田中律子語る筒美京平さんの忘れられない助言「顔の見える歌い方を」
歌手デビュー後は、3カ月に1枚のペースで新譜を発表し、そのたびに衣装を詰めたトランクを担いで、全国へ営業に出かけた。
「各地のラジオ局や、レコード店を回ってプロモーションをするのですが、お店の前やデパートの屋上で歌うことで、けっこう本番力も養われました。2番の歌詞を忘れてしまい、とっさに1番を歌い続けたり、ラララ、ルラルラで乗り切ったことも。いまだに当時の困ってしまう夢を見て、びっくりして起きてしまうことがあるんです」
田中さんが歌手デビューした’88年ごろは、すでに歌番組が減り、バラエティ番組に活路を見いだすアイドル=バラドルという新しいジャンルが生まれた時代。
「クイズ番組で正解しないと歌えなかったり、水泳大会ではキャーって水を怖がっているアイドルを尻目に“よっしゃー!”と誰よりも早く泳ぎきって、賞品のスクーターやダイヤのネックレスをもらったりしました」
必死に努力はしたが「歌手としては鳴かず飛ばずでした」という田中さん。だが、それでもテレビの世界で頑張り続けたからこそ、当時、飛ぶ鳥を落とす勢いだったフジテレビの、月9ドラマ『愛しあってるかい!』(’89年)