元ひめゆり学徒・島袋淑子さん「“戦争は絶対ダメ”と言えるように」
犠牲となった県民の数は20万人ともいわれ、4人に1人が亡くなった。
戦後、島袋さんは改めて教師を養成する文教学校に通い、’46年4月、中学校の先生になった。教師として子どもたちに接するなかで、島袋さんが常に肝に銘じていたことがある。それは、「間違っていることは間違っている。正しいことは正しい」と、言える人に育てよう、ということだった。
「私たちは、どんなことがあっても日本は勝つと教えられ、そこに疑問を持つことも許されませんでした。教育って、恐ろしいものなんです」
島袋さんは、その後、結婚・出産を経ても教師の仕事を辞めることはなかった。しかも、その間、自らの戦争体験を、生徒に語ったことはない。
「長い間、自分の子どもにも、辛くて話せなかった。亡くなった友達が、よく夢に出てきました。『あんたたち、どこに行っていたのよ!捜したのよ!』と、言おうとして言葉にならず、声を出して家族によく起こされました」
心の傷を抱えながら生きていた島袋さん。転機が訪れたのは、戦後37年たった’82年のことだ。
師範学校女子部と第一高女の卒業生でつくる“ひめゆり同窓会”で、資料館を作ろうという計画が持ち上がったのだ。