でどこからが素なのか、絶妙に混ざり合った私たちの掛け合いが楽しめると思います」と話している。『ビューティフルドリーマー』は11月6日(金)より全国にて順次公開。(cinemacafe.net)■関連作品:ビューティフルドリーマー 2020年11月6日よりテアトル新宿、シネ・リーブル池袋ほか全国にて順次公開(C) 2020 映画「ビューティフルドリーマー」製作委員会
2020年11月04日Twitterやnoteで子育てに関する『気付き』を発信している、保育者のきしもとたかひろさん。連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』では、子育てにまつわる悩みや子供の温かいエピソードなど、親や保育者をはじめ多くの人の心を癒します。まだ感情のコントロールが苦手で、癇癪(かんしゃく)を起こしてしまう子どもたち。他人の苦しみや欲求は、どうすれば理解できるのでしょうか。第10回『同情するならお湯をくれ。』「怒りたくて怒ってるんじゃないよ」と言われて「なら怒らなければいいじゃないか」と思ったことがあるのは僕だけではないだろう。学校からの帰り道、歩きながらノートを広げている子がいた。「危ないからノートしまって歩きなよ」と声をかけると「だってー」と返してきた。「危ないことは危ないからやめてね」と口答えを制した。理由があろうと危ないことは危ないのだ。しばらく歩いたところでお茶を飲みながら、またノートを広げていた。「しまっときって言うたやろー!」と少し語調を強めると、注意されて落ち込むというよりも楽しみを邪魔されたというような表情をした。心配していることを伝えるつもりで言い訳のように「怪我したらあかんからな。ほんで、暑いから水分しっかり取ってな」と言うと「だから飲んでてんやん」と言い返してきた。なんだかやけに反抗的だなと思いながら視線を落とすと、広げたノートに地図のようなものが書かれているのが見えた。スタートらしき場所には「がっこう」と記されており、路線図のようにいくつかの四角を線で繋げていて、ところどころに手書きの星マークがつけられていた。双六のようにも見える。「なに見てたの?」と、指摘としてではなく興味本位で尋ねた。「帰り道に暑くてお茶飲まなあかんから、飲むポイントを書いてんねん、いまここ」と言って[学校]と[学童]の間にあるチェックポイントの一つを指した。「真夏の水分補給」も子ども達に指導している交通ルールと同じく大切なことだ。それを自分たちで工夫して実践できるようにしていることに感心しながらも「いいことやけど、危ないからノート広げて歩くのはやめような」と伝えた。しばらくしてから、「おもろいなあ」とそのノートのことを思い出していた。自分たちで相談して書いたんだろうか。決められためんどくさいことも、あそびに昇華してるなんてすごいじゃないか。「いいことやけど」ってなんやねん。ただただめっちゃおもしろいやん。「いいことや」って取ってつけたように言ったけど、あの子たちには「怒られた」ってことだけが残っているんじゃないかと少し後悔した。自分で自分に「怒りたくて怒ったんちゃうねん」と言い訳した。「なら怒らなければいいじゃないか」と子どもの頃のぼくが顔を出す。危ないことは危ないからやめてもらわなきゃいけない。けれど、もっとほかに伝え方があったんじゃないか、間違いを指摘することをそんなに焦らなくてもいったん話を聞くことくらいはできたんじゃないか、と何度も考えていた。思い通りにいかないときに癇癪を起こしてしまう子がいる。諭すように話したり、思いに寄り添うように声をかけたりしてみても全く応じることはなく、言葉をかければかけるほど興奮したり、脱力して床に寝そべり駄々をこねたりする。腫れものを触るように接していき、癇癪玉が爆発したら最後「鎮まりたまえ!」と災難が過ぎ去るのを待つようになだめ、根負けして思い通りにさせるか、そうでなければ開き直って強引に言うことを聞かせるしかない。その子は好きなあそびを中断されるたびに駄々をこねた。みんなで遊んでいるときには機嫌よく過ごしているけれど、終わってしまったり中断されると手をつけられなくなっていた。ある日、その子は好きなあそびをせずに一人で過ごしていた。ひとりでのんびり過ごしているのかといえばそうではなく、かと言って別のあそびに夢中になっている訳でもなさそうで、あえてそのあそびから離れているように見えた。何かあったのか尋ねてみると、その子は少し黙ってから「もう、ああなるの嫌やねん」と小さく言った。「ああなるの」とは「キーーーッ!」ってなること、つまり「癇癪を起こしてしまうこと」だ。「思い通りにいかないことがあったら癇癪を起こす子」ぼくはそんな風にその子のことを見ていた。思い通りにいかないことを押し通そうとする姿は、半ばわがままにも見えた。その子にも制御ができないのだ、とそのときに初めて気が付いた。本人が苦しんでいるなんて思ってもいなかった。癇癪を起こさないようにしたり、それを鎮める方法を話し合いもした。けれど、それは「その子がしんどいから」ではなく、「僕たちがしんどいから」やっていた。その子が癇癪と戦っているのに、僕とも戦わなきゃいけないなんてそりゃあしんどい。僕には見守るか支えるしかできなかったのだ。もしかしたら、わがままな姿や怠慢に見える姿が、ただ気に食わなかったのかもしれない。誰も困りはしないのに何故だか許せない、そんな感情ってあるんだよね。その子が感情をコントロールできなくて、うまく表現できなくて苦しんでいるかもしれない。それを分かっていても、それでもやっぱり「自分の言う通りにしたいだけじゃないか」とか「ただのわがままなのではないか?」と感じてしまう自分がいる。考えてみれば、その子が癇癪を起こさずに言うことを聞いて欲しい、と望んでいる僕の考えも、自分の思い通りにしたいというわがままだよね。僕たちはなんで、人がわがままに振る舞っていたりサボっているように見えたりするのが許せないんだろう。たとえば危険があるとか誰かの迷惑になるとかなら分かるけれど、誰に迷惑をかけるわけでもないのに、手を抜いていたりサボっていたりズルをしていたりすると許せない。気に食わないな、と思うだけなら勝手だけれど、「その子のためにならない」というもっともらしい理由をつけて厳しくしてしまうこともある。親を甘やかしたらいけないという価値観も、保育や教育の業界から聞こえてきたりする。「気に食わない」だけで批判するのは理不尽だって誰でも分かるけれど、それが「教育」とか「当たり前」という仮面を被ってたら、そういうものなのかもと思ってしまう。しんどい人は救われるどころかさらに追い込まれていく。しんどいのなら、甘えてもいいんじゃないのかな。なんで、甘えたり手を抜いたりすることが許せなくなってしまうんだろう。あ、例えば、狩りで生きてきた時代には、サボってしまったら生死に関わるから本能的に「サボるのは許せない」と感じるのかもしれないな。とか適当なことを考えてみたけれど、「サボりたい」「休みたい」も生きるために必要な心の声じゃないか。「何個しんどかったら帰れるんですか?」中学校に勤めている友人が、保健室で生徒に聞かれたらしい。熱は無いけれどアトピーの調子が悪いし具合もよくないので帰りたい。けれど、サボりだと思われて帰らせてもらえないとのこと。甘やかしてクセになってもいけないし、だからって子どものしんどさに寄り添えないのもつらいものだ。僕は子どもの頃からアトピーなんだけれど、痒いとか痛いとかだけでなく、向けられる視線やかけられる言葉に傷付いたり、自分は頑張りたいのに頑張れないしんどさもある。学童でも身体が痒くて目の前の宿題に集中できない子がいて、それを見て「集中力がないな」と思ってしまいそうになる。けれど、絶対に「集中しなよ」と声をかけることはしない。だって、集中できるならしてるもんね。痒いから集中できなくて、集中できないからまたイライラして掻いちゃって、終わりが見えなくてボーッとしてしまうんだ。荒れた肌は見た目も良くないし、フケが服についたりするから清潔感がないとか言われる。清潔にしていないとすぐに悪化するから、一度来た服を洗わずに着ることはないしシーツだってしょっちゅう洗う。その辺の清潔感のあるイケメンよりも、きっと清潔であることを心がけているけれど、見た目の清潔感は伴わない。食生活が良くないんじゃないかとか生活習慣が悪いんだよって言われることもある。怠慢だから、サボっているからだよと病気をその人のせいにしたがる。しんどくてエネルギーを使いすぎて、いつもなら容易にできることが、ガス欠でできないこともある。当たり前にできるべきことができていないから、またやっぱりサボってるって思われる。その人のしんどさはその人にしか分からない。同じ痛みでも、平気な人もいれば、動けないくらい苦しむ人もいる。その人にしかその苦しみはわからない、という至極当たり前のことを忘れて、苦しむ人が弱いのだと、それを悪いことのようにしてしまう。忍耐力が足りない?みんな我慢してる?その事実があったとしても、それでしんどさはなくならないのに。病気に限らない。健康でも、その時の環境や状況でしんどい人はきっとたくさんいる。家族がケガをしたり、飼っている猫が病気だったり、失恋したり、推しが引退したり。病気だからとか障害だからとかではなくて、なにもなくてもそのしんどさに目を向けていたい。「そんなことくらいで」なんて他人が言っちゃいけないんだよね。みんなは大丈夫なのに自分がしんどくても、「そんなことくらいで」って自分で思ってしまうことも、もうやめたい。みんなしんどいことは嫌なはずだよ。そのしんどさから逃げたり解放されることを望んだりするのって悪いことじゃないはず。みんながしんどくなくて、みんながサボれる社会の方が断然生きやすいやんか。「なぜしんどいか」なんて関係なくて、そこにしんどさがあるのなら、それをまずは解消したい。甘えてなにがいけないんだろう。弱くてなにがいけないんだろう。教育というモノを言い訳に、育てるという名目のもとに、その子のしんどさを否定してはいないだろうか。まっとうに生きる。勤勉に生きる。それが幸せになるためではなく、ちゃんとした大人として見られるためなのであれば、もうそれにならなくてもいいやって思うの。ちゃんとした大人、を目指すなら、人のしんどさを自分の尺度で測らずに、想像したり寄り添える大人でありたいと思う。「正しいこと」よりも先に「生きやすいこと」を大事にしてみようよって思う。他人が大切にしているものを否定しないのと同じように、他人のしんどさを否定しない。それができたならきっと、自分の大切にしているものもしんどいことも、自分で否定しないでよくなるんだと思う。子どもの育ちを見守る立場である僕が、こんな風にサボることを肯定したら、それで不安になる人もいるかもしれない。けれど、ぼくははっきりと言いたい。一個でも十分しんどいよ。みんながしんどくないことでも君がしんどいのならしんどいんだよ。休んでいいんだよ。手を抜いていいんだよ。苦しみを我慢して厳しくされた分だけ辛抱強くはなるかもしれない。けれど、その分相手にもその強さを求めてしまうのであれば、自分のしんどさに気づいて誰かに甘えられるほうが、その誰かもまた誰かに甘えていけるほうが、みんながしんどくないんじゃないかな。少なくとも、相手には相手のしんどさがあることを知れるから、強さを求めて追い込んだり傷付けたりすることは減るだろう。みんなが強いことを望んで傷つけ合うよりも、弱さを認め合って支え合えたら。甘いと言われようと、僕はそうありたいと思うのだ。余談ですが別の日の帰り道に、「泥棒って、ご飯食べてるんかなあ」と尋ねてきた。不意に問われたその意図が分からなかったので、なるべく断定するような答えにならないように「どうやろうなあ」と返すと「食べてないんやったら、カップラーメンにお湯入れてあげたいわ」とその子は言った。ただカップラーメンをあげたい、ではなく「お湯入れてあげたい」という具体的な優しさが、哀れみとか同情ではなくその子の本当の思いであることを感じさせた。「泥棒ってお金ないんやろ、だからカップラーメンに」と繰り返す。生まれながらに悪い人、ではなく、お金がないから悪いことをしてしまう。そんなふうに考えられる人がどれだけいるだろう。悪い人の代名詞である泥棒だけれど、その子にとっての泥棒は悪い人ではなく困っている人なのだ。犯罪を犯すのはその人のせいで、貧乏なのは自己責任だと叩かれるこの社会で、この子は泥棒のカップラーメンにお湯を入れてあげたいと言っている。それを聞いてぼくが抱いた感情を、なぜだろう、うまく言い表せられない。考えを巡らせすぎたのだろうか、「あーーー」と叫んで「あかん、ほんまに泥棒にお金配りたくなってきた」と泣きそうな顔で呟いた。もしぼくが泥棒なら、って少し想像したら、泥棒でもないぼくが何故か救われたような気持ちになった理由が分かった気がした。ぼくが泥棒だったなら。きっと、そのもらったお金でカップラーメンを買うだろう。ビールを飲んだり美味しいお肉も食べたいけれど、餃子やお寿司も食べに行きたいけれど、でもきっとカップラーメンを買うだろう。そして、その子がお湯を入れてくれるのを待つのだ。きしもとさんの記事やこれまでの連載コラムはこちら[文・構成/きしもとたかひろ]きしもとたかひろ兵庫県在住の保育者。保育論や保育業界の改善について実践・研究し、文章と絵で解説。Twitterやnoteに投稿している。⇒きしもとたかひろnote⇒きしもとたかひろTwitter
2020年10月27日新レーベル「Cinema Lab」の第1弾作品、本広克行監督による映画研究会が伝説に挑む映画『ビューティフルドリーマー』より予告編と場面写真が到着した。映画を撮ったことのない先勝美術大学映画研究会の部員たちが挑む、映研に伝わる“いわくつきの台本”の映画化。「これは撮ろうとすると必ず何か恐ろしいことが起こる台本」という言葉通りに、部員たちは次々に予期せぬ困難やトラブルに見舞われる。果たして彼らは無事にクランクアップできるのか――。本広克行監督、押井守監督、小中和哉監督、そして上田慎一郎監督が参加する映画実験レーベル「Cinema Lab」。その第1弾作品となる本作は、小川紗良が主演する押井守の脚本「夢みる人」の実写映像化。予告編では、撮影中の様子や「これを撮ろうとすると必ず変なことが起こる」とタクミ先輩が話すシーンが登場。秋元才加、升毅、神尾楓珠らの姿も確認することができる。また、先勝美術大学映画研究会の伝説のOB・サイトウタクミ役として本作に出演している斎藤工からコメントも到着。「未だに邦画によくある、同じ様なキャスト、同じ様な内容をシャッフルして、もう既に何度か見た事ある様な、企業が"損しなさそうな"安心安全作品では無く、本質的に時代に沿った、自由度とクオリティを保って邦画界のニューニュートラルの一歩目に本作がなる事を願っています」と話している。さらに今回、本作のセリフの半分以上が“俳優たちの即興芝居”で構成されているという、本広監督の前代未聞の演出方法が明らかに。「エチュード(即興芝居)力の高い人をキャスティングした」という本広監督は、「シーン設定を役者に教えてカメラを回し、横から僕が掻き乱すんです。僕が、横から口立てで『ブライアン・デ・パルマって言え!』『トリュフォーのアメリカの夜って言え』と言うんです。それを役者が、『あぁ、いま指令が来た』と瞬時に考えて芝居の中に『あの、アメリカの夜なんだけど』とエチュードで入れていく。僕的にはその『戸惑い』が最高に面白いです。ドSになった気分でした」と撮影をふり返る。そして「斎藤工くんのエチュードはあまり喋らないけど、エチュード力が高くて素晴らしかった。ぽつっと言う一言のワードセンスが素晴らしかった。小川紗良ちゃんは笑ってたね(笑)」と明かし、「現場で僕の好きな映画のタイトルとかをできるだけ横から入れて、エチュードで役者さんたちにやってもらおうと思ってました。『ゼロ・グラビティ』『羊たちの沈黙』『パプリカ』『オーメン』『エクソシスト』『椿三十郎』『ブレードランナー』『メイズ・ランナー』などなど。『デ・パルマ・カット』とかも言ってもらいましたね(笑)」と話している。なお、11月6日(金)にはテアトル新宿、7日(土)にはシネ・リーブル梅田にて舞台挨拶が行われることも決定した。『ビューティフルドリーマー』は11月6日(金)より全国にて順次公開。(cinemacafe.net)■関連作品:ビューティフル・ドリーマー 2020年11月6日よりテアトル新宿、シネ・リーブル池袋ほか全国にて順次公開(C) 2020 映画「ビューティフルドリーマー」製作委員会
2020年10月23日Twitterやnoteで子育てに関する『気付き』を発信している、保育者のきしもとたかひろさん。連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』では、子育てにまつわる悩みや子供の温かいエピソードなど、親や保育者をはじめ多くの人の心を癒します。保育の授業である質問をされた、きしもとさん。これを読んでいるあなたにとって『子供』とはなんですか?第9回『ちょっとずつやさしくて、ちょっとずつかなしい。』「子ども」を一言であらわすとなんという言葉を思い浮かべますか?保育の授業でそんな質問をされた。はしの席から一人ずつ「かわいい」とか「純粋」とか答えている中で、ある男が「邪悪」と答えた。その言葉は一際目立っていて、ぼくは「たしかに子どもには邪悪な一面もあるかもしれないな、おもしろい視点だなあ」と感心していた。一方、教壇でその質問をした先生は憤怒していた。憤怒なんて言葉を初めて使ったけれど、大げさではなく噴火する勢いで声を荒げて怒っていた。「子どもに悪の心なんてありません!」と。その男の言葉が宙ぶらりんになっていた。なんで「邪悪」と言ったのか、どんな想いや考えがあるのか聞こうとしないその姿勢はいかがなものかと思ったが、必要以上に怒られている当の本人は言い返すことはなく「そんな変なこと言った?」と困惑していた。どこかに隠れてしまったその男の本心を知りたくて、授業が終わってからどういう意味でその言葉を使ったのかを尋ねた。「子どもって悪気なく嫌なこととかするやん?人叩いたり悪口言ったりさ」と、いまだ怒られたことに納得しない表情で話してくれた。「それ、無邪気ちゃうん」と尋ねると「あ、それやわ!」と合点がいったようだった。まわりが子どものキラキラしている姿ばかりを言っている中でその視点を提起したのは素晴らしいなという尊敬の気持ちと、どんな言い間違いしてんねんアホやなという気持ちが入り混じり、「じぶん邪悪やな」と返すと、どう受け取ったかわからないけれど「ほんまや、邪悪やわー」と笑っていた。子どもの言葉と向き合うときに「子どもの言動をどこまで注意したらいいかわからない」という相談を受けることがある。小学生にもなると、どこで覚えたのか耳を塞ぎたくなるような暴言を、たとえば「しね」とか「ころすぞ」とか言うような言葉を軽はずみに使うようになる。そんな言葉を子どもから聞くと、ヒヤリとする。純粋無垢だったはずのその子が、悪に染まっていくようで不安になる。純粋なまま育ってほしい一心でその言葉を禁止したり、その言葉を使ったその子を咎めたりしてしまうけれど、子どもが本当に殺意を持ってその言葉を使っているのかと言えばきっと大体がそうではない。「きらい!」であるとか「むかつく!」であるとか、関西人の使う「あほか!」くらいの軽いノリの時もあるのかもしれない。どこで覚えたのかと書いたけれど、思い当たる節はいくつもある。テレビやネット動画だけでなく、日常で大人も使っていたりする。それこそ軽いノリで。自分の思いを言葉にしようとしたというよりは、まだ語彙の少ない中で相手を攻撃したり、自分のイライラする感情を表す言葉として、どこかで見聞きしたその乱暴な言葉を使うこともあるだろう。ぼくはそんなとき、自分が嫌だなって思ったことなら、それをそのまま伝えるようにしている。子どもの育ちのために、とか躾のためにとかは考えず、ひとりの人としてどう感じたかをそのまま伝える。言われたことが嫌だったなら、「傷ついたよ」と伝えればいい。誰かを傷つけるようなことをしていたら「見ていて気分が悪いよ」と自分の気持ちを話せばいい。必要以上に断罪はしない。表現の方法を間違えているだけだから、その言葉を肯定はしなくても否定もしない。否定したり禁止するということは、その子の感情に蓋をするということかもしれないからね。整理できない思いがあるのならそれを使わないようにするのではなく、その思いを表す言葉を知ることや、その感情との向き合い方を知ることの方が必要だろう。あわせて、その言葉の本心を理解しようとしてくれる存在と、受け止めてもらう経験も。それでもやっぱり根っこの感情が本当に「殺したい」のであれば「死ね」という言葉で正しいんだろうし、もしそうならば、その言葉を他人が否定することはできない。僕たち大人も自分の思いや感情を普段からちゃんと言葉にしているだろうか。そう考えたら、できていることの方が少ない気がする。「仕事いきたくなーい」ってよくいうけど、みんなは言わないかもしれないけど僕は言うんだけど、本当に仕事に行きたくないかといえば実はそうではなく「もうちょっとゆっくり寝たーい」とか「のんびり映画見てすごしたーい」とかだったりする。「細かい雑務がめんどくさーい」とか「あの上司と顔合わせたくなーい」とかかもしれないし、言葉にできなくてなんとなく言っていることだってきっとある。その感情をそのまま言葉にするのって実は難しくって、複雑に絡み合った感情を何か言葉にしたくて目の前のことにそのまま表出したりする。自分の感情をうまく言葉にできないだけでなく、自分の感情自体を正確に理解することもままならないときもある。子どもに「あっちいって!」とか「きらい!」とか「死ね!」と理不尽に言われたときに、本当はチクっと傷ついているのに、どうしてか怒ってしまったり。そもそも、感情を正確に言葉にすることなんかできるのかな。なんだかルンルンしている気持ちを「楽しい」という言葉にするから「楽しい」になる。そもそもルンルンってなんの音かわからないけれど、楽しいという言葉よりもルンルンの方が伝わることもあるかもしれない。もやもやしている気持ちを「悔しい」とか「むかつく」とかいう言葉にするからその感情が形になる。どの言葉にするのか適切な言葉をまだ知らないから、その感情からまっすぐ「死ね」とか「きらい」いう過激な言葉になるんじゃないか。その「死ね」や「きらい」は、「悲しい」かもしれないし「寂しい」かも「痛い」かも「虚しい」かもしれないし、「もやもや」とか「いらいら」とかかもしれないし、この世界の言葉にはない感情なのかもしれない。そんなときに、あなたはそんなこと言う子じゃないって言われたら、そんな思いを持つことはいけないことだって否定されてその思いに蓋をされたら、ぎゅーっと苦しくなる。それはきっと大人も同じだ。たとえばなにかお願い事をされたときにも、大人だから付き合ってあげないとって思わなくても、自分がそれをしたくないのなら断ってもいいのだ。ぼくは仕事だから子どもにお願いされたらよほど無理なことじゃなければ断らないようにしているけれど、仕事じゃないならその断る理由が「疲れた」とか「めんどくさい」でも悪いことではないと思う。ただ、そのときに「断られることも覚えないと」だとか「思い通りにいかないときの折り合いの付け方を学ぶ」とか、その子の育ちのためになりそうな理由を探しそうになるんだけれど、それは必要はない。むしろ、「相手のため」という言い訳は本質を隠すし、本心でもない。自分を守るために相手を引き合いに出す必要はない。相手のためではなく、自分のために自分を守ればいい。「いまは私が使っているから貸したくない」「疲れているから応えられない」ときちんと伝えればいい。「それはやめてね」「傷つくからね」そうやって伝えるだけでいいんだと思う。それでその子のなにかが育つとか考えるのは少し傲慢なんだ。意見の表明をして相手はそれを受け止めた。できる限り自分の本心に近い部分を伝えて、できる限り相手の本心に近い部分を受け取る努力をした。ただそのやりとりが人と人との関係なんだと思う。優しい人だねと言われたら、「そうなのかな」と思うと同時に、期待に応えようと思う。強い人だねと言われたら、弱音を吐いてはいけないような気がする。本が好きだもんね、勉強好きだもんね、優しいもんね、子どもが好きだもんね。その言葉に励まされることもあるし、道を踏み外しそうになるのを踏みとどまらせてくれることもある。けれど、その言葉が呪いとなることもきっとあるんだろう。期待に応えたいという思いとあわせて「そうある自分に価値がある」と思ってしまっていたりもする。言いかえればそれは、期待を裏切らないように、価値がないと思われないように、ということ。自分の役割に徹していると、自分の気持ちが疎かになる。そんな自分の気持ちをなおざりにしていることに気づいていなかったりもする。大人だから、子どもの言うことには傷ついたりしない。親だから、めんどくさいこともきちんとやる。長男だから下の子に優しくする。上司だから、部下だから…それぞれの立場でそれぞれの役割を演じるために、ときに頑張りすぎたりする。それってやっぱりしんどい。だから、優しくない自分もいて良いんじゃないかな。頑張れない自分も、意地悪な自分も、ネガティブな自分も、期待を裏切る自分も。「相手はどんな言葉を望んでいるんだろう」それを考えることはきっと優しさなんだけれど、本当の思いを伝えることでお互いが救われることもきっとある。それは、自分を大切にするということでも、相手を大切にすると言うことでもあるよね。子どもも同じだ。ぼくたちが抱く「子どもは純粋であってほしい」とか「子どもに邪悪なところなんてない」という期待が、子どもも大人もおいつめてしまう。自分にどんな役割があったとしても、自分がしたくないことやできないことは「したくない」と言っていい。それは、自分もひとりの人間であるという、自分が自分であるということ。命を危険に晒すとか突き放すのでなければ、相手を故意に傷つけたりするのでなければ、大人も子どもも一人の人間だ。子どもに対してだけでなく家族にでも友人にでも職場でもそうなんだと思う。当たり前にそれを我慢する必要はない。そんなこと言ったらできる人にしわ寄せがいくとか、みんなわがままになってしまう、と言われるかもしれない。「それはしたくないな、嫌だな」と思っても、それを伝えても、結局はやらなきゃいけないことはある。けど、だからって黙ってなきゃいけないとは思わない。部屋の掃除をしたくないし、洗い物がめんどくさい。だからって「掃除めんどくさーい!やりたくなーい!」と言っちゃダメかといえばそんなことないはずなんだよ。いい大人なんだから掃除するの当たり前でしょう。文句なんか言わずにやれよ。なんて言わないでほしいし、自分が自分をそうやって追い込むのももうやめたい。「めんどくさいよね、明日にしよっか」「まあでもやろっか」「だれかにたのもっか」でいいんじゃないかな。絶対に手を抜けない消毒とかもさ、やるのが当たり前でしょうではなく「めんどくさいよね、けどやらなきゃね」って自分で自分を慰めながらやってる。伝えることって立場によってはとても勇気のいることだから、言えないことが悪いことだということではなくて、自分を大切にするために、自分を追い込む必要なんてないってこと。近しい人に話したり、帰って独り言でも、SNSに吐いてもいい。「ほんとは嫌だったんだよね」「悲しかったんだよね」「むかつくんだよね」とほんとの気持ちを言葉にするだけで、自分の気持ちを大切にできるような気がする。その言葉が少し乱暴でもいいのかもしれない。もしかしたら相手も自分の感情を正確に言葉にはできていなくて、悲しませるつもりはなくて、まっすぐ正確に言葉にすれば関係が良くなることだってきっとあるんだろう。もちろんそんな簡単なことではなくて悪化することだってあるけどね。自分が誰かのその心の言葉を聞いたときに、「なら代わりにぼくがやりますね」って言うかもしれないし、「キツイですよね」って共感するだけかもしれない。けれど「あなたはこうなんだから」「あなたの役割なんだから」「あなたが言ったんだから」って、その思い自体を批判して突き放さなしたりしないように気をつけていたいなと思う。自分の思いや価値観は、人を叩くためのものではなく自分を守るためのものだ。そうやって考えるだけで、少なくとも自分の言葉で誰かが傷つくことはあっても攻撃するという事は減るのかもしれない。僕の文章も、誰かの心に突き刺さる言葉としてではなく、そこらに生えている草花を眺めるような、たまに気になったら摘むような、そんな感覚で読んでもらえていたら嬉しいなと思う。余談ですが子どものころ、たまに会いに来てくれるじいちゃんは、いつもアンパンを買ってきた。ぼくの2つ上の兄の好物だったからだ。じいちゃんがアンパンを買ってくるたびに、ぼくの中でアンパン好きの兄ちゃんというイメージが確立されていき、兄のなかでも「自分はアンパンが好きだ」という意識が強化されているようだった。兄の喜ぶ姿を見てじいちゃんは「やっぱり好きなんだな」と満足げにまたアンパンを買ってきた。そのままいけば相当なアンパン好きになるんだろうと期待できたが、意外にもそうはならなかった。ある日当たり前のようにアンパンを取ってあげたら、「おれ、あんまりアンパン好きちゃうかも」と遠慮気味に兄は言ったのだ。「自分は本当にアンパンが好きなのか、君はアンパンが好きだねと周りに言われるからそんな気がしていたのか、本当は好きじゃないんじゃないか」そんな葛藤があったかは知らない。自分が本当に好きなのはアンパンではなくアンパンが好きな自分なんじゃないかなんて悩む姿を想像すると微笑ましいけれど、当時の幼いぼくはなにか不安な気持ちになった。たしかに好きだったはずなのに飽きてしまったんだろうか、もともと好きじゃなかったんだろうか、じいちゃんはどんな気持ちになるんだろうかと、誰も悪くないのに、寂しいような切ないような言葉にできない気持ちになっていた。その事実がじいちゃんの耳に入ったのかはわからない。そのあとじいちゃんが変わらずアンパンを買ってきていたか、買ってこなくなったのかも覚えてないくらい曖昧な記憶だ。けれどたまに、嬉しそうにアンパンを買ってきたじいちゃんと、突如アンパンに別れを告げた兄を思い出す。みんなが優しいのになぜか悲しい。なんだか少し切ないけれど、誰かひとりがしんどいではなく、みんなが優しいからみんなが少しずつ悲しいのなら、そのほうがいいのかもしれない。きしもとさんの記事やこれまでの連載コラムはこちら[文・構成/きしもとたかひろ]きしもとたかひろ兵庫県在住の保育者。保育論や保育業界の改善について実践・研究し、文章と絵で解説。Twitterやnoteに投稿している。⇒きしもとたかひろnote⇒きしもとたかひろTwitter
2020年09月13日一年中、葉を絶やすことのないローリエはギリシャ神話に登場するアポロンが冠として身に着けたとされることでも有名です。青々とした艶やかな葉を広げる姿は、栄光や勝利のシンボルとしてまた幸運のモチーフとして今でも愛され続けています。ショーメの「ローリエ」コレクションは、揺れ動くような葉のモチーフをダイナミックに表現し、エレガントでプレシャスなジュエリーに仕上げています。「ローリエ」コレクション ヘッドバンド WG,ダイヤモンド 524万円(税抜)8月に登場した新作では、モチーフを横に細く連ねることにより、華奢で繊細な印象を生み出しています。ヘッドバンドは改まった場面から、カジュアルなパーティーシーンまで幅広く楽しむことができるモダンな雰囲気が魅力です。そろいのブレスレットとコーディネートすれば、更にフォーマルな装いに。幸運のモチーフを身に着けた貴方に熱い視線が集まります。「ローリエ」コレクション ブレスレット WG,ダイヤモンド 482万円(税抜)ヘッドバンドを着用した アンナ・アンドレス@GermanLarkinヘッドバンドを着用した アンナ・アンドレス@GermanLarkinWEBサイト : : : :@chaumetofficialハッシュタグ:#ショーメ #chaumet @chaumetofficial企業プレスリリース詳細へ本記事に掲載しているプレスリリースは、株式会社PR TIMESから提供を受けた企業等のプレスリリースを原文のまま掲載しています。FASHION HEADLINEが、掲載している製品やサービスを推奨したり、プレスリリースの内容を保証したりするものではございません。掲載内容に関するお問い合わせは、株式会社PR TIMES()まで直接ご連絡ください。
2020年08月10日社会問題となって久しい食品ロス。実はとっても身近な問題ですね。セロリの茎はもちろんよく使われますが、葉の部分は破棄してしまっている方も多いのはないでしょうか。しかし、セロリの葉には、茎の部分より約2倍もβカロテンや食物繊維が含まれているのです!今回ご紹介する「セロリの葉とソーセージ炒め」は、残りがちなセロリの葉を、ソーセージと一緒に炒めるだけのスピードメニュー。味付けも塩胡椒のみでとっても簡単!食品を余らせることなく使い切ることで、エコにも節約にもつながります。今晩のおかずに迷ったら、セロリの葉っぱを美味しく活用した「セロリの葉とソーセージ炒め」是非作ってみてくださいね。■セロリの葉とソーセージ炒め調理時間 5分レシピ制作:西村 秋保<材料 2人分>セロリ(葉) 40~50gソーセージ 1~2本オリーブ油 適量塩コショウ 少々<下準備>・セロリの葉はザク切りにする。・ソーセージは斜め薄切りにする。<作り方>1、強めの中火で熱したフライパンにオリーブ油を入れ、全ての材料を入れて炒め、塩コショウで味を調える。セロリの葉をざく切りにして、塩胡椒で炒めるだけの「セロリの葉とソーセージ炒め」は、セロリの爽やかな香りがクセになる美味しさです。おかず作りに困ったときやお弁当のおかずにもオススメの一品ですよ。E・レシピで作り方をもう一度チェック↓
2020年06月24日三代目 J SOUL BROTHERSの今市隆二と登坂広臣による2本立てドームツアー『LDH PERFECT YEAR 2020 SPECIAL SHOWCASE RYUJI IMAICHI / HIROOMI TOSAKA』の映像が14日より3週連続でYouTubeプレミア公開される。同映像の公開は7月1日に『LDH PERFECT YEAR 2020 SPECIAL SHOWCASE RYUJI IMAICHI / HIROOMI TOSAKA』DVD&Blu-ray Discが発売されることを記念したもの。ツアーはグループとして何度も立ってきたドームのステージに初めてソロとして降り立った今市と登坂による2本立てのライブとなっており、3都市9公演25万7000人を動員した合同ドームツアーとなっている。第1弾「LDH PERFECT YEAR 2020 SPECIAL SHOWCASE RYUJI IMAICHI "EXCLUSIVE SELECTION"」は、20時30分より公開。今市がセレクトした楽曲をフルサイズで視聴できる。第2弾「LDH PERFECT YEAR 2020 SPECIAL SHOWCASE HIROOMI TOSAKA "EXCLUSIVE SELECTION"」は21日20時30分より公開し、登坂がセレクトした楽曲をフルサイズで視聴できる。また第3弾「LDH PERFECT YEAR 2020 SPECIAL SHOWCASE RYUJI IMAICHI / HIROOMI TOSAKA "FULL PERFORMANCE DIGEST」は28日20時30分からの公開となる。
2020年06月11日今市隆二と登坂広臣による豪華2本立てドームツアー『LDH PERFECT YEAR 2020 SPECIAL SHOWCASE RYUJI IMAICHI / HIROOMI TOSAKA』のDVD&Blu-rayの発売を記念し、最新ドーム公演の映像がYouTubeにて、6月14日(日)から3週連続でプレミア公開される。『LDH PERFECT YEAR 2020 SPECIAL SHOWCASE RYUJI IMAICHI / HIROOMI TOSAKA』は、グループとして何度も立ってきたドームのステージに初めてソロとして降り立った今市隆二と登坂広臣による豪華2本立てのライブ。3都市9公演25万7000人を動員した合同ドームツアーの映像はファン必見となっている。【第1弾】LDH PERFECT YEAR 2020 SPECIAL SHOWCASE RYUJI IMAICHI "EXCLUSIVE SELECTION"配信日時:2020年6月14日(日)20:30〜※今市隆二がセレクトした楽曲をフルサイズで視聴可能【第2弾】LDH PERFECT YEAR 2020 SPECIAL SHOWCASE HIROOMI TOSAKA "EXCLUSIVE SELECTION"配信日時:2020年6月21日(日)20:30〜※登坂広臣がセレクトした楽曲をフルサイズで使用可能【第3弾】LDH PERFECT YEAR 2020 SPECIAL SHOWCASE RYUJI IMAICHI / HIROOMI TOSAKA "FULL PERFORMANCE DIGEST"配信日時:2020年6月28日(日)20:30〜
2020年06月11日