ウクライナから決死の脱出 ソ連で生きてきた日本人男性の平和への願い
「78歳になって故国に帰ってきました」と語る降籏さん
家族の病気やけがで乗りそびれた。
望郷の念を胸に秘め、英捷さんはソ連の一部だったウクライナに移住し必死に働いた。妻の故郷で穏やかな老後を迎えるはずだったが――。
ロシアによる侵攻後、支援者の尽力できょうだいのいる日本へ帰国するも、やり残したことがあるとウクライナに戻った。そこで見た戦争の現実とは。
■旧ソ連での暮らしは苦しかったが、奨学金を得て進んだ大学で妻と出会う
降簱英捷さんは44年、南樺太に父・利勝さん、母・ようさんの次男として誕生した。無線技士だった利勝さんの転勤で、一家は樺太内の知床村(現・ノヴィコヴォ)に移住。当時樺太のうち北緯50度以南は日本領で、約40万人が居住していた。
45年に漁村の札塔で終戦を迎えるが、ここから一家にとって流転の人生が始まった。
「幼かったから記憶はおぼろげですが、父母や兄から聞いた話では、戦局が悪化してからも技師をしていて有能だったため、父に帰還許可が下りなかったそうです」
そうしているうちに旧ソ連は8月9日、日ソ中立条約を破棄。樺太の中心都市である豊原(現・ユジノサハリンスク)