『汽笛』で2000年おはなしエンジェル子ども創作コンクール優秀賞。2001年『レインボーロードスーパーバトル』で第4回日本自費出版文化賞入選。2013年第3回ツイッター小説大賞佳作。同年『ゴオルデンフィッシュ』(文芸社)出版。2014年よりエキサイト他にてコラムライター、DJ.BARU名義でラッパーとしても活動中。
ライヴ会場から出た直後は止んでいたけど、外ではまだ少し雨が降っているようだ。 23時半。駅構内の柱にずっと寄り添っている。こんなところにいても仕方ないのはわかってる。ただ、人の流れの中でオロオロしてたら吐きそうになって。ちょっと休憩。 でも、このまま帰れなかったら野宿になるかもしれない。大都会でハタチの女が一人で。いまごろコモリとかが、かばんを忘れた私のことを探してくれてるだろうか。 どちらにしても、交番に駆け込むべきだろう。でも、交番すらわからない。まだ会社帰りの人が多い。もう少し人の数が減ったら探しにいけるかもしれない。つまり、終電が無くなってからということになるんだけど。 そのとき、数人の男たちがこちらに近づいてきた。金髪頭、ヤンキースのキャップ、スキンヘッド。ジーンズのポケットに手をつっこみ、明らかにガラが悪そうな感じで。 「ねぇ彼女、誰かと待ち合わせ? それともナンパ待ち?」 一人が声をかけてきた。怯えながらも返事をする。 「ち、ちがいます。帰るつもりが、カバンを忘れてきちゃって…ライヴ会場に。でも、戻る道わかんないし」 「へぇ、そりゃ大変だ。会場の名前わかる? 探してやるよ」 地獄に仏か、と思った。けれど数十秒後に裏切られた。 「でも、まずは俺たちと一緒に飲もうよ。それから探すでも遅くないだろ」 「え、でも終電が…」 「いいじゃん、たまには終電も逃しちゃおう。せっかくのアンラッキーを俺たちとラッキーに変えよう。カバン忘れたのだって、きっと俺らと仲良くしてろって言う神の意志なんだよ」 意味不明なことを言われ、腕を捕まれる。痛い、と思うくらい強く。逃げられないように。「ちょっ…離してくださっ…」叫ぼうかとするけど、震えて声が出ない。誰か、助け…。 「お、おい…俺の、彼女に…なにしてんだ、よ…」 聞き覚えのある、潰れたテナーボイス。 「カ、カズヤ?」 「えっ…おぉ、なんだよ、彼氏持ちかよ…行こうぜ」 私から手を離し、あっさり離れていくチンピラたち。声をかけてくれた男性を見る。長い髪、ギターケース、ステージで着てたのと同じ服装…。 そして、急にへなへなっと地面に崩れ落ちる様子。 「ふあ、ビビった…」 このヘタレっぽくて残念な感じ…やっぱり、カズヤだ。 「探したぞ…カバン置き忘れてるって聞いて、慌てて…」 と、差し出す。ごてごてムダな荷物の入ったカバン。重かっただろうに。 「私のこと、よく見つけられたね」 「…そりゃ、俺、目がいいから。1キロくらい離れてたって見つけられるさ…ハハッ」 ヘタレながらも、必死に取り繕ってバカみたいなこと言ってる。しょうがない人。だけど、ちゃんと私のこと助けてくれた。 手を差し出す。カズヤはそれをまじまじと見つめ、握り返して立ち上がる。暖かい手。急に、視界がゆがむ。ヤバイ。そう思って、カズヤを抱きしめる。 「わっ、ちょ…」 戸惑いながらも、でも彼はちゃんと私の背中に手を回してくれる。暖かい。いい匂いがする。ずいぶん嗅いでなかった、だいすきな香り。 「やっぱり、嫌いになれない」 悔しいけど、そう言う。言っていいんだと思う。だって事実だから。なんてワガママな発言なんだろう。数時間前、ムリって言ったくせに。テキトー。私ってばすごいテキトー。カズヤに文句言う資格ない。 「俺も…イズミのこと好きだよ。イズミが俺の顔覚えてくれなくったっていい。マジで、気にしてないから! イズミが俺のこと見失っても、俺は絶対見失わない。一生、絶対見失わない!」 「カズヤ」 ぷっ。 「おっ…ちょ、今、何で吹き出した!?」 「だって、セリフ、クサすぎ。"絶対"とか使いすぎ。嘘ばっかり」 「う、嘘じゃねぇよ! 俺が"絶対"って言ったら、それはゼッッッタイで…」 「もう、わかったよ」 涙をふいて。もう一回カズヤと向き合って。 チュッ。 唇と唇を重ねる。 東京の夜がふけていく。周りの人々は、私たちのことなんて見てないだろう。見てくれてなくていい。「バカップル」とか思うなら、すぐに目を逸らしてほしい。 ただ、恥ずかしながら、私とカズヤは出会ってしまった。ここ東京で。これから二人、カズヤが言うように一生いっしょかなんてわからない。まだまだ、幼いカップルだけど、必死に生きている。ダメ女なりに。バカ男なりに。 「カズヤ、ところで終電は?」 「あ…」 0時近く。もう今から鎌倉なんて帰れない。 「しょうがないな、じゃあ――」 私の家に。そう言い掛けて、詰まる。部屋、散らかし放題だ。 「ネカフェ、行こうか」 「お、おぅ…」 やっぱり、ロマンチックじゃない。でも、それが私たちらしいんだろう。 外の雨はいつの間にか止んでいた。一部雨雲が退いた隙間から、星が見えている。強く、明るい二つの星が、まるで私たちを見守るように光っていた。 (おわり) 【恋愛小説『彼氏の顔が覚えられません』】 目次ページはこちら
2015年09月17日いつかの夢の中に、ユイがでてきた。 「黙って学校辞めてゴメン。なんか親にバレちゃってさ。大学行ってんのに勉強もしないで男遊びしてるって。そんなことのために行かせたんじゃない、もう授業料は出さん! さっさと就職しろ! ってね」 そうだったの、と納得した。事実はどうか知らない。それだったらよかったな、と思っていただけかもしれない。 「なんでLINEブロックしたの」 「深い意味は無いよ。もう会うこともないのかなぁって思ったら、ね…ネットだけで人間関係保ち続けたいと思わないし。それに余計なこと言いそうじゃん。大学通えてうらやましいなぁとか。イズミ、気をつかっちゃうでしょ」 「そうかも」 そう、笑って返す。笑い方なんて現実には知らないクセに。 「あ、それより聞きたいことがあってさ」 前に、途中で切れた話をする。恋愛初心者だからって、ユイが私に教えようとしてくれていたこと。 「あぁ、あれ。よく覚えてたね。忘れていいよ」 「えっ」 「だから、あの話の続きなんて、ないんだってば。恋がどっちに転ぶかなんて、人に決められるような問題じゃない。自分で解決しかないから」 「そんな、無責任な…」 「無責任よ。恋愛で、第三者は常にそう。その言葉に振り回されちゃいけないの。イズミはどうしたい? 答えは、もう出てるんでしょ」 ユイの言葉に、私はまだ首をかしげている。答えなんて、そんなのわかんない。わかんないけど、それでも出さなきゃいけない。 「…じゃ、行くね」 と、ユイは私の元を離れる。あ、待って…その言葉は、ユイには届かない。どんどん離れ、光となって消える。 「ありがとう。元気で」 呟くように、そう言うしかない。私も無責任だ。ほんとにいま、ユイが元気なのかどうかわからない。ひょっとしたら、ユイはもう…。 ううん、そんな可能性は考えなくていい。いずれわかるときがきても、こなくても。今はユイと巡り会い、お互い語り合った、ほんのちょっとの間の関係を大切に思えばいい。そこに意味はある。 きっとそれだけでも、私たちにとっては運命的なできごとだったんだ。 *** 東京の街で迷子になることはない、と上京して3日目ぐらいに思った。駅はそこらじゅうにあるし、路線図をたどればどこへでもたどりつける。 もちろん駅から出た後の目的地へは自分の足でなんとかしなければならないけど、少なくとも家へ帰れなくなることはない。 走って、走って、やがてたどりつく。新宿駅。出口がたくさんありすぎて都民でもよく迷うと言われている。東口・西口・南口・東南口…JRだけでもたくさん。帰るときは逆だ。どこからでも入れて便利に思える。 もし帰るとき、道がわからなくなっても大丈夫、駅に着ければ安心とタカをくくっていた。 甘かった。改札の前で、Suicaが無いのに気づいた。それどころか、財布も、ケータイも。かばんごと、ライヴ会場に置いてきてしまった。バカ、なにやってんだ私…ひとりで飛び出してきたりするから。 だけどそうせざるを得なかった。カズヤがせっかく2度目の告白をしてくれたのに断ったのは、大事なセリフを噛んだからじゃない。必死の演奏が痛々しすぎたからでもない。ただ、気づいたからだ。 やっぱり、私には人を恋する資格がないんだって。あんなに目の前にいたのに。それでもわからなかったから。 カズヤなんだって思っても、ぜんぜん実感がもてなかった。今まで付き合ってきた恋人のような親しみをまるで感じなかった。覚えてないから。彼の顔を、ぜんぜん。 そんな思いをするなら。また彼を見失うくらいなら、もう彼とは付き合わない方がいいって気づいたから。 時刻は22時。ジワジワと、心が都会の夜に負けそうになっている。 (つづく) 【恋愛小説『彼氏の顔が覚えられません』は、毎週木曜日配信】 目次ページはこちら
2015年09月10日女性は、怒りたいことがあるから怒るのではなく、怒りたいときがあるから怒るのだ。そういう話を聞いたことがある。誰から聞いたかは重要じゃない。ただ私の中ではそれが、真理として刻まれている。 どんな理不尽なことをされても、女性には耐える力がある。自分の感覚を無にし、怒りたい事象が過ぎ去るのを待つことができる。 ただ、あるとき、それまで耐えていたものが爆発する。それこそ理不尽な話かもしれない。理不尽な仕打ちを受けたならその分だけ、理不尽に怒りを吐き出してしまう。ときには、「生理」も言い訳にする。 スポットライトが赤に、青に、緑に、黄に。さまざまな色でステージ上の男性を照らす。それがカズヤなのか。相変わらず顔は覚えてないし、こう光が安定しないライヴ会場だと、そもそも顔なんか判別できなくて当然だろう。 ただ、「イズミ! 聴いてくれ! 俺がこの日のために用意したラブソングを!」そう叫んだのがカズヤの声だったのは間違いない。 逃げようとしたのに。まるで観客全員がグルみたいにどんどんステージの直前まで押し出されて。ツバが飛ぶくらいの近い距離で歌っているのは、「怒りたい事象」だ。私のことを放ったらかしして、"ギター友達"のマナミなんかとずっと一緒に過ごして。 マナミに浮気したかどうかはわからない。その事実があってもなくても、これは怒っていい状況だ。私へのラブソングだなんて。ギターをかきならし、長い髪――ほんと気持ち悪いから切ってほしい――を振り回し、「歌う」と言うより「がなる」みたいなひどい声をマイクにのせて。 そんな必死な様子を見せつけられても、うれしくない。周りの観客は、意外にもどんどん惹きつけられるようにステージへ迫ってきて、飛び跳ねたり踊ったりしてるけど、私はすごくドン引きしちゃってる。 そんなことで私の心は取り戻せないんだから。またあのときみたいに、顔に水ぶっかけてやったときみたいに、今度は歌ってるあなたの鼻にグーパンチお見舞いしてやるんだから。 ただ、今はこの状況に耐えるとき。怒りたいときじゃない、できるかぎり不満そうな顔をして、ただ事象が過ぎ去るのを待っているだけなんだから。不満そうな顔の作り方なんて、わからないけれど。 曲が止み、スポットライトが白で止まる。照らされながら、がなり続けていたステージの男性は上を向いている。顔中から汗が噴き出している。シャツもびしょびしょだ。手は体の横に広げ、フォークギターは、肩からかけたストラップで宙ぶらりんの状態になっている。 子豚ちゃん――マナミの姿はない。男性がかぶっていたウサギの被り物も。いつの間にかステージ袖にはけてしまったようだ。空気を読んでのことだろうか。読まなくったっていいのに。 目の前の、ロン毛で、汗だくで、せっかくのテナーボイスさえがなり声で潰しちゃった男性――必死すぎてバランス崩壊しちゃった彼が、一度正面を向き、そして私を見下ろす。 しっかり目を合わせる。彼がカズヤだってわかってる。こんなどうしようもない男は、カズヤしかいない。彼が口を開く。 「イズミ、俺…」 そして、間を空ける。何を言おうとしているのか、またどんなバカな言葉が飛び出すのか。言わないで。いや、早く言って。ためらわれるのが一番困る。 「俺、おまえともう一度…」 早く。そこで止めないで。ちゃんと言って。 「く、くぉっ…恋がしたいんだ!」 バカ。 そこで盛大に噛むな。 ステージ上から、私に差し出される手。握り返せ、と言いたいんだろう。だけどそれを私は払いのける。 「ムリっ!!」 そう叫んで後ろを振り向き、周囲の客のを見渡す。瞬間、ピザカッターで切り分けたみたいに群れが左右に割れ、花道ができあがる。まっすぐ突き抜け、出口へ向かう。 「…先輩! ヤマナシ先輩、待って!」 コモリの声。待たない。会場の重い扉を力いっぱい開け、出てからまた思いっきり閉じる。外に飛び出す。走る。一心不乱に走る。 カズヤのことを忘れられるように。顔は最初から覚えてなかったけど、その声すら忘れられるように。においも、仕草も、ぜんぶ。存在自体を無かったことにできるように。 (つづく) 【恋愛小説『彼氏の顔が覚えられません』は、毎週木曜日配信】 目次ページはこちら
2015年09月02日きょうび、ネットには恋愛に関するさまざまなハウツー記事が毎日上がり続けている。「復縁」なんて言葉も、検索すればすぐ出てくる。わざわざ本屋の恋愛本コーナーで探すなど恥ずかしい思いをする必要もないし、しかも無料だ。 問題は、手軽で金がかからないからつい探しすぎてしまうこと。ある記事に「必勝法」として書いてあることが、ある記事では「絶対にやってはいけない」なんて紹介されていたりする。これじゃ正解がどれかわからない。 最終的に、どの記事にも書かれているようなありきたりな方法を選ぶしかなくなる。それは、「時間を空ける」。なにもせず、時期がくるのをただ待つということだ。時期とは? さあ、わからない。 正直、不安だ。その不安を打ち消すように、俺はひたすら楽器に打ち込もうと考えた。4月、5月。イズミのことを考えないよう、真剣に。が、無理だった。考えまいとすればするほどイズミへの想いが強くなる。 イズミはとっくに俺のことなんて忘れてしまっているかもしれない。俺は絶対無理だ。嫌いにでもならない限り。嫌いになろうとすればするほど、俺に水をぶっかけたイズミの表情が浮かぶ。 あんな顔、初めて見た。言い放ったセリフはクールだったのに、目を真っ赤にして涙をためていた。 なんだ、表情がつくれないわけじゃないんだ。つくるのがヘタだから、ときどき勘違いしてしまう。 イズミには感情が無いんじゃないか。本当は俺のこと、スキとも何とも思ってないんじゃないか。声をかけなければ、俺の存在すら認識してくれないから――。 「もうっ、いつまでウジってんの!!」 部室で一人ぼーっと考えていると、いきなり譜面で頭を思いっきりひっぱたかれた。マナミだ。 結局、軽音部に入部したマナミ。部内恋愛禁止のこの部へ身を置くことで、俺への恋心を完全に絶ったつもりらしい。 少なくとも、以前みたいな色仕掛けは使ってこない。代わりに、俺に対する暴力が後を絶たない。片思いの相手から、ただのサンドバックかよ…。 「6月、ライヴに出るわよ! 私と二人で。そこにイズミも呼ぶの。カズヤのホンキ見せて、もう一度アタックしなさいよ!」 ちょ、なんの前フリもナシかよ。 「なんで一緒に出なきゃなんねぇんだよ。お前と組んだら、またイズミに嫌われんじゃ…」 「逆でしょ。むしろ、ちゃんと組んでやるべきよ。なんたって私たち、ただの"ギター友達"なんだし」 それは俺が言ったセリフ…よく覚えてやがる。 「でもお前、ギター弾き始めたばっかじゃ…」 言い終わるより早く、マナミはフォークギターをかき鳴らす。ゆずの「夏色」のイントロを。そのときのドヤ顔…一瞬、殴ろうかと思いたくなるようなふてぶてしい表情だった。もう、俺より上手いじゃないか…。 「私、元コンバス奏者よ。見くびらないでよね」 同じ弦楽器だし…って、そんな問題か? まぁ、ワンマンは無理だろうが、フォークライヴのいちアーティストとして出場するくらいなら、可能性アリかも。 それに、イズミにもう一度アタックするためのホンキの見せ場なんて、もう音楽しか無いじゃないか。 こうして、俺とマナミによるギターコンビが誕生したのだった。その名は"178(イナバ)ライダー"。名前の由来? そんなもの…あるわけないだろ。 (つづく) 【恋愛小説『彼氏の顔が覚えられません』は、毎週木曜日配信】 目次ページはこちら
2015年08月27日男と女はなにをもって「恋人になった」というのが正解なんだろう。ネットで調べたりした。告白してから、デートして手をつないでから、キスしてから、体を重ねてから…etc.統計データもいろいろ出てきた。 よくよく考えたら、どれも正解と言えない。あくまでそれぞれの尺度でしかないんじゃないか。ただイズミと付き合い始めたのは、自分の尺度の中でも微妙な感じに思えたのは確かだ。 「きょうから、俺、タニムラカズヤと、ヤマナシイズミは、恋人同士。で、OK?」 去年の9月下旬ごろ。あんなにテキトーな告白の仕方をしたのは賭けだった。何せ、タナカ先輩による一世一代の公開告白すら簡単に断ったイズミだ。並大抵の告白の仕方じゃ無理だろうとは思っていた。 「でもあなた、“退学までもう秒読みらしいわよ”」 結果、「ギャグ」と受け取られてしまった。賭けに負けたと思ったが、諦めが悪い俺。ならばこちらも、と、ギャグのフリして頬にキスをお見舞いした。それをイズミは、嫌がらなかった。 ただ、受け入れてくれたんじゃなくて、何も動じなかったというだけかもしれない。クリスマスに唇を重ねたときも、顔を真っ赤にしながら、照れているような、怯えているような、そのどっちともとれない微妙な表情をしていた。 それは、嫌がっていると言ってもいいくらいだ。 何も色気のないネットカフェだもんな。ファーストキスはもっとロマンチックな場所がよかったに違いない。実際どうかは訊かなかったが。「嫌だ」と言われるのは怖かった。 俺がどんな顔をしているか、イズミはわからない。顔が覚えられないどころか、表情というものを読みとる能力すら欠如しているのだ。 だったら、俺だってイズミの顔色を気にする必要はない…なんて、イジワルなことを考えてしまう。本当は嫌がっているかもしれないのに、なにも動じないでいるイズミを、俺自身も見て見ぬフリしてしまった。 *** 3月にLINEで送ったデートの誘いを既読スルーされるぐらいは、まだよかった。もともとイズミの返事は遅い。いまどきスマホじゃなくて、折り畳み式のガラケーだし。 だが、4月。学校の食堂で再会し、水をぶっかけられたのはさすがに堪えた。もう完全に破局じゃないか。原因を作ったのは、その日、隣の席にいたマナミだ。 「あ、イズミ…!」 なんて、あろうことか俺らの存在を、そばに座っているイズミにわざとらしくアピールして。結果、顔から水を滴らせている俺と、びしゃびしゃになったカレーライスができあがった。 もともとマナミと一緒になんて食事してなかった。学校が再開して、一週間ぐらいはずっと一人で食べていた。 イズミは、食堂で俺とすれ違っても無視した。いや、気づかなかっただけなのだが。無視だったとしても、仕方ない。俺はそうされるだけのことをしでかしてきたのだ。 だが諦めの悪い俺は、イズミが座って飯を食う場所から椅子1個分空けて隣とか、正面から1個だけズレた前の席とか、いつも近くに座り、なんとか話しかけるタイミングを伺っていた。そんな折りの出来事だった。 まぁ、またこんな風にグズってるのが悪かったんだろうな…。マナミのやつ「おっ待たせー」なんて、何の前触れもなくやってきたかと思うと急に抱きついてきて…だれも待ってねぇよ! 「これで完全にひとりぼっちね。いい気味」 にたぁ、と笑うマナミ。なんて嫌な女なんだ…。 目の前にある、まったく食欲のわかない水浸しのカレーライスを、ヤケ食いしながらそう思った。 (つづく) 【恋愛小説『彼氏の顔が覚えられません』は、毎週木曜日配信】 目次ページはこちら
2015年08月20日カモメが飛ぶよりも高い位置から、きらめく夜の横浜を見下ろしている。恋人ではない、マナミと二人。 トイレから戻ったら言うべき言葉があったハズだった。けれど俺が声をかけるより早く、「大観覧車乗りたい」と言い張るマナミに従わざるを得なかった。 全長112.5メートル。そのてっぺんまでもうすぐだ。年頃の男女が乗って、そこですることと言えば…まさかな、と思いながら、なぜか俺の胸の鼓動は少しずつ高鳴りを始めている。 窓に顔を付け、「うわー、きれー」なんてさっきからはしゃいでいるマナミ。ふと、大人しく座っている俺を振り返って言った。 「ねぇ、タニムラくんの隣に座っていい?」 「えっ」 いいよ、とも、ダメだとも返事をしないうちに、マナミは俺の隣にどすっと腰を降ろす。瞬間、ぐらんとゴンドラが揺れる。 「ひっ」 悲鳴が漏れた。「ん?」と不思議そうな顔で俺を見ているマナミ。それで俺は感じる。この胸の高鳴りは…マナミと密室にふたりきりでいることが原因ではないのでは、と。ひょっとして、怖いのだろうか…この高さが。 「ねえ、タニムラく…ううん、カズヤ」 マナミが、俺の耳元でささやく。片方の手を、そっと俺の心臓のあたりに添えながら。 「キス、しよ」 ドクッ、ドクッ、ドクッ…心拍数が上がる。 「は? キス!? おま…なに言ってんだよ…」 「やだ…かわいい。取り乱しちゃって。体は、正直に求めてるクセに…」 恐らく俺の心拍数を確かめながら言っているのだろう。けど、違う。そうじゃないんだ――あ、一つ先の観覧車が、ほぼ同じ高さに…きた、頂上だ! 近づいてきたマナミの唇から、とっさに片方の掌で自分の唇をかばう。もう片方の手は、観覧車の手すりをぎゅっとつかんでいる。 「…なんで」 マナミが俺をにらみながら言う。俺の胸に添えられた手に、ぎゅっと力がこめられる。 「なんで…なんで!? 私、こんなにカズヤのこと想ってるのに…まだ、イズミのことがスキなの!?」 胸ぐらをつかまれ、体を揺さぶられる。それに合わせ、ゴンドラも揺れる。ちょうど、降下を始めようとしているところ。血の気がさぁっと引いていく…や、やめてくれ…。 しかし唇をふさぐ俺の手を引きはがそうとするマナミ。そんなに既成事実がつくりたいのか…揺れるゴンドラの恐怖に震えながらも、何とかそれだけは免れねばと抵抗を続ける。 と、急にマナミの手が止まる。「…もしかして、イヤだった…?」俺の目を見ながら。きっと、伝わってしまったのだろう。高さへの恐怖に怯える俺の気持ちが…。 「そんなに、私のことがイヤだったのね!」 …あ、そういう意味に――。 パンッ。 快い音がゴンドラ内に響く。やはり弁解する間もなかったが、したとしても無駄だったかもしれない。続いて彼女の足が伸び、俺のスネを蹴った。何度も何度も。手も、また出た。今度はグーで頬をなぐり、胸を殴り、腹をなぐった。女の力と言えるような打撃ではない、重みがあった。全体重をかけてきてるような。拍子に、俺の口の中も切れたようだ。 しかしその痛みよりも、暴行を加えられる度にゴンドラが揺れる恐怖の方が俺にはつらかった。もはや唇をかばう必要もない手も手すりに回し、じっとしがみついていた。 ゴンドラの回転が残り45°を残すのみになったころだろうか、マナミの攻撃は止んだ。俺にそっぽを向き、黙って下界を見下ろし続けていた。もうすぐ終わる。夢の時間が――いや、悪夢か。 ゴンドラが地上に帰ってきて扉が開いた瞬間、俺は外へ転がるようにして出た。続いてマナミも降りたが、その場にへたり込む俺には目もくれず、スタスタと通り過ぎていった。 観覧車のスタッフが俺の肩に触れ、「大丈夫ですか? 具合でも…」と声をかける。しかし俺が彼と目を合わすと、すべてを察してくれたようだ。 殴られて、腫れた頬を見て。 「あ…フラれちゃいましたか…」 …まぁ、そう見えるだろうな…と言うか、実際そうだ。 結局、マナミに言うべきことは言えなかったものの、気持ちはぜんぶ伝わってしまったようだ。結果オーライ。俺が、ダサイ姿になってしまったこともふくめて。 自業自得、ってやつか…。 口の中に広がる血の味は、ただただ苦かった。 (つづく) 【恋愛小説『彼氏の顔が覚えられません』は、毎週木曜日配信】 目次ページはこちら
2015年08月13日恋人のヤマナシイズミは、人の顔が覚えられない。それどころか、表情も読みとれないし、自分で表情を作ることもできない。いつも真顔で、何を考えているか。 「次からは、なるべくデート中も離れないようにしような」 ただ、俺と別の男を間違え、なんとなく落ち込んでいるように見えたとき。そう声をかけて見せてくれた、うれしそうなイズミの表情が、また可愛くてしょうがなかった。 いつもポーカーフェイスのイズミが、俺に対してだけ見せる表情がある。本人も気づいていないだろう。それを見るために、俺はイズミと、恋人になったのかもしれない。 *** けれど3月中頃の俺は、そんなイズミから逃げていた。過去の恋愛感情を告白してくれたマナミからも逃げていた。よこはまコスモワールドのトイレ。洗面台で、なんどもバシャバシャ顔を洗って。もう一度出直すために。 鏡に映る、どんよりした顔の男。誰だこいつ。こんなサイテーなのが俺か。俺なのか。パンッ、と両方の頬を叩く。痛い。痛いが、まだ足りない。相変わらずだらしない。もう一度、パンッ。 と、隣の洗面台の男性が、こっちをチラチラ見ている。あ、やべ、いまの俺、なんだか不審者みたいか…慌てて顔を向けて謝る。「すいません、うるさくて…」と、目が合って。 「おま…え、やっぱ、カズヤ!?」 「タナカ先輩!?」 大都会、学校以外の場所で知り合いに会うなんて、どんな確率だろう。今年に入って2度目だ。 「こんなところでお前…まさか、デート?」 「えと…これは、その…」 マズい。またイズミを放って、マナミなんかと一緒にいることがバレたら面倒だ。慌てて誤魔化す。 「先輩こそ、デートっすか?」 「あ、うん…俺は…その、カノジョできて、さ…」 か、カノジョ!? 早い!! 年末に別れたばかりって思ってたら…。 「誰すか、誰すか!? ちょっと水くさいじゃないっすか。教えてくださいよ! ささ、早くトイレ出て!!」 「わ、ちょ、押すな! 押すなよっ!!」 顔をふくのも忘れ、先輩とトイレの外に飛び出す。と、そこで、見たことある顔の女性に出くわし、ぎょっとする。 「あれ…タニムラくん!?」 「え、ちょ、先輩…!?」 また、だ。相手は軽音部の先輩。部内恋愛禁止が聞いて呆れる。 「た、頼む、カズヤ! このことは、他の部員にはナイショにしててくれっ…お願いだ!!」 「あ、ハイ。誰にも言いませんけど…」 逃げるように、俺の元から離れていく二人。その後ろ姿を見ながら、ボソッとつぶやく。 「自分たちでも、せいぜいバレないようにしろよ…まぁ、無理だろうけど」 年末に別れた女性も、結局バレたから破局したようなものだ。元・読者モデルだったとかで、何だかんだ女性ファンの多い先輩。部員の女子も、先輩のファンで入部したような輩がけっこういたりする。 そしてやつらは恐ろしいことに、誰か一人でも抜け駆けしようものなら総攻撃をしかける。タナカ先輩と破局させるどころか、退部にまで追いやる。 さっきの女性の先輩も、攻撃に耐えられそうなメンタルには思えない。集団の中で、迎合してしまうようなタイプだ。どんな手違いで先輩とデキてしまったのかは知らないが、4月中に別れるのは目に見えている。もっと我の強い女性じゃなきゃ、先輩とは長続きしない。 そんな女性、いるだろうか…ふと思い出せるのは、高校時代の後輩のコモリ。あれくらい高飛車なやつなら、ひょっとしたらうまくやっていけるかもしれない。ただこの時点では、コモリが今年、うちの大学に進学してくるかどうかもわかっていない。 …なんて、人の心配より、自分の心配だよな。 俺はしっかり顔をふき、マナミの元へ戻る。彼女に言うべきことがある。その内容は、もう決まっている。 (つづく) 【恋愛小説『彼氏の顔が覚えられません』は、毎週木曜日配信】 目次ページはこちら
2015年08月06日俺の恋人、ヤマナシイズミは人の顔が覚えられない。だから、二人でデートの最中にも人違いをやらかしたことがある。 服を見たいとか言って。イズミが入りたがる店は、高級店が多い。絶対買えないのに、見るの好きなんだな、というのはわかった。場違いなところに入るのは気が引けて、「30分くらいしたら店の前で落ち合おう」と言って一旦わかれ、戻ってきたら。 店の前で、イズミが別の男に話しかけてて。驚き、慌てて駆け寄って、「おい…誰だよお前」って。けれど男の方も、ポカンとした表情で。 「あ…君が、カズヤって人? いや、なんか間違えられちゃったみたいで…」 言われてイズミも、 「え? あ、す、すみません。服の色が、同じだったから」 服の色。確かに俺も、その場にいた男も、黒いシャツを着ていた。でも、顔見たらわかるんじゃないか? 見たところ、俺より鼻がデカく、目も大きい気がした。 けれど、現に間違えたのだから仕方ない。男には謝り、イズミは責めたてたりしなかった。「ごめんね」そう謝られたが、「いいよ。俺、B型だから気にしない」なんて。 本当はすごく気にしてた。こんなにずっとそばにいるのに。部活も長いこと一緒にやっていたのに、いまだに顔が覚えられないなんて。俺のことなんかずっと、眼中になかったんだな、と。 だが、俺がそんなモヤモヤを抱えて不満そうな顔しても、イズミには伝わらない。にらんでも、「どうしたの、そんなに見つめて?」と無表情で言う。まるで感情など持たないように、いつも真顔で。 シノザキマナミは、じつに感情豊かだ。笑うとえくぼができて愛らしい。不満なときも眉間にしわをいっぱい寄せ、タコみたいに口をとがらせる。一緒にいて、飽きない。 俺のワガママも聞いてくれる。3月後半、よこはまコスモワールドに二人で行ったときのこと。「あのジェットコースター乗ろうぜ」と言うと、「えー、ヤバそうあれ…」とスミでも吐きそうな顔になりながら、「じゃあ、クレープ3つおごってくれたら乗ってあげる」なんて。 イズミはぜったいそんなこと言わない。いつでも0か100。乗り気のときは、俺が嫌がってでも引っ張っていく。乗り気じゃないときは、何を言ってもダメ。ましてやクレープなんて、「あんな女子力のカタマリみたいなもの絶対食べない。キモチワルイ」とまで。 …どっちがいいのか。約束通りクレープ3つ買ったら、マナミは「これ、けっこう重い」なんて言いながら、1つ目も食べ切れなさそうにしている。 「うそつけ。昔だったら食えたんじゃないか」 「食べれなくなったの。ダイエット始めてから、甘いものが嫌いになっちゃって…」 「じゃあ最初からクレープなんか頼むなよ。しかも3つも。甘いもんの総本山じゃねぇかよ」 「う…久々に食べたくなったんだもん…だってせっかくのデートだから。タニムラくんとの…ううん、カズヤって呼んでいい?」 と。 …なんだこれ。何で、カノジョじゃない女と一緒にいて、楽しそうにしてるんだ俺。 「カ、カズヤってのは、ちょっと…」 我にかえって、そう言ってしまったとき。シノザキは、しゅん、と少し落ち込んだ表情を見せて、 「そ、そうだよね…お試し、お試しデートだもんね、これ…ごめんね」 誤魔化すように、てへっと笑って。女の子に、何やらせてんだ。こんな風に気を遣わせて、俺はどうしたいんだ。シノザキが好きなら、抱きしめてしまえばいい。ここで今すぐ。それとも、まだ言い張りたいのか。これは浮気じゃない、デートなんかじゃないって。 「ちょっと、トイレ行ってくる…すぐ戻る」 そう言って、また一人で逃げる。逃げるときはいつもトイレだ。汚い話だけど。「うん。いっトイレー」なんてまた、シノザキのつまんないセリフを聞きながら。 つまんないけど、寂しさを必死で紛らわそうとしてるような。そんな儚いセリフをずっしり背負いながら。俺はまた逃げる。 (つづく) 【恋愛小説『彼氏の顔が覚えられません』は、毎週木曜日配信】 目次ページはこちら
2015年07月30日バレンタイン直後、イズミからのチョコを受け取ろうとタナカ先輩のLINEに連絡すると、「ゴメン、騙せなかった」そんな返事がきて、ぎょっとした。 慌てて通話してみると、「無理だよ! ムリムリ! イズミちゃんの顔見た瞬間、騙せないって思った!」なんて声。しかも俺が部室に行けなかった理由も、俺がLINEで送った通り「デート」だったとバカ正直に伝えてしまったらしい。 サー…と血の気が引いていく。 「ちょ…じゃあ、なんで代役引き受けてくれたんスか!?」 「そ、それはだな…つまり…カズヤが他のバカに頼んでイズミちゃんを騙すぐらいなら、俺が引き受けようと…い、いや、ちがう…ちがうちがうっ。正直に言うよ。うん。最初から、イズミちゃんを騙す気なんてなかった。カズヤ裏切って、全部ぶちまけるつもりだった」 「はぁ!? ちょっ…嘘でしょ? 先輩、イズミに直接フラれて、もう未練ないハズでしょ? 俺とイズミの恋路、応援してくれるって言ってたじゃ…」 「うおおおおおおおおおおおおおおお!」 突然の大声に、思わずスマホを離す。20センチくらい離しても、先輩の怒鳴り声はクッキリ聞こえた。 「応援してた! 応援してたさ!! だからこそ、こうやって騙すなんて信じられなかったんだ…カズヤ、お前、サイテーだ! イズミちゃんとは破局してしまえ! それがイズミちゃんのためだ! じゃあなっ!!」 通話は、向こうから切れた。 これぐらい怒鳴られれば、タナカ先輩を恨む気持ちはさっぱりわいてこなかった。そうだ、サイテーなのは俺だ。最愛の人を、騙すような真似をしてしまうなんて。 1月、シノザキに言われたセリフが蘇った。「一回、イズミに全力で嫌われてみたらいいのに」 あのとき、「なんで嫌われなきゃならないんだ」なんて返しながら、その結果がこれとは…。 そしてこのとき、俺の部屋にイズミからもらう予定だったチョコはない。代わりにあるのは、マナミからの「義理チョコ」だ。 リボンをほどき、包みを開く。中から出てきたブラウニーは手作り。どこからどう見ても本命だ。 なんで受け取ってしまったのか。そして俺は、これを今からどうしようとしているのか。 バレンタイン当日、渋谷のスタジオでギターの練習をしながら、シノザキは俺に言った。 「ぜんぜん気づかなかったかもしれないけど、私、タニムラくんのことスキだったんだよ。高校のころから…でも、デブってどころじゃなかったし、牛乳瓶みたいなメガネしてたし…引っ込み事案だったし」 …高校時代の話だよな? まさか今の俺に告白だなんて、そんなことないよな――。 「イズミみたいなカワイイ子と一緒にいるとこずっと見てて、嫉妬してた…私がどんなにカワイくなったって、イズミには敵わない。だけどね、こないだ二人見てて、思った。すごくギクシャクしてる。あ、これひょっとしてタニムラくん、無理してるなって、すごくわかった」 そうして、渡されたチョコレート。 「いいの。義理だと思っていい。受け取ってよ。でも、もしそれ食べて、私の方がいいなって…いや、そんなおこがましいこと言わない。ラクだな、気軽に付き合えるかもな、って思ってくれたら…もう一回、もう一回だけ、デートしてくれるかな…」 俺の腕を両手でつかんで。――そして、あらぬことか、自分の胸元まで引き寄せて。腕に、やつの胸の柔らかい感触が少しだけ伝わった。あざとい、あざとすぎる! けれど、そんな単純な手に引っかかるほど愚かなのが、男なのだ。 実家の俺の部屋。ラジオからは、ゲスの極み乙女。の「餅ガール」が流れている。その曲を聞きながら、サビのメロディーが脳内にこびりついて離れなくなりながら…。 シノザキからもらったブラウニーを、食べた。 (つづく) 【恋愛小説『彼氏の顔が覚えられません』は、毎週木曜日配信】 目次ページはこちら
2015年07月23日いつか、ネットのニュースで読んだことがある。男性何名かにアンケートを取って、「ガリ痩せの女性」と「ポッチャリだけど巨乳の女性」のどっちがいいか答えてもらったところ、7~8割くらいが「ポッチャリ」を選んだそうだ。 思うに、これは聞き方に問題があるように思えてならない。「スレンダーで美乳の女性」と「デブな女性」だったら、似たような選択肢ではあるけれど、結果は完全に逆転していたことだろう。 「ガリ」と「スレンダー」、「デブ」と「ポッチャリ」というワードの違いもあるが、要は「乳」だ。このアンケートからわかるのは、男は女の乳しか見てないと、そういうことなのだ。 ――なんてことを、自分自身で痛感したのが2月14日。渋谷のせまいスタジオでシノザキと二人きりになったとき。イズミという愛しい恋人がいながら、俺は別の女の、ぴったりしたTシャツによって強調されたふくよかな胸に、男の性ゆえの妙な興奮を覚えていた。 「ほら、やっぱりタニムラ君も暑いのよ。顔真っ赤。上着脱いだら?」 なんて、少し前屈みの姿勢で上目遣いになりながら話しかけてくる。Tシャツの胸元から谷間が覗いている。冷静に考えたら、ただの脂肪。なんでこんなものに、ついつい見入ってしまうのだろう。 諸説聞いたことがある。男はマザコンだから、母親の乳を吸った幼少期の記憶が忘れられないからだと。だがそれを言うなら、女だって母乳で育つ。なぜ女はマザコンにならないのかの説明ができない。 今のところ俺の中で納得いっているのは、動物学的なセックスシンボルだからだという答えだ。雄のゴリラが、雌の大きな尻を見て興奮するようなもの。2足歩行の人間の場合は、なかなか尻まで目が届かない。その代わりとして、尻より目が届きやすい胸が大きく発達したと。 …だからといって、恋人でもない女の胸をジロジロ見ることの言い訳にはならないな。人間は社会的動物なのだ。理性でもって、なんとか抑えなきゃいけない。 「ちょっとトイレ行ってくる」 そう言ってギターを置いて立ち上がる。一度シノザキから離れて冷静になる必要がある。やつは「はーい、いっトイレー」なんてくだらないことを言いながら、ギターの練習に戻る。 用を足しながら、改めて考えてみる。シノザキの目的は何なのか。最初に近づいてきたときは確かに、「ギターを教えてほしい」だった。「それなら軽音部に入部すりゃあいいじゃないか」と言えば、 「部活はもう、高校のスイ部(吹奏楽部)で懲りたからさー。人間関係とかメンドくさいし」 と。理屈はわからんでもない。しかし、なぜ俺なのか。昔からの知り合いで声がかけやすかった? 俺の方は、高校時代からそんなに仲良くした覚えはないが。体型はともかく、名前すら忘れるくらいだ。 やつの方も、自分からは話しかけてこなかった。練習中に声をかけても、返事すらないことが多々あった。ぶっきらぼうなやつだなと思っていたが…。 結局、答えがでないままスタジオに戻る。ふと椅子の上に、プレゼントみたいな包みが置いてある。 「え…何これ…」 訊くと、 「何って…チョコレートだけど」 あっけらかんと、シノザキは答える。 え、えぇー…。 丁寧に、リボンまで巻かれて。どう見ても、「本命」と言うべき代物だった。 (つづく) 【恋愛小説『彼氏の顔が覚えられません』は、毎週木曜日配信】 目次ページはこちら
2015年07月16日女性は、なぜか記念日というものを大切にしたがる。クリスマスや正月だって、家族より恋人と一緒に過ごすのが最高だと考えているような節がある。 男は、わりとどうでもいい。そんなに特別な日を増やすことの意味がわからない。だってお前といれるだけで、常に特別だろ? …だなんて。そう言ってキャーキャー黄色い声が上がるのはイケメンだけだよな。俺みたいなチャラい男が言ってもキモがられるだけかもしれない。 そんな、ただでさえキモいチャラ男の俺が、見た目以上にサイテーなことをやらかしたのが2月14日。バレンタインだ。愛しい恋人に、桐谷美玲を100倍可愛くしたような(※個人の感想です、念のため)カノジョに「渡したいものがあるから」と呼び出されたのに、俺はまたシノザキなんかと一緒にいる。 念のため断っておくが、浮気なんかではない。いくら高校時代に比べ、痩せて可愛くなったと言っても、イズミをしのぐほどじゃない。やつがどうしてもギターを教えてほしいと言って、渋谷のスタジオまで勝手に予約してたものだから、どうにも行かないわけにはいかなくなったのだ。 「嘘ばっかり。言い訳つくって、また逃げてるんでしょ」 と、気づいたら俺の顔の隣にシノザキの顔があって、ギョッとする。近い、近いよ! しかも、なんだよ…マスカラ、カラコン、ぷるぷるのリップ。ギター弾くからさすがにネイルまではしてないが、メイクをバッチリキメてきている。完全に「デート」の格好じゃないか。 「断ろうと思えば断れたハズなのに、なんでまた来たのよ」 「…俺もこのスタジオでわりとお世話になってるのに、ドタキャンなんかしたら心証悪くするだろ」 「ふーん。カノジョとの約束より、スタジオのスタッフの心証の方が大事、ねぇ…やっぱりその程度なんだ」 あぁ…また、この女…。 「完全にイズミのことをないがしろにしたワケじゃないぞ。代理人を行かせてある。イズミがチョコ持ってくるかもしれないから、代わりに受け取っといて、って」 「えっ、代理人!? ちょっと…それでイズミが納得すると思ってる? 役所の届け出とかじゃないんだしさぁ…」 「まぁ、大丈夫だろ、きっと」 平気で言う俺を信じていないようなシノザキは、きっとイズミの病気のことを知らないんだろう。代理人には服を貸し、俺のフリをしてもらうよう依頼していた。顔の区別がつかないイズミを騙すのは心が痛むが、きっと乗り切れるハズだと思った。 …その代理人を引き受けてくれたタナカ先輩が、裏切りさえしなければ。この時点で、その可能性はまったく考えていなかった。 「ところでさ、このスタジオ、わりと暑くない?」 ふと、シノザキが言う。「そうか?」と返しながら空調の温度を見ると、21度。冬としてはふつうだ。 「もっと下げるか?」 振り返ってシノザキに言ったところ、またギョッとした。俺が尋ねるより前に、シノザキは服を脱いでいたのだ。パーカーを脱ぎ、セーターを脱ぎ、あっと言う間にTシャツ1枚に。 「…うん? なに?」 あっけらかんとした表情で俺を見つめるシノザキ。その一方、体にピタッと密着したシャツで強調されたやつの胸に、釘付けになってしまう俺。悲しい男の性ってやつだが…。 冷静に考えたら、せまいスタジオで、俺らいま二人っきりなんだな。 いくらテキトー人間とは言え、ことの重大さに気づくのが遅い男である。あまりにも遅すぎて、泣きそうだ。俺の中で、ムクムクと変な欲望がいまにも立ち上がろうとしていた――。 (つづく) 【恋愛小説『彼氏の顔が覚えられません』は、毎週木曜日配信】 目次ページはこちら
2015年07月09日俺の恋人、ヤマナシイズミは、人の顔が覚えられない。生まれつきそういう病気だ。だからきっと、俺のことが好きなのも顔じゃない。心で100%判断してくれてるんだと思う。 それは誇らしいことであると同時に、すごく後ろめたいことでもある。俺みたいなやつが付き合って、釣り合いが取れているのだろうか、と。 自慢じゃないが、彼女はモノスゴイ美人だ。芸能人で言えば、桐谷美玲ぐらい。いや、それをさらに100倍くらいかわいくした感じ…なんて言えば、世の桐谷美玲ファンが黙っていないだろうか。「世界で最も美しい顔100人」だからな。天文学的な数の敵に命を狙われることになる。 ともかくそれくらい美形の彼女に対し、俺の方はと言えば。 「まぁ、ブサイクとは言わない。それなりに整ってると思うよ。だけど、目も鋭くて、詐欺師みたいよね。渋谷のスクランブル交差点とかで女の子スカウトしてそうな感じがする」 今年の1月3日、そんな風に言ったのはシノザキマナミだ。俺との間柄は、スペイン語で同じクラスだという程度。前日たまたま浅草寺で居合わせて、声をかけられなければ一生話すこともなかったような関係…。 と、思っていたのに。 「でも高校のころ、タニムラくんのファンってけっこう多かったよ」 「は、マジで? って、いや、なんで高校のころの話知ってるの」 「え? 何でって…え? だって、高校いっしょじゃん、私たち…」 一瞬、意味がわからなかった。少しだけ頭を整理し、 「え、付属?」 「そう、付属高校。部活も一緒だった」 「…マジ? 吹奏楽? 楽器は」 「コンバスだよ、コントラバス。同じバスパート! いい加減思い出せコノヤロウ!」 顔面にベチョッとお手拭きを投げつけられる。うぅ…それでようやく思い出した。シノザキマナミ、たしかにそんな名前だった。 「シノザキって、そんなだったっけ…昔はメガネで、もっとこう、その、なんというか…」 「太ってた、って言いたいんでしょ? ダイエットしたの!」 えぇ…まだ少しポッチャリ感は残っているが、それでも記憶とはだいぶかけ離れていた。低い身長ながら横だけやたら広くて、ひょっとしたら100キロ超えてるんじゃないかと思うくらいだったのだ。 それに顔も、よくよく見るとイズミほどじゃないにしても整っている。ちょっと前に放送してた、マツコデラックスの痩せた姿が出てくるテレビCMみたいな感じ。肉が削げるだけでこんなになるとは。 「へぇ…人って、変われるもんだな…」 ついそんな言葉が口から漏れる。 「ふーん、タニムラくんはぜんぜん変わんないもんね。相変わらずチャラくてテキトーな感じが」 …。 はいはい、どうせ詐欺師みたいな顔だよ。新宿スワンならぬ渋谷スワンですよ。 話をもどす。 「結局シノザキが言いたいのは、そんなチャラい俺はイズミと釣り合わないって、そういうことか?」 「いや、言ってないけど。そう思ってるんでしょ? 自分自身で」 また閉口してしまう。いちいち人の心をえぐるようなことを言ってくるやつだ。確かに俺自身がそう、心のどこかでイズミにおびえていたのかもしれない。 クリスマスイブも、大晦日も、本当はイズミと一緒にすごそうと思えば可能だったのだ。それなのに、言い訳のように部活の集まりやバイトを入れてしまった。 まったくもって、ぜんぶシノザキが指摘する通りだ。 (つづく) 【恋愛小説『彼氏の顔が覚えられません』は、毎週木曜日配信】 目次ページはこちら
2015年07月02日人は恋をするとき、相手のどこにホレるのだろう。顔が7割、心はたった3割だなんて話も聞くが、もし相手の顔がまったくわからなかったらどうなるのか。 そんな相手に好かれたとしたら、それほど誇らしいことはないと思っていた。純粋に、心だけを見て判断してくれているのだから。だけど今は、いろいろ悩みを抱えてしまっている。 俺の恋人、イズミはまさに人の顔を覚えられない。失顔症という、ブラッドピットなんかと同じ病を抱えているそうだ。 *** せまいライヴハウスの中、再び俺は客としてきてくれた彼女、イズミと対面することができた。 うさぎを脱ぎ捨てたタイミングは、少々早すぎたかもしれない。ガマンの限界だった。すぐにでも彼女に俺の姿を見せたかった。 だが俺が顔を出した瞬間、彼女は後ろを向いて逃げるような姿勢を取った。周りの客に阻まれ、実際にはどうすることもできなかったが、俺を前にしてイヤがっているのは明らかだった。 「一回、イズミに全力で嫌われてみたらいいのに」 半年前シノザキにそうそそのかされてから、今までいろんなことがあった。テキトーだと言われても、それこそが俺の生き方だと思っていたのに。そのテキトーさ加減にここまで絶望してきたことは人生で初めてだ。 けれどすべての失敗は、きょうこの日のためにあるのだと思う。これから彼女の心を取り戻してみせる。いま渾身のラブソングを彼女に捧げ、そして――。 記憶は、1月3日までさかのぼる。 「なんで嫌われなきゃならないんだ」 前日に連絡先を交換したばかりの女と、サイゼリアにふたりきりでいる。 「だってさ、付き合ってるっていいながら、きのう見ててスゴイよそよそしい感じだったもん、ふたり」 「んなわけないだろ。相思相愛だよ」 「うっそ。まだエッチすらしたことないクセに」 あわや、口に含んだメロンソーダを吹き出しそうになる。まだ昼下がりなのになんて話を持ち出すんだ。 「これからっ、これからだよ…いま、タイミング見計らってるのっ」 「いや、もうないよ。ないない。だってクリスマスもお泊まりナシだったんでしょ。ゼッタイそれって、飽きられてんだと思う」 「ちょ…キッパリ言ってくれるな…」 はぁ、と一息ついて、メロンソーダを飲み干す。目の前の女、シノザキは、モツァレラチーズとトマトのサラダをうまそうに食べている。サラダっていうわりには、単にチーズとトマトを並べてオリーブオイルぶっかけただけじゃないかと思った。女はなぜこういうのが好きなのか。 「だいたい、きのうシノザキと会わなきゃ、俺がイズミの家に泊まる予定だったんだよ」 「そんなこと、イズミと約束してたの?」 「してない」 「じゃあ、やっぱりダメじゃん」 くっ…こうしてズケズケとものを言われたら、どうもすべて正論のように聞こえてくる。 一旦席をたち、ドリンクバーへと向かう。カプチーノでも飲もうかと、カップをセットしてボタンを押す。しゅごごごごっ…と機械からすごい音がし、突然もくもくと出てくる白い煙。故障か? 「あ、すみません、ミルク切れちゃってますね! 少々お待ちください!」 気づいた店員が声をかけてくれ、厨房まで引っ込んでいった。いや、待つくらいなら別の飲むけど…。 しかし冷たいドリンクコーナーも、ガキどもに占拠されている。行儀の悪いことに、いろんなドリンクを混ぜて遊んいる。…自分も昔やったが、周りの迷惑ぐらい考えるべきだったと今さら反省。結局、水だけ注いで戻る。 飲みたいものも飲めないドリンクバー…なんだか調子狂うな。これもシノザキのせいかと思ってしまうくらい。そんなこと、あるはずないが。 (つづく) 【恋愛小説『彼氏の顔が覚えられません』は、毎週木曜日配信】 目次ページはこちら
2015年06月25日頭にデカいウサギをかぶったカズヤと、キューピーなんてダサい肩書きが加わった子豚ちゃんマナミの演奏が始まる。二人の姿を見ただけでもう帰りたかったけど、まぁせめて一曲くらい聞いてあげようかと思ってとどまる。 …そうやって、きっと帰るタイミングを逃すんだろうなとも思った。なんだかんだで、こういうときマジメ過ぎるというか、要領わるい自分が不憫でならない。 ステージの照明が、青く涼しげな色に変わる。まさかいきなりバラード? と思ったら、そのまさかだった。しかも、聞いたことある曲。私が生まれた年くらいに流行った古い曲だけど…よく知っている。父親が生前よく歌っていたから。 なんで、よりにもよって。久々にその曲を聴いて、悔しいけれど心を揺さぶられてしまう自分がいる。父と一緒にいられた時間というのはそれほど長くはなかった。でもこれまでの人生、ずっと父親に影響され続けてきたから。 父が集めたカセットテープやマキシシングルは、mp3にしてぜんぶPCフォルダに保管されている。中高生のときに読んだ本も、父親の書斎に残っていた本。気になるやつは何冊か抜いて、一緒に上京してきた。あと実家で、三丁目のタマとか、自分が生まれるより前に流行ってたキャラクターのグッズをずっと大事にとってあるのもそう。 ぜんぶ、もういなくなってしまった父との思い出だから。いきなり一曲目から、178(イナバ)ライダーなんてフザけた名前で、バカみたいな格好しながら私の琴線に触れるような選曲してきて、いったいなんなんだ。 「先ほどの曲は、1995年に流行ったバラードでした。私たち、実は今年で、ぴっちぴちのハタチなんす! ってなわけで、今夜は私たちが生まれた95年当時の曲をお送りする予定です」 曲が終わり、MCを務めるマナミ。なるほど、そういうコンセプトなのか…だとしたら、終わりまで私の心が揺さぶられっぱなしかもしれない。やばい。泣いちゃったらどうしよう。 と、突然カズヤ、と言うかウサギ頭が、マナミの肩をぽんぽんと叩く。ウサギの口元に耳を近づけるマナミ。まるで内緒話をするように…って、実際、カズヤはなんも喋ってないんだろうけど。ただのわかりやすいフリだ。 「…えっ、なに、178(イナバ)ちゃん。おぉっ、なんと! みなさん、重大ニュースです! いまこの会場で、ちょうどこの日にハタチを迎えるお友達がいるそうです!」 えっ。ギクリとした。まさか…いや、そのまさかだろうな。 この日にハタチを迎えるのは、私だ。 「スペシャルサプラーイズ! なんとそのお友達に、178ちゃんが特別に、オリジナルソングを歌ってくれ…」 「…イズミ! 聴いてくれ! 俺がこの日のために用意したラブソングを!」 マナミの紹介もまだ途中なのに、いきなり立ち上がるウサギ。否、いまその着ぐるみを外す。ただのギターを持ったカズヤになる。 やばい。会場を出るなら、きっとこのタイミングだ。 イズミはにげだした。 …しかし、観客にまわりこまれた! にげられない! (つづく) 【恋愛小説『彼氏の顔が覚えられません』は、毎週木曜日配信】 目次ページはこちら
2015年06月18日「へぇ、先輩、チューバ辞めちゃったんですのね…でも、まだ音楽関係の部活されてて、ちょっと安心しましたわ」 一カ月振りに会うのに何も言えない、元カノの私。そして、1年以上経っての再会なのに、すごい親しげに話す元後輩のコモリとカズヤ。なんだろうこのアウェイ感。関係も、再会までの期間も、圧倒的に私の方が近いのに。 いや、逆なのか。近すぎるからこそ何も話せないのか。そう思いながら、カズヤが離れていくまで、ただじぃっと待っていた。 二人の話は、身内話がほとんどで大して耳に入らなかった。いちおう記憶したのは、高校時代のコモリとカズヤは吹奏楽部で、同じバスパートというのに所属していたという話だけだ。チューバもユーフォ(※正しくはユーフォニアム)も楽器の名前らしい。 で、一通り会話を終えたあとで、結局カズヤは私に話を戻すことなく去っていってしまった。コモリにチケットを2枚渡して。 「ヤマナシ先輩って、タニムラ先輩の彼女だったんですのね。それならそうと言ってくれたらタナカ先輩との誤解もございませんでしたのに…」 「いや、“元”ね」 「えっ。今でも付き合ってるみたいにおっしゃってましたけど…あぁ、けんか中なんですのね。はい、じゃあこれ、きっと仲直りの印ですわ」 チケットを1枚差し出すコモリ。いらない、といって突っ返すのは簡単だったけど、なんだかコモリに対して八つ当たりしてるみたいでイヤだった。怒りは、カズヤに対して直接ぶつけるべきだ。 そう思って、コモリから渋々チケットを受け取ったのである。 ――そして、ライヴ当日。いよいよカズヤの出番だ。 出てきたのは、二人のフォークギタリスト。背の低いややぽっちゃり系の女性と、もうひとりはピンク色のウサギ。 そう、ウサギだ。頭にでかいウサギの着ぐるみをかぶったやつが現れた。首から下は、Tシャツとジーパンという格好。さすがに、体にまで着ぐるみにすると楽器が持てないからだろうが、すごくシュールなものに仕上がってる。 「えぇ…みなさん、こんばんはー。初めて舞台に立たせていただきましたー。"178(イナバ)ライダー"でーす」 しゃべったのは、ぽっちゃり系の女子。声でマナミだとわかった。“ずっとギター友達だよ”。いつかのカズヤのセリフがよみがえってきた。あの言葉、本当だったのだろうか? ウサギの方は…たぶんあれがカズヤなんだろうけど、何にも言わない。「ご紹介しまーす。私の相方の…というか、マスコットキャラクターの、178(イナバ)ちゃんですー。そして私が、キユーピー・マナミでーす。よっろしっくねー」ぜんぶ、マナミがしゃべってる。 どうしよう。178ちゃんはともかく、キューピー・マナミって。そのセンスどうなの。間柄はともかく、自分の知り合いが舞台の上で醜態さらしてるのって、恥ずかしくてどうしようもない。いますぐ帰りたい。 「へぇ、シノザキ先輩とユニット組まれたんですのね…」 と、コモリ。シノザキって…あぁ、思い出した。マナミの苗字…。 てか、あいつも付属かよ。 (つづく) 【恋愛小説『彼氏の顔が覚えられません』は、毎週木曜日配信】 目次ページはこちら
2015年06月11日6月。「こんな雨の中、みんな来てくれてサンキュー!!」なんて、黄色いモヒカン頭の集団の一人がマイクを振り上げて言う。 力強さを感じるパフォーマンスだけど、「サンキュー」の「キュ」のところで先走ってマイクを口から放したのはよくなかった。スピーカーから出た声は「サンキュッ…!!」と尻すぼみになってしまった。デニムのホットパンツを履いたお尻まで、きゅっ、と引き締まったように見えた。 カズヤから誘われたライヴハウスにいる。こぢんまりとして、30人くらい入ったらいっぱいになってしまいそうなところ。お客同士の体が密着するくらい近いし、ステージとの間も演奏者のツバがかかるくらい。アットホームと言えば聞こえはいいかも。 入り口にたくさんのアーティストのライヴ告知ポスターが貼られていたけど、聞いたことのないアーティストばかりだった。ケジラミンとか、69セントとか、ボークビッチーズとか。どれもユニット名にイロモノ臭しかしないけれど、意外に顔は整って――つまり、私にはまったくのぺらぼうに見えた。 ちなみにカズヤの出番の一つ前のウッドストックみたいな頭をした連中は、スーパーマリオネットワールドとかいう名前だった。どのへんがスーパーなのか、マリオネットなのかということはぜんぜんわからなかった。まぁ、バンド名なんてみんなノリで付けてるんだろう。 で、そのスーパーマーケット…じゃない、パペットマペット…って、あれ、どれが正しいんっだっけ。ともあれ、そんな感じのホットパンツ連中がはけた後で、隣のコモリが言った。 「あ、次、タニムラ先輩の番ですわよっ」 タニムラ先輩――カズヤのことだ。いや、そんなことよりも彼女の衣装の方がいまだに気になる。フランス人形みたいな水色のドレス。さすがはお嬢様、「ライヴなんて初めてですわっ。おめかししていかなきゃ」と選んでくれたようだ。 ただ、おめかしというよりロリータコスプレにしか見えない。サブカルなアーティストが集まるライヴハウスだからよけいに。私は赤系のチェックシャツに、黒のガウチョパンツ。べつに、オシャレという意識はない。スカートよりラクかな、と履いてみただけだ。 だいたい、このライヴにくる必要もなかったハズだった。カズヤとの仲はもう終わったと思っていたのに――。 一週間前の、スタバでのこと。とつぜん目の前に現れて、「俺、出るから。こいよ」とチケットくれて。 「わぁっ、行きます行きますわ! タニムラ先輩、わたくしのこと覚えてますか。ユーフォ吹いてたコモリですわ!」返事したのはコモリだった。知り合いなんだ。ってか、ユー…何? UFO? 詳しい説明もナシにいろんな情報が入ってきて、混乱しかけた。 つまり、カズヤも付属高校の出身だったらしい。まさか、鎌倉から電車通いのハズなのにと思ったら、「そりゃあ、高校のころから電車通いに決まってるじゃないですか」とコモリ。いや、そういうことじゃなくて…。 私の周り、どんだけ多いんだ付属出身。 (つづく) 【恋愛小説『彼氏の顔が覚えられません』は、毎週木曜日配信】 目次ページはこちら
2015年06月04日5月の下旬、まだ五月病は癒えない。「はぁ。やる気しない」そうつぶやく。 「何をおっしゃってるんですの、ヤマナシ先輩。中間テスト、赤点になっても知りませんわよ」 と、コモリに怒られる。スタバで文化人類学の勉強中。中間試験なんて、わけのわからないもののために。まるで中学か高校だ。 そもそもこの科目、『となりのトトロ』に出てくるお父さんみたいな、のほほんとした人がやる科目じゃないのか。期末とレポートで十分だ。なのに、なぜ金八先生みたいな熱血教師が教鞭を握っているんだろう。「いいですかー。人という字は…」って、やめてください、それウソですから! つい授業中に叫びそうになってしまった。 「いーよ。どうせ必修科目じゃないし。落としたって、別の教科で補えば」 挙げ句、ついこの間の私だったら考えられないようなことを口にしている。タナカ先輩の悪い影響が出ている。コモリはバカにした感じで、はぁとため息をつく。それを悔しいとすら思えない。 タナカ先輩はと言えば。連休前に彼の過去を知って、自分でも驚くくらいまったく興味のない話で、やっぱり彼と仲睦まじくなるのはムリなような気がした。 結局、先輩はお金持ちの家に生まれて、将来も約束されていて。それなのにそのレールに乗ることから逃げてるだけの、ワガママな子どものように思えてしまったのだ。 一方コモリは、彼が読モ時代を「黒歴史」だと片づけても、やっぱり憧れは消えていなくて。あれから、日々先輩のことを追っかけているらしい。 「早く押し倒して、キスとかしちゃえばいいのに」 ふいに言うと、コーヒーをすすっている最中だったコモリは漫画みたいにむせた。ぶっふぉっ、ぶっふぉっ。ふだんのお嬢様口調が台無しになってしまうような野太い咳こみ方だ。 「ちょっ…いきなり何をおっしゃるのっ!? ハレンチなっ! わたくしと先輩は、そういう邪な間柄じゃありませんことよっ…もっと神聖な…魂と魂で惹かれあう運命的な間柄なのですわっ!!」 魂で惹かれあう、ねぇ。ピュアすぎて、何を勘違いしているのやら。「またコモリちゃんが追っかけてきたよー…何とかしてよー…」と先輩は毎日のように私にLINEしてくる。惹かれあうどころか、ただの一方通行だ。 勘違いは、私に対してもある。あの先輩の過去を聞いた日。私がふたりを置いて先に出ていってしまったのは、コモリに対して気を遣ってのことだったと思っているみたいだ。 「タナカ先輩と巡り合わせてくださったこと、そのあとふたりにしてくださったこと。一生、感謝しきれませんわ」なんて。やれやれ、とは思わないけど。初対面のときみたく恨まれるよりはマシか。 これからしばらく彼女とつるむことになるのだろうか。かつて、ユイやカズヤとつるんでたみたいに。やがて彼女もまた私の元を離れるときがくるのだろうか。 今は彼女の方から寄ってきてくれる。近くまできてくれて、見覚えのあるおでこが判別できたら、あ、コモリだ、とわかる。もし彼女の方から寄ってこなくなったら、二度と彼女を判別できない。 私という人間はそんな風に、どうしようもない問題を抱えている。ひょっとしたらユイもカズヤも、実はすぐそばにいるのかもしれない。気づかないだけだ。私が思うより世界は狭いのかもしれない。いたずらに、広く広く感じているだけだ。 例えば、正面の席に座っているあのロン毛の男性。髪型さえ変えれば、体型はカズヤそのものだ。あ、目が合った。なんだかこっちに向かってきているようだが、気のせいだ。きっと私の後ろの席に、知り合いがいるのを見つけたか何かなんだろう。 でも、声をかけてきたら? よぉ、イズミって。そんな、あんなに髪が伸び放題なのに、イヤだ。てか、なんでカズヤなんて思ったんだろう。似ても似つかない髪型なのに…。 「よぉ、イズミ」 え。 男性は私の頭に手を置く。その手の感触に覚えがある。コモリも、彼のことを見ている。 「…タニムラ先輩!?」 コモリが言う。タニムラって、カズヤの苗字だし…ってか、知り合いなの? やっぱり私が思うより、世界はずっとずっと狭い。 (つづく) 【恋愛小説『彼氏の顔が覚えられません』は、毎週木曜日配信】 目次ページはこちら
2015年05月28日「君には才能もオーラもない。いたってフツーの、どこにでもいる人間だ」 タナカ先輩が所属していたモデル事務所の社長は、そう言い放ったそうだ。高校に入学し、卒業を迎える間際までの約3年間。真剣に読モに打ち込んだ彼を除籍するときの言葉としては、あまりにも辛辣なセリフだった。 「だからこそ、育てる価値があると思ったんだがな。まったくの期待はずれだった」 仕事を始めた当初は無我夢中だった。気乗りしないファッションやポーズにも、果敢に挑んだ。肉体をさらす機会があれば、わずかに胸元をはだけさせるだけのことでも必死でジムに通った。 けれど、誌面が完成すると、他のモデルの写真に差し替えられていたこともたびたびあった。 「いいか、求められたものを求められたままこなすな。客はつねに、期待以上のものを求めてる。上にいきたかったら、もっといまの自分を打ち破らなきゃダメだ」 社長の言葉は厳しかった。自分ではすでに精一杯、努力を惜しまずやってきたつもりだったのに。これ以上、何をどうこなしていけばいいのか。 また、学校でも先輩の活動が噂されるようになり始めた。なぁ知ってるか、タナカのやつ、読モやってんだって。うっそ、マジ? きめぇ。自分のことカッコイイとか思ってんのかな。 それらの言葉には、身近な人間が活躍していることへの羨望もあったのだろう。しかし思春期のタナカ先輩には、そう考える余裕はない。言葉の槍は、盾も持たない彼を真正面から貫く。 こんなハズじゃなかった。もっと華やかだと思っていた。3年間のうち、最後の1年間はずっと辞めたいと思い続けていた。仕事も徐々に消極的になっていった。それが社長にも通じたのだろう。 「もう用済みだ。前に進めない人材は、ウチの事務所にはいらない」と、タナカ先輩の才能を全否定するような発言を並べた挙げ句、それでも彼を採用に至った真実を口にした。 「君のお父さんの会社がウチのお得意様じゃなかったら、君なんて最初から見向きもしなかったよ」 裏で自分の父親が関係していた。それを知ってショックだったが、同時に納得もいった。そもそも初めて受けたオーディションは、父親に紹介されたものだった。 オーディションに向かうとき、「厳しいのは合格してからだ、よく思い知ってこい」なんて言葉もあった。あれは激励の言葉ではなかった。一度現実を味わわせれば懲りるだろうと。父親は息子にさっさと夢を諦めさせて、自分の会社を継がせることしか考えていなかった。 「…だから、あの3年間はムダでしかなかったんだよ。俺はもう…マトモに大学出て、親が望むようなマトモな社会人になる…それしか求められてないんだよ…!」 そして今。タナカ先輩が、自分が抱えていた闇を――二度とふたを開けまいと思っていたパンドラの箱の中身を、絞り出すような声で必死に私たちに打ち明けてくれたとき。 コモリは顔を真っ赤にして、クスン、クスンと言いながらハンカチで目をおさえていた。悲しいのか。または、こんな過去を先輩に話させてしまったことをいまさら悔いているのか。目の前に置いてある弁当箱には、一切手をつけられていない。 一方、私は。 「ごちそうさまでした」 と言って席を立つ。「えっ」と言って、私を見る先輩とコモリ。いや、べつに、なにも驚かせるようなことしたつもりないけど。単純に、チキン南蛮定食を食べ終わっただけだけど。ご飯の一粒まで、残さずキレイに。 「時間なんで、もう次の授業行っちゃいますね。じゃあ」 と言って、先輩とコモリを残し、食堂を後にする。 私が先輩の過去を聞いて抱いた感想は、ただこれだけだった。 話、ながっ。 (つづく) 【恋愛小説『彼氏の顔が覚えられません』は、毎週木曜日配信】 目次ページはこちら
2015年05月21日タナカ先輩を前にしたときのコモリの様子は、狼を前にした赤ずきんちゃんのようだった。椅子を引き、私の陰に隠れて、体をぷるぷると小刻みに振るわせていた。 先輩はそれを見つめながら、学食の具なしカレー(280円)をじつに食べにくそうにしていた。 「そんな怖がらなくても…べつに、とっつかまえて、こいつのトッピングにして食べてやろうと思ってるわけじゃないんだしさ…」 カレーをぐちゃぐちゃかき混ぜながらタナカ先輩は言う。いや、そこまで考える人間は先輩だけだろう…そんなこと言うから、コモリはいっそう身をこわばらせる。 「これ、たぶん怖がってるんじゃないんです。憧れていた人を前にして、緊張してるだけなんだと思います」 そうフォローしてあげると、彼女は無言で、ぶんっ、ぶんっ、と首を縦に振った。首を振るたびにおでこが前に出るから、軽くヘディングの練習をしているようにも見える。なかなか面白いしぐさだ。 「なんか…照れくさいと言うより、恥ずかしいな…。まだ俺のファンでいてくれてる人がいるなんて」 先輩はほとんどドライカレーみたいになったやつを一口食べる。いささか神経質に混ぜすぎのような気がする。白いご飯をそこまで徹底的につぶす必要はあるのか。 このカレーの食べ方も、コモリの目には上品で美しいと映っているのだろうか。恋は盲目だとよく言う。そして、私はまだそんな風に盲目にはなれていない。 それどころか、いまだ先輩がカッコイイのかどうかもよく判断できていない。整っているほど、無個性で記憶に残らない。…ああ、なら完全に記憶できない先輩の顔は、少なくとも整ってはいるということか。私の琴線にはまったくふれない整い方だけど。 まじめな話、顔を覚えられない私にだって好きな顔というのはある。覚えられもしないくせにどこをどう好きになるのかと言われたら、返答に困るけれど。そういうのってリクツじゃないのだ。 さて、そんなことを考えながら待っている間も、相変わらず黙っているコモリ。チキン南蛮を箸でつかみながら、私の方から質問する。 「読モやってたなんて知りませんでした。なんで言ってくれなかったんですか。もっと早く知ってたらいろいろ聞いたのに。私、ファッション誌好きなんですよ」 「ああ、ファッション誌の編集長になりたいんだっけ、確か」と先輩。べつに、編集長とまでは言ってないけど。 「イズミちゃんの将来に役立つ話なら、俺も聞かせてやりたいところだったけどさ…その、読モのことだけは…あまり言いたくなかったんだよね…」 「どうしてです?」 歯切れ悪くイライラするようなしゃべり方になる先輩を、急かすように尋ねる。 「…まぁ、いわゆる黒歴史ってやつだから…」 「「黒歴史?」」 と、ハモる。コモリがようやく口を開いた。 「どういうことなんですの…黒歴史だなんて、そんな…!」 私の陰から前に出たどころか、身を乗り出して先輩に問うコモリ。突然のことに、先輩はたじろぐ。 「そんな、わたくしにとっては読モの仕事をなさっていたときの先輩こそ、憧れでしたのに…ちゃんとっ、ちゃんと説明してください!!」 バンッ。机をたたく。赤ずきんちゃんと思っていたら、いつの間にやら猟師に入れ替わっていたようだ。なんて感情の起伏の激しい子だろう。その剣幕に圧された先輩にとっては、もはや「言いたくない」という選択肢は残されていなかった。 (つづく) 【恋愛小説『彼氏の顔が覚えられません』は、毎週木曜日配信 ※配信時間18:00になりました】 目次ページはこちら
2015年05月14日五月病と呼ばれるものがあるのは、ゴールデンウィークがあることに原因があると考えてほぼ間違いないと思う。 高校へ入学したころだった。まず友達を作らなきゃと思っていて、顔は覚えられないまでも、クラスメイトの名前を全部ソラで言えるくらい暗記して。 いつも声をかけてくれる子が何人かできて、気づいたらその子らの仲良しグループに加えてもらってて。「ねー、ゴールデンウィーク、みんな何するー。遊園地とか行かない?」って言われて。 遊園地。まだ父が生きてたころ、家族3人で行ったきりだった。誘われたことを母親に話したら、「いいじゃないの、行ってきなさいよ」って、お小遣い多めにくれて。 でも、行かなきゃよかった。小さいころはずっと父に手を握られていたから、迷子になることなんてなかった。まだ知り合って1月、覚えているのは名前と声だけの友達と、人でごった返す遊園地の中ではぐれるのは当然だった。 最初のうちは、向こうの方から「ちょっと、ヤマナシさん。ひとりでどこ行ってたの」ってすぐ見つけにきてくれたけど、そのうち完全に迷子になってしまって。みんなどこに行ったんだろう、と思っていたらケータイにメールがきて。 「私たち、先に帰ってるね。ヤマナシさん、私たちに付き合うのイヤなんでしょ? 無理しなくていいよ、ひとりで楽しんでおいで」 ちがう、そうじゃないのに。はぐれないように、迷わないように気をつけてたつもりなのに。私の不安な足取りでは、楽しげな彼女らに追いつけなくて。人混みが私を拒んで、厚い壁のように私の前に立ちはだかって。 息が、息ができない。こんなにたくさんの人がいる中で、誰も頼れる人がいない。船から落ちて、大海原に放り出されて、つかまる板も、小枝すらないような感覚で。 ひとりで、ぐんぐん船から遠ざかる。置いてかないで、そう叫んでも、船はどんどん小さくなり、地平線の向こうに消えてしまう。助けて、タスケテ。息が、息ができなくて。私は、海の中へ沈んでいく。ぶくぶく。大量の泡を吐き出しながら。 遊園地内、一人で倒れているところを、どこかの親子連れが助けてくれたらしい。その人たちにチュロスとコーラをもらって。皆を必死で探している間、ご飯を食べることも忘れていて、ペコペコだった。ありがとうございます、ありがとうございますって何度も感謝して。このご恩は忘れませんって言って。でもその人たちの顔は、やっぱり覚えていない。 そんなできごとがあって、心が折れた。もう無理して友達なんか作んなくっていいやって。 そして今、大学二年生の現在。大型連休を経て、また私の心は荒んでいる。4月の、あの晴れ晴れとした気持ちは何だったのだろうか。 連休中は、やっぱりほぼ書くことがなかった私の日記。パラッとめくれば、先日のタナカ先輩とコモリが初めて出会ったときのやりとりが事細かに記されている。 完全に五月病になったいま、振り返られるのはそのことぐらいだ。 (つづく) 【恋愛小説『彼氏の顔が覚えられません』は、毎週木曜日配信】 目次ページはこちら
2015年05月07日ガタッ。不意を突かれて、椅子から転げ落ちそうになる彼女。セリフもだけど、リアクションも漫画みたいにオーバーだ。そう考えるとなかなか愛嬌がある。 「い、い、いまなんとっ、なんとおっしゃったのっ!?」 「だから、好きなんでしょ、タナカ先輩のこと」 ぶるぶるぶるっ、と首を横に高速で振るコモリ。なんだか水をかぶった直後のワンコみたいだ。 「す、好きだなんてそんなっ、そんな陳腐な恋愛感情などっ。わたっ、わたくしは、人として先輩のことをお慕いしているのであり…そう、あこがれよっ、あこがれ…もっと、好きだなんてものよりも、崇高な感情だわ、これはっ…!」 わぁ、めんどうくさい。世間じゃそれを恋と言うのよ。思ったけど、口にはしないでおく。それより言ってあげなきゃいけないことがある。 「安心して。私、タナカ先輩とはただの友達だから。あなたのあこがれを奪うようなことをするつもりない」 「え…と、友達!?」 もはや、私に対する敵意はなさそうだ。さらに念を押してみる。 「そう、友達。それに私、一回先輩にコクられたけど、断ってるもの。恋愛感情なんか持ってないから安心して」 「断った…? ほ、ほ、ほ、本当に…?」 動揺が激しくてハトみたいなしゃべり方になってる。 「ここでウソ言ったって、別になにも面白くなんかないでしょ」 「ほ、本当に…タナカ先輩に、こ、告白までしていただいて…こ、断ったの、ね…」 いまだ半信半疑の様子だ。思っていた展開とあまりに違ってしまったからだろうか。真面目でしっかりしすぎる人間は、パニックに陥りやすい。私もたびたびそうなるからよくわかる。 「も、も、もしウソだったら…あ、あなたのこと、殺しますわよ…」 オマケに、うつむいて体を小刻みに振るわせながら、こんな物騒なことまでつぶやいている。なんだかこの展開、身に覚えがあるな…。 「ねぇ、ひょっとしてタナカ先輩って、高校時代モテたの?」 「モ、モテたって…それどころじゃないですわ! ご存じないの…当時先輩は、ファッション雑誌の読者モデルをされてましたのよ…」 読モ。あの魅力の乏しい先輩が? ありえない…と思ったが、なぜ私にそう言い切れるのか。タナカ先輩の顔を判別できないくせに。また、事実なら、軽音部に私を殺そうとした人間がいたのだってわかる気がする。読モだったら、熱狂的なファンだっているものだろう。 いままで、そんな人のことを好き放題いじり倒して、しかもまた、新しい友達か恋人に…なんて。贅沢と言うか、愚かな気さえする。 ふと、ケータイが鳴った。LINE通知だ。噂をすればなんとやら、相手はタナカ先輩である。 「ねぇ、コモリさん。よかったら、今からタナカ先輩と一緒にお昼食べない? 私、あなたのこと紹介するよ。先輩の大ファンだって」 「え…タナカ先輩と、お食事っ!? そ、そ、そんな…憧れの殿方と、お食事なんて…女性の貞節が…」 ランチ一つで大げさだ。やれやれ。大きくため息をつき、授業道具をしまい込んだ鞄を持つと、コモリの手を取った。 「ほら行くよ。先輩、学食でひとり寂しく待ってるから」 「わ、わ、ちょっと…まだ心の準備が!」 引きずるようにしてコモリを食堂へ連れて行く。 このタナカ先輩の大ファンのコと、先輩本人を会わせることで、どんなことが起こるのか。このときの私はまだ知る由もない。 (つづく) 【恋愛小説『彼氏の顔が覚えられません』は、毎週木曜日配信】 目次ページはこちら
2015年04月30日「タナカ先輩と別れていただけませんこと?」 いきなりそんなことを言われたのは、授業のあとだった。タナカ先輩が誰かはもうわかっている。先日食事デートをし、それ以来たびたびキャンパス内で会う機会が増えている3年の先輩のことだ。タナカヒロシ。あまりに平凡すぎて、いまのいままで記憶に残らなかった。 で、声をかけてきたこの女性は。今年から履修し始めた文化人類学の第三回目を、隣の席でさっきまで一緒に受けていたコである。 「えと、あなたは? ごめん、私、人の顔覚えられなくて」 髪を後ろでお団子に束ねた、広くつややかなおでこの彼女に尋ねる。その答えは、丁寧な言葉づかいで返ってきた。 「謝らなくて結構ですわよ。お声をおかけしましたの、初めてですから。わたくし、お隣の付属高校から入学して参りました、コモリといいますの。本大学の一回生ですわ」 付属高校。同じキャンパスの中にある高校のことだ。そこからエスカレーター式に入学してきたということだろう。一回生とは、一年生ってことか。何やら古風な言い方をしている。口調もそうだけど。 「あなたは付属の方ではないですわよね?」今度は、コモリの方から尋ねてくる。「わたくし、人の顔を覚えるのは得意なんですのよ。なのにあなたのことは、高校でぜんぜんお見かけした覚えがありませんもの」自信ありげに言う。なんとなく、言葉にトゲがあるようにも聞こえる。 「私は地方のぜんぜん関係ない高校出身だけど。2年のヤマナシです」 「そうですの。地方ご出身の。なるほど」 学年が自分より上と聞いても、コモリは相変わらずこちらを値踏みするような口調を続ける。付属出身者って、そんなに偉いのだろうか。少なくとも家は裕福なんだろう。私もそこまで貧乏人という感覚はないが、一応、奨学金をもらっている身だ。 「それではヤマナシ先輩。お話を戻しますが、我が付属高校ご出身のタナカ先輩と別れてくださらないかしら。これ以上彼とお付き合いされることには、いささか問題があるように思われますの」 「問題」 おうむ返しに尋ねる。タナカ先輩も付属出身だったのかという点は、追及しないでおく。特に興味はわかない。 「えぇ。ご存じのように我が校の女生徒は、神の御前で、常に貞節を重んじなければなりませんの。それは付属高校のころより、女生徒一人ひとりが心に留めおくべき大切な教えなのですわ」 なにやら説法が始まった。わぁ、ウチって形ばかりの宗教系大学とばかり思ってたけど、付属の出身者にはこういう子もいるんだ。呆然としている私を後目に、コモリの偉そうな説法は続く。 「で、ありますから、たまたま先日拝見させていただいた、あなた方のようにキャンパス内で手をつなぐという行為。やはり女性の貞節を守る上では、避けるべき行為かと…」 「べつに、手はつないでないよ。指だけだし」 「指も手も一緒でございますわよっ」 ピシャリと言い放たれる。まぁ、今のは我ながら屁理屈っぽかったな。ならば。 「なんで私だけ言われなきゃいけないの。他にもキャンパス内でイチャついてるカップルなんて、いくらでもいるわよ」 「まぁっ。そう言って自分だけ責任逃れしようとするとは、なんて卑しい行いなんでしょう!」 バンッ。感情的に机を叩いて、コモリは言う。むむ、火に油を注いだか。彼女の叫びは続く。 「タナカ先輩も、こんな女狐にそそのかされるなんて…ああ、あんなにもたくましく、ご立派な方だったのに!」 なるほど。ようやく話が見えた。つまりは、こういうことである。 「コモリさん、あなた、タナカ先輩のことが好きなのね?」 (つづく) 【恋愛小説『彼氏の顔が覚えられません』は、毎週木曜日配信】 目次ページはこちら
2015年04月23日先輩と話してる間に、履修届けのチェックを再び付け終え、もう決定ボタンを押してしまうことにする。単位を落とし、それでも進級はできた話を聞いて、気づいたからだった。いままでそういうことを一切考えず科目選びをしていたことに。 履修するからには、必ず単位はとらなきゃいけない、くらいに考えてしまっていた。べつに落としたって、来年また再履修すればいい。自由選択科目なら、諦めて別の科目で補うこともできる。まずは最後まで受けてみる。話はそれからだ。 そこで、悩みに悩んだ「文化人類学」という科目を履修登録することにした。2回ほど受けて、なんだか難しそうだけど、気になって仕方がなかったのだ。 決定ボタンを押し、履修科目確認画面に進む。登録する科目と、合計単位数が正しいことを3度、4度ほど入念に確認し、提出ボタンを押す。画面に「提出しました」の文字が出て、ようやく「ふう」と一息つく。 「お、登録終わった?」 登録を済ますまでずっとうなだれていた先輩が、顔を上げて言う。 「ええ、おかげさまで」 一応、先輩に対する感謝の気持ちを込めてみた。 「…じゃあイズミちゃん、夕飯でも食べに行かない?」 いきなり誘われる。 「えっ、夕飯、ですか」 「うん。あ、時間的にちょっと早いかな…でもまぁ、店探してるうちに7時ぐらいになんじゃないの…かな」 と言って先輩は腕時計を見ているが、そういう問題じゃない。 「ふたりで、ってことですか?」 「…あ、もしかして、誰かと食べる約束でもあった?」 「そんなことは」 ありません。ユイともカズヤとも別れた今、一緒に夕飯をとる相手なんていない。 「でも先輩、部活は?」 「…あ、ああ、べつにいいよ、行かなくても。部会のある日ってわけじゃないし…それに今、新入部員が多くて部室埋まっちゃってるしさ。ギターの練習なら家でもできるし…」 先輩の台詞は理に適っているように思えた。けれど、なにやら違和感もある。台詞が説明っぽい、というか、言い訳っぽい。 わかった。これ、誘われてるんだ。デートに。 「いいですよ、行きましょう」 誘いに応じることにする。ブラウザを閉じ、先輩を見る。まだ見慣れない感じがする短い髪の彼を。 「えっ、マジ…?」 「マジですけど。まさか誘ったの、冗談ですか?」 「いや、ちょっと…断られるんじゃないかって思って…」 ふだん通り、たどたどしく言う。こんなに自信なさげなのに、急に告白したり、デートに誘ったり、変な先輩だ。男性としての魅力がこんなに乏しい人はなかなかいない。 けど、だからこそ。信頼できるし、いっしょにいて安心できるのかもしれない。 「行きましょう」 と言い、手を差し出す。「えっ」と先輩が言って、数秒。ためらいがちに、彼も手を伸ばす。私は、彼の中指一本だけをさっと握る。カズヤとは違って冷たい指。長いけど、細くて筋張っている。 単位のことが頭をよぎる。一年で履修した科目の単位は、確かにぜんぶ取れた。だけど、友達と恋人は。ユイとカズヤが科目だったとしたら、その単位は落としてしまった。何がいけなかったのか、どう改善すればいいのか。そもそも再履修できるのかどうか。やれたとしても、さらに悪い結果に終わりそうな気しかしない。 それでいいじゃないか。だったらまた、新しい科目を受けるまでだ。いま指を握っている先輩を、彼を新しい友達か、恋人に迎えてはどうか。 また失敗するかもしれないけど、それでいい。失敗は人生において大きな損失ではない。また新しい相手を見つけるための経験値として積み重なっていく。そうやって人は成長していくハズだ。 夜の街に繰り出す。先輩の指を握ったまま。 「イ、イズミちゃん…指一本、だけ…?」 「手、ちゃんと握ってほしいんですか」 「う、うん…できれば」 「ダメです、調子に乗らないでください」 「そ、そんなぁ…」 「だって私たち、恋人同士じゃないんですからね」 今は、まだ。 (つづく) 【恋愛小説『彼氏の顔が覚えられません』は、毎週木曜日配信】 目次ページはこちら
2015年04月16日初旬にカズヤと別れた数週間後、早くも別の男性とデートをしてしまった。どういう経緯でそんなことになったのか…。 4月は恐ろしい。ただ月が変わり、学年が一つ上がっただけなのに、いろんなことが起きすぎている。3月はほぼ白紙だった日記も、あっという間に埋まってしまうだろう。 それは、履修届けの締め切り日だった。きょうび履修届けなんてネットで簡単にできる。が、簡単だからこそつい後回しにしてしまい、気づいたらもうその日がきてしまっていた。 家でやったら絶対集中できないから、学校のパソコンエリアを使おうと思って。そしたら私と同じこと考えている生徒は他にもたくさんいたらしく、なかなか席が空かず。 待ち始めたのが午後4時。席が空いたのが、約1時間後の5時。ようやく始めるも、いざ決定ボタン押す直前で、またあれこれ目移りしてしまって。一度チェックマークをぜんぶ外して、もう一度Webシラバスに目を通したりなんかし始めて、またかれこれ1時間。 「お、イズミちゃん」 と、突然声をかけてきた彼は…誰だ。髪の毛がほぼ丸坊主と言っていいくらい短い。こんな野球部みたいな人、知り合いにいたっけ。 「あ…ひょっとして俺のことわからない? ちょっと髪切りすぎちゃったからかな…ホラ、○○だよ」 いや、名前を言われてもわかりませんけど。ただ声には聞き覚えが…。 「まさか軽音部の先輩ですか。2年生の」 「あ、ようやくわかってくれた…って、2年じゃなくて、3年ね。一応、進級できたから、俺」 正解。いや、学年間違えちゃったからギリはずれか。それにしても髪切りすぎだ。私みたいに人の顔が覚えられない人間じゃなくても、これは気づけない。 先輩の方は、よく私のこと覚えているもんだなぁと思う。ポニーテールがマイブームになってから、会うの初めてなのに。いや、これぐらいの変化は普通の人にとってはなんてことないのか。あの日マナミも一瞬で私に気づいたし。 「ひょっとして、いま履修登録中だった?」 「はい。何取るかなかなか決められなくて」 「2年って、そんな悩む余地あるっけ…必修科目もまだ多いでしょ。あと、再履修とかは」 「再履修はないです。単位、受けた分はぜんぶ取れましたから」 「へ~え! 優秀だなあ。俺なんか去年、必修科目と再履修科目選んだら、ほかに取れる授業なかったよ」 「教科書持ち込みOKの試験ばかりで、単位落とす理由がわかんないんですけど。知り合いの同級生なんて、該当項目を丸写ししたらA評価もらえたって言ってましたよ」 知り合いの同級生とはユイのことだ。冬に学校を辞めてしまったから、去年の夏の試験のときの話である。 「えっ、まじ? そんなことあるの?」 「はい。他の知り合いなんて、自身の研究レポート提出しなきゃいけないのに、書くこと無いから我流のカレーレシピを載せたら、それで単位取れたって言ってました」 他の知り合いとは、カズヤのことだ。恋人と言うべきか、元恋人と言うべきか。名前を口にするのもなんかイヤだ。 「なんだよそれ…いくらなんでも評価ザル過ぎだろ…俺みたいに一生懸命勉強してる生徒が評価されない世の中、オカシイよ…教科書に頼らない答え導いて、字数や提出期限オーバーしてでも必死でレポート埋めて…それで単位もらえないってどういうことだ…」 「それは、評価以前の問題だからじゃないですか」 嘆く先輩に、ほとんど台本を棒読みするように言う。 「イズミちゃん冷たいなぁ…慰めてくれたりっていう優しさは、君にはないの…」 「何言ってるんです。慰めたって無益じゃないですか。それよりちゃんと正論を言ってやらないと、先輩だって成長できませんし」 「そうか…じゃあこれは、俺を育てようっていうイズミちゃんの優しさなんだね…」 「は。単にぐちぐち長セリフ吐いてる先輩がキモチワルかっただけです。他意はありません」 「そうか…イズミちゃんって、ツンデレだなぁ」 「はいはいはいはい、キモイキモイキモイ」 棒読みを繰り返す。流石にキモイを連呼されたのはこたえたようで、先輩は肩を落とし、明らかにうなだれる。楽しいなぁ、先輩をいじるのは。部活に顔を出していない限りのことではあるけれど。 (つづく) 【恋愛小説『彼氏の顔が覚えられません』は、毎週木曜日配信】 目次ページはこちら
2015年04月09日カズヤの新しい恋人は、恐ろしいことにあの子豚ちゃん・マナミだった。 「違うってば! ただの友達だって…べつに、イズミから奪うつもりはないよー!」 子豚ちゃん本人は否定しているが、どうだか。 4月。新しい年度を迎えた直後、いきなりこんなひどい状況からスタートしなきゃいけないのは残念以外のなにものでもない。学食でたまたまカップルを見て。見ただけだったなら、何も問題なかった。どうせ相手の顔なんて判別できない。そのままスルーできた。 女の方から声をかけてきたからいけないのだ。「あ、イズミ…!」しかも大声で。男の方は一瞬私と目を合わせ、それからうつむいた。何となく見たことある服装だったので、まさかと思って、「え、ひょっとして、カズヤ…?」。声をかけても黙ったままの男。沈黙は、肯定を意味していた。 「ち、違うの…これは、そういうわけじゃなくて…」女の方は、こっちが何も言わないうちから必死に言い訳しようとしている。なんなんだ、この修羅場は。 「イズミなんて気安く呼ばないで」 しょぼくれた様子のカズヤを尻目に、子豚ちゃんに対して怒りの台詞を口にする。 「わぁ、もう、こわいー! 機嫌なおしてよー、イズミ…ちゃん? イズミさま?」 子豚ちゃんがそうやって媚びたような台詞を吐くたび、ストレスが募る。この女、いや、豚。どう料理して食ってやろう。頬肉のあたりなんかコラーゲンたっぷりではなかろうか。それともただの脂身か? 鉄板の上に載せたらさぞかし、肉の焼けるいい音がしそうだ。 その前に、どうやって殺そう。刃物で刺す、鈍器で殴る。いろいろ方法はあるが、肉を傷つけないためには首を絞め上げるのが一番か…。 「あ、イズミ、ポニーテールにしたんだー。イメチェン? かわいー!」 不自然な話のそらし方をする豚。おかげで気が散って、せっかく考えていた殺害計画が頭から消し飛んだ。もういいやコイツ、殺すのもメンドい。 「いつから付き合い始めたの。2月のデートが初めて? それとも、1月から?」 一応、聞いてみることにする。だいたい想像つくけど、あの三が日の“相談”がキッカケなんだろう。「ギター弾けるようになりたいんだ。カズヤ軽音部なんでしょー、教えてよー」とか何とか言ってたあれは口実だったのだ。そこからしばらくは友達だったのか、すぐ恋愛に切り替わったのか。 「ち、ちげーよ。いつからも何も、ずっとギター友達だよ」 ようやく顔を上げ、口を開くカズヤ。言い訳じみた口振りから察するに、正直な話を聞くのはもう諦めた方がよさそうだ。 「ふーん、ギター友達。恋人ほっぽって、バレンタインに“デート”だとか言ってはしゃいで、それで友達ね」 「あぁっ…くそっ、先輩が妙な言い方するから…」 「妙な風にLINEに書いたのはカズヤでしょーが」 「書いたまんま伝えられるとは思ってなかったんだよー! 冗談ぐらい通じると…」 「冗談? こっちは本気で落ち込んでたのに、冗談なんて考えられない。サイテー」 「ああっ…ごめ、いまのは俺が…」 「許さない。ゼッタイ。どう謝られてもムリ」 言って。学食のお盆に載っていたコップを手に取る。バシャッ。勢いのまま、カズヤの顔面にぶっかける。 「ちょ…イズミ!?」 豚が吠える。やりすぎだ、と言いたいのか。なんなら、おまえにもぶっかけてやろうか。そう思ったが、残念ながらコップの中にもう水はない。 「…おまえ、さぁ…!!」 カズヤが立ち上がる。前髪から、鼻から、あごから水をしたたらせながら。なに、逆ギレ? 「今のでわかった? 私の気持ち」 努めて冷静に言う。頭一つ分高いカズヤを見上げながら、気持ちだけでも見下すように。カズヤはにらんでいる。たぶん笑ってなんかいない。これはきっと怒りの感情だ。表情が読めなくてもわかる。 私は表情を作れない。けど、きっと真顔でも伝わる。伝わる言葉しか選ばない。優しさは、1ミリもいらない。 「カズヤってば、テキトーでしょ? それがカズヤなんだよね。直す気なんてないんだよね。もうムリ。そんなテキトーなのが彼氏だったら、私には必要ない。さよなら」 そう言って。ぜんぜん手を付けていない学食を、そのまま返却口に持って行く。こんなもったいないこと、普段なら考えられない。でも、今のやりとりで食欲は失せてしまった。ぜんぶカズヤのせいだ。カズヤが悪い。料理してくれたオバチャン、農家のみなさん、恨むならカズヤを恨んで。そう思って、食堂を抜ける。 キャンパスに出て、一度だけ振り返る。カズヤが追ってきてるんじゃないかと思う。けど、そうだとしてもきっとわからない。もうカズヤの顔を覚えていない。今まで一度だけでも、思い出せたことはない。 前を向いて、歩き出す。心は静かで、冷たい。激しい感情はもうない。なのになぜか、目の下が水滴で湿っている。 (つづく) 【恋愛小説『彼氏の顔が覚えられません』は、毎週木曜日配信】 目次ページはこちら
2015年04月02日部室でギターの練習しているといつも、「俺も混ぜてよ」と、肩をポンと叩いてくる男子生徒がいた。「俺、初心者なんだ。きみ、巧いの? 教えてよ」なんて言って。 そんな、人に教えられるレベルじゃないのに。けれど彼の方がよっぽど下手で、なかなかFコードが弾けなかった。ようやくマトモに音が出せるようになるまで、3ヶ月かかった。 彼はよく言っていた。「在学中にメジャーデビューしてやる」と。それを私は、「なら急がないと、退学までもう秒読みらしいわよ」とからかった。「まじで!? じゃあ時を止めてやる!」なんてノリのいい返事をしながら、彼は一発ギャグをやった。それがいつもサムくて本当に時が止まったようになるから、いってみれば有言実行なのだった。 いつも部活で一緒にいた同級生の男子。彼をカズヤと認識したのは、いつごろだったろうか。人の顔どころか名前すらロクに覚えられない私が、彼をイチ同級生ではなく、個人として見るようになったのは。 おそらく、共に部活へ打ち込んでいたころではなかった。私が部活へ行かなくなり、しばらくして。いっしょのクラスで受けていたスペイン語の授業が終わった直後だ。 ほかの生徒たちがほとんど教室から出ていった後。自分も、教科書やらノートやら西和辞典やら和西辞典やら、仰々しい量の荷物をなんとか鞄に詰め終え、席を立とうとしたときだった。 「ヤマナシさんさぁ、もう部活こないの?」 声をかけられた瞬間、やっぱり目の前の男子が誰だかはわからなかった。部活と言ったから、あぁきっと軽音部のコだろうな、とは思った。 「行かないよ。悪いけど」 “悪いけど”。確かに自分でそう言った。部活にこないか問われて、咎められていると思うのは当然だろう。だが相手には、まったくそんなつもりないようだった。 「そっかー、やったー!」 “やったー”? なに喜んでるの、この人。 「じゃあ、俺とヤマナシさんが付き合っても、別に部内恋愛にならないってことだよね」 一瞬、なにを言われているのかわからなかった。わかるまでにかかった時間は3秒くらいだろうか。その3秒間、世界は確実に静止していた。教室にはもう私たち以外の誰もいなかったから、錯覚したのかもしれない。なにもかもが息を潜めているような気がした。この世のすべてがストップするのに、3秒という時間は決して短くない。 こんなカタチの愛の告白って、あるのだろうか。伊勢エビの活き作りを見て、決死の覚悟で私に告白した2年の先輩が、完全にかすむような告白。いや、だからこそだろうか。 「まぁ、そうだね」 “そうだね”。確かに自分でそう言った。それは、イコール、彼の告白を承諾したという意味にも取れる。自分ではそのつもりがなくても、相手にそう思いこまれたら、あとは勢いでたたみこまれるだけだ。 「やったー! じゃあさ、きょう授業終わったら、デートしよ。部室棟の前で待ち合わせしてさ、ライヴ観に行こう。チケット2枚あるから。時間、あるだろ」 「あ、あるけど」 無い、という選択肢はなかった。用意する間もなかった。彼が勢いづいた瞬間、今度は世界が加速し出した。彼という人間は、世界の緩急を自在に操る能力を持っているのか。 彼は、「オッケー」と言って、私の肩をポンと叩いた。たったそれだけで、彼との部活の風景がぜんぶよみがえってきた。顔はぜんぜん覚えていなかったけれど、その声と、手の感触と、そしてときどき香ってくる優しい匂いは、ぜんぶ覚えていた。 「じゃあきょうから、俺、タニムラカズヤと、ヤマナシイズミは、恋人同士。で、OK?」 「いや、でもあなた、“退学までもう秒読みらしいわよ”」 それは彼の勢いに圧されまいと、何とか絞り出した台詞だった。だけど例の合い言葉になってしまっていた時点で、すでに私は負けていた。 そして理解した。これまで部活で一緒だった私たちは、またこれからもカタチを変えて、一緒にいつづけるようになるんだろうな、と。「恋に落ちた」のとはまた少し違うのかもしれない。ただ、「まずは友達から」という選択肢は、用意する間もなかった。世界は、まだ加速し続けていた。 「“まじで!? じゃあ時を止めてやる!”」 オヤクソク通り、カズヤはそう言うと、一発ギャグをやった。ギャグとしてはあまりに笑えない、とんでもなく恐ろしい、寒いやつだ。彼はいきなり顔を近づけてきたかと思うと、私の頬にキスをしたのだ。 そしてその瞬間、本当に時は止まった。やはり彼という人間は、時を自在に操る能力を持っていた。 (つづく) 【恋愛小説『彼氏の顔が覚えられません』は、毎週木曜日配信】 目次ページはこちら
2015年03月26日3月もようやく半ばを過ぎた。「イズミちゃん、もう食べないのかい?」夕飯を半分残して箸を置くと、叔父さんがそう聞いてきた。 「うん。もうお腹いっぱい」 「ダメだよちゃんと食べなきゃ。大きくなれないぞ!」 「叔父さん、私もう大学生。大きくなる必要なんて」 「…いや、その、背じゃなくて、ね」 と、私の胸に視線がいく。それに気づいて、箸を振り上げる。 「バカ、スケベ、ヘンタイ」 「わぁ、冗談だって! そんなに怒んなくても…」 「怒るよ。ちょっと、母さんも何とか言ってやってよ。この筋肉バカのオッサンに」 「イズミ、叔父さんに向かってそんな暴言吐いちゃだめでしょ。それに、箸を武器みたいにして持つなんてお行儀が悪いわ。そんな風に野蛮なコに育てた覚えはありません」 「ちょ、なにそれ、母さん。叔父さんのセクハラ発言は許していいの?」と、母は首を横に振る。 「ううん、許したんじゃないの。母さんね、諦めたの。この人がセクハラするのは、お父さんと結婚したときからずうっとなんだから。もう、どうしようもないのよ。イズミは若いんだし、まだまだ成長できるでしょ」 「ちょ、ちょっと…ねえちゃん、そりゃないよぉ。まるで俺の成長が止まったみたいじゃないかぁ」 「あら、ごめんなさいね。筋肉だけは成長してるんだったかしら。肉が厚すぎて、脳味噌までぜんぜん栄養が届いてないだけだったのよね」 「そうそう、だから、いつまでたっても筋肉バカ…って、そんなことあるかーっ!」 うるさい。私の実家って、こんなにうるさかったっけ。ノリツッコミをキメた後で、一人でガハハハと豪快に笑っている叔父さん。死んだ父とは血がつながってるハズなのに、似ても似つかない。ただの品のない、筋肉だけの中年オッサンだ。 だけど母はすっかり慣れたように、静かに味噌汁を飲んでいる。慣れてないのは私だけ。なんだか家にいてもアウェーな気持ちだ。 「しょうがないな、残った夕飯は叔父さんが食べよう!」と言われて、あまりそういうのもイヤだったけど、もはや言い争うのも時間と精神のムダのような気がした。「好きにしなよ」と言って、自室に退散する。 引き戸を、ガタンと音が立つようにして閉じる。戸の向こうでは、まだ叔父さんの笑い声が聞こえている。 “諦めたの”、ねぇ。母の言葉を反芻する。女性は、いつまでも子どもじみた男性に対して、諦めを持たねばならないのだろうか。それができたら苦労はないと思うけど、その苦労を乗り越えた母は、いつか私が夢で見たみたいに、叔父さんと再婚する日も近いんじゃないか。 その日、カズヤからLINEがあった。「きょうデートしようぜ」なんて書いてある。は、どういうつもり? なにさま? 私からのバレンタインの誘いを無視して、どこの誰とかわからないけど「デート」していたような男が。 いろいろ文句をぶつけたかった。けど、まだ何の返事もしないまま。どんな文句を言っても、カズヤには通用しない気がした。カズヤはこっちが怒っても、まったく動じない。「バカヤロウ!」って叫んでも、「なんだよ大声出して。セイリか?」なんてムカつくこと言う(そして、だいたいいつもその通りなのだ)。 それで、こんどはこっちが「既読無視」を続けている状況だ。これも、きっとカズヤには何の精神的苦痛も与えられてないに違いない。返事がないから、きっとまた別の誰かに「デート」の申し込みをしているのかも。そう思うとまた腹が立ち始める。 あのテキトー男となんで付き合うようになったのか。そして、本気で部屋に泊めようとまでしていた理由は。ムカムカする感情を抑えながら(そしてほとんど抑えられずに、「ムカムカムカ」という擬音語を口から漏らしながら。バカみたいだけど、これが結構ストレス解消になったりする)、机に向かい、日記を開く。 また、過去をさかのぼる旅に出る。カズヤとの馴れ初めの記憶をたどる。 (つづく) 【恋愛小説『彼氏の顔が覚えられません』は、毎週木曜日配信】 目次ページはこちら
2015年03月19日何を考えているのかわからないたくさんの顔に、一斉に見られているという状況。あまり気持ちのいいものではなかった。いや、表情が読めた方が、よほどプレッシャーなのだろうか。 どちらにしても、正直に言うしかなかった。 「私はべつに、先輩のこと好きじゃありません」 堂々と、2年の先輩の告白を台無しにしてしまう言葉を。 ドッとわく宴会場。「うわ、フラれた!」「まじダッセェ! 最高!!」「ひーっ、ひーっ、腹イテェ!!」。 当事者である2年の先輩も、次の瞬間、へなへなへな、という感じに肩を左右に揺らしながら、膝を曲げて縮こまった。やがて上体が後ろに倒れ、背中がぴったり床にくっつく。完全に崩れ落ちている。そのコミカルな動きは、さらに周囲の笑いを誘った。 ちょっとホッとした。これでなんとなく、丸く収まった気がした。 宴会が終わって寝室に戻る。女子同士、4人の部屋。クジで決まっただけのあまり馴染み無いメンバーだったし、午前3時くらいだったから、「いい加減寝なきゃ」って言って。特にガールズトークをすることもなく、歯磨きをして布団に入り、電気を消して。 すでに2人が寝息を立て始め、私もだんだん意識が途切れかかっているとき。急に肩を揺すられ、一気に目が覚めて。 「うん…なに?」 そう言いつつ目を開けると、相手の顔は異様な近さにあって。小さな電灯が点いていたから、髪が長いのと、浴衣を着ているのはわかった。でも、失顔症の私でも区別できるそれらの情報は、この場では全く意味をなさなかった。 髪が長いのは、ふだんツインテールにしている子も、ポニーテールの子も、ストレートな子も、みんな寝る前にほどいていたから区別のしようがなかった。浴衣だって、二色分かれていたはずだけど、暗くて何色なのか判断ができかねた。 誰だかなんて、わかるわけなくて。ただ、彼女が抱えている重々しく恨み深い感情だけは、その声から伝わってきた。 「なんであんたみたいなのがモテるわけ。あんたなんか、恋する資格もないクセに…よくもまぁ堂々と、○○先輩のことフッて…それで平気な顔していられるもんだわ」 ○○先輩というのが誰のことか、一瞬よくわからなかった。その日、私からフラれた2年の先輩のことだと気づいたときには、彼女の手に首をしめられていた。 死を悟るようなものすごい力。わけがわからぬまま、私は逝ってしまうのだ。 でも次の瞬間、部屋の扉がコンコン、と鳴って。首をしめる手の力は急になくなり、本人も慌てて私から離れ、ガサゴソと自分の布団の中に潜っていった。 どっち方面の布団に潜ったか見ていれば、まだ犯人を特定することはできたかもしれない。けれど私は放心中で、それどころじゃなかった。 扉の向こうからは、「ねぇ、だれかまだ起きてないのー」という女性部員の声が聞こえた。その直後に、「ホラ、もうみんな寝てるって。無理に後輩たち起こしちゃかわいそうだってばー」という別の声も。 声の主たちは、じきに去っていった。そして首をしめた部員も、もう襲ってくることはなかった。犯人も詮索できないまま、私は意識を落としてしまった。 なんとか命は助かった。けれど、そんな危険な目にあった上で、それ以上部活に身を置いておきたいとは思わなかった。 それ以来私は、部活に顔を出さなくなってしまった。人間としてしっかり生きてはいるけど、部員としては完全に死んでしまった。幽霊部員になってしまったのだ。 (つづく) 【恋愛小説『彼氏の顔が覚えられません』は、毎週木曜日配信】 目次ページはこちら
2015年03月12日『三丁目のタマ』の目覚まし時計が、「にゃにゃにゃにゃーん」とくぐもった鳴き声をあげる。経年劣化で本体もだいぶ黄ばんでいるのに、まだ音が鳴るとは、少し驚いた。 でも完全に覚醒するほどではない。すぐにスイッチを押して鳴き止ませると、また眠りにつく。手は目覚ましに伸ばしたまんまで。 「イズミー、出かけてくるからねー。ごはん用意してるから、ちゃんと食べなさいよー」 母の声が聞こえ、ようやく布団から抜け出す。目覚ましを止めてから、一時間半も過ぎた後だった。 春休みだからと怠惰に過ごしている。早起きしても、どうせやることは何もない。きっと実家に帰省中の3月は、こうして何事もなく過ぎていくのだろう。カズヤからも、2年の先輩からも、なんの連絡も受けぬまま。 朝食に行く前に、まだ少し眠たいアタマで机に向かう。すっかり片づいた、だだっ広い机。以前積まれていた本やらCDやらその他の小物やらは、ぜんぶ机の下にある赤いプラスチックボックスに押し込まれている。親に勝手に触られたのはイヤだけど、捨てずにとってあるだけマシだろうか。 日記を開く。書くことは何もない。そんなときは、せめて過去の記憶を整理する。さかのぼる、さかのぼる。ペラ、ペラ、ペラ。たまたま目に止まったページがある。 思い出す。それは、まだ軽音部に通っていたころのことだ。 夏合宿中の宴会で、2年の先輩は、みなの前で私に告白した。アルコールを一切口にせず、突然立ち上がり、しらふじゃありえないような大声で。 「俺はイズミちゃんが好きだ」 カズヤとつきあい始めるよりも前。あれはまぎれもなく、人生で受けた初めての愛の告白だった。 「こんな告白して、俺はもうこの部活にいられないと思う。他の部員を悲しませたかもしれない…特に、イズミちゃん本人を」 軽音部は、部内恋愛を禁じていた。私が入部する3年くらい前からの風習だそうだった。当時に何が起こったかは知らないが、恋愛が絡むと“みんな仲良くアットホームに”という部活の方針に狂いが生じてしまうのは、どこの部活もいっしょだろう。 「…おい、とりあえず落ち着こうぜ」 会場がシーンとしてしまったなか、3年生の部長が言う。だいぶ真っ赤な顔をしていたが、後輩の突然のふるまいを見、すっかり酔いがさめてしまったようだ。 「そういうことさ、べつに、いま言うようなことでもないだろ…合宿、明日まであるんだからさ。周りの空気も読んで…」 「いま言わないと、俺はもう生きていけない気がしたです! こいつみたいに…」 部長の言葉を途中で遮り、真剣な口調で言う2年の先輩。びっと伸ばした指は、半身が切り離されたまま目玉や足や触覚を動かす伊勢エビの活き造りを差している。 「は」 周りの先輩たちのリアクションは、お笑い芸人の一発芸を見た瞬間のようだった。 「…え、お前、なに言ってんの? ギャグ?」 「完全スベってるけどさぁ、ハハハ…」 確かにギャグならぜんぜん面白くなかった。だからこそ逆に、真剣さも伝わってきた。表情はわからないけど、告白した先輩の顔は真っ赤になっていた。それからみなの注目は、徐々に私へ移っていった。 次は、私が答える番だ。 (つづく) 【恋愛小説『彼氏の顔が覚えられません』は、毎週木曜日配信】 目次ページはこちら
2015年03月05日「…ここにイズミちゃんがくるってことは、カズヤ自身から聞いたんだよ。きのう、LINEで…。『イズミが明日、部室にチョコ持ってくるってよ』って。それ、カズヤに渡すってことじゃないのか? って聞いたら、『俺はデートの約束があるから』って」 “デートの約束”…。 「てっきりイズミちゃんとのデートだって思ったけど、違うってことなんだよ、ね…?」 先輩の質問に、コクリと頷いた。頷くしかなかった。 そして、先輩を残して部室を飛び出す。割れたチョコレートの箱を抱えたまま、キャンパスの中を駆ける。参考書を持つ受験生たちをかきわけ、ときどきぶつかっても、謝りもせずに。 そんなところにいるはずもないのに、ただ、消えた彼の背中を探す。こんな、恋愛沙汰とは無関係の入試当日のキャンパスの中を。 と、石につまずく。バタッと派手に転ぶ。手から箱がすり抜け、また地面に叩きつけられる。近くにいた誰かがその箱を拾う。在校生か、受験生か。「大丈夫ですか」と言って、手を差し伸べる。 その顔を見て、ハッとする。目が、眉が、口元が、ぐねぐねと動いている。表情が読みとれず、厚着して体のラインもわからないから、男か女かも区別がつかない。 そこでようやく気づく。万一このキャンパス内にカズヤがいたとしても、私には彼を判別する手段すらないということを。私はもともと、恋なんてすべき人間じゃないのだ。 「ありがとう、大丈夫です、大丈夫」そう言いながら、性別もわからない人の手を借りて立ち上がり、落としたチョコレートの箱を受け取る。包装紙の一部が無惨に破れている。中のチョコレートは、さらに細かく砕かれたに違いない。 きびすを返し、とぼとぼと部室棟に戻る。また、ギターの音が聞こえている。部室の扉を開けると、男性が一人。 「…お帰り、イズミちゃん」 「ただいま、先輩」 やっぱり、カズヤなわけはない。再びソファに座る。弾くのをやめたギターを両膝の上で休ませながら、先輩は言う。 「この部室に戻ってきたの、何ヶ月ぶりくらいだっけ」 「夏の合宿以来ですから、もう半年くらいですかね」 「そうか…ごめんね。俺があんなこと言っちゃったばっかりに、いずらくさせちゃったんだよね…」 「そんな、うぬぼれないでくださいよ。先輩の告白くらいで、いちいち動揺したりしません。単に飽きただけです」 「ははっ、そうか。相変わらず手厳しいな」 言うと、先輩は立ち上がり、部室の端に立てかけてあったヤマハの練習用のフォークギターを取る。 「けど、きょう一日だけでも戻ってきてうれしいよ」 と言い、私に渡す。あと、ポケットからピックも。 「久々にセッションしよう」 「私、ギターたこもなくなっちゃってますよ。なるべくコード簡単なやつでお願いします」 「…じゃあ、スピッツの『チェリー』かな…」 「このタイミングでその曲ですか? 選曲、最悪ですね」 「あ、ごめん…じゃあ…」 「いいですよ。『チェリー』、やりましょう」 それから。 二人で『チェリー』を弾き続ける。何度も何度も。受験の日なのに、校舎の外に音が漏れたら大変なことになるに違いないのに、それさえ忘れて大きな声で歌う。 午後3時ごろ。「疲れました、帰ります」と言って、ギターを置き、部室を出ていこうとする。 「あ、チョコ忘れてるよ」 先輩の言葉に、振り返って言う。 「あげます、先輩に。イヤじゃなかったら、もらってください」 「え、それって…」 「勘違いしないでください。義理です」 キッパリそう言い、部室を去る。 (つづく) 【恋愛小説『彼氏の顔が覚えられません』は、毎週木曜日配信】 目次ページはこちら
2015年02月26日