『君たちはどう生きるか』作品評 理屈を超越した「漫画映画」への回帰
そして、味方のようでなかなか加勢しない不安定な存在感は、「クルミわり人形」のドロッセルマイアー(作者のホフマン自身が投影されているとされる)にも似ている。そこには、前後の脈絡もつじつまも棚上げした脱力と解放感があり、同情や共感も滲んでいた。これまでも、宮崎作品には『もののけ姫』(1997年)のジコ坊や『風立ちぬ』のカプローニなど、主人公を誘うトリックスターが度々登場して来た。しかし、劇的展開の緊張感や深刻さに比重が置かれ、意図して笑いを誘うシーンは影を潜めていた。彼らは『長靴をはいた猫』の魔王シルファーや「未来少年コナン」のダイス船長のようなコメディリリーフではなかった。
かつて高畑勲監督は、宮崎監督のアニメーションを全身の誇張を駆使して迫真性と実在感を伴って笑わせる「肉体の軽業師」と称賛していた。(解説・高畑勲『「ホルス」の映像表現』1983年)しかし、後年の『千と千尋の神隠し』には「奇想天外なものが次から次へと出てくるのに、劇場で笑う人がほとんどいません」「笑う、ということも、少し引いたところから見るのでなければ不可能なことだから」と記し、「日本のアニメ」全般が主観的緊張感に観客を巻き込む作風に傾倒していることへの懸念を訴えていた。